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2024年06月30日
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カテゴリ: 中世






篠塚陣での戦いの和議の席において、古河公方の使者が千葉氏の実権を握っていた孝胤に対して、勝胤に古河公方から一字拝領を受けることを勧めた。


これに対して孝胤は千葉氏の当主は代々千葉妙見宮で元服して籤で一字を定めるので不要と答えた。


それならば、次男に一字拝領をと勧められたが、これも「次男は嫡男から一字拝領を受けるもの」だと答えて、拒絶した(『 千学集抄 』)。


これは、馬加康胤を祖とする下総千葉氏が朝廷や室町幕府から正当な千葉氏当主と認められず、また、応仁の乱以後の朝廷・幕府の衰退や 在倉制 の崩壊によって関東公方に出仕することもなくなった下総千葉氏は仰ぐべき明確な主君を持たなくなった。


このため、当主の権威を一族の精神的な支えであった妙見信仰に求めるとともに、下総国主として地元に根づいた下総千葉氏の姿を示した逸話と言える。


*「千葉 輔胤」 (ちば すけたね 岩橋 輔胤 、いわはし - )は、 室町時代 中期から 戦国時代 初期にかけての 武将 千葉氏 の第21代当主。


千葉大系図 』によれば、第19代当主・ 千葉康胤 (馬加康胤)の庶子で初めは所領のあった印旛郡印東庄岩橋村(現在の 千葉県 印旛郡 酒々井町 岩橋)より、「岩橋」氏を名乗ったとされる。


ところが、『 千学集抄 』によれば、千葉氏の庶流である 馬場胤依 の子で、第13代当主 千葉氏胤 の曾孫にあたるとされている。馬場氏は氏胤の子 馬場重胤 に始まる印旛郡馬場村(現在の 成田市 付近)を拠点とした一族で、輔胤の所領である岩橋も馬場氏の拠点の1つであったという。


輔胤の時代の千葉氏周辺の状況について詳細な史料が存在しないため、輔胤の実像については様々な説がある(千葉姓を名乗ったかどうか、佐倉城への移転の時期がいつか等)。



千葉氏当主説


父の康胤は、 享徳の乱 で関東が混乱する中、 1455 、当時の千葉氏の正統である 千葉胤直 父子を殺害し、自ら千葉氏当主を僭称したが、幕府に追討される立場となる。


1457 、父の康胤と兄の 千葉胤持 (第20代当主)が戦死したため、輔胤がその後を継いで当主となる。ところが同年、 東常縁 の攻撃を受けて居城( 千葉城 )から追われ、 佐倉 に逃れ、そこを拠点とした。


1471 上杉顕定 に追われた 古河公方 足利成氏 を庇護し、翌年には成氏を 古河 に帰還させた。


1478 長尾景春の乱 が勃発すると、子の 千葉孝胤 を派遣して、 上杉氏 に反抗する景春を助けた。


1492 に死去し、跡を子の孝胤が継いだ。



千葉氏非当主説


それ以前の居城については定かではないが、 享徳の乱 に乗じ千葉氏宗家を攻め滅ぼした 原胤房 が、 東常縁 に追われ逐電した後、 文明 年間(1469~1488)に 本佐倉城 (現在の酒々井町本佐倉)を築城したと伝えられている。


子の孝胤の代に重臣団の後押しを受けて千葉氏当主を自称して以降、輔胤の系統が下総千葉氏の当主となるが、輔胤自身は岩橋姓のままであった。


*「千葉 昌胤」 (ちば まさたね)は、 戦国時代 下総 千葉氏 第24代当主。 千葉勝胤 の嫡男。


永正 2年11月15日(1505)、10歳で 千葉妙見宮 元服 する。この年には祖父にあたる 千葉孝胤 が病死しており、自身が祖父・ 千葉輔胤 の死の直後に孝胤から 家督 を譲られている父の勝胤が昌胤への将来の家督譲渡を意識して行わせたものであるとも言われている。


4年後父が 隠居 出家 したことに伴って家督を継承した(だが、実権は依然として勝胤が保有していた)。


だが、この頃千葉氏とは盟友関係にあった 古河公方 家では内紛が生じて 足利高基 が父・ 政氏 や弟・ 義明 を追放して古河公方に就任した。


昌胤は高基を支持した一方で隣国 上総 を治める 真里谷信清 が義明を迎え入れて千葉家中にもこれに呼応する動きがあった。


義明軍は永正17年(1520)に千葉氏の筆頭重臣・ 原氏 の居城であった 小弓城 を奪い、翌年には 小弓公方 を名乗った(但し年代には異説がある)。


このため、千葉氏ゆかりの 亥鼻 の地にまで小弓公方勢力が浸透したために嫡男・利胤の元服も居城のある 佐倉 で行わざるを得なくなった。


そこで昌胤は当時急速に勢力を広げつつあった 相模 北条氏 と連携して小弓公方派と対抗しようとした。また、千葉氏の庶流とは言え本来は 陪臣 (原氏の家臣)にあたる 高城胤吉 を側近として用いて自分の妹婿としている。ただし、大永7年(1527年)に北条氏綱と足利義明が和睦すると、千葉氏・真里谷氏・里見氏もこれに加わり、この時期は義明傘下にあったと考えられている。


享禄 5年(天文元年・1532 )、父・勝胤の死によって家中の実権を完全に掌握した昌胤は利胤の正室に 北条氏綱 の娘を迎えている。


天文3年(1534年)11月に 真里谷氏 で内紛が起きたのに乗じて、昌胤は足利義明から離反をしているが、義明に攻められて翌年4月には降伏している。


天文6年(1537)には高城胤吉の居城 小金城 の落成を祝賀するとして自ら小金城を訪問して、 茶会 を名目に胤吉とともに 国府台城 を見回っている。


ところが、足利義明と北条氏綱の関係が悪化すると、天文 6 12 月に古河公方・ 足利晴氏 に内応して再び義明から離反する。






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最終更新日  2024年06月30日 08時32分20秒
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