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3・「お由羅騒動」
斉溥の仲介で、斉彬と近しい幕府 老中 ・ 阿部正弘 、 伊予 宇和島藩 主・ 伊達宗城 、 越前 福井藩 主・ 松平慶永 らが事態収拾に努めた。こうして嘉永四年(1851)二月に斉興が隠居し、斉彬が第11代藩主に就任した。この一連の お家騒動 は お由羅騒動 (あるいは高崎崩れ)と呼ばれている。藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、 反射炉 ・ 溶鉱炉 の建設、 地雷 ・ 水雷 ・ ガラス ・ ガス灯 の製造などの 集成館事業 を興した。
嘉永四年(1851年)七月には、 土佐藩 の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎( ジョン万次郎 )を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、 安政 元年(1854)、洋式帆船「 いろは丸 」を完成させ、帆船用帆布を自製するために 木綿 紡績 事業を興した。西洋式軍艦「 昇平丸 」を建造し幕府に献上している。昇平丸は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸とともに大きく役立った。
黒船来航以前から 蒸気機関 の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「 雲行丸 」として結実させた。また、下士階級出身の 西郷隆盛 や 大久保利通 を登用して朝廷での政局に関わる。斉彬は松平慶永・伊達宗城・ 山内豊信 ・徳川斉昭・ 徳川慶勝 らと藩主就任以前から交流をもっていた。斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に 幕政改革 ( 安政の幕政改革 )を訴えた。
特に斉彬は 黒船来航 以来の難局を打開するには 公武合体 ・武備開国をおいてほかにないと主張した。阿部正弘の内諾を受け、薩摩藩の支配下にあった 琉球王国 を介して、 フランス との兵器購入・交易を画策し 市来四郎 を派遣したが、後の斉彬の急死で頓挫している。
安政四年(1857)の阿部正弘の死後、安政五年(1858年)に 大老 に就いた 井伊直弼 と 将軍継嗣問題 で真っ向から対立した。第十三代将軍・ 徳川家定 が病弱で嗣子がなかったため、宗城ほか四賢侯、斉昭らは次期将軍に斉昭の子の 慶喜 を推し、篤姫を 近衛家 の養女とした上で家定正室として嫁がせるなどしている。
斉彬は公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を請願している。一方、井伊直弼は 紀州藩 主・徳川慶福(よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する 安政の大獄 を開始する。結果、慶福が第十四代将軍・ 徳川家茂 となり、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。斉彬はこれに対し、藩兵五千人を率いて抗議のため上洛することを計画した。
しかし、その年の 七 月八日 、 鹿児島城 下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、 七 月十六日 に死去した。 享年 五〇歳 (満四九歳歳没)。死因は、当時日本で流行していた コレラ という説が有力であるが、そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとも併せ、父・斉興や異母弟・久光またはその支持者の陰謀であるとの噂もあった。
* 島津 久光 (しまづ ひさみつ)は、 江戸時代 末期から 明治時代 初期にかけての 日本 の 政治家 。 幕末 の 薩摩藩 における事実上の最高権力者で、 公武合体 運動を推進した。
明治政府 の 内閣顧問 、 左大臣 。 重富島津家 当主、のち 玉里島津家 初代当主。 位階 勲等 爵位 は 従一位 大勲位 公爵 。 字 は君輝、邦行。 雅号 は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。 島津家 二十七 代当主(薩摩藩十代藩主) 島津斉興 の五男。同二十八代当主(十一代藩主) 島津斉彬 は異母兄、同二十九代当主(十二代藩主) 島津忠義 は長男。次男・ 久治 は 宮之城家 、四男・ 珍彦 は 重富家 、五男・ 忠欽 は 今和泉家 、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。
曾孫に 香淳皇后 、玄孫に 今上天皇 がいる。文化十四年(1817)十月二十四日、 薩摩国 鹿児島郡 (現 鹿児島県 鹿児島市 )の 鹿児島城 において誕生する。生母は斉興の側室・ お由羅の方 。 幼名 は普之進(かねのしん)。 文政 元年(1818)三月に 種子島久道 の養子となり、公子(藩主の子)の待遇を受ける。
文政八年(1825)3月13日に島津宗家へ復帰し、4月に又次郎と改称する。同年十一月一日、島津一門家筆頭の 重富島津家 の次期当主で叔父にあたる島津忠公の娘・千百子と婚姻し、同家の婿養子となる。これを機に鹿児島城から城下の重富邸へ移る。文政十一年(1828)二月十九日に斉興が 烏帽子親 となり 元服 、忠教(ただゆき)の 諱 を授かる。
天保 七 年(1836)二月、千百子と婚礼の式を挙げる。天保十年(1839)十一月に重富家の 家督 を相続し、十二月に 通称 を山城と改める。 弘化 四 年(1847)十月、通称を山城から周防へ改める。斉興の後継の地位をめぐり、斉彬と忠教の兄弟それぞれを擁立する派閥が対立して お家騒動 ( お由羅騒動 )に発展した結果、 幕府 の介入を招来し、 嘉永 四 年(1851)二月二日に斉興が隠退、斉彬が薩摩藩主となる。島津氏家督の座を争うかたちにはなったが、忠教自身は反斉彬派に担がれたという要素が強く、斉彬と忠教の個人的関係は一貫して悪くなかったとみられる。
また忠教は斉彬と同様、非常に学問好きであった。ただ、 蘭学 を好んだ斉彬と異なり、忠教は 国学 に通じていた。 安政 五 年(1858)七月十六日に斉彬が死去すると、遺言により忠教の実子・忠徳が十二月二十八日、藩主に就任する(忠徳は翌6年2月、 将軍 ・ 徳川家茂 に謁見し、その 偏諱 を授かって茂久と改名。後の 忠義 )。茂久の後見を務めた斉興が安政六年(1859)六月十二日に没すると、藩主の実父として忠教の藩内における政治的影響力が増大する。
4・「お由羅騒動」 2023年07月27日
2・お由羅騒動 2023年07月27日
23、斉彬対久光の熾烈な後継者争い呪詛… 2023年07月27日