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13、家臣の内紛で幕府裁可「喜連川騒動」
「喜連川騒動」 (きつれがわそうどう)とは、 正保 四 年(1647)に 喜連川藩 で起きた、藩内の争いによる藩政の混乱のことである。喜連川藩藩主の 喜連川氏 は 足利氏 の 古河公方家 の流れを汲む 大名 であった。
この事件当時の藩主は三代 喜連川尊信 であった。同時代の幕府によるものである。
記録によれば、喜連川尊信の家臣 二階堂主膳助 と高四郎左衛門との間に党派争いが起こり、結果として高四郎左衛門は大嶋に流罪、尊信は隠居させられた、という。
「喜連川邑主喜連川尊信の家臣 二階堂主膳助 等、高四郎左衛門等と事を相訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流す。
これと関連する可能性があると思われる史料には以下のようなものがある。
『寛政重修諸家譜』の喜連川家、尊信の項・慶安元年尊信が家臣二階堂主膳助某、高四郎左衛門某と争論し、互にその党を結ぶ。三月十八日二人を評定所にめし問る。
事決するのうち、四郎左衛門は上田主殿助重秀に、其党一色刑部某伊賀金右衛門某をば、山名主殿矩豊青木二郎左衛門直澄にめし預からる。のち四郎左衛門言葉屈し雌伏せるにより、十二月二十二日其党二人とともに大嶋に配流せらる。
尊信も厳命により致仕す。「江戸幕府老中奉書 慶安元年九月七日付」(阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された手紙)「 喜連川右兵衛(尊信)を押し籠めにしているのだが、そこから脱走してしまうので、今ついている家来ではなく、誰か適切な人物を一人よこしてほしい 」(要約)「江戸幕府老中奉書 慶安元年十一月十八日付」(阿部重次・阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された手紙)「 喜連川右兵衛(尊信)の狂乱は紛れもなく真実で、それを隠していたことは、本来は領地没収であるが、お家の一大事なのでこれを許す。
藩主の息子である梅千代(四代昭氏)はまだ幼少なのでその方(忠次)が後見をせよ。一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門は、藩主狂乱を隠しおいていたので、その責任を取って大嶋に流罪とする。
彼ら(一色・柴田・伊賀)の男子はそれぞれにお預けとして、二階堂主殿は代替につき、その方が預かることとせよ 」(要約)『喜連川町誌』には、この事件について「喜連川騒動の顛末」として以下のような記述がある。
慶安 元年(1648)春、脱藩浪人となった尊信派の老臣高野修理が、五人の 百姓 と密かに藩を抜け出し、 幕府 に「 城代家老 一色刑部派が君主喜連川尊信公を発狂の病と偽り城内に閉じ込め、藩政を我が物にしている」と 直訴 に至った。
事件の現地調査に当たった幕府御上使は七月十一日に江戸を立ち、七月十七日に調査を終えて江戸に帰って、「高野修理等の直訴内容に偽りはなく、喜連川尊信は正常である」と報告した。幕府御上使は、甲斐庄喜右衛門(幕府御弓頭四千石大身旗本)・野々山新兵衛(吉良家家臣)・加々見弥太夫(吉良家家臣)の三名であった。
喜連川藩の接待役は黒駒七左衛門・渋江甚左衛門・大草四郎右衛門が当たり、この三名は、事件後の 一代家老 となった。幕府の老中が諸藩の事件評定に参加することは珍しかった。
このときは 大老 酒井忠勝 ・ 老中 の 松平信綱 ・ 阿部忠秋 ・ 阿部重次 の六人が特別にその審理に参加し、評定役には 酒井忠吉 ・杉浦内蔵充・曽根源左衛門・伊丹順斎の四人が当たった。
酒井忠吉は、大老酒井忠勝の実弟で、高家 吉良義冬 の義父であり、訴えられた。
一色刑部と同じく足利家の親族であった。喜連川から帰った幕府御上使の報告に基づき、即刻評定が下され、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の三名が 伊豆大島 へ 流罪 。
一色左京(一色刑部の長男)・石塔八郎・伊賀惣蔵・柴田弥右衛門・柴田七郎右衛門の五名は大名旗本預かりとなったとされる。
また、この事件当時、尊信派の次席家老の二階堂又市(十五歳)は、役責不行き届きの罪により白河城主本多能登守に預けられたとされる。
高野修理等の働きにより3代喜連川尊信は開放され藩政を取り戻し、その約5年後の 承応 二 年(1652)、尊信の死去により四代 喜連川昭氏 (七歳)が大叔父である 榊原忠次 を後見人として家督を相続した。
この喜連川騒動では、誰一人として死罪となった者はいなかったが、喜連川藩の一色派の家は断絶となったとされる。忠臣として記述されている尊信派の中で、二階堂又市だけは喜連川騒動事件の十五年後に帰参を許されている。
* 喜連川 尊信 (きつれがわ たかのぶ、 元和 五 年(1619)~ 承応 二 年(1653)三月十七日))は、 下野 喜連川藩 の第二代藩主。初代藩主・ 喜連川頼氏 の長男・ 義親 の長男。母は花房氏( 榊原康政 の養女)。正室は 那須資景 の娘。子に 昭氏 (長男)、 氏信 (次男)、娘( 福原資敏 正室)、娘( 天野雄重 室)、娘( 東慶寺 二十一 世永山尼)。官位は 左兵衛督 。 幼名 は龍千代丸。
のち 元服 して 尊信 と名乗る。「尊」の字は祖先にあたる 室町幕府 初代 将軍 足利尊氏 に肖ったものであろう。
寛永 四 年(1627)に父が祖父より先に死去したため、寛永七年(1630)に祖父が亡くなると、幕命により家督を継ぐこととなった。
しかし、 正保 4年(1647)藩の主導権をめぐって藩内で 喜連川騒動 が発生し、慶安元年(1648)、幕命により家督を昭氏(七歳)に譲って 隠居 することを余儀なくされた。承応二年(1653)三月十七日、三十五歳で死去。法号は瑞芳院殿昌山公大居士。