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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/015/0082/01502110082016c.html高岡委員 それはまことに白洲さんに対してはお気の毒な話でありますが、世間では只見川の外資導入にアメリカに行かれたのだ、しかも高碕さんが目印合弁の製鉄会社をつくるために、国際銀行のガーナー氏と折衝されたことは事実でありますが、そのときも白洲さんが一緒に会いたいというときも、高碕君がそれはごめんこうむるといつて断られたというような話もあり、結論的に簡単に言えば、外資の導入はできなくて、失敗して来た。ところが帰つて来てもう一度行つて、あれは何とか成功して来なくちやいけないと思つておられたところが、岸信介さんが欧州に行くという話が出た。それで岸さんの所へ白洲さんが行つて、ぜひひとつ私も一緒に欧州に行きたいと思うのだが、お供をさしてくれ、それがどういうわけかというと、その裏は、小笠原通産大臣が大臣になられますと、御承知の永山官房長がやめさせられた、そこへ入つて来た人はかつての岸さんのかわいがつた男である。どうも通産省はこのごろずつと岸さんのいわゆる一連の同士が入つて来た。そこで岸さんの勢力が再び通産省に力を得て来るのだから、この岸さんと四畳半でゆつくり話をしなくてはならないというので、幸い旅行中ならゆつくりする機会があるであろうというので、あとを追つて行つたのだ。時間的にいえば、白洲さんが二月の二日で岸さんが二月の七日であります。これは岸さんをめぐる人がこういうことを言つております。もしもそういうことがかりに事実だとし、事実でなくともそういううわさのあります方を、今外務大臣のお話では、語学に達者で、いろいろ話題の豊富な人で、日本のこともよく知つている、こうおつしやるのでありますが、それは日本のことはそう知つていらつしやらないだろうと思います。それは吉田さんのグループをぐるぐるまわつてしかいないのだから、日本全体から見ればごくわずかの範囲である。そういう人が日本の説明をしたのでは、われわれ大衆は困るのであつて、ほんとうの日本を説明してくださる人はまだほかにあります。そういう方を外務省が出されるということになつて来ると、いわゆる国際的にとでもいいましようか、評判の悪い人を出すと、ますます日本の評判が悪くなるということを必配するのであります。白洲さんがお帰りになつたらどういう仕事を海外で果して、日本及び日本人のために貢献をしてくださつたか、ひとつお聞きしたいと思うのです。委員長にお願いするのでありますが、白洲さんがお帰りになつたら、ひとつこの委員会に御出席を願いまして、その旅行談とでもいいましようか、その派遣された任務についての報告を願いたいと思います。これより以前でもかなりきついことを国会で ジローさんは言われています。ここでのポイントが 岸信介グループとの対立ということで これが 後の インドネシアの石油利権とか 安保を巡る騒動になるようなんで 面白いんですが。よく 岸信介とアメリカとの関係が云々されますが ジローさんだって いろいろあるわけです。安倍政権を叩く場合に、最近はブログではよく田中清玄自伝が引用されていますが 田中清玄が アブタビ石油の件で ジローさんの子分だった 大堀弘から2億まわしてもらったのを思い出す人はいないんですね。
2008年02月24日
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http://en.wikipedia.org/wiki/Siegmund_George_WarburgSiegmund George Warburg (born 1902 in Hamburg, died 1982 in London) was a member of the prominent Jewish-German-American-British Warburg family. He was the founder of S. G. Warburg & Co. in 1946, which was a major UK investment bank. He was the bank's managing director until the 1970s.He was also simultaneously a partner in the U.S. investment bank Kuhn, Loeb from 1953 until 1964 through a holding company to avoid the restrictions of the Glass-Steagall Act.ジローさんの個人的な友人の一人だった方。クーン レーブ商会のパートナーだった時期もある。国際金融の大物の一人
2008年02月22日
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これらの紛争の根となった人間の感情を 目の前の現象だけから推し量ることはできない。今から100年以上前 1890年6月に オランダ領インド諸島総督の一族である貿易商人フーゴ ルードンたちによって スマトラの油田を開発するためのオランダ石油開発社がオランダ東インド会社の内部に設立された。オランダ貴族であった彼らは、この会社をロイヤル ダッチ ペトロリアム つまりオランダ王室石油と改称し 1907年4月には イギリスのシェル輸送貿易と合併してロイヤル ダッチ シェルとなった。創業者の息子のジョン ルードンは 社長となって CIA工作によるクーデター後のイランに乗り込み 54年にイラン コンソシアムの石油利権を獲得し これが1979年に イラン国民の怒りが爆発するホメイニ革命の伏線になる世界石油戦争 広瀬隆著 NHK出版よりこのジョン ルードンがジローさんと個人的な 知り合いだったかたで、ジローさんの子息がパリに留学していたのも その辺の付き合いがあるのかもしれません。ジローさんの留学時からの付き合いの可能性もありますが そのへんはどうなんでしょうか?田中清玄の石油利権については ジーロさんのサポートあってこそというのは 間違いないようにおもいますが 如何?
2008年02月21日
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どうして白洲次郎は 日本テレビの取締役になったのか?CIAとか 右翼がらみの線も当然あるんですが 表向きには下記の二つとの関係ではなかったかと思います。1 小林一三との関係後楽園スタジアムに 小林一三の異母弟が 絡んでいたことにもより縁があったようですが たぶん 日本テレビと東宝にも資本関係があったようにも思いますが http://209.85.175.104/search?q=cache:QoZiZ71mHhQJ:appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tebisaka17.pdf+%E6%A8%BA%E5%B1%B1%E3%80%80%E6%98%A0%E7%94%BB&hl=ja&ct=clnk&cd=12&gl=jp&lr=lang_ja白 洲次郎と 阪急東宝グループの小林一三との関係はいろんなルートが考えられますが 出発点は 上記にあげましたように 正子パパとの海外との付き合いに 小林一三が結びついたことによるものではないかと思います。またここにでてくる大澤さんという方は 次郎が会長をしていた大澤商会の創業者一族の方です。 また正子兄も 東宝の取締役になっています。また荒川水力電気という次郎が関連していた会社ですが 日本軽金属と東北電力との合弁のようですが 日本軽金 属の初代社長が 小林一三になります。2 鹿島一族との関係http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%B8%80%E9%83%8E経 団連会長を退任した昭和31年に原子力委員会が発足する。石川は経団連会長であった昭和30年(1955年)にすでにジュネーヴ原子力平和利用国際会議の 日本首席代表、日本原子力研究所理事長として「原子力の父」ともいうべき存在であったが、さらに原子力委員に就任を要請され、就任する。正力松太郎委員長 (国務大臣・科学技術庁長官)のもと、委員には石川のほか、湯川秀樹、藤岡由夫、有澤廣巳らが選ばれ、石川は委員長代理となった。昭和38年(1963 年)設立の日本原子力船開発事業団理事長に就任。昭和39年(1964年)カナダ、アメリカに原子力船事業の視察に赴く。この石川一郎の息子が鹿島建設の石川六郎で その義兄弟が白洲次郎の子分の渥美健夫になります。そして白洲は 鹿島建設の軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長までなります。正力は この原子力をうまく利用し、財界を取り込んで 総理大臣まで目指していた時期もあったようです。この時期に 原子力の旗振りをしていたのが 渥美の息子に 娘を嫁にやる 中曽根大勲位(笑)になります。東北電力を辞めてからも 次郎さんは 別に枯れていたわけではなかったはずです。
2008年02月15日
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ジローさんの義父の樺山愛輔の職業のひとつに、日本製鋼所の会長という肩書きがこざいますが少しおもしろいことに気がつきましたhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A3%BD%E9%8B%BC%E6%89%80株式会社日本製鋼所(かぶしきがいしゃにほんせいこうしょ、The Japan Steel Works, Ltd.)は、鋼板、鍛造品、鋳造品、プラスチックの射出成形機、戦車や艦艇の砲を製造する日本の株式会社である。三井グループに属し、かつて戦艦大和の主砲の砲身を製造したことでも知られる。略称は日鋼(にっこう)、あるいは英語表記の頭文字をとってJSWと記される。目次1 概要2 沿革3 英語表記4 株式業界での符丁5 日本製鋼所グループ6 参考文献7 関連項目8 外部リンク [編集] 概要従来、本社機能は東京都千代田区有楽町、日比谷三井ビルと東京都府中市日鋼町1丁目1番地の旧自社ビル(日本製鋼所東京製作所跡地、2004年(平成16年)に売却)に分かれていたが、2007年8月14日、東京都品川区のゲートシティ大崎ウエストタワーに移転した。株式会社日本製鋼所は、1907年(明治40年)、英国の技術を導入して国産の兵器を製造する会社として、北海道炭礦汽船株式会社、英国アームストロング・ウイットウォース会社(Sir W.G.Armstrong, Whitworth and Co., Ltd.)、英国ビッカース会社(Vickers Sons and Maxim, Ltd.)の出資によって北海道室蘭市に設立されたが、企業再建整備法により第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)に解散した。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B9 アームストロング・ホイットワース出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』アームストロング・ホイットワース社 (Sir W G Armstrong Whitworth & Co Ltd) はイギリスの企業で、20世紀初期からニューカッスル・アポン・タインのエルスウィックにおいて兵器、船、機関車、航空機など幅広い分野の製造業を営んでいた。目次1 沿革2 造船業3 機関車製造4 自動車メーカー5 航空機メーカー [編集] 沿革アームストロング・ホイットワースは1897年に、ウィリアム・アームストロングとジョセフ・ホイットワースの製造会社が合併して作られた。同社は1902年から乗用車やトラックなど自動車の製造をはじめた。1913年に航空部門を設け、1920年にはアームストロング・ホイットワース・エアクラフトとして子会社にまで成長した。また、1922年から1925年にかけてニューファンドランド自治領のディア湖でニューファンドランド製造会社の水力発電所建設を支援し、電力供給だけでなく水力発電所の運河がその地域の林業発展に役立った。1927年に防衛産業と製造業はビッカーズ・アームストロングを創設するためビッカーズと合併した。航空機とアームストロング・シドレー・モーターズの事業はJ・D・シドレーが買い取り、独立した。ストレートなくらい白洲次郎の裏側に誰がいたのかわかるくらいの内容でございます。
2008年02月10日
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中上彦次郎ーーー太郎 lー艶 l l l 池田成彬 lー小六郎 l l ー松方富子 l 松方正雄ーー l ー松方三雄 l ー 白洲宣子 l 白洲文平ーー l ー 白洲次郎
2008年02月08日
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本当の黒幕というのは 表には出てこないらしいという噺http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%92%B0%E8%9D%95寺田峯子(首相夫人):京マチ子…池田勇人夫人・池田満枝がモデル朝倉節三(竹田建設専務):西村晃…渡辺喜三郎(鹿島建設副社長)がモデル寺田政臣(首相):久米明…池田勇人がモデル酒井和明(後継首相):神田隆…佐藤栄作がモデル若松圭吉(電力開発副総裁):神山繁…大堀弘(電源開発副総裁)がモデルこの映画のモデルの1人が 大堀さんという方で 共同石油時代にも怪しい動きをしていましたが、経歴は下記のようになりますhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A0%80%E5%BC%98大堀 弘(おおほり ひろし 1913年5月3日 - 1985年5月12日)は、日本の官僚。[編集] 略歴和歌山市出身。高輪尋常小学校、旧制武蔵高校を経て、1936年に東京帝国大学法学部卒業、同年、商工省入省。戦後、商工省から新制通産省と改称の後もしばらくは、吉田茂や白州次郎、初代通産省官房長の永山時雄らの「外交派」・「通商派」らが実権を握っていたが、その後の朝鮮特需によりジョゼフ・ドッジらの自由経済から方向転換、主流の「産業派」もしくは「統制派」の復権後は、永山が東京通産局に、大堀も中小企業庁長官ののち経済企画庁に出された。経企庁にて事務次官就任。退官後は、石油・電力の専門家として、1970年から1975年の間、電源開発総裁、1979年から1983年の間、共同石油社長を務めた鹿島では 別の方がモデルのようで この方は岩手出の方ですが 鹿島にはすでにこの方が重役にはいっていました。役人時代には 永山時雄の子分だった方です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A5%E7%BE%8E%E5%81%A5%E5%A4%AB渥美健夫(あつみ たけお 1919年7月24日 - 1993年10月14日)は、日本の実業家、官僚。元鹿島建設(鹿島)名誉会長。妻伊都子は元鹿島建設会長鹿島守之助の長女。長男直紀の妻美恵子は元首相中曽根康弘の二女。目次1 来歴2 家族 親族3 系譜4 参考文献5 外部リンク [編集] 来歴東京に兵庫県人の実業家渥美育郎の長男として生まれる。東京府立一中、旧制浦和高校を経て、1943年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年、商工省入省。商工省から経済安定本部、新制・通商産業省を経て、1951年、岳父の鹿島守之助に請われ常務として鹿島建設入社。専務、副社長を経て、1966年、社長に就任。もともと 電源開発というのは 新規の電源開発に分割したばかりの各会社では体力的に無理だからという理由ででいた会社ですが だったら電力再編って何?やんなきゃいいじゃんという気がしますがhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A2%95%E9%81%94%E4%B9%8B%E5%8A%A9 初代の総裁はこの方 白洲次郎と縁の深い方です。映画のほうには 鎌倉の男のこの方はでていませんが モデルになった事件には これより以前から 鹿島のケツ持ちになっていたためか 姿をみせています。下請けの汚れ仕事のようですがhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%A0%AD%E7%AB%9C%E3%83%80%E3%83%A0尚、ダム建設に伴い和泉村の500戸の住居が水没する事となった。当時大規模な補償問題として注目されていたが、住民の思惑や事業者の思惑が入り乱れて複雑な様相を呈していた。当時発電事業は電源開発と北陸電力が請願していたが、福井県内の財界は関係の深い北陸電力の参加を支持し、一方水没住民は補償金拠出において財源の豊富な電源開発の参加を支持していた。こうした中で政治的な介入も行われ、児玉誉士夫の命を受けた読売新聞の渡邉恒雄が中曽根康弘らと共に補償交渉を円滑に進めるための資金工作を水面下で行っていた事はよく知られている。だがこの工作は失敗に終わり、資金は全額児玉に返還されている。ちなみに この頃は児玉の兄貴分の三浦義一はまだ生きていて、その線で 親分の河野一郎現在ながら 官僚派に食い込もうとしたのが伺えますが、下記のようなことがありました。なお 三浦の助言で秀が購入したマンションは、青山にあり、階下には白洲次郎も部屋を持っていた。白洲は、やはり後にこの部屋を顔なじみの秀にならと、ごく安い値段で譲った。 おそめ 石井妙子著より池田勇人煮え湯のこと今度の選挙前には 池田を幹事長にして花をもたせることにするサと 涼しい顔をして白洲はうそぶいているから、まだまだお芝居は継くだろう。白洲次郎まかりとおるより巷説にいわく 子分たちに踊らせる阿波踊り 昭和30年代まで 本当の黒幕は 姿を表さず そのころは、ゴルフ三昧だったようで そのほうがプリンシパルな生き方でありますな。巷説にいわく 右に札束 左に日替わりの高尾大夫 あやかりたいな 武相荘の主に
2008年02月04日
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中部幾太郎・・・・・・・・中部謙市 ・ ・・・・中部謙吉・・・・・・・・・・中部夏子 ・ ・ ・ ・・・・ 児島光雄 ・ ・ ・ ・・・・ 児島旺子 ・ ・ ・ ・・・・ 宮沢泰 ・ ・ ・ ・・・・ 宮沢喜一 ・ ・・・・・中部利三郎・・・・中部一次郎 ・ ・ ・・・中部銀次郎・ ・ 浜根隆正・・・・・・・・・・・ 浜根克子 ・ ・・・・ 浜根ひろみ 中部一次郎 ・ 浜口慶次・・・・・浜口義郎・・・・・浜口緑 ・ ・・・・浜口慎七 ・ 久原愛子 ・・・・ 田村市郎 ・・・・・・・・・・田村啓三 ・ ・・・・ 久原房之助・・・・・・・・・・久原愛子 ・ ・・・・ 鮎川たま ・ ・・・・ 鮎川義介 ・ ・・・・ 国司浩介
2008年02月02日
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