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『原点』 明るい材料の少ない今 春まじかだから 自然のもてなしが始まる 薄緑の芽にはつぼみが いろどりが大地を飾るとき 人工のものでなく ほんの少しの恵みに感謝して 原点を思いながら あの何も無かった頃を想い 目を細めながら 雑菌が入らないように 心を乱さないように 栄養補給 自然破壊の産物がどこに現れるかわからない今、世界的金融不安が世の中を覆っています。あの20世紀の花形だった自動車メーカーのGMやフォードが破綻状態になって、明るい材料が少ない谷間が世界の画面に映ってきています。同族同士の殺し合いは、テロや民族紛争で繰り返されています。生まれたときからいただいている良心・原点は、それでも明るい材料を探すでしょう。春が間じかになって、薄緑の芽が出始め、つぼみも膨らむ今は、大自然のもてなしが始まると思い、花が咲き始めて大地に華やかないろどりが心を和ませてくれるでしょう。それは人工のものより,一層の感動をもたらしてくれるはずです。よく観察していれば、ほんの少しの恵みにも感謝できる心になれて、原点を思い出すきっかけをつくってくれると思います。あの何も無かった頃でも、自然と戯れていた幼少の頃にいつでも戻れる意識を持って、雑菌・雑学が入らないように目を細めて、半眼で、心が乱れないようにしたいものですね。そんな春が展開してくれば、心の栄養補給になると思います。 うす緑 心深くに 絵を刻み 梅に鶯 初春の香り 2009年2月28日 琢
2009年01月09日
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「うぐいす」 八羽の小鳥が 薄緑がかわいく生き生きと 雀より小ぶりのうぐいす 黒い桜の枝に飛び交って 春のさえずりはまだのようだね 清々しさに深呼吸 汚された川に魚が戻るように やっと鶯が帰ってきたと 不安な心を和ませて 懐かしささえ消える今 取り戻せそうな気分をくれている 自然は心を癒してくれる ベランダのホタル族が朝、見た光景は目の前の下の方に、なんともいえない感動に包まれました。なんと薄緑の鮮やかでかわいく飛び交ううぐいすでした。ホーホケキョはまだ練習していないくらいの小さな鳥たちでした。雀より一回り小さいけれど、生き生きと機敏に飛び交っている光景はほほえましさと感動を与えてくれるものでした。葉の落ちた桜の黒い枝を元気に嬉しそうにはしゃぎまわっているようで、その清々しさに天を見ながら深呼吸をして、胸に刻みました。公害で汚れた都会の川が、徐々にきれいな水が戻ってきて、以前に泳いでいた魚たちが帰ってきたように、やっと、それ以前の光景が戻ってきたように感じて、涙さえ浮かべながら、じっと見つめていました。環境汚染、地球温暖化現象で、地下のマグマが動き出して、大地震がすぐにでも起きそうな不安が心をよぎっている今、昔なら何気ない光景も、心に安らぎを感じて、懐かしさで子供の頃を思い出していました。そういえば、最近、雀、カラス、鳩以外の鳥たちも来てくれていることはわかっていて、南方の魚が網にかかるようになったと、漁師たちが言うように、今までに見かけなかった鳥たちが来ています。半分不安はありますが、大歓迎の光景を心に刻むことができて、大自然に心を癒されている自分がいました。世界的に広がっている谷間の中に、一筋の光明を見た思いでした。 うぐいすに 癒されながら 輝く目 救いを見つけ しばし和みて 2009年2月27日 琢
2009年01月09日
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『良くない日は』 乱されないように 楽しいことを考えて 良いことがあると思って もぐってみよう 波にのまれないように 足で砂を掘って 貝を探すように 何かを見つけて喜ぶように 良いこと探しをしてみよう 明るい笑顔が出るまで 他人の良いところを見つけるために 共に笑えるときまで 苦しいときや悲しいときには、人の言葉に惑わされやすいときで、受けとめ方が悲観的になるものです。すぐに心が乱されやすく、悲劇的な自分を考えてしまうので、楽しいことを考えて、良いことがあると信じて、余計な言葉を発しない方がいいときもありますよね。そんなときは、海で泳いでいるときに、波ののまれないように、もぐって波をやり過ごすほうがいいですね。よく足で砂を掘って、貝を探したものですが、何かを見つけたときの喜びを思い出して、良いこと探しをして見るのも一計ですよね。人にゆがんだ顔をみられないように、明るい顔を作るために、明るい笑顔が出るまで、できるだけプラス思考をすると、外からは”空”でいられると思います。人との会話では、その人のよいところを見つけて自信を持ってもらえて、その人も生き生きとして明るくなってくれば、嬉しく楽しいものですよね。共に笑えるようになれば、新たな絆が生まれると思います。友達として、同志として、良い縁が生まれてくると思います。友人に支えられたり、助けられたりして自分というものが良い方向に形成されていくんですよね。共に照らしあえるように成れたら嬉しいですね。 照らしとは 代償無しの 菩提心 良かれと願い 我が身捨てても 2009年2月26日 琢
2009年01月09日
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「くいちがい」 心のすれちがい 一つ一つ合わない日 自分の心だろうか 機嫌は悪くはないのに 思いやり 気くばり の無い人々 気にしているからか こんな日は要注意 無神経にはとらわれず 雨 曇りの日はいやだ 小さな試練でも 平成でいたい よくあることですが、雨や曇りの日は、自律神経失調症やうつ病のときに有ったように、気がスカッとせず、どーんと重い気分で、前日とは全く違う暗い気持で人と接するからでしょうか、一つ一つ心にひっかってしまうんですね。自分の心がそうさせているのかとも思いますが、起きたときは機嫌は悪くは無かったんです。家で何故か原稿が書けないので、駅前のホテルでコーヒーを飲みながらだと、思考回路が開いてくるんですよね。この頃は向こうの従業員たちも良くわかってくれていて、コーヒーのお変わりも黙って持ってきてくれます。これも、思いやり、気配りだと思うのですが、今朝は朝食の人が多く、一つしかテーブルが空いていなくて、座ろうとすると、隣のおばちゃんが脱いだコートや持ち物を無造作に置いてあって、通路側の椅子にしか座れませんでした。普通の人なら、あわててかたずけてくれると思うのですが、今日の自分はこんなことにも引っかかってしまう日でした。何かとらわれが有るんでしょうね、こんな日は要注意の日ですね。”そこ、空けていただけませんか?”が言えずに、自分はこんな小さなことにも心が揺れてしまう、と自分を責めていたのが、あの病気の特徴ですね。だから、朝、雨や曇りの日はダメだったんです。小さなことですが、これも自分の心を修める勉強なんでしょうね。心を乱されず、いつも平成な心でいたいですね。転依をして、ロビーの中央に生けてある花を見たり、従業員と言葉を交わして、気をそらすのも一つですよね。 愛でる花 歩む道にも かかわらず 同じ微笑 悲苦を癒して 2009年2月25日 琢
2009年01月09日
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『自分』 花を愛でる心は変化する 鉢植えの花を並べかえ 切り花は天地人にまかせ 水の光に花器は誇らしく 四季の花は心を表わす 愛やロマンや憧れを映して 自分はどこにでもあり続けよう 素直な空の心で 表わす心に点数はつけない 心は自由に動ける 見る人に歪んで見えても 人は年齢と共にものごとの見方が変わってくるものですね。本質的なものに経験と知識が加わって、智恵がでてくるのでしょうか。好みも変わってくるかもしれません。自分に無いものを基本的に求めていくものですが、そこに経験が潜在意識に残って、花を愛でる心も変わってくるのかもしれません。模様替えや鉢植えの花を並べかえるときは、気分を変えたり、見慣れたものを変化させてみたくなったりするからでしょうね。自分は華道を習ったわけではないのですが、色分けと季節の花を生けてみたくなるときがあります。赤は愛情、ピンクはロマン、黄色は希望、オレンジは情熱、のようにその時々の心を天地人に表現します。これから春になってくればたくさんのかわいい花が色とりどりに咲き始めると思います。心も何かに期待するように変わってくるかもしれませんが、その心を花に託して表現したくなるときは、花を見たときですね。愛やロマンや憧れをそれとなく観てほしくなるからでしょうね。それは自分を見つけてほしいからかもしれません。素直な心でどこにでもあり続けたいと思うからでしょう。だから、自分の表現した心に点数は無いと思います。心は自由にありたいと思いますが、それをわかってもらう表現法がなかなか難しいものですね。言の葉の難しさを思い、花に託すのですが、思うように行かないのが人生かもしれません。 今ある心を表わすことの難しさのことでしょうか、あるところの床の間の掛け軸にそれが書いてありました。 ”現在心不可得” 玄関先の水がめには、椿の花が青い葉をつけて浮かんでいました。 2009年2月24日 琢
2009年01月09日
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『夕空』 真っ白に慈しむ月 宵の明星はひときわ輝いて いくつかの星の中に自分を見る 赤白に点滅する飛行体は 深海を泳ぐ鮫のように 等間隔に生駒から伊丹へ 夢に膨らむ心を土産に 白い雲を突き抜けて泳ぐ 月や星に見守られながら たばこの煙が迎えるように 自分はここにいるんだからと いつもベランダに出るホタル族は、タバコを吸いながら、空を見上げて呟いているのかも知れません。自分もごたぶんに漏れず、夕方や夜になると何かロマンテイックな気分になるときがあります。ボーっと眺めていると過去の夢多き頃を思い出しながら、何故今の自分なのかとか、もっと違う自分になれなかったかとか、神は見ているのなら、教えて欲しいとさえ思ってしまうときもあります。地位や名誉を追いかけてきたようにも感じますが、何一つ与えられなかったのは自分の努力不足だったとも反省しきりです。必然を思うときには、自分に与えられた約束の宿題を超えようとしてきた結果が今の自分なんだと思うしかないですよね。夜8時頃になると、和歌山の方から来る飛行機が生駒山の中央で旋回しながら、10分の間隔で4機が並んで伊丹空港に向かって飛んでいきます。伊丹から飛び立った飛行機は頭上を北東に向かって飛んでいきます。下から見る機体の美しさは、青い夜空に、絵に描くように、なんとも言えないものがあります。中に人の夢を乗せているように思ったり、見上げている自分が、みすぼらしく思えたり、自信ありげのときや、謙虚な気分のときや、少し恨めしく思えたりで、日によってころころ変わって、いろんな自分がいるんですよね。 今の自分は月のように、人知れず、ひそやかな照らしができればと願い、書写をしながら、それを自分に言い聞かせています。 照らしとは 代償無しの 菩提心 良かれと願い 我が身捨てても 2009年2月23日 琢
2009年01月09日
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『春には』 ひなげしの花が にこにこはしゃいでいる もうすぐ晴天に煌くだろう 松葉牡丹も大人びて 春は芽吹いている 華やかに ささやかに 昔懐かしく ♪は軽やかに踊りだし くっと胸を突き上げるだろう スキップを抑えながら すまして歩く 幼い心はまだ残っている 昔は父やお客さんを見て、大人って威厳が有って、尊敬できて、自分もああなりたいと思っていましたが、いざ自分がその年になって見ると、そうなっていないまだまだ子供だと思ってしまう自分がいるんですよね。今は、その子供のような純粋なものをどれだけ残せるかを思っています。思い出を大事に、懐かしさを思い出すことが多くなってきています。小学生の頃には、山田君のうちに飛んでいったもんです。親が王子に映画館を持っていて、板チョコをおやつに置いて出かけるそうで、そのひとかけらをもらう為に、うきうきとスキップしながら遊びに行ったんです。”オーナーチュナナカ タンタンタン”と、節を変えながら、スキップしながら、にわかに成績のよくなっている加藤君の家の前を通り過ぎて、一かけの板チョコをもらいに行きました。自分は、デージーや松葉牡丹・つめきりそうの小さな花が好きでした。れんげやクローバーの花の匂いが好きで、よく四葉のクローバーをさがしていました。幸せやいいことがあるというので、必死に探したもんです。新川にはえびがにを取りに、ため池にはヤンマーを取りに、遊ぶところはたくさんあったと思います。お米は配給で、今晩のおかずが無いときは、外に行って草をむしってきて炒めて食べていました。今は、便利で豊かで、飽食の時代になって、大地震や天変地異が起きたら、”あの頃に戻ればいいんだ”という思いがありますが、子供たちや孫たちにはその発想や経験も無いから、パニックになってしまうでしょうね。”お金やものはいくら持っていても、あの世には持っていけない”と、よく言われたもんですが、心の中にある意識・思い出は、魂が肉体から離れても、その魂の中にある蔵に意識が入っているそうですから、あの世に持っていけるそうです。となれば、心にはたくさんの思い出や経験を刻んでおきたいものですね。 愛でる花 歩む道にも かかわらず 同じ微笑み 悲苦を癒して 2009年2月22日 琢
2009年01月09日
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『氷山』 色即是空 空即是色 有るようで 無いもの 無いようで 有るもの ”有る”と言えば 色が見える 居ても発言しなければ 心の中は見えず 無いものに 発言しなくても 居ることは否定できない 出る杭は打たれる 打たれなければ進歩しない 存在を消すと参加できない ”踊る阿呆に 見る阿呆” ”同じ阿呆なら 踊らなそんそん” 阿波踊りのようなもの 心のあり方を般若心経では、ご存知の”色即是空 空即是色”がよく使われます。”氷山の一角”と言って、氷山は見える部分は水面の上に見えている部分で,5~10%ですが、見えない部分は水面下に、90~95%だと言われています。豪華客船タイタニックはその見えていない部分に衝突して沈没しました。見えるものだけで航行すると大失敗すると言う例です。人の心も同じで、見えない部分が殆どですから、会話やコミュニケーションが大事になる訳です。有るようで無い、無いようで有るものが心でしょうね。 ”有る”と言えば、その人が居ることや何を考えているかわかりますよね。居ても発言しなければ、何を考えているかが見えないんです。見えなければ無視されてしまいますよね。発言しなくても、居ることは否定できないのですが、あの人は何を考えているのかわからないからとか反抗分子かもしれないからとかで外されてしまうと、そこで勉強することが出来なくなるんです。”出る杭は打たれる”と言って、発言すると間違いを指摘されて、怒られたりした経験はよく有りますでしょ。言わなければよかったと思うこともあったでしょうが、それは一つの経験で教訓として心に残るものです。打たれ強い人は進歩が早いのではないかと思います。打たれるのを恐れて、存在を消したり、欠席したりすると、ついて行けなくなるんですよね。 間違いを指摘され、怒られて、何ごとも上達するのでしょうから、阿波踊りのように、居直って、”踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らなそんそん”で、楽しんで勉強をしたいものですね。 心を裸にして、人と接することで、映し鏡のように自分を発見できたり、人の光が見えたり、他人のよいところを見つけてあげられるんでしょうね。 2009年2月21日 琢
2009年01月09日
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『浩然の気』 影響を受けやすい人 自分が無いのではなく 素直で合わせる心がある 取り入れは倣うこと 高い自分を求めて 常識と偏見を区別して 尚 そこに意見とこだわりをもって 八方美人ではなく 自分のカラー・色を出せる 人の道をわきまえて のびのびと安らかな心境で 宇宙大自然との一体化を求め ”浩然の気”を地につけて 自分にプラスになることを会得しようとする人は、すぐにそれを身につけようとする、ものごとに影響を受けやすい人と思われがちですが、自分が無いのではなく、ちゃんとその区別ができている人で、素直で合わせる心のある人だと思います。明日からではなく、今すぐに身につけようとする姿勢は、新鮮なものとして、自分もそうありたいと思っています。取り入れることは、”倣う”ことで、良いと思うことはすぐに実践して、自分を高めていこうとする素直な自分でありたいといつも思うのですが、どこかに抵抗する心があるとなかなかそれができない時もあります。自分の生い立ちで培われてきたものさしが邪魔をしている場合が多いですね。常識と偏見の区別が頭の中でできるようになれば、修正しながら倣うことが出来て、尚 自分の意見をもって、こだわりを通していくことができればいいですね。八方美人ではなく、自分のカラーを出せるようになることが自分の目標のようなつもりでいます。”人の道”は広い心の道で、それをわきまえて歩んでいきたいものです。”のびのびと安らかな心境”になれるよう、”宇宙大自然と一体化する心境”を求めて歩みたいものですね。その”浩然の気”は、孟子の遺した言葉で、自分が一番好きな言葉です。毎年暮れになると翌年のテーマを決めるのですが、実践が難しく、残ってしまうので年々増えていくのが常のようになっていますが、”浩然の気”だけは一生のテーマと思って、求め続けているものです。 2009年2月20日 琢
2009年01月09日
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『正見』 どこかで知っている 言われると気付く 別の発想で動いている ピントハズレの時 外からは見えている 人は自分の鏡 友人は必要 自分を観るときを持つ ピントの合せ方を工夫する 人の反応は表情でわかる 相手を見て話す ネットで生きた相手は見えない 正見のまなざしが必要 自分はよくあることですが、何人かの会合で話している時に、話がかみ合わない時が往々にしてあるんですよね。その話しに入って行けないときに、自分はダメだと思うことがよくありました。”それちがう”といわれて、”あ、やっぱりお呼びでないか”と思って、よく聞くと、会話の流れのどこかで止まっていて、別の発想をしている自分に気が付くとこがありました。ピントハズレのことは言っている時に、外からは見えているんでしょうが自分には見えていないことがありますね。人の鏡に映っている自分を指摘してもらって、修正しなければと思うことがよくありました。ゴルフのスイングは観てもらわないと自分では見えないのと同じでしょうね。それを遠慮せずに言ってくれるのが友達ですよね。時々は自分を観るときを持つことが大事だと思うのがそんな時です。そこで修正してピントを合わせる工夫が出来るんですよね。人の反応は表情を見れば感じるものですかっら、相手の目を見て話すことは必要だと思います。よくネットでの問題が起きているようですが、相手が見えず、言葉とニックネームだけで判断しなければいけないので、主観的にしか見ることが出来ないからでしょうね。何でも出来て、罪を問われない四次元の世界で、自分も相手も双方が見えない状態での交信は、まるで幽霊と交信しているようなもんでしょう。ニックネームと言葉で相手を判断して、善意で接していても、相手に邪気があるときには、共に傷つく結果にしかならないですよね。精神的ストレスがたまりやすい時は沢山あると思います。だから、正見・しょうけん・・・正しくものごとを見ることが必要になってくるんですね。これは前にも書きましたが、八正道【正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定】の実践になると思います。 2009年2月19日 琢
2009年01月09日
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『目指したい』 身だしなみ たしなみ 流行 ファッション センス 世の中の傾向 時代の流れ 自分に合ったもの 嗜好 外から見やすい ホッとする 話題が豊富 通用する 知識が豊富 参考になる ひらめきがよい 発想が新鮮 友情に満ちて 公平である 我を通さず 無私である 良心的で 菩提心に満ちている 自分を生かしやすくする方法とか、他人と摩擦を起こさないようにするとか、要するに、地獄、餓鬼、畜生、修羅に落ちないような自分でありたいと思うのは普通のことだと想いますよね。ただでさえ、そういう波はすぐにやってくる世の中です。身だしなみを整えて、たしなみで心を豊かに保ち、時代やその年の流行をよく見ておくこと、ファッションもある程度取り入れると、センスのある自分になれると思います。政治、経済、趣味、娯楽、は心の道と並行して、ある程度知っておく必要があると思います。自分に合ったものを取り入れ、好きなことをちょっと掘り下げて見るのも良いとおもいます。外から見やすい自分で、他人がホッとする自分になれば、心は容貌に出るもので、豊かな表情の自分になれるでしょうね。コミュニケーションも重要ですから、話題が豊富で、通用するもので、知識も豊富で人の参考になれば、楽しい会話ができると思います。右脳と左脳とのバランスが取れていること、特に今の世の中では右脳の活性化が要求されてきていますから、良いひらめき、ウイットがあって、発想に新鮮味のあるのが好まれると思います。友情・愛に満ちていて、偏見を持たず、誰にでも公平に接しられてる自分でありたいものですね。我を通さず、”、思いやり”、”気くばり”で相手のことを思い、無私の自分になれていれば、人に受け入れられて、自分も摩擦が少なくなるので、迷いも少なくなると思います。世の常識や慣習に従いながら、良心でものを観て、菩提心・慈悲慈愛の心があれば、良いつなぎが出来る自分になっているでしょう。 昨日来日した、ヒラリー・クリントン米国務長官も、”自分に正直に”と言っていましたね。今、世界中にその言葉が必要だと感じています。 2009年2月18日 琢
2009年01月09日
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『白い道』 必ず超えられる試練 不安の増幅が諦めに 放棄さえしなければ届く 執着は執念に 超へたところに哲学が 優劣に運は無い 目標への努力の蓄積こそ 雑念を持たず 馬鹿といわれようと 白い道は見えてくる 間違った信念を改め 他のせいにしない ”天はその人に超えられない試練は与えないもの”といいますから、それを実践して超えて偉大な結果を残した人は沢山います。考えて、過去の失敗や悪い結果の知識が不安を増幅させて、早々と諦めてしまう、自分を楽な方に甘えさせてしまうことをせず、放棄さえしなければ、必ず目的への心は届くもんです。執着が、こういう場合は執念となって、いい意味で目的を達成させて自分を高めていくことになると思います。超えたところには、掘り下げると地下水が出てくるように、地下の水脈に届くように、哲学の流れに届いて、自分の実績になるわけですよね。優劣に運は無いと思います。目的意識への努力を、雑念を捨てて、人の馬鹿といわれようと、コツコツと蓄積していけば、”白い道”が見えてくると高橋先生は言います。エジソンは”99%の努力と1%のひらめき”で発明王といわれたそうです。障害はつきもので、そこに自分の間違った信念がある場合は、素直に改めて,何度かの失敗があっても他のせいにしないことが、どんなことでも超えていくための必須条件だといっています。そこに、新たな自分・因を最高のものにしていく為の智恵が必要だといっています。 ”人は同じ過ちを繰り返し、わかっているけどやめられなくて、逃げても同じ繰り返しになるが、外からはそれは見えている”と、それが”前世からの宿題”と思って、最高の因・自分を求めれば、相応の縁と共に超えていけるといっています。 2009年2月17日 琢
2009年01月09日
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『憧れと現実』 あんなふうになりたい 一度でいいから体験してみたい あんな力があれば 運と可能な努力 継続することの難しさ 夢と目標は高く 段階の日程をつくってみる 達成目前が多い 現実に納得できるまで 悔いの無い一期一会 高い因にはそれなりの縁がある 生き生きとして明るく 憧れは人によって違うものですが、そうなって見たいとか一度は体験してみたいとか、あんな力があればとか、到底無理なものとかあると思います。それには、その人の持っている運とあくなき努力とがあると思います。ある大会社の部長さんが言っていました。”ホールインワンをするくらいの運”を持っていなければならない、自分より劣ったものが、偶然でもその空席のそばにいれば、その席に座られてしまう、と・・・。”運は付いて周る”と、努力を促す言葉がありますが、実際は、競争の場合、先を越されてしまうこともあると思いますよね。運を引き寄せる”超能力”のような力が欲しいと思うのも人情ですよね。しかし、普通の場合は、やっぱり、確率が問題で、夢や目標を高く持って、勉強、努力を重ねてきた方が近くに行けるんでしょうね。長期的に見れば、運より努力の積み重ねだといえるでしょうね。そうなると、目標を立てて、そのための段階の日程を作って、一歩一歩いく方がいいでしょう。でも、大体の場合は、その一歩手前が着地のような気もしますよね。それでも、他人よりは上を行っているもんです。葛藤は多くても、現実とのギャップを少なくする努力をしていれば、悔いは残らないと思うのですが・・・。悔いの無い一期一会で、出会いを大事に育てていく自分・因で、高い目標を持っていれば、それなりの新たな縁・出会いがついてくると思います。 そのために、生き生きと明るくしていれば、良い縁に恵まれると思います。 待つほどに おもしろきこと 我が歩み 実り無きとて 実りありとぞ 2009年2月16日 琢
2009年01月09日
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『歩み』 第三の人生は二人だけ 果報を見つめながら グラフの続きを描いてみる 歩みは自分でつくるもの たくさんの試練をどう抜けてきたか 何が手土産に残っているか 子供たちの参考にもなるだろう 先祖からの線路を託して どんな宿題が残りそうか 期待はずれは自分のせい まだまだ役目はたくさんある 子供の頃の一年は長かったのにと思うのは、学びが多かったからだろうと思います。自然のことや自分の傾向や家族や友達との和を楽しみながら学んで、学校での社会性や勉強と学ぶことがたくさん記憶に残って、大人になって第一の人生が形成されていくんでしょうね。社会に出て、結婚して、子供も出来て、成人になるまで育てていくのが第二の人生でしょう。子供たちが結婚して巣立っていくと第三の人生が始まる訳ですね。その過程を見てくれば、何で今の自分がいるかが見えてくると思います。人生曲線をグラフに書いてみると、今後の延長線も見えてくると思います。傾向としてわかるものでしょうが、文章を書くときに、起承転結があるように、一転して変えていくことも出来ると思いますが、すべて自分が作っていけるもので、他人にはかけないものですよね。たくさんあった試練を超えてきて、よく言う”お金やものは持って行けない”ところにどれだけの手土産を持っていけるかもわかってくるでしょうね。”親は子に背中で教える”といい、”子は親の背中を観て育つ”ともいいますが、どんな背中を見せてきたのかとも思いますが、子供たちに影響は与えてきたと思います。家系図を書いてみると、先祖のことが見えてきて、一族の傾向も見えてくると思います。長所、短所も見えてきますが、何を遺して何を捨てるかも子供たちには見えていると思います。それを託して、今ある問題点の中で、消去法で消えずに残りそうな宿題も見えてくると思いますが、今現在で期待はずれの花が咲いているとすればそれは全部自分のせいでしょうね。これから、一転した”結”の曲線をグラフに書き入れるかの仕事は、役目として、まだまだ沢山の精進を積む場はあると思います。 ひなまつり 端午の節句 陣取りて 幸せ願う 親バカなれど 2009年2月15日 琢
2009年01月09日
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『受容』 怨みたくなる試練 葛藤中の人生 衝撃の出来事 法の無力 他人の無力 隠れている恥ずべき行為 孤立する一人の自分 それ以後の意識 水疱に消えないもの 魂と命の大切さ 実在界 前世からの約束としか 自分は”空”に確かにある 先日、テレビの番組でレイプされたその後の女性の苦しみの歩みを見ました。自分は親子三代に渡って倒産の憂き目に会ったときに、”なんでやねん”の葛藤の連続でしたが、それは反省すべき自分の欠点の修正への気付きで、そんなに放蕩もしていない自分なのに何故かの理由を前世から決められていたんだと思うしかなかったんです。自分の夢を追いかけての諦めしかなかったんですが、レイプは女性の夢やロマンを一瞬で踏みにじる、陰湿で悪質な、理性も無く幼稚な男の一瞬の虚しい我欲で、自分の人生を放棄してしまう浅はかで愚かな短絡的行為で、許しがたいものだと思いました。倒産はその日を境に、前の負債をゼロにして、以後は夢を変えてスタート出来ますが、レイプは法もさした役にも立たず、かえってその後の被害者の人生を難しくさせ、親や親友の真心でさえ受け止め難くさせてしまう卑劣なものですね。司法や警察のあり方や弁護士のスタンスにも疑問を感じ、示談でお金やもので済まないことをよく認識して、極秘の届けに証拠を残し、被害者のその後をあたたかく守護し、指導していくことに配慮すべきだと思いました。被害者は届けも出せず、その後の自分を孤立させ、超えるための自分のあり方を模索しています。意識の納め方を葛藤しながら、いつまでも水泡と消えないものを抱えて、自分の心・魂と命の大切さを噛み締めているようでした。善意の”忘れなさい”も、自分の命さえも忘れろと言われたように想い、人に言えない”空”を抱えていると思いますが、自分は確かにあるんです。 六無為という状態を”空”というそうです。 虚空滅無為、不動滅無為、釈滅無為、非釈滅無為、想受滅無為、真如滅無為 要するに、時空を超えてとか、揺らがないとか、わかったとか、わかっていないとか、思ったり考えたりとか、悟っているかとかも思わずにただ”ある”状態のことだと思います。 かたよらず こだわらず とらわれず ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空 の 心なり 2009年2月14日 琢
2009年01月09日
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『春』 雪どけ間近の侯 清水の流れのように 日差しの温もりを浴びて 新芽の茎は柔らかく 何回目の春だろう そのたびに心新しく 月花を愛でて 人に優しい心で 本当の笑顔をさがし 童心にかえって 四葉をさがしてみよう 昔、21世紀に向けて、人間性回復運動の一環として、”大人から子供への正しい心の伝達”運動で、アジアに井戸を一基贈ったことがありました。エキスポ70で”戦争を知らない子供たち”のフォークソングフェステイバルに参加して、何で人は同族同士の殺し合い・戦争をするんだろうと思いました。その頃日本は、戦後の復興から、経済大国になろうとしていたと思います。唯物論から唯心論に変わっていかなければと思っていました。今、心を置き去りにしてきた付けが回ってきたような現象が起きはじめてきています。先日のテレビに、北海道や茨城県の田舎での、自然と親しむ番組がありました。目で見るだけでなく、体全体で自然を感じていくことの大切さを伝えて、失われた日本の心と自然の再生に、一人一人が気付いて、お金中心主義から、自然中心主義になっていくことを訴えるものでした。今の地球環境を正常だとは誰も思わないでしょう。確かに、文化文明は発達してきたかもしれません。この100年だけで、石油の消費量は90%を超えて、あと40年しか埋蔵量はないそうです。人の心も比例していると思います。絶望の淵を歩いたものは、そのときに戻って、自給自足の生活もできるでしょう。戦争を知らない子供たちが育てた子供たちには、そんな経験も発想も無いでしょう。戻るところを知らないからでしょうね。自然界の一員として、素朴な自然との接し方から、良心のかけらに菩提心を育んで、お金やものを追いかけず、恐怖と戦っていって欲しいものです。この100年で壊してきた自然や人間の心の復興は、人類としての連帯責任と思って、一人一人の自覚と努力と最悪の事態への恐怖や未体験の地球規模の節約との戦いでしょう。足元のタンポポの花の強さを見て、レンゲソウの香りをかいで、四葉のクローバーをさがしながら、身の回りの自然から見つめていくことも大切なことだと思います。
2009年01月09日
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『継続は力』 持続させること 維持すること 守りではなく攻める気持で 自己発揮のために 感動は力をくれる 発想は無限に 欲求不満には叫んでみよう 疼きは突き動かすもの 果報を求めず ケ・セラ・セラの居直りで どんな花が咲くかを楽しみに 生きる力はそこから 以前、会社経営をしていた頃に、下請けの社長から”継続は力です”と言われたことがずっと残っています。中途で挫折ばかりの自分だったので、続けることの大変なことはよくわかっていたつもりですが、皮肉な結果ばかりだったように思います。何ごととも、どんなに些細なことでもいいから、持続させることが自分のテーマだと思って、高橋先生の言う”持続の行”をやっています。維持することはすごく難しく、逃げ出したくなるときもあるのですが、守るのではなく、攻める気持で、人から言いつけられた義務ではなく、自分からやっていると思う積極的な気持が大事だと思います。それによって、そこから自己発揮が出来てくるのだと思います。感動の涙を流すときに、自分が思い当たることやそうなってみたいと言う、自分の想いがこみ上げてきます。それを励みに頑張ってみようという力が湧いてきます。左脳を生かし、右脳を活性化させると発想は無限になってくると思います。思い通りにならずに欲求不満状態のときは、叫んでみるのも発散する手段になりますよね。自分に出来なかったことや縁がなかった望みには、心の何処かに疼きがある、それがその人を突き動かすものだと高橋先生は言っています。果報を求めず、代償を求めずに持続することが重要なことだと思います。やってみて、あとは”ケ・セラ・セラ”で”なるようになる”と捨石のつもりで居直ってみるのもいいかもしれませんね。無私になって、良かれと言う行をして、どんな花が咲くかを楽しみに待つのもいいものですよね。 そういう行の蓄積が”生きる力”になっていくんだと思っています。 2009年2月12日 琢
2009年01月09日
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『和する』 何かをするための縁がある どんなことが潜んでいようと そのことに目をつむっても 縁に変わりは無い 蓮の花は泥水の中から咲く 心が綺麗であれば 夢の花は咲くだろう 絆はその心の通じ合いから 和をもって尊しとなす 念ずれば花ひらく 迫害に遭おうとも 天につば吐けば 自分に返ってくる 天は罰を与えない 自分が変わっていくと、それなりの縁ができてくるもんです。例えば、学校に入るとクラスわけがあって、何十人の同級生が出来ます。その縁の中から、自分の好きな人を友達として選んで、付き合うようになるんですよね。共に分かち合って、共有し合いながら、勉学に励みながら、社会生活での自分の有り方の勉強もして、困ったときには、共に考え、協力し合って、越えていくことが出来ますでしょ。その友達のことが少しずつわかってきて、どんな家庭環境にあるかは、始めはわからないものですよね。どんなことが潜んでいようと、共有していくうちにもっと親しくなって、友情が芽生えて、絆が深くなっていくもので、同じことが社会人に成ってもあるわけで、縁に変わりは無く、絆はいくつになっても続いていくもんですよね。”類は友を呼ぶ”と言いますが、その人に必要なもの同志が集まってくるんですね。それぞれに抱えている問題点は違っても、共に考え、協力し合って超えて行ける、ありがたいものが友達・縁なんです。その生い立ちがどんな忍土にいようと、蓮の花が泥水に中に綺麗な花を咲かすように、心さえ無私の、菩提心を持っていれば、夢は近ずいてくると思います。思いやり、気くばりが永遠の絆を深めていくことになると思います。聖徳太子が遺した”和をもって尊しとなす”で、問題解決には”和”は必要不可欠のものですよね。人生では沢山の問題を解決していくのですが、”念ずれば花ひらく”で、同志の縁と共に、願いは成就していけるものです。迫害はつきもので、動じないで突き進んで、願いを段階的に高いものにしていけば、それなりの成果は得られるものです。”天につばを吐けば、自分に返ってくる”と、よく言いますが、天はそれに罰を与えたりはしないそうです。その行為で自分を汚していることは自分が一番わかっている訳で、自覚の中に迫害をした記憶は残っていて、自分の品格は自分が落として行くことになるわけですよね。こちらは仕返しなどしなくてもいいというわけですね。それより、身を正して、自分の道を歩くことが大事ですよね。 真念一貫 不逃避 忘己利他 一隅を照らす 真理を求め 逃げることなく 人のための 光となれ 2009年2月11日 琢
2009年01月09日
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「とらわれ」 雑学は迷いの原 雑念にとらわれるとき 目標への障害が出るとき 心が揺れているとき 言葉やものへのとらわれ 転依を要する 本筋に戻るために 心のコントロールをしながら 今 何が大切かを 忘却があればこそ 自分を変えられる 薬師寺の長老が”雑学は迷いの原”と言いましたが、確かに豊かな時代になると人の興味は、娯楽や趣味に関するものが多くなっていると思いますよね。勉強や仕事だけでは、ふと我に返るときに空虚な心になってしまうもので、レクリエーションの大切さを叔父は本に書いていました。勉強や仕事をしないで、興味のある雑学だけの知識が多くなると、心のバランスが悪くなって迷いが出てくるんでしょうね。あの人はくだらないことばかり言っているとか、内容の無い人だとか、人に馬鹿にされて、軽く見られて、屈辱を味わうことがあると、心に迷いが出てくるものでしょうね。集中しなければいけないときに、雑念が入ってくると、そっちの方に頭が回転していくことがありますね。こうなりたい、ああなりたい自分の目標に障害が出てくることも心の混乱を誘発して、不動心になれずに、迷いが出てくるもので、選択肢を減らして、”生きること”一本に絞るときには、何かに突進できると思います。例えば、大地震が起きて、家族や恋人と離れ離れの状態で、自分の命さえ生き延びることが難しくなった場合を想定すると、人には迷いは無くすごい力が出るものだと思います。心が揺れているときは迷いの多くなるときで、人の言葉や守りたいものへのとらわれが出るもので、転依・てんねと言って、気分転換や心のチャンネルを変えることができれば、とらわれなくなれるでしょう。執着を他にそらすことも、本筋に戻るための大切な心のテクニックだと思います。自分の心をコントロールして、大切なものの優先順位を考えられるようになりたいものです。”この世で一番強い人とは、自分を自由に支配できる人である”、ということですよね。執着、とらわれも、忘却があるから、時間がたつと忘れていけるんですよね。忘却があるから生きていけるといっても過言では無いと思いますよね。認知症と間違えられることも多いので、注意しておくことも必要ですよね、笑。執着やとらわれから離れると、自分を変えることも出来るようになると思います。 2009年2月10日 琢
2009年01月09日
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『バランス』 真っ直ぐに歩けない心 ギクシャクした対人関係 考えるほど疑心暗鬼に 信念が無いからか 足取りは酔った人のよう 主観を戒める 客観の自分 バランスが悪い自分 主観にこだわって堂々とと思うが 自信の無さは隠せない エイ ヤッと出せない弱さ 強く生きたいものだ それが安定への道だと思うが 人の心はいつもフラフラ動くものですよね。対人関係がギクシャクとし始めると、何処か悪い自分がなかったかと思い、意見を引っ込めてしまうこともあるんですよね。どこを直せばいいのかは、自分のスイングが見えないゴルフのように、人に見てもらわないとわからないときがありますよね。基本が出来ていないからか、信念が無いからか、疑心暗鬼で考え込んでしまうときもあるんですよね。外から見れば、まるで酔っ払いのような足取りに見えているんだろうとか思ってしまいます。自己中心になっていたかもしれないとか、主観でものを言っていたかもとか思いながら、自分を外から客観的に見るんですが、他人の心は空で見えないものです。指摘されると、すぐに腰砕けになってしまう自分がいるんですよね。心のバランスが取れないときには、友達とコミュニケーションをとれば、結構、的確に見てくれていて、いいアドバイスをくれるもんです。他人との話は、素直になって、裸の自分を出していると、鏡に映った自分を他人は観てくれるもんですよね。あの人のように、自分の意見を通して堂々といければいいのにと思うのですが、自信の無さは人には見えてしまっているんでしょうね。同じ過ちを何度も繰り返して、わかっちゃいるけどやめられなくて、逃げても同じ結果が待ってるし、どうしていいかわからない自分が人には見えていてわかっている場合がたくさんあるんですよね。自分の意見を通すときには、政治家たちがよくつかう”寝技”・”根回し”で、あらかじめ同意を取っておくと、うまくいくんですよね。エイ、ヤッと自分を出せないときは、みんなそうしているのかも知れませんが、友人との絆や意思統一を保って、共有、協力がないと強く生きることも難しいものです。自分の心を安定させるものは自信を持つことで、友人という縁は絶対に必要なものだと思います。それこそ因縁果報で、最高の自分になるためにはその準備・因縁転換をして、”果報は寝て待て”でしょうね。 待つほどに おもしろきこと 我が歩み 実り無きとて 実りありとぞ 2009年2月9日 琢
2009年01月09日
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『なんでやねん』 一期一会を重ねたつもり 人事を尽くしてきたつもり 克己も多少は超えたつもり 浩然の気を求めるも みすぼらしい果報が 四苦八苦も未だ実らず 空想ばかりが広がって 明るさだけを失わずの心で 夢と現実のギャップが大きく ただ良かれと願うのみ 正定は遠い 父の会社の倒産と同時に独立したときに、いつも心がけてきた”一期一会”を掲げて、人と接してきました。難題を抱えていたんですが、すべて負の遺産を処理しながら、前へ前へと進んできました。その頃は自信家・快暴流の怖さ知らずで、躍進しているつもりでした。次の掲げたのが”人事を尽くして、天命を待つ”で、赤字続きの会社を何とか黒字にしようと、精魂尽くして頑張ってきましたが、高橋先生の言う”暗運力”が働いていたんでしょうね、バブルがはじけ始めていた世の中にはどうする力も無く、重経緯、悪縁起、悪循環、低活力、そして急暗転のときが来て、破産に追い込まれ、親子三代に渡って同じ”崩壊の定め”、”不随の定め”の辛酸を舐めることになったんですね。その間、十二指腸潰瘍を牛乳療法で治し、自律神経失調症やうつ病は仏教書やたくさんの宗教書を読んで、唯識の勉強をしながら、何とか心を明るく保ってきたんですが、克己が出来ずに苦しんでいました。いつも自分を眺めていたことに気付いて、無私になることから、自分を解放しながら、少しずつ克己もできるようになってきました。次のテーマは、一生の目標で”浩然の気”で、宇宙大自然と一体化する心境・のびのびと安らかな心境を求めていますが、今も、みすぼらしい果報が残っているのみで、先日書いた四苦八苦も未だ実っていない、毎日が気付きの連続です。空想だけは、いつも希望を捨てられない正確なので、広がっていて、明るさだけは失わずに来ています。夢と現実のギャップって大きいもんですね。すべてについて”ただ 良かれ”と願うのみの状態で、正定・しょうじょうには程遠い自分ですが、勉強会での実践法に専念しながら、階段を一歩一歩上っている毎日が続いています。 果てしなく 険しく続く 天の道 受容してなほ 見えぬ道のり 2009年2月8日 琢
2009年01月09日
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『月』 月は自分では光らない ひそやかに太陽の光を地上に ウサギやかぐや姫のロマン 狼男のような恐怖を 地球に無くてはならない衛生として 美しい女性名詞として 人に戒めと光を与える 今の自分にぴったりの月の役目 何の役にも立っていない自分 ”やっとそこまできたか”と 深い仏の教え GLAの勉強会では、12の菩提心発掘で、月の心の菩提心といっています。『月』のごとき陰徳の心と位置付け、忍土の闇をひそやかに照らし続けることが出来ますようにと、祈る言葉を添えています。月自体は発光しないのですが、太陽の光を反射して地上をほのかにやさしく照らす様を心の様相に当てはめています。昔からウサギが餅を付いているような絵や、かぐや姫の物語もあり、満月を見ると変身する狼男や、ジキル博士とハイドのような怖い話もあります。実際の月は80億年前から、4800万キロ離れた地球の衛星で、磁波は地球にとって無くてはならない影響を与えているそうです。美しい女性名詞としても使われ、人の心に戒めとロマンを感じさせているのが月なんですよね。これは今の自分にぴったりのような気がしています。事業に失敗し、お金や物に縁が無い歩みをして、世の中に何の役にもたっていないように感じている自分に、物欲や名誉欲、出世欲をそろそろ捨てて、見返りを求めずコツコツとひそやかに照らし続ける月のようになることが一番だと思っています。見えないところで形を支えて、隠れたところで心を尽くす、回向返照・えこうへんしょうといって自ら修めた功徳・善行を他のためにめぐらす回向の営みが出来ればと思うようになってきたからです。 この地上・現象界が住みやすく、実りの多いものにしようとする仏の深い教えを辿りながら、自分に合う実践をしていきたいと思っています。 愚かさを 忍土の中に 自覚して 恩恵あるを 気付いてこそと 2009年2月7日 琢
2009年01月09日
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『好奇心』 超能力への憧れ 超常現象と霊障を結ばず 興味は架空ではなく現実に 煩悩はあって当たり前 目に見えるものだけでなく 見えないものもあるものとして すべてを視野に入れて 思いやりと気くばりで行ずる 感情の脚本を書かず 自分を自由に支配できるように 現実を受け止め 改め 担って 超えて 自分を正そう ユリゲラーがサジを曲げたり、写真を見て行方不明の少女を探し当てたり、予知能力を見せたり、そんな能力を超能力といって、自分にもそんな能力があればと憧れたりしてきたものですね。映画にあるような超常現象はそこに残ってしまった怨念や憎しみのあらわれとして、霊障といって、執着を強く持ったまま幽界に残された霊の障りとして興味本位に、お化け屋敷に入るような好奇心で、怖いけど知りたい気持ちは誰にでもあるものでしょう。そういう科学では証明できないものを普通の人には見えない霊を除霊したり、怖いものを恐れない度胸をつけたいと思うのは人情かもしれません。その興味を実現する為に、密教修行のようなことをして、間脳を開いて予知能力や先見能力を身につけて有名になってみたいと思うのも人情かもしれません。五蘊盛苦というくらい、人の煩悩や知識欲・名誉欲は盛んなものですよね。本筋を間違えたり、危険なことは多いものです。目に見えるものにとらわれたり、見えないから無いだろうと思っているとえらい失敗に繋がったことはあったと思います。色即是空・空即是色といいますが、すべてを視野に入れて、思いやり気くばりの無私の自分になることで失敗はかなり減ってくるし、人に理解してもらえる自分になれると思います。感情の脚本は、よくやる邪推みたいなもので、過去の失敗を今に当てはめて、ものごとを悪い方向に想像してしまうときの脚本です。自分を自由に支配できるようになるために、良く人の話を正確に聞き、現実を受け止めて、改めるところは素直に改め、面倒くさがったり、逃れたりせずに担っていくことで、自分を正しくコントロールできるようになりたいものですね。どんなことをも超えたときには、どんな苦しみや喜びを他人が感じているかを理解し、癒し、共有できるようになるんでしょうね。好奇心をそっちの方向に持っていければいいですね。 2009年2月6日 琢
2009年01月09日
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『再確認』 この世が楽しくなる 悔いを少なくする 良い人生をおくる 四苦八苦を明るく抜けて 霊や転生よりもこの世のために 浅はかな知識を恥じて 原因を観て変革する 仏教はこの世を善くする教え 檀家制度は江戸時代から 偏見を正そう 釈迦の教えは、この世が楽しくなるように、悔いを少なくする為に.、良い人生になるようにとの教えだそうです。相対的に、人それぞれの心のあり方を教えているのが仏教で、あの世・霊界・実在界のことや輪廻転生のことについてはあまり触れていないそうです。転生はヒンドウー教でよく使われる言葉で、この世でどんな生き方や功績を積もうと、それはあまり関係ないそうです。それよりこの世のために、四苦八苦を明るく抜けるように心を正していくことを釈迦は教えたそうです。自分は最近、霊の世界に興味を持ち、それを現実と結び合わそうとしていたかもしれません。”人間死んだらしまい”という他人が身近に多くいたので、その後もあるということで希望は死後も続くということの説明の中で、転生や霊について触れてきたように思います。ある釈迦の教えの仏教の記事を見て自分が恥ずかしくなりました。そういえば、旧約聖書では心霊術や占いを禁じていましたし、キリストも霊について語っていなかったと思いました。その記事を読むうちに浅はかな自分が恥ずかしくなってきました。確かに、超能力や心霊のことやUFOには誰でも見たい、知りたいという興味があって、自分にもそんな能力があるかもとか、目で見たものしか信じられないという世の風潮があると思います。すごい能力をもった人や英雄に興味や尊敬の念を持つのが人間かもしれませんよね。 現実には、身の回りに起こる出来事は、その原因を見て自分を正しく変革することだと思いました。 檀家制度は江戸時代に、キリシタンを規制するときに出来たそうで、菩提寺を持ってその檀家に載っていれば追求されなくて済むところから檀家制度が出来たそうです。よく、葬式仏教とか言われますが、もっと鎌倉時代からのような気がしていました。 やはり、間違いや偏見は素直に認めて正していかなければ、辱の上塗りをすることが多くなってしまいますよね。 果を受けて 因を辿りて 改める 先の果求め 今を正して 2009年2月5日 琢
2009年01月09日
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『持戒』 アングリマーラーを許す釈迦 鬼子母神を戒める釈迦 親鸞の悪人正機説 人の世の法律は如何に 喧嘩両成敗の慣例 自然界の法則 全体を守ることの難しさと矛盾 裁判員制度の意味 自然淘汰は神のみ業か 人種信仰を超えて アングリマーラーはハンサムで真面目な美男子だったそうですが、その先生は自分の妻が心を惹かれているのではないかと邪推して、最後の行は100人の人を殺してその指を切り取って数珠にするように言いつけたそうです。彼はその通り指を集め始めて、100個目の人の釈迦に諭されて改心して、釈迦の弟子になったそうです。今なら、当然死刑になっているでしょう。鬼子母神は何百何ずんの子供を持ちながら、他人の子供を食べてきたそうですが、釈迦がその一番かわいがっている末子を隠して、その悲しみを教えられて以後は、善神になって、子供を守り、安産の神様になったそうです。これも今なら死刑でしょう。親鸞聖人は悪いことをした人こそ改心して仏心を抱けば救われるべきだと悪人正気説を唱えたそうです。心を広く持つように、どんな悪業を積んでも悔い改めれば善人になれるとした教えでしょうが、人間がこの世の秩序を守るために作った法律は一律にもっともっと厳しいものです。それでも、その法の網を潜る犯罪は止まないですよね。自然界の法則は、神かサムスインググレイト・何か偉大な力がつくったものでしょうが、この地上に生きるものすべてが受け入れあって、それぞれの生き方が出来る心を与えられているということでしょうね。今は資本主義の中で競争しあって、文化・文明は進歩してきましたが、自然破壊が行なわれてきて地球環境汚染の今までに無い現象・天変地異が起きるようになってきました。人の世の法律にのっとって発達してきたのでしょうが、矛盾が噴出してきています。江戸時代では喧嘩両成敗が慣例でしたが、これも矛盾だ起きて、忠臣蔵という物語が出来たほどです。全体の秩序を守ることが、どれだけ難しく、矛盾多いものでしょうか。今、日本では、世界に倣って、裁判員制度が始まろうとしています。人を裁くことの難しさを思います。為政者や司法に携わるものだけでなく、国民を一般の常識人として参加させて、その判断を取り入れる時代になってきたのでしょう。加害者と被害者の両方を考慮して、国民に理解、参加意識、責任分担を求めるものだと思います。 ”自然淘汰”という言葉がありますが、遺伝子の染色体はX・Yがありますが、男のYが小さくなってきているそうで、いつ無くなってしまうかわからないそうです。500万年後に人類滅亡だそうで、人口が増えすぎて、食料が無くなってきてるからでしょうか、自然淘汰なのでしょうか。 アメリカでは黒人として初めてのオバマ大統領が、人種、信仰を超えて一致団結して変革を訴えています。去年にあっという間に広がった金融不安の谷にある今年ですが、矛盾を正すときが来ているのでしょうね。 2009年2月4日 琢
2009年01月09日
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『理論』 この世に無駄なものは一つも無い 出会いにも深い意味がある 価値観の違いはものさしの修正で 自分でつくれない出会いの縁 そのときに適切な一期一会 ”もしあれが無ければ”の経緯 不安定な心は守護されている 何か偉大な力が仕組んでいる 結果論で何を得るか 理論はその積み重ねから どんな小さなことも見逃すまい 自分の人生史を家系図を書いてみて、これまでの足取りを瞑想して、どれが節目だったかを見てみると、結構、奇跡的な今を感じるもんですよ。途中にはいろんな人との出会いや事件との遭遇があって、今の自分に影響してきたことがわかると思います。よく考えてみると、そこには深い意味があることに気付くと思います。価値観の違いを修正せざるを得なかったときも、修正できずに分岐点を渡ってきたことも、たくさんの迷路を通ってきて今があるのだと思います。出会う人も事件もそのときに必要なものだったと思います。自分でそれをつくろうとしなくても、そのときの自分・因に必要な縁がそばに出てきていて、何人かの中から友達ができたりしてきたと思います。その時々に必要な一期一会があったように感じるでしょう。あの人と会っていなければとかあのことが無かったら、自分はどうなっていたか判らないと思うこともあるでしょう。結果論ですが、迷路を通ってきた今を思うと、何かに守られて導かれてきたとも思えるのではないでしょうか。偶然の今ではなく必然の今を、何か偉大な力で仕組まれてきたように感じてくると思います。その歩みを外から見ると、理にかなった今があるのだと思うのですが、分岐点を見ると、”あの時、あれが無かったら”とか”あの時、あれを選択しておけば、もっと良い今があるかも”とかの思いが出てくるでしょう。結果論と言うことになるんですが、覚者たちが言う理論は、たくさんの人のデータから体系化された公式のようなものですから、その場その場でそれをこれから先に活用できれば、納得に近い自分だけの未来が来るかもしれません。どんな小さなことも見逃さず、未来に生かして生きたいものですね。 2009年2月3日 琢
2009年01月09日
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『無邪気』 都合を思うとき 利害を思うとき 意地を張るとき 邪気は自分を覆う 子供のように無邪気に かわいい自分でありたい 邪気をはらい 浄化して 清々しい自分で 阿呆と言われるくらい正直に 難しく考えず 労を惜しまず 苦労を背負わず かたよらず こだわらず とらわれず ひろく ひろく もっとひろく 人には煩悩があって、それを充たす為にしたいようにする習性があります。そのときにはたらく心が自分の都合であったり、利害を計算してみたり、それを押し通そうとする意地が自分を突っ張らしてしまうんですね。これって、反対側の人には迷惑なことで、される方の気持は被害者のようになってしまうでしょうね。それが邪気というものでしょう。邪気が自分を覆っているときは、世の中では摩擦だらけになって、嫌がられる人、避けられる人、敬遠される人になっているんでしょうが、それに気つかない自分がいるものですよね。そんなときは、全部自分を捨ててしまうくらいの気にならないと世の中になじむことは難しいと思います。思いやり、気くばりは自分より周りに配慮して、相手を思う気持ですが、そうなろうとすると初めは窮屈で、屈辱的に感じるでしょうが、慣れて習慣になれば無私の自分になって、人に歓迎される自分がいるんだと思います。まず、自分に疑問を持つことも必要だと思いますね。無邪気な自分で人にはかわいがられる自分でありたいものですよね。素直に自分を観て、何かおかしいなとか、変だなとか、理不尽だと思うときは自分に疑問を持つほうが、相手を責めるより、世の中は静かだと思います。疑問から答がわかってくると思うので、それを修正すると自分のカルマが浄化されていくと思います。勉強会では、人のせいにしたり、自分を哀れんだり、どうしようもないと言い訳したりする心を、”人のせい三兄弟”と言って、それが前世から持ってきたカルマだといっています。その宿題を浄化して、清々しい気持で生きて生きたいものですね。人には阿呆と言われるくらい素直な自分になって、ものごとを難しく考えず、面倒くさいと思わず人のために動いて、自分を苦労を背負ったように思わないで、明るい日常を過ごして行きたいものです。 今年の世情を思うと、世界全体が谷間のような年に思えるので、邪気をはらい、矯める・正しく直すときで、飛躍のときを待って、失速しないような自己変革もしておく必要があるように感じています。 2009年2月2日 琢
2009年01月09日
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『わりきり』 旧交を温めて 久しき道を顧みる 人の世の諸行無常も 友の絆をこの世のみに留まらず 意識は永遠に転生する 魂の蔵は不滅 断末魔は本人の記憶に無い 死を恐れる無かれ 真に強い人間は自分を支配できる 理論は結果の客観的分析 明るく生きよう 久しぶりに親しい友達に会い、昔話をして楽しいときを過ごしました。何年たっても変わらない心の絆を思い、この世のみのものでないことに喜んで、意識の中のものはあの世にも持っていけると思うと同時に、意識が魂の蔵の入って、ずっと続くように思いました。その友人が臨死体験をしたと聞いていたので、そのことについても話を聞きました。彼は率直にありのままの状態を聞かせてくれました。お花畑が見えたこと、このまま何処かに行ってしまうのかと感じてたこと、仏像が一瞬見えてすぐに消えたこと、真っ暗なところを通ったようなこと、恐怖感は無かったようです。後で聞かされたことは、頭が割れるようにイタイイタイと言っていたそうだが、自分の記憶には残っていなかったそうです。臨死体験かどうかはわからないとの前置きからの、ありのままの心境を言ってくれました。気がついたら白い服を着た男性がいたということですが、入院中の出来事で、医師だったと思います。自分は若い頃、十二指腸潰瘍であまり病院で待たされて仕事にならないので、通院をやめて牛乳療法で直したのですが、それ以来”死”を恐れて、たくさんの仏教書や宗教書を読んで、その恐怖感をなくす為の不動心を得ようとしてきたんです。結果的には死ぬのが怖くて、”死ぬ勉強”をしていたんですよね。テレビや新聞でいろんな知識を得て、その瞬間の映像や付き添ってみている人の言葉に、断末魔の状態を自分に置き換えて恐れていたんだと思いました。彼の言葉を聞いて、その痛いときの記憶が全く無かったそうで、傍目には苦しんでるように見えてても、本人の記憶に残っていないということがわかりました。死を恐れすぎていたのかもしれませんね。自分も喉頭がんと診断されて、コバルト照射を33回して焼き消したときには、死の恐怖はありませんでした。あまり死を恐れすぎる必要は無いようですね。勉強会でも、先生は誕生の門・産道を潜るときの恐怖感を通ってきたのですから、怖がらなくても大丈夫ですよ、と言っていました。 人生にはたくさんの試練が訪れ、自分に負けそうなことがよくありますが、”本当に強い人とは、どんなときでも、自分を支配できる人である”と言いますよね。 たくさんの結果のデータを客観的に分析して理論化され、先の参考になるのが理論なんですよね。 あまりかんがえないように”明るく生きる”のがいいですよね。 愚かさを 忍土の中に 自覚して 恩恵あるを 気付いてこそと 2009年2月1日 琢
2009年01月09日
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『楽園』 心は他の心を動かす 自分が変われば周りも変わる 誰にも真理は胸を打つ 三欲を滅し 三毒を滅すれば 境地は中道となる 中道は正法でユートピアをつくる 高邁な言葉には力がある 和顔愛語は人を結ぶ 本当の笑顔には感謝が 今こそモアースマイルを 自分の都合を優先する心ではなく、他人を思いやる、気くばりの心は他人の心を動かすものですね。自分を変えていくことが出来れば、知らないうちに人の見方も変わってくるものです。何が真実かわからなくなってくると、真理を求めて精進していれば胸を打つものですよね。”梵”は宇宙の根本原理で、”浩然の気”は宇宙大自然と一体化する心境で、のびのびと安らかな心境のことですから、真理はそこにあると思います。三欲とは、自己顕示欲、自我我欲、自己保存欲だと思います。三毒とは、仏教では忌み嫌うもので、”とん じん ち”と言って、貪り、いかり、愚痴をこぼすことです。止観してこれを戒めるようにすれば、中道といって、空のこころになります。みんながそういう心になれば、ユートピアをつくることが出来るといいます。先人・覚者が残した高邁な言葉には、それ自体に力があるもので、それを自分に取り入れることで、自分の中にそれなりの力が湧いてくるんだと思います。和顔愛語を心がけていると、周りの雰囲気も変わって、人の心も癒され、和んでくるものですから、そこに絆ができてくるものです。本当の笑顔を見るとこちらも笑顔になってしまうもので、感謝が無いと出ないものでしょうね。自分の都合や計算でものを計っていると本当の笑顔にはならないと思います。”モアースマイル”とは昔あった活動で、”子供たちにもっと笑顔を”と言う運動をしましたが、今は大人も含めて”もっと笑顔を”が必要な時代が来たように感じています。 花も咲く 春近しとぞ 谷を越え 矯めるときにて 空を仰ぎつ 2009年1月31日 琢
2009年01月09日
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『傾向』 血にしみこんでいるもの 地にしみこんでいるもの 知にしみこんでいるもの その産物が自分 その枠の中の宿命 踏襲するもの 変えるもの 魂の修復と浄化 変われば違う水でも泳げる 心の中の意識が伝える 心は体を動かすだろう 血や地や知は変わっていく 自分の中に流れる先祖からの血・血統は現象界のはるか昔から受け継がれているもので、それを子孫に繋いでいくのは自分の使命なのでしょう。生まれた地域には、その国に流れる風土・風習があって古来からのしきたりの枠の中で生きていくことになっています。生まれた時代にも知の流れが合って、その社会の中に身を置いている自分があります。それは自分の宿命といえるものの、何で、何の為に生まれてきたのかを知ることの、ヒントといえるものでしょうね。その上、自分の魂の中の先天的な、心理学で言う潜在意識という、生まれる前から持ってきている意識が自分の心の中にあって、無意識の影響を受けているのが今の自分なんですね。それは血・地・知以前からのもので、この世の摩擦を受けながら修復したり成長させていかなければならない、全体の宿命を持った自分なんでしょうね。傾向としては、踏襲していいものや変えていかなければ身の回りがうまく治まらずに、他人に迷惑をかけてしまいそうな自分がいるんですよね。それを修復しないと、苦しみや悲しみが多くなると言うのであれば、人生を楽しくエンジョイしたい自分としては、業・カルマの浄化をしなければ、子孫にまで宿題を残すことになってしまいます。自分を変えていけば、他の社会でも歓迎される自分に成れるでしょうね。心は人の中心でその人を動かしているもので、その中にある潜在的な意識も無意識にはたらいている自分がいるんです。それを変えていくことで、自分や子孫に良い影響を与えるものなら、心の行を続けていく必要があると思います。 果を受けて 因を辿りて あらたむる 先の果求め 今を正して 2009年1月30日 琢
2009年01月09日
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『空の心』 生駒山は大阪の目を覚まし 大和の曙に向かう拍手 揺れる心は定まる 太陽信仰を地で示して 飛鳥の白鳳は天に向かう 近畿の人々の誇り 比べるものも無し 邪気は品格を損ねる 悠然と歩むが良い かたよらず こだわらず とらわれず ひろく ひろく もっとひろく 大阪の日の出は生駒山に上に昇ってきます。そう、東に上る日の出を拝んでいるんですよね。生駒の向こうには奈良があって、そこに向かって拍手を打っているんです。奈良は縄文時代、弥生時代、古墳時代の日本・大和の曙の地なんですよね。弥生時代にあった邪馬台国から飛鳥時代に、白鳳の文化から平城京へ、物部氏を倒して聖徳太子は約束の四天王寺を建立し、勝曼経、維摩経、法華経を持ってきて日本に仏教の伝来、17か条憲法を制定して、中国の隋王朝に正式に国家として認めさせた経緯があるのが奈良なんですよね。日本の国旗は太陽そのものを表わしています。日いずる国ということです。人類の歴史は太陽信仰で、その東から太陽が上ると人は起きて働き、西に沈むと寝る日常を重ねてきています。その国の起こりが奈良ということが出来ますから、近畿の誇りと言うことが出来て、他地方と比べるものも無いと思います。邪気【お金や物、都合、計算、意地】が先行するとその神聖な品格を損ねることにもなります。悠然としてるだけでも存在価値があると思うんですよね。般若心経を故管長の高田光胤さんは、子供たちにもわかるように優しい言葉で、かたよらず、こだわらず、とらわれず 広く、広く、もっと広く、これが般若心経、空のこころなり といっています。 2009年1月29日 琢
2009年01月09日
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『阿弥陀さん』 四天王は見守る 阿弥陀さんが微笑んでいる 浄土の祈りは富士の向こうへ 台地の中には根が縦横に 子孫たちは生き生きとして 先祖の霊への畏敬と結束 今あることへの感謝と永遠の約束 ”南無阿弥陀仏”の絆 天地の恵みは未来の保証 空や海や山が太陽に照らされて 人の心の奥深くに当たり前のように 法要は四天王に守られた読経の中で、阿弥陀如来が微笑んでいるかのように進んでいたような感じでした。北は多聞天、南は増長天、東は持国天、西には広目天が守護に当たっていて、聖徳太子が物部氏を倒して立てた四天王寺を思い出していました。西方浄土の祈りは富士の向こうに当たるところへ、阿弥陀如来が導いてくれると思いながら、焼香していました。孫たちは生き生きとしていて、大地の中では一族の根が縦横に張っていると思いながら、先祖の霊に畏敬の念で結束し、今あることへの感謝と永遠の持続を約束して、”南無阿弥陀仏”を唱えていました。天地の恵みがあれば、未来は保証されていると信じたい気持の裏には、地球温暖化からの天変地異が自分たちの死後も不安にさせるだろうと、安寧を祈らざるを得ませんでした。空や海や山が遍く太陽に照らされて、当たり前のような穏やかな世でありますようにとの祈りは、めったに会えない親族の出会いのときにしかできないもので、法事のありがたさを確認したように思います。 2009年1月28日 琢
2009年01月09日
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『富士』 日本の象徴 真白き富士の嶺 相模湾の富士 日本画の富士 気高き 汚れなき心 湘南の想い出 トンネルを抜けると救いのみかん 海は青く 白い縁取りの岩 富士は墓地の構図に浮かぶ 子孫たちが駆け回る 新幹線から何度も見てきた富士山に今回は、ただ美しいだけじゃないものを見たような、受け取る自分の心の変化を感じていました。日本の代名詞のように、どんなときにも必ず富士は日本人の心の中に象徴として描かれてきた誇りのようなものを感じました。歌にもでる真っ白な雪をかぶった姿や相模湾から見た富士の写真や絵を沢山見てきました。江ノ島、辻堂、小田原、大磯の名は何故か懐かしい思い出を呼び覚ますものでした。日本で一番長い丹奈トンネルを抜けると熱海の海岸が見えて来て、山にはみかんがなっていて昔を思い浮かべ、青い海には打ち寄せる波で白く縁取りされている岩がその時々の自分であったかのように見えてきます。藤沢の墓地では、父母の墓の西には富士山がくっきりと見えて、その周りで駆け回る孫たちの元気な姿が印象的でした。あまり足しげくはこれないお墓参りですが、京都には祖父の菩提寺があるので、自分の子供たちはみんなでそちらのお墓参りをして、知恩院や京都の散策をしています。法事は良い風習だと思うのは、普段会うことのできない親族と親交を交わすことが出来ることと、先祖からの繋がりの絆を確認できるからでしょうね。自分たちの命・血の根っこを思うときも、そんなときだけでもあればいいと思いますよね。恩を感じ、感謝の念が湧いてくれば、充実した法事になると思いました。 ”かけた情けは水に流せ 受けた恩は石に刻め” 長野にある善光寺の石碑に書いてある言葉ですが、身につまされるものがありますね。 2009年1月27日 琢
2009年01月09日
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『自覚』 空虚なとき 違うと思うとき 不満が膨れるとき 批判的なとき 気付きの前ぶれ 感情を平成に保つ 気を長くして受け入れる 相手の非より自分の非を観る 自己顕示もせず 自己保存もしない 破滅 衰亡 の原因を作らない 素直に心を裸にする 昨日は母の三回忌の法事でした。朝の大阪は雪がやねや車を白く包んでいました。新幹線から見る富士山は半分上が真っ白く輝いて、静かで堂々としていて、まさしく美しい日本を象徴する誇らしさを、胸にきゅんと感じる姿でした。 自分を清めてくるれるような畏敬の念が湧き上がってきました。 空虚な気持が心を覆い、不満や物足りなさが膨れ上がり、ものや人に批判的になっているときは、自分の至らなさを気付く前ぶれのようなときでしょうね。すぐにカッとして自分を失い、悪い方向に感情の脚本を書いてしまって、それを表に出してしまった行為は消すことが出来ない、色にだしてしまった不覚としか言いようがありません。二年も前に戒めとして掲げたことが、未だに直っていない未熟さを感じて、感情を抑えて平成を保つことの難しさを今さらのように感じてしまいます。気を長くして、はやる自分の気持を抑えながら人の話をよく聞くことの大切さを思います。最後まで何を言いたいのかを聞けば、相手の非を責めるより、自分を正すことの客観的なヒントをいただけるように思います。快暴流、苦暴流のよくやる自己顕示や、快衰退の自己保存を抑えて、その結果として迎える破滅や安逸や衰亡の運命を辿らなくても良いような自分にならなくてはと、富士山が示してくれているような気さえしました。素直に自分の心を裸にするときが必要だと思いました。 2009年1月26日 琢
2009年01月09日
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『裸心』 目立ちたがりやで 大物であると過信し 幾度もの挫折に気付きもなく 人に阿呆といわれても 核心に触れることもなく 出ない水を掘り続け 日からない自分とわかっていても 他人の光に喜んで いつか自分もそうなりたいと 素直に 自分も 濁りつつ みすぼらしい自分を抑えつつ ただあるだけでいいと思う 考えてみれば自分は目立ちたがり屋だったと思います。大きなことを言って、有言実行をしようと過信している自分が居ました。祖父、親父、自分と幾度もの挫折を味わっていても何の気付きも無く、気持だけはいつも前向きな自分がいました。他人に阿呆とか”ええかっこうし”とか言われても、意味もわからず核心に触れることの無い、ピント外れの会話をしていたように思います。思えば、水も出るはずもない井戸を堀続けてきたように思います。何度もの失敗に、自分の無力を感じ、光らない自分に気がつき始めたんですが、他人が光り始めることに喜びを見つけ出していました。いつか自分もそうなりたいと思うことで自分を慰めて、素直で正直な自分を見せようと、嘘で自分を濁らせていたように感じています。自分の心を裸にしてみると、みすぼらしいと感じるときがたくさんあったように思います。人に認められなくても、ただ自分があるだけでいいと、割り切る為の心の道を勉強してきたのかもしれないですよね。それが前世からもってきている自分の宿題だと気付かされたのは最近のことでした。自分の前世はよっぽど放蕩を重ねてやりたい放題だったのかもしれませんね。仕事では黒字を知らず、お金やものに縁が無く、名誉なことも無かったのに、食うに困ることは無かったのは何か守護霊に守られていたんでしょうか。希望に燃えて突っ走ってきた割に、餓鬼畜生道や修羅場に立たずに済んできたのも、守護霊や指導霊のお蔭だったのかもしれませんね。 2009年1月24日 琢
2009年01月09日
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『ある』 ものに換算しても 霊的見地からも 修行中の低い魂 目標の境地は高く 葛藤の日々を重ねて あるべき境地を求め ただひたすらに書き連ね 己の魂の位置すら不明 繰り返す虚しさに耐え 光を求め価値、果報を求めず 自然界の一員としてひそやかに 今まで書き連ねてきていますが、それは自分が求める境地や、良い言葉に自分の歩みの中で胸を打ったこと、そうありたいと思うことを、単なる知識として、子供たちや友人に遺すつもりで、智恵にするための実践を書き記してきたんです。ものにも換算できないし、霊的に観てもまだ修行中の低い境地でしかないと思っています。目標は高い方がいいと、それに近ずこうと葛藤の最中で、言ってることとやってることが違うといわれても仕方がない、まだ煩悩に執着した自分がいるんですよ。大阪薬師寺会の講話で唯識を30年以上も聞いてきましたが、学びの重さを感じるのみで、菩薩には程遠い行をしながら、やっぱり実践もしなければとGLAで高橋先生の実践法を勉強中の自分なんです。間脳も全く開いていないので、予知能力や先見能力、洞察力も全くない状態で、自分の人生を振り返りながら、虚しさを確認している”己が何ものかわからない”自分なんです。謙遜や卑下をしているつもりはなく、阿呆と何度も言われてきましたが、根が明るいので、いつもいいことだけ考えて自分に当てはめてきたんです。これからは、光を求めて価値や果報を求めずに、月のように、自分では光らなくても他の光を地上に照らせるような自分でありたいと思っています。アクセス数が1万を超えて、誰かの参考になっていることの証と思って、この日記は続けようと思っています。お坊さんや牧師でもないので説得力はなくても、多数の方に受け入れられた自然界の一員として、誰かのお役に立てばと持続の行としようと思っています。 2009年1月23日 琢
2009年01月09日
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『あるべきようわ』 【阿留辺幾夜宇和】 明恵と法然の違い 漸教と頓教 ともに仏心へ 良心のかけらを集めて あるべき相を用へ 辿りつくべきは同じ処 修正 浄化 は前世からの宿題 勝者は阿呆ほど純粋なもの 仏はそのものに語りかける アラヤは人それぞれのもの 到着駅は独自のもの 高山寺の戸板に明恵上人によって書かれたものが残っているそうです。12世紀頃のことですが、明恵と法然との論争があったそうです。戦乱に人心が乱れた頃に、法然さんは『南無阿弥陀仏といえば救われる』という頓教で、せめて一日一回でも仏心を起こすことが重要と説いたのに対して、明恵さんは,人の心のあり方は菩提心に至る過程が重要だと漸教を説いて論争になったそうです。ともに仏教心を起こすことへの正しい主張だったと思います。いつの世でも乱れるときに偉い人が現れるもんですね。生きるだけでも大変な時に、治療薬がいいか保健薬がいいかの論争のようで、共に正しい投げかけだったように思います。生まれたときからいただいている良心のかけらを集めて、極楽に往生して仏果を得る菩提心に至ることへの目覚めには大切なことで、今年は特にそれが必要な年のように思われますね。あるべき相・心のすがたを用・はたらきにするのですが、たどり着くところは同じだと思います。魂の修正、浄化は前世からの宿題だといいますが、そのために必要なものが菩提心だということでしょう。勝者とは、すぐれた人の意味だそうで、純粋な人に仏は語りかけているそうです。アラヤ・阿頼耶識は八識のことで、前世からも今もある意識のことですが、人それぞれものごとの受け方が違うように、辿りつくところはその人独自のところだと思います。原因と結果の法則があって、結果だけで判定できないから、原因を調べて修正、浄化することになるわけです。今、裁判員制度が導入されようとしていて、いつ自分たちが裁判所に行くことになるかわからない状況ですが、要は原因と結果の審査・判定をすることだと思います。そこに、良心・慈悲慈愛の心がなければ、正しい判定に至らないでしょう。指名を受けたときはそのような心構えが有ればいいと思いますね。 2009年1月22日 琢
2009年01月09日
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『曲線』 屈伸は飛躍の矯め 谷は保つ為の充電期間 上昇 変化が失速しないように 人生曲線を天に向ける 山あり 谷あり の人生を 以前の山より高い谷へ 洗い流したものは谷へ 川は太く海に流れ込む すべては青く広い空の下にある 宇宙はあるがままを胎蔵する 夢であろうと 現実であろうと いやなことが続く時、苦しみや悲しいことが起きる人生の谷間は、さらに飛躍する為の矯めの期間と思って、次の上昇への変革が失速しないように、正しく直すときで、金融不安からくる世界経済の不況や環境破壊による天変地異の地球規模の谷間が今年の課題で、将来の運勢を天に向かってどこまでも上昇できるかどうかが決まるときのように思われます。人生曲線のように山あり谷ありの曲線を以前の山の頂上より高い谷にしたいものですね。降り注ぐ雨は根のあるもの以外は谷へ流していくでしょう。山々の谷から流れる水は川を太くして海に流れ込んでいます。航空写真で上から見れば、美しい自然が見えるでしょう。その景色全体は青く広い空の下に広がっているように、宇宙規模にみれば、地球全体が宇宙の中にあって、それを心の中に描いてみることが出来ると思います。だから、人の心が宇宙だというんですね。時には大局的にみることで,自分を客観的に見ることが出来るようになると思います。夢に描いてきたものや現実のものも、自分から抜け出てみてみるのも一つだと思います。何度も犯してきた過ちや失敗から目をそらさずに、自分の外から客観的に見ることが出来れば、矯め、即ち、正しく直すことが出来るかもしれません。人生曲線を描いてみることは、GLAの実践法で、自分の人生の流れを客観的に大局的に見ることができて、未来の予測の曲線も見えてきて、どこでどう修正すればよいかも見えてくるように思います。 2009年1月21日 琢
2009年01月09日
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『独占欲』 種族保存 自然界の秩序を保つ 法律でなく 束縛も 繋縛も やきもちも拗ねも 自分の存在価値を植えつける 迷惑でなくありがたく思う 強く出なく それとなく バランスのとれた心で 人に苦痛を与えないように ”己の欲さざることを他人に施すなかれ” 他人の心の中には自分のものや絆を結んだものに対して独占したいという本能があると思います。それは良い意味では、その種族を保存する為には必要なもので、そういう与えられた心があると思います。独占欲はある意味で自然界の秩序を保っているといえると思います。人のつくった法律でなく、夫婦、家族、一族、国を支えていく為に必要な欲でもあると思います。その絆は無ければならないと思いますが、反面、束縛や繋縛は強すぎると苦痛を与えるものになりますよね。やきもちはよくある心の衝動で広い心で居るときは心地よいもので、拗ねたりすることとあわせて、度が過ぎると相手に不快感を与えるものだと思います。理論的に言えば、自分の価値観や認識を強く植えつけておきたい心なので、迷惑にならないように、受ける方も、ありがたく思えるものがいいですよね。ある意味ではなければならない心ですが、強くではなくそれとなくのほうが大事に思う心が通じ合えると思います。バランスのとれた心で結ばれた絆を保っていくのがいいですよね。人によってはそれが無ければ不安にかんじる人もいるようですが、自分にされていやだと思うことは他人にもしないほうがいいですよね。それぞれの育ったものさしが違うのですから、コミュニケーションをよくとって絆を深めておくのがいいと思います。思いやり、気くばりは必要なもので、相手を理解することは大切なことだと思います。独占欲は守ろうとする心ですから、あまり前面に出さない方がいいですよね。 2009年1月20日 琢
2009年01月09日
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『時』 悠久の願い 永続の願い 研ぎ澄まされた心 時をはずせば山の向こうは見える 祈りは願いを突き通す 宇宙の極へ そこから相手に デジタルは何処にでも それが神仏なら届くだろう 人生は一瞬のできごと 目で学ぶ時間は長い 目で見なければ短い 最近 願いの意味が生まれる以前から続いてきたような気がしてきました。自分の中にある反省しなければ浄化できない心が、凝り固まっているように思えてきました。はるか久しいものは現在だけのものではないような気がしています。一瞬の嬉しさや喜びを長く続けていたいと思う気持は人情ですが、ものが微粒子の集まったもののように、暫定的なものの集まりだと思うようになってきました。永続しようと思い出すと守りになって、苦しみも出てきてしまいます。嬉しさや喜びに不安が付きまとうようになってきてしまいます。願いは祈るような気持になって、心を研ぎ澄まさなければ届かないような気がしてくるんですよね。届けと思えば、時間や距離を取り去って、時空を突き通さなければ届かないように思ってしまいます。時というものをはずすと、噴火で出来た山が幼年期、青年期、老年期を経て平地になって、その向こうが見えてくるように、心は次元を超えるときに、その願いを突き通すことが出来るのではないかとか思ってしまいます。携帯電話が回線がなくても、発信された電波が中継基地を経由して相手に届くように、心が宇宙の極に発信して交信できれば、相手に神仏の認知を受けて、デジタルに何処へでも届くような感じさえしてきます。魂が永遠のものであれば、今のこの人生は一瞬のできごとだと思いますよね。年とともに一年が短くなってきたように感じるのは、目で見て学ぶものが少なくなってきたのかもしれません。子供の頃の一年はすごく長かったように感じて、何を見ても学ぶものが多かったからかとも思います。年とともに知っているものが多くなってくると学ぶものが少なくなって、意識の寝ている時間が多くなってきたのかとも思えてきますよね。学ぶものが少なくなるということは変わることも少なくなって、実在界の魂のように不変に近くなっているということでしょうか。 果てしなく 険しく続く 天の道 受容してなほ 見えぬ道のり 2009年1月19日 琢
2009年01月09日
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『気』 自然現象は時計と反対 お笑いも武道も突きと受け 型は気学の定石 六根清浄で気を読む 忍者は気配を消す 見えずとも観える 風はなくとも動かせる 勘はその働きか 蝶は何千キロの交信をすると言う 虚空を時空を超えるもの 集中力の凄さ 瞬間的菩薩 台風や竜巻の回転は左回りですが、時計は右回りになっています。お笑いの場合は『ボケと突っ込み』とよくいいます。武道は突きと受けだと思います。それが型の定石になっているようですね。四十九日の行を終えた魂は竜巻のような左回転の渦の中を通って霊界に上がっていくそうです。気学というのがあって、陽明学、朱子学の中に出てきたと思うのですが、気の流れにも一定の理・哲学が有って、それが定石のように型が決まっています。六根清浄にして、精神統一して気を読み、それをつかう技もあります。忍者は息を止めて人の気配を消して忍ぶそうです。武士たちの達人は人の気配を察知するからでしょう。目をとじても人の気配を感じ取ることはできるような気もしますよね。以前にテレビの番組で、合気道の達人が壁の向こうの敵の動きに呼応した型を見せてくれました。合気道は一見日本舞踊のように見えますが、光に照らされた相手の影に入ってしまう型が有りますから、自分に邪気がなければ打たれることは無いそうです。気を集中すると見えないものでも観えてきたり、気合で風も無いのに相手を吹き飛ばしたり出来るんですよね。勘も周囲の状況や空気を読んで働くものかもしれませんね。蝶は何千キロも離れた同胞と交信しているといわれています。虚空や時空を超えて気はあるもののように思います。人間が何か一点に集中すると凄い力を発揮できるものです。そのときは瞬間的菩薩になっているといえるかもしれませんね。陰陽道で阿部晴明が幻術のようなことが出来たのもそういうものでしょうね。何か自分の願いの成就に一極集中できれば、”念ずれば花ひらく”で、思いは叶うと思います。 2009年1月18日 琢
2009年01月09日
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『不安感』 信念がないからか 未知だからか 怖い人がいるからか 容赦なく大自然が怒るからか どんな仕返しがくるかわからないからか どんな病になるかわからないからか 断末魔を恐れるからか その先の楽園を信じられないからか 不安が人の軌道を狂わせる 托身できれば余計なことはしない 人の値打ちはそこで決まる 不安感は誰にもあるもので、それを払拭するすべを知らない人やその葛藤を超える努力の足らない人もいます。確たる信念が有る人は少ないかもしれません。時は過ぎていきますが、自分はじっとしている訳に行かないので、何らかの不安な行動をしているものです。経験不足で知らないことが多すぎたり、誰か怖い人に怒られるんじゃないかとか、大地震みたいな天変地異が来るんじゃないかとか、どんな仕返しを受けるかとか不安材料は沢山あるでしょう。ドラマやニュースで見たような病気に自分もなってるんじゃないかとか、そんな症状が自分にもあるけど病院に行くのが怖いとか断末魔の苦しみを想像しても、人は生まれた以上、全員がいつか死ぬんですよね。すべてから逃げずに受けとめると、ポジテイブな気になってきて、前向きな気持になって、希望さえ湧いてくるかもしれませんよね。最近の事件を見ていると夢もなく、希望に向かわないで他人のせいにして、自分を哀れんでどうしようもない気持のやり場がなくて事件を起こしている場合が多いように思えてきますね。ちょっと気分を変えれば、あのような事件を引き起こすことはないように感じてしまいますよね。その先には楽園があると思えば、笑うことや楽しいことが来ると思えば、生きていて良かったと思えるときはくるもんですよね。人は不安になると、自分を見失って、自分らしくない言動をしてしまうものですが、人はそれを観ているんです、観られているんですよね。”まな板の上の鯉”で、どう料理されても受けとめる托身ができれば、余計な、自分の軌道を変えてしまうようなことはしないでしょう。何も思いつかないときは、じっとしていることも行為なんですよね。変に動いて、自分らしくないことをしてしまうこともあるので、不安の解消はしておかなければ、そこで自分が評価されてしまうんです。 人の値打ちは不安なときにとる行動で決まるといってもいいかもしれません。断末魔の覚悟、最終章の覚悟さえできていれば、何でも出来て、人生は明るいものに変わると思います。その短い時を恐れるあまり,長い人生をつまらないものにしないように、心がけると自分がなくなって、無私の状態で、他人に思いやりや気くばりが出来るようになると思います。 2009年1月17日 琢
2009年01月09日
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『善悪の境』 食欲 愛欲 物欲 知識欲 名誉欲 健康なら五蘊は盛んに 全部都合がはたらくもの 八正道に照らして ほどほどに中道を歩む 煩悩と執着を善い方向へ 願いとその成就の為に 進化と成長は現象界では可変 六道は紙一重 難しいところを真っ直ぐに歩く為に 天国と地獄の境目だから 他人に働く煩悩は各種ありますが、生きていくためには必要なものです。種族保存、生命の維持にも、豊かな心を育む為にも、健康であればこそ、内から滲み出してくるものでしょう。それはその人独自に必要なもので、社会の中では人それぞれのものがあるために、あまり固執すると自分には良くても人には迷惑になってしまうものです。八正道【正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定】をそれぞれ自分に当てはめてチェックしておく必要があると思います。『千と千尋の神隠し』のアニメにも電車の行き先が『中道』とありましたが、かたよることなく、何ごとも中道を歩むのがよいとされています。菩提心を発掘して、正法を実践する為の修行の場が自分の人生ということでしょうね。お釈迦さんは”煩悩は有ってもよいが執着を無くしなさい”と言ったそうで、煩悩も執着も有るから、向上、成長した魂を子孫に繋いでいけるのだと思います。人の願いは前世からもってきたものだと高橋先生は言います。その成就の為に”菩提心発掘”をして、自分の前世からのカルマの浄化をして、因縁転換をすれが最高の果報が得られると言っています。人は同じ過ちを何度も繰り返し、逃げても逃げてもその仕組みに会うのは前世からのものだからだそうです。それをきっちり受けとめて浄化していけば、願いは成就すると言っています。間違った信念や過去のとらわれや他への責任転嫁をどう言い逃れても、自分が前世から持ってきたもので、自分で浄化しなければ、子孫や次の世にも残ってしまうものかもしれません。それもこの可変の現象界・この世でしか自己変革して進化成長することは出来ないと言うのです。六道【地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天】はどう転ぶかわからない、崖っぷちを歩いているようなフラフラしたような状態にあるものを言うそうで、紙一重で落ちてしまう道に立っているそうです。その危ういところでも真っ直ぐに歩く為に心を整えておく必要があるのですね。今歩いている道は崖っぷちではなく、下にはちゃんとマットが敷かれていると思えば怖くないと言うのが信仰・宗教で”信じるものこそ救われる”ということでしょうね。そう思えれば、真っ直ぐに歩けるかもしれないですよね。天国と地獄の境目に立っているのが人間なんですから・・・・・。 やじろべえ 傾きつつも 整えつ 人の歩みも かくてあるらむ 2009年1月16日 琢
2009年01月09日
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『価値観』 迷いは選択肢が多いから 定石は過去のデータから チョイスは人生を左右する ひらめき・ウイットは瞬時 世の流れは自然界の重力 自分中心に流れていない 水は高いところから低いところへ ものの道理をわきまえて 物事の順番を間違えないように 命を最優先に考えて 豊かさは価値観から 生きて何をするかを考える 時代の流れに沿って 分岐点に立つときに、いろんな選択肢があると当然迷ってしまいます。地震や火事とか突発の出来事のときは、まず助かることだけを考えて、迷ってる暇はないですよね。その時々に数ある選択肢からどれを選ぶかは状況によって違ってくると思います。世の中や自分の過去の経験から、こんな場合はこれがいいと言う定石みたいなものが有ります。とっさに決断するときはひらめきやウイットでチョイスしなければなりません。たいしたことでなければ良いのですが人生をそれによって左右されてしまうチョイスもあると思います。それを思うと迷ってしまうのが人情ですよね。”分岐点に立つとき、風の流れを見よ!それを運命と思え”という言葉を思い出します。この世の中には重力があって、それによって川の水のように、高いところから低いところへ流れているもんですよね。その流れは自分に中心には流れてくれていないもんです。よくものの道理をわきまえて、その順番を間違えないようにしないと酷い目に遭うのがこの世の中です。20世紀は、文化文明の進歩の為に自分の体や命さえ犠牲にしても、会社や世の中にしたがって生きていかなければならない時代でした。その歪が21世紀になって顕著になってきています。唯物論から唯心論への移行が始まっているような感じですね。今は人命尊重の傾向になってきて、20世紀とは価値観が変わってきたように思います。”お金やものは持っていけないが心の中のものは持っていける”と死ぬときのことを言われてきたもんです。人生の目的がお金やものを獲得する時代から、命の尊さや心のあり方を重視する時代へと変わってきたように思いますよね。心が豊かになるための価値観が変わってきたんでしょうね。自分の照準をどこにあわせるかも変えていかなければいけませんね。生きて何をすれば満足感があるか、幸せ感が得られるか、時代の流れに沿って自分も変わっていく必要があると思います。 2009年1月15日 琢
2009年01月09日
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『答は歴史にあり』 言葉にする 行動にする 心の思いを願いとして 瞬時に動く心を止観して 一貫したものの中で 自分だけのためでなく 満足感は不安を凌いで 確たる信念に 理論は結果の分析 先の見えない行為は歴史と常識で 歴史は否定できない事実 過去に学ぼう 言葉は言霊と言って、一度口から出ると、人の心に残って消えないものです。言葉の難しさは、虚しいもので、なかなか思うことが通じないものですね。行動も同じく、色になるもので、人から見ると判断の対象になってしまうものです。自分の心に起きる思いを願いとして、世に発信するときに自分を現しているので、瞬時に動く心を止観して、感情の動きを客観的につかんでおくと、表現の仕方を修正できると思います。心にある願いは奥底で一貫しているもので、自分だけのためにではなく、人のためのものの方が不安は少ないものです。人は誰かの役に立ったときに、感謝されたり、満足感があったりするもので、その積み重ねが確たる信念に代わっていくものだと思います。その積み重ねた結果が他人からの評価となって分析されて,理論,理にかなったものかどうかになるのです。過去は結果として残っていますが、これからの行為は、良い結果を生み出すかどうかはわからないから、迷うものですが、他人の喜ぶものや常識的なもの、歴史上には参考になる事例は沢山あるので、それを考慮して行為すると失敗は少なくなると思います。歴史は事実として残っているものですから、その中から良いと思うことや好きな人物の行為や、自分の失敗の過去からも、よく学んだ上で良いと思う方向に歩くのがいいと思います。 2009年1月14日 琢
2009年01月09日
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『落とし穴』 釈迦の経典 玄奘三蔵の唯識 高橋先生の実践法 全員がもっともだと思う 他人に要求していないだろうか 自分は納得で錯覚 人の前に”自分が”と実践 自分は常識的だと思ってる 世の摩擦が自分の魔境 落とし穴は自分が這い上がる 欠陥は”自分”と改める お釈迦さんの教えは、経典として人々の心の拠りどころになって、相対的に人の心のあり方やもち方、修正の仕方を説いています。天台のチギさんが5世紀に四大経典【華厳経、阿含経、方等経、法華経】に仏陀の教えを漢訳しました。玄奘三蔵さんは7世紀に唯識の教えを説いています。これは、意識を深く分析して、種から花が咲くまでを”因縁果報”として、人の心の道を説いたものです。三蔵は、経・律・論で、経典・教義、戒律、解釈・説明のことで、要するに、釈迦・仏陀の教えと戒めとそれを解釈して広く解き明かすことです。いくら良い教えが説かれていても、それを自分のものとして実践しなければ”絵に描いた餅”に過ぎないと、菩提心・慈悲慈愛の心を発掘して根底に置き、独自の実践法を高橋先生はGLAで教えています。奈良薬師寺の故長老橋本凝胤師は、”講話はいと尊きものなり、さても、実践はなほ難しきものなり”と遺しています。頭では全員が良い教えだと思うでしょう。良い言葉はたくさん説かれてきています。人は良い言葉を見つけただけで、自分も努力しようと思うのでしょうが、他人にも要求しているものですよね。納得した時点で自分は出来ていると錯覚している場合が多く、良い言葉を見せたり、言ったりして他人に押し付けて、そうあるべきでしょ、と言うんですよね。自分が実践できていないから問題が起きるのですが、自分のものさしは常識的だと疑うこともせず、他へ責任転嫁して、気まずい状態や修羅場を作って、どん底の気分に落ちている場合が多いですね。自分は出来てるつもりの錯覚が落とし穴になるわけで、そこから這い上がるのは自分なんですよね。素直に問題に対処して、欠陥は自分にあったと、それぞれが改める教えが相対的な仏教の教えなんです。次から次へと試練が続くのが人生なんでしょうね。 果てしなく 険しく続く 天の道 受容してなほ 見えぬ道のり 2009年1月13日 琢
2009年01月09日
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『気付き』 大事を為そうとして 力を与えてほしいと 神に祈ったのに 慎み深く従順であるようにと 弱さを知った より偉大なことが出来るようにと 健康を求めたのに よりよきことが出来るようにと 病気を与えられた 幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった 世の人の 称賛を得ようとして 権力を求めたのに 神の前に ひざまずくようにと 弱さを与えられた 人生を楽しもうと あらゆるものを求めたのに あらゆることを 楽しむようにと 命を授かった 求めたものは 一つとして 与えられなかったが 願いはすべて 聞きとげられた 言い表さなかった祈りも すべてかなえられた わたしはあらゆる人の中で もっとも豊かに 祝福されたのだ 人生には四苦八苦は必ずあるもので、”生老病死”の四苦、愛別離苦、怨憎会苦【おんぞうえく・恨みや憎しみを感じる人々と出会う苦しみ】、求不得苦【ぐふとっく・物質的な欲望が満たされない苦しみ】、五蘊盛苦【ごうんじょうく・五つの積み貯えられてものが盛んになる苦しみ、ものに執着する苦しみ】があって、これが、色受想行識で、六根というセンサーで外からの色を受信して、心に浮かぶあらゆる思いで行動して、その結果、四苦八苦となるわけです。これは逃れられない苦なので、すべてを当たり前として、受け入れ、開き直る【当前開直・とうぜんかいちょく】がよいとされています。 そこからの気付きは、諸行無常【この世のあらゆる存在と現象はすべて変化してゆき、永遠のものはない】、諸法無我【この世のあらゆる物事には、永遠・不変な本性である我がない】ということでしょう。 2009年1月12日 琢
2009年01月09日
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『当たり前』 無くてはならないもの 論ずるに足らないもの 平凡であること 命にとって最重要なもの 空気や水 親の愛や体 時には考えてみよう 常識と思っていること 当然のごとくやっていること 落とし穴はそこに ありがた味を知る 絶望を超へる為に 無くてはならないもの、有って当然のものは論ずる必要も無いものだと思って日常生活をしている我々ですが、平凡であることほど難しいものは無いのではないでしょうか。それは、生命には絶対になくてはならないものが多いと思います。空気や水も、有って当たり前で、無きゃ死ぬしかないでしょ、当然じゃんと思っているものですが、地球環境汚染や数々の異変が起きてくると、そうも言っていられない時代が来たように感じますよね。親の愛やいただいた自分の体も、親だってそうだったんだから、で済ませてきたように思いますよね。その当たり前のことが守られない時代になってきているような事件が増えてきていますね。赤信号では渡ってはいけないのにと思って通過しようとしておきる事故もそうですよね。相手に常識があるはずだと思い込んで起きる事故は、世の中を信じ切れなくなる現象ですよね。常識は守られていると思って、当然のことのようにやってきたことでさえ、確認をしなければならない世の中になってきているんですよね。実はそこに落とし穴があるように感じています。そこにあるべきものが無いかもしれないから、確認をいちいちしなければ、責任追及されてしまうんです。今の時代は、そこにあるべきものがあることに、ありがた味を知る必要が出てきていますよね。絶望の淵に立って始めて、そのありがたさを感じるものだと思います。人生観のものさしがそれぞれ違って来ているからでしょうね。何度もどん底を味わってきた人は、あわてずに冷静に対処できるでしょう。経験は人を強くし、試練を超えるすべを教えてくれるでしょう。個々の人が、まず、当たり前のことを知る必要があるし、それを確認した上で行動すれば、事件は少なくなるでしょうね。 2009年1月11日 琢
2009年01月09日
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