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んhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6堀 幸雄『戦後の右翼勢力』(勁草書房、1983年)、粕谷一希『中央公論社と私』(1999年、文藝春秋社)堀によれば、福田恆存、田中清玄、畑時夫、進藤 二郎(註 たぶん 次郎の間違い 当時は大阪朝日新聞編集局長)と嶋中社長の話合いで、中央公論社は編集方針を「中正に戻す」条件を呑んだという。堀は 「右翼の介入、右翼の調停によって『中央公論』の言論は抑圧され、それだけでなく「菊のタブー」が再現された」と批判している。中立的な 仲裁ではないようです。http://www.geocities.jp/showahistory/history04/topics39a.html朝 日新聞激震のお家騒動 昭和39年1/20午後、朝日新聞社はオーナーでもある村山長挙社長と、上野精一会長の辞任を決定、広岡知男、進藤次郎の代表取締役就任も決めた。これは 村山社長が永井大三業務局長を経営陣から追放した事に端を発したもので、これに反発する販売店が代金納入停止の措置に打って出て、社内は大混乱の様相を呈 していた。村山社長は巻き返しを図るべく、木村照彦編集局長の左遷人事を発令したものの、木村編集局長は赴任先の北海道へ行く事を拒否、東京本社に留まっ たため、混乱はますますひどくなっていた。ここで問題になったのが、村山家が朝日新聞社の株40%を所有していた事で、6月の株主総会で同じく株主の上野 家の動向が注目されたが、村山家と朝日新聞新経営陣との全面対決という醜聞は回避され、11月の臨時株主総会で全日空前社長で元々は朝日新聞出身の美土路 昌一の社長就任が決定して一応の幕引きとなった。最後には 偉くなったようですが さて
2008年04月28日
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田中清玄とも付き合いのあった方で 朝日新聞の進藤次郎さんという方がいます。フィクサーというのは マスコミ対策もしないといけないので 火曜会なんていう会合をもっていたそうなんですがさてhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%A7%80%E9%9B%84熊本日日新聞つながりということで 野村秀雄さんという方がいます。この方は 戦時中はインドネシアにいて ジャワ新聞というのを運営していたそうなんですがhttp://homepage2.nifty.com/area_studies/Jawa_Shinbun_1943_3.html上記を参考にしてくださいませhttp://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no140.htm早 速、「サイゴン放送局」を開設した。狙いはオランダ領であったインドネシアのジャワにいるオランダ軍に向け、志気を喪失させ、混乱させることだった。方法 はインドシナ放送会社の「ラジオ・サイゴン」の電波を時間を区切って借り、ジャワの「バンドン放送」と同じ電波の波に切り替えて、「バンドン放送」と名 乗って放送した。言葉はオランダ語とジャワ語で、3月3日から蘭印軍が正式に降伏する9日まで7日間、続いた。内容は「くるみ割り人形」のテーマ音楽で始 まり、蘭印側の軍当局布告や政府公示を勝手に創作して、英米濠蘭などの外電ニュースとして流した。悪質な手口だった。謀略ニュース編集の責任者は朝日新聞 から召集されて軍報道部にいた進藤次郎少尉で、たとえば「謀略放送」の放送文は次のようなものだった。進藤さんはジャワにもいたそうなんですがさて 戦後は下記にありますがhttp://mainichi.jp/select/opinion/hasshinbako/news/20080408ddm002070028000c.html社会用語の章で朝日新聞社会部長・進藤次郎は世の軽佻浮薄(けいちょうふはく)に「判断力をなくし、愛の精神を失った空っぽの日本人の姿」を嘆じた。とありますが 時期に注目 下山事件は 社会部扱い?政治部扱い?妙に気になります。
2008年04月28日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E5%BC%98%E9%9B%84四元義隆が 刑務所から出たときに 世話になったのが この佐々弘雄さんという方になります。この方が 近衛文麿の秘書(というか用心棒)に推薦したのも この方のようです。同じ九州ということで 三上卓(註 佐賀県 この方は宇都宮徳馬とも親戚)とも親しかったようです。http://www.google.co.jp/search?q=%8D%B2%81X%97F%96%5B%81%40%8C%BA%97m%8E%D0&lr=lang_ja&num=20&hl=ja&btnG=Google+%8C%9F%8D%F5ちなみに WIKIでは 微妙に 省かれていますが 上にあげたURLの方々とも この方と お父さんの友房氏は親しかったようですが清玄が頭山満の話を自伝の中でしているのも ここが接点になっているのでしょう。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8Eこれらの縁がベースになっているので 四元は 緒方竹虎のブレーンに三上卓となった時期もあるようです。http://www.sawara.com/mizu/ryou/index.htm清玄と 名前が出ている 溝口三郎さんという方ですがhttp://www.nextftp.com/kikuoka/kiob0431.htm余 談になるが御退官後の溝口さんは、現在の全国農村振興技術連盟の前身「全国農業土木技術連盟」から推されて参議院議員に立候補され、見事に当選され、緑風 会に所属されて労働政務次官に就かれた。さらに日本の農業農村振興のため国会議員として全力投球され大きな功績を挙げられた。 とありますがhttp://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/a0c1eb4519ee516aab69f756be35098e《緑 風会には学者、文化人の議員が多かったというが、何を根拠にこういわれるのか不思議でならない。これは見解の問題ではなく、議員名簿の問題である。こうい う説をとなえる人に「学者、文化人は、たとえばだれか」と質問して、五人と挙げ得た人にお目にかかったことがない。「山本有三と田中耕太郎と、ええと」と 詰まってしまう。この人たちにあやまった情報を与えつづけてきた評論家、マスコミの責任を問いたい。》(p.261) 著者は、3ページ近くにわ たり、1948年に刊行された本に掲載されている緑風会議員の一覧を挙げ、《常識的にこの名簿から学者、文化人を拾い出せば、田中耕太郎、山本有三、佐々 弘雄、高瀬荘太郎らであり、新聞社社長伊達源一郎、農学博士寺尾博、林学博士徳川宗敬らを加えてもよい。緑風会がその最盛期には九十六名もいたことを考え ると、四十五名にすぎない社会党の波多野鼎、木村禧八郎、堀真琴、岡田宗司らに比べて、特に多かったとはいえない。山本、田中という有名人の名につられて (この二人の名はマスコミにはひんぱんに登場したから)文化人、学者が多かったという錯覚を生じたにすぎない。》(p.264) とあり なるほど また ここからの接点で 三幸建設工業の屋台骨ができてきたんだろうか?ということを感じさせますが この中に 清玄とも親しい人間の名前が 何人か 出てくるのも面白いです。
2008年04月28日
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http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/syuisyo/006/touh/t006011.htmここに 注意してみますと 瀬戸角馬さんという 三幸建設 副社長という方がでています。ネットでみた範囲では 技師さんという印象をうけますが 第二富士電力という会社の技師だった方のようです。この会社が中部配電に吸収され現在の 中部電力の一部になっています本拠は 静岡のようです。http://homepage2.nifty.com/tohoku-kaihatsu/sum04.htmこの瀬戸角馬さんと 同様の審議会の委員になっていたのが 東北興業の 浜田幸雄さんという方で この会社が 上記のようになります。この方は 満鉄の理事もされていた方のようで また吉田茂と同郷であります。三幸建設工業が 東北主体に伸びることができたのも こんな仕掛けがあったようです。これは 清玄でなく 四元のネットワークがあってこそじゃないかと思います。
2008年04月27日
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http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50565361.htmlこちらを受けてなんですが コメントもいれておきました。<四元義隆という方は 農場経営をしていた時期もあったようですが学生時代からの コネクションで 農林省の利権にうまく食い込んでいったようですが ただ このへんは どちらかというと 河野一郎とかの党人派が強いところなんで 首をかしげる思いがしますがさてこの方は建設会社を経営しながら フィクサーをしていたという見方もされますが 土地改良事業というキーワードがあれば兄貴分の西郷吉之助が 同和関係の委員を国会でしていたり エセ同和の尾崎清光に 手形をぱくられそうになったり 山本健一に助けてもらったりとか瀬島龍三を 松本治一郎の弟子の西山幸輝と助けたりとか 四元の後に 三幸建設工業会長についた方のお父さんが 西山幸輝とも関係のあった防共挺身隊やら 防共新聞に 西武を追い出されたあと やっかいになったことがあるというのも 簡単に説明ができそうな気がします
2008年04月27日
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浜の真砂はつきぬとも 世にジローさんのネタはつきまじ小説 坪内寿夫 太陽をつかむ男 高杉良著 角川文庫ジローさんが 大洋漁業の顧問だったときに 佐世保重工株を 坪内さんに うまくつかませた話が でています。ジローさん ナイスです。顧問だった時期が うまく特定できませんが 林兼とか 大洋とか 砂糖というキーワードで 萌える ジローさんの姿がみえてきそうです後藤新平をめぐる権力構造の研究 駄場裕司著 南窓社玄洋社 日魯というキーワードで いまのニチロには 気合いのはいったセンセイたちがいたんだなとすぐにわかります。日水もたぶん同様の国士なかたがいたんでしょう持丸長者 戦後復興篇 広瀬隆著 ダイヤモンド社ジローさんと一緒に 進駐軍を迎えた 有末将軍は 北京で 鍋山貞親を使っていた男。また 終戦連絡事務局は 進駐軍の物資の調達もするようになったとさ さーて 5パーセントの男登場です。 会計検査院の報告書にはこのへんのところがでているかしらいっぱいかせがないと 別荘買えないぞ
2008年04月25日
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小佐野賢治という人間を さらに違った点から 見直していきたいとおもいますが さてhttp://www.geocities.jp/shig_oka/azamino_HP/konwakai/yurakuchofounder.htm昭和13年、小林一三は不安な世情から身を守るため、故郷山梨から異母弟の田辺加多丸をボディーガードとして呼び寄せました。加多丸は体の大きい人で格闘技に優れていたので、小林は後楽園遊園地に入れ、拳闘や野球の興行に当たらせました。後楽園球場が拳闘ジムや競輪場や場外馬券売り場まで持つようになったのは小林一三の発案によるものですhttp://aishoren.exblog.jp/m2006-05-01/同刊行会 人間田辺宗英 後楽園スタヂアム S44.3.20 334P B6H HBI函http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/DocDetail?hdn_if_lang=jpn&txt_docid=NCID:BA33051543 後楽園の社長で、かつて銀座の鍋町ビル三階に田辺事務所を開き、右翼活動に専念した人物(117P)である。この事務所に報国新聞社もあった。 あとがきに、かつてご協力なされた御芳名に、血盟団の佐郷屋留雄や、稲川会系・大行社の清水行之助(日本社会党の結成資金を提供、石原慎太郎の中後期にかけての裏方もおこなった)の名があがっており、人脈の一端が伺い知れる。正力松太郎のそつない序文には <その五尺の痩身にみなぎるものこれすべて"侠気"といってよく、まさに「男の中の男」ともいうべき人物であった>と譚を述べる。 つまり田辺ルートの任侠の力も借りた、ということである。小佐野賢治のバックにいた人として 田辺七六という人のことは よく言われるんですが なぜか その兄弟の方々をあげる本が見あたらないので まとめてみました。お二人とも 表の顔は実業家ですが 裏の顔は興行師というか 街の有志の皆さんたちを束ねる ちょっと強面のセンセイといったほうがいい方のようで。東宝も 爽やかな面ばかりを強調されますが 長谷川一夫を やくざとのトラブル付きで引き抜いたりとか 戦後の東宝争議をなんとか乗り切ったのも そういう付き合いがあったんでしょうね。児玉誉士夫の右腕の 岡村吾一が 宝塚の顧問(用心棒)にはいっていたりとか 芸能界の顔役だったりとか その岡村吾一のグループが 稲川会に入り 稲川会の石井進が 小佐野から支援を受けるのも こういった背景があるのかもしれません
2008年04月23日
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http://web.soshisha.com/archives/kakuei/2007_0726.php 戦争末期、総軍事費のうち陸軍管理下の80%、海軍ではその75%が民間の軍需工場に流れている。物資は欠乏し、労働力も確保できない。企業の生産力は落ち込んでいたのだが、それを無視して大量発注が行われ、公費は「つかみ取り」だった。 終戦前夜に会計検査院が発表した「臨時軍事費決算検査報告書」によれば、軍需品の価格査定や前渡し金の支払、納入での法令違反は53件。5億2600万円(現在の約4000億円)が不正に費やされている。ある自動車会社は軍需省航空兵器総局から「自動車代」として325万円(現在の約24億円超)を受け取りながら、三年間に清掃自動車4台=7万円しか納めていない。防毒マスクの加工会社は「収益率、約八割」で商売をしている。小佐野賢治がなぜ 若くして 金を持っていたか よくわかりませんでしたが この点を考えれば 収益率が 異常な商売をしていたということなんでしょう
2008年04月23日
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軍人だけでなく 戦時中に軍需省 陸軍 海軍を取り仕切る官吏と裏でつるんでいた顔見知りの商人にも 話が持ち込まれた 相場の神様 兜町最後の相場師と呼ばれた証券界の大物である 山種証券社長 山崎種二も戦争末期に船会社や航空機関係の軍需工業に参加し 軍部の高級将校と密接な関係を持っていたため 払い下げ物資の処分を密かに打診された。ところが 山崎種二は自分には手兵がないため 軍需省に食い込んでいた小佐野賢治にそれを任せたところ 小佐野は自分の郷里の山梨県にトラックでそれらを運び込んで巨大な財をきずきあげ 戦後のホテル王 航空王として君臨し ロッキード事件を操る政商になった。広瀬隆著 持丸長者 国家復興編 ダイヤモンド社より元ネタが わかりませんが 梶山季之著 小説GHQからではないかとおもうのですが 敗戦前に 小佐野は 山崎が株を持っていた 国際自動車に関係していますし 山崎も226事件を読んで 株の空売りを仕掛けたのではないかということで 反乱軍との関連を疑われ 拘束されるくらいの政商ですから ありえない話ではないかとおもいますし あとのホテル買収の資金をつくったのも こういう事情があったのでしょう。そして下記の点ですがhttp://csx.jp/~gabana/keizu/kei-watanabe.htmこの山崎種二の息子の富治が 系図でみると 三和銀行の法王といわれた 渡辺忠雄の系譜に入ってくるのが またおもしろいです。国際興業の成長の影には 今のUFJ銀行というか 三和銀行ありきですが その背景には こんな事情もあったのでしょうか田中清玄から 少し離れて 小佐野賢治について まとめてみました
2008年04月23日
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http://mitakkai.hp.infoseek.co.jp/dayori06/ayumi6.htm第3回生入学式。宇宙の宮で奉告式。山田耕筰先生夫妻、今東光先生(註 弟が清玄と同級生です)、田村木国先生、丸善石油株式会社重役列席。第一回総合教員会議。月例体育行事(フリーテニス大会、優勝チーム二年B組)。元陸軍大将今村均氏(註 大戦中はインドネシアにいた方です)、アメリカ銀行東京支店長藤川政治氏、関西師友会青年部長川本法明氏来院見学。野依秀市先生(註 言論ギャングとしても知られた方 嶋中事件にも関与)来院講演(演題「日本について」)関西インドネシア協会理事長井関英男氏他1名来院見学。空手模範試合(宇宙の宮月星殿)、衆議院議員坊秀男氏(註 当時は岸派だった方ですが うーん)、田中開発工業株式会社社長田中清玄氏来院。丸善石油と 田中清玄の関係には 注目していたんですがもともと ここでの付き合いから インドネシアとの関係を持つようになり 石油利権のフィクサーといわれるようになったとおもわれるんですが この時期に なんで岸派の代議士というのが よくわかりませんし そういえば このころ 福田康夫も 丸善石油に入っておりますが清玄の安保闘争への関与も いろいろ裏事情があるんでしょうか?
2008年04月21日
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田中http://kunyon.com/shucho/080211.html「OB会」でした。それが〈行動的〉になったのは、野村 秋介さん、鳥海茂太さんと知り合い、「新しい日本を創る青年集会」運動を始めてからです。そのスタートが1976年です。 このお二人は5.15事件の三 上卓さんの門下生です。「若い人に訴え、新しい運動をやろう!」と始めたのです。「東北の青年は純朴だから、まず東北から始めよう」と二人の考えは一致し ました。勿論、「純朴な東北人」の私も喜んで参加しました。 ですから、スタートは米沢市でした。それから仙台、会津若松、福島…と、東北地方を回って集会をやりました。又、合宿をやりました。 この集会、合宿が基になって、いわゆる「新右翼」運動は軌道に乗ります。だから、鳥海さんは、民族派運動の「功労者」でもあります。 なぜスタートが米沢かというと、鳥海さんの地元だからです。それに、鳥海さんが、そこで市会議員をやっていたからです。議員なら、地元に信用があるし、集 会をやったり研修会をやったり、そういうノウハウもある。慣れている。そう思って頼んだのでしょう。1976年6月米沢で第一回目の「集会」をやりまし た。何と32年前です。この1976年というのは大事な年です。記念すべき年です。私たちも、いや日本そのものも、どうしていいか分からない年だったので す。その時、山形から新しい運動を始めたのです。1970年前に左右の学生運動は終わっていました。そして、皆、〈戦場〉を引き揚げていました。就職した り、家業を継いだり、大学院に進んだり…と。私も、産経新聞に就職しました。でも、着実に運動を続けていた人々はいたんですね。1970年3月に「よど 号」ハイジャック事件があり、11月に三島事件がありました。この三島事件のあと、以前に右派学生運動をしていた人々が再び集まります。「東京マスコミ研 究会」を経て、1972年に一水会を作ります。でも、まだ、私は産経の社員でしたし、一水会は「サラリーマンのサークル活動」でした。略して、「SS」と 言われました。(本当は言ってないけど、今からそう呼ぼう)。SSの鈴木だから、「SSS」(スリーエス)と呼ばれていました。この1972年にはあの血 腥い連合赤軍事件があります。1974年には「東アジア反日武装戦線〈狼〉」の連続企業爆破事件がありました。そして私は、この74年に産経をクビにな り、この〈狼〉のことを取材して本にしました。『腹腹時計と〈狼〉』(三一新書)です。私の処女作です。男なのに処女作です。でも、この本は、右翼には総 スカンでした。唯一、評価してくれたのは野村秋介さんでした。この年、千葉刑務所を出たばかりてした。そして、「新しい日本を創る青年集会運動」をやろ う、となったのです。でも、この翌年(1977年)は、あの経団連事件が起こります。野村さん、伊藤、西尾、森田の4人が参加します。これに刺激され、 「新しい日本」の運動も、より活発になります。右翼の先生だけでなく、新左翼の太田竜さんなども講師にして、福島や山形の温泉で合宿をやりました。(太田 さんは79年8月福島合宿に来てくれました) その後、ずっと、この「新しい日本」運動は続き、その中から、地方議員になったり、教師になったり、ライ ターになったりした人が出ます。鳥海さんはだから、そうした人材を輩出した大本の人でしたし、新しい青年運動を作った「功労者」だったのです。戸川幸夫の 『高安犬』のモデルなんですよ。 鳥海さんの家は親子三代にわたる「勤皇の志士」です。おじいさんは自由民権運動をやり、お父さんは5.15事件の三上卓 さんと同志でした。そして戸川幸夫の直木賞受賞作「高安犬(こうやすいぬ)」の主人公です。最後の日本犬である高安犬を戸川さんと共に探し、見つけ、何と か子孫を残そうとします。鳥海茂太さんが子供の頃、(昭和11年の2.26事件の頃)、その高安犬にまたがってる写真も前に見せてもらいました。 又、 2.26事件の時に、この決起部隊は「天皇の軍か否か」「決起は正しいか否か」をめぐって戸川さんは鳥海さんのお父さんに詰め寄り、質問します。『ひかり 北地に』(郁朋社)にはその時の緊迫した情況が書かれています。戸川は「動物作家」といわれ、動物について書いた小説が圧倒的に多いのですが、この本だけ は異色です。かなり政治的なことが書かれています。 『高安犬』も、動物物語で、ここに出てくる「木村屋のパン」の主人が鳥海さんのお父さんです。実際、 パン屋でした。でも思想家です。そのことも、きちんと描いてます。1976年の米沢集会の時も、このお父さんは来てくれました。もっともっとお話を聞いて おくべきだったと思います。そんな家庭環境もあったのでしょう。鳥海茂太さんは拓大に入ります。そこで多くの憂国の士と出会います。三上卓さんは子供の時 から指導を受けてました。血盟団事件に参加した四元義隆さんにも知り合い、四元さんが経営する建設会社に鳥海さんは勤めます。そして、地元・米沢に帰りま す。こういう方々が 三幸建設工業で 働いていたわけですが 自伝では そういうのが さっぱりみえてきません。右翼とは付き合いがない?ずいぶん さみしい噺じゃないですか?
2008年04月20日
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http://report.jbaudit.go.jp/org/s23/1948-s23-0248-0.htm 復興金融金庫で、 昭和21年10月から22年12月までの間に、三建工業株式会社外8土建会社に対し融資した運転資金260,552,000円のうち、24年11月末現在 において回収未済のものが左表のとおり181,140,600円ある。右は、官庁関係の土建工事の運転資金として融資したものであるが、金庫は融資を急い だためあらかじめ工事代金の受領委任の手続をとらなかつたもので、その後この手続をとろうとしても会社はこれに応ぜず、又支払庁の協力を得ることができな かつたこと、金庫職員の手不足のため十分な管理ができなかつたことなどにより回収に至つていないというが、こうした融資についてはあらかじめ工事代金の代 理受領等の処置を講ずべきであり、又その処置ができなかつたときは融資先における工事代金の受領の時期を注意すべきであるのに、これらの処置をとらなかつ たので結局融資額の大部分がなお未回収のままとなつている状況である。本文の中では 三幸建設工業に300満の金が融資されているとありますがほとんど回収できていないようです。ようするに 情実融資で 運転資金を作っていたらしいということが この会計検査院の報告から伺われます。今も 昔も この手の方々の仕事は 変らないなと思います。
2008年04月19日
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清いhttp://72.14.235.104/search?q=cache:SyZJVBANjgkJ: www.melma.com/backnumber_45206_3949590/+%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%80%80%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84%E3%80%80%E9%9D%92%E5%B1%B1&hl=ja&ct=clnk&cd=2&gl=jp&lr=lang_ja田 中清玄は、昭和史を駆け抜けた怪物で、唐牛全学連の影のスポンサーだったり、インドネシア石油を米国の横槍を無視して日本に運んだり、右翼の大物・児玉誉 士夫系列と対立して、ピストルで撃たれ、九死に一生を得たり。波乱万丈の人生をおくった、一個の快男子だった。田中清玄は、もともと会津の武士の家柄出身 で、火炎瓶闘争時代の東大新人会の闘将だった。獄中十年。母親が「共産主義に染まるなんて恥をしれ」と言い残して自決した烈女でもあった。田中清玄の自叙 伝は会津筆頭家老田中土佐の末裔とのみ、記されている。その土佐のご先祖が、本書に登場する田中玄宰だ。 脱線するが、晩年の田中清玄と数度、会ったこと がある。伊豆に瀟洒な別荘を持っていて地下のワインセラーを自慢していたが、小生があったのは青山の事務所で二回。また田中が世界的な経済学者のハイエク と親しくしており、ハイエク来日のおりに田中主宰(だったと思う)のパーティに、木内信胤先生のお供をして参列したおりにも会った。ハイエクと木内さんは モンペルランの仲間だった。田中清玄は、反日共系全学連の黒幕のように過大に言われ、半分は本人の誇大宣伝ではないかと思われたほどだった。往時、パリ では「東京タイガー」という綽名で呼ばれる有名人だった。なにしろパリのヒルトンホテルに予約なしであらわれ、いまのアラブの富豪のように、ロビィで出迎 えるボーイ、ベルキャプテンらに片っ端から五ドル(当時、一ドル360円)のチップをわたしたという。某氏によれば「東京タイガーの紹介だ」と言うとパリ のヒルトンに予約なくても泊まれたと言っていた。あの時代、よほどの紹介がないとヒルトンは客を入れなかった。だが、実際の田中清玄は、およそはったりの 強い自信家で、親しくなろうという心境にはなれなかったのだが。。。註 木内信胤 終戦時の外為管理委員長をつとめたり 世界経済調査会(ジャパンロビー日本支部?)に入っていた 三菱とも縁の深いお方当然 ジローさんとも知り合いいわゆる欧州貴族サークルに 入り込めたというのも 三菱とか 鹿島の引きですかね
2008年04月14日
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の招待アブダビ雑感──或るオイルマンの体験談──より利権取得の経緯先ほど申しましたように、翌年1968 年1 月に3 社共同出資によるアブダビ石油株式会社かが設立されましたが、会社が生まれる基になる利権についてお話したいと思います。これは私が利権取得並びに会社設 立に関与された人から直接間いた話ですが、関係者のほとんどは鬼籍に入ってしまわれました。1967 年、当時住友商事の監査役だった広瀬満直さんが退任間際にセンチメンタル・ジャーニーでベイルートに行かれました。広瀬さんの祖父広瀬宰平さんは、住友本 社の総経理をされ「住友の3 柱石」と言われた3 人の功労者の1 人で、幕末から維新にかけて住友の社業の発展に非常に貢献された方です。そのお孫さんの広瀬さんは1934 年にケンブリッジ大学を卒業されましたが、留学時代の友人がベイルートにいたので彼を訪ねて行かれたわけです。その学友と言うのは、石油関係の人なら良く 知っておられると思いますがOPEC の総長も勤めた人で、当時ベイルートで石油コンサルタント業をされ、またアブダビのザイード首長の石油顧問をされていたナジム・パチャチ博士でした。博士 はイラクの元閣僚ですが軍事革命で追われ亡命中の身でした。2 人がベイルートで再会した際広瀬さんは“アブダビのオフショアでオープン・エリアがあるが、日本の企業でどこか興味をもっているとこはないか?”と博士から尋ねられたのです。とにかく一度一緒にアブダビに行こうと誘われ、広瀬さんは現地入りされました。ザイード首長は、国際入札でなく随意契約ベースで利権を与えたいとの考えを持っており、また利権交渉はすべて自分に任されているとの説明が博士からありました。広瀬さんは現地入りされました。ザイード首長は、国際入札でなく随意契約ベースで利権を与えたいとの考えを持っており、また利権交渉はすべて自分に任されているとの説明が博士からありました。広瀬さんは日本に帰るとパシフィックコンサルタントの河野社長にこの話 を持って行かれました。広瀬さんと河野さんとはどんな関係であったか良く知りませんが、当時パシフィック・コンサルタントはすでにアブダビに足がかりを 持っており、海洋調査のため同社の技術者が2 ~3 人アブダビに駐在しておりました。河野さんはこの話を取りまとめるためには政治力が必要であると考え、田中清玄さんのところに持って行かれました。清玄先 生は日本興業銀行の中山素平頭取にこの話を持って行かれました。ご承知の通り中山さんは早く頭取職をしりぞかれ相談役になられましたが、財界の鞍馬天狗と 言われた方で非常にエネルギーについて関心を持っておられました。田中・中山会談で、“これは日本の自主開発原油確保という国策にのっとった事業であり、 民族系石油会社で是非とも実現させよう”と言うことになりました。そこで、丸善石油、大協石油、日本鉱業の3 社に根回しをされ、3 社長の合意を取り付けられました。利権交渉のネゴシエーターとして、業績不振の責任を取って辞められ当時浪人中の身であった、元丸善石油副社長の杉本茂さ んが指名されました。杉本さんは3 社長の委任状を持って単身ベイルートに赴き、パチャチ博士と利権交渉を重ね1967 年12 月アブダビにおいてザイード首長と協定書の調印をされました。その利権協定にもとづき新会社が翌年1 月に設立され、協定書の権利義務はすべて新会社に譲渡されました。田 中清玄の石油フィクサーとしての業績の一つは この件なんですが さて ではここで なにをしていたかというのが ほとんどの方が説明できていないようで すが。 まずパシフィックコンサルタントというのは、海外のODAの黒い噂で 必ず名前が出てくるところで、ここのライバル会社が 岸信介のスポンサーの 一つでもあった、元朝鮮電業の久保豊が作った日本工営になります。元丸善石油副社長の杉本茂という方ですが この方の上司が 和田完ニといって 岸信介に いっぱい献金をしていたのに 見捨てられた方で 笹川センセイと 宗教仲間(統一じゃないですよ)だった方です。 そして 日本興業銀行の中山素平です が この方は 石油利権のキーマンの一人でもある コバチュウこと 小林中の部下だった方です。 また これに絡んだのが 住友商事であり 伊藤忠でない ことにも ご注意ください。綺麗ごとではない 田中清玄の姿がみえてきます。
2008年04月07日
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http://www.geocities.jp/since7903/zinbutsu/ni.htm社会党内閣の内閣官房長官として 昭和二十二年四月に行われた総選挙で、第一党となったのは、社会党であった。西尾は選挙直後、地元大阪から上京し、東京駅で降りると記者団に囲まれた。 「西尾さん、社会党が第一党ですよ」 上京中情報と隔絶されていた西尾は驚倒した。「本当かい、君、そいつぁえらいこっちゃあ」 記者たちは爆笑したが、西尾の「えらいこっちゃあ」は、まさしく本音の本音であったろう。なにせ、社会党には政権をとる準備などなにもなかったのだ。翌朝の新聞には、片山哲委員長の「第一党から内閣首班を出すべき」というコメントが麗々しく載っていたが、それを見ながら西尾が考えていた本当の筋書きは、「社会党閣僚が多数を占める、第二次吉田茂内閣」であった。西尾は社会、自由、民主、国民協同の四党幹部を招いて会談し、折衝を重ねた。特に自由党総裁吉田茂に対しては、「七重の膝を八重に折ってのお願いです」と懇願したが、吉田と自由党内の社会党左派への不信感は容易に解けず、吉田は「今年の二月、自由党が挙国一致内閣をつくるとき、私が七重の膝を八重に折るといったが、社会党は協力していただけなかった。ですから、その言葉はお返しします」と痛烈にしっぺい返しをする有様であった。西尾は「吉田さんにしっぺい返しを食わされたよ」と苦笑していたという。 とまれ、5月24日、片山哲社会党委員長が全閣僚を兼ねる形で社会・民主・国民協同の三党連立内閣が発足した。6月1日、西尾は内閣官房長官(旧称内閣書記官長)に就任(この間、組閣人事を巡り片山・西尾と平野力三の溝が徐々に広がっていく)。が、西尾は就任早々、自らの側近には労働運動家としての古強者はいくたりもいるが、政治行政の実務に精通するものはあまりに少ないと知った。彼は内閣官房次長として、二人の人物の起用を試みる。一人は、その後西尾の最側近として民社党に投じる外務官僚曾禰益である。曾禰は、終戦連絡事務局次長をしていたが、吉田茂とよくなく、九州にとばされていたのを呼び戻した格好であった。そしてもう一人は、鉄道官僚佐藤栄作であった。しかし佐藤は、「巣鴨に入っている兄と相談してくる」と即答を避けた。佐藤は巣鴨プリズンに収監されている元商工相、軍需省次官を歴任した兄の岸信介に会い、胸の内をたたいたところ、岸は「その仕事は俺にはできるが、おまえには無理だろう」といい、佐藤は岸の言葉を西尾に伝え、断った。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E7%A6%B0%E9%81%94%E8%94%B5曽禰達蔵出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より妻は高橋是清の実妹。長女は、貴族院議員、法制局長官の山川端夫の妻。長男は物理学博士。開成高校校長。次女は株式会社東洋電機元社長の上遠野氏の妻。次男の妻は、岩倉具視の孫。三男曾禰益は外交官。アジア・アフリカ会議(バンドン会議)等に出席。旧民社党書記長。妻・春子は、東急創始者 五島慶太の一人娘。三女は、理学博士・阪大教授で文化勲章受章者の仁田勇の妻。
2008年04月06日
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