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2024年06月30日
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カテゴリ: 中世





永享2年(1430年)6月17日、39歳で死去し、跡を長男の胤直が継いだ。


*「千葉 胤直」 (ちば たねなお)は、 室町時代 中期の 武将 守護大名 千葉氏 の第16代当主。父は第15代当主 千葉兼胤 、母は 上杉禅秀 の娘。


永享 2年(1430)、父の死により 家督 を継ぐ。 鎌倉公方 足利持氏 室町幕府 からの自立を画策すると、 関東管領 上杉憲実 と共に諌めた。


永享10年(1438)持氏が憲実討伐を計画すると、鎌倉軍に属す( 永享の乱 )。


しかし、 武蔵 高安寺 にて幕府軍の出動を知り憲実との和議を結んで善後策を講じるように主張して、継戦を唱える 簗田満助 らと口論に及ぶ。持氏が満助の説を採ったために陣を退いて下総 市河 に移るが、その後憲実に属して持氏を攻め、翌年 上杉持朝 と共に鎌倉 永安寺 に幽閉されていた持氏を討ち取った(『 鎌倉大草紙 』)。


直後の 結城合戦 でも幕府軍に属して 結城城 を攻めたが、 嘉吉 元年(1441)に憲実と共に 出家 して家督を嫡男の胤将に譲った。


その後、持氏の遺児である 足利成氏 が鎌倉公方として復帰すると、胤直は胤将と共にこれを支える。


享徳 3年(1454)に胤将が急死したために幼い次男の胤宣が千葉氏を継ぐ事になり、胤直が後見を行うことになった。


だが、成氏が再び 上杉氏 討伐を企てたために離反して上杉氏と共に成氏を攻撃する( 享徳の乱 )。これに対して翌 康正 元年(1455)に8代 将軍 足利義政 から胤直・胤賢父子に対して賊である成氏に組せず、幕府に忠節を尽くしている事を賞する 御内書 が出されている。


ところが、かねてから親上杉派である胤直と重臣の 円城寺尚任 に不満を抱いていた叔父の 馬加康胤 と重臣の 原胤房 の連合軍が胤直を攻撃。


胤直・胤宣父子は千田庄多胡に逃れて防戦したが、同年8月12日に胤宣が自刃し、胤直も3日後の15日に自刃して果てた。


また、援軍にかけつけた 常陸国 大掾頼幹 (妙充)もこの時に自害している。


これにより、家督は康胤に奪われ、 千葉氏宗家は滅亡 した。この事件を契機として、千葉氏は次第に衰退してゆくのであった。


9月7日に弟の胤賢も討たれるが、甥の 実胤 自胤 兄弟は 康正 2年(1456)に武蔵まで落ち延び、幕府 奉公衆 東常縁 扇谷上杉家 家宰 太田道灌 の支援を受けて康胤及びその子孫と対峙する事になり、前者は武蔵千葉氏、後者は下総千葉氏として分裂していく。


*「馬加 康胤」 (まくわり やすたね)は、 室町時代 前期の 武将 千葉 康胤 (ちば やすたね)とも。第14代当主・ 千葉満胤 の次男。


享徳の乱 に乗じて、 千葉氏 宗家を攻め滅ぼして19代当主となる。 下総 千葉郡 馬加村(現在の 千葉県 千葉市 花見川区 幕張町 )に居を構えたことから「 馬加 」と称した。また、『千学集抜粋』によれば、 常陸国 大掾満幹 の養子になったという。


享徳の乱において、 鎌倉公方 足利成氏 関東管領 上杉氏 が対立する。その結果、 京都 室町幕府 から支持された上杉氏の追討を受けた成氏は 鎌倉 を追われて下総 古河城 に入り、 古河公方 と称した。


そのため、下総 守護 であった千葉氏の元には、幕府と成氏の双方から支援の依頼が寄せられるようになる。


甥の千葉氏当主 胤直 は幕府の依頼を受けて成氏討伐に乗り出すが、康胤は成氏支援を主張して対立する。


これに筆頭重臣の地位を巡る 原氏 円城寺氏 の対立が絡んで家中は2分される事になった。


享徳4年(1455)、 原胤房 は千葉胤直・ 胤宣 父子を 亥鼻城 に攻め、千田庄(現在の 千葉県 香取郡 多古町 付近)へ追いやった。


その後、出家していた康胤もこれに合流し、千田庄の 多古城 ・島城にたてこもる胤直父子や 円城寺尚任 、援軍にかけつけた 大掾頼幹 (妙充、満幹の次男又は甥)を攻め滅ぼした。


これに対して、 室町幕府 将軍 足利義政 は、この乱を治めるため 歌人 で千葉氏の一族でもある 美濃 郡上郡 篠脇城 東常縁 を派遣した。


常縁は康胤の本拠たる馬加へ攻め入り、康胤は 小弓 、胤房は千葉へそれぞれ逃れた。康胤の最期については、 上総 八幡(現在の千葉県 市原市 八幡町)の村田川で常縁に討たれたとされるが不詳である。


*「馬加 胤持」 (まくわり たねもち 千葉 胤持 ちば - )は、 室町時代 中期の 武将 千葉氏 宗家を滅ぼした 馬加康胤 の嫡男。


享徳 3年(1455) 12 27 鎌倉公方 足利成氏 関東管領 上杉憲忠 暗殺 したことから 享徳の乱 が始まり、これに乗じた千葉氏の重臣でもある 原胤房 千葉城 を急襲、千田庄(現在の 多古町 )に逃れたまだ幼い当主 千葉胤宣 を、 康正 元年 12 に原胤房に加担した胤持の父康胤が討って千葉氏宗家を滅ぼした。しかしこの時の胤持の行動については定かではない。


そして、原胤房は 将軍 足利義政 が派遣した 東常縁 に追われ同年11月24日に逐電し、その後東常縁の入った市河城(現在の 市川市 市川)は、康正2年(1456)正月19日 古河公方 足利成氏 の派遣した 簗田持助 に落とされたが、 東庄 の近い 下総 匝瑳郡 へ逃れ体制を立て直した東常縁に 馬加城 (現在の千葉市 花見川区 幕張町)を攻め落され、胤持は6月12日に討たれてその首は京に送られたという。


なお、父康胤は 上総国 八幡(現在の 市原市 八幡)の 村田川 にまで逃れたが、11月1日に討ち取られ 馬加氏 は滅びた。






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最終更新日  2024年06月30日 07時30分47秒
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