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http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10031528&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA尚予て問題となって居った横浜生糸綿花株式会社が三菱直径の日本生糸会社に合併した事実がある、元来横浜生糸綿花は資本金三百七十五万円全額払込みで取締役会長に新井領一郎氏の外取締役は森村開作、村井□固、渋沢義一、日比谷半左衛門の諸氏にて多年生糸貿易に携わって居る新井氏が全力を注いで今日に至ったが和田氏の没後兔角金融難に陥り殊に一昨年以来生糸貿易の不振は観面経営困難を来し前期の如きは四百万円の繰越金損失を計上するに至り綿花部は本年五月三十日を以て閉鎖すると同時に生糸部を始め会社全体が解散して日本生糸に譲渡する事となり新井社長は渡米し他の社員二百余名全部総辞職する事となった、斯くして各種会社が経営難に陥ると同時に三井、三菱等の大資本下に隷属する傾向が著るしくなって来た 白洲文平さんと親交のあった 牛場徹郎さんの肩書きに横浜生糸重役という肩書きがありますが たぶん この横浜生糸綿花というのが これにあたるようです。そしてこの新井領一郎さんの妻が 徹郎さんのきょうだいの田鶴さんになることから ほぼまちがいないように思います。 徹郎さんが神戸支店長で 白洲商店がアメリカから綿花を輸入するのを この横浜生糸綿花に委託していたということなんでしょうか?白洲商店の取締役の顔ぶれなど資料があれば しりたいものです。
2008年12月30日
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弟の長平は森村組を退職後エール大学に留学し 帰国後は藤本銀行神戸支店に勤めていたが その長平もやがて経営に加わった。彼には神戸市栄町の店を任せ 自分は大阪市中之島へと進出する占領を背負った男よりこの藤本銀行は藤本ビルブローカ銀行と思われ 現在の大和証券の源流になります。それ以前は森村組に長平さんがいたのですが 森村組ですこし面白いことに気がつきました。森村財閥の創始者 六代目の森村市左衛門の弟に 森村豊という方がいました。この方が森村組の創業者で この方が早死したので 森村組は7代目の市左衛門が継いでいます。この豊の奥さんが 旧姓 小畑鹿衛といい この人の兄が 小畑大太郎という方で 十五銀行破綻時の取締役になりますまた この人の人脈が 少し興味深いものがあります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%91%E6%95%8F%E5%9B%9B%E9%83%8E小畑敏四郎出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』小畑 敏四郎(おばた としろう、明治18年(1885年)2月19日 - 昭和22年(1947年)1月10日)は日本の陸軍軍人。陸軍中将。高知県出身。いわゆる皇道派の中心人物とされる。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。目次1 来歴・人物2 秘話3 伝記4 脚注5 外部リンク [編集] 来歴・人物明治18年(1885年) 男爵小畑美稲の三男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎。文平さんが どうやって そしてどこから金を集めてきたか うかがえてきますが ジローさんが 丁寧に そのコネを維持しているのが とても面白いです。
2008年12月18日
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http://www.kcn-net.org/oldnew/bunsi7.html彼の随筆「文学的回想」の中の「小泉三申翁のこと」の項によりますと、彼が住んだ静岡県伊東の家と「鎌倉町浄明寺宅間谷」の家は、両方とも政治家小泉策太郎(1872~1937・号三申・さんしん)の別荘と持ち家であったといいます(『林房雄著作集2.』昭和44年 翼書院)。小泉は大正・昭和前期の政党政治家で、政界で暗躍し黒幕と目された人物です。昭和4年刊『神奈川県職業別電話名簿』に「小泉策太郎 雪ノ下六二〇(現雪ノ下四丁目1番)」とあり、前述の「文学的回想」によれば「雪の下大蔵」に大邸宅を所有したという記述もあるので、当地でもかなりの資産家であったようです。林とは7年頃から親交があり、彼の誘いで小林秀雄や深田久弥もこの邸宅を訪れています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E7%AD%96%E5%A4%AA%E9%83%8E小泉 策太郎(こいずみ さくたろう、1872年 - 1937年7月28日)は、日本の政治家である。三申と号した。静岡県出身。小泉定次郎の長男。静岡日報、自由新聞の記者として活動し、また、九州新聞、経済新聞の社長もつとめた。明治45年(1912年)から静岡県から衆議院議員に4回当選、「政界の惑星」と目され、参画しない政変とてなかった。昭和3年(1928年)、田中義一内閣に久原房之助の入閣することに反対し、これに敗れて立憲政友会を脱退し、神奈川県鎌倉の別邸に引退した。そこで、西園寺公望の伝記を執筆していた。さて広い意味での 鎌倉文士グループの中に ジローさんも 入るのではないかという気がいたしますが さーて
2008年12月07日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E5%AD%A6%E6%A0%A1さらに日華事変の勃発により、陸軍工兵隊の得意分野である港湾や飛行場、さらには要塞・砲台などの設営術・築城術も独自に習得する必要性を増した。これらは1941年4月より、従来の海軍建築局を拡張した海軍施設本部の設立と特設設営隊の編制で対応したが、人員の養成が急務となっていた。太平洋戦争開戦のための出師準備中に、これら工作術の要員確保が問題となった。工機学校では本務である機関術要員の大量養成に追われ、工作術要員の養成環境が整わなかった。そこで工作術専門の教育機関を増設し、工機学校では機関術要員の養成に専念することになった。そこで1941年4月1日、久里浜に海軍工作学校を開き、工作術教育を始めた。工作学校はその任務の性格上、目立った戦果を挙げてはいないが、特修科では特攻潜水兵器の研究開発が行われていた。その成果として知られるのが、特殊潜航艇「海龍」である。1943年末より、連合軍の反攻が激化し、最前線では空襲被害が続出した。防御のための築城術、反撃のための航空機整備術のいっそうの拡大・強化が望まれた。これらも工機学校で教育が推進されたが、大幅な増員に対応できない状況に陥った。そこで沼津に築城術・航空機整備術の学校を増設し、工機学校から分離することとなった。1944年6月1日、久里浜の工作学校とは任務を異にする沼津海軍工作学校が開かれ、本校も横須賀海軍工作学校に改名した。http://www.dokokyo.or.jp/data/nenpyo/1945.htm30 運輸省、運輸復興本部を設置(旧海軍施設本部と旧地下建設本部とが統合。後に建設省の設置に伴い建設工事本部と名称変更。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E9.81.8B.E8.BC.B8.E4.BA.8B.E5.8B.99.E6.AC.A1.E5.AE.98.EF.BC.88.E9.81.8B.E8.BC.B8.E9.80.9A.E4.BF.A1.E6.AC.A1.E5.AE.98.E3.83.BB.E9.89.84.E9.81.93.E6.AC.A1.E5.AE.98.E3.83.BB.E9.89.84.E9.81.93.E9.99.A2.E5.89.AF.E7.B7.8F.E8.A3.81.EF.BC.89長崎惣之助 - 最後の鉄道次官(昭和18.10.31迄就任)、飯田のあとに運輸通信次官就任、運輸次官に改称(昭和20.5)、国鉄総裁飯田精太郎 - 運輸通信次官に改称平山孝 -佐藤栄作 - 初代運輸事務次官。内閣総理大臣伊能繁次郎 -下山定則 - 国鉄総裁。下山事件参照大須賀センセイは 三島としていますが学校は沼津にあったようです つめが甘いです そこの資源をどさくさまぎれにいただいたのが 神中組の戦後の躍進の鍵であると センセイは見ていますが実際は最後にあげた人脈をうまく抱き込んだので 資源を得られ 戦後の占領軍の追求にも逃げられたのでしょうちなみに センセイは 清玄のビジネス感覚のない資金の使い方を指摘していますが それはたかってくる方がいっぱいいたからで その点は同情に値しますちなみに この飯田センセイですが 山口の出で 電力局の偉いさんでもあったかたです 佐藤栄作といい ずいぶん清玄は 長州の方の世話になっています
2008年12月04日
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平沢は兄が雑誌を経営しているのを知ると 紙はいらないかといった 当時は仙花紙の横行時代で 紙さえあれば 刷るそばから本が売れ 雑誌編集者や出版屋はつてを求めて静岡あたりまで闇の紙をかいあさっていた時代だから 本当に手にはいるならぜひほしいというと 数日して平沢は 静岡の知り合いの紙屋というのを連れて来た何も知らなかった日本人 畠山清行より1 清玄の自宅が三島にあったということ2 三幸建設工業の増資に 国策パルプの幹部が協力していること3 水野成夫とも関係の深い 住友銀行 が 三幸建設工業に協力している4 水野の盟友の南喜一が 車夫をしていた時期にその筋とのつき合いがあったこと5 水野 南が 最初に始めたのが 古紙再生の 大日本再生製紙であること6 どういうひとが 街場で 古紙をあつめているかを考慮せよ7 戦前もある時期まで 用紙の割り当てがあり 紙を押さえれば マスコミに圧力が効いたこと8 後の新聞販売 古紙回収 紙屋 どんな人がしていたのか9 国策パルプが 朝日新聞 三井が関係してつくられた点10 水野が 背後には 旧軍の特務の人間がいた点11 清玄が 朝日と旧軍の特務につながりがあることちょっと田中清玄と水野成夫について 彼らの背景を考えてみました
2008年12月03日
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