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リニア・鉄道館に入り、エントランスホールを抜けるとイベント広場があり、数多くの車両が展示され、東海道新幹線の0系、100系、300系、特急しなのの381系、東海道線普通列車の111系など、数年前まで当たり前のように走っていて記憶に新しい車両も展示され、思わず見入ってしまう。歴代東海道新幹線。手前より300系、100系、0系、特急しなの381系。何となくかつての東京駅を思わす光景だ。0系の正面。普段新幹線を正面から見ることはないので貴重だ。0系初期型の転換シート。背もたれをスライドさせる時の音から、通称「バタンコシート」と呼ばれた。0系食堂車内部。かつては、ほとんどの「ひかり号」に食堂車がついていて、父親が子供にその事を話して、子供が「へー、そうなんだ」と感心している光景が目についたのが印象的だった。100系の正面。0に比べると、きつい印象がある。100系の最大のシンボル「2階建て食堂車」とその内部と厨房。今まで何度お世話になったことか?100系の登場は、この当時かなり革命的な出来事だった。滅多に見られない300系の連結面。左側に「幹トニ」とあり東京第二車両所所属のようだ。0系ベースのドクターイエローも展示されている。まさか300系まで展示されているとは思わなかったが、そのうち700系やN700系も展示される時代が来るのだろうか?リニア・鉄道館のページ犬山国際ユースホステル
2011.03.31
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3月14日、名古屋に東海版鉄道博物館というべき、JR東海の「リニア・鉄道館」がオープンした。場所は名古屋駅から「名古屋臨海高速鉄道あおなみ線」で約24分の終点「金城ふ頭(きんじょうふとう)駅」のすぐ目の前である。あおなみ線の終着駅でありリニア・鉄道館の最寄り駅である金城ふ頭駅普通の鉄道だが新交通のような雰囲気のあおなみ線どことなくリニアのような感じのリニア・鉄道館の建物入場料は大人1000円で、東京や大阪からも入場券と新幹線がセットになったキップも売られている。入場してすぐのエントランスホールでは、過去に世界最速の記録を出した、C62(時速129キロ)、955形式新幹線試験電車(時速443キロ)、超電導リニアMLX01-1(時速581キロ)が展示されている。1954年に時速129キロを記録したC62。現在の在来線特急並のスピードだから驚きだ。955形式新幹線試験電車(左)と超電導リニアMLX01-1(右)。なかなか想像がつきづらいスピードだ。白に青帯の車体はもう東海道の伝統なのだろうか。リニア鉄道館のページ次回は「イベント広場」を紹介します【送料無料】国鉄・JR博物館リニア・鉄道館保存車全ガイド
2011.03.30
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JR浜松町駅の品川方面ホームにある小便小僧。毎回、その季節やイベントにあった服装をして楽しませてくれるが、今回はやはり防災の服装をして「がんばれ東日本」「みなさん応援しています」との旗を掲げて立っていた。「みなさん応援しています」(上)と「がんばれ東日本」(下)この様なメッセージがあるととても励みになる
2011.03.27
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JR品川駅の京浜東北線ホームの大井町寄りに花壇が置かれている。ローカル線の駅前に、鉄道会社や地元の人が設置した花壇はよく見かけるが、都心のホーム上にあるのは珍しく思えた。JR東日本の自動販売機を扱っているJR東日本ウォータービジネスが、自動販売機での売上の一部を寄付金として、財団法人花と緑の農芸財団により植えられたものらしい。慌ただしい都会の駅にあって、心が和む場所だ。今、震災で壊滅状態となった場所も復興活動が始まりつつあるが、これを機に花や自然と共存出来る町が出来れば素晴らしいかなと思っている。品川駅京浜東北線ホーム大井町寄りにある花壇(上)とその案内板(下)
2011.03.26
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3月も下旬になり、世間では卒業シーズンだが、僕にとって、卒業で思い出すのが斉藤由貴の「卒業」だ。昭和60年なので、丁度僕が中学を卒業する時期の曲で、それまでの地元中心の義務教育から、首都圏中心に生徒が集まる高校生活への期待と不安な時期でもあった。斉藤由貴のポニーテール姿も印象的で、その後も彼女のいろんな曲を聴いていた。この「卒業」をはじめ「白い炎」「情熱」「夢の中へ」など12曲が収まったのが「Myこれ!Lite斉藤由貴」である。1500円と手頃で、青春時代(今でも青春時代のつもりだが)を思い出す1枚だ。【送料無料】Myこれ!Lite 斉藤由貴
2011.03.25
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震災から早2週間が経とうとしているが、計画停電などで埼玉では不便な生活が続いている。いつも通勤に利用しているJR川越線も、最近は大宮~川越はいくらか安定した運転となったが、先週の計画停電開始の頃は通勤時間帯でも川越線は走っていないことが多く、路線バスを乗り継いだりして、結局1時間遅れで出社し、帰りも1時間早く退社するようにしていた。幸い、会社も事情をわかってくれたが、さすがにその様な出退勤時間でずっと続けるわけにはいかないと思い、3月16日からはいつもより30分早く家を出るようにした。ただ、17日くらいから川越線も朝の通勤時間帯に走り始め、特に路線バスなどの他の交通手段を使う必要なく、結果、いつもよりも早い時間の川越線に乗ることが出来、会社には逆に早く着いてしまった。とはいえ、これから先どの様な交通事情があるかわからないので、しばらくは少し早めの出勤をしてみようと思う。今までは通勤時間が長いせいもあり、始業時間近くに出勤だったが、それだと電車が少し遅れた時でも間に合うか不安になりいら立ちがあったが、余裕持った出勤だとある程度の遅れでもそんなにイライラしなくなり、精神面でも余裕が出てくる。朝起きるのがしんどいが、朝方の生活は仕事の効率も良くなるとのことなので、復興したあとも続けていきたいと思う。
2011.03.24
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11日の震災から5日が経ち、東北地方があんな状態になるとは思ってもなく、先月、福島・宮城の阿武隈急行を訪れたばかりとあってショックで、被災された方のお見舞いを心から申し上げたい。この様な災害が起こるたびに、自分は何が出来るのかと思ってしまう。現地にボランティアとして出向いたり救援物資を送るのは難しいとよく言われている。東京地区でも計画停電で思うように電気が使えず、電車も運休が相次ぎ、お店に行っても食料や電池類がなかなか手に入らない状態が続いている。それまで、お店に行ってお金を払えば何でも手に入り、スイッチを入れれば電気がつき、駅に行けば電車で何処へでも行けて予定が立てやすい…そういった今まで当たり前の事が出来なくなり、驚いている。それも、東京電力や鉄道会社やお店が最大限の努力と安全確保を考えた行動だと思うとやむを得ない。自分達に出来るのは、その様な事情を受け入れ、その日の事情に合わせた生活を行う事ではないかと考えている。そして、東北地方がある程度復興し、旅行客を迎え入れられる体制が出来たら、また訪れたいと思う。
2011.03.16
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地震が起こった3月11日の14時46分は、新宿の会社で仕事中だった。最初揺れた時は、いつのも事ですぐに治まるだろうと思っていたが、その気配はなくだんだんと強くなっていき、棚も動いてしまう状態だった。中には慌てて外に逃げ出そうとする人もいて、他の人が「外に出たら危険だ!」となだめ、自分にはどうして良いのかわからなかった。揺れは何回か続き、外を見てみると近くのビルが揺れているのがわかる。しばらくして、近くの公園に避難しようって事になり、事務所を閉めて公園に行くと、同じように避難してきた人であふれ、ヘルメットや防災ずきんをかぶっている人もいた。その後の情報で、電車がストップしていることを知り、他の人と一緒に早々と近くのホテルを手配し、幸い最後の一部屋が空いていて一安心だった。ホテルまでの甲州街道(20号線)は京王線に乗れないと思われる人であふれ、道路も車が動く気配はなく、稀に見る光景だ。ホテルに着いてからも、フロントでは満室のため、電話や直接来た人への断り宇野をしたりして、早めに手配して良かったなと実感した。部屋のテレビは全てこの地震の情報で、関東が震源ではなく宮城県の沖が震源のようで、東北地方は地震や津波など、もっと悲惨な状態で、犠牲者も多く出てただ事ではないと思った。翌朝(12日)一部の電車が運転を再開し、運転されている路線を使い何とか家にたどり着いた。幸い家の中は多少の落下物があった程度で大きなトラブルはなかったが、まさに「一瞬先は闇」で、それまで、地震や防災や避難といってもあまり実感がなかったが、今回の地震で自分達にも災いが起こりうるのがわかり、これらを予測した準備や、連絡体制の確認、そして人との絆を大事にしたいと心から思った。こういう時こそ助け合いが必要で、一日も早い復興を目指すべく、自分達も動き出したいと思う。
2011.03.12
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