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7・野村騒動
こうした反面、多数の著作を残すなど教養高く、 河合見風 らの文人・学者との交流もある文人でもあった。著作には格調高いものばかりでなく、蒸し羊羹の製法をまとめた書などというものもあり、調理法が詳細に紹介されている。
◎ 加賀藩 (かがはん)は、 江戸時代 に 加賀 、 能登 、 越中 の三国の大半を領地とした 藩 。藩祖 前田利家 の妻である 芳春院 (まつ)の死後、芳春院の 化粧領 (婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高)で、 飛び地 の一種)だった 近江 弘川村(現在の 滋賀県 高島市 今津町)を加える。
加賀国 石川郡 にある 金沢城 ( 金沢市 )に居城。 明治 二 年(1869) 版籍奉還 後には藩名を 金沢藩 と定められた。藩主の 前田氏 は 外様大名 ではあるが 徳川将軍家 との姻戚関係が強く、準 親藩 の地位が与えられ 松平姓 と 葵紋 が下賜された。3代・光高以降の藩主は将軍の 偏諱 を拝領した。
また、 大名 中最大の一〇二万五千石を領し、 極官 も 従三位 参議 と他の大名よりも高く、 伺候席 も 徳川御三家 や 越前松平家 などの 御家門 が詰める大廊下である(他の外様の 国持大名 は大広間)など御三家に準ずる待遇であった他、 一国一城 令 が布告された後に 小松城 の再築が許されて「一国二城」となる、将軍家にとっては 陪臣 である加賀八家 ( 後述 ) にも武家官位が与えられるなど、他の外様大名とは別格の扱いであった。
織田信長 によって能登1国を与えられていた藩祖 前田利家 が、 天正 一一 年(1583)の 賤ヶ岳の戦い の後に 豊臣秀吉 に降って加賀2郡、さらに天正一三年(1585)には 佐々成政 と戦った功績によって嫡子 利長 に越中西三郡が与えられて、三国にまたがり一〇〇万石を領する前田家領の原形が形成された。
慶長 4年(1599)利家が死ぬと、加賀東部と越中の合計三八万石を領する利長と、能登に二一万石を領するその弟 利政 に分割された。翌、慶長五年(1600)の 関ヶ原の戦い に際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ、敗れた側の利政は所領を没収。
かわりに利長が利政の旧領と加賀西部の西軍大名の旧領を授けられ、三ヶ国一二〇 万石 に及ぶ所領を獲得した。のちに第三代 利常 (利長の弟)が隠居するとき、次男・三男を取り立てて支藩とし、越中 富山藩 一〇 万石と加賀 大聖寺藩 七 万石(一〇万石)をそれぞれ分与したので、一〇二万五千石となる。支藩として他に上野 七日市藩 一 万石がある。
利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。利常の孫 綱紀 は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、 兼六園 は綱紀の時代に造営された。 大政奉還 時は 徳川慶喜 を支持したが、幕府軍が 鳥羽・伏見の戦い に敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。
明治四年(1871) 廃藩置県 によって金沢県となり、まもなく新川県・大聖寺県と合併して旧三国に広がる石川県を構成。明治一六年(1883)旧越中四郡が分かれて 富山県 が設置され、現在の 石川県 の領域が確定した。旧藩主・前田家は明治一七年(1884)の 華族令 により 侯爵 となった。
◎ 「五箇山流刑地」 江戸時代 、 1690年 からは 加賀藩 の正式な 流刑地 となった。流刑場所は、庄川右岸の八カ所で、軽犯罪者は平小屋と呼ばれる建物に収容され拘束の程度は緩かったが、重犯罪者は御縮小屋と呼ばれる小屋に監禁され自由を奪われていた。
御縮小屋の一部は昭和年間まで残されていたが1963年の三八 豪雪 の際に倒壊。 1951年 に復元されたものが富山県の有形民俗文化財に指定され、流刑小屋として地域の名所となっている。 加賀騒動 の 大槻伝蔵 もこの地へ流された。