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2012年05月31日
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病とか試練は大きいほど 得るものは大きく 自分、神仏、運、教えを 信じきることで托身すれば 恐怖は去って穏やかで安らかに成れる そこに柔軟な智恵が湧いて来る 何かが一本通るとき 思わぬ根源の力が湧き出して 無限のエネルギーが噴出して来る 能力の有無に関係なく 底力が出て来る 奇跡は起きるもので 信じきることが出来れば どんな試練も怖くない そこには不動の心が宿っている 生に執着すればするほど若く生命力が有るが、その維持を永く続けたいと思うほど死への恐怖感が強くはたらき出すのは誰にも有ることだろう。変わることを恐れこのままずっと続いていて欲しいと思うのが人情だが、成長と共に、世の中も変化していて同じところにずっと立っていられなくなって、たくさんの試練に出会うように成っている。最も恐れている病気に成ることも”病は気から”と言うが、自分が作り出してしまうことが多く、苦は大きいほど良いと言われ、そのために得ることも大きいと言う。余命を告げられても何かに心を集中しながら全く違う心になれれば、病根は消えてしまい医者を驚かせることも有る。自分、神仏、何かの教えを信じ切ることが出来て、正しく念じて祈りを湛えていれば細胞も正常なものに作り変えられてゆくからだろう。恐怖が去って穏やかで安らかな心境に成れば、そこに柔軟な智恵が湧き出して何かが一本通るとき、思わぬ根源の力が湧き出し、無限のエネルギーが噴出して来るのは魂からだと高橋先生は言っていて、能力の有無に関係なく、霊的なものが無くても潜在的に誰もが持っているものだと言う。それが人の底力で、信じ切ることが出来さえすればどんな試練が来ても恐れず不動の心に成れて、正しく安定した生の営みが始まるから、心が変われば細胞まで変わって来るのだろう。 2012年5月31日 琢
2012年05月31日
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2012年05月30日
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今回は誰もが経験する失敗をプラスに変えていくために、効果的な声の出し方について考えてみたいと思います。うまく行ったこともあれば、もちろん失敗をしたこともあるでしょう。できればしたくない経験ですが、失敗を通して成長することもたくさんあるはずです。 恐縮しても意思表示はしっかりしよう失敗に気付いた時、また誰かから指摘をされた時、まさに「背筋が凍る」思いをすることがあります。こんな時はとっさに声が出なくなったり、出ても声がかすれたり……。それは、体が極度の緊張状態にあるからなのです。緊張状態というのは、筋肉が硬くなり血流が滞った状態。声帯も筋肉の1つですから同様でとっさに声が出なくなってしまうことがあるのです。相手に謝罪する場面で声が出ない。たとえ声が出たとしても、「スイマセンデシタ」という感情のこもらない声になる。これは大きなマイナスポイントになります。上司や先輩は あなたからの「申し訳なかった」という気持ちが感じられないのですから。 とっさの時に声が出ない……これは多くの方が喉(声帯)だけに頼った発声をしているからです。声帯が緊張状態にあると、すぐに声が出なくなってしまいます。このような状態を解決するためには「胸で響かせる声(胸振発声法)」がとても有効です。胸振発声法とは声帯での音声を胸の骨に響かせ、その響きを筋肉で大きくする発声方法です。普段から、この胸振発声(※)を意識し身に付けることによって、とっさの時にでも安定感のある声で対処できるようになるのです。※「胸振発声法」とは、呼吸は腹式で行い、音声をおなかにではなく、胸に響かせる発声法のこと。音声を、胸の内側を囲んでいるあばら骨に伝わせるようなつもりで、あばら骨と周囲の筋肉に響かせる発声の仕方です。(参照元:AllAbout) 声でも相手を思いやることが大切響きで声に感情を「スイマセンデシタ」という平板な声がなぜ相手によい印象を与えないのでしょうか?これは、人間は相手の本当の気持ちを声の響きから感じ取るからなのです。響きのない声での「モウシワケゴザイマセンデシタ」では、相手は「この人は本当に申し訳ないと思っているのか?」とさらに不信感を強めてしまう可能性すらあります。響きのある声で「申し訳ございませんでした」と伝えて初めて、相手に謝罪の気持ちが伝わるのだということを覚えておきましょう。前述の「胸振発声法」を身に付けることによって、しっかりと響きある声で相手に伝えることができるようになります。 みなさんは誠意を見せようとするあまり、「申し訳ありませんでした!」と強く相手に声を当てていませんか? いくらこちらに“本当にすみません”という思いがあったとしても、聞いている方としては“申し訳ありませんでした、これでいいですよね!?”と主張されて いるように聞こえます。声の出し方には「当てる」と「越える(こえる)」があります。「当てる」出し方は情報を的確に相手に伝える時のテクニックです。ここに感情を込めると、相手はまるで、強く自己主張をされているように感じて、不快感や不信感を抱いてしまいます。こちらの謝罪の気持ちを届けるためには、「申し訳ありません」の語尾の「……ん」を飲み込むように発音することです。声を相手にすべてぶつけるのではなく、最後を自分の内側に閉じ込めるようにすると“悪いのは自分です”と相手に感じてもらえるのです。そして飲み込む語尾には、きちんと誠意を込めることもわすれないようにしてください。 しっかりと謝罪や反省の気持ちを伝えた後は、同じ過ちを繰り返さないために今後どのように改善していくのかや、これからの業務に対する意欲をしっかりとアピールすることが重要です。ここでは話の内容によって「当てる」と「越える」という声の出し方を使ってみましょう。「当てる」が情報を伝えるのに適した声の出し方だったのに対して、「越える」は「感情」や「イメージ」など自分の気持ちを伝えるのに適しています。声の「ボール」を、放物線を描くように、相手の後ろに落とす感覚で放出します。「当てる」時は真っ直ぐ相手の胸に向かって当てることです。確実に届けるのが「当てる」の役割です。直球を投げるイメージを持ちましょう。例えば「これからは××するようにします。頑張ります。」という文があったとします。この場合は 「これから××するようにします」→当てる(情報) 「頑張ります」→越える(感情)というように、正確に伝えたい内容は「当てる」、自分のやる気などの感情は「越える」を使うのです。普段から声の出し方を意識しておくと、いざという時に役立ちますね。・胸振発声でいざという時にも「安定感」と「感情」のある声を・謝罪は飲み込むような発音で・意欲を伝えるために「当てる」と「越える」を使い分けよう 今朝の記事より
2012年05月30日
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結局は夢と希望の願いが無ければ 明るく成れず 目標が高すぎれば挫折感 逆境には不平不満 人間関係の捩れには他を非難して 病気に成れば絶望感 楽しい材料を見過ごしにして 感謝どころか怨み憎しみに怒り 幸福感をどこにも見つけられず 耐えもせず諦めてしまう その繰り返しを続けながら 口を付く言葉は批判正論ばかりで 自分が出来ていないものを人に突きつけて 笑顔一つつくれないのだろう 振り返ってみれば悪いことが多く、”なんでやねん”ばかりが出てくるのが人の歩みなのかと思えば、”苦”ばかりを摘んできたようだが、恩恵を書き出してみれば結構有るもので、土壇場で救われて神さんはいるのかも知れないと思うことも幾つか有ったように思う。何が自分を支えてきたかを思えば殆んどか架空のもので、先の夢や希望のにんじんを追いかけて走る馬みたいな自分だったのだろう。元来明るい方で救われてきたのかも知れないがその願いや目標が無ければ生きて来れなかったかも知れない。成就したものは殆んど記憶に無いが、実現しなくても生きてゆけるのが夢や希望と言う願いなのかも知れない。目標が高すぎれば挫折感、逆境には不平不満、人間関係の捩れには他を非難して、病気に成れば絶望感で運の悪さを怨み、楽しい材料を見つけられずに感謝どころか怨み憎しみに怒りをぶつけて、耐えもせず直ぐに諦めて、原因と結果の法則も考えず、そんな繰り返しをしてきたのだろう。口をつく言葉は批判正論ばかりで、自分が出来ていないものを人に突きつけて、笑顔一つつくれない歩みをしてきたようだが、薬師寺の唯識の教えと高橋先生の魂の学による心の分類とシステム化した取り組みによって、”今を生きる”と言うことに辿りつけたのだろう。 2012年5月30日 琢
2012年05月30日
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2012年05月29日
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風にゆれる木の葉 色とりどりの草木の目覚め のどかな陽の光 どの朝もさわやかで 新鮮な空気は風と共に 通り過ぎた万感の思いを 新たな決意を湧き立たせ 川面のきらめきを見ながら 晴れわたる青い空の下で 小鳥の歌を聴きながら 四季の流れを感じさせる 辿る年月を思い出させ 今ここに在る自分を観ている そのときはいつどこでも良いと思えて来る あれだけ死を恐れ、自分を追い詰めて鬱に成ったころを思えば、大病を抜けようとしている今が不思議な感じがする。そのとらわれはどこにいったのかとさえ思う。子が巣立ち孫をいとしく思うようになれば誰でもそうなれるのかも知れないが、病気や死を恐れて検査結果を聞きに行くそぞろな心は、もう役を果たしたと思う心の方が大きく成って来ている。次第に自然の美しさを感じるようになって、そのありがたさを思えるようにも成って来ている自分が居る。ハードに動けば以前より動悸は激しいいが急がなく成って来ている。観察は以前より細やかになって,知識と体験から来る割り切りのようなものが出て来たようにも思う。死がいつくるのか、その場所はどこかと気にしていた自分は今は無く、今自分が立っているところの迷いが消え始めてみれば、そんなことはどうでも良くなって、どう生きれたかを思い出して、そのときを気にしなくなっている。再び”人事を尽くして天命を待つ”、『浩然の気』を求めている。 2012年5月29日 琢
2012年05月29日
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2012年05月28日
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緊張感を少しもつことで 心に張りが出て 頭のめぐりも良くなる 表情も引き締まって 隙が無くなり すっきりと観えて来る 刺激が無ければ 惰性のまま成り行きに従って それを運命と思うが変えたいとも思う 刺激は試練の中にいくらでも有って 今後の課題と思えば積極的に成り 緊張感は危機感と共に 人に妥当な歩みをさせている 前向きに成れば楽しみが多くなって 夢や希望の概要が観えて来る 何でも油断しているときや考えもせず惰性で流されているときに突如として自分を脅かす問題が起きて逃げようとすれば追いかけられ、前向きに正面で受け止めるまでは恐怖感に襲われる。良く考えてみればその仕組みが観えて来る場合が多いのに、その原因を見つけようとせずただ恐れるだけで神経が参ってしまうことが多いのだろう。緊張感を少し持つことで心に張りが出て来て頭のめぐりが良くなるもので、表情も引き締まって隙が無くなって物事がすっきりと見えて来る。人は刺激が無ければ惰性のまま流されて成り行き主義に成ってそれを運命だと思おうとするが、このままでは良くないとも思うことが多い。刺激は試練の中にいくらでも有るがそれを避けようとせず、今後の”課題”だと思えば積極性も出て、緊張感は危機感と共に人に妥当な歩みをさせてくれるものだろう。前向きに成れば楽しみが多くなって、夢や希望の概要が観えて来るだろう。 2012年5月28日 琢
2012年05月28日
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2012年05月27日
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2012年05月27日
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想像力と危機感と不安 「心配のし過ぎはよくないこと」と誰でも思いますよね。でも、不安が知能指数と共に進化してきたのだとしたらどうでしょうか?アメリカの健康専門ニュースサイト『My Health News Daily』から、最新の研究についてお伝えいたします。理由の定まらない不安が長期間続き、ついには日常生活にも支障をきたすようになる、全般性不安障害(GAD)と診断された人の中で、不安の度合いの高い人ほど、IQ(知能指数)が高いという研究結果が報告されています。加えて、不安障害の患者は、健康な人よりもIQが高い傾向があり、脳のコミュニケーションをつかさどる部分が、健康な人より活性化しているという研究があります。この研究は、26名の不安障害の患者と18名の健康な人に、IQテストと不安の度合を評価するアンケートの双方を行ったものです。結果は、不安障害の患者の間では不安度が高いほど、IQテスト結果が高いというものでした。また興味深いのは、健康な人の間では結果が逆で、IQテスト結果が高い人ほど不安度が低く、IQテスト結果が低いほど不安度が高いというものでした。「自分はどっちなんだろう」と少々気になってしまいますね……。この研究の研究リーダーで、ニューヨーク州立大学医学部精神科教授のジェレミー・コプラン氏によると、不安は人間の進化に貢献しているそうで、「不安であることを、現代の私達は健全な状態だとは思っていませんが、不安は知性とリンクしているのです。不安は人類が高度に適応した結果、生じた特質だと言えます。過度の不安は、生活に支障をきたしますし、また患者の不安は筋の通らないものが多いです。しかし、世の中には思いも寄らない危険が起こります。ですから、過度の不安があるというのは、実にこの世界に適応していると言えるのです。不安を危険のサインだと考えて行動する人は、自分や子孫の命を守れるケースが多いのです」とコメントしています。不安が多いことは、個人としては辛く厳しいことですが、人類全体で考えると、不安のもたらす利益は大きいということになりますね。また、コプラン教授は次のようにもコメントしています。「心配しなさすぎるということは、個人にとっても社会にとっても問題となります。危機がすぐ近くに差し迫っていても、気がつかない人も存在しますね。こういう人が一国のリーダーだと、リスクを気づかう必要はないという風潮を起こすことになります。リスク意識の欠損が、社会的な問題を引き起こすことがあるのです」確かに。不安を感じやすいことを、備えをする行動につなげたら、不安は個人と社会を守る適応だと言えますね。いかがでしたか?やや規模の小さな研究結果ですので、今後の研究が待たれますが、不安になることが多い人は、不安を感じないように努力するより、「進化の結果だから、不安があるのはしょうがない」と思ってみるのも一手かもしれません。 今朝のニュースより 2012年5月27日
2012年05月27日
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ミミズクは猛禽類だが 相手を見て大きく見せたり小さく見せたり 生き残る智恵は 生き物の保護色と同じで 人にも本能的なはたらきが有る 戦う前に察知できるもので 身を守るすべは 人によって傾向が違う 観る眼を育むのが人の歩みで 敗北を重ねて確固たる自分をつくる その上で何をするかは その人の使命で、その過程で観えて来る 生老病死は自然の摂理で どう生きるかは自己満足の世界だろう 納得して悔いを残さず 出来れば人のための光で有ればと 自然の中の生き物の智恵は驚くべきものが有る。弱肉強食の中では自分を守るためにその場その場に合わせて保護色と言って色を変えたりして自分を守っている。ミミズクは猛禽類だが自分より強そうなものが来れば体を小さくして見せるが対等以下のものが来れば威嚇して自分を大きく見せようとする。本能的に身についている知恵だと思うが、人の歩みにもそのよう先天的ななものが有って、戦う前に察知できて、その対応策は人によって違う。生きるための智恵を育むのが人の歩みで、敗北を重ねるうちに観る眼が持てるようになって、その上で何をするかは以って生まれた使命が有るのだろう。それは何度かの救いの中で観えて来るもので、自然の摂理の生老病死の中で、自分の生まれて来た使命として納得できる道を探す歩みが人生なのだろう。どう生きるかはある意味で自己満足の世界で、納得して悔いを残さず、出来れば人のためのお役に立てる光のようなものに成って貢献できれば嬉しいと思えるのだろう。 2012年5月27日 琢
2012年05月27日
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2012年05月26日
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どんなものものも一方向から見るだけで 全体の想像が付くが 前後左右上下の六方を見なければ 全体像は判らない 対象物が意志で動く場合 心の中を観なければ推測も出来ず 思い込みで失敗することが多い 見えない部分が『空』で、見える部分を『色』と言うが 瞬時に動く感情は見えず 確定ではない その読み違いが人を悩ませる 其処がカオスの部分で 逆から観ても同じことだろう 対峙とはそういうもので 空気を読まなければ観えて来ないだろう 永い歩みの中ではたくさんの失敗やその原因探しに苦労してきたものだが、周りの動きの推測が出来ず、人から観た自分がどういう姿なのかも自分には見えないことから来る迷いが多かったと思う。どんなものも一方向から見るだけで全体の想像が付くが確定ではなく、前後左右上下を観察しなければ全体像は見えて来ない。対象物が意志で動く場合【有情】は心の中『空』を観なければ推測も出来ず、思い込みで失敗することが多い。仏教では見えない部分が『空』、見える部分を『色』と言っているが、瞬時に動く感情『空』が見えず確定できないから、その読み違いが人を悩ませることに成る。コミュニケーションである程度は判るものの、そのどちらに転ぶか判らない部分『カオス』【混沌とした状態、不確定な状態、どちらに属するか判らない部分】は逆から見ても同じことが言える。対峙とはそういうものでその場の空気を読まなければ見えてこない部分が大きく立ちはだかったように見えて来るもので、それに恐れを抱くことが多いのだろう。”色即是空”、”空即是色”と言うが、『空』【六無為の定義では、虚空滅無為、不動滅無為、釈滅無為、非釈滅無為、想受滅無為、真如滅無為と言われているが、”とらわれ”れば邪道と言われている】をどう観るかで道が分かれてしまう。 かたよらず こだわらず とらわれず ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空のこころなり 2012年5月26日 琢
2012年05月26日
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2012年05月25日
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自分が嫌に成ったこと みすぼらしく感じたこと 架空の光明でも有れば生きられること 何かの救いが入っていること 我慢すること、諦めないこと 夢や希望が人を支えていること 目的意識は周りによって観えて来ること 自分の使命らしきものが解かって来ること そのすべてのヒントが経験の中に有る 予め意識して準備することは難しい 何かの縁で融和融合すれば力に成る その恩恵で花が咲く 暫定的失念も希望に変わるときが来る 忍辱の積み重ねが いつか願いを成就させるときが来る 過去を思えば誰にも歩みに中に何度も自分が嫌になったことやみすぼらしく感じたことが有るだろう。何かにぶち当たって挫折しそうになったこと、理解が得られず誤解されたり蔑まれたりで後ろ指を差されたりしたことは何度も有ったかも知れない。確たる信念もぐらつきそうに成るときには架空の光明でも有れば生きる望みが出てくるもので、そんなときにこそ何かの救いが入っていたと思うことも有っただろう。我慢すること、諦めないことで、夢や希望が人を支えていることに気が付けば目的意識が周りによって観えて来ることや、自分の使命らしきものが解かって来るだろう。そのすべてのヒントが経験の中に有って、それを意識して準備することは難しいが、何かの縁で融和融合すれば力に成るだろう。恩恵に目覚めれば、暫定的失念も希望に変わるときが来るもので、辱を忍んで諦めなければいつか願いを成就させるときが来るだろう。転依・てんねして待つことも大切で、何かの仕組みが入れば時として人の心も変わるときが有るかもしれない。 2012年5月25日 琢
2012年05月25日
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2012年05月24日
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危機感が無くなれば 想像力は乏しく 事件を未然に防げなくなる 取り越し苦労が殆んどだが 試練を超えるほど強く成れる 国防は有事に備えることだが あらゆる想定を網羅して 過去のデータに学んでいる 想定のもとで訓練準備して 極力不測の事態に備えるのも 推測と想定が想像力からで 忘れてた、思ってもいなかったでは済まされない 先の不安を少なくするためには 国、一族や個人にも必要なことだろう 人権、自由平等、飽食に慣れて福祉国家が当たり前のようになって来ると、人の心は贅沢に成ってくるもので、不平不満が以前より多くなって来る。反面、危機感が薄れ始めて無防備な生活が多くなって、ちょっとした不測の出来事に必要以上に敏感に成るが、想像力は乏しくなって、事件を未然に防げなくなる。想像や想定の殆んどが取り越し苦労だが、それが無ければ実際に起きたときの対応も対策も出来ず、ただ恐れおののくばかりで正常な判断も出来ず、かえって自殺行為をしてしまうことが多い。試練は必ず有るものだが超えるほど人は強くなってゆくもので、国防は有事に備えているがあらゆる想定を網羅して過去のデータから学んでいる。想定が有れば訓練や準備も出来て極力不測の事態に備えられる。推測と想定は想像力からで、忘れていたとか思ってもいなかったでは済まされないことに対しての心構えをさせてくれる。先の不安を少なくするためには、国、一族や個人にも不測の事態への備えが必要だろう。 2012年5月24日 琢
2012年05月24日
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2012年05月23日
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中道を保つには勇気が必要で 情に流されたり信念が無ければ 勝った負けたや損得に終始してしまう 肩を落とし”何とくだらない”と思うとき 自分の運命を恨めしくさえ思う 人は自分から落ちて行くもので 他のせいにしてもそれを選んだのは自分で 落ちるときは”藁をもつかまず” 一人で落ちる方が他に迷惑をかけない 意志の無いものを道ずれにするのは酷なことで ビジョンがなければ挑戦のしようが無く 落ちたところを良く観て這い上がること チャージすることで明日の力を蓄えて 使命感が持てれば元気が出て来る 生存競争の中に入れば二見の勝敗や損得にとらわれて心眼を失っている場合が多く、偏らない、こだわらない中道を保つには勇気を持つ必要が有るだろう。情に流されたり、信念の向け先が観えないときに二見に埋没してエネルギーの奪い合いをしてしまうと高橋先生は言う。敗北には肩を落として”何とくだらない”と自分の運命を恨めしく思ってしまう。人は自ら落ちてゆくもので、他のせいにしてもそれを選んだのは自分で、落ちるときは一人の方が他に迷惑をかけず、その気が無いものを道ずれにするのは酷なことで、自分だけの試練と思う方が良いだろう。信念とビジョンが無ければ挑戦のしようも無く、落ちたところを良く見て這い上がることで人間の幅が広くなる。何度もそんな惨めな体験をすることで、いつかその試練を越えた知恵は生きて来るもので、その蓄積が明日の力に成るのだろう。其処に確たる使命感が持てればもっと元気が出て来るのだろう。 2012年5月23日 琢
2012年05月23日
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2012年05月22日
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浮気は永遠の止まない事件だが 男女のことで必ず相手がいる 最近様相が変わって来ていて 女に力と経済力が付いて 反面男に元気が無く 染色体のYが消えかけていると言う 先々人類の滅亡も予測できるが 離婚が増える傾向は 雑種的傾向が出てきていることで 共に理性を強くして 種族保存の貞操観を高めなければ この問題に歯止めがかからないだろう 責任転嫁の応酬は醜いもので 四苦八苦の原因をむしろ増やしている 何でも自由平等は通らない この自然界に有るものすべてに無駄は無く意味が有ると言われている。一つ一つには相応の役割があって自然は保たれている。古来からの男女にも共に果たすべき役割が有ったが、命の尊厳と人権が言われるようになって、自由平等の時代に成り、文明は飛躍的に進歩したが反面、時代の三毒【唯物主義、刹那主義、利己主義】に侵され、アメリカ主導の使い捨て経済、合理主義によって国境線の無い島国の日本の特異性が失われて来たように思う。もともと人が良く親切でやさしくて品格をもった民族のはずが純血が薄れて雑種的に成って来て、快楽と安易を求めて唯物的、刹那的、利己的な生き方をし始めて、今までには無かった信じられない事件が多発するように成って来ている。人類滅亡の危機感があちこちに広がるこの地球上で、秩序を保つために作った法律の悪用が目立ち何を信じればよいか判らなくなった時代だからこそ、種族保存のための貞操観を高めなければ、責任転嫁や揚げ足取りの争いから人間性まで失ってしまうかも知れない。ただでさえ苦しみが多く他を信じられないこの世に四苦八苦の原因を増やしている現状打破には、多少の不自由さも受け止めなければならないときが来ているのかも知れない。何でも自由平等は通らないだろう。 2012年5月22日 琢
2012年05月22日
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2012年05月21日
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”垢を落とす”は 身の汚れを洗い流した状態 ピカピカに透き通った状態 ”垢抜けする”とは 心の中の邪気を祓って一皮剥けた状態 何の作意も無くさりげない状態 これ見よがしではなく品位の有る状態 下心を持たず他のために成っている その恩着せをしない そっとしていてさわやかさを感じる 垢は元来身の汚れで歪や癖でカルマのようなもの その浄化のために人は生まれて来る 他に疎まれ嫌われるもので 迷惑や摩擦の元に成るもの 心身ともに”垢抜け”したいと思う 人の体の細胞は60兆有って常に分裂しながらつくり変わっていて新しいものに成っている。古い皮膚を垢と言っているが汚れも付いていて、”垢を落とす”とは身の汚れを洗い流した状態を言うが、心の状態にたとえる場合が多くピカピカに成って透き通った状態のことだろう。”垢抜けする”とは心の中の邪気を祓って一皮剥けた状態で、何の作意も無くさりげない状態、これ見よがしではなく品位のある状態のことだろう。下心を持たず他のためになっていて恩着せもしない、そっとしていてさわやかさを感じさせるものだろう。垢は元来身の汚れで、心で言えば歪や癖の表層にこびりついたもので何度も繰り返して過ちを起こさせる業・カルマのことを言っている。その浄化のために人は生まれてくるが、魂の中に有る意識の蔵には入っていてその課題がインプットされているにもかかわらず浄化できずに返ってゆくもので六道輪廻と言われている。他に疎まれ嫌われるもので迷惑や摩擦の元に成っているものなのに判っていてもどうにも出来ないものを滅して、“殻を破った”ように心身ともに”垢抜け”したいと思う。 2012年5月21日 琢
2012年05月21日
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2012年05月20日
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もちろん、なんだかんだあったけど良い人生だったと前向きにお迎えを待ちたいところですが、現実にはそううまくいかない模様。長年オーストラリアで終末期ケアに携わってきた看護師のBronnie Wareさんによれば、死を覚悟した患者さんのほとんどが悔恨や反省の言葉を残すそうです。彼女は、患者さんたちが死の間際に語る言葉を聴きとり、一冊の本『The Top Five Regrets of the Dying』にまとめました。死を間近にした人たちはいったいどんな言葉を口にするのか? トップ5を見てみると──◎ I wish I hadn’t worked so hard.──「あんなに一所懸命働かなくてもよかった」◎ I wish I’d had the courage to live a life true to myself, not the life others expected of me.──「自分自身に忠実に生きればよかった」◎ I wish I’d had the courage to express my feelings.──「もっと素直に気持ちを表す勇気を持てばよかった」◎ I wish I had stayed in touch with my friends.──「友人といい関係を続けていられればよかった」◎ I wish that I had let myself be happier.──「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」いかがでしょう? ピンとくるものはありますか? 「最後の晩餐に何食べる?」といった居酒屋トークとはちょっと重みが違いますね。自分の最期を想像し、そのときになって初めて振り返るであろう後悔のポイントを今から予想するのは容易ではないでしょう。まだ若い20~30代の方ならなおさらです。ですが、「あんなに一所懸命働かなくてもよかった」とか「友人といい関係を続けていられればよかった」と後悔する人が多いという指摘は、若い人が今後の人生を考える上で、とても示唆に富んでいるのではないでしょうか。ここで挙げられている後悔のポイントは、いわば多くの人にとって「過ごしてしまいがちな人生」ということ。裏返してみれば、「そんなに一生懸命働かなくても、いい人生は送れる」、「友達といい関係を続けていれば、より良い人生を築ける」ということかもしれません。少し話は飛びますが、江戸時代に武士のあり方を説いた指南書として有名な『葉隠』に、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という有名な一節があります。この言葉を、死を美徳とする考えだと解釈している人も多いようですが、訳者である新渡戸稲造は「いつでも死ねるという勇気こそ、正義の中で生きることを保証する」と説明しています。若い方に「常に自分の死を意識して人生を過ごすべし」と言っても無理があるとは思いますが、道に迷ったときは「もしも明日、人生が終わるとしたら」と考えてみるのも悪くはないかもしれません。自分の人生において、何を大切にしたいのか、ヒントがみつかるかもしれませんよ。2012年5月20日ヤフージャパンの記事より 2012年5月20日 琢
2012年05月20日
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自己満足の世界 人の価値観は違うものだが 基盤・生い立ちによるものだろう 骨董品や絵画に値がつくように 機能を超えた何かを感じるとき 自己満足を感じている その違いが人の生き方に現われる 全く違う立場で見れば 何の値打ちも無いものでも その人にとっては命をかけられる それが世の中で 人それぞれの人生は 自己満足の世界と言って良いだろう 地獄も天国も感じ方次第で エンジョイできるか如何だろう これからの生きる道は人それぞれの価値観が問題で、”どれだけ生きたか”より”どう生きたか”が重要で、一代でどれだけ稼いでも税法上ではそのほとんどを三代で国に返すことに成っていて、あの世には持って行けず、むしろ親族の醜い相続争いが残るだけだろう。人生50年から今や80年以上の長寿国に成っていることで、享年だけで”天寿全う”、”大往生”と言っている。価値観は唯物的になって骨董品や絵画に値がつくように、機能を超えた何かを感じるとき自己満足を感じている。その違いがその人の生き様に現れ、何の値打ちも無いものでもその人にとっては命をかけられる。ある意味で自己満足の世界といって良く、地獄も天国もその感じ方次第で、悔いを残さないためには、エンジョイ出来たかどうかにかかっているが、それもこれも必然のものだと言う。この世では過去のデータは見れるが未来が見えないもの、天上界ではこれから何をするかが観えていると言う。 人の世は 必然の道 天の道 歩むべき道 辿るべくして 2012年5月20日 琢
2012年05月20日
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2012年05月19日
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学ぶには願いがあるからで 願えばその障碍が現われる それが試練で”呼びかけ”と言うが それを恐れて願わなければ 成就のときは無い 学びにかかる時間と費用は 一見無駄のようだが 学ばないものとの差は時の流れに表れて 気が付けばはるかなものに成っている それに対価を求めれば 真の愛は色あせてしまう 大災害に向かうボランテイアが 代償を求めれば復興は遠いだろう 人は与えっぱなしの愛に 生き甲斐を感じている どんな人にも誰かの役に立ちたい、喜ばせたいという心が有るもので、親、家族、友達、身の回りの人々に喜ぶ姿を求めて自分に何が出来るかと問いかけている。他が自分のお蔭で歓喜している姿を想像してはその方向に努力を重ね、それが出来れば貢献できたと自分も喜び癒されてゆくのが人の心だろう。人に感動を与えるような自分に成りたいと学んでいるのだろう。痛みには歓びを、混乱には調和を、停滞には活性を、破壊には創造を、それが出来るように成りたいと思っている。自分の中にそんな力が有って欲しいと思うもので、そうしようと願えば必ず試練、その障碍が現われると高橋先生は言う。その試練は、それを超えようとするための修正や改善点の自分に対する目覚めの”呼びかけ”だと言う。それを恐れて願わなければどんなことも成就のときは無く、学びにかかる時間と費用は一見無駄のように見えても、学ばないものとの差は時の流れと共にはるかな差に成って行くのだろう。それに対価を求めれば真の愛は色あせてしまい、大災害に向かうボランテイアも代償を要求すれば復興は遠いものに成ってしまう。人は与えっぱなしの愛に生き甲斐を感じるものなのだろう。 2012年5月19日 琢
2012年05月19日
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2012年05月18日
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学んでいなくても 一所懸命に成れば 思わぬ善をするもので 人の魂にはそれだけのものが入っている 学びは迷ったときに生きるもので 無意識に他のためにすることは 学ぶものにはその意味が観えている 意義の有ることは人に勇気を与え 相乗効果も現われる 学んでいるから代償・果報が得られるのではなく 軽挙妄動が無くなるだけのようだが それだけでも世の中は改善される 学ばない人にはそれが解からない 境地を高めるのは改善のためで 代償・果報を求めるためではない 人には生まれる以前から自然と共生するための良心が具わっているもので、学んだり教えられたりしなくても一所懸命に人の歓ぶことをしたいと思うもので、人の魂にはそれだけのものが入っている。意識には生まれてから入ってくるものとそれ以前【前世と言われるもの】から既に潜在的にもって来たものが有るのだろう。学びは迷ったときに生きてくるもので、無意識に他のためにすることは、学ぶものにはその意味が観えていて、意義の有ることは人に勇気を与え、相乗効果も現われる。学んでいるから代償や果報が与えられるのではなく、軽挙妄動が無くなるだけのようだが、それだけでも世の中は改善されているのかも知れない。学ばない人にはそのことが解からず、カルマを丸出しにして何度も同じ過ちを犯してしまうのだろう。逆に学んだからといって簡単には何度も繰り返してきた業・カルマが消えて無くなるものではなく、境地を高めるのはその浄化のためで、代償や果報を求めるためのものではないだろう。煩悩は最低限生きるために与えられたもので、それ以上のものを抑えるために有るのが理性だが、自分の都合を押し通させてしまい、他に困惑を与えてしまうのが業・カルマなのだろう。以前から持ってきたものと生い立ちの中で出てしまうものを、何度転生しても消せなかったものを浄化することの難しさをいつも思う。憑依霊のようなもので除霊しても直ぐに元に戻ってしまうものを取り去るには、自分に相当の決意と挑戦・実践が無ければ”元の木阿弥”に成るだけだろう。 2012年5月18日 琢
2012年05月18日
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2012年05月17日
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人の観方は 言葉や態度で上からか下からかが判り 同等でも右か左でスタンスが判る 責任は前かうしろかで判り 信用は前でしか判断できない 背中に目が付いている人には隙が無く 心の中を見抜ける人は 六方を良く観ている 太い道の信号を待つ渋滞で うしろの車の心境まで考える人は 速やかに渡るだろう 違反や事件を少なくさせ 誘発を防ぐことに思いやりと気を配る 自己中には解からないだろう 相手の立場に立てば摩擦は少なくなる 良く人の心を読む人はいるもので、善意が根底に有って細部にわたって分析が出来る人にそれが出来るのだろう。自分が訳が判らずにパニックに成っていればその原因を直ぐに見通し、その対処法まで言ってくれる人は親友とか思慮深い家族だろう。人の観方は言葉や態度を見れば上から見ているか下から見ているかが判り、同等でも右か左でスタンスが判る。責任を取る人かどうかは目や表情を観れば判るし、うしろにも気を配れば聞こえて来るのかも知れない。信用は前でしか判断できないと思うが、背中にも目が付いている人には隙が無く、心の中を見抜ける人は六方を良く観ているからかも知れない。運転すれば、太い道の信号を待つ渋滞で、うしろの車の運転者の心の動きまで考える人は、なるべくたくさん渡れるように速やかに渡るだろう。そうすれば違反や事件を少なくさせ、誘発を防ぐことにも成って、そういう思いやりや気配りも出来る人だろう。自己中の人には理解できないかも知れないが、相手の立場に立ってものを考えていれば摩擦は少なくなる。 2012年5月17日 琢
2012年05月17日
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2012年05月16日
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人は行きたいところに行こうとする 到達できるかの葛藤は有るが その地にたてば先のことを考え 立ったときに当たり前になり それを基点に陣地を広げようとする その恩恵に感謝することなく 先の不安を抱えて足るを知らず 試練や障碍を不運だと思う その転生を六道輪廻だと言う 心の満足と感謝が無いからだろう 唯物的な進化は有るが 留まるところを知らず いつも不満を抱えている 止まるときが涅槃で やっと解放されるのだろう 人には”蝋を得て蜀を望む”ところが有って、欲に切が無いもので、得るときには自分の力と努力だけで勝ち取ったと思ってしまう。社会の中でそれが出来るには気が付かない恩恵がたくさん有るものだが、周りの助けや支援が有ったことを忘れてしまい、行きたいところに行こうとするもので、到達できるかの葛藤は有るが、その地に立てばそれが当たり前になってその先のことを考え、その地に前からいる人も見ずに自分だけの陣地を広がようとするもので、感謝もせず先の不安をいつも抱えて足るを知らず、試練や障碍が有れば不運だと思ってしまう。そういうことを繰り返している転生を六道輪廻【地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の界を繰り返す生死】と言って、心に不満を抱えて荒んだ人生を送ることに成ってしまう。欲は留まるところを知らず、そうなれない不満をいつも抱えて摩擦を起こすものだが、涅槃のときにやっと其処から開放されるのだろう。執着さえなければ歪んだ顔も安堵の顔に成っている場合が多い。お釈迦さんは、煩悩は有っても良いが執着は持たないように、と言っている。求道すればまだまだ先が有って十界には、声聞、縁覚、菩薩、如来への道がある。魂の願いはその道を歩む過程で得るものだろう。 2012年5月16日 琢
2012年05月16日
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罰は自分が受けるもの 法律や他が与えるときは ルールを破ったときで 神は罰を与えないと言う ”天に唾を吐けば自分に返って来る” 自分には嘘を付けず文句も言えない 言い訳や責任転嫁を平気でやる人も 自分がされれば許せないと怒る それでもやってしまうのが人間の業で 相当理性が強くなければ止められない ”自分が良い子に成れば隣が悪くなる” 被害者に成ってみなければ解からない 相手の立場で考えるように成れば 自分の罰は少なく成るだろう 社会の中に身を置いていれば意見の違い、見解の相違、立場の違い、役割分担の認識不足、いろいろ揉め事の材料はたくさん起きてしまう。忍耐と妥協で和してゆくしかないが、生い立ちや基盤の違いで止むにやまれぬ正しさの相違が摩擦を生んでしまう。常識は誰にも当てはまるものだが状況と思い込みの違いが争いごとを大きくしてしまう。罰は自分が受けるものだが、法律や他が与えるときは取り決めを破ったときで、神は罰を与えないと言う。”天に唾を吐けば自分に返って来る”道理で、自分には嘘を付けず言い訳も文句も言えない。言い訳や責任転嫁で自己正当化を平気でやる人も、自分がされれば許せないと怒るだろう。それを敢えてやってしまうのが人間の業で、相当理性が強くなければ止められないだろう。”自分が良い子に成れば隣が悪い子に成ってしまう”ことまで考えず、相手の立場で考えてみれば判ることも自分が被害者に成って見なければ理解さえ出来ないのだろう。『忘己利他』・もうこりたを心掛ければ摩擦が少なくなって自分の罰は少なく成るだろう。 2012年5月15日 琢
2012年05月15日
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2012年05月14日
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禅定は 心を沈静化させ 腹式呼吸で不動の心にする 無念無想の”空”の状態に成れば ”六根清浄”で心を研ぎ澄まし 修行を積めば魂だけが身体から抜け出せる そうなると間脳が開くと言うが 常人には不可能だろう 雑踏から抜けた状態は 清々しく爽やかで 日常を客観的に観るのも必要だろう 精神統一は訓練するほど 他との一体感に気が付くだろう 宇宙大自然と一体化する”浩然の気” この心境に成りたいと思う 自由で平等ということにとらわれれば、制約や義務感の”ねばならない”、”こうあるべし”のごく常識的なことにも抵抗を感じ始める。人間のもつ、かたより、こだわり、とらわれを正すときによくお寺さんに行って座禅を組む人もいる。一人でも出来るが其処に行ってその雰囲気の中で禅定することの方が”空”に成りやすいのかも知れない。身体の中のものをすべて吐き出すように息を吐いて吸うを繰り返し、無意識にそれが出来れば腹式呼吸に成っていて、心の重心をへそ下三寸の丹田に下ろせば大概のことに動じなくなる。心は沈静化して無念夢想の”空”の状態を求めれば自己主張は無くなり、置物のような自然な自分に成れ、風の流れを感じ、小鳥のかすかな声まで聞こえるようになる。”六根清浄”に成れば、雑踏から抜け出たように清々しく爽やかな心境に成れると言う。修行を積めば魂だけが身体から抜け出せるというが、間脳が開いた状態には常人には不可能だろう。日常を客観的に見るのも必要なことで、精神統一を繰り返せば一人でやっていても、他との一体感に気が付くのだろう。宇宙大自然と一体化する”浩然の気”の心境を目指したいといつも思う。 2012年5月14日 琢
2012年05月14日
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2012年05月13日
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連鎖は止まらない状態で 笑いや恐怖感や発想の転換も 明るくも暗くも成る状態が連続して起きる どちらに成るかは自分の心の状態で ウイットとチョイスも連鎖的に出て来る 運をつかむも逃すも自分次第で 能動的に成らなければ 受動的で待っていてはつかめない 止められない感情を止めるのは理性と言うが 理に叶った方に進むのも自分次第 嫌な方に進まず 気の向く方を掘り下げること 連鎖を上手く使えば 楽しみは倍増する 外目を気にしないことだろう 嫌なことも良いことも一度有れば続くもので、そのままに対応していればその方向に進むことに成る。それが運命や仕組みと捉えるときも有るが自分が選択している訳で、何故かそういうことが重なって起きる場合がある。そのスポットに入れば笑い出したら止められず、怒り出したら何にでも腹が立ち、怖いと思えばどんなことにも恐怖感が止まらなくなるのも連鎖だろう。明るくも暗くも成る状態が続く場合が多い。それは自分の選択でウイットやチョイスもそんなときに湧き出すものだろう。運をつかむも逃すも自分次第ということで、能動的に成らなければ、受動的では待っていてもいつまで経ってもつかめないだろう。止められない感情を止めるのは理性と言うが、理に叶った方に進むのも自分次第で、嫌な方に進まず、流されず、気の向くほうを掘り下げること。連鎖を上手く使えば自分を乗せることも出来て楽しみも倍増するが、外目を気にするあまりチャンスへの反応が遅れるとつかみ損ねることも有って、タイミングが悪いのは以って生まれたものかも知れない。 2012年5月13日 琢
2012年05月13日
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2012年05月12日
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人生勉強に”今更”は無く ”明日死ぬものの如く今日を学び” ”死んでも先が有る”と思う方が 楽しみは多く悔いは少ない 何がどう生きて来るか解からず いつかは判らない”機を得る”ときのために 今を決然と生きていること 忍耐強く諦めず捨てないこと 身体まで活性化し代謝も良くなるように 若さを保つことは そういう好奇心を失わないことで 今求められているものは 既成概念の外に有るもので 内から湧き出すものだろう 大人に成りすぎて夢や希望やロマンを持てなくなると、自分にはかけ離れていて当然無理だと何事も諦めて放棄して、無難に過ごそうとするものだが、人生勉強に”今更”は無く、”明日死ぬものの如く今日を学び”、”死んでも先が有る”と思う方が収穫は多く楽しみも多く、悔いは少ないだろう。何がどう生きてくるかはそのときに成ってみなければ判らないが、いつかは判らない”機を得る”ときのために、今を決然と生きている方が、忍耐強く、諦めず、放棄もせず何かに熱中することで若さを保つこと、そういう好奇心を失わないことで、いつか実を結ぶときのことを思う心掛けも必要だろう。今求められているのは既成概念の外に有るもののようで、柔軟な心で明るい方に向かって進むことから活路が観えて来るようなものを内から湧き出させることだろう。 2012年5月12日 琢
2012年05月12日
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2012年05月11日
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2012年05月10日
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ロマンを感じられないとき 失意のどん底にあるときか 老いたときがそうだろう 浮き浮きと楽しいい時には心に青春が有り 期待するでもなくときめいて ちょっとしたことにも感動し 沈静化した人には阿呆にしか見えず そんなときに歓びを感じるが 一方的はことが多く 時として誰かに受け止められるとき 人は最高の歓びを感じる それを一瞬のものと扱えば邪気に成り 忘れないように感謝すれば 更に飛躍的なものに成る ロマンは無くては成らないものだろう 好奇心と希望に燃えているときは年齢に関係なく青春を感じているときで、そういうロマンが心の中に有るときは益々若く成っている。ロマンが感じられなくなるときは、失意のどん底にあるときや老いて諦めたときだろう。浮き浮きとして楽しいときには心に青春が有って、期待するでもなくときめいていて、沈静化した人には阿呆としか見えないだろうが、そんなときに歓びを発見出来る。一方的なことも多く、時として誰かに受け止められれば最高の歓びを感じるだろう。それを偶然と捉え一瞬のうちに消えてしまうものと扱ってしまうのは邪気に成り、忘れないように感謝できれば更に飛躍がその先に待っているのかも知れない。心には幾つに成ってもロマンが必要で、好奇心や希望を失ってしまえば絶望を感じて、すべてを諦めた表情には年老いたものが見え始めるだろう。ロマンが有るときには身も心も活性化して代謝が良くなり、より艶やかに成っているだろう。 2012年5月10日 琢
2012年05月10日
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2012年05月09日
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古今東西人の心には完全な神が有り いつ何処にいても神は観ていると 自分の心の中に神仏を置いている ゲームをすれば日本では紅白、西欧では南北に分かれ 二見の争奪戦をしている 仏教では中道を勧め カオス・どちらにも属さない部分を掘り下げている 人には止むに止まれぬ正しさが有るが 完全な神の領域の正論は ”虎の衣をかる”ようなもので 人々に硬直を与え 何も出来ないようにしてしまう 正論はさりげなく、先ず、自分から率先する 自分に無いものを人に押し付けない 心の安定の道を何千年も求めて得られず、神という絶対的なものを心に置いて祈りを捧げて来たのが人の信仰心や仏心だろう。何が正しいかは心の中の神仏に尋ね、自分の力の及ばないときには祈りを捧げて来たのが人間だろう。いつ何処にいても神仏は観ていると自分に言い聞かせ、自分の中に神仏を置いてきた。しかし、ゲームをすれば日本では紅白の組に分かれ、西欧では南北の組に分かれて二見の争奪戦をして勝った負けたやプラスマイナス、損得にこだわって、周りの人を如何に味方につければと戦って来た歴史が有る。仏教では『中道』と言って、そういう争いごとに巻き込まれず中立、中庸のどちらにも属さないカオス、当事者から観れば混沌とした状態を掘り下げている。人を従えようとするとき、上に立とうとするときに正論を振りかざす人は”虎の衣をかる”ようなもので、心の中の神の領域の言葉で、自分が出来ていなくても人にそれを求め、責めてしまう硬直の原因を作ってしまう。正論はさりげなく、強調せず、先ず、自分から率先することが重要で、自分に無いものを人に求めようとしないことだろう。 2012年5月9日 琢
2012年05月09日
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2012年05月08日
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空気、雰囲気、文化は体験しなければ 口では説明し難いもので 千年のときを超えさせるのも その場に行かなければ感じられない ”机上の空論”と言うが ”百聞は一見にしかず”で 解かったようでも分かっていないのが 人間の愚かなところだろう 学ぶことは尊いことだが 実践、体験、応用しなければ 確たるものとして身に付かないだろう その上で相互の共通点を見出して 共有して何かに響働出来れば やっと深い絆が結ばれるのだろう 本も読まず上っ面の勉強だけではいつもピントが外れているようで人の言っていることの捉え方がずれているように感じる。話をしても説得力がなく上手く伝えられないもどかしさをいつも感じている。かといっていまさら猛烈に勉強しようとする気も無く、せめて記憶に留めて置こうとするが直ぐに忘れてしまう。空気、雰囲気、文化は体験しなければ口では説明し難く、千年のときを超えさせるものもその場に行かなければ、其処に立って見なければ感じられない何かが有る。”机上の空論”と言うが、”百聞は一見にしかず”で解かったようでも分かっていないのが人間の愚かさだろう。学ぶことは尊いことだが実践、体験、応用しなければ確たるものとして身に付かずすぐに忘れ去ってしまうだろう。その上で相互の共通点を見つけ出して共有し合うことが出来て何かに一緒に響働することが出来れば、やっと深い絆が結ばれてゆくのだろう。 2012年5月8日 琢
2012年05月08日
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