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SEKAI NO OWARIのSaoriが本名の藤崎彩織名義で書いた小説『ふたご』が直木賞の候補になったけれど、5ちゃんねるのスレッドを見てみたらたいてい批判的な意見だった。私は作品がすべてだと思っているので、専業作家だろうが芸能人の副業だろうが面白い小説を書くならそれでいいと思うけれど、なんで芸能人が小説を書いて作家として賞レースに参加すると批判されるのか考えることにする。●文学賞の意義そもそも文学賞の意義がどこにあるのか。賞金を出して選考委員を雇って金と時間をかけて選考するからには、費用以上のメリットがあると思っているから文学賞が存在するわけである。・新人を発掘して育てる。新人とベテランが同じ土俵で勝負すると新人が不利なので、新人育成目的の文学賞は新人賞として別枠になる。新人賞受賞作はたいして話題にならずに売り上げは期待できないものの、新人発掘をやめたらそれこそ文学は先細りで終わる。・作家を競争させる。コンペティションとして他の作家と優劣を競わせることで作品の質や作家のモチベーションを高める。文学賞でも昔からある賞と新しい賞では格の違いがあるので、文学賞ならどれをとってもいいというわけではなく、文豪の名を冠した歴史ある文学賞を受賞することが作家のキャリアになる。・話題づくりする。芥川賞と直木賞は本が売れない時期に本を売るための賞なので、元々話題づくりが目的である。候補作を発表して賞レース化することで、誰がいいだの悪いだのと読者に議論させて盛り上げることができる。賞を受賞した作家の知名度が上がると新しいファンが増えるので、出版社と作家が両方得する。地方文学賞の目的は本の売り上げよりも地域の話題づくりである。マイナーな作家の名前を冠した文学賞も実質的にその作家の出身地を話題にするための地方文学賞だったりする。企業主催の文学賞は会社が文化事業を後援していることのPRである。・作家に食い扶持を与える。あまり存在感のない文学賞がけっこうあるけれど、そういうのでもつらつら受賞歴を積み上げて賞金を回収していくと売れない作家が書き続けるモチベーションになったりする。●芸能人の小説が文学賞の候補になるのが批判される理由上記の文学賞の意義のうち、話題づくりのための賞には芸能人の知名度を利用してもいいはずである。ではなぜ批判されるのか。・専業作家に比べて作品の完成度が劣る。小説は取材や執筆に時間がかかるけれど、忙しい人気芸能人は小説の創作に専念できるほど時間がない。演劇の要領でセリフだけとりつくろっても取材不足でリアリティがなかったりして、専業作家に比べて知識や技術や発想力が劣ってしまう。押切もえが山本周五郎賞の候補になったときは受賞した湊かなえがイロモノと僅差扱いされても原動力にならないと批判してひと悶着あった。文学に限らず芸能人の他業種参入は批判がある。アニメ映画は宣伝目的で芸能人が吹き替えをやるようになってベテラン声優と一緒に演じると浮いているし、実写映画やドラマは俳優じゃないアイドルや歌手が起用されて学芸会扱いされているし、二科展は芸能人御用達になって金で買える賞として批判されていて、どのジャンルでも門外漢の芸能人のせいで品質が低下したことが悪評の原因になっている。ちなみに押切もえは小説を書くだけでなく絵を描いて二科展にも入選しているようで、多方面に色目を使って何がしたいのかよくわからない。・有名人を忖度する不公平感がある。芸能人のファンはマルチな才能が評価されることを喜ぶものの、本好きな読者は各自好きな作家がいるわけで、自分が長年応援している専業作家をさしおいて作家としての実績がなくて書き続ける保証もない有名人が文学賞を横取りするのは面白くない。文学賞は賞レースだからこそ読者は話題づくりと知りつつも競争としての公平性を選考に期待するわけで、才能での勝負に才能以外のコネや知名度を持ち込むのは卑怯である。もし選考委員に作家の素性を伏せて作品だけで評価させたら同じ誉め言葉を言えたのだろうか、どこまで知名度を忖度したのだろうかと、選考委員に対する不信感にもつながる。それに出版社の新人作家に対する態度はひどくて、原稿渡したのに返事がないまま何ヶ月も放置されたとか何度書きなおしても没になったとかの恨み節はいろいろ聞こえる。その一方でピース又吉は担当編集者に丁寧に何度も添削してもらって下駄を履かせてもらった状態で賞レースに参加しているので、編集者の助言がうけられずに試行錯誤している新人作家にとってはドーピングしてセコンドをつけて選考委員の好みも把握して手土産も用意して準備万端の相手の当て馬にされるようなもので不公平である。・芸能人は作家として育ちにくい。いくら宣伝目的とはいえ、未熟な作品が賞レースに加わって悪い目立ち方をするとその分批判も多くなって、文学賞を受賞しようがしまいが批判で才能が潰されてしまう。水嶋ヒロは専業作家になると言って俳優をやめたものの、小説がもはや嘲笑の対象になって、また俳優に戻ってしまった。水嶋ヒロは他の作家が何作も書いてようやく稼ぐような印税を話題性があるだけの未熟な一作だけで稼いだけれど、この小説がいくら売れたところで文学の発展に寄与するわけでもない。もし水嶋ヒロが20年かけて作家修行していたらもっとよい作品を書けたかもしれないものの、知名度を利用して楽にデビューする道を選んで偉大な作家になる道が閉ざされて金目当ての一発屋で終わった。小説というのは時間がかかる芸術である。古典小説を読んで小説の審美眼を身につけるのに時間がかかるし、現代社会を洞察する思想を持つのに時間がかかるし、思想を作品に落とし込む技術を覚えるのにも時間がかかるし、原稿用紙数百枚分を執筆するのにも時間がかかる。谷崎潤一郎は小説家になるのにちょうどいい年齢は40歳くらいで、それより若いと未熟でだめだというようなことを言っていた。その文学修行のための時間をかける気がないと読者に見透かされてしまったら、なんの文学賞を受賞しようが結局はファンしか買わない芸能人本と同じ扱いになって本好きにはイロモノとして敬遠されて、二作目以降は売れなくなる。目先の話題づくりで金儲けして業界を荒らして撤退するような腰掛け芸能人作家ばかりになると、短期的に出版社が儲かっても作家人生の集大成というような傑作が生まれなくなって長期的にみて日本文学は衰退する。・ゴーストライターの疑念がある。芸能人はゴーストライターに代筆させたり、口述したものを他の人に書かせて本にしたり、ブログでさえ事務所のスタッフが書いていたりする。芸能界は裏にやくざがいるので金儲けのやり方が汚いし、芸能人がブログでステマしてファンを詐欺のカモにしたペニーオークション事件が起きたし、レコード大賞が裏金で買われたし、歌詞の盗作もしばしば話題になって創作に対するモラルが低いので、芸能人が金儲けや賞に絡むことをやると何か裏があるんじゃないかと勘ぐられてあまり信用されていない。普段からブログやエッセイを書いている芸能人や個性的な文章を書く芸能人ならゴーストライター疑惑は払拭できるけれど、中途半端にうまくできていると本人が書いたのか疑われる。松本伊代のように自作を読んでいないとうっかり言わない限り読者側ではゴーストライターの証明はできないので、素直に応援できない。それによく芸能人が芸名をかくして本名で出版した(だからコネでなく実力が評価された)という体裁をとるものの、結局は素性をばらしてしまうので話題づくりのためにいろいろ裏工作やってるんじゃないかという疑念が強くなる。・拝金主義への反感がある。綿矢りさと金原ひとみの芥川賞ダブル受賞も批判されたけれど、この批判の根本には出版社は金儲けのためなら何をやってもいいのかという拝金主義への嫌悪がある。最年少受賞、最年長受賞、女子高生、セクシー女優、在日外国人、殺人犯、芸能人と、作品の内容よりも作者の肩書きを喧伝する大げさな話題づくりは売り上げにつながる反面、読者が期待しているのは小説の内容であって作者の経歴ではないので、そのぶん批判が大きくなる。それに本業で食えていて豪奢な生活をしている芸能人が貧乏な専業作家の食い扶持を奪ってまで金儲けするのは浅ましい。賞金がなくても食える人や社会的地位がある人は賞レースに参加せずに普通に出版すればよいし、芸能人としての知名度があるならなおさら文学賞の知名度に乗っからずに自分の知名度で勝負すればよい。金儲けのための文学賞と新人育成のための文学賞を区別して、有名人は新人の賞レースには出さないのが出版社に求められる最低限の良識だろう。蓮實重彦が新人作家を対象にしている三島由紀夫賞を受賞して、受賞した本人が暴挙だと受賞を批判する面白い出来事が起きたけれど、出版社が新人賞の意義を無視してまで話題づくりを優先するのはあきれてしまう。出版社は営利企業だから金儲けするのは当然だ、金儲けしているから他の売れない本を出版できるんだという意見もあるけれど、金儲けをしたいだけなら出版業でなくてもいいわけだし、出版社であるからには良書を売るために努力するべきなのであって、話題優先で価値を無視して小説を売るのでは出版社自体に存在価値がなくなる。出版社自身が文学の価値を否定するようなことをやっているから作家を目指していた才能ある人が他の分野に流れて小説の質が落ちて出版不況になるわけである。●芸能人の小説をどう評価したらよいのか芸能人の小説だからって読まないで批判するな、批判するなら読めというのも出版社のマーケティングの手法で、まったく話題にならないよりは批判されたほうが本が売れる。芸能人だって小説を金儲けの道具にするつもりがなくて時間をかけて本気で小説を書いているかもしれない。しかし出版社がその作品を金儲けの道具として扱っているなら同じことである。私は小説の内容より作者の肩書きを重視する出版社のやり方が気に入らないので、『ふたご』が直木賞を受賞しようがしまいが読まないし批判もしない。評価しないというのが私の評価である。昔は作家の小説のオビに芸能人が宣伝文句を書いて「泣きながら一気に読みました」商法をしていたけれど、いまは芸能人の小説に作家がお墨付きを与える宣伝文句を書いてご機嫌取りをしているようで、芸能人がそんなにいい小説を書けてベストセラー連発するなら専業作家なんかいらないんじゃねーのと思う。作家が芸術観をぶつけ合って競うのをやめて馴れ合ってお互いを誉めて満足してしまったら、もう文学賞は作家が切磋琢磨するコンペとしては役に立たないし、そうなると文学賞で作家を育てる意義がなくなって単なる金儲けのための話題づくりだけになってしまう。出版社の金儲けに付き合あえるような暇な金持ちや、芸能人のファンが芸能人の小説を読めばいい。私は暇でもないし金もないし芸能人に興味がないので読まない。セクシー女優をオーディオビジュアルのアルファベット略のほうで書いたら「本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。」と警告が表示されたので、この場で楽天の言葉狩りに抗議しておく。オーディオビジュアル女優のどこがわいせつで公序良俗に反するのか、なぜセクシー女優はわいせつでなくて公序良俗に反しないのか、ミキタニに説明してほしいものである。
2017.12.22
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「青春は美わし」と「ラテン語学校生」の2作の短編集。「青春は美わし」は高給取りになって休暇で故郷に戻った青年が昔恋したヘレーネと会うとヘレーネが誰かと婚約するというので失恋して落ち込み、故郷を去る前に妹の友達のアンナに告白しようとすると誰かに片思いしているから友達でいましょう的な振られ方をする話。一人称の回想形式。どこにでもあるような失恋話でこの小説ならではという特徴がなく、あえて現代に読むほどの小説でもない。弟のフリッツの花火遊びがラストシーンの打ち上げ花火の伏線になっていて、花火と恋愛を重ねるのは日本的な情緒かと思っていたらヘッセが既に100年前にやっていたというのは面白い発見だった。「ラテン語学校生」はラテン語学校生の16歳のカールは下宿のばあさんが飯をくれないので空腹で女中のバベットにパンをもらうようになり、バベットの女中仲間と話をするようになって、学校の悪友といたずらするのが空しくなってつるむのをやめてバベットにパンをもらう頻度も少なくなってひきこもりがちになると、バベットが心配して気晴らしに女中の婚約パーティーにカールを連れ出すと、前に一目ぼれしたティーネに再会して告白する。ティーネはカールを適当にあしらっているうちに大工と婚約したのでカールと別れ話をする。カールは学校を落第しないように奮起してバベットに支えてもらって失恋から立ち直って久しぶりにティーネに会うと、ティーネの婚約者が高いところから落ちて怪我をしたと言い、カールは幸福な人も運命の支配を受けていることを悟り、人間の弱い魂が運命に打ち勝つことを悟る。三人称。女中文化が書かれているがゆえに、表題作よりこっちのほうが外国の小説らしい特徴があって面白い。しかし構成があまりよくない。途中でちょっとだけティーネの視点に変わるところは三人称の視点移動としては中途半端で、カールの成長に焦点を当てるならティーネの視点はいらない。「幾年もたった後でも、彼は、この晩のことを思い出すごとに、幸福と感謝に満ちた好意とが輝く光のように、心にあふれるのを感じるのだった。」(p98)といきなり時間を飛ばすのは悪手で、未熟な少年時代のカールの物語を読者に読ませているのだから唐突に数年後のカールの感想をはさむ必要はない。結末も失恋から悟りを開くまでのカールの心理の変遷を端折りすぎて唐突な感じで、カールの成長に焦点を当てるなら相応の心理描写をするべきである。もっと丁寧にエピソードを書いていたらラブコメとしてアニメ化できそうな感じの惜しい仕上がり具合。★★★☆☆青春は美わし改版 (新潮文庫) [ ヘルマン・ヘッセ ]
2017.12.09
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