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江戸への進軍
甲州勝沼および野州梁田の戦い
Ø 江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、慶喜は江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。
Ø 一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は、本拠地の会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。
Ø その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったことで新政府から標的にされていた庄内藩藩主・酒井忠篤は、会津藩と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。
甲州勝沼の戦い (こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つである。 柏尾の戦い 、 勝沼・柏尾の戦い 、 甲州戦争 、 甲州柏尾戦争 とも呼ばれる。板垣退助の軍勢と近藤勇の軍勢が戦った歴史に残る合戦。
合戦地の勝沼と甲斐国情勢
合戦地の甲斐国山梨郡勝沼(現在の甲州市勝沼町)は甲府盆地の東端に位置する。信濃国から甲府(甲府市)を経て江戸へ向かう甲州街道の勝沼宿が所在する宿場町で、交通の要衝地であった。一帯は農村。
甲州街道は江戸から郡内地方の山間部を経て甲府盆地(国中地方)へ至り、勝沼は盆地へ入った最初の地点に位置する。勝沼から郡内地方を越えれば武蔵多摩地方であり、新選組の幹部や隊士を多く輩出した多摩地方にも近い。
甲斐国は享保9年(1724年)に一国が幕府直轄領化され、甲府城(甲府市)には甲府勤番が配置され、在地には代官支配であった。甲斐に配置されている兵力は乏しく、天保7年(1836年)に発生した甲斐一国規模の天保騒動の際には勤番士三百数十人と各代官手付・手代50余りであった。
決戦までの動向
薩土討幕の密約
1867年(慶応3年)中岡慎太郎の仲介を経て、5月21日小松清廉邸で、薩摩藩の西郷隆盛・吉井友実・小松清廉らと土佐藩の乾(板垣)退助・谷干城・毛利恭助・中岡慎太郎らが会談し、薩土討幕の密約(薩土密約)が結ばれた。
翌日、乾退助は、薩摩藩と討幕の密約を結んだことを山内容堂へ報告。容堂は驚くが、乾退助が江戸築地の土佐藩邸に勤王派水戸浪士を匿っていることを告げられ、最早、駒は進んでいることを覚るやこれを了承。大坂でアルミニー銃300挺の買い付けを命じ、また乾退助に土佐藩の軍制近代化改革を命じ、来るべき時に備えるよう指示をした。
鳥羽・伏見の戦い
この薩土密約に基づき、1867年(慶応3年)12月28日、京都にいる西郷隆盛から土佐の乾退助あてに、「討幕の開戦近し」との伝令が出された。その予想どおり、明けて1868年(慶応4年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。
同1月6日、京都から谷干城が早馬で土佐に到着し、京都において武力討幕戦が開始されたことを土佐藩庁に報告した。
大政奉還が成って以降、武闘派の棟梁と警戒されて、藩軍の大司令 ( 陸軍大将 ) の職を解かれ、さらにその他総ての役職を被免され失脚していた乾退助は、即日、失脚を解かれ藩軍の大司令に復職した。同1月6日、乾退助は、谷干城の報告を受けて、 薩土討幕の密約 を履行すべく、土佐勤王党の流れをくむ隊士や、勤皇の志を持った諸士からなる迅衝隊を土佐で編成 [. さ
らに翌1月7日、朝廷より「徳川慶喜追討」の勅が出され、これに対抗する勢力は「朝敵」であるとの公式な判断が下った。
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