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3・ 和霊騒動
* 山家 公頼 (やんべ きんより)は、 安土桃山時代 から 江戸時代 初期にかけての 武将 。 伊達氏 の家臣。通称は 清兵衛 (せいべえ)。 天正 七 年(1579)、誕生。最初は 最上氏 に仕えていた。 伊達政宗 に仕えて頭角を現し、政宗の庶長子・ 伊達秀宗 が 宇和島藩 に封じられた際に藩惣奉行(筆頭重臣・千石)として付けられた。
初期藩政の構築のみならず、 仙台藩 (伊達宗家)や 江戸幕府 との関係調節に苦慮し、仙台の政宗に宇和島藩一〇万石のうち三万石を隠居料として割くことで宗家からの借財返済を繰り延べたり、幕府の 大坂城 石垣修復事業に参加したりした。
こうした行為が秀宗や 桜田元親 ら他の重臣らとの対立を招いた。また公頼自身、政宗が秀宗を監視するために送った目付を兼ねており、浪費の改まらない秀宗の行状を政宗に報告し、政宗が秀宗を諌める書状を出しているほどであった。
元和 六 年(1620)、一月の大坂城石垣普請工事で共に奉行を務めた桜田元親が不正をしたと秀宗に讒訴したため、公頼は帰国して秀宗に弁明し、謹慎した。これは工事の進捗状況の報告で公頼と桜田の報告に齟齬があり、公頼が正当だったので面目を失った桜田が讒訴に及んだとされる。
同年六月二十九日、秀宗の命を受けた桜田一派の家臣達が山家邸を襲撃、翌未明に公頼らは討ち取られた。
享年四十二歳。この襲撃事件で公頼のみならず、次男と三男も斬殺され、九歳の四男に至っては井戸に投げ込まれて殺された(なお、あまりに幼子であったため井戸には祠が祭られた)。さらに娘婿の塩谷内匠父子三人も殺され、生き残ったのは商人に匿われた公頼の母と妻だけだった。長男は仙台にいたため無事だった)。
公頼の死後、宇和島藩内では 怨霊 騒動などが続いた。政敵の桜田元親は変死し 、宇和島を襲った大地震や台風・飢饉などの凶事をはじめ、秀宗の長男・ 宗実 と次男・ 宗時 、六男・ 徳松 の早世、秀宗の発病などは全て公頼の祟りとして恐れられた。このため 承応 二 年(1653)に秀宗の命により 和霊神社 が創建されることとなった(和霊騒動)。
ただし怨霊伝説がある一方で公頼には殺害の首謀者であった秀宗の夢枕に立って火事を事前に伝えたなどとされる忠臣伝説もあり、宇和島では公頼は「和霊様」と呼ばれている。公頼は財政難の宇和島藩において質素倹約を旨とし、領民に重い 年貢 を課そうとせずできるだけ負担を軽くしようとしたため、領民からは慕われていた。
ただそのために軍費を厳しく削減したため、桜田元親ら武功派には恨まれた。遺骸は公頼を慕う領民により、金剛山 大隆寺 の西方約六十mの場所に密かに葬られた。また、公頼は蚊帳の四隅を切断され抗ううちに殺されたことから、命日などは蚊帳を吊らない風習が近代まで残るなど領民に慕われたことが伺える。
* 桜田 元親 (さくらだ もとちか)は、 安土桃山時代 から 江戸時代 初期の 武将 。 伊達氏 の家臣。 天正 十七 年(1589)、伊達政宗に従って 摺上原の戦い で戦う。 慶長 五 年(1600) 関ヶ原の戦い では政宗の命により 刈田郡 白石城攻め に参加して武功を挙げた。
慶長七年(1602)、 仙台城 の築城に伴って賦役している百姓らが暴動を起こしたことがあったが、 鬼庭綱元 とともにこれを鎮圧した。 元和 元年(1615)、政宗の命を受けてその庶長子である伊達秀宗の家臣となり、 伊予 宇和島藩 の藩政を担った。この時の地位は侍大将で禄高は千九百石であった。
宇和島藩は秀宗入部まで頻繁に藩主が代わったために荒れており、藩政は前途多難だった。そのため政宗の仙台藩から黄金三万両(6万両説あり)を借用していたが、この返済問題が起こり、惣 奉行 の 山家公頼 は宇和島藩一〇万石から三万石を割いて政宗への返済に充てたが 、このため家臣の多くが減俸を余儀なくされて反対派が桜田を中心にして山家と対立した。
もともと山家は 山形藩 最上氏 の家臣で、伊達家譜代の桜田とは折り合いも悪かった 。元和六年(1620)一月、幕府から 大坂城 石垣修築を命じられた秀宗は山家と桜田を奉行として派遣する 。しかし工事の進捗状況に関しての秀宗に対する報告で桜田は秀宗に山家が不正をしていると讒言し、疑われた山家は秀宗に弁明して帰国し謹慎した(実際は山家が正当であり、面目を失った桜田が逆恨みしたとされる)。
そして同年六月二十九日、山家清兵衛一族は桜田一派により襲撃されて殺害された。この殺害事件に関しては秀宗から「山家の事は沙汰の限り」と書状にあり、秀宗の命令で桜田と一派が動いたと見られている。通常、私怨による暗殺ならば桜田家も断絶は免れないはずだが、桜田家は無事に安泰で存続し、 江戸時代 末期まで家老として存続しているからである。また、桜田は事件当時に大坂に滞在していたため、少なくとも直接手を下したとは思えない。
山家が死んで宇和島藩の最有力家臣になった桜田だったが、栄華は長く続かなかった。寛永九年(1632)、桂林院殿(秀宗の正室の亀)の三回忌法要の時、大風が吹いて 金剛山 正眼院 の本堂の梁が落ちた事により、桜田は圧死した 。桜田の死後、山家殺害事件の関係者らが次々と変死を遂げたため、これは山家の祟りと言われた 。