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2023年08月12日
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カテゴリ: 戊辰戦争の群臣





板垣退助(1868年)


同1月13日、迅衝隊は土佐城下致道館前で出陣祈願を行う。その最中も土佐藩門閥派の重鎮・寺村左膳らが「行ってはならぬ」と止めに入るが、それらの制止を振り切って出陣。その直後、「讃岐高松、伊予松山両藩及び天領川之江征討」の勅を拝し「錦の御旗」を授けられた。


皇威を畏み、正式に官軍としての命を奉じ、また、いよいよ坂本龍馬、中岡慎太郎らの仇討ちができると喜び勇んで進軍した。


迅衝隊が高松、松山に到着すると両藩は朝敵となることを恐れて一戦も交える事なく降伏した為、無血開城となるが、その最中も京都からは佐幕派の土佐藩士らの妨害から進軍を阻止する伝令が出された。しかし情報を得て川路、陸路の食い違いから、阻止派の動向を巧みにかわして京都への上洛を果たす。


総督板垣退助の復姓 [ 編集 ]


山内容堂は当初、鳥羽・伏見の戦いを私闘と見做し土佐藩士の参戦を制止したが、「薩土討幕の密約」に基づいて初戦から参戦した者が数多くおり、追討の勅が下った後は、もはや勤皇に尽すべしと意を決した。


京都で在京の土佐藩士と合流した迅衝隊は、部隊を再編し軍事に精通した乾退助を大隊司令兼総督とした。


退助はさらに朝廷より東山道先鋒総督府参謀に任ぜられ、2月14日京都を出発し東山道を進軍した。


この京都を出発した日が乾退助の12代前の先祖とされる、板垣信方の320年目の命日にあたる為、天領である甲府城の掌握目前の美濃で、武運長久を祈念し「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」との岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。


甲府城入城から決戦へ


断金隊、護国隊の結成


甲府城入城を果たした板垣退助が旧武田遺臣であると知れるや「武田家旧臣の板垣信方の末裔が甲府に帰ってきた」と、徳川施政に苦しんでいた領民に大歓迎で迎え入れられた。


旧武田家家臣の子孫の浪人や神官、長百姓らが協力を願い出たため、甲斐の郷士らで構成された「断金隊」や、「護国隊」が組織され、武田信玄の墓前で結成式が行われた。


決戦


板垣退助らより一日遅れて、大久保大和 ( 近藤勇 ) の率いる甲陽鎮撫隊は甲府についたが、入城を果たせず、甲州街道と青梅街道の分岐点近くを軍事上の要衝であるとして布陣した。300人いた将兵は次第に皇威に恐れをなして脱走し、121人まで減ってしまったという。柏尾坂附近で戦闘となったが、洋式兵法にも精通していた迅衝隊がこれを撃破。


戦闘が始まって僅か約2時間で勝敗がつき、甲陽鎮撫隊は山中を隠れながら江戸へ敗走した。板垣の復姓は、甲斐国民心の懐柔に効果を現わしたばかりではなく、その後に江戸に進軍する際も、旧武田家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった。


旧幕側の動向


決戦までの流れ


新選組は京都守護職指揮下で京都市街の治安維持などに従事していたが、慶応4年1月、旧幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦い、淀千両松の戦いで新政府軍と戦って敗れ、江戸へ移った。新政府軍は東海道・東山道・北陸道に別れ、江戸へ向けて進軍した。


甲陽鎮撫隊の編成


新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、幕府直轄領である甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた(一説には、江戸開城を控えた勝海舟が、暴発の恐れのある近藤らを江戸から遠ざけたとも言われる)。


新選組と浅草弾左衛門 ( 矢野内記 ) 配下の被差別民からなる混成部隊が編成され甲陽鎮撫隊 [9] と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名。ミニエー銃をはじめとする洋式砲が多数配備され3月1日に江戸を発足甲州街道を行軍した。


大名旅行のような行軍 [ 編集 ]


近藤勇は「甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう」という勝海舟の指令を軽んじ、新選組70人と被差別民200人からなる混成部隊の不満をやわらげ士気を高めるため、幕府より支給された5000両の軍資金を使って大名行列のように贅沢に豪遊しながら行軍し、飲めや騒げの宴会を連日繰り返した。


また移動の邪魔となった大砲 6 門のうち4門を置き去りにして2門しか運ばなかった。さらに天候が悪化し行軍が遅くなり、甲府到着への時間を空費した(沖田総司は途中で江戸に戻った)。


偽官軍事件


一方。同年正月には甲府城へ公家の高松実村を総帥とした「 官軍鎮撫隊 」が入城した。高松隊は高松を中心に伊豆国出身の宮大工・彫刻師である小沢一仙らを加えた草莽諸隊で、甲斐で年貢減免などの政策を約束しつつ甲府城へ入城し、官軍東海道総督府から勅宣を受けていない高松隊への帰国命令が発せられ、小沢一仙は処刑された(偽勅使事件)。






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最終更新日  2023年08月12日 09時32分07秒
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