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『記憶』 知識は意識の中に有るもので 体験して顕在化したものだが 意識には潜在的なものも有って 今生では未体験のものも入っている 自覚せず無意識に現われるもので 生まれる以前から持って来ているもの 忘れているが思い出させようとするもの それを顕在化しようとする仕組みも有って 無意識な出会い、出来事、事態を通して 体験させることで顕在化して来る意識が有る 年齢と共にそれを理解出来るようになる 自分ではつくれないユニバース的なもので 次元を超えた仕組みが現象に成るとき 人は本当の故郷を思い出すのかも知れない 生まれたときから親に教えられていないもの、本能、良心、忘却、感情、乳の吸い方と言ったような意識は記憶の中に入っているものだろう。生きて行くための必須条件に成るものは具わっている。生後の知識は体験しながら顕在化したものだが、意識には潜在的なものも有って、今生では未体験のものも入っているとしか思えず、自覚せずに無意識に現われるものの中に生まれる以前から持ってきたとしか言いようの無いもので、忘れているのだろうがそれを思い出させようとする、顕在化させようとするような自分の意志ではつくれない仕組みのようなものが有る。そういう出会い、出来事、事態に接することで体験させて顕在化させようとする、神仏や守護指導霊のはたらきが有るとしか思えない、記憶の奥底 に秘められた潜在的な意識を覚醒させようとするユニバース的な体験が有ると高橋先生は言っている。それをつなぎ合わせてゆけば必ず共通点が観えて来て、それが前世からの魂願、この世で自分に課した使命、と言っているが、それは年齢と共に次第に理解出来るようになるものだろう。次元を超えた仕組みが現象に成るとき、人は本当の故郷を思い出すのだろう。今生に生まれてきた理由は、魂の修復と成長、出来なかった願いの成就、関わりの再結、内と外への照らし、だと言うが、目標が高すぎたり、逆境だったり、人間関係の捩れが有ったり、病のために上手く運ばない場合が有ると言っている。それを超えれば、今までより元気に成って、新しい感情が芽生え、多くの気付きが出て来て、協力者や同志が 現れ、答えが向こうからやって来ると言っている。自分に当てはめれば、人と人を繋いで、思わぬ力を発揮出来て互いに歓び合うことに、自分の生き甲斐を感じていることだと思う。 2012年2月1日 琢 --- > wrote:
2012年01月31日
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『神仏の目』 神聖なものを汚されたくないこだわりは 思い出の中にも有るだろう 心の中の思い出は魂の中に秘めて 見えるもの触れるものは持って行けない 如何に苦労して蓄積したものでも それを持って行くことは出来ない 置いてゆくものにはハイエナやハゲタカが 醜い争いをするだろう 堂々と身を正し 人の目を盗まず 小さくても自慢できる思い出を 胎蔵しておきたいだろう そうでなければ置いてゆくものに執着を残す 神仏はそれを観ている 神仏を見たものは無く、古来から宇宙大自然に在るものに祈り、その祈りを心の中に神仏としていつも湛えている状態を信仰と言って、人には信仰心や仏心が有ると言うのだろう。魂は輪廻転生すると言われていて、生きている内に心でつくってきたものを意識の中に収めて、稼いだお金やものや土地を持って行くことは出来ないが思い出や他の心の中に生きているものは持って行けると言われている。人には神聖なものを汚されたくないと言うこだわりが有るが思い出の中にもそれは有るだろう。如何に苦労して血の汗をかくおもいで蓄積したものでも、そのものを持って行くことは出来ない。もし、置いてゆくものがあればそこにはハイエナやハゲタカのようなものが集って来て醜い争いをするだろう。人に一番 大切なことは”今を生きる”ことで、死後にこの世に自分の唯物的影響を残すことではないだろう。堂々と身を正し、人の目を盗むことなく、小さなことでも自慢できる思い出をつくって心の中に胎蔵して還って行きたいと思うのが人情だろう。そういう努力をしたことを神仏は観ているのだろう。試練が来るたびにその思いはますます深くなってゆくのだろう。 2012年1月31日 琢 --- > wrote:
2012年01月30日
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『活性』 去年の一文字は”絆”だった 今年は”和”か”響”が良いだろう 今求められているのは”結束”で それにも必ず必要な一文字だろう 希望の黄色に正統の青色を基調として 美しく品格の在る復興のために 組み合わせが求められている 堂々と点でなく、線でもなく幅として 小細工をせず世界のリーダーとして 量と質のバランスを保ち 屈折の無い流れの中で その勢いを止めないように リスクを恐れず 停滞の活性が求められている 世界的大不調の中で日本が占める影響力は大きい。今急成長している中国企業の多くは商品が日本で売れるかどうかを目安として、ファッションも世界最高位置に在るからと日本に学ぼうとした企業が成功を収めている。嘗て自分が大学を卒業して社会に出たときはアメリカに追いつけ、追い越せと目安はアメリカだった。20年差が有ると言われていたが、その頃もアメリカに学んだ企業が成功を収めてきたように思う。今は追われる、目標とされる立場で独自の前進が求められているのだろう。去年の一文字は”絆”だったが、今年はそのために結束を図るときで、”和”か”響”が良いかも知れない。ファッションは希望の黄色に正統の青色を基調としたものが美しく品格のある復興のための組み合わせとして 良いかも知れない。前進は堂々として点でなく、線でもなく、全体の幅として小細工をせず世界のリーダーらしく量と質のバランスを保ち、屈折の少ない流れの中でその勢いを止めないように、リスクを恐れず、今ある停滞を活性化させることが求められている。 2012年1月30日 琢 --- > wrote:
2012年01月29日
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『欲望』 人のエゴはどこかに見え隠れするもので どん底に落ちても消えない 人の本性は怖いもので どれだけ立派な建前を言っていても 都合良くしようと思う言動の中に 姿を現してしまうものだろう 多くの人がそれで失脚するが 何度繰り返しても消えていない ロマンには甘い心も入っているのだろう 煩悩が無ければ生きてゆけないが 無秩序を抑える戒めが有る ”摘むまいと 誓いし花を 手折りしも 萎れて悔やむ 過去の戒め ” 欲望を必要最小限にすることだろう 自分にもどこかに有るのかも知れないが過去の失敗の連続に懲りてどこかで踏みとどまっているものを、同じ境遇を経験したものの中に、自分本位の他の迷惑を考えもせず自分のエゴとして押し通そうとする姿が見えると、人は変わらないものだとつくずく思って失望してしまう。人のエゴはどこかに見え隠れするもので、どん底に落ちても消えていないところを目の当たりにすると人の本性の怖さを思ってしまう。どれだけ立派な建前を言っていても自分の都合を前面に出す言動の中に姿を現してしまう。多くの人がそれで失脚するが何度繰り返しても消えず、懲りたはずの自己中が姿を現してしまう。ロマンには甘い心も入っているようで、かなり賢いはずの人でもそれを抑えきれないのは生い立ちの基盤による ものからくるのかも知れない。煩悩が無ければ生きてゆけないが、無秩序を抑えるための戒めが必要だろう。他と摩擦を起こさないために相手の立場に立って考えて自分の欲望を必要最小限にして謙虚で素直な自分でいるしかないと思う。 摘むまいと 誓いし花を 手折りしも 萎れて悔やむ 過去の戒め 2012年1月29日 琢 --- > wrote:
2012年01月28日
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『出会い』 何かの仕組みが有るときは 出会う人が浮き立って見えるような 振り返ってみればそんな気がして 今、会う人がそうかとも思えない 運命的な出会いにはそんな気がしている こじつける場合は一方的だが 双方に感じるものだろう 多くの出会いが有っても 劇的なものは殆んど無い それでも必然の仕組みがはたらいている 思い起こせばユニバース的なものには 何処かに共通点が有る 喚起させるもの、覚醒させるもの それは自分の心の源流に有る 自分では計画できず、予定も出来ない出会いというものは確かに有るように思う。友達は学校とか会社とか何かのサークルとかで出合う人々の中から自分の心の赴く人と親しくなって出来るが、其処に参加していなければ縁もゆかりも無い場合が多く、自分では意識して作れない縁だろう。複数の人々の中から選ぶのは自分のようだが、その意味は後でわかることが多く、何か自分を咲かせようとする意味が有るような気がしている。何か別の力がそうさせようとする仕組みのように思えて、奇跡的に思えるときには貴人といって、双方の守護指導霊がそう仕向けたとしか思えないような出会いも有る。何気ない付き合いの中にも忘れていた心の源流に有るものを思い起こさせようとしての出会いとしか思えないこと が有る。唯識では魂の中に意識の蔵が有ると言い、其処にインプットされたものには自分の前世からの願いが入っているのかもしれない。高橋先生はその仕組みをユニバースと言っている。自分の力の及ばないところに有る仕組みが必然的にはたらいているとしか言いようの無いものだろう。みんなが体験するもので、そういう不思議な体験には共通する意味が有るように思って繋げて見れば、其処に自分の使命と思えるような”こういうことだったのか!”と確信めいたものを感じるだろう。魂に中にあるものを思い出させようとする何かのはたらきが必然的に用意されたとしか言いようが無い出会いは必ず有る。その因は潜在的に魂の中に有るもので、高橋先生がその著書の最後にミカエルとして書いた”既に有 る解答に気が付くこと”が人生と言えるのだろう。 2012年1月28日 琢 --- > wrote:
2012年01月27日
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『業』 ブランドでなくても格好は別にして 何不自由無く生きていられるのに 充たされない心がある 上を見ても下を見ても切りが無いとき 程々の分相応と思えれば 笑顔でいられるだろう 人間のとらわれがそれを赦さない 妥協を赦さず忍耐も出来ない 其処が摩擦の元に成っていても 変わることができない その意地さえ捨てれば 自分は惨めでも他人はそうは思っていない 自意識過剰が自分を不幸にしている 何度体験しても止められない 心に描くこだわりが有るからだろう 物事をいつも客観的に観れる人は自分の思う理想に合わせてものごとの監視をするが、自分をも監視して責めてしまい、生真面目すぎる人は自分を赦せなくなって自分をダメ人間だと責めて神経症に成っていってしまう。其処には偏りやこだわりも有って、ブランドでなくても格好は別にしようと思えず、何不自由無く生きていられても充たされない心をどうしようも出来ず自分を持て余してしまう。上を見ても下を見ても切りが無いと思うときは、ほどほどの分相応と思えば笑顔でいられるのに、人間のとらわれがそれを赦さない。自分を特別視してそうなりたくないと思うところに落ち込んでいってしまう。妥協を赦さず忍耐も出来ない。其処が摩擦の元に成っていてもそれを変えることが出来ない。その意地さ え捨てることが出来れば、自分では惨めだと思うことも他人にはそうは映っていない。自意識過剰が自分を不幸にしているのを判っていても、そのことを何度体験しても止められず、心に描くこだわりから逃れることが出来ない。自分をもっと開放してあげれば良いのに・・・・・。 2012年1月27日 琢 --- > wrote:
2012年01月26日
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『其処に』 現象は正直なもので そのままが現われている 自然を鑑賞することも大事だが 何かに癒される部分に 自分の何処を癒されているかを思えば その部分にこそどうにも成らないところが有って 手がつけられないと思う改善の余地を観ている 何かを勝ち取ってもなお虚しい部分に その癒しを求めているのだろう 何かを置き去りにしているような 一番ゆたかでも一番かわいそうなもの 今の日本に当てはまるものかも知れない そんな騒ぎどころではない現状といえども 其処がネックに成っているのかも知れない 何をしてもされても、気分転換をいくらやっても消えないもどかしさが残るときは有るだろう。贅沢なのか目標が高すぎるのか何故が気が晴れないときは有るものだが、現象は正直なものでそのままが現れている。自然を鑑賞することも大事だが、何かに癒される部分に、自分の何処を癒されているかを思えば、その部分にこそどうにも成らないところが有って、手がつけられないと思ってきた改善の余地を観ているのかも知れない。ゆたかに成りすぎて感動を忘れているのか、何かを勝ち取ってもなお虚しさが残るのは、其処に無意味なエネルギーの争奪戦をやっていても充たされない部分が有るのだろう。何かを置き去りにしているような、東京都知事の石原新太郎氏の書いた本には『今の日本の子供たちは一番 ゆたかでも一番かわいそうだ』と書いている。其処は今の日本のすべての人々に当てはまるものだろう。そんな騒ぎどころで無い現状と雖も、其処がネックに成っているのかも知れない。自分の過去にも大きなお金を動かしていながら資金繰りに窮して虚しい毎日を送り、もっともっと小さなお金で喜び合う人たちを見て羨ましさを覚え、自分も早くそうなりたいと思ったことが有った。大金を持っても、ブランドを身につけても晴れない心の虚しさをゆたかな国ほど抱え込んでいるのかも知れない。心の源流に有る”魂の抜け殻”の姿を見る思いがしている。高橋先生の出版した『魂の発見』が参考に成ると思う。 2012年1月26日 琢 --- > wrote:
2012年01月25日
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『孤独』 孤独と孤独感は違う 天涯孤独は縁者もいないのか 縁者が居ても考えるときが孤独なのか 人それぞれ考えることが違い 理解を得られない孤独感 どちらも淋しいものだが 同志、仲間、友人がそれを癒してくれる 融和、融合が無ければ耐え難い 忍耐と妥協があれば いつか解かってもらえる期待感は有る 孤独感は人をダメにするが 自己破壊しないための智恵さえあれば この世の存在は認められる 摩擦を起こさないように 若い頃は短気、単細胞、短絡的で感情の起伏も激しく、すぐに切れて関係を断ち切ってしまう短慮な自分がいた。瞬間的に起きる感情を抑えきれず、自分からはぐれものに成っていたように思う。良くぐれなかったものだと思うが、一人ぽっちになることは恐れていた。一人で遊ぶことが苦手で、いつも誰かと一緒に居たかったから友達だけには付き合いが良かったように思う。孤独と孤独感は違うもので、天涯孤独は縁者も居ない状態だが、縁者が居ても考えるときが孤独なのか、人それぞれ考えることが違って理解を得られない孤独感も有り、どちらも淋しいものだが、そういうときに同志や仲間、友人がそれを癒してくれたり、自分では気がつかなかった良い部分を見つけてくれたりしてくれる。その協力者同 志を紹介し有って結ぶことが好きで、損得抜きでそれをやって来た。融和融合が無ければ耐え難く、忍耐と妥協が有ればいつかわかってもらえる期待感も湧いてくる。孤独感が人を潰してしまうが、自己破壊しないための智恵が、友達を大事に次の世までと思って来ていたのかも知れない。それさえ有れば少なくもこの世の存在だけでも認められるだろう、自分から断ち切る摩擦さえ起こさなければ孤独の淋しさも無いだろうと思ってきたことが、実は自分の使命だったのかも知れないと思えるように成っている。 やじろべえ 傾きつつも 整えつ 人の歩みも かくてあるらむ 2012年1月25日 琢 --- > wrote:
2012年01月24日
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『戒』 誰が見ても横暴としか見えないことを正当化し ガキ大将さながらに振舞う権力者が 国家を汚していることを省みず 自分の権力を誇示する姿は見るに絶えず 歴史に汚名を残したものは多い 人の心の先入観は消し難く 国境の隔たりを命の隔たりにしてしまう 恥ずべき自己顕示欲は その一族をも苦難に陥れてしまう 名君になるべく暴君を演じるものは多い 禍根を悔いても修正不能な現実も有る 過去の汚点を指摘追求されることの無いように 身を正しておくことの大切さを思う 人権尊重、自由平等の時代ならこそ ”三日天下”という言葉が残っているが、人の上に立つものはその志を持ったときから、その夢を実現させる過程で理性を強くして無私の心で歩を進めておくことが望ましい。快暴流の自信家にしか出来ないことは多いが、煩悩・邪気を慎んでおかなければ自分だけでなく国家までも汚してしまう事例は多く、指導者が頻繁に交代する国は国際的にも信頼の無い国だとされてしまう。誰が見ても横暴としか見えないことを正当化し、ガキ大将さながらに振舞う権力者が国家さえも汚していることを省みず、自分の権力を誇示する姿は見るに絶えず、歴史に汚名を残したものは多い。人の心の先入観は消し難く、”国の境目を命の境目”にしてしまう恥ずべき自己顕示欲はその一族をも苦難に陥れてしまう。名君になる べく暴君を演じるものも多く、戒を持たなければ禍根を悔いても修正不能な現実を作り出してしまうことも有る。過去の汚点を指摘追求されないように自分の身を正し、責任転嫁して保身に勤めることの無いようにしておくことは、人権尊重、自由平等の時代だからこそ、指導者の大切な心掛けだと思う。 2012年1月24日 琢 --- > wrote:
2012年01月23日
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『精神』 男女の識別は頭髪や服装でしていたが 最近、それだけでは分からなく成っている 男女とも美形が多くなったためで 性質も同姓的で 男は強く女は弱いものと断定できない 昔の常識は通用せず 人権と自由平等の元に 対等が原則に成っている 精子ををもつもの卵子を持つものだけは 自然界の法則通りだが その美しさで分別できない 気性も均一化して来て その扱いは難しくなった 失礼に成らないようにと思うが 儒教精神も薄れて来ている 小学生のときだったように思うが、よく言われる言葉は『男女同権』、『レデイーファースト』だったが実際の日常ではまだまだ封建的な家庭が多く、男中心社会でそれが常識になっていたが、アメリカの西部劇を見れば驚くことが多かった。地上の歴史を見れば日本だけでなく世界がそうだったように思うが、”神は男には力の強さを与え、女には心の強さを与えた””男は遠くを観て女は近くを見る”生まれたときから共にそれなりの覚悟と受容した自覚が有ったと思う。その識別も頭髪や服装の違いで出来たものだが、最近はそれだけでは分からなくなって、男女共に美形が多くなってきたように思う。性質も同姓的で、男は強く女は弱いものとは一概には言えなくなって昔の常識は通用しなくなって来ている 。人権と自由平等の元に対等が原則に成って、肉体の構造上のものは自然界の法則通りだが、その美しさや気性は均一化して来ているように思う。扱いが難しくなって、失礼に成らないようにと思うが、ものごとの順番や思考過程の常識も変わって、儒教精神も薄れて来たように感じるのは自分だけでは無いように思う。潔い責任の取り方だけは残っていて欲しいと思う。 2012年1月23日 琢 --- > wrote:
2012年01月22日
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『他のために』 指導者を失うとき 群れはさまようだろう 人の軍団にはいくつもの派が出来る 理念が有ってもその解釈と手段が違う 仏教の三蔵のように 経は根本理念、律はその戒め 論でその解釈と手段の違いが分裂の元に成る 決然と生きるためのもの 有終の美のためのもの こだわりの違いが鮮明に出てしまう すべて備え、具えのために智恵を絞るが 外への配慮が無ければ 両方とも続かないだろう そうでなければいくつもの派はまとまらない 人心が惑うときは向かう方向がわからず、信念が持てず、秩序が乱れるときで、真の指導者がひろい愛を以って示さなければ群れは彷徨ってしまうだろう。人の軍団にはいくつもの派が出来て理念が有ってもその解釈と手段が違えばどれを信じれば良いのか判らず、秩序まで乱れてしまう。仏教の三蔵のように、経は釈迦の教義・根本理念、律はその戒め・自戒、論はその解釈と説明・説法だが其処にいくつもの論の違う派ができて分裂症状の元をつくってしまう。人類は基本的には太陽信仰で、日の出と共に生まれ、日の入りと共に死ぬ考えから仏教では日の出で大日如来に決然と生きるために祈り、徐々に阿弥陀如来に有終の美を飾れるよう西方浄土に導かれるための祈りをする。そのこだわりの違いが鮮明に出 ていて、すべて備え、具えのために智恵を絞るが、外への配慮が無ければ両方とも続かなくなってしまうだろう。そうでなければいくつもの派はまとまらず互いに排他的に成って批判の応襲で双方に無ければ成らない理念が薄れて人心を乱す元をつくってしまうのだろう。 2012年1月22日 琢 --- > wrote:
2012年01月21日
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『合掌』 この世の現実は理に叶って現れる どんな四苦八苦を経験しようが どの道を選ぼうが結果に現れて来る 其処にどんな気付きが有って 救われた恩恵に感謝できるかで 周りの認め方が違うのだろう 其処に他を癒す貢献が有るかどうか 人には皆、かたより、こだわり、とらわれが有って 過ぎてみれば”ああ、こうだったんだ”と 潜在意識を顕在化させる何かが有ることに 手を合わせて祈った意味を知る ”苦しいときの神頼み”も 自分の無力、非力を知ることで 他の役に立ち、迷惑をかけないことに 気が付くことだったのだろう 良く考えて見ればいつも結果は正直に現実に現れている、因果応報が殆んどで、大概は自分で自分が落ちる穴を掘っていて、それを他人のせいにして自分の修正浄化をせず、不満足な結果を嘆いている。この世の現実は理に叶って現れてしまうもので、どの道を選ぼうが結果に現れる。それにどう学ぶか、何か、誰かに救われた恩恵に感謝できるかで、周りの認め方が違って来るのだろう。誰も自分を認めてくれないとか自分は不遇だとか思うより、かたよりやこだわりやとらわれを少なくして、他を癒す貢献・光が有るかどうか、他の立場に立って見たことが有るか、を思えば、”ああ、こうだったんだ”と思うことが出来る。其処に何か自分の能力以上の何かの仕組みがはたらいていることに気が付いて、潜在意 識を顕在化させる何か霊的なはたらきが有ることを知って”苦しいときの神頼み”で手を合わせて祈るのだろう。おじいちゃんやおばあちゃんが毎日手を合わせている家ではそれが習慣に成っていて子供たちにもそれが自然に現れているのを見れば何故かホッとするもので、いつも祈り心を持つのは良いことだろう。自分の愚かさを知るほど他の役に立ち、迷惑をかけないことに気が付いて、相手の立場に立つことで摩擦が少なくなることに気が付くことだったのだろう。 2012年1月21日 琢 --- > wrote:
2012年01月20日
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『地下水』 出向かなければ先は無い 下手な鉄砲も数打てば中る 方向さえ間違わなければ 一発必中を狙えば 時としてタイミングが合わない 人の心はさまざまで選択肢が多く 時機を逸すれば空振りに終わる 今は点でも線でもなく 幅と量が必要で 菩提心の赴くすべての方向へ 波紋を広げるときで 待っていても未来は見えて来ない 何でも掘り下げてみれば 地下水は至るところに流れている ”ピンチはチャンス”という言葉が有る。今、何かを変えて転換しなければ成らないときなのかも知れない。発想の転換も必要で、価値観を変化させて、気力を充実させ、時代と状況に合う自分に変わるときなのだろう。すべてに閉塞感が有るときはどの分野にもそれが求められているはずで、出向かなければ先は無く、下手な鉄砲も数打てば中るというほど全体が変化するときなのだろう。方向さえ間違わなければ、一発必中を狙っても、考えすぎや迷いが有れば時としてタイミングが合わず、時機を逸すれば空振りに終わってしまう。人の心はさまざまで選択肢が多いが、今は点でも線でもなく、幅と方向と量が必要で、菩提心の赴くすべての分野に波紋を広げるときなのかも知れない。待っていても未来は見え て来ず、何でも掘り下げてみれば地下水・哲学と道は至るところに横たわっている。大事なのはそのために因の転換を図って動機をしっかりと持って、良き縁を生かすときで、人脈、友人知人が多いほど同志・縁が多く、その広がりをつくるときで、その可能性を求めて糸を手繰るときなのだろう。 2012年1月20日 琢 --- > wrote:
2012年01月19日
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『ほどほど』 ”弱肉強食”、”下剋上”は世の常だが 生きるためには止むを得ず 其処に”良心”と”共存”の本能を与え 自然界はそれで成り立っている 自分だけと思えば心の安定は無く 恩恵に生かされていると感謝すれば 秩序は保たれる 欲望に溺れれば肥満に成り 弦と同じように”ほど良く”張っていれば 心地よい音が出る 六根で苦も楽も感じ取るが ”ほど良い中道”が好ましく 他に苦痛を与えず貢献できている そういう自分を求めたいと思う 自然界には目には残酷なことが多いが、すべてのものには意味が有り、それで成り立っていると言う。強いものが勝ち残ると言う”弱肉強食”や”下剋上”は、動物にも有るが人間の歴史を見てもその繰り返しのようでそれが世の常”諸行無常”に成っていて、生きるためには止むを得ないのかとも思う。其処に”良心”とすべてのものと”共存”すると言う本能を与えて自然界は成り立っているのだろう。自分だけ良ければと思う心に安定は無く、慈悲慈愛の心・菩提心・愛を熟成させ、恩恵に生かされていると感謝して、その恩に報いるというくらいの心があれば秩序は保たれるのだろう。欲望に溺れて他のものを取り上げて自分だけが貪れば、怒り苦しみはこの世に絶えることが無く醜く肥満した状態に成る。 人は”万物の霊長”言うが、頭の良いものは明日の糧を確保しておくことを考えて必要以上の蓄えをする”蓄積”が”諸悪の根源”のように思えてならず、弦と同じように”ほど良く”張ることで心地よい音が出るように、バランスを”中道”に保つことが好ましく、結果的にはその方が他に苦痛を与えず何かに貢献できていて、他に照らしを与えることに成るのだろう。自分としては月のように闇を照らし、蔭で場の支えに成って、他を生かすことに貢献できるような心境でいようと思っている。 2012年1月19日 琢 --- > wrote:
2012年01月18日
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『中道』 生きとし生けるものを”プドッカラ”と言い 煩悩有るものを『有情』・うじょうとし 無いものを『無情』”アヌッサヤ”として 仏教では大きく二つに分けている 『無』を教えるものでなく 『有』の有り方を説いている 人には衣食住はつきものだが それぞれが煩悩で摩擦を起こす みんなが自分より他のことを思えば 住み心地は良くなることを説いている 自分の都合を優先すれば 周りを傷つけてしまう かたよらず こだわらず とらわれずに 『中道』をゆくことを良しとしている すべての”苦”の根源を煩悩として、内と外との応答『受想行識』は六根【眼、耳、鼻、舌、身、意】を通して行うために八正道【正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定】に照らして自分の邪気・煩悩が過度に優先されないように、『有情』と『無情』に分けて分類して『有』の有り方を仏教では相対的に説いている。人には衣食住が基本的な必要事項だが自分だけの【快】を求めてしまうことで摩擦が多くなって”苦”に遭遇するとしている。個々の人にはそれぞれのカルマ・業が有って無意識のうちに出てしまうもので、それを浄化する客観的なものの観方を説いている。どの宗派もそれが基本だが説明の仕方、感じ方、解釈の違いで説き方が違っている。人みな仏性は有るものでその光を他に 向けることを良しとしているが、自分の過去を振り返って見ても何処で他に迷惑をかけたり、傷つけたりしているかに気が付かない。みんなが自分のことより相手の立場に立って見ればもっと住み心地は良くなるのだろうと思う。理性や良心で注意しているつもりでも自分の都合を優先してしまうことが多く、他を傷つけ迷惑をかけ通しの歩みだったのは今の自分を観れば解かる。かたよらず、こだわらず、とらわれず、ひろくひろくをモットーに出来るだけ『中道』をゆくのが良いのだろう。 2012年1月18日 琢 --- > wrote:
2012年01月17日
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『指示』 人は必ずお伺いを立てるものが有る 自分の良心、理性、親、先輩、上司に 自分で決断できないときに 分岐点の先が見えないときに 確率や定石の視野が狭いときに 経験不足で落とし穴に入らないように 絶望から這い上がる術を知らないから その指示を仰ぐために 自分の足で歩くために 他のせいにしたところで その責任は自分に返って来る 思い通りにならないときは もっとひどい目に遇っている人を見ながら 自分の理想と夢を追いかけている 上を望めばきりが無く、下を見れば怖く成るが今の自分はまだましかと、それがこの世の中だと思っている。兎角ものを主観的に見て既成概念にとらわれるものだが、客観的に見ることが出来ないときは必ずお伺いを立てるのは、良心、理性、親、先輩、上司にその意見を聞く。自分の内側の良心や理性に強いものを持てないときは祈ることで、決断に迷いがあるとき、分岐点の先が見えないとき、確率や定石の視野が狭いとき、経験不足で落とし穴にはまらないように、失敗の結果の絶望から這い上がる術を知らないから、その指示を仰ぐために、自分の足で歩くために、相談したり意見を聞いてそれに従うことで心配を少なくしようとする。他のせいにしたところでその責任は必ず自分に返って来る。他に耳を貸 さずに失敗することは多く、放蕩をやれば自分の人望や財産のすべてを失うことが多い。思い通りにならないときはもっとひどい目に遇っている人を思いながら、自分の理想と夢を追いかけているのだろう。 2012年1月17日 琢 --- > wrote:
2012年01月16日
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『懐疑』 ”仁”と”義”を重んじるのが漢民族だろう 儒教精神は中国の孔子に始まり 大和民族の心にも浸み込んでいる 大国であろうと小国であろうと 心の奥にはそれが有る 大国を策すれば消えてしまうもの 現象を見れば疑わしくなる 仏さえ封印してしまったのかとも思え 漢民族の原始を思い出すときは 鑑真和上も唐招の人だった 今”箍”を締めるときのようだが 忍辱を忘れれば 六道の乱れは未来を危うくするだろう 日本は古くは朝鮮の百済と親交が有ったが、シルクロードを通じて中国に渡った文化と、もともと有った中国の文化を通して育って来たのだろう。秦の始皇帝以来紀元前220年頃、漢民族は四面楚歌で有名な劉邦と項羽の因縁の戦いを制した劉邦に始まったと思うが、中国人や朝鮮人とには漢字で書けば意味が通じる、会話も出来るから同じ漢民族と言うのだろうかと思う。”仁”と”義”を重んじるのが漢民族だと、儒教精神は孔子に始まって大和民族の心にも浸み込んで来ているのだと思っている。大国であろうと小国であろうと心の奥底にはそれが有ると信じたいものだが、今起きている現象を見ればそれが疑わしくなって、大国を策すれば消えてしまうものなのだろうかとさえ思ってしまう。仏さえ封印し てしまったようにも思えて、漢民族の原始を思えば、鑑真和上は5回の渡航に失敗して盲目に成っても6度目には日本仏教の乱れを締めに来て、戒律を重んじて律宗を打ちたて唐招提寺を建立させ、大和朝廷の危機を救ったのは中国人だった。今その”箍”を締めるときのような現象を思うとき失望感さえ覚えてしまう。忍辱を忘れれば、六道の乱れはその未来を危うくしてしまうのではと懐疑的に成らざるを得ない。 2012年1月16日 琢 --- > wrote:
2012年01月15日
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『絆』 ”和を以って尊しと成す”という国民性は 全国各地の人々の根底に有る ザビエルもそれを体感したと言う 貧乏にも品格を持ち 親切で優しい人が多い 特に大和魂にはそれが有る 一度結束すれば絆は強く 深い友情で和が保たれている 大災害にもその真価が見える 人の理に叶った国民性が有る 表層より深層に そのエネルギーは眠っている 『忠臣蔵』にはそれが示されている 日本人の心には聖徳太子信仰が根強く残っている。鎌倉時代に特に顕著だそうだが、どの時代にもその信仰が深く、中国の隋王朝に統治国家として認めさせた憲法17か条は未だに生きている。”和を持って尊しと成す”という国民性は全国各地の人々の根底に有って、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルもそれを体感したそうで、貧乏にも品格を持ち、親切でやさしく人が良いと本国に手紙を送ったと言う。その大和魂は一度結束すれば絆は強く、深い友情で和が保たれている。大災害にもその真価が現われ驚異的な速さで復興して来ている。人・人間の理に叶った国民性が有って、表層よりも深層にそのエネルギーは眠っている。徳川5代将軍綱吉の時代で有名な『忠臣蔵』の主君のあだ討ちまでの忠臣や サムライ魂や民衆心理はそのことを象徴的に現している。日本人の『魂』にはそれだけの純粋なものが入っていて、”使い捨て文化”に濁されたもののその本質には消されないものが有るのだろう。 2012年1月15日 琢 --- > wrote:
2012年01月14日
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『念頭に』 人は先ず生きていること 次にどう生きるかだが 食事が美味しいか、体が自由に動くかで 生きる糧を得るためにはたらかせて頂く 楽しいことに情熱を注ぎ 他に貢献できれば手ごたえを感じ 他を癒すことで自分が癒されている その代償や効果や果報を求めず 必然の結果と思って満足することが 他に感謝が出来て悔いを遺さない その中に自分の白い道を見つけることで どう生きるかが見えてくるのだろう 現実を見れば厳しいことは多い いつも満足出来ない自分を感じてその生い立ちの基盤を恨めしくさえ思うことが多いが、それが前世以前から自分の魂が抱え持ってきたもので、其処にこの世に生まれてきた意味が意識の中に入っていると言う。その本当の魂の願いを思い出して成就すること、自分の本当の使命を見つける道を歩むことが出来るのはこの現象界しかないと言われている。そのために与えられたのが肉体で、先ずその生を保ってゆくこと、次にどう生きるかだが、食事が美味しいか、体が自由に動くかで、生きるための糧を得るために働かせて頂くのだろう。楽しいことに情熱を注ぎ、厳しいこの世で迷いや葛藤の連続の中で他に貢献できれば手ごたえを感じ、他を癒すことで自分が癒され、その代償や効果や果報を求めることなく、 必然の結果と思って満足して強い信念に変えることで、その恩恵に感謝が出来て悔いを遺さない歩みに成るのだろう。その中に自分の使命と思える白い道を見つけるかで、どう生きるかが見えてくるのだろう。現実を見れば厳しいことばかりでいつも自分の愚かさが見えるばかりだが、その努力の積み重ねが求められているのだろう。 2012年1月14日 琢 --- > wrote:
2012年01月13日
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『根性』 タイミングの良い人は 勝負勘も鋭く それは偶然のようでそうではない 徳の有る人、苦労の多い人に多い 先天的な天性のように見えるが 並々ならぬ努力の積み重ねの上に 必然的に伴っているものだろう 他人事で済まさず自分にも有るものと 努力すれば備わるものと 諦めずに耐え忍ぶことで 時の流れを待ちきれずに短気を起こさず それも勇気だと思うことが 自分を大きくする要因に成るだろう 根性はそんなところに現れるのだろう 昔は貧乏な家に育ち、山奥で畑も無く、母親が行商をして何とか家族をつないでいた人が口減らしのために都会に出てきた人に成功者が多い。度胸が有って決断力と引き時をわきまえた人に多く、これしか他に選択肢も無かったという止むに止まれぬ正しさと意志の強さを見る思いだが、大阪には小学校にも行けず、丁稚奉公から始まって大きなことが出来るようになった人のことを良く聴く。そういう人はこれぞというときのタイミングが良く、勝負勘も鋭く、決断力も良く引き時もわきまえていて、一連のことが偶然のようでそうではなく、徳の有る人、苦労の多い人、親兄弟への思いやりが厚く、貧乏生活は当たり前で、屈辱を超えて目的意識を絶対に忘れない人に多い。天性のようでも並々ならぬ努力に裏打 ちされた必然を持っているもので、それはチャージ、チェンジ、チャレンジを確実に実行してきた人で、他人事で済まさず自分にも有るものと努力すれば備わってくるもので、諦めずに耐え忍ぶこと、時の流れを待ちきれずに短気を起こさず、目的意識を強く持って歩む勇気が自分を大きくする要因に成り、他に布施をして徳を摘むことも忘れず、総合的に歩むこと、其処にその人の根性を見ることが出来るのだろう。自分の歩みを見れば失敗の連続で会社を潰したときの絶望のときに言われた言葉は”徳切れ”だった。布施、自戒、精進、忍辱が出来ていなく、前世では放蕩の限りを尽くして徳を積んで来なかったからとか、人に迷惑ばかりかけてきたから徳が切れてしまったとのだと言う理由からだった。人の言 うことも聞かず、甘い自分だったことは認めるしかなかった。 2012年1月13日 琢 --- > wrote:
2012年01月12日
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『一期一会』 あれもしたかったこれもしたかった あれが出来なかったこれが出来なかった 思い残すことは多いが すべて自分がしなかっただけのことが 山積するのが人生かも知れない 通過するだけでホッとして忘れてしまうが 表層の奥には経験した智恵が有る 未体験のことにも通用する気付きが有る 原因を見れば他の人にも当てはまるもので 自分も他人にも其処に共通するものが有る 一期一会を思えば どんなことも疎かに出来なくなる それが”今を生きる”ことだろう 取り組みは慎重な方が良い 慎重過ぎて、考えすぎて、怖くなって、うじうじして、タイミングを逃してしまうことも多く、切り替えや思い立つことは慎重で敏速を要する場合が多い。上杉鷹山の”為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり”はよく言ったもので有名だが、運を掴み損ねたときや先送りしたときに一向に前に進めなくなっていることは誰にも有るだろう。あれもしたかった、これもしたかったとか、あれが出来なかった、これが出来なかったと悔いを残す場面は多かったように思う。それもこれも単に自分がしなかっただけのことだが、言い訳ばかりを積み上げて、山積したものが多いのが人生かも知れない。通過するだけでホッとしてしまう場合も多く、表層の奥には経験した智恵がある、未体験の ことにも通用する気付きが有ることに後で気が付くことは多い。原因を見れば他の人にも通用するものも有るし、共通するものも有る。どんな出会い、出来事、事態も一期一会で疎かには出来ないこと気が付くのはいつも後のことだったように思う。その場そのときのタイミングを外さないことが”今を生きる”ことだろう。そうかと言って取り組みは瞬時のことでも慎重に越したことはない。 2012年1月12日 琢 --- > wrote:
2012年01月11日
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『道心』 医学的検査結果に異常なしも 体の老朽化に良薬は無い 青春とロマンと気力が有るのみで 反射神経は体に残っていることは 先祖に感謝有るのみと 与えられた細胞の質の良さを誇りに思って 我が道を決然と生きよう 何に不満が持てようか 今をエンジョイして生きることが 自分の使命を果たすことが 悔いを少なくする方策として 機嫌良く生きることで ”どう生きたか”に成るのだろう ”一隅を照らす”ために 振り返ってみれば自分の歩みの中で勝ち取れたものは何一つ無く、失敗の多さだけは人に負けないのは、前世でよっぽど業の深いことをしてきたのかとかこれまでに他を落とし込めたり悪意で争奪戦をやってきたわけでもないのに何でだろうと、落ち込みを通り越して諦めの境地に成ることが多いときには、親や先祖に与えられた体のことを考える。医学的検査結果に今は異常なしも体の老朽化に良薬は無く、青春とロマンと気力が有るのみで、反射神経はまだまだ残ってきることに先祖に感謝し、与えられた細胞の質の良さを誇りに思って、この体を使って場の支えや他のお役に立てればと、我が道を決然と生きなければと思えるように成って来ている。暗病反の思考を繰り返さず、今をエンジョイしながら使命と 思うことをこなすことで、果報や代償を求めずに悔いをどれだけ少なくするかを、機嫌良くひたすらに歩むことで、最澄さんの言う”道心”とか”一隅を照らす”ことに成れば、ほんの少しだけでも”どう生きたか”で悔いが少なくなるのだろうと思う。自分に言い聞かせることは多いが実践が出来ていないとかこんな体験だけではまだまだだと葛藤は絶えず、必死に自分を解放してやることだけを考えている。もう二度とうつ病や神経症にならないと自分に自信を持つことと逆に過信をしないことを戒めとしている。 2012年1月11日 琢 --- > wrote:
2012年01月10日
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『天体』 地球は一度の自転で1日 太陽を一周して1年 木星は12年で一周している 古来から天体を見て易学が出来たのだろう 宇宙全体には周期が有って その周期と地上の現象との関連から 地上の地震や自然現象を推測していた 日食や月食もそうだろう 慣性の法則が有ると言うが 人も観察すればその傾向が見えてくる 考古学で過去を知り 天文学では未来を想像できる 宇宙規模の思考に国境は無く 地域性はその基盤の上に成り立っている 古代エジプトのピラミットから6000年前を研究し、最近は南米のマヤ文明の遺跡から2012年12月に世の終わりが来るという予言めいたものが注目を浴びている。紀元前200年位前からマヤ、アステイカ、インカ帝国の変遷を遺跡から見ることが出来て、天体の周期をどの地域でも毎日肉眼で見ながら宇宙の周期と地上の現象を関連付けて来たことが判って来ている。ナスカ高原の地上絵や2500mの山に有った都市マチュピチュが有名だが、宇宙に周期的に起きることと地上の現象が相互に関連していることが判って来ている。其処から陽明学、気学、易学、陰陽道も天体のデーターから割り出されてきたのだろう。日食や月食もそこからで宇宙の慣性の法則から計算してその日や時間まで判るように成 って来たのだろう。人の中にも宇宙が有ると言うが、其処にも慣性の法則が有って、一定の分類やシステム化が出来てその修正法があるのだろう。易学ではその人生の流れを予測してかなり的を得た答えが出ているように思う。今地球には宇宙の何かの周期が重なっていてこの地上に起きている天変地異もその関連からかも知れないが、天工と人工が重なって起きてきている現象なのかも知れない。宇宙規模で見れば人一人の心の中の宇宙に国境は無く、そろそろ地球家族的な思考が必要に成って来たのかも知れない。 ”国と国との境目が命の境目であってはならない” 2012年1月10日 琢 --- > wrote:
2012年01月09日
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『守護』 其処まで行けない人は幸せで 何かに守られているからだろう 守られていることを信じられない人は もっとひどい世界にいるだろう 不安のために自分でもわからない行動をする 我慢が出来ず直ぐに諦めてしまうのは 人の常だろう あがきもせずにじっとすることを無能だと思えば 墓穴を掘ってしまうのはよく有ることで ”踊る阿呆に見る阿呆”なら 体験してこそ何かがつかめると思えば 少しは掘り下げたことに成る 人は痛い目に遭わなければ解からず 失敗を繰り返さなければ 思いやり気配りも出来ない 考えなくても、分析できなくても、過ちの原因を見つけなくてもそれなりに生きられているもので、誰かや何かに守られているとしか思えないことは多く、世の中うまく出来ているものだと思うことは多い。何故なのかと思えばその原因を探って直さなければと思う人もいれば、其処まで行かなくても幸せそうな人もいる。何かに守られているのだろうと思うが、そのことを信じられない人はもっとひどい世界にいるのかも知れない。不安のために自分でも解からない行動に出て墓穴を掘ってしまう場合や、我慢が出来ずに直ぐに諦めてしまう場合も多く、人生なんてそんなもんだろうと思うことも多い。試練のときにあがかずにじっとしていることを無能だと思えば、格好を言ってられずに何かをしようとする様は ”踊る阿呆に見る阿呆”の心境で、一切のことは体験してこそ何かをつかめるのだと、少しはその哲学を掘り下げたことに成るのだろう。人は痛い目に遭わなければ気が付くことは無く、失敗を繰り返さなければ他に対する痛みもわからず、思いやり気配りも出来ないだろう。”苦しいときの神頼み”はよく有ることだが、神仏への祈りは何かの守護を願う心、何かの閃きを頂こうとする心の現われで、他に通じ合う心を持つことが良いのだろう。 2012年1月9日 琢 --- > wrote:
2012年01月08日
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『凡下』 人は見るだけ聞くだけで それまでの過程の想像がつくもので 将棋や囲碁もはじめの一手で 終局が判ると言う 観力、浄力、発力、結力の取り組みも その一部を見ればすべてが判るだろう そうなりたいと思うのは人情だが 理屈で解かっていても実践が伴わないのは 身びいきの都合が盲目にしてしまうからで 生きるための煩悩が有れば 無理も無いことだろう 心の安定が無いのは自己統御が無いからで その弱さを受容出来れば 凡下には成れるだろう 三論は基盤、自業、響働だが、三つの自覚【忍土の自覚、愚かさの自覚、恩恵の自覚】が出来れば見えてくるもので、三つの幸せ【もらう幸せ、できる幸せ、あげる幸せ】もその順に感じ始めてくるだろう。三つの段階【あ~だったからこうなった、あ~だったけどこうなれた、あ~だったからこそこうなれた】もその順に気が付いてくるもので、人の中果を見ればその生い立ちやその影響をどれだけ受けて今そうなって来たかが読めてくる。その上で未来の組み立てが出来るのだと高橋先生は言っている。各種のシートもその取り組みで自分を見つめてその順に自分の因を変えてそれに必要な菩提心を整え、良き同志・縁と共に自分の欲する花を咲かせようとする因縁果報の学びをさせている。歳と共にその過程を 見れば先が読めてくるもので、想像力をゆたかにしなければ何も見えてこないだろう。苦の回路で見れば感情の脚本も妄想ループもとんでもない方向に向いてしまうが、想像力が無ければ菩提心を発揮させる思いやり気配りも出来ないだろう。”羹に懲りて膾を吹く”とか”石橋をたたいて渡る”は過去の失敗に懲りて慎重に成り過ぎることだが、そのくらいで無ければ世渡りが難しくなって来ている。人生曲線は生い立ちから今までの曲線を書いて未来を想像し、願いを入れてその成就に努力させるもので、転生を思えばその曲線も有るのだろう。何転生か解からないが菩薩や如来が終着駅だとすればそれまでのどこかですべての悟りのための経験が有るのだろう。今不幸な人は次の世では迷いが少なくなっている とか、考えれば考えるほど自分の愚かさを見るようで平凡や凡下で居ることで十分のような気がして来る。 2012年1月8日 琢 --- > wrote:
2012年01月07日
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『支え』 日本の神社仏閣が心に与えるものは 日本人の魂に宿っているものを覚醒させ 懐かしい思い出の中に切っても切れないものを それが日本人の優しさ、人の良さと品格に成って 諸外国の人々の心を癒している お金を”お足”と言い、単なる手段として 天の”たすけ”は”助け”で無く”祐け”で ”天祐”が各地の人々の心に有る 日本人の気概は其処に始まり お釈迦さんの教えや孔子の教えも その戒めとして、心の安定のためで やさしさにはキリストの愛も流れ すべてが国民の心の支えに成っている 昨日は奈良の樫原神宮、長谷寺【真言宗のお寺で牡丹や紫陽花の花が美しいことで有名】に行き門前町の風情を味わって、帰りには古墳群の多い桜井の大神神社の巨大な鳥居を見て驚き、三輪そうめん山本に、柿の葉ずしのヤマトに立ち寄って、天理を通過するときには天理教・神道の影響の有る建物に驚き、春日大社の、東大寺の下を通って、いつも行く薬師寺、唐招提寺を横目に見て帰ってきた。日本の神社仏閣が心に与えるものは日本人の魂に宿っているものを覚醒させ、懐かしい思い出の中に切っても切れないものを潜ませていてそれが日本人のやさしさと人の良さと品格に成っていることは、キリスト教を伝道したフランシスコザビエルも本国に書き送っていたと言う。諸外国の人々の心を癒し、お金は” お足”と言って出てゆくもので単なる手段として、天の”たすけ”は”助け”ではなく”祐け”と言い、万葉集以来の”言霊の祐くる国”と言って、”天祐”が各地の人々の心の中に有る。日本人の気概は其処に始まり、お釈迦さんの教え・仏教と孔子の教え・儒教はその戒めとして心の安定のために、やさしさにはキリストの”愛”【慈悲慈愛の心、菩提心】も流れ込んでいて、そのすべてが国民の心を支えているのだろうと思わざるを得なかった。その古事、神事、お祭り、法要仏事の風土風習の刻み込まれた日本文化は保存されるべきだと、単なる経済的な目的のために唯物的に、刹那的に、利己的には破壊できないものだろうと、それをするようでは日本も雑種の国に成ってしまうと思った。 2012年1月7日 琢 --- > wrote:
2012年01月06日
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『共通』 体の大きいものは強く見え 小さいものは弱く見える その分だけ小さいものは頭を使う 人は必要が無ければ頭を使うことは少なく 不都合や不便を感じれば考える 考えればどんなことにも共通点を見つけ 共通点が有れば共有する縁に恵まれる それが同志や友達だろう 考える人ほど共感者が多く 人が増えれば個々に違う共通点の要に成る 全体をまとめるときは多数決で腹を決める それに従わなければはじき出される 群れとはそういうものだろう 何処に住むものにも共通するものは有る 生まれればその生い立ちに影響されながら生きてゆくことに成るが、血筋とか土地柄とかその時代の風潮に影響されながら性別によって全くスタンスの違いが出るもので、体の大小も大いに関係が出るものだろう。大きいものは強く見え、小さいものは弱く見えるが、その分だけ小さいものは考えるようになる。そういう基盤の元で人は必要が無ければ頭を使うことは少なく、不都合や不便を感じれば考え始めるのだろう。考えればどんなことにも共通点が見えてくるもので、その共通点を通して共有する縁に恵まれるが、それが同志や友達と言う協力者だろう。共感者が増えてくれば個々に違う共通点の要に成って、一つの大きな勢力に成ってゆき、その願いの成就に近付いて行けるのだろう。全体をまとめるとき は多数決で腹を決めなければ成らず、それに従わなければはじき出されてしまう。群れとはそういうものだが其処に漬かってしまうと考えなくなってただ従って居るだけの責任の無いイエスマンに成っているものも出て来る。群集心理の知能は低いと言われるのもそういうことかも知れないが、何処に住むものにも安心を得るための共通する部分は必ず有るものだろう。 2012年1月6日 琢 --- > wrote:
2012年01月05日
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『正論』 意志を通せなければ悔いが残る 弱いものは負け組みに成り 勝ち組に成ろうとすれば無理が出る 成功すればその影に負け組みが居る 成功者は優越感で語りたくなるが 訊きに来るものには良い参考に成るが どん底に居るものにはそれが毒に成る 何事にも段階が有って その空気が読めなければ害に成る 善意でも押し付けをしない 正論ほど強いものは無く 負けを知らなければ さり気なく正論を言うことが出来ない 本当に強いものは弱いものの気持ちを知っている 処世術は負けを知らなければ語れない この世には競争の原理が働いていて、それが有るから日々進歩が有るのだが、上には上が下には下が有るもので現状維持は不安でしょうがなくなるから精進して成長があるのだろう。分かち合って共存するのが自然の摂理だが、人の欲は際限が無く、勝った負けたや損得の、成功失敗のエネルギーの争奪戦を繰り返して消耗してしまうのだと高橋先生は言っている。人にはこだわりが有って意志を通せなければ悔いが残り、それが弱いものは負け組みに成って、勝ち組みに成ろうとして意志を通す。成功すればその裏には負け組みが出るのは当然だが、成功者はそれを得意になって語ろうとするが、訊きに来るものには良い参考に成るが、どん底に居るものには毒になる場合が多い。何事にも段階が有って、その空気 が読めなければ、察することが出来なければ害に成ってしまう。善意でも押し付けをせず、正論ほど強いものは無く、時として槍で突いてしまうことにも成り、人の和を硬直させてしまう場合が多くなる。絶望のどん底に落ちて其処にいるものを見ながら這い上がって来たものは優しくさり気なく正論を言うだろう。本当に強いものは弱いものの気持ちを知っているもので処世術は負けを知らなければ語れないだろう。 2012年1月5日 琢 --- > wrote:
2012年01月04日
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『交友』 社交の場は 人と人の和を学ぶところで 人それぞれの受け止め方の違いを感じること その違いを埋め合う場と言える 忍耐と妥協を知る所で 生い立ちの微調整をして変革し 誰にでも通用する自分に成ること 自分を咲かせる場にも成る コミュニケーションの大切さを思う 自分の見識を広めることが 自分の可能性を広くさせ 強い生き方が出来るように成れる 他の止むに止まれぬ正しさを知れば 受容して穏やかな心で居られるだろう 縁に恵まれるには与えられたきっかけが有って、人の集まる場【学校、職場、スポーツ、何かの定期的な集い等】が交友の始まりに成って人と人の付き合いが発生するが、其処で何かに響働して共有し合えば親しみが増して友情や絆が生まれるようになる。人の数が多くなればなるほど気の合うもの同志の集団が幾つも出来て、其処で学ぶことで見識や人脈が広くなってゆく。社交の場は人と人の和を学ぶところで、自分のことだけを押し付けられず、相手の立場を理解することを学び、人それぞれの受け止め方の違いを感じることやその違いを埋め合う場とも言える。忍耐と妥協を知る所で、殆んど自分では我を出せないと思っても結構人は見ているもので、摩擦があれば生い立ちの微調整をして自己変革をし、誰 にでも通用する自分に成れば、信念の通し方も判って、自分を咲かせる場にも出来る。コミュニケーションを頻繁にとることで自分の見識を広め、可能性も広がり、人脈も広く成って強い生き方が出来るように成れるのだろう。其処ではお互いを認め合うためにその止むに止まれぬ正しさを、そうして来ざるを得なかった生き様をそのまま受け止める寛大な心に成れば、すべてを受容して穏やかな自分で居られるようになるだろう。因縁果報を体験するところで、因を変えれば必ず相応の縁・出会いが出来ると言う自分ではつくれない何かの仕組みを感じることに成るのだろう。 2012年1月4日 琢 --- > wrote:
2012年01月03日
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『思考法』 肉体がこの世のものなら その心もこの世のもので 現実から抜け出すことは出来ない 魂も肉体についているものなら そこから抜け出せないと思う心は ”人間死んだらおしまい”の考え方に成る 弁証法的に唯物で考えれば それしか信じられないと言う この思考法がどれだけ多いか 数式に現して目で見せなければ その考え方は変えられないと言う 見えないものは無限大に広げられることを 夢や想像や空想は宇宙規模に広い 可能性は広げられ奇跡は現実に起きる 今の世は昔と比べれば何でも有る便利で飽食の時代だが、すべてが人のアイデアを実現したもので、そこには執念と努力と人に歓んでもらうと言う志が有ったのだろう。そこには埋もれて日の目を見なかった同じものが無数に有っただろう。志半ばで死んでいった人も多いだろう。超能力に憧れも有ってそれを見せてくれる人が脚光を浴びる話題性、視聴率中心の情報が錯綜して、地道に努力を続けている志は報道されない、拾われない現実が有る。肉体がこの世のものなら、その心も其処・現象界に有って、其処から抜け出すことは出来ないと思う人。魂も肉体についているものなら諸共に其処から抜け出せないと思う心から”人間死んだらおしまい”の考え方に成るのだろう。弁証法的に唯物で説明出来て見せ付 けるものだけが現実で、積み重ねた心の中の状態を言えばそれは単なる言い訳にしか過ぎず、現象でしか信じられないと言う。この思考法が20世紀に蔓延っていたのだろう。数式に表して目で見せなければその考えは変えられないと言う。其処から生まれるものは厭世的な夢も希望も無い世界で、ロマンや青春と言う楽しさの無い考え方に成ってしまうのだろうが、想像力の無い、思いやり、気配りも出来ない状態に成って、唯物主義、刹那主義、利己主義が蔓延してしまったのだろう。心は無限に広くその実体は魂に有って、その志は夢や理想を想像したり空想したり、その思考法は宇宙規模に広いもので、その可能性は広がりを見せて奇跡さえ現実に起こせるものだと過去の歴史が物語っている。20世紀に置 き忘れてきたものは”見えないものの力”、人には底知れないエネルギーが有ると言うことかも知れない。 2012年1月3日 琢 --- > wrote:
2012年01月02日
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『些細』 たとえ取るに足らない努力であっても 積み重ねれば膨大なものに成る 日々積み重ねるものは 俄か作りの大きなものより重く 目で見るものより心に有るものは 他の心にも移り住むもので 質が量に方向性を持たせて いつか偉大なものを作り出す 小さなことでも疎かにせず 決然と進むことが ”どれだけ生きたか”より”どう生きたか”に 納得できる安らぎを与えるだろう ちょっとした取り組みでも 深い意味をかもし出すだろう 昔はちょっとした些細なことにも我慢が出来ずすぐに切れてしまうか、すぐに諦めてしまう自分がいたが、多少の忍辱が出来るようになって、簡単には諦めなくなって来たような気もしている。元来が単細胞で単純な人間だったはずがたくさんの失敗と実りの無い結果を重ねて来て、多少の生活の智恵のようなものが付いて来たのかも知れない。それは、たとえ取るに足らない努力でも積み重ねれば膨大なものに成ると言うことが判ってきたことかも知れない。日々積み重ねるものは、俄か作りの一見大きなものより重く、目に見えるものより心に有るものの方が大きな成果をもたらし、他の心に移り住むことも有って、その質が量の方向性を決めているのだろう。積もり積もったものがいつか偉大なものを作り上げ てしまうもので、小さなことでも疎かにせず、自分の意志で決めた道を決然と進むことが、”どれだけ生きたか”よりも”どう生きたか”に、悔いを残さず納得できる安らぎを与えてくれるのだろう。ちょっとした取り組みにも深い意味をかもし出す何かがある。いつも自分は小さなありんこのように思っているが、あれはすごい生き物だと思うからだろう。 2012年1月2日 琢 --- > wrote:
2012年01月01日
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