歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年08月30日
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カテゴリ: 保元の乱





鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「 上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す 」という風聞に対応するため、 勅命により 検非違使 平基盛 (清盛の次男)・ 平維繁 ・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取ら れた(『兵範記』7月5日条)。


u 検非違使 (けびいし、けんびいし)は 日本 律令制 下の 令外官 の役職である。「非違(不法、違法)を 検察 する 天皇 の使者」の意。検非違使庁の 官人 。佐と尉の 唐名 廷尉 京都 の治安維持と民政を所管した。また、 平安時代 後期には 令制国 にも置かれるようになった。


u 平安時代 弘仁 7年( 816 )が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、 桓武天皇 による 軍団 の廃止以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果として、治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。


u 当初は 衛門府 の役人が 宣旨 によって兼務していた。 官位相当 は無い。五位から 昇殿 が許され 殿上人 となるため、 武士 の出世の目安となっていた。


u 寛平 7年( 895 )、左右衛門府内に左右の検非違使庁(役所)を置くようになったが、 天暦 元年( 947 )に効率化、迅速化のために統合されて左庁だけに検非違使庁が置かれるようになった。


u 司法 を担当していた 刑部省 警察 監察 を担当していた 弾正台 に関わる 行政 治安 司法 を統括していた 京職 等の他の 官庁 の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。


u 平安時代後期には 刑事事件 に関する職権行使のために 律令 とはちがった性質の「 庁例 」(使庁の流例ともいわれた慣習法)を適用するようになった。


u また、この頃から検非違使庁における事務は 別当 の自宅で行われるようになった。


u 平安時代末期になると 院政 の軍事組織である 北面武士 に取って代わられ、更に 鎌倉幕府 六波羅探題 を設置すると次第に弱体化し、 室町時代 には 幕府 京都 に置かれ、 侍所 に権限を掌握されることになった。



u 内部官職


u 別当


u 四等官 の長官(カミ)に相当する。 唐名 大理卿 。定員は1名で、現任の正あるいは権中納言または参議にして、左あるいは右衛門督、または左あるいは右兵衛督の兼任者の何れかより補任される慣例である。


u 参議四位で検非違使別当を兼帯した例もある。一方、大納言以上の議政官で兼帯したのは、 藤原忠平 が911年(延喜11年)に大納言に転任するが、検非違使別当をそのまま兼帯した例のみで他の例は無く、五位以下から兼帯した例も無い。


u なお、検非違使別当は検非違使を統轄する最高責任者ではあるが、自身は検非違使ではない。また、検非違使別当を兼帯した権中納言従三位兼行左衛門督 柳原量光 が1486年(文明18年)に辞職以降、1655年(明暦元年 ) 10月26日、参議従三位行左衛門督の 油小路隆貞 が兼帯するまで兼帯者不在。また、途絶え、1744年(延享元年)8月29日、正三位行権中納言兼左衛門督 柳原光綱 が兼帯以降、明治維新まで後任者が継続する。


u 因みに、史料における検非違使別当兼帯の初出は、834年(承和元年)1月27日、参議左大弁従四位上兼行左近衛中将春宮大夫武蔵守の 文室秋津 である。(公卿補任)



u 四等官の次官(スケ)に相当する。 唐名 廷尉 。定員は 2 名で、左あるいは右衛門権佐が兼務していた。


u なお、原則として検非違使を務めるのは 権官 である左あるいは右衛門権佐であり、正官である左あるいは右衛門佐が検非違使を務めることはない。別当は兼務が多かったので実質的に検非違使庁の責任者であった。


u 蔵人 で検非違使佐を兼ねたり、蔵人・ 弁官 ・検非違使佐を兼ねる 三事兼帯 もいた。


u 因みに、史料における検非違使佐兼帯の初出は、824年(天長元年)、左衛門権佐従五位上の 笠仲守 と従五位下守右衛門権佐の 藤原永雄 である。(帝王編年記)


大尉


u 四等官の判官(ジョウ)に相当し、定員は4名で、衛門大尉が兼務していた。 明法家 である 坂上氏 及び 中原氏 が世襲するようになった。


少尉


u 四等官の判官(ジョウ)に相当し、定員は不定で、衛門尉が兼務していた。 10 世紀 後半頃から 源氏 平氏 などの 武士 がなることが多かった。 源義経 九郎判官 と呼ぶのもこの官職に就いていたからである。


大志、少志


u 四等官の主典(サカン)に相当する。定員は不定で、若年の明法家がなることが多かった。


府生


u 他の官司における 史生 に相当する下級書記官。追捕や裁判に参加する。定員は変動したが、おおよそ2名から4名。


看督長 (かどのおさ)


u 罪人を収監する 監獄 を管理する役であったが、後に罪人を捕縛する役になる。赤 狩衣 、白衣、布袴に白杖を持つ異形のいでたちで職務に当たった。


案主 (あんじゅ)


u 検非違使庁の事務役人で、当初 1 名だったが後に人数が増えた。


火長


u 衛門府 衛士 から選抜された者で、ここから看督長や案主が選ばれた。






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最終更新日  2023年08月30日 06時07分37秒
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