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【下山事件】 昭和24年、下山国鉄総裁はこの南口で、運転手に『5分ほど待っててくれ』と言い残しデパートに入ったきり、そのまま忽然と消えてしまった。南口には今でも運転手付のお客様の車が並んでいます‥下山事件発生とその時代日本がまだアメリカの占領下にあった昭和24年におきた事件。前回の古本屋さん訪問に続く、あしかびジャーナルの取材です。リミンとハジメの新・相棒コンビが事件の現場を歩いてきました。写真手前のレンガ色の建物が、下山事件やゾルゲ事件のキーワードともいえそうなかの有名な室町にあったライカビルの跡。 ↓当時、カメラのライカ代理店のシュミット商会が入っていたので通称「ライカビル」呼ばれていた。ここに問題の、謎の亜細亜産業(アジアサンギョウ)があったのですが‥前方右手に見える三越本店まで、その頃から地下道でつながっています。亜細亜産業には、GHQの諜報(謀略?)機関キャノン中佐のプライベートルームがあり大勢の機関員が出入りしていた。下山事件にも深くかかわっていたというなにかと曰くの多いライカビルですが、お江戸日本橋のこの界隈はデパートの賑わいが嘘のように、今でもまるで別世界のようにみえます‥三越で運転手を待たせたまま失踪した下山総裁は、その後、なぜか、浅草から東武伊勢崎線に乗って五反野駅周辺で大勢の人に目撃されている。五反野駅では駅員に「この辺に旅館はないかね?」と聞き、駅から数分にある末広旅館で夕方まで休憩したとされている。これは末広旅館の女将の証言だが、作家の松本清張は五反野あたりをうろついてみせた下山総裁は複数人の替え玉であろうと推理している。写真当時の末広旅館はすでに無くなり現在は不動産屋のビルに建て替えられている。 ↓旅館は無かったけれど、お隣にその頃からずうっと住んでいるお宅はあった。当時は藁ぶき屋根だったとのこと。古い写真に写っている立木はここの家の木でした。ちょうど庭を掃除していたのが、この家のおじいちゃま。今年九十歳になられるそうだが頭も体もテキパキしてる方、『下山さんの事件の頃は毎日大勢の人でたいへんだったよ。 当時を知っている家も、今じゃウチくらいだろうね』『あそこに見えるガードをくぐって右に行くと、 下山さんの石碑があるから、行ってごらん』事件当時、自分は戦争から帰ったばかりでねと話してくれました。歩きづめで疲れた私は、よっぽどタクシーに乗ろうよと言おうとしたけれど、ここはやはり現場百回、刑事の勘、足であるかにゃ謎解きも閃かないわね‥と、いつになく張りきってしかたなく相棒のハジメ君は荷物持ちに。事件現場の線路は今では高架になってしまい近寄れないし、現場近くに建立したはずの追憶碑もガード脇に移されて世の中の片隅に追いやられ、事件も忘れられたかのように‥7月5日の出勤途中、日本橋の三越デパート本店から消えた下山総裁は、翌6日未明、JR常磐線で轢断死体となって発見された。現場となった常磐線は、向うに見える東武伊勢崎線とお互い大きくカーブしながら交差しているところ。事件はどしゃぶり雨の真夜中のことだった。 自殺か、他殺か、捜査当局、ジャーナリズム、法医学界をそれぞれ二分した前例のない昭和の時代の大事件、真相は謎に包まれたまま時効成立で迷宮入りとなった‥新・相棒コンビも残念ながら事件解明につながりそうな新たな発見は何も無し。とりあえず紅茶を淹れて、ゆっくり考えよう‥事件はまだ終わっていない。【参考文献】・日本の黒い霧:松本清張全集より・謀殺・下山事件:朝日新聞記者 矢田喜美雄・葬られた夏:朝日新聞記者 諸永裕司・下山事件 最後の証言:柴田哲孝 その他・当時のモノクロ写真はYahoo画像倉庫よりお借りしました。 その他のオリジナル画像はすべて2010.3.20撮影
2010年03月26日
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お久しぶりです長利(チョーリ)さん。秦野の峠で手を振って、お別れしてから はや、九ヶ月。 (記念すべき1111回目となった「秦野公演の顛末」) 蝋燭一本、灯をともし、今日はどこへの旅暮らしいずこの町で公演かと心にかけておりました。どこの町でも土佐源氏やんや、やんやの喝采と旅の途中でお噂を、風の便りに小耳にはさみ一人で安堵の杯(サカヅキ)重ねております。お達者そうで何よりでござんす。聞けば齢(ヨワイ)八十の記念公演懐かしい下北沢の一角でお演(ヤ)りになると伺って‥下北沢といえば、いにしえの若かりし頃のその昔、JAZZ喫茶マサコに通い詰めたる因縁ふかき思い出の地。遠くなりけり「あの時代」かつて流れた「時代の風」と「文化の匂い」もしかしたら ビルの谷間にひとかけら舞うてやせぬか?と夢にみて、我が心の「土佐源氏」馳せ参じとう存じます‥。 【土佐源氏】・会場:アレイホール(下北沢)全席自由・3月20日(土) 昼の部15:00pm~ 夜の部20:00pm~ ・3月21日(日) 昼の部13:00pm~ 夜の部17:00pm~・前売り\4,000 当日\4,500 ・ご予約: 090-5424-2468※お得なお知らせ: 受付でリミンブログを見たと言ってくれれば 当日でも前売り値段でOKだそうです!●スローフードすぎなみ東京の会長ブログでも応援いただいております。 尚、ブログで応援して頂ける方がいらっしゃいましたら 上記の画像↑をご自由にお使い下さいませ。 また、その旨ご一報下さいましたらご紹介のリンクさせて頂きます。
2010年03月15日
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奈良の都に春の訪れを告げるお水取りで有名な東大寺の二月堂です。お水取りは‥752年から一度も休むことなく続いてきた法要で、今年はその1259回目を迎えるそうです。現在では3月1日より2週間にわたって行われますが、かつては旧暦の2月1日からでした。二月に修する法会という意味で修二会(しゅにえ)と呼ばれるようになり、二月堂の名もこれに由来しています。で、話がなぜか突然、奈良になっちゃったのは、スローフードの全国大会が今年は奈良で開催されたからです。ちょっと説明を加えますと、スローフード協会の支部は全国に48ありまして、秦野支部はその中の一つです。そして日本にあるスローフード48支部を束ねるのは、特定非営利活動法人であるスローフードジャパン。全国大会は年に一度の会員総会というわけです。二月堂のある東大寺は地図で調べてみると、会場となった奈良県新公会堂・能楽ホールの目と鼻の先であることを発見。ちょっと早めに出掛け二月堂に寄り道しました。開催地は毎年、各支部が手を挙げて立候補しますが、今年は「平城遷都1300年祭」に沸く奈良コンビビウムにお世話になりました。(※スローフードでは支部と言わずコンビビウムと呼んでいます。 コンビーヴェレ‥共に生きるがその語源です。)テーマは「万葉の食、神の食、仏の食‥そして今。」天平時代のチーズを再現したという乳製品も売っていました。歴史ある古都らしい雰囲気ある会場で、これだけの準備はさぞや大変だっただろうと思います。奈良コンビビウムの皆さん、お疲れさまでした。ありがとうございました!ところで、この能舞台の壇上になぜか私も上がったのです。実は、今年、スローフードの組織が大きく変わることになり、私はNPO法人スローフードジャパンの理事も兼ねることに。秦野から日本全国にむけて情報発信☆責任重大ではありますが、楽しく頑張りたい?と思います。というわけで第一回目の新、旧合同理事会に出席。この理事会の席上で抹茶とともに供されたのがこちら。 ↓春をよぶ二月堂のお水取りの期間中、練行衆たちは須弥壇を飾るため、東大寺の開山堂に植えた椿(糊こぼし)を模した造花を作ります。お菓子はそれを形どったもので、その名も「のりこぼし」口に入れるときめ細かな餡が雪のように融けました‥お水取りの時期でなくては味わえない繊細なお菓子を用意してくれた、スローフード奈良の嬉しい心遣いでした。霧のような小雨がしのつく古都‥奈良は、人影もまばら、ひっそりとして‥どこに行っても、訪れる人をもてなす温かさを感じるとても素敵な街でした。お水取りが終わると、青丹よし奈良の都に、本格的な春が訪れます‥。
2010年03月10日
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桜ご飯の集いで大人気だった小泉信治さんのお話し。あの方は、きっと山の神の化身に違いない。またお話を聞きたいとの要望が寄せられています。そのとき案内してもらった「山の神様」の二つの石祠はおよそ300年くらい前の建立と云われ、その後、農業中心の生活様式が変化するとともに忘れられていったものと思われます。長い年月で風化し朽ちていたものを小泉さんが発見し、川口さん夫妻と一緒に昭和62年に修復したそうです。今年の2月17日に行われた道場・才玉の山の神「講」に参加させて頂きました。祠の復活と共に「講」(神様を祀る地元のグループ)も復活し、毎年、2月17日に行われる伊勢神宮の祈年祭に合わせて「山の神」に参拝し、直会(ナオライ)を催してきました。直会(ナオライ)とは、参加者がお供えした神酒を戴き神饌を食することで、儀式の最後にみんなでお供えしたものを頂くことです。また「名古木」(ナガヌキ)と呼ばれるこの辺りは、秦野において二宮尊徳に代表される「報徳仕法」の中心になった場所でもあったとのこと。もともと人々が結束する「講」的なつながりが育まれていた地域のようです。農作業の暇な時期、山の神様に感謝して五穀豊穣を祈り、持ち寄った料理を食べ、飲み、共に語らう。こうした集りの中で郷土の味は伝えられてきたのでしょうね。スローフードの原点だと思います。●話は変わって‥大井町のブルーベリー農園を経営する小宮真一郎さんのお宅がある辺りは神奈川県大井町「中屋敷遺跡」と呼ばれ弥生時代の土器が発掘される地域なんですって。小宮さんのお宅の玄関前の土地から出た土偶は、なんと、弥生時代中期(紀元前2~1世紀)のものといわれ国の重要文化財に指定されています。その小宮さんちのお宝が、東京国立博物館に展示されているというので行って参りました。これは、昨年の秋、イギリス大英博物館で開催された「THE POWER OF DOGU」の帰国展です。国宝3点、重要文化財23件を含む全67件の展示で、これほど一同に会することができるのは、海外からの帰国展ならではと評判が高いものでした。土偶とは人形(ヒトガタ)や動物の形をした素焼きのオブジェで、人々の精神世界や信仰のあり方を示していると言われ、その発生はおよそ13,000年前にまで遡れるといいます。こちらも人々の「祈りのこころ」が「かたち」として残ったものなんですね。●おまけの話博物館の帰り道、近くの 東京都美術館で「ボルゲーゼ美術館展」をやっていて、昨年の文化交流会のイタリアで行ったばかりでしたが↓あ、そういえば今、日本に来ているんだったね。ローマは予約制だったけど、ここなら予約なしで観られる。ちょっと懐かしいし‥どんな作品が来てるのかチラッと観ていこう‥と入館しました。で、ここで思いもかけない衝撃?の遭遇が。この方がいらしたのです! ↓『まあ!ハセクラさん、ここにいらしたんですね‥』リミンブログ「陽の沈む国を目指した男たち」でご紹介した仙台藩「慶長遣欧使節団」の支倉常長です。出港が1613年といいますから、「関が原の戦い」から13年後に、伊達政宗がスペイン国王に遣わした使節団のことです。その団長であった支倉(ハセクラ)の肖像画がローマにある貴族の館に残っているとは聞いていたものの、まさかココでお会いするとは‥『ボルゲーゼさんのお宅にいらしたんですね‥』三ヵ月前、ローマのボルゲーゼ美術館でとんとお見かけしなかったのは、ちょうどその時期日本に来る準備をなさっていたのでしょうか。出港から7年後、ようやく日本に帰ってきたもののその後のキリスト教に対する迫害と、伊達藩の仕打ち、晩年の寂しい末路を思うと、今回、晴れてお江戸都美術館への凱旋帰国?は彼にとって‥と、人ごとながらこちらまで万感胸に迫るものがありました。
2010年03月04日
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