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お伽噺でも信じる方が托身できる大宇宙大神霊仏は諸如来諸菩薩として救済をしている諸天善神を通じて個々の守護指導霊と共にその困惑と試練を超えさせる信じることで心の中に有り体験と共に智慧を付けさせて与えられた必然に学ばせるそれを否定して信心が無ければ荒んだ道を歩むことになる忍土の苦に迷い信じたものだけが一本の白い道を自覚するようになるデカルトが言う方法的懐疑は人間の自助の本能的なものだろう。歩む道にはたくさんの障碍が有って、転ぶたびに成長してゆく。痛い目に遭うほど警戒心が強くはたらいて、騙されたり裏切られたりするたびに人を信じ切ることができなくなってしまうが、高橋先生が言うように、人間の可能性は信じなければ開かない扉を幾重にも通り抜けた先に有る、ということだろう。悪意はほんの一部でこの世に共生するもののほとんどが善意で、その分別は心眼で観るしかなく、その心眼を研ぎ澄ますことが精進なのだろう。お伽噺でも信じる方が托身できて明るい心になれるだろう。大宇宙大神霊仏はいるものだと、諸如来諸菩薩として自然の摂理と共に共生する人々の救済をしていると、ちゃんとどこかで見てくれていると信じることから道は開けてくるのだろう。諸天善神を通じて個々の守護指導霊と共に、その困惑と試練を超えさせるものだと信じることが自分の信念を揺るぎないものにしてゆくのかも知れない。信じた上で体験と共に学んだものを強い意志を以って実践するたびに智慧が付いてゆく、その智慧が自分を救うことになるし、超えられそうにもない試練を超えさせてくれるのだろう。それも自分に与えられるもののすべてが偶然でなく必然だと思うことで原因と結果の法則を知ることになる。それを否定して信心が無ければ、荒んだ道を歩むことになってしまうだろう。忍土の苦に迷い、どう生きれば、どの道を歩めばいいのかさえ分からなくなってしまうだろう。信じたものだけが、一本の白い道を自覚して歩むことができるのだろう。 2016年1月31日 琢
2016年01月31日
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理論から入るか型から入るか形を整えることは無難だが理に叶わないものはうまくゆかない原因と結果は必然の法則結果を観て原因を知る原因が無ければ結果は生まれず種は縁が無ければ芽を出すことが無いすべての準備が無ければ願いは叶わない因縁果報は必然のこと因果応報、自業自得を思えば願う心には相応の精進を必要とする種が良くても理論が正しくても縁が無いものは芽を出すことが無い絵に描いた餅と言うが、理想を追ったがために成り立たなかったことが多く、初めからうまくゆかないことばかりが人に差を付けさせる。腐って放棄すれば先は拓かれず、知りたい、できるようになりたいと思うから諦めずに頑張れる。強い意志や挑戦意欲、気力が整うほど進化が早く、今のままではダメだと思うから必死に上を目指す。その差は大きく、時と共に積み重ねたものの差は歴然と現れてしまう。何をやるにしても、理論から入るか型から入るか、理論だけでは絵に描いた餅に終わる場合が多く、型から入れば、形だけを整えて無難のように思うが、共に精進が無ければ長くは続かない。理に叶わないものはうまく運ばず、原因と結果の必然を思えば、結果を観てその原因を知ることができ、その修正浄化をすることから改善される。原因が無ければ何も起きず、種には縁が無ければ芽を出すことが無い。その準備段階が重要で、日々の努力の積み重ねが無ければ願いを果たすことは無理だろう。因縁果報は必然のこと、因果応報、自業自得を思えば、願う心には相応の精進を必要とすることが分かる。種が良くても理論が正しくても縁が無ければ芽を出すことが無い。身の周りのものを粗末に扱ったり、その恩恵に感謝することなく見過ごしていれば、良き縁は遠ざかってしまうだろう。障碍や試練、不運悪運、不遇や逆風も必然的に与えられた天の仕組み、その大きな山を越えることが自分に与えられた人生の縁と受け止める方が賢いのだろう。嘆くことなく、腐ることなく必死に超えた先には必ず光明が待っている。そう信じ切るしかないだろう。 2016年1月30日 琢
2016年01月30日
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馬鹿は死ななきゃ直らないと言うが何度死んでも治らないものは直らない頭で分かっていても消せないもの絶望の後の改心知らなかったでは済まされないもの自己検証して修正してもそのほんの一部分で永い転生の末に退化するまで逃げてもついて回る先送りは単なる怠惰でしかなく精進のために何度も生まれてくるその原因が業・カルマと解っていてもその転生でしか得られない自覚一転生はそのために与えられている前世はどこに生きて何をしていたかなど、自分は何のために生まれてきたのか、天職を迷わず行く人を見るたびにいつも思ってしまう。どんな使命が有るのか、四季の移り変わりや種が目を出して花を咲かせて実をつけては枯れてゆく様を見るたびに自然の摂理に学びながら、自分の種はどんな花を咲かせるために生まれてきたのかを思ってしまう。過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ、未来の報を知らんと欲せば現在の業を見よ、とはいうものの、魂の中に有るはずの前世からの潜在的なものを思い出すことができず、いつも迷いだらけの日々を送っている。馬鹿は死ななきゃ直らないと言うが、何度死んでも解らないものはわからないのかも知れない。頭で分かっていても消せないもの、試練を超えられず絶望した後に、違う荷を背負ってきたのかも知れないと発想の転換をして別の光を探しながら這い上がってくるしか生きる道は無かったことを思う。知らなかったでは済まされないもの、自己検証して修正浄化しても、そのほんの一部分で、有るものは有る、有った過去も消せず、永い転生で退化するまで逃げてもついて回る。先送りは単なる怠惰でしかなく、人間は愚かさを知ってその穴を埋め、同じ失敗を何度も繰り返すのが業・カルマと解っていても滅することができずに、何度でも転生してくるのだろう。その転生でしか得られないもの、それは解脱は無理にしても、これだったのかも知れないと思える自覚に至ること、そこに生き甲斐を感じて悔いのない道を歩むこと、そのために転生・機会が与えられているのかも知れない。 2016年1月29日 琢
2016年01月29日
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仏教を難しくしたのは坊主だと言う梵語を漢訳したお経漢文の難しさ、硬さ教義の内容はサンスクリットでやさしく説かれたが実践して悟ることは難しい心の整え方は四諦、八正道、六波羅蜜に四弘誓願と共に今為すべきことを実践することすべてのカオスへの対応に通じ自分の使命を自覚することで不動の境地に入れば悟りの境地を垣間見ることができる声明は音楽、でも意味が解らず、お経を見れば漢字ばかりで全くその意味が解らない。法要や勤行で聞く読経は音楽のようで、法事では滅多に会えない親戚と会うことができて懐かしさと共に、時々鳴らす鐘や木魚の音と、後半に始まる焼香の順番を待つこと、しびれた足、立てないときも有る、そんなことが思い出になっている。宗派によって上げるお経が違う。神道と仏教の歴史、神社と仏閣、大宇宙大神霊仏、諸如来諸菩薩、諸天善神、守護指導霊に接して祈りを捧げること、初詣、盂蘭盆会、お祭り、美しい庭園と仏像、古来の神事、仏事などが日本文化を繋ぎとめている。仏教を難しくしたのは坊主だと言う。梵語【梵は宇宙の根本原理】を漢訳したお経、漢文の難しさ、硬さ、教義の内容はサンスクリットでの如是我聞でやさしく説かれているそうだが実践して悟ることは難しい。お釈迦さんは「人生は苦」だと言い、心の整え方は四諦【苦諦、集諦、滅諦、道諦】、八正道【正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定】、六波羅蜜【布施、持戒、精進、忍辱、禅定、智慧】に説かれ、四弘誓願【救済、煩悩の抑制、学び、成仏】と共に、今為すべきことを実践すること。すべてのカオスへの対応に通じ、どうあらんとするかの使命の自覚をすること。それができれば悔いは残らないと不惑の状態、不動の状態になれば、悟りの境地を垣間見ることができるのだろう。 2016年1月28日 琢
2016年01月28日
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人生も終盤に成ればかたよりを少なくしこだわりを分別してとらわれず、執着しないように障りの原因を封印して使わず心を乱さないようにメッキが剥がれないように平静を保つ自分の使命を自覚して自然の風流に喜びを感じ心を濁さないようにかけた情けは水に流し受けた恩は石に刻む恩着せをせず、都合を押し付けず雰囲気を大切にする邪魔ものにならないように自己顕示をせず、控えめにすること、わきまえておくこと。それが難しく、出してしまったことによる失敗も多かった。前に出るな!の心がけも他の目にはそうは映っていない。寡黙になろうとしたが、これほど難しいことは無かった。おしゃべな自分、目立ちたがりな自分、かといって牽引力をもっていない自分、知識が少ない分短慮な自分、その自分との戦いが多かった。人生も終盤になれば、かたよりを少なくして、こだわりを分別をしながら、とらわれに執着しないように心掛けるようになっている。障りの原因を自分の中に見出せば、封印して使わないように心掛けて、心を乱さないように、メッキが剥がれないように平静を保つ努力を重ねている。自然の流れに風流を感じながら、心を濁さないように心掛け、分相応をわきまえて足るを知ろうと努力している。善光寺石碑の「かけた情けは水に流せ 受けた恩は石に刻め」を肝に銘じて、恩着せをせず、自分だけの都合の押し付けをしないこと。場の雰囲気を大切にし、邪魔ものにならないように心掛けている。それでも油断は禁物だろう。角がとれて丸く成ったつもりでも、人には全くそうは映っていない。業・カルマはそう簡単にとれないから何度も転生してくるのだろう。 2016年1月27日 琢
2016年01月27日
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警戒心は生物のすべてがもっている無防備は死を意味しいつも有事に備えている痛い目に遭うほど怯えが有ってその条件、制約の先に可能性が有る意志の強さと勇気、気力が必要で挑戦しなければ何も得られず願いを果たすために転生している苦に学ぶところが多く避けたり、逃げたりでは何も得られない死ぬほどの覚悟が無ければ不動ではいられず甘い忍土ではない生まれれば無知から始め、してもらうばかりの幸せから、自分でやってみたい、できるようになりたいと思うことの中からできる幸せを感じ、誉めてもらうほど特性を伸ばすことになる。好きな分野、本能的な分野、個性を生かす分野を掘り下げて自分の天職、使命を見つけようとする。できるようになれば人にしてあげたくなるのが人情で、そこに愛や善意の菩提心が含まれていて、して差し上げる幸せや満足の歓びを感じる。始めからうまくゆくものは無く、痛い目に遭いながら無知の怖さを知って学び始める。警戒心は地上の生き物のすべてがもっているもので、無防備は死を意味し、いつも失敗に備え、有事に備えようとしている。痛い目に遭うほど怯えるものだが、その条件、制約の先に可能性が広がっている。意志の強さと勇気、気力が必要で、挑戦しなければ何も得られず、願いを果たすために転生しているもので、怠惰に栄光は無く、障碍、試練を超えるところに満足感を得ることができる。苦に学ぶところが多く、苦を避けたり逃れようとしていては何も得られない。死ぬほどの覚悟が無ければ、心はいつも揺れ動いて不動の状態には成れず、そんな甘い忍土では無い忍土の厳しさを知ることになる。その途上で自分が本心からしたかったことを見つけることができて、魂の中のものを思い出して、それが自分の使命だったことの自覚ができるようになる。何のために生まれてきたかの答えは自分の中に有ったことを知るのだろう。 2016年1月26日 琢
2016年01月26日
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信じるものは救われる降臨した如来の言葉悟りの状態裾野からは見えない状態上から観えるものも下からは見えない同じ目線で語らないこと、比較しないこと悟ったかのように語るのは錯覚で畏敬の念を失わないこと謙虚で有ること至らない正論を語ることなくただ素直であること直面する不安には誠心、托身有るのみで迷いを見切ることただ上を目指して下から登ることだろう神仏は心の中に置くもの、学んだことを強い意志で実践すること、体験しなければ分からないものを求めるためにあらゆる障碍、試練を乗り越えて初めて得られる領域、そこに至るための智慧を身に付けること。その智慧が自分を救うことにも他の救済にもなる。降臨した如来、菩薩が言った言葉、導き、求道の極み・答えが分かったとしても自分で勝解したものでなく、その答えだけ言ったり、他と比べたりしても自分のものに成っていなければ説得力や含蓄を得たことにはならないだろう。信じるものは救われると言うが、必死に下から登っていても霞んでしか見えない頂上が有るだけで、あたかもそこを見てきたかのように言うことは控えるべきだろう。信仰は心の安定のためのもの、宗教はそこに導くためのもの、上り方はその人独自のもので、一点の頂上を目指してただ信じて上ることしかないだろう。裾野からは見えないもの、上から観えているものも下からは見えない。信じたもの、状態と同じ目線で語らないこと、錯覚しないこと。在家でも出家者でも畏敬の念を失わずに謙虚で有ること。至らない正論を語ることなく、ただ素直であること。直面する不安には誠心、托身有るのみで、迷いが有っても見切ること。自分のスタンスで、ただ上を目指して下から登って体験した、経験したことを語ることだろう。それが他の救いになることはうれしいことで、無私、利他の誠心を失わないことだろう。 2016年1月25日 琢
2016年01月25日
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有情か無情か人生は苦を行く道業やカルマは有るもの障りになるものは封印して使わないこと使い方ではユーモア変えられるに 四苦八苦に学びどう対応するか心の持ち方で光も見えてくる逃げず、避けず、投げ出さず、諦めず正面で受け止めどう改善するか有るものは有る心を乱せば直ぐにメッキが剥がれる無と雖も隠しているだけ迷わず堂々として歩むこと煩悩の有りや無しや、有情か無情か、人間はみな有情、植物はみな無情、有情なら他に迷惑や心配をかけていてもそれに気が付かずに自分本位で生きようとする。一人では生きられず、たくさんいれば摩擦の元をつくり出す、知らずにやってしまうことがほとんどでも自分では気が付かずにそうは思ってもみないのが人間だろう。人の集まったところが忍土で、そこには四苦八苦が必然のように有るもの。偶然か必然かを考えてみれば、どっちにも原因が有って、原因が有れば偶然は無く全部必然ということになる。予期できないものが偶然と言えば、予期できなかった未熟が有ったと言うことだろう。人生は苦を行く道。業やカルマは有るもの。障りになるものは封印して使わないこと。四苦八苦に何を学ぶか。どう対応するか。心のもち方如何で道が変わって来るだろう。避けて通れず、逃げられないものには、放棄せず、諦めることなくすべて正面で受け止めること。自己検証して見えてくる原因にどう対処するか、修正浄化するかで、障碍や試練を超えてゆき、障りが無くなれば願いの成就は見えてくるだろう。有るものは有ると思うこと。隠しても無くしたつもりでも、心を乱せば直ぐに出てしまい、メッキが剥がれてしまうのが人の建前だろう。すべてを受け止めて心を開いて本心で生きること。今を明るく機嫌良く生きることが望ましいことだろう。 2016年1月24日 琢
2016年01月24日
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布施のこころ持戒のこころ精進の心耐え忍ぶ忍辱のこころ怒らず、憎まず、怨まずのこころ六根を清浄に禅定するこころ転識得智の実践をするただ素直に怠惰に走らず強い意志を以って快感のみを原則とせず人智を尽くし人智を超えるもてる個性を生かし余生を与生として活私奉公をする満足も不満も全部結果的なことだが、結果論で他の批判をして自分を浮き立たせるのではなく、自分の主導権の元では自分に責が有ることの自覚の元に、魂の修復と成長のために、関わりの再結をし、できなかった願いの成就に向けて、感謝した恩恵に報いようとする強い意志と自覚をもつことが自他への照らしになると信じることだろう。運が悪いと思うほど布施の心を、甘い自分に自戒を以って、我慢強く耐え忍ぶ忍辱の心で、怒らず、憎まず、怨まずの心構えと六根を清浄にして禅定すること・・・六波羅蜜。転識得智のための実践体験を積み上げること。ただ素直に。怠惰に走らず強い意志を以って快感のみを追いかけない戒めをもっておくこと。人生は苦であると言っても過言でなく、時々戴く歓びが有るから頑張れる、その歓びのために障碍や試練を超える努力を重ねる。人智を尽くして人智を超えるところに一皮剥けた自分を見つけることができるのだろう。悔いを残さず、有るものの個性を生かし、限られた人生を歩むこと。余生を与生として他のために活私奉公をさせていただく自覚をもつことこそが、生きてできる悟りの一部だろう。果てしなく 険しく続く 天の道 受容してなほ 見えぬ道のり 2016年1月23日 琢
2016年01月23日
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体は生きて在るもの心の中にも見えないものが有る人は有るもので生かされているが他の害になるものも有るそれを見抜くこと有るものは無ではなく害になるものを使わないこと過去を消せず有ったものを封印するだけで再び出てしまわないように自戒する乱心しないように有るものを禅定して鎮め有るがままの自然な自分に成ることかたよらず こだわらず とらわれずひろく ひろく もっとひろく雑念が多く、すぐに乱される心を止観してみれば、自分の弱点が観えてくる。人それぞれ引っかかるところが違い、腹の立つときも違うもので、思うこと考えることは生い立ち、基盤の影響が有って、受け止め方やしつけの違いによって、常識に差が有るが、その差を埋めることは難しいことだろう。似た者同士が集まるのは類は友を呼ぶと言うように、全く違う常識を信じられないと思うからだろう。自分の道、途上では常識がすべてではなく、願いを果たすための障碍や試練が少なくなるようにわきまえておく必要の有るものが常識だろう。体は生きて在るもの、心の中にも見えないものが有る。人は有るもので生かされているが、他の害になるものも持っている。まず自分のそういうところを見抜くこと、相手の立場に立って考えてみて、その傾向を見抜くこと、洞察力が必要で、邪気を祓って心眼で観ることが大切な心得だろう。有るものは無にはならず、害になるものだけを封印して使わないことだが、蓋をしたり覆いをかぶせても、心の乱れと共に見えてしまうもので、また出てしまわないように自戒しておく必要が有るだろう。心の中に有るものを禅定して鎮め、かたよらず、こだわらず、とらわれずに、ひろく、ひろく、もっとひろい心で、有りのままの自分に成ること、自然体でいることができれば、迷わず臨機応変な対応ができるようになるだろう。誓願では願いの誓いと共に、これはやります、これはしませんとの決意の表明が必要だろう。 2016年1月22日 琢
2016年01月22日
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否定的になれば批判的になる批判的になれば責めたくなる責める資格が有るかどうか出来もしない正論は槍のように相手を突いて硬直が生まれる本心で語れなくなって孤立する対立の自己検証不満の原因は自分でつくっている自己正当化をせず責任転嫁をしないことただ素直であること謙虚に自分を改めれば居心地はもっと良くなる何をやってもうまくゆかず、イライラしているのは自分だけでなく、どうすればうまくできるように成れるか、自分の不満をどう治めるかがどの歩みにも有る葛藤の歴史だろう。誰もが通る道で、人智を尽くして人智を超えなければ得られず、負け組の自分を保つには否定的になるしかなく、自分のせいじゃないと思うほど批判的になってしまう。世の中を甘く見れば拗ねることから、放棄が始まり、諦めの自分に成れば引きこもって厭世的になるしかない。批判的になれば人を責めたくなって、できもしない正論をかざして自分を保つしかなくなってしまう。他を責められる自分であるかも考えず、槍のように相手を突いてしまうことから硬直が生まれ、本心で語れなくなって孤立するのが落ちだろう。不満の原因のほとんどが自分でつくり出していることを分かっていても認めるわけに行かず、意地を張って保身のための責任転嫁をしようとしてしまう。その悪循環の原因が業・カルマに成っていて、それを改めなければ道が開けることが無くなってしまう。ただ素直になるしかなく、摩擦の原因は自分がつくり出したものと自己検証しながら観力を培って浄力で修正浄化するしかないだろう。年の初めなど区切りの良いところで発心することで、今までの自分とは違う自分に変身することも可能になるだろう。空海さんの同行二人は、徳島が発心、高知が修行、愛媛が菩提心、香川が涅槃だそうで、お遍路さんはその巡業で人のぬくもりを感じて、謙虚な自分になって返って来ると言う。他のぬくもりに感謝して、それに報いようとする心が有れば、居心地の良い自分の居場所も用意されているだろう。 2016年1月21日 琢
2016年01月21日
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「空」は「無」ではない有るものは有るもの摩擦の根を断つことは有るものを空にすること刃や矢は有るものでも決して使わない自覚をもつこと有って邪魔にならない置物のようにかたよらず こだわらず とらわれずひろく ひろく もっとひろくこれが般若心経「空」のこころなり自己顕示をせず自己正当をしないこと大自然の中の一つ無駄なものは無くそっと持戒しておくこと鎮静化していることこの世に無駄なものは何一つなく、煩悩にも意味が有る。自然の摂理に矛盾は無く、それに従って生きるしかない。生きるために、存続するために、未来に繫ぐために煩悩は与えられているもので、滅してしまうことは死滅を意味することになる。身勝手なもの、邪気を興すもの、人に迷惑をかける業・カルマの部分を抑制すること、前世の意味を潜在的に魂・意識の中に持っていて、そのために転生している。「空」と「無」の違い。「空」は「無」ではなく、有るものは有るもの。摩擦の根を断つには、いつも苦を引き寄せる煩悩を業・カルマとすれば、持っているものを「空」にすること。刃や矢をもっていても決して使わない戒めをもつこと。いつも、かたよらず、こだわらず、とらわれず、ひろく、ひろく、もっとひろい心でいること。在ってもただの置物のように邪魔に成らず、自然なもののように、自己顕示や自己正当化をせず、心を乱すことの無いように心掛けておくこと。山ゆりのように誰に見られずともそっと機嫌良く咲いていること。大自然の中の一つとして、無駄なものが無い、自分は在って良いもの、観自在で自己否定をしなくてもいいことだろう。有るものは有るもの、有ったものは有ったもので、隠しても、蓋をしても、削り取っても、いつまた芽を出すか分からず、心を鎮静化して乱れないような自覚、持戒をもっておく必要が有る。その上で今を明るく機嫌良く生きることが大切なことだろう。誰に認められなくても、自分がそのように生きていることが、何かの役を必然的に果たしているのだろう。 2016年1月20日 琢
2016年01月20日
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摩擦の少ない毎日類は友を呼ぶ似かよった常識精神的負担を少なくする摩擦を起こさない自分に成る心の安定はすべてがそのための準備で思い付きや成り行きには主導権や居場所が無く人のせいにして自分を変えられない原因のすべては自分に有って幅広く、受納、受容、許容を広げ懐を深くして察する自分に成ること無私、利他を心掛ければ摩擦は少なくなるお金やもの、権威、権力は永続できず、変化についてゆくことで自分を保つことが自然の摂理に叶っているだろう。昔は結婚相手は親が決めることが多く、身分や家柄の同じようなものを選んでいた。それでも愛が無く離婚が多かったかと言えば、今のようにすぐに切れて離婚するようなことはしなかった。精神的ストレスが自分をダメにしてしまうことが多く、同じような常識の中にいればストレスが少なく、別世界のようなところに行けば生きてゆくことさえできなくなるような苦を抱え込むことが多い。武家は武家、庶民は庶民、その常識の違いが大きく人の心を苦しませることになるのだろう。できれば、摩擦の少ない毎日を過ごすこと。そのために類は友を呼ぶのだろう。似た者同士なら常識は似かよっていてストレスが溜まりにくい。精神的負担を少なくするために摩擦を起こさない自分に変えてゆくこと。心が安定していることが一番で、すべての歩みはその準備だろう。思い付きや成り行きに自分の主導権や居場所を見つけにくく、人のせいにして責任を逃れているばかりでは、自分をいつまでたっても変えることができず、悲惨な末路を辿ることが多い。摩擦の原因のすべては自分に関係が有ると思うこと、分相応、足るを知った上で謙虚に自己検証してその原因を改めておくことも準備の一つで、そのためには幅広く受納、受容、許容など寛容な自分に変えてゆく努力を重ね、懐を深くして、相手の側でものを考えて察することができる自分の成ることだろう。無私、利他を心掛ければ摩擦は必ず少なくなってゆく。 2016年1月19日 琢
2016年01月19日
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喜んでもらうことがうれしくそのために交友を広げること縁を繋ぐこと自分は陰で場の支えをして何かの役に立てれば楽しいそれだけで満足が有る自分の居場所が有れば心は安定している世の変化と共に自己の向上のために場の雰囲気を良くすることができれば明るく華やいだ自分でいられる機嫌良くしていられることが人の心をホッとさせる自分でありたいと思う人にはそれぞれの役割が有って、他の人には同じ役を果たすことはできない。代表になる人、支えに向いている人に大きく分けられるだろう。強い自分に成れる役は誰にも有るが、自分でしかできない役目、代用の利かない役を誰もが持っているだろう。自分の過去を思えば、代表役ではなく、場を支える幹事役が向いているようで、強く成れたのはそういう役に就いたときが多かった。人はみんな誰かに喜んでもらえることがうれしく、そのために交友を広げようとする。人と人を繋ぐ縁になりたいと願っているのが自分の役目かも知れないと最近思うようになっている。自分は陰の支えに成っていて、他が元気になるカンフル剤でありたいと思っている。何かの役に立っているときが楽しく、それだけで満足感が有る。自分の居場所が有れば、そこにいる自分を誰かが認めてくれていれば、心が安定している。刻々と変化する世の中で、自己の向上のために自分を変えてゆくことで、場の雰囲気を良くすることができれば、明るく華やいだ心に成れる。自分の特性を生かし、これでいいんだと思える自覚をもてれば、今を明るく機嫌良く生きてゆくことができるだろう。人の心をホッとさせる自分でありたいといつも願っている。それが前世から持ってきている魂願なのかも知れない。 2016年1月18日 琢
2016年01月18日
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歌や俳句や詩は情景と心情を言葉にする何故その情景なのかその置かれた立場や事態、時期何故その言葉なのか世の中の背景にも関係が有って作者の心の空を読み取るもの日本語でしか表わせずその奥深さを察するもの想像を加えれば一冊の本になる短い言葉に心を表す力日本の風土でしか理解できない察する文化言葉の空しさを知るほど深さが有る万葉集以来「言霊の幸はふ國」、「言霊の祐くる國」と言われ、言葉、言の葉は魂だとされ、言霊と言われている。一度発した言葉は心の中に生き続けるもので、発した人のその瞬間の心情が表れている。言葉は単なる言葉とはいえ、出せばその心の情景を読み取ることができる。まさに「色即是空 空即是色」のことだろう。31文字の短歌、17文字の俳句や詩は、その時の瞬間的な情景と心情を自然の摂理と共に言葉に表すもので、何故その情景、心情なのか、その置かれた立場や事態を表し、何故その言葉を使ったのか、世の中の背景、自分の無力さ、忍土の厳しさ、せつなさを、何もできない牢獄の中での呟きのようなものを観察力豊かに表現している。作者の心の空を読み取るもの、その魂の中に入っているものを表すことができるのは日本語だけだろう。読む者はその奥深さを察するもの、読解力の有るもの、相応の教養が無ければその心を察することができないだろう。想像を加えれば一冊の本にもなるくらいの中身を入れることができるもの。短い言葉とは言え、心・魂を霊的に表すことができる力が窺えるもの。それは日本の風土を知らなければ理解できないだろう。日本文化は察する文化と言っても良く、言葉の空しさを知るほど奥深さを感じてしまうだろう。だからこそ、やさしく人が良く貧乏でも品格をもっているのが日本の民なのだろう。自分をさておいて相手を察することができる民族、持戒をもっている民族、智慧多き民族と言えるだろう。。 2016年1月17日 琢
2016年01月17日
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自覚をもつことの大切さ生き方、歩み方に自分の持ち場で自分がどうあらんとしているか一貫性が有ること不動の信念が有ること謙虚で素直であること既成概念にとらわれず雰囲気を壊さずカオスにどう対応するかそのすべてが姿勢に現れる努力の積み重ねに風格が有り他が粗末に扱えない状態模範的姿が他の目標に成る一隅の照らしに成っている初志貫徹、時の流れと共に起きる変化にも対応できるように自分を変えながら、大きな試練や障碍に道が歪んでも、投げ出さず、諦めずに自分の意志を歪めないこと。厳しい忍土が苦をもたらしても強靭な精神力を培いながら、気力を整える強い意志と自覚が有ること。自分の生き方や歩み方に、自分の持ち場で、自分がどうあらんとしているかに一貫性が有ること。学んだ知識を実践しながら身に付けて智慧に転じ、確信に至る不動の信念が有れば、どんな試練やピンチをもチャンスに変えることができるだろう。自己検証を怠らず常に謙虚で素直であること。既成概念にとらわれず、心眼を開いて雰囲気を壊さないこと。迫ってくるカオスへの対応、そのすべてが姿勢に表れているだろう。努力の積み重ねからくる確信には風格さえ有って、他が粗末に扱えない威厳が見て取れる状態。そういう模範的姿は他の目標に成っているだろう。自分を粗末に扱わず、自信をもって今を決然と、明るく機嫌良く歩んでいれば、それが一隅を照らすことにもなっているのだろう。自分の使命を自覚できればその歩みは不動に成っている。 2016年1月16日 琢
2016年01月16日
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子供の教育は火を点すこと自分の目標を立てられるように判断力を培わせる親の都合を押し付けず厳しい躾は失敗を少なくさせる自分の特性、個性を引き出させ親の青写真ではなくその子だけの道を発見するためにその自覚をもたせるもの親の上機嫌のためでなく堂々と道を歩むためのもの子が自信を失う成功談よりも失敗談を多く語り親を超えさせるもの親は自分の子供を自分だけの所有物と思うことなく、ひろい心で束縛、繋縛をせず、勝手に描く道を行かせることが教育ではないと心得ておくことが大切だろう。子は神が育てると言うが、子供の教育はその心に火を点すことだと言う。自分で自分の目標を立てられるように、その判断力を培わせ、その責を自分が背負うように育てることが重要なことだろう。親の都合の押し付けをすれば、自分の不都合を人のせいにして反省せず、改めることなく自己の正当化をして自分の進歩を止めてしまう。躾は常識をわきまえるためには必要なもので、厳しいしつけは失敗を少なくさせる親の愛情で、いずれその恩恵に感謝するときが来ると信じてあげることだろう。自分の特性や個性を伸ばしてあげること。親の青写真通りではなく、その子だけにしか歩めない道を発見させるまで関わること。その自覚をもたせること。親の上機嫌のためにではなく、人の顔色を窺うことをさせないようにしながら、堂々と自信をもって道を歩めるように、自分を大切にする育て方をする方が良いだろう。子が自信を失うような親の自慢話、成功談を少なくしながら、失敗談を多く語り、自分ならどうできるかを考えさせることが、親を超えさせるための愛情だろう。自立心を強くさせ、自分の責任の上で自分の足で歩けるようにすることが、慈悲慈愛の心を培わせることが、自分の歩むべき道の主導権をもたせることになるのだろう。 2016年1月15日 琢
2016年01月15日
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賑わいは精神的、経済的、社会的活性の元人気あるところに人は集まりあらゆる工夫が始まる水と食べ物の有るところに交通量が多くなり文化は集団の中で興り河の流域条件の元に工夫と共に文明が盛んになり人を豊かにする一人の都合は通らず全体の流れの中に全体の願いが主流になっているその中に自分の居場所が有る賑わいは個々の願いの集まりに成る四大文明と言えば、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、オリエント・黄河文明が有るがすべて河の流域に興っている。チグリス・ユーフラテス河、ナイル河、ガンジス河、黄河など、水の有るところに集落ができ、村から町へ、都市から国へ、そこに人の工夫で文明が開けてきた歴史が有る。人が集まればにぎやかになり、賑わいが繁盛と共に国を豊かにする。精神的、経済的、社会的活性化の元に成る。人気のあるところに人は集まり、あらゆる工夫が始まる。水と食べ物の有るところは交通量が増えて、永く住む人が多くなれば文化が起こり、河の流域の条件と共に人の集まりが村から町へ、都市から国が興って文明が盛んになり、人々を豊かにする。心の安定のために祈り、信仰と共に宗教が興る。信仰心は誰にも有るもので、心の安定に導くものが宗教で、慣れたもの、有っているもの、好きなもので、揺らがない心を得るために必要なものだろう。社会では自分だけの都合は通らず、全体の流れの中で、全体の願うものが主流になっている。その中に自分の居場所が有るもので、社会性、協調性が求められている。賑わいは個々の願いの集まりで、それに応えるものが多いほど村、町、都市、国が栄えることになる。人々の生き様には慈悲の心・菩提心が有って、それが繁栄の元に成っているのだろう。 2016年1月14日 琢
2016年01月14日
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結果の前に安堵は無く有るとすれば精進努力の末の死後だろう結果は一つの通過点で止まることができず先の不安は消えない変わる努力は無数に有って終止符の自覚と共に訪れるものそれは死に顔に表れている煩悩と共に悟りは無く浄めて余りあるものは無い記録は引退と共に確定するようにそれまでの葛藤は結果に表れている時の移ろいと共にホッとするときは無く使命を行く時のみ不動に成れるある俳優が言っていたことは「悟り?あれは嘘ですよ!」。いつも思うことだが生きて悟りを得ることは無いと自分は思っている。「空」は有るものは有るもので、無にしたところで有ったものは有ったもの、隠しても心が乱れたときに出てしまう、メッキは剥がれるもので、変わったつもりがちっとも変っていないのが自分だろう。頂上がどんなものかは霞んで見えず、どんなものかを教えてもらったところでそこに行って自分の目で見なければ本当に自分が踏破したことにはならないだろう。何度も転生させてもらって上ることができること自体が有りがたいことだだろう。ある高僧曰く「菩薩なんてとんでもない!わしゃ、まだ三合目くらいだよ」、上からは見えても、下からは霞んで見えないのがその領域なのだろう。答えを教えてもらったところで、その答えまでの式が分からず、ポンと答えだけ言っても中抜けでは意味が無く、知っているだけで自分の足で登ったことにはならないだろう。目安にする程度、あんちょこのようなもので、上から中ずりになったように降りたところで思うところに着地はできず、やっぱり下から一歩一歩踏み据えて上ってゆくしかないのが普通の人間のできることで、その基礎を確実に積み上げてゆくことが尊いことなのだろう。悟りは無理でも、自分に与えられている使命を自覚することはできるだろう。正確には前世の続き、宿題、課題、未だ途上でもう一度生まれ変われたらそれを使命にしようと願っていること、その魂願は自分の意識の蔵の中に有るもの・潜在意識に入っている前世から持ってきているもので、そのための生を与えられたと言うことだろう。魂願の答えは、魂の修復と成長、関わりの再結、できなかった願いの成就、内と外への照らしのどれかだと言う。 2016年1月13日 琢
2016年01月13日
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願いの達成は多くの縁を必要として日々の努力の積み重ねと分岐点での選択それに伴う縁との関わり方段階ごとに必要な縁の選択すべて自分の意志と責任の下にその途上の因果応報・自業自得が有る他のせいにして逃げられず願いの源の自分の在り方次第でそれぞれの心に残る印象が信頼関係を深くする時の変化と共に過ぎ去った心にも変わらない印象、残心が有る関わりを粗末に扱わないことが大切だろう自分が掘った穴に落ちることが多いのが人間で、自分から崩れてゆく人が多い。願い叶わず絶望を感じていても、時も社会も何にも変わらずに動いている。自分一人取り残されても流れに変わりはない。ピンチをチャンスに変えられるのは自分を変えて新たな光を求めて這い上がる不屈の因が人には与えられている。今はどんなに惨めな自分でも、それで人生は終わりではなく、転依・てんねすれば新たな光が観えてくる。「過去の因を知らんと欲さば、現在の果を見よ、未来の報を知らんと欲さば現在の業を見よ」・日本霊異記で、因果応報や自業自得と言われる自分への戒めだろう。願いの達成には、多くの縁を必要とし、日々の努力の積み重ねと分岐点での選択、それに伴う縁との関わり方次第で人生が変わる。段階ごとに必要な縁の選択は自分の意志と責任の下に有って、他のせいにして逃げだすことはできない。願いの源の自分の在り方次第で、過去の縁だけでなく、顔・人脈のつながりが残されて、それぞれの心に残る印象が信頼関係を深くつなぎとめている。時の変化と共に過ぎ去った心にも、変わらない印象や残心が残っている。決して自分本位だけで、そういう縁との関わりを粗末に扱わず、ありがたく感謝して、その恩恵に報いようとする心が大切だろう。合理は使い捨て、都合のいい時だけ払うもので永久のものでなく、見切り、割り切りの世界だが、どうしてもそうできなかったものが今自分の手元に残っているのも、それがいずれ自分を救うことになったり、生き甲斐を感じたり、悔いを残さない、後悔しない道を歩ませるのだろう。 2016年1月12日 琢
2016年01月12日
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失敗しないということはそのことには修正事項が無いが失敗の無いことだけを選べばほかのことが分からず修正課題が無いまま多様性も無く、進化も無い幅の広さ、奥行きが無く許容量が少なくワンパターンになってしまう信頼することができず理解し合うこともできないよく聞き、受け止めることで心を開いた本心での関わりができ良き因縁側での交友から互いの向上が有り、協力し合えるようになる卒なく何でもこなし、失敗の無い人を見れば格好よく見えるが、人知れず陰の努力を積み上げているか、人前では失敗しないことだけをしているかかも知れない。損をするのは自分と言うことになるが、はじめからうまくできることなどなく、失敗が多いほど学んだことが多く、日ごろの積み重ねによって人は進化してゆく。失敗しないと言うことは、そのことについては修正事項が無いわけだが、失敗しないことだけを選んで歩めば、ほかのことが分からず、失敗の原因修正もできない。「無」は全く何もないことだが、「空」は有るものは有る状態のことで、見えている部分だけで歩んでゆけば、氷山の一角のように水面下の状態が観えず、タイタニック号のようにどんなに大きな豪華客船でも沈んでしまう。失敗に学ぶこと多く、自分の欠陥を埋めることでその原因を修正浄化できるが、失敗しないことだけで歩めば、多様性が無く進化も無いままにカオスの対応に、幅の広さや奥行きが無く許容量も少なく、ワンパターンになってしまうだろう。格好良さだけを狙って歩けば、信頼することができず、理解し合うこともできない人間になってしまい、本心での付き合いもできないだろう。失敗はある意味でかわいいもので、見えないところをつくらず、よく聞き、受け止めることから受け入れられるようになって、心を開いた関わりができるようになる。付き合いが広く、良き因縁側での交友から、自分一人では体験できないことを知ることもできて、互いの向上が有り、協力し合うこともできるようになるだろう。極めようとする人は無難を嫌う。 2016年1月11日 琢
2016年01月11日
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人生に三つの自覚【忍土、愚かさ、恩恵の自覚】は必須のこと三つの「ち」【血筋、土地柄、生まれた時代の知】の制約の中で生い立ちで基盤が築かれて自分で歩くようになる作為、触、受、想、思から別境では欲界の分別、勝解したものを念じて肝に銘じ身に付けて定めることで体幹に入った智慧を得る「転識得智」から試練を超えて先を拓き願いを成就させるそれが他の役に立てば無上の歓びを得る奈良薬師寺は法相宗の大本山だが、総本山は興福寺で玄奘三蔵の「唯識」・ゆいしきを学びながらお勤めをしている。奈良のお寺は相対的に檀家をもたず、葬式に携わることは無く、主に今生きている人々の救済を目的としていると言う。故高田好胤官長は、自分で案内坊主と言って率先して修学旅行の子供たちを面白おかしく伽藍の案内をしたと言う。大本はお釈迦さんの仏教の教えに日々精進を積んでいるのが奈良の学僧で、大きな催しには、他のお寺さんのお手伝いで協力し合っていて、だからこそ、どのお寺の案内もできると言う。国宝などの文化財がたくさんあるが国の補助は全くないそうで、拝観料だけでその維持をしていると言う。声聞、縁覚、菩薩行が基本になっている。人は十二縁起【無明、行,識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死】の転生をしていて、生を受けた魂は無知から人生を始めることになっている。自分の足で歩くために作為・さいして、やってみる・触・そくから、どんなものかを受けて体験して意識に入ることで思考している。別境では、欲界の分別をしながら、正しく理解する・勝解・しょうげをして心に念じ、身に付けることで応用を利かせることから智慧が体幹に入り、「転識得智」・てんじきとくちしながら、試練、障碍を越えてゆけるようになり、先を拓くことが出来る。学んだことは単なる知識だけにとどめず実践して体験することでしか智慧を得られない。その歩みには発菩提心・ほつぼだいしんは必須のことで、大慈大悲の心で願いの成就に向かうこと、邪気を祓って無私、利他の心で他の癒やし、救済ができれば無上の歓びを得ることができる。そのために人はみな求道して止むことが無いのだろう。 2016年1月10日 琢
2016年01月10日
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目標が有れば前向きになれて迷いは無く不安は有ってもその材料を断てば強い意志を前に出せる足跡はその方向に描かれその準備を進めることで障碍を打破できる先は拓かれて達成の予兆を感じられ気力がそこに向かわせる初心を忘れず、油断が無ければ錯覚ではない確信を得る魂は意志もつエネルギーだろう人がその気になれば、根源の力を出せて、達成に向かう無限のエネルギーを出すことができ、障碍を突破する力や生まれ変わる力も出せて、先見能力のような予め備えておく能力をも具わって来ると言う。目的を定めた人にはまだ見ぬ世界への不安は有っても、迷いが少なく道が歪むことも無く、その持てる力を出し切ることができる。目標が有れば、前向きになれて、不安は有っても、その不安材料を断つことで、強い意志を前に出すことができる。予めの準備も適切で、どんなことにも必要な準備を進めることで、その足跡は目的の方向に向かっていて、必然的に訪れる、仕組まれたような障害や試練を打破することができる。集中することで先は拓かれて、達成の予兆を感じられるようにもなって、さらに強い気力は充実してくる。初心を忘れず、油断をせず、足るを知ることで錯覚の無い確信に至ることができる。魂は心のもっと奥にある意志もつエネルギーだと言われている。魂の願いに沿った心は、目標さえ定めれば無心、不惑の状態になっているだろう。邪気の無い無私、利他の菩提心が有れば、他の救いになって、本心からの歓びを感じられるだろう。 2016年1月9日 琢
2016年01月09日
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変化と共に来る転機そのままで続くものは無く無理のない対応が望まれる邪心を入れることなく自然な対応を心掛け変化に合わせて自分を変えること文化として残すもの思い出は古い方が懐かしくその地の祭りや行事は合理主義の対象から外して良き風習は保存する郷土の誇りとして語り継がれるべきものを残す人の足が多ければ廃墟にはならない経済効果は人の足の数に比例するもので、足の向く動機付けをすることで、その地が栄えることになる。2020年の東京オリンピックもその大きな材料で、世界遺産の効果も加えれば、この日本の地は海に囲まれた美しい島、海山の幸の多いところ、流通、交通の便の良いところとして、さらに治安が良く安心して思い出をつくることができる場所だろう。どこにも変化と共に来る転換期は有るもので、そのまま続くものは無く、無理の無い対応が望まれる。自分だけの都合を優先する邪心を入れることなく、未来を見据えた自然な対応を心掛けることが大切だろう。変化が顕著になるにつれて、その変化に合わせて自分を変えることは必須、必然のことだろう。文化として残すべきものは、思い出は古い方が懐かしく、歴史に学ぶものが多く、人生のヒントになるものも考慮に上で合理主義の対象から外して保存されるべきものだろう。その地のお祭りや行事など良き風習に成っている心の財産は、風化させないように保存されるべきものだろう。郷土の誇りとして語り継がれるべきものも、後々のためになるものは、お金に変えられないもので、国の政策としても残すべきものは保存するべきだろう。人の足が多ければ廃墟になることは無いだろう。各地域も人々の心に残る思い出つくりに力を注ぐことが過疎化を防ぐ一つの方法だろう。 2016年1月8日 琢
2016年01月08日
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もの思いにふける秋色付く樹々の葉紅葉の美しさ自然の摂理落ち葉のように心の荷を下ろすとき新たな芽を育てる浩然の気宇宙大自然と一体化して冬支度をする山々の美しさ木枯らしは寒そうだが心には新たな光が観えている古寺の庭は美しく人の心を癒やしてくれるお釈迦さんは人生は苦だと言っている。この忍土の世は厳しいところだが、四苦八苦【生老病死、愛別離苦、求不得苦、怨憎会苦、五蘊盛苦】に出遭うのは必然のこと。だからこそ自分を磨くところで、宇宙の慣性の法則のはたらくところでは、重力も無く何の摩擦も起こらないところから、悟りを得、解脱するために生まれてくる。楽しいことよりも苦の方が多いが、楽しいことや恩恵が有るからそのために生きて働くことができて、四季の繰り返しの自然の摂理から学ぶところが多く、思い思いの人間社会の中でもまれながら円くなってゆく。秋はもの憂いもの、もの思いにふける秋、色付く樹々の葉は緑から黄色に、オレンジから真っ赤な色に変わってゆく山の様は、枯れ木も山の賑わいと言うが、葉の彩は美しく、木枯らしが吹けば落葉は絨毯のように積もって、落ちた実の養分に成って新しい芽吹きがやってくる。落ち葉のように心の荷を下ろすとき、宇宙大自然と一体化する心境・浩然の気を得たような気がするだろう。のびのびと安らかに、冬支度をする山々を見れば、木枯らしは寒そうだが、心には新たな光が観えてくるだろう。古寺巡礼では、美しい庭園が人の心を癒やしてくれる。神社仏閣の有る日本の文化は、言の葉と共に「言霊の幸はふ國」、「言霊の祐くる國」と言われ、情緒豊かな民を育てているのだろう。 2016年1月7日 琢
2016年01月07日
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旅は歩くこと江戸から京へ始めの一歩も1ミリの積み重ね長さの単位に変わりはないが人間の心境は変わる昨日の自分と今日の自分変わっていないようで何年、何十年経てば心も体も変化している変えたつもりでも短いスパンでは変わっていない積み重ねの尊さ人は自分の意志を重ねている急がなくても諦めなければいつか到達できる全ての道はローマに通ずると言うが、どこから歩き出そうが、目的地を決めてその方向に歩を進めていれば、いつか必ずその地に行くことができる。タイムイズマネーは時は金なりの意味で、文明の発達と共に量を時間で割ってみれば、時間の無駄を少なくするようになった歴史が有る。飛行機や汽車などの乗り物が無かった時代は、みんな歩いて旅をした。江戸から京へ、馬や篭は有ったが普通はゆきたい場所へは自分の足で歩くのが常識だった。始めの一歩も、1ミリの積み重ねで、何百里、何十キロでも時間をかけてでも自分の意志がそうさせていた。長さの単位に変わりが無くても、人間の心境は変わる。1ミリの道中の体験、歩みの体験から少しずつ、昨日の自分と今日の自分ではほとんど変わっていないようだが、何年、何十年経てば、心も体も変わっている。自分の意志をもってゆこうとする方向に、ただ歩くこと、やってみること、道草もいいが諦めさえしなければ、必ずそこに行くことができる。自分を変えようとすることも、強い意志と戒めをもってその努力を積み重ねること、短いスパンではほとんど変わっていない。焦らないこと、投げ出さないこと、諦めないこと、自分の意志を強く保っておくことが重要なことだろう。積み重ねの尊さ、人は自分の意志を重ね、体験することから智慧を得て、その先の障碍を乗り越えてゆくことができる。試練のたびに賢く強くなって、急がなくても絶対に諦めないことだろう。そうすればいつか必ず到達するときが来る。 2016年1月6日 琢
2016年01月06日
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俗世に生きていれば他に迷惑をかけないこと他の役に立てばうれしい心が有って明るく機嫌良く生き通すこと高度の悟りに至らなくても迷いや葛藤を少なくする自覚が有ること非力でも他のためなら強くなれること良心に忠実な歩みをすること素直で自分を偽らないこといつも学ぶ姿勢が有って謙虚なこと分相応をわきまえて足るを知っておくこと人に信頼される自分であること無私、利他の菩提心が有ることいつも悔しい思いが有って、思い通りにならない歯がゆさを抱えて欲求不満気味な日々を重ねていれば、できることなら自分を変えてみたくなる。いつも同じ過ちを繰り返し、解っていてもやめられず、逃げてもついて回る性分に嫌気がさすことも有るだろう。業・カルマはそういうものだと言う。責任転嫁で人のせいにして、自分は悪くないと改めることをせず、自己正当化、でまかせの言い訳で醜い姿をさらしていれば、自分に嫌気がさすことも多いだろう。忍土は厳しいところで自助努力をしなければ、屈辱的な生き方しかできず、餓鬼道に入ったようなことをしてでも勝ち組にいたいと思ってしまう。自戒が必要なのは、俗世に生きるための心得をもっておかなければ、地獄行きもやむなしと思う諦めの自分が有るからだろう。他に迷惑をかけないこと。他の役に立てばうれしいと思う心は誰にも有って、苦ばかりの忍土でも、いつも明るく機嫌良く生き通すこと。高度な悟りに至らなくても、迷いや葛藤を少なく、摩擦を少なくする自覚が有ること。非力でも他のためなら強くなれる自分であること。良心に忠実な自分であること。素直で自分を偽らないこと。いつも学ぶ姿勢が有って謙虚なこと。分相応をわきまえて足るを知っていること。人に信頼される、ブレない自分であること。無私、利他の他に尽くす菩提心が有ること。恩恵に感謝して報いようとする心が有ること。そういうことを念頭に置いて事に当たれば、周りの評価が変わり、自分に対する態度も変わってくるときには、その時に自分が変わったと言えるときなのだろう。 2016年1月5日 琢
2016年01月05日
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いじめや村八分で絶望を感じても人生を諦めることは無く転校したり独学する選択も有る誰かの保身に付き合う必要は無く強い意志をもって発想を転換し勇気を出して気力を整えて新たな光を求めれば選択肢はいくらでも有る観る人は見ている社会の目はごまかせず諦めなくていいところで諦めないこと今を明るく生きる道はたくさん有るかたよらず こだわらず とらわれず ひろく ひろく もっとひろくいじめや村八分は孤独、孤立観での恐怖を感じるが、周りや親が早く気付いてあげることが大切で、心の中に強い味方がいると思えれば、一人でもわかってくれる人がいれば、耐えることもできる。友達に相談すること、親に打ち明けること、自分一人で抱え込まないことが大切だが、先生や学校ぐるみで自分たちの保身をするようなら、転校することや独学することも視野に入れて、発想の転換をすることも必要だろう。親兄弟の理解は必須のことだが、自分が本心から怒ってみれば、対抗手段も有るだろう。人生を諦める必要は無く、勇気を出すこと、強い意志をもつこと、気力を整えることで、発想を転換して、別の選択肢に新たな光を求めることが必要なことだろう。自殺するまで気が付かなかった親や自分たちの保身のために知っていても白を切る先生や学校、教育委員会に大きな責任が有るだろう。いじめた本人も人生を大きく歪めることになるのは必至で、見て見ぬふりをした友人、仲間たちの心も歪んでしまうだろう。観る人は見ているもので、社会の目をごまかすことはできないだろう。諦めなくていいところで諦めないこと、勇気をもつことが大切なことだろう。今を明るく生きる道はたくさんあるだろう。かたよらず こだわらず とらわれず ひろく ひろく もっとひろく 2016年1月4日 琢
2016年01月04日
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破産も恩恵の内身を正していれば2年くらいで免責が下りる人権は守られていて資金繰りの苦から解放され唯物的思考が少なくなる絶望は人生の終わりでなく背負った荷を下ろすときで人間破産したわけではない財のすべてを失っても家族や友の関わりや思い出、智慧が失われたわけではなく人として最も大切なものは自分の中に視点を変えれば新たな光も見え始めるどん底から這い上がる体験は財産になる掲げた夢は見る影も無く、この世の芥に追われ、人が死を恐れるように、会社の倒産ですべてが終わってしまうと言う恐怖感に、身も心もズタズタになっていたときが有った。大金に追われ、100円で喜べるようになりたいと何度も思ったことが有った。暗運力がはたらくときは、岩石が傾斜を転がり落ちるように、その十倍の力でも止められないだろう。重経緯、悪循環、悪縁起、低活力、急暗転の順に最後のときがやって来る。体験しなければ分からないことはいっぱいあるが、破産も恩恵の内で、身を正していれば2年くらいで免責が下りて、財は失っても信用は戻すことができることを知る。公民権など、人権は失われず、資金繰りの苦から解放され、唯物的思考が少なくなってくる。掲げてきた夢や希望は、分相応、身のほどを知れと何をやってもノーを突き付けられたようだが、絶望は人生の終わりでなく、背負った荷を下ろすときだと気が付かされる。人間破産したわけでなく、財のすべてを失っても、家族や友の関わりや思い出は失われず、その日付け以降は新たな日々を刻むことができる。人として最も大切にしてきたものは失われていないこと、視点を変えれば新たな光さえ見えてくること、いったん死んでみれば何でもできることを知り、この世の芥にしがみつかなくても、明るく機嫌良く生きていくことができることを知る。どん底から這い上がる体験は、何にも代えがたい財産になっているだろう。 2016年1月3日 琢
2016年01月03日
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人を見るとき先入観や既成観念で見てしまう表層の外見にとらわれ力の強さや心の強さは付き合ってみなければ分からない人を観るときは眼の光、皮膚のつや、姿勢、センスの良さ言葉とその内容、主義、本心などは心眼で観なければ理解し合えない高価な服装や装飾品にとらわれず内容を見ること貧乏な生い立ちでも心の綺麗な人はたくさんいる本心で語らなければ見えて来ない人はその生い立ちの途上での取り巻きの影響を強く受けている。取り巻きはその人に与えられた縁や天からの仕組みのような必然的なもので、一族や土地柄、お国柄と生まれた時代に伴う条件や制約の枠の中で生きるしかなく、苦を伴う中でどんな生き方をするかを問われているのだろう。類は友を呼ぶと言うが、自分が選ぶ友は相互に影響し合う縁で、似たような常識の中で自己形成をする場合が多い。関わりを結ぶときが大切で、人を見るときに先入観や既成観念で見てしまい、表層や外見にとらわれてしまえば、その本質を見ることができない。付き合ってみなければ見えて来ないものが多く、人の力の強さや心の強さは点ではなく線上に浮かび上がってくるもので、単なる知識の豊富さだけで評価できないものが有る。眼の光、皮膚のつや、姿勢、センスの良さ、使う言葉とその内容にその個性的な主義や本心が見て取れるようになる。心眼で観なければ、理解し合えることは少なく、信頼関係を結ぶことも無い。外見を見て、高価な服装や装飾品にとらわれず、内容を見ること。貧乏な生い立ちでも心の綺麗な人はたくさんいる。フランシスコザビエルが言った「この国の人は、親切で人が良く、貧乏でも品格をもっている』と言う、血筋の遺伝子だけでなく、土地柄や国柄が長い時代と共にその民族に与える外からの遺伝子が全体の国民性、民族性に成っている。そういう人の品性は、本心で語らなければ観えて来ないだろう。 2016年1月2日 琢
2016年01月02日
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明けましておめでとうございます。ただ素直に 観自在人は死ぬまで己が何ものかが分からない何をやるに付けてもこれだと言うものが無く絶対的断定ができない常識はまちまちでゼロ地点が定まらず何が正しいかの中心軸はさまざまで理想の行いはわかっていても現実が解っていない幅が広いほど、懐が深いほど許容範囲を広くするが自分の中心軸が何処に有るのかその目覚めに至っていない万能に成ろうとするほど姿が観えていない不動になりたくて、揺るぎない心になりたくて、考えれば考えるほど迷ってしまう。毎年掲げる抱負は有ったが、努力はしたが徹底できていなかった。結局はその続きのままに人生の終焉を迎えることになるのかも知れない。人は死ぬまで自分が何者なのかがわからないまま終わってしまうのかも知れない。何をやるに付けてもこれだと言うものが無く、絶対的な断定ができず、その勇気もない。常識を思えば生い立ちや地域、時代のよってまちまちで、何が正しいか、ゼロ地点が何処なのか、中心軸は様々で、迷いながら時に流されてゆく。理想の行いはわかっていても、事情が許さず、思考を幅広く、懐を深くして許容範囲を広くとるほど、自分の中心軸さえ見えず、分別できる自覚さえ持っていない。万能を求めるほどその姿が観えていない。今年もそんな円環的思考を重ねながら、自分の天職が何なのか、使命を探しながら、的を絞って、これだ、これしかないと思える自覚をもちたいと思っている。 2016年元旦 琢
2016年01月01日
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