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3・越後騒動
* 松平綱賢 (まつだいら つなかた、 寛永 一〇 年三 月十一日 (1633) - 延宝 二 年一 月三十日 (1674))は、 越後国 高田藩 の世嗣。 松平光長 の長男。母は 毛利秀就 の娘・土佐。正室は 九条道房 の娘・豊光院。 幼名 は徳千代。 諡号 は源剛院殿。墓所は 林泉寺 。
寛永一〇年(1633)三月十一日、光長の嫡子として生まれた。 承応 二 年(1653)十二月二十一日 元服 し、 将軍 徳川家綱 から 偏諱 を授与され綱賢と名乗る。 従四位 下 侍従 ・ 下野 守に叙任。 寛文 六 年(1666)に 左近衛権少将 に叙任。延宝二年(1674)一月三十日、嗣子のないまま、四二歳で死去した。
綱賢の死が、後年に 越後騒動 とそれに伴う 改易 の原因となった。世嗣には、従兄弟にあたる 松平綱国 が養子として迎えられた。
* 永見 長良 (ながみ ながよし、 寛永 九 年七 月二三日 (1632) - 元禄 十四 年四 月五日 (1701)は、 越前松平家 の一族。父は 越前 北ノ庄藩 主・ 松平忠直 。幼名は熊千代。母の身分が低かったために祖父・ 結城秀康 の母方の実家である永見氏を名乗った。
通称・大蔵。父の 改易 後に 流罪 先の 豊後国 で生まれる。 慶安 四 年(1651)、兄・ 永見長頼 とともに異母兄である 越後 高田藩 主・ 松平光長 から二千石ずつ与えられる。
ところが首席 家老 ・ 小栗美作 が行った 蔵米 制に反発して両者の間に対立が生じた。 延宝 二 年(1674)、光長の嫡子・ 綱賢 が男子なく死去した。光長は既に六〇歳で他に男子はなく、急ぎ世継を定めねばならなくなった。世継の候補は光長の異母弟である長良と既に病死していた長頼の遺児・ 永見万徳丸 、そして光長の妹を母とする小栗美作の次男・ 大六 であった。評議の結果、一五歳の万徳丸を世継とすることで決まった。
万徳丸は元服して将軍・ 徳川家綱 から一字をもらい綱国と名乗り、 三河 守に任官した。綱国が世継と決まったが、家中では小栗美作が大六を世継にしようと企んでいるとの疑惑を持たれた。
これに対して反小栗派の重臣が長良を押し立てて藩士八九〇名を糾合(「お為方」)、延宝七年(1679)正月、長良らは光長に目通りして同志八九〇人の誓紙を差し出し、小栗美作の悪政を糾弾して、小栗の隠居を要求した。優柔不断の光長はお為方の強硬さに押し切られて小栗の隠居を命じる。
小栗はやむなく隠居を願い出て大六に家督を譲るが、長良らは収まらずさらに騒ぎを大きくした。事態を収拾できなくなった光長は 大老 ・ 酒井忠清 に裁定を訴え出た。酒井忠清は両派に和解を申し渡すが長良らは納まらず、遂に一月、幕府は長良とその一派を人心を惑わした罪で大名家へのお預けの処分を下され、長良も 長州藩 毛利家 に預けられた。
ところが、延宝八年(1680)五月、将軍・家綱が死去。 徳川綱吉 が第五代将軍に就任した。綱吉は一連の騒動の再調査を命じた。再審は同年12月に始まり、小栗美作や大名お預けとなった長良らに江戸出府が命じられた。長良は小栗と江戸で対決。長良は小栗の悪政と専横(贅沢で人心を堕落させ、豪華な屋敷をつくったことなど)を言い立て、更に子の大六を世継にしようと企てたと主張。小栗はこれらの攻撃に雄弁に反駁した。
年を越して詮議は続いた。延宝九年(1681)六月、長良や小栗らが 江戸城 に召喚され、将軍・綱吉の親裁が行われた。短い質疑の後、綱吉は裁定を下した。小栗美作とその子・大六は 切腹 、長良もまた同じ派閥の 荻田本繁 と共に 八丈島 に流罪、高田藩は 改易 処分とされた( 越後騒動 )。