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今週は、(飲み会も含めて)バタバタと忙しかった。忙しかったと言いながら、対価をいただける本当の意味での仕事よりは、業界や親しい会社のために手弁当で働いている時間の方が長い気がするが。早く、正当な売上をいただける仕組みを作ることと、事務作業などを「外出し(アウトソース)」することかな。クライアント企業(バス事業者)にはそれらの重要性など説いていたりするのに自分ではできていないということか。親しい人はよくご存じだと思うが、私の場合、ガツガツがんばってお金を儲けたいという願望が人より明らかに小さく(コンサルタントの大先輩からは、お前は「お布施タイプ」だと言われた。困っている人がいたら助けて、もし後からお布施を差し出されればありがたく受け取るお坊さん、という意味らしい)、その意味では、好きなことをして(かつ、皆さんの役に立って)自分一人が食っていければ十分、というつもりで作った会社だ。ただ、その「好きなこと」が、「いろんな会社(私の場合はバス事業者)の売上や利益を最大化するための戦略を考えること」だから話がややこしい。クライアント企業に話している内容をそのまま自分の会社にあてはめると、<お前、もう少し戦略的に事業をやれよ>ということになるし、会社を大きくしたいとムラムラくることもある。まあ、長い人生だから将来はわからないけれども、現在のところは、人をたくさん雇って企業規模を大きくするよりは、「ピン」でメシを食えるよう各社のお手伝いを続けていきたい。話を戻すと、忙しかった中でなかなか楽しい仕事だったのは、日本自動車工業会で講演をさせてもらったこと。バス車両メーカー幹部の皆さんとお話しする機会などめったにないから、彼らがどう考えているのかをお聞かせいただいたのも意味があった。テーマにもよるが、私の講演では高速ツアーバス誕生の背景を説明する一節がある。募集型企画旅行(旧:主催旅行)で二地点間輸送を行なう先例として北海道の事例や「帰省バス」などがあるが、今日の高速ツアーバスはそれらとは関係ない。過去の話はいっさい端折って、<スキー人口低落によるスキーバス事業不振と、貸切バス需給調整撤廃や旅行の個人化などによる通年での貸切バスチャーター代下落の結果、スキーバス旅行会社は関西からTDR、首都圏からUSJといったテーマパーク直行バスを新施策として企画した。パーク周辺ホテルは満室で都心のホテルを手配したためバスも都心に停車し、そのうち利用者から都心間のみ乗車したいと要望が増え、自然発生的に誕生した>とごく簡単に説明する。この部分を、さらっと簡単に済ませるのには理由がある。2001年にそのようにして誕生した業態ではあるが、その後4年間はニッチ商品の枠を出なかったのに対し、ウェブマーケティングと出会った06年から急激に成長カーブを描いているため、05年と06年の間に大きな断絶があり、その断絶こそ本質的な意味で「誕生」だと考えるからだ。ただ今回、そんな話をしながら、あらためて自分が高速ツアーバスに出会った頃を思い出した。私が楽天に転職し高速ツアーバス各社(といってもその頃はまだ9社)と出会ったのは06年の春。今思えば、成長カーブの角度を正に上げようとした瞬間である。私はその時点ではまだ「アンチ・ツアーバス」であり、きわめて「既存事業者的感覚」を持っていたといっていい。私は、高速ツアーバス各社の経営者たちについて、きっと、熱い、暗い情念のようなものを持って、路線バス事業者の既得権益に風穴を開けることを目指しているんだろうと想像していた。それとも、よほどの金儲け主義者なんだろうと。ところが、実際に会ってみるとそうではなかった。彼らは、旅行会社として、利用者のニーズに応えそれを創造することに喜びを感じている人たちだった。彼らの屈託のない笑顔に拍子抜けしたのを覚えている(なお、需給調整撤廃前に貸切バス事業に参入し規模を拡大させてきた貸切専業者の経営者たちには既存事業者への反発心もあったが)。品質が覚束ない状態で本質的には輸送サービスに当たる事業を行なったことに賛否はあろうが、本人たちは、目の前のお客様の声に応えていたらこうなったと、ごく自然体だったのだ。あのとき私が感じた違和感が、既存事業者をして高速ツアーバス各社への理解を妨げる要因などだろうと、あらためて思う。既存事業者のメンタリティとしては、安全・安定に万全の配慮をしながら公共交通を守る使命感やプライドがほとんどを占める一方、心のどこかには既得権益と非難される恐れもまた、うすうす持っているというあたりだろう。それに対し「既得権益打破」とムシロ旗を掲げられるならまだしも、「お客様のために」などと正論を吐かれると、自分たちが守ってきたもの(あえて言葉にすれば「安全・安定」)の価値を認めない異国人と話すような気分になるに違いない(少なくとも私は最初そうだった)。既存事業者が高速ツアーバス各社に対し生理的に感じてきた違和感、嫌悪感は私にはよくわかる。最近、多くの事業者、担当者が勇気をもってその嫌悪感を飲み込み、高速ツアーバスの手法のうち盗めるモノは盗もうとするようになった。そういう前向きな人たちの前では、その嫌悪感の話は「わかります」と言うのに留め、より有益な情報提供に話を切り替えるのに対し、なかなか自らを変えることのできない人たちには、わざと「マーケットのニーズ」とか「バス産業全体の将来」とか正論をぶって余計に嫌な気持ちにさせたりして内心は楽しんでいるけれど。この、両業態の相互の(特に一方からの)無理解を私はずっと嘆いてきた。かつて書いたように、両業態の関係者や行政によるラウンドテーブルの実現を望んできた。昨年、「バス事業のあり方検討会」として実現し、私自身もその委員に選んでいただいた。半年の議論も終わろうとしているが、最後まで、その無理解を埋める努力を続けていきたい。
2011.05.22
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水曜早朝のフライトで東京を離れ、数社の事業者に往訪し金曜の夜行便で戻ってきた。数多くの事業者を訪れたわけではないが、大手路線バス事業者あり、地方の老舗路線バス事業者あり、高速ツアーバスで成長中の貸切専業者ありと、バラエティに富む顔ぶれだった。当然、それぞれに応じて私がお手伝いする内容も大きく異なるが、その顔ぶれの多彩さは、「業界全体の黒子」でいたいという私の希望を象徴している気もする。また逆に、企業としての性格は大きく異なれど、全社に共通するのは「情報に飢えている」こと。質問攻めに合う。私自身は、経営理論のプロフェッショナルには程遠いし、得意とするマーケティングとて体系的に勉強したとは言えない。本ブログで偉そうに書いているレベニューマネジメントでさえ、「コーネル大学ホテル経営大学院に留学」みたいな友人たちには議論して勝てたためしがない。それでも、「高速バス事業」あるいは「バス事業者の経営」という背骨を通して、それに肉付けした情報を各社にお持ちすることは、皆さんから待ち望んでいただいているのだろうとあらためて感じた。一方、直接的に仕事につながらなくとも、お話をお聞きしたくて私から会いに行く、業界の大先輩たちが全国に何人かいる。高速バス業界の歴史を振り返るとき、この路線、この車両が生まれていなければ、我が国の高速バス事業はここまで成長していなかっただろうと思わせるターニングポイントがいくつか存在する。運輸協定による「相互乗り入れ」から一歩進めた「共同運行」の仕組みを作り上げた路線。起終点双方の事業者による共同運行であれば、経路上に存在する事業者の権利を侵害しないと認めさせた「クローズドドア制」。誰もが採算を疑問視する中で成功させ、全国の事業者に高速バスブームを引き起こした地方都市路線。車両面では乗務員仮眠室の設置。そして3列独立シート……それらのニュースに当事者として、事業者側やメーカー側でかかわった人たちだ。ちなみに、本ブログによくコメントをいただくbasukeieiさんもその中の一人である。それらのニュースは、1980年代から90年代初頭に集中している。田中角栄の「列島改造論」を受け建設が始まった高速道路が軒並み開通し全国ネットワークがほぼ完成したころである。私のいう「第2フェーズ」が、それらのニュースを持って幕を上げる。<路線開設の申請書類を週に1本のペースで書いたんだよ。何回徹夜したかなあ><「お前の会社が●線を走らせるんだったら、高速道路上にウチのバスを並べて阻止してやる」とか言われたなあ。今はその会社とも共同運行してるけど>。みんな目を細めて昔話を聞かせてくれる。<「クローズドドア」とは言っても、路線開設前には沿線事業者すべてに挨拶にまわったんだ。そうそう、ウチの会社の●線は、他の路線の申請時に菓子折りを持って経路上の事業者に挨拶に行ったことがきっかけで始まったんだよ>。「第1フェーズ」から「第2フェーズ」の移行するその瞬間の熱気を、全国で聞くことができる。今回、お話を聞かせてもらった先輩を、仮にYさんとする。以前、ある会合の後の懇親会で私がYさんからいろいろ伺っていたら、業界事情に詳しいある人が<Yさんと成定さんが話しているよ。まさかケンカしてるんじゃないよね>。当時私は楽天にいたから、Yさんは「高速(路線)バス」、私が「(高速)ツアーバス」を象徴して見えたのかも知れない。しかし、Yさんをはじめとして、皆さん私に対して非常にオープンだ。もちろん、あまりにクオリティが低い事業者が闊歩する状況には危惧しつつも、マーケットを拡大させるため新しい取組を重ねることに、心から賛同いただいていると感じる。なぜなら、彼ら自身が、当時、懸命に新しい取組を考え、(「平場」の路線バス用であり「高速バス」に適していると言えない)規制や行政のあり方と戦い、業界内の秩序を守ることを優先する近隣事業者の姿勢と戦い、自らの手で、新しい時代をこじ開けてきたからだ。業界には、ときどき、既存の路線バス事業者が高速バス事業を営んでいることを、さも当然のように考える人がいる。さらには<既存事業者は、高速バスの黒字で路線バスの赤字を埋め、自らの身を削って地域公共交通の維持に努めてきた>などと、それがさも平安時代や奈良時代からの我が国の伝統であるかのような顔で言う人がいる。しかし、「平場」の路線バスは黄金時代には多くの利益を生み出し、一部の事業者で赤字化が始まったのなどわずか20ないしは30年前の話である。そして既存事業者が高速バス事業に本格的に参入したのも同じ時期の話であり、しかもそれは、彼ら自身の「挑戦」の結果として手に入れた果実なのである。その立役者は、みな、こうやって直接お目にかかることのできる同時代人である。その熱気は、事業者の中で燃え続けていなければおかしい。「第2フェーズ化」が落ち着いた1990年代後半から、高速路線バス事業は全国的に安定期を迎え、上記のような熱気は冷めていく。それは、バブル崩壊とともにこの国が戦後の持続的な成長を終えたことと軌を一にする。しかし、この国全体が萎んでいく今だからこそ、自分たちの過去の事業領域を守ることだけ考えれば、それは皆で座して死を待つようなものだ。過去のあり方をいったん白紙に戻し、どうやったら我が国のバス産業は生き延びることができるのか、真剣に議論すべき時が来ている。活気があった時代を体で覚ええている多くの先輩方の助けを借りることができる間に、である。
2011.05.15
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そう、昨日書いたように、バスの事業区域を巡る「免許秩序」がようやく確立したころ、高速バスという新しい事業モデルが誕生したのである。長距離輸送である以上、自社エリアの中で完結するはずもない。従来の事業区域の考え方を変えないと実現しない事業が生まれたのだ。しばらくの間、行政は、国鉄バスや沿線合弁の高速バス専業者に限定して高速バス事業を認めることで免許秩序を保った。平場の路線バスの枠組みによる「相互乗り入れ」路線(新宿~富士五湖など)の高速道路開通による高速乗せ換えが自然発生的に民間の路線バス事業者の高速バス参入を導いたが、相互乗り入れである以上、事業区域が隣接する事業者同士にほぼ限定され、路線数も多くなかった。以上が私のいう「第1フェーズ」である。やがて「相互乗り入れ」を発展させ「共同運行」そして「クローズドドア」という仕組みを事業者自らが考案し行政に働きかけ実現したことで、路線バス事業者が自ら高速バス事業に参入できる権利と、従来からの免許秩序の両立を可能とした。高速道路延伸ラッシュという急激な外的環境変化が事業者を揺り動かし、事業者自身が主体的に考え新制度を導き出したのである。これが「第2フェーズ」の始まりであり、1980年代前半の出来事だ。同じころ、北海道では、上記の北都交通の事例が発生している。つまり、国鉄末期の鉄道運賃高騰やサービスレベルの低下、経済成長による都市間移動者数の増加などにより、高速バス(高速道路をほとんど使わない、当時の北海道の都市間バスを含む)の潜在的需要が膨らんでいたことは、全国どこでも同じであった。しかし高速道路の開通という外的変化がなかったこの地では、各事業者も高速バス事業の可能性に目が向かなかった。先にそれに気づいたのが路線バス事業者ではなく貸切専業者であったことで上記問題が発生し、イレギュラーに当該貸切専業者を高速路線バスの免許秩序に取り込む形で収束させたのだ。そして今、時代は「第3フェーズ」に移っている。法律でさえ、「秩序の維持」をその目的から降ろした。そのことを「行き過ぎた規制緩和」と非難することは簡単だ。だがその前に、なぜ、そのようなパラダイムシフトがバス業界に必要だったのか、考えるべきだ。いつも挙げる数字だが、1955年(終戦10年後)に約35億人だった路線バス(原則として平場の路線バス)の輸送人員は、その10年後には約100億人に達する。約20年、同水準を維持しバス産業は「黄金時代」を味わったが、その後、急激な減少に転じている。高速バスの世界が、本州や九州で「第2フェーズ」に移行し、北海道で会員制バス問題が発生していた1985年ごろは、約70億人にまで減少したところである。逆に言うと、輸送人員が「まだピーク時の7割もあった」時代である。そろそろバブルの予兆もあった。たとえバス事業部門が多少赤字化しても、不動産や観光など附帯事業の利益で十分に穴埋めできた。<当時の平場の路線バスの赤字額など、高速バス程度の新規事業で埋めることができたし、そんなことよりも、地域開発などからバス事業者(と、その関係の方々。誰とは言わないが)が得られる利益が大きく期待できたから、内部補助理論をオモテに打ち立て、従来の免許秩序を維持することが大切であった>というのは皮肉が過ぎるかもしれぬが、少なくとも、内部補助に頼ることで公共交通ネットワークを維持することが可能な環境であったから、そうした、ということだ。私自身も、当時、アルバイトとしてバスと出会い、その構図に大いに賛同したからバスが好きになったのだ。しかし、今日、路線バス輸送人員は43億人である。ピーク時からみると4割に過ぎず、上記1985年の70億人と比べても3分の2だ。<平場の路線バスがだんだん赤字になってきちゃったよ。でも、高速バスという新しい収益源が生まれたし、それで内部補助しておけば、まあ、バス事業者の経営も公共交通も守ることができそうだ>と誰もが考えた25年前から比べても、平場の路線バスの輸送人員は3分の2に減っているのである。当然、その減少分が、まるまる赤字額の増加ということになる。事業面の環境変化だけではない。以前は土地の値上がり神話があり、中心市街地に多くの不動産を所有するバス事業者はそれだけで企業価値が上昇した。しかし今やそうではない。長らく深い関係を築いてきた地元の金融機関も、規模ばかり大きく収益性の乏しい企業の面倒を見る余裕は既にない。それでも、一度出来上がった終身雇用、年功序列の仕組みを変えることが簡単なはずもなく、黙っていたら人件費が上がっていく構図から脱することもできない。バス事業者の「経営」を取り巻く環境もまた、厳しさを増しているのだ(もっとも、これらの病は日本の多くの産業に共通で、だからこそ国全体が停滞しているのだが。海外からの安い輸入品と戦わなくて済む分、バスはマシだと考えるほかない)。そんな中、25年前の構図に戻そうとする者の主張には、私は一切同意できない。外の変化に苦情を言うのではなく、内から変えていかないといけないのだ。そんなことを考えていたら、「ニュースター号」は豪快なエンジンブレーキとともに高速を降り札幌市内に入った。いつもとは違う事業者の高速バスから降り立つ札幌の街は、しかし、いつもと同じ清冽な風が吹いていた。ただ、この地のバス事業者や観光産業の関係者から聞く話は、東北と同様、厳しいものばかり。私自身、ホテルも帰りの飛行機も前回の出張の半額で手配できたのは、その厳しさの裏返しだ。一方、そんな中でお会いしたある人の言葉が忘れられない。<厳しい今こそ、本来あるべき姿を目指し、北海道の観光産業が方向転換するチャンス>。そうだ。私も、妥協せず、バス産業のあるべき姿を追求しよう。心の中であらためてそう誓った時、北の都の透明な風が、もう一度私を追い越して行った。
2011.05.01
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