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縄文時代から江戸時代までの農業制度の変遷を通史的に書いた本。●まとめ弥生時代は稲作が農業の中心で、2-4世紀に渡来人によって麦が伝わる。田植え前に生の刈草を田んぼに入れて馬に踏み込ませたり、田下駄を履いて人力で刈草を踏み込んで施肥して、石包丁で穂首刈していた。律令制度では農民は強制労働させられていて、墾田永年私財法で荘園の私領化が進んで寺社が力をつけ、地方土豪が自分の荘園の権利を国から守るために寺社に寄進して便宜を図ってもらって力をつけて、辺境の荘園が武士発生の基盤になり、名主・荘官出身の武士が鎌倉幕府の家人として守護・地頭に任ぜられて荘園制的支配が変質していく。室町幕府では年貢徴収権を持つ地頭が荘園領主に対して不当な減免を要求して名主の納める年貢との差額を着服して領主との間にしばしば論争が起き、守護は半済で荘園年貢の半分を強制的に手に入れたり名主が自立して土豪化して新領主になったら庇護したりして荘園領主権を揺るがして、物納年貢の加重や賦役負担に耐えかねた農民は領主に対して耕作放棄をちらつかせて強訴したり土一揆を起こしたり逃散したりして、荘園制度は崩壊していく。織田信長は小農民の自立を基礎として政治的支配を確立しようとして、延暦寺を焼いたり、国人・名主・戦国大名と結んだ一向一揆と戦ったりして、荘園的な古い政治勢力を破壊する。豊臣秀吉は全国統一の過程で地方領主を掃討して家臣団に領地を封土として与えて、検地をやり直して知行(領主権)を与えて、所領を変更された領主は農民を新領地に連れて行くことができなくなり、旧領主と農民の主従関係が切り崩される。かつて土地は売買や質入が自由にできる名主の私財だったが、秀吉が検地、刀狩、身分統制をしたことで土地を耕作する直接生産者の小農民が年貢の負担者になったうえに転職が禁止されて農民が土地に束縛されることになり、武力の強制の元で農民が重い年貢納入を続ける封建的な社会体制が確立して、この方向は徳川家康が将軍になった後に強化される。小農民層が農業生産や農業生活のために結合した生活単位が村として把握され、村役人が年貢徴収をするようになる。江戸時代の村は本百姓(石高所持者)を構成員にして、石高所持が村落での発言権の基礎となる。徳川幕府は知行地の移転、没収、減額をして地方知行を俸禄制に移行して、藩の統一的支配を確立した。●感想地名や役職や農業用語に対する注釈がないので内容がわかりにくい。たとえば畿内と言われたって関西人じゃなきゃどういう地形なのか知らないし、農具の図もないのでどんな農具を使っていたのかいまいちわからない。時代ごとに区切って通史的に書かれているので資料としてはそれなりに役に立つものの、1956年刊行の古い本で、著者の専門分野は江戸時代の農業なので、考古学的な部分は新しい考証を反映した他の本を読むほうがよいかもしれない。私が何で農業史の本を読んだかというと、私の祖母は田んぼや畑を持っていたものの、私は芋ほりを手伝ったことがあるという程度で農業について何も知らないので、たまには農業に思いを馳せてみようと思ったのである。さて農業と文学を結びつけて何か考えようと思ったものの何も思いつかず、そういえば農業はあまり文学の主題にならないと思ったのでそのことについて考えることにする。江戸時代の草双紙は昔話、軍記物、怪談、恋愛、仇討ちとかで、農業がテーマのものはなさそうである。明治時代は自然主義から農民文学が派生したけれど、昭和以降は一次産業より二次産業や三次産業が主流になったせいか農業が主題になっていないようである。今でも農民文学賞というのがあるらしいけれど私は一作も読んだことがない。真山仁の『黙示』とか、ちゃんと探せば農業がテーマの小説があるかもしれないけれど、農業を主題にしていて誰でも知っているような人気作品を私は知らない。スタインベックの『怒りの葡萄』は不況で一家離散した農家の話で農業が主題というより不況が主題だし、パール・バックの『大地』は農民が主人公だけれど農業が主題というわけでもない。ジョン・アーヴィングの『サイダーハウス・ルール』はリンゴ農家が出てくるけれど農業よりも堕胎が主題である。農業単独で主題になるというより、農業プラス何かで物語が展開するようである。小説以外だとどうかというと、漫画だと『銀の匙』は農業高校が舞台だけれど農業より畜産が主題である。映画だと農業をテーマにした映画がいくつかあるようだけれど、農業を通じて恋愛するとか苦難に耐えるとかのヒューマンドラマ的な展開か、あるいは食に関する問題提起をするドキュメンタリー映画で、話のバリエーションがない。農業がらみの作品は日常系や感動モノのヒューマンドラマや環境問題批判のドキュメンタリーになりがちなようで、そのせいかあまり人気もないようである。なぜ農業があまりフィクションの主題にならないのか考えてみると、以下のような理由を思いついた。・昔は農家が貧困の挙句に子供を売ったり親を山に捨てたりしたのに比べて、現代の農業は仕事としてそれなりに安定しているのであまり波乱万丈がなくて物語のネタにならない。・スポーツとかのバトル物と違って農家はライバルと対決したり才能で勝負したりするわけでもないので魅力的な主人公を造詣しにくい。伝説の農家とか百年にひとりの天才農家とかイケメンカリスマ若手農家とかがいない。・釣りなら魚との駆け引きが見所になるけれど、野菜は収穫の際に抵抗しないので農家と野菜の勝負にならずクライマックスである収穫があまり盛り上がらない。・武勇伝がある武士や文化がある町人と違って歴史上に農民のヒーローがいないので農民は時代小説の主人公にならない。・農業は土地がないとできないので若者の新規参入が難しくて高齢化していて、農業に詳しい農家出身のクリエーターがいない。・現代の農業は肥料や農薬で生育をコントロールして機械を使って作業をしているので、豊作祈願の神事などの農業文化の神秘性がなくなって、自然の恵みへの感謝や生命への感動もなくなって、想像力を刺激しない。・家庭菜園程度なら誰でもできるのでなまじ身近な話題だけに作者や読者の好奇心をあまり刺激せず、かといって農薬だの遺伝子組み換えだのの専門的すぎる話は一般人はあまり興味がないので、作品化する際のアプローチが難しい。下手をするとエンターテイメントでなく農業ハウツーガイドになってしまう。・自然がらみの物語は農業よりもむしろ環境破壊のような社会問題がテーマになる。たとえば宮崎駿は『風の谷のナウシカ』や『となりのトトロ』や『もののけ姫』で環境破壊や自然への回帰や自然と文明の共存を表現したけれど、農業はテーマではない。・自然の厳しさや命の尊さを書こうとすると植物よりも動物がらみの物語のほうが盛り上がるので、畜産はネタになりやすいものの農業はあまりネタにならない。・種まきから収穫までが長くて、水遣りや除草や防虫剤散布などの地味な作業の繰り返しなので、物語として間が持たない。トラブルが起きるにしても台風とか猛暑とかプロットの予想がついてしまうので、結局は農業の話でなく狭い人間関係の日常のいざこざの話になって既視感がある。・農作物は食材に過ぎず、料理しないと人の役に立たないわけで、農業よりも料理のほうが魅力的なテーマになってしまう。料理漫画はたくさんあるものの、農業は食材に関するエピソード程度の扱いになっていて主題にならない。・畜産や狩猟で命を奪う行為に対して生きるために殺生してよいのかというアンチテーゼがあるのに対して、作物を育てるという行為に対しては植物を殺していいのかというアンチテーゼがないので葛藤がうまれず物語が膨らまない。・農業をフィクションにするより、ドキュメンタリーにしたりTOKIOに農業をやらせたりするほうが話題になる。こうして農業をフィクションにしにくい理由をあげつらってみると、ハンデを覆して農業をテーマにして面白い作品を作るのはなかなか難しそうである。もし私が農業をテーマに何かフィクションを作るとしたら、音楽をあきらめて実家に帰った人が畑でバイオリンを演奏していると野菜がすくすく育って野菜の育て方を試行錯誤していろいろ演奏するうちに豊作になって音楽の才能も開花する教養小説とか、膿家の姑が嫁を四六時中監視して跡取りになる孫を産ませようと暗躍するサスペンスとか、野菜泥棒のせいで自殺した農家の呪いをこめられた案山子が夜な夜な歩き回って大根で野菜泥棒を殴り殺すホラーとか、異世界に転生したらエルフになって大麻ンドラゴラを栽培して魔王がピースな愛のバイブスでポジティブな感じになるラノベとか、遺伝子組み換えで知能を持った野菜が畑から逃げ出して文明を作ってベジタリアンと戦争するSFとか、少子高齢化に危機感を持った土地の神様が若者の農業を手伝ってくれるファンタジーとか、そんなのを作るかもしれない。農業系フィクションはリアリティにこだわりすぎて物語がつまらなくなったり、視野が狭くなって学園モノのネタがかぶったりしているのだから、きゅうりのフリーダム具合を見習ってフリーダムな想像力で農業の面白さを開拓するべきである。農業をテーマにしたフィクションは誰もが知っているような代表作的なものがあまりない未開拓な分野なので、農家の人は暇な時期に農業をテーマにした小説を書いてみたら副収入になるかもしれないし、売れない作家は農業をすれば農業小説の第一人者になれるかもしれないのでやってみるといいよ。★★★☆☆
2017.11.24
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進化や自然淘汰について書いた本。ドーキンスの科学を信仰みたいなものとみなす人の論破とか、先祖をさかのぼるごとに先祖が二倍に増えていく計算があわないのはいとこと結婚しているからだとか、漸進的なダーウィン主義を疑う聖職者がハチに擬態して受粉するランの進化は奇跡的に完全な進化がおきたのだというのに対してランもハチのダンスもカメラ型の目も漸進的に進化しているのだという反論とか、あらゆるものに「なぜ?」を問いたがって生物体にもリバースエンジニアリングしようとするけれどそれは間違っているとか、自己複製子臨界点、表現型臨界点、自己複製子チーム臨界点、多細胞臨界点、神経系臨界点、意識臨界点、共同的技術臨界点、電波臨界点、宇宙旅行臨界点などの臨界点を超えると自己複製が爆発的におきるということが書いてある。口語で書いてあるうえに230ページくらいしかないので一時間ほどで読み終わる。読みやすくてそれなりに面白いものの新しい研究成果が載っているわけでもないし、一時間の講演のようなものと考えると暇つぶしとしては高い。神を信じている欧米人にとってはドーキンスが一貫して科学と進化論を擁護してビシバシ宗教を否定する本の需要があるのかもしれないけれど、信仰心がない日本人にとっては科学の話だけでいいよと思う。さて遺伝子の自己複製の話は複製芸術である文学を考えるのにも応用できるかもしれない。文学が読まれるか読まれないか、古典として残るか作者が死んだら消えるか、というのも文学の進化と自然淘汰である。というわけで文学にまつわる状況に変化が起きて本の自己複製が増えた臨界点を考えてみる。・識字的臨界点平安時代は律令を読み書きする男性貴族や経典を読んで写経する僧侶くらいしか文字を読み書きできなかった。書物はちゃんとした教育を受けて漢字を読めるようになる身分の人専用で、それ以外の人には広がらない。・表現的臨界点漢字のほかにひらがなが使えるようになると女性が文学作品を読み書きするようになり、男性もひらがなを使うようになる。掛詞や押韻などの表現が使わて、連歌や本歌取りなどの多様性につながっていく。・視力的臨界点1285年ごろにイタリアでめがねが発明されて、フランシスコ・ザビエルが1551年に日本にめがねを持ってくる。そうすると近視や老眼で本が読めなくなった人も本を読めるようになる。・製本的臨界点一枚一枚手書きで複写していたころは製本に時間がかかっていたので、本の大量複製が物理的に困難で手に入れられる人が限られていた。しかし13世紀に日本に中国から活字印刷技術が伝わると本を大量に印刷できるようになって、手に入りやすくなる。・金額的臨界点紙は高級品で庶民は和本を買えなかったものの、江戸時代には安価な草双紙が出てきて貸本屋が現れて、寺子屋で読み書きを学んだ庶民の間で読まれるようになる。大正時代には円本ブームがおきて本が安くなって、家庭に本が普及して読まれるようになる。・光源的臨界点昔の夜は暗くて火皿に油を入れた灯台や行灯では暗くて風で消えやすかったので夜には読書はしにくかったものの、江戸時代にろうそくが使われるようになって明かりが消えにくくなり、明治時代に家庭に石油ランプが普及してからは夜にも読書できるようになり、夕方に仕事が終わってから夜に寝る前までの時間を読書に使えるようになる。・内容的臨界点庶民が本を買えるようになると好きなジャンルを選別するようになり、純文学やミステリやSFなどの各ジャンルの競争が起きる。そこでオチがつくプロットや名探偵と助手のコンビのストーリーテリングやタイムスリップような面白い内容が人気になって、つまらない本は自然淘汰されて読まれなくなる。・ジャンル的臨界点各ジャンルが技術的に洗練されて内容が横並びになってアイデアが出尽くして飽きられて行き詰ると、ジャンルの壁を越えた小説が読まれるようになる。たとえば村上春樹は純文学でデビューしたものの純文学のジャンルを外れて、純文学や恋愛やファンタジーやミステリーの要素をちょっとづつ詰め込んでジャンルの枠にとらわれない読者をつかんだ。筒井康隆も純文学とSFをまたにかける猩猩として人気になった。・物流的臨界点巷で人気の本があっても取次ぎの問題で地方の本屋の店頭には並ばない。2000年代のITブームでイーコマースが隆盛してオンライン書店が直接家に本を配送するようになって、日本全国の読者がほしい本を買えるようになる。・宣伝的臨界点インターネットが普及する前は新聞や雑誌の書評で偉い人が太鼓判を押した小説や賞を受賞して権威付けされた小説を読んでいたものの、新聞や雑誌を読まない人には宣伝効果がない。インターネットが普及してからは友人や知人のTwitterのリツイートやSNSのイイネ経由で本に興味をもつ機会が増えて、広告宣伝費が少ない零細出版社の本でも口コミで話題になってベストセラーになったりする。・販売的臨界点いくらオンライン書店が本を自宅まで届けるといっても絶版の本は買えないし、読みたい本が近所の図書館に置いてあるとは限らない。電子書籍元年の2010年から実用的な電子書籍サービスが本格展開して、電子書籍化されてデータベースにアーカイブされた本をいつでも読めるようになる。・言語的臨界点日本語で書かれた本が外国語に翻訳されると世界中で読まれるようになる。・学術的臨界点話題になった小説でも作者が死んだら忘れられて読まれなくなる。しかし一過性の流行でなく歴史的・文化的に価値がある文学だとみなされると、古典として研究されて何百年も複製されて読みつがれるようになる。・理解度的臨界点いくら古典が読みつがれるといっても時代が隔たるごとに難解になって理解しにくくなる。そこで古典の現代語版や解説書や批評が出版されて理解度が高まることで度々ブームが起きて、他の作品のネタ元になって複製の幅を広げる。臨界点と呼べるかどうか微妙かもしれないし他の臨界点もあるかもしれないけれど、こういういくつかの臨界点を経て文学は自己複製を段階的に増やして現代では大勢の人に読まれるようになったのだろうと思う。出版業界の不況やら若者の活字離れやらをどうすればいよいのかというと、この臨界点のどの段階で行き詰っているのか、あるいは次の臨界点を見つけられるかが問題である。読むに値しないものを電子書籍化しようが外国語に翻訳しようが結局読むに値しないので、粗製乱造された本の内容がだめなのが原因だと思う。アニメやゲームとかの他の娯楽と競合して時間の奪い合いになって若者が活字離れしているという意見もあるけれど、本にアニメやゲーム以下の価値しかないのは本というメディアの問題でなくて内容の問題である。図書館が面白い蔵書だらけなら若者は無料ゲームをやる代わりに図書館に入り浸るはずだし、小説がアニメより面白いなら若者は深夜アニメを見ずに徹夜で小説のページをめくるはずだし、作家にカリスマがあればトークショーやサイン会に人が殺到するはずである。出版社が目先の資金繰りのために価値がない本を作ってヘボ作家と馴れ合っている一方で出版不況の原因を他のものに転化しているようじゃこの先ずっと出版不況は続くと私は思う。★★★☆☆遺伝子の川 (草思社文庫) [ リチャード・ドーキンス ]
2017.11.10
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