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戦国時代 に入ると、常陸国の佐竹氏、 小弓公方 足利義明 や 安房国 の 里見氏 の侵攻を受けるようになる。そして 北条氏康 と姻戚関係を結ぶことで、 後北条氏 の支援をもとに所領を守る。
千葉氏内部においても、第26代当主を継いだ 千葉親胤 は、 原親幹 によって暗殺されてしまい、続いて第29代当主を継いだ 千葉邦胤 が 、
天正13年(1585)に家臣の手で暗殺されるなどの混乱が続いた。 、 天正18年(1590)、第31代当主 千葉重胤 の時に 豊臣秀吉 の 小田原征伐 で後北条氏が滅亡したことにより、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡した。重胤は 徳川家康 に仕えたが、後に 浪人 となった。他には 仙台藩 や 一関藩 に仕えた者もいる。
千葉氏一族は奥州でも活躍した。改姓した 相馬氏 や、千葉氏からの養子を迎えたとされる 葛西氏 は特に有名である。
他の大族としては薄衣、長坂、大原氏らが葛西氏重臣として活躍。このほか 大崎氏 や 伊達氏 に仕えた一族もあり、敵味方に分かれて戦った。
千葉氏の名乗りのまま、戦国時代に突入した分枝もある。 しかし本家に遅れること5年、天正18年(1590)のいわゆる 奥州仕置 と 葛西大崎一揆 、 九戸一揆 の過程で主だった者は相次いで戦死、あるいは一揆首謀者として処刑、 改易 された。
奥州の千葉一族は相馬氏などを除いて歴史の表舞台から姿を消した。相馬氏は近世 大名 として 明治維新 を迎えた。
浪人となった一族は仕官を求めて 東日本 各地へ離散した。帰農した者も多く、奥州仕置で他の没落した諸氏と同様、奥州各地で 庄屋 、 豪農 などの上級農民層を形成した。
*「千葉 孝胤」 (ちば のりたね)は、 室町時代 中期から 戦国時代 初期にかけての 武将 。 千葉輔胤 (岩橋輔胤)の嫡男。
生没年には諸説あり、 嘉吉 3年 5 月 2 日 (1443) 5 月 30 日 、生まれ、嘉吉3年 7 月 18 日 (1443) 8 月 13 日 、生まれ、 文安 元年(1444)生まれともされる。永正2年8月19日(1505) 9 月 26 日 に没したとも言われている。
「千葉氏当主就任(僭称)への経緯」
享徳の乱 の最中に 康正 元年(1455)11月に着陣した 東常縁 に追われ、 原胤房 は逐電し、 馬加康胤 とその子 胤持 も討ち取られたが、 千葉氏 嫡流の 千葉実胤 には 下総 を掌握するだけの力が無く、東常縁も 応仁の乱 で 美濃国 の所領問題を機に 文明 元年(1469)4月に帰京し、文明3年(1471)には 宗祇 に 古今伝授 を行っている。
その為、印東庄岩橋村(現在の 千葉県 印旛郡 酒々井町 )付近を領有した 岩橋氏 (輔胤は馬加康胤の庶子を自称)が千葉氏当主を自称した。
また、 室町幕府 は 古河公方 足利成氏 を 鎌倉 からは追放はしたものの討伐するだけの力が無かったので、孝胤は成氏側に付き勢力拡大を図り、この系統も千葉氏と呼ばれている。
孝胤は文明3年頃に父輔胤が出家したため家督を継く(この時に初めて千葉氏当主を自称したともされる)。同年3月、孝胤らの古河公方側は 堀越公方 足利政知 を討つべく、 伊豆国 三島へ兵を進めた。
当初政知の元にはわずかな手勢しかなかったが、 山内上杉家 の軍と合流したことで勢いを盛り返し、退却した孝胤らの軍勢は散々に叩かれ壊滅状態となった。
さらに、4月には山内上杉家の家宰の 長尾景信 が 下野国 足利庄 を攻略、6月24日に 古河城 が陥落した。この為成氏は行き場を失い孝胤の領内に留まることとなった。
文明4年(1472)2月に孝胤、 結城氏広 、 那須資実 らの援助を受けて古河城を奪還し成氏は 古河 に戻った。
そしてその後、文明8年(1476)には山内上杉家の家宰を叔父の 長尾忠景 に継承させたことに怒り、 上杉顕定 に背いて 武州 鉢形城 (現在の 寄居町 鉢形)に走った長尾景信の嫡男 長尾景春 が成氏側に付いたこともあり、抗争は次第に全面対決の様相を見せ始めた( 長尾景春の乱 )。
これに危惧した成氏と山内上杉家および 扇谷上杉家 の和議が進められた。
しかし和議が整うと孝胤は千葉氏当主を自称できなくなり、景春と共に和議に反対し、名目上は成氏を主君としながらも古河城への帰城は阻止する方針を固めた。
文明5年(1473)には 長崎城 (千葉県流山市)を築城して本拠地を移している。
そして、室町幕府と古河公方・山内上杉家・扇谷上杉家の和議が整い、造反勢力は景春と孝胤らのみとなり、幕府が千葉氏当主と認めた 千葉自胤 (実胤の弟)の、 太田道灌 の支援を背景にした追討を受けることとなった。
文明10年(1478)12月10日には 境根原合戦 で大敗、長崎城を維持できなくなった孝胤は軍勢をまとめて退却し 臼井城 (現在の 佐倉市 臼井田)に籠城したが、文明11年(1479)7月15日に臼井城は落城し、下総・ 上総 の大半は自胤に制圧された。
「境根原合戦」 (さかいねはらかっせん)とは、 文明 10年 12 月 10 日 (1479) 1 月 2 日 、 下総国 境根原(現 千葉県 柏市 酒井根)にて行われた合戦。 上杉定正 の重臣 太田道灌 が、下総の土豪 千葉氏 の内紛に絡む形で始まった。
「長尾景春の乱」
康正 元年(1455)、前年に勃発した 古河公方 足利成氏 と 山内上杉家 ・ 扇谷上杉家 ・ 室町幕府 ・鎌倉公方( 堀越公方 ) 足利政知 の対立による騒乱( 享徳の乱 )で下総の千葉氏も内紛が勃発する。
宗家・14代千葉介の 胤直 ・ 胤宣 父子は一族の 馬加城 主・ 馬加康胤 と重臣の 小弓城 主 原胤房 らに居城の亥鼻城を急襲され城が陥落。千葉胤直父子は志摩城・多古城にて自刃し、名族千葉氏の宗家は滅亡した。
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