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2・仙谷騒動
久道から夫人の書状を見せられた左京は重臣を江戸に上らせ、久道夫人に弁明をすると共に瀬兵衛の消息を掴むことに全力を挙げた。藩内に潜伏していた瀬兵衛は 天領 生野銀山 にまで逃げたが捕縛された。本来天領での捕縛には幕府の 勘定奉行 の許諾が必要で、無断捕縛は違法であった。しかし、左京は懇意の老中松平康任にこの事実をもみ消してもらう。そして瀬兵衛に加担し仙石弥三郎に引き合わせた弥三郎の家臣 神谷転 の捕縛を老中松平康任の伝で南 町奉行 に実行させた。
身の危険を感じた神谷は 虚無僧 になって江戸に潜伏していたが、南町奉行所に捕縛されてしまった。この事態に神谷が帰依所属していた 普化宗 一月寺 が、僧は 寺社奉行 の管轄に属し、町奉行に捕縛権限はないので違法であり、即時釈放することを、寺社奉行所に神谷が所持していた瀬兵衛の上書の控と共に訴えた。
また、久道夫人は実家である 姫路藩 邸に赴き、藩主 酒井忠学 の妻で 将軍 家斉 の娘 喜代姫 にも藩の騒動を話していた。寺社奉行の 脇坂安董 は松平康任に対抗し、権力掌握を狙っていた老中 水野忠邦 に出石藩の騒動と康任の関係を報告した。康任を失脚させるため、水野忠邦と脇坂安董は左京が仙石家の乗っ取りを策謀しているとして将軍家斉に言上する。
出石藩の騒動は娘の喜代姫経由で家斉の耳にも達しており、家斉はこの騒動を寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行で構成される評定所が裁定し、その責任者を脇坂安董とすることに決める。実際の調査取調べは寺社奉行吟味物調役である川路弥吉(のちの 川路聖謨 )が行った。
天保 六 年(1835)裁定が下され、仙石左京は獄門になり、鈴ヶ森に晒首された。左京の側近 宇野甚助 も斬罪となり、左京の子小太郎は 八丈島 へ 流罪 になるなど、左京派は壊滅的打撃を受けた。藩主久利に直接お咎めは無かったが、出石藩は知行を五万八千石から三万石に減封となった。
また幕府内でも、老中松平康任は同時に発覚した密貿易 ( 竹島事件 ) の責も含め失脚、隠居を余儀なくされた他、南町奉行 筒井政憲 と勘定奉行の 曾我助弼 も失脚した。出石藩はその後も抗争のしこりが残り、 文久 二 年 ( 1862 ) 藩主久利が実権を握り、親政を開始するまで長く藩内の政争は続いた。
仙石小太郎は八丈島に向かうために立ち寄った 三宅島 で発病し、死亡した。小太郎の荷物は皆盗まれ、寝巻きしか残っていなかったという。また左京の娘は 白湯文字 と呼ばれる私娼に零落したという。松平康任が隠居した後、子の 康爵 が跡を継いだが、 石見 浜田 から 陸奥 棚倉 に懲罰転封された。
南町奉行を解任された筒井政憲は左遷されるが、後に復権し川路聖謨と共に対ロシア外交の責任者となる。康任を失脚させた水野忠邦は老中首座となり、 天保の改革 を推し進める。脇坂安董は 寺社奉行 から老中に就任する。名を上げた川路聖謨は出世の契機となった。
◎ 出石藩 (いずしはん)は、 但馬国 に存在した 藩 。藩庁は 出石城 ( 兵庫県 豊岡市 出石町 )。 慶長 五 年(1600)の 関ヶ原の戦い のとき、 小出吉政 は父の 小出秀政 と共に西軍に与して 丹後国 田辺城 を攻撃したが、吉政の弟・ 小出秀家 が東軍に属して関ヶ原本戦にて活躍した功績により戦後、 徳川家康 から六万石の所領を安堵された。慶長九年(1604)の秀政の死後、小出吉政は 和泉国 岸和田藩 に移封され、代わって出石領は吉政の嫡男・ 吉英 が領した。
その後、吉英は吉政の跡を継いで岸和田領を継ぐことになり、出石は吉英の弟・ 吉親 が継ぐこととなる。いわばこのとき、小出家は岸和田と出石の両家に分かれたと見るべきである。しかし 元和 五 年(1619)、岸和田領を継いでいた吉英が、五万石にて出石に移されることとなり、これに伴い弟の吉親は 丹波国 園部へ移封され、 園部藩 を立藩する。結果、吉英は再び出石藩主になった。
その後、但馬出石の小出家は藩主の早世が相次ぎ、第九代藩主・ 英及 が 元禄 九 年(1696)に三歳で死去すると無嗣断絶となった。その後を受けて 松平忠周 が四万八千石で入ったが、 宝永 三 年(1706)に 信濃国 上田藩 へ移封された。
入れ替わりに 信濃国 上田藩 より 仙石政明 が入り、 仙石氏 の支配で 明治時代 にまで至った。明治四年(1871)、 廃藩置県 により出石県となる。その後、豊岡県を経て兵庫県に編入された。