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http://www.geocities.co.jp/Athlete-Samos/4967/athlete.html#nishigori西郡正三 =1917年生まれ。東京都出身。= 日本バスケ界の功労者にして、あの白洲次郎氏の秘書でもあった人物。 東京に生まれた西郡さんは東京市立第一中学校(現・都立九段高校)で全国大会優勝を経験し、 進学した慶応大学でもバスケットボール部で活躍。卒業後は日本冷蔵(現・ニチレイ)に入社する。 その後、縁あって経済同友会代表幹事で日本道路公団初代総裁の岸道三氏の秘書室長、そして白洲次郎氏の秘書を務めた。 その傍らで母校慶応大学の監督に就任すると、 昭和24年に名古屋で開催された記念すべき第一回インカレにおいて慶応を優勝に導き、見事大会3連覇の快挙を達成。 昭和26年にはオールジャパン初優勝を遂げている。 また、協会理事を11期に渡って務めて日本のバスケットボール発展に尽力した。どの段階での秘書かは不明ですが 岸道三 道路公団 セメントジローさんの東亜セメント時代か 個人秘書としてだったのでしょうかなお牧山圭秀氏という方が バスケ界の大物でいらっしゃいますがこの方の息子さんが 桂子さんの旦那さんという感じですかねジローさんとしては ローゼン閣下あたりにでもと考えていたのかもしれませんが
2008年08月31日
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次郎は第一次吉田内閣の成立にともない 終戦連絡事務局から 経済安定本部の次長のポストに就き 吉田の経済政策の推進役になっていた。鶴川まで取材にくる新聞記者もいる。第二次吉田内閣で初代の貿易庁長官になると 訪ねてくる記者の数が増えた次郎はめったに記者と口をきかなかったが 取材に応じる記者が何人かいた。読売新聞記者の三品もその一人だった。ある朝 正子は次郎と夫婦喧嘩をした。喧嘩の元は金である。正子が次郎に お金がないから頂戴よというと、先週 5千円やったじゃないかといわれ ふざけるなと思っているところに三品が来た。正子はちょっと聞いてよとばかり 三品に家が5000円で何日持つと思う 自分は銀座でお金を使っていい顔をしているくせに あたしにはくれないのよと洗いざらいぶちまけた。次郎が銀座で何をしているかは 正子も耳にしていた。夜遅く帰ってきた次郎を 出刃包丁を手に脅かしたこともある正子が三品に訴えているのを見た次郎は あわてて三品の腕をつかんで その場を離れた。こんな風だったから 台所は相変わらず火の車で タケノコ生活はいつものこと。川村二郎 いまなぜ白洲正子なのか 東京書籍ジローさんが 女がらみで 正子さんに 日本刀で追いかけられたという噺を ネットでみましたが あながちガセネタでもないというところですね。ただ タケノコ生活はないだろうという気がしますね。これでは ジローさんが家にお金を入れない ダメ亭主のように見えますが 正しくは 自分も外で遊んでいる正子さんが 遊び金が欲しいとゴネているだけなんですから。また当時の5000円という値段を考慮に入れて 白洲家の家計のおかしさが この著者にはわからないんですね。これ以下で 当時は必死に暮らしていた人がいっぱいいたんですから。それにしても 新聞記者って ほんとうにバカばっかですね。
2008年08月30日
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同書(阪口昭著 寡黙の巨星 小林中の財界史)の中で 小林は53年3月のいわゆる バカヤロウ解散に伴う総選挙の時に 吉田茂から 直接電話を受けて 当時 日興証券の会長だった遠山元一に頼んで3000万 そして池田勇人 佐藤栄作をまるで手下のように使って銀行筋から2500萬合計5500万の資金を1日でつくった経緯を次のように語っている解散するその日の朝だったかなあ 吉田さんから電話があって ちょっと話があるから来てくれ いま使いの者をだすからというんだ。略ところが 2人してT銀行(東京銀行)のH(浜口)のところにいって借金を頼んだのだが いい返事をしないらしい総理を操った男たち 戦後財界戦後史 田原総一朗 講談社文庫横浜正銀 転じて 東京銀行ですから 一度 閉鎖機関になっても オープンできたので 吉田系の金倉になったわけです。この浜口さんは 佐郷屋センセイに暗殺された 浜口首相の息子であり この姉妹が 先のエントリーで名をだした大橋武夫のところに 嫁にいっています。吉田系の縦糸が 佐藤 池田とすれば この大橋 浜口が 横糸になるようですね。閨閥でも皇室までつなかっています。ここにでてきた使いの者は誰なんでしょうねなんか 想像できそうな気もします。
2008年08月29日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A3%E6%9F%BB%E5%BD%B9監査役出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』この項目は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。監査役(かんさやく)は、取締役及び会計参与の業務を監査する株式会社の機関のこと(会社法第381条1項)。株主総会、取締役(または取締役会)と並ぶ株式会社の機関の一つで、会社経営の業務監査および会計監査によって、違法または著しく不当な職務執行行為がないかどうかを調べ、それがあれば阻止・是正するのが職務である。また、会社と取締役の間での訴訟においては取締役に代わって会社を代表する役目も担う(会社法第386条)。法改正や判決例によってその権限には変遷がある(後述)。日本の監査役は比較法的に見て大変に珍しい制度である。また 彼(白洲次郎)は1964年以降監査役として長く日本テレビの役員名簿に名を連ねることになる日本テレビとCIA 有馬哲夫 新潮社柴田が日本テレビの粉飾決算の事実を知ったのは 専務に就任して間もなくのことだった(専務就任が昭和42年七月)新経理局長が血相をかえて 専務 大変なことになりました 12憶の資本金の会社が12憶の粉飾をしていますと飛び込んできたとき 柴田には その意味がまだよく理解できていなかった巨怪伝 佐野真一著 文春文庫日本テレビの専務の高井秀雄は 昭和45年に日本テレビの粉飾決算騒動の直後 その建て直しに 大阪の読売テレビから東京にひっぱられた。ほぼ同時期に自治省から日本テレビの社長に就任した小林与三次の就任パーテイーが帝国ホテルで開かれた 高井はそのパーテイーで監査役の白洲に挨拶すると 俺は君がどこの馬の骨か知らんが 君がしっかりしてくれなきゃ日本テレビはおわりだぞと言うなり ウイスキーのグラスを高井のグラスにかちんと当て じゃ帰ると言い 去って行った 役員会で親しくなり 高井がその初めての出会いについて語るたびに そんな失礼なこというはずがないよと笑っていた 高井は決算報告などをして白洲とつきあっていけばいくほど 白洲が事業経営の本質的なところはきちんと押さえていることに驚嘆することになる風の男 白洲次郎 青柳恵介 新潮文庫 http://www.buaiso.com/nenpu.html1970(昭和45)年 次郎68歳/正子60歳 銀座「こうげい」を知人に譲る。 《はじめは馬鹿にしていた小林さんや青山さんも、軌道に乗ってからはしょっ中来て、外部から応援したり、注意を与えて 下さるようになった。一時はクラブのような有様を呈し、その時期が「こうげい」としてはもっともたのしく、充実した時代で あったと思う。そのうち私は原稿を書くのが忙しくなり、きものも特別な人たちしか作らないようになって、職人さんたちの多くも 亡くなってしまったため、自然解消のようなかたちになった。次郎は「後継者」をつくらないといって不機嫌だったが、 はじめから後つぎのできるような性格の店ではなかった。止めるについては、私もずい分悩んだが、昭和三十年ごろから 四十五年までのほぼ十五年間に、口では言えないほどのさまざまの経験をした。いや、させて頂いた。 心の底からありがたいと感謝している 白洲正子自伝 こうげいはある日突然 父の側の事情で閉めることになりました次郎と正子 牧山桂子 新潮社さすがジローさん 撤退も早いちなみに高井さん 読売テレビの経理部長さんだったそうで 話を聞いた 青柳には皮肉が通じないようです
2008年08月27日
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http://kins.jp/html/55takeda.htm小林躋造から一万円もらって、「調査研究に使いなさい」というような記述があったりいたします。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E8%BA%8B%E9%80%A0小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年(明治10年)10月1日 - 1962年(昭和37年)7月4日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。小磯國昭内閣の国務大臣。広島県広島市出身。http://aishoren.exblog.jp/5622781/尚翼賛会の役員となり、太平洋戦争に協力し、日本を亡国に導いた張本人(議員)は町田忠治を筆頭に前田米蔵、松村謙三、大麻唯男、桜井兵五郎、砂田重政、宮沢胤勇、小川郷太郎、一松定吉、小泉純也、小泉又次郎等で、彼等がほんとうの戦犯であって、罪万死に値する組である。彼(町田忠治)は政界操縦費として、軍部から多額の機密費を頂戴したと云う事実は、知る人ぞ知るである。……旧民政党員は、大麻唯男を呼ぶのに「森蘭丸」、松村謙三を呼ぶに「昭和の封間」、宮沢胤勇は「下足番」と云うニックネームをつけて居たことは代議士仲間の知る所である。(35-36P)松村謙三先生の戦前から戦時中についての行状について面白いものを見つけたので まとめてみました。よく戦時中は軍部が威張っていて なんていう言い方しますが 嘘つけ 金もらっていただけじゃないかという気もしますがヨハンセンだって 情報とるために 実弾まいていたんだろうというのを伺わせるものもあります。
2008年08月26日
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http://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki16/index-j.html鹿島組横浜作業所工事を請け負ったのは横浜支店だった。昭和22年の鹿島組の受注工事の57%が横浜支店の手になっている。鹿島組建築第一部長兼平塚古河出張所長の石村武雄(*5)は終戦当時、古河電工平塚工場を施工中だった。古河財閥の重役から「これからは駐留軍の制圧下で米軍工事が増えるはずだ。第8軍司令部のある横浜に事業所を設置すれば有利になる」と言われる。当時施工中の軍工事は全て中止、民間工事も軍需工場などが優先されたため、中止や状況を見守るという混沌状態にあった。新規工事入手の目途も立たず、この助言を頼りに出張所管下に「横浜作業所」を作る。戦後の不安定期を乗り切るために設立された横浜作業所は、まもなく本社建築第一部の管下で出張所となり、昭和21年4月営業所に、昭和22年3月には支店に昇格する。
2008年08月25日
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http://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki16/index-j.html鹿島組横浜作業所工事を請け負ったのは横浜支店だった。昭和22年の鹿島組の受注工事の57%が横浜支店の手になっている。鹿島組建築第一部長兼平塚古河出張所長の石村武雄(*5)は終戦当時、古河電工平塚工場を施工中だった。古河財閥の重役から「これからは駐留軍の制圧下で米軍工事が増えるはずだ。第8軍司令部のある横浜に事業所を設置すれば有利になる」と言われる。当時施工中の軍工事は全て中止、民間工事も軍需工場などが優先されたため、中止や状況を見守るという混沌状態にあった。新規工事入手の目途も立たず、この助言を頼りに出張所管下に「横浜作業所」を作る。戦後の不安定期を乗り切るために設立された横浜作業所は、まもなく本社建築第一部の管下で出張所となり、昭和21年4月営業所に、昭和22年3月には支店に昇格する。
2008年08月25日
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http://www.waseda.jp/sem-muranolt01/KE/KE0206.htm大橋武夫(1905~1981年)は歴代の内務官僚の中で、都市計画に対する理解と実行力を兼ね備えた数少ない人物の一人であった。1945年8月10日頃、終戦を事前に知った大橋武夫は防空都市計画の作業をすべて中止させて、戦災復興都市計画の開始を課員に命ずる。廃止された防空総本部のスタッフも国土局計画課に戻り、この作業に加わることになった。その後、しばらくの間、閣僚達は終戦後の応急処置に追われていたが、1945年12月30日、「戦災地復興計画基本方針」が閣議決定される。この閣議決定という形で市街地公有化の考えが、政府の公式の方針をして打ち出されたのは、明治維新以来、今日に至るまで唯一である。復興計画では、東京から工業地帯を衛星都市に分散させること、同時に、人口は300万人を適当とし、最大500万人とすることが掲げられた。計画の基本方針は明確であったが、東京の戦災復興事業は全国の他都市と比べて事業の着手が遅れた。1948年にはすべての罹災地に仮設住居が立ち並び、戦災復興ではなく、既成市街地の都市改造のようになっていた。復興事業の立ち上がりの遅れは、東京の戦災復興計画の実現には痛手になった。それに、ドッジラインによる政府の緊縮財政の方針が追い討ちをかけた。また、戦災復興院総裁に就任した小林一三は、地方自治の観点から、戦災復興事業を国の事業として執行することを認めず、自治体執行を強く主張した。五大都市も市施行(一部の都市は県施行)になった。小林一三の地方自治の主張は理念としては正しいのだが、自治体の首長や地方議会が都市復興にあまり熱心でない場合は、問題が生じてくると言える。東京の戦災復興事業について、大橋武夫ら戦災復興院幹部は、国と都の共同体制で行うことを進めたが、東京都知事安井誠一郎は都独自で執行するとして、これを断った。だが、その一方で復興事業の実施にあたって、東京都の財政支出はきわめて不十分だった。安井誠一郎は都民の苦痛を少なくするという口実で大規模な復興には手をつけなかった。大橋武夫はそのような安井の施策を「選挙目当て」と揶揄している。結果的には安井誠一郎主導の復旧が行われた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%A0%84%E4%B8%80田中栄一の項より戦後東京都経済局長の時、安井誠一郎知事の推挙により1948年警視総監に就任する。同年11月22日には上野公園を視察中男娼に取り囲まれ殴打されるという椿事が起きる。在職中は一貫して左翼運動について強い姿勢で取り締まりを行い、東大ポポロ事件では治安目的の警察官の大学内への立ち入りは当然と発言するなど、市民的自由尊重の点で大きな問題を残した。その一方で、第一線の老刑事や婦人警官を総監室へ招いて苦労話を熱心に聞くなどし、「人情総監」と親しまれる一面もあった。また、戦後の警察改革で創設された自治体警察制度には擁護の姿勢を貫き、警察庁への一本化を図ろうとする警察法改正に反対した。1954年警察法改正が強行採決されたのを受け総監を辞任。その後内閣官房副長官を務めた後(1955年~1957年)、1958年第28回衆議院議員総選挙に旧東京1区から自由民主党公認で立候補し当選、以後6回連続当選を果たした。石井光次郎派に所属し、通産政務次官、外務政務次官を歴任、また日本武道館理事長も努めた。新警察法公布のころ 斉藤は警視総監だったが その後 G2の要請で国警長官になり 総監の後任に安井都知事の推薦で 高校同期の田中栄一が就任した 田中もやはり内務官僚である。彼は安井誠一郎(旧内務官僚)の部下をしていた関係で 警視庁内に 安井 田中ラインが敷かれた この安井 田中ラインがあったために 当時の都庁の汚職事件がいくつか出たにもかかわらず 捜査の進展はいつもはかばかしくなく 闇に葬られたこともあって 東京都庁は伏魔殿の異名をとったほどである黒の機関 森詠著よりこういう見方もあるという切り口でみてください。
2008年08月25日
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野田岩次郎はよく三菱財閥解体の逸話を語った。アメリカ当局の指令で三菱財閥は120余りの企業体に分割されることになった。現在東京の中心地である東京駅に近い三菱グループの所有地も、すべて売却されるはずだった。野田は三菱財閥に同情的だったので その土地が外部の会社に渡っては気の毒だと思った。そこで野田はグループの兄弟会社 陽和不動産(三菱地所の前身)に接触し 三菱財閥の土地をただ同然で陽和に与えたザ ハウス オブ ノムラ アルアレンツハウザー著 佐高信 監訳 新潮社総司令部が入手した情報は、旧財閥系のメンバーが資産をダミー会社に移転させたことをはっきりと示しているが 実態の詳細は誰も知らないし マッカーサー元帥ですらわからない 複雑な株式操作を通じて 財閥の重役陣は莫大な利益をあげたに相違ない その配分は明らかに財閥華族へももたらされた 日本占領回想記 ビッソン著 三省堂総指揮 三浦義一 実務担当 笹山忠夫 占領軍交渉担当 白洲次郎 理論武装担当 矢次一夫(国策研究会) 特務担当 関山義人(国策社) 大蔵省担当 追水久常こんなところでしょうか 財閥が 戦前の日本の上流階級の核ですから そこに恩を売ったということは 戦後を渡る上で 相当なメリットになったことでしょう。
2008年08月20日
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海外の日本人は世間体にこだわった。江頭(啓輔)の部下は注文とりに駆け回っていたが 彼自身は活発に社交行事をこなしていた。財界の長老と食事をし イギリスの貴族階級と交わり 名画を買い ザルツブルグへ飛んでモーツアルトを聞いた 江頭はある意味で イギリスの金融界の貴族社会に受け入れられた最初の日本人だった。彼が親交を結んだエドムンド ロスチャイルドやシグムンドワーバーグは気前よく日本の株式を買って 野村の事業に協力しているザ ハウス オブ ノムラ アル アレンツハウザー著新潮社よりこの江頭さんという方は 野村証券の初代ロンドン支店支店長を勤めた方で 後に西武百貨店から 大沢商会に行かれた方です。白洲正子と親友の秩父宮妃の兄弟が 松平一郎さんといい 東京銀行まで勤めた方で 野村財閥の一人とおつきあいのあった方で その縁から 野村とイギリスの取り持ちをジロさんがしていたようです 東亜セメントを辞めてから 何で食っていたか わかりにくいのですが いわゆるフィクサー業ということですかね。野村と縁があれば コスモ80にマミヤ株を売りつけたり 坪内に 佐世保重工を売りつけることも うまいはずです。また江頭さんもジロさんに世話になっているからこそ 大沢のボンボン社長に破産の責任を全部 押しつけられたので 自己破産にならなかったんですかねこの時期にジローさんは 日本テレビの監査役になっているんですね。情報も集まるから 望んでの就任でしょうかね。でも日本テレビの監査役に こういう人がなっているのも すごい世界です。
2008年08月18日
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厳谷大四氏は 先の 戦後 日本文壇史の中で次のようなエピソードを伝えている一度 こんなことがあった 随分前のことだが 河上徹太郎ともう一人誰かと エスボワールで店が閉まるまで飲み そのまま マダム 川辺るみ子と もう二 三人の女性と千駄ヶ谷の梅茶屋という旅館に泊まり込んだことがある。梅茶屋というのは 井伏鱒二氏の珍品堂主人のモデルで 骨董鑑賞家の秦秀雄氏が経営していた旅館で(略)夜中に 女の声がして 何か言い争っている声で眼を覚ました 隣の部屋で 川辺るみ子が 秦秀雄氏に OOさんに合わせてと 懇願している 傍らで 河上徹太郎氏が 秦 お前 世話をしてやれとけしかけている。あいつは こいつにぴったりだよという河上氏の声がする。あとで聞いたらOOさんというのは 白洲次郎氏のことであった。なるほどぴったりだと思い 川辺るみ子が惚れるのは無理がないと思った。これは昭和20年代の話だろう。文壇人とマダムのつきあいの一端の例として紹介して置くさらば銀座文壇酒場 峯島正行 青蛙書房より珍品堂主人は 正子さんとの交遊はよくいわれるんですが 次郎さんとも付き合いがあったようですね。ただ 川辺るみ子が 河上に紹介してくれというよりも 珍品堂に頼んだということは この文章でみるかぎりでは 珍品堂の方が 河上よりも付き合いが深いようにも取れます
2008年08月12日
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http://www.mof.go.jp/zaimu/30nenn/main/020102.htm 終戦直後,連合軍の駐留に伴い要求される各種の施設及び役務経費に充てる終戦処理費は,昭和21,22年度は国の予算の約30%とかなりの高率を占めていた。しかも連合軍関係の工事請負等はその施行を急ぐあまりとりあえず施行範囲を示すだけで着工させ,完成後請負人の請求をそのまま容認してしまうという処理が大部分であったため,請負人に不当な利益を与えた事例が多かった。そこで政府の支払は,厳格に検査を行い,その結果適当と認める額を確定支払額とするという強力な立法がなされたhttp://www.archiv.tokushima-ec.ed.jp/article/0007392.htmlこういう場合の仕切というのは 特別調達庁以前は終連がやっていたようですが 上記のような問題があったようです。運営はホテル側でというのは どういうことでしょうか各ホテルにキャプテンを派遣します ホテルへの予約 チエックイン 経理はキャプテンの監督でやってもらう ホテル側の運営というのは サービス部門のことです。物品の調達はどうなりますか(小佐野)賢治の言葉を有田が通訳し 少佐の返事を日本語で賢治に伝えた各ホテルのキャプテンがサインしたPDで なんでも買えるようにします。特別調達庁に 万全の手配を指示しますPDというのは 占領軍の調達要求書で 日本の政府はどんなものであれ 要求通りに物品を調達しなければならなかったホテル側は米軍が送り込んだキャプテンにたいし なにとなにが必要だと申告すると キャプテンがPDにサインしてくれる。ホテルは特別調達庁が指示した店で 必要な品物を買えばいいということだった。熱海ホテルはすこし改修したいんですが どうでしょうOK 必要な材料を申告しなさい木材や家具の他に シーツ 木材 ベットカバー タオルと室の絨毯 カーテン等 すべてを新しくなければなりませんそれもOKである私の所有の三つのホテルを トータルで運営してもいいかよかろうでは食料品の仕入れなどは三つのホテル分まとめてやらせてもらいますこれはPDを上手に活用すれば いろいろな品物がかなり自由に 思いのまま手に入ると賢治は睨んだ(ヤミ市への物資はこんなところから集めてきたんですね)花の嵐 清水一行 角川文庫あがりを取るのもあきたんで 自分でやってみようかということなんでしょうかね。ジローさんのホテル業参入計画は
2008年08月07日
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http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%95s%97%C7%89%D8%91%B0%8E%96%8C%8F/不良華族事件(ふりょうかぞくじけん)とは1933年(昭和8年)に発覚した華族の恋愛・不倫事件のこと。 歌人の伯爵吉井勇の妻、徳子(柳原義光の次女・柳原白蓮の姪)は溜池などのダンスホールを舞台に近藤廉平男爵の次男の近藤廉治と「自由恋愛」を享楽したという。 近藤廉治の妻近藤泰子(白洲正子の姉)は美男のダンス教師と恋仲になった。 吉井徳子はこのほかにも有閑マダムにダンス教師を紹介したり、男性交換をしたりしていたという。 さらに花札賭博、麻雀賭博についても摘発された。このとき検挙、召喚されたのは里見(46)、文藝春秋専務の佐々木茂索夫妻、久米正雄(43)、川口松太郎(35)など15名だった。 吉井徳子は「華族の礼遇を停止」(階級に相応しい扱いを受けられなくなる)、近藤夫妻は「華族の族称を除く」(身分称号を用いる事の禁止)処分となった。 (近藤廉平は徳島藩出身、財界出身の新華族。 三菱財閥を支え日本郵船社長等を歴任した。日清戦争の軍隊輸送等に功があったとして授爵。 大久保侯爵家との姻戚関係を結び閨閥をつくった) ジローさんには いろいろ浮いた噺もあったようですが 正子さんはどうだったのでしょうか 姉上について 白洲本での言及があまりないのも これが原因なんでしょうかちなみに ここに出てくる 川口松太郎サンですが 次郎さんのことを 夜の蝶で なにをして生計をたてているか よくわからないと 書いてしまっていますが 一時期は正妻と 三益愛子(川口浩の母) そして花柳小菊(小佐野賢治の元彼女)と さんまた かけていた すごい人です
2008年08月05日
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白洲次郎の友人の水野成夫の部下だったのが 一時期 怪しい画商だった 福本邦雄さんですが はっきりいって 同じ種類の人間のジローさんにも 同じようなコネがあったらしいという噺です。http://bronze.blog.so-net.ne.jp/2007-07-11長谷川仁氏は、かの有名な日動画廊の創業者です。1896(明治30)年10月9日、14人兄妹の7番目に生まれました。苦学生時代はいろいろと商売をやったようですが、明治学院神学部を卒業しています(父親が牧師さんだったそうです)。関東大震災を経験し、またそれがきっかけとなり1つ年上の林子と結婚。一度は牧師に従事しますが2度も泥棒に遭い無一文に。なんでも「人を疑わない」という教えのもと、家には鍵をかけたことがなかったそうです。その後、画家の弟を持つ親友の勧めもあり、絵の伝道師・洋画商を始めました。夫妻で力を合わせ、1928(昭和3)年に日動画廊を創業、1965(昭和40)年には北大路魯山人が住居としていた茅葺き民家(春風萬里荘)を移築し、芸術の村が開設、1972(昭和47)年には創業45周年と金婚式を記念し、郷里である茨城県笠間市に日動美術館を会館しました。売れない映画女優と同居していたレズビアンの梅村淳は 前述したように この頃 里見の阿片密売のレポ役をやっていた。人品卑しからぬ紳士 淑女が出入りする画廊という一見高級そうな勤め先は その任務をカモフラージュするには うってつけの職場だった。その後 日動画廊の創業者の長谷川仁が書いた自伝を読んで 梅村を日動画廊につないだのは里見だということがわかった阿片王 佐野真一著 新潮文庫より白洲次郎が 一時期 印象画の絵を売って 生計の足しにしていたことがありますが この日動画廊関係と接点があるか どうかはわかりませんが 白洲正子と接点のあった画商で 現代画廊の経営をされていた ちょっと面白い経歴の方がいますhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%B2%E4%B9%8B%E5%86%85%E5%BE%B9洲之内 徹(すのうち とおる、1913年1月17日 - 1987年10月28日)は愛媛県出身の美術評論家、小説家。松山生まれ。東京美術学校時代に左翼運動で検挙され、転向後に応召を受けて中国大陸へ渡る。中国共産党軍の捕虜を集め、諜報活動に従事。戦後、郷里松山に引き揚げて古本屋を開業。その傍ら小説を書き始め、「鳶」「雪」で横光利一賞候補に2回選ばれる。中国時代の友人田村泰次郎の勧めで1952年に上京。妻と3人の息子を抱えつつ無収入で小説を執筆し、一家離散を経験。田村の紹介で『群像』に小説「棗の木の下」を発表。この作品と「砂」で芥川賞候補になること2回。田村の経営する画廊に勤務しつつ松山の同人誌『文脈』に発表した「終りの夏」が、1962年に3度目の芥川賞候補となるも、やはり受賞を逸した。以後は美術評論家に転じ、1974年から『芸術新潮』に美術エッセイ「気まぐれ美術館」の連載を始める。この連載は好評で、文芸評論家小林秀雄から「いま一番の批評家は洲之内徹だね」と激賞された。青山二郎は「『芸術新潮』では、洲之内しか読まない」と公言し、白洲正子に洲之内のエッセイを読むよう勧めた。愛媛といえば 後年 ジローさんがボロ株を売りつけた大将の地元なんですが 意図的に 正子サンは 白洲次郎の交友関係と自分とは別だという発言をされているんですが どうなんでしょうか 夫婦なんですから。正子を知るのは次郎を知らねば 次郎を知るには正子を知らねばと思います。
2008年08月01日
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