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二天一流の思想や兵法について書いた本。●面白かったところのまとめ・序の巻13歳から29歳まで60数戦して無敗だったが、30歳を過ぎて未熟だと痛感して、道理を得ようと鍛錬を続けて50歳の頃に兵法の道にかなうようになった。あらゆることについて師匠はなく自ら悟って、二天一流の見解を書く。・地の巻:兵法の基本武士の信念は死を覚悟することでなく、兵法の心得で戦闘に勝つこと。兵法者と称して剣術だけで世渡りするのはだめで、武士は目的に応じて様々な武器を使いこなさないといけない。兵法は大工のように大きくたくらむことで、棟梁のようにものさしをわきまえて、材料の木質に応じた使い方をして、大工の腕前を知って効率よく仕事をさせる。能率がよいこと、手際が良いこと、いいかげんにしないこと、全体の大要を知ること、気の状態を見極めること、勢いをつけること、限度を心得ることが棟梁の心得で、兵法の道理もこのようなものである。両手で一本の太刀を構えるのは実践的でないので二刀を使う。太刀は兵法の基本。状況に応じて刀、脇差、槍、弓、鉄砲などのそれぞれの武器を活用すべきで、特定の武器を偏愛してはいけない。道については、儒者、仏徒、風流人、しつけ者、能楽の舞い人などは武士の道にはないものの、いろいろな道を広く知ればいかなることにも対処できるので、人間としてそれぞれの道をみがくことが大切。・水の巻:二天一流の太刀筋二天一流は水の心を手本にして勝利を見出す。戦闘の際の心の持ち方は平常と変わらずにむやみに緊張せず、たるむことなく、心を静かにゆるがせて、そのゆるぎが止まらないようにする。心が体の動きに引きずられることなく、体が心に動かされることのないように精神に気を配る。些細なことにはとらわれず、根本は強い精神を貫いて、本心を他人に見抜かれないようにする。判断力を養って、社会の正、不正をわきまえ、善悪を知り、数々の芸や技術の道を体験し、世間の人から騙されないようになってはじめて戦闘でも正しい判断ができる。戦闘時の目配りは大きく広くくばり、物事の本質を深く見極める「観」を第一とし、表面のあれこれの動きを見る「見」は二の次とする。太刀の動きや手の持ち方の固定は死であり、固定しないことが生である。足使いは普通に歩むように自然に使い、片足だけを動かすのでなく、右左と足を運ぶ。五方の構は上段、中段、下段、右のわき、左のわきにかまえることで、他にかまえはなく、かまえそのものよりも斬ることを考え、中段がかまえの中心である。太刀はふりやすいように静かに振る。扇や小刀を振るように早くふろうとすると太刀の道筋を誤って、このような「小刀きざみ」では人は斬れない。武芸の道をきわめていくことは武士のつとめと心得て、気長にとりくみ、今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分より下のものに勝ち、次には自分より上手なものに勝つというように鍛錬を積み、わき道に心を動かされぬようにする。敵に勝っても原則の習熟によったものでないならば、それは本当の勝利とはいえない。・火の巻:広義の兵法世間の人は兵法は小手先細工としか理解していないが、六具をつけての戦いでは小さな利益は考えることはできない。普段の稽古で千人を集めて合戦の訓練はできないので、一人の稽古でも敵の計略を見抜いて兵法の理論で勝つところまで到達する。位置は太陽を後ろか右わきにして、座敷でも灯りを後ろか右わきにしてうしろがつかえないようにして左側をひろくとる。敵を見下すために少しでも高い所にかまえて、座敷では上座を高い所と考える。敵を追い回す場合は敵を自分の左側に追い回す気持ちで、難所が敵のうしろに来るように追いかけ、難所で敵が周囲の状況を見回すことができないように追い詰める。兵法では先手を取ることが大事で、後手になるのはよくない。相手がどう出ようとしているかを未然に判断して先手を取るのを「枕をおさゆる」という。人生や戦闘では全力を尽くして急所を乗り切る決心がなければいけなくて、これを「渡を越す」という。急所を乗り切れば敵を不利な状態におとしいれて有利になってたいてい勝てる。合戦で敵の意気がさかんか判断して、その場の状況と敵の状況をよく観察して、戦術で勝実に勝てる見通しを持って戦うことを「景気を知る」という。合戦でも一対一でも敵が崩れる拍子をとらえて追い立てることが大切。崩れる間を外してしまえば盛り返す場合がある。膠着状態になったときにそれまでの狙いを捨てて、敵が予想もしなかった別の手段で勝つのが最も良い方法で、これを「四手をはなす」という。敵の心が見分けられないときには、こちらから強くしかけるように見せて敵の手段を見分ける。これを「かげをうごかす」という。敵がかかってくる心が見えた場合に、敵の戦法を抑える動きを強く見せれば、敵はそれに押されてやり方を変えるので、それでこちらも新しい戦法で先手をとって勝つ。これを「かげをおさゆる」という。相手の心の平衡を失わせることが大切で、不意をついて心が定まらないうちにこちらが有利なように先手をかけて勝つ。合戦では敵の部隊を観察して突出したところを攻撃することで全体の勢いがなくなって優位に立つことができる。これを「角にさわる」という。同じことを二度繰り返すのはやむをえないが、一度で成功しなければ効果は薄れるので、三度繰り返すのは悪い。敵が山と思えば海、海と思えば山と意表をついて仕掛けるのが兵法の道で、これを「山海の心」という。武芸の技で敵に勝っていても敵が戦う気力を絶やしていない場合は、敵の気力をくじいて心底から敗れた状態にするのが大切で、これを「そこをぬく」という。敵と戦う間に互いに細かい所に気をとられてもつれ合う状況になったときに、鼠の頭から馬の首に思いを移すように、がらりと大きな心に代わって大局を判断してことに当たる心得を「鼠頭午首」という。戦いの際には兵法の知力で敵を自分の部下と考えて、思う存分に動かすことができるものと心得て、敵を自由に操ることを「将卒を知る」という。・風の巻:他流の批判他流を知らなければ自分の流儀を的確につかむこともできない。力が強いことだけが取り柄の流派や、小太刀に専念している流派は兵法の真の道からはずれている。世間では太刀が長ければそれだけ有利になるように言われているが、これは兵法を知らぬものの言い草で、長さに頼って遠い所から勝ちを得ようとするのは心の弱さの表れで、弱者の兵法である。長い太刀は嫌いではないが、長い太刀でなければという偏した考え方は嫌い。斬り合いでは弱く斬ろうとか強く斬ろうとか考えるものではない。強力一点張りの太刀では打ち過ぎて悪い結果になる。短い太刀だけを使って勝とうとするのは真実の道ではない。敵の太刀の間をぬって、飛び込もう、付け入ろうとねらうような偏った心がけはよくない。敵の隙を狙うことばかりを考えていると、後手になって全てが受け太刀となって敵とからみあってしまう。敵を追い回して飛びのかせてうろたえさせて確実に勝利を収めることが最も望ましい。数多くの太刀の使い方を人に伝えているのは初心者を感心させるためのもので、兵法で最も厭うべき精神である。打つ、たたく、斬るということにいろいろなやり方があるものではなく、敵を斬るのが兵法の道であり、いろいろくっつけて手をねじるとか身をひねるとかは真実の兵法の道ではなく、人を斬るのにねじったりひねったりしては斬れない。構えは敵がいない場合のことで、太刀の構えを第一に重視するのは間違った考え方である。固定したきまりを作ることはありえず、相手にとって都合の悪いようにしむけていくのが勝負の道である。目付と称して太刀や手や足などに目をつける流派があるが、どこかに目をつけようとすればそれに惑わされて兵法の妨げになる。ものに習熟すると目でいちいち見る必要がなくなる。兵法の目の付け所は相手の心に目をつける。兵法では見た目の速度を云々するのは本当の道ではない。何の道でも上達した場合には見た目に早いとはうつらない。相手がむやみと急いでいるときにはこれに背いてわざと静かになって相手にひきずられない心得が大切である。・空の巻あるものを十分に知ることにより、はじめてないものをも知ることができる。このないものが空である。世間ではわからないものを空だとしているが、これは真の空ではなく迷いの心でしかない。武士たる者は「心」と「意」の二つの心をみがき、「観」と「見」の二つの眼を開くことによって曇りが消え去る。これが空である。空という心には善のみがあって悪はない。●感想負けたら死ぬか大けがをする状況で勝ち続けた人が書いた本だけに、その心得について書いた部分は個人が命懸けの戦いをしなくなった現代でも一読の価値はある。戦闘について書いた部分は剣道をやる人だけでなく、何かしら勝負をする人にも役に立つかもしれない。合理性ゆえに二刀流に行きついて、並の剣士なら刀で成果をあげたらそこで満足して成長が止まるのだろうけれど、宮本武蔵はそこも通過点でしかなくて、刀を基本にしつつも勝つことを目的にして武器を使い分けていて、手段に固執していない。剣術だけでなく絵や彫刻でも才能を発揮した宮本武蔵に似た型にはまらない天才にピカソやレオナルド・ダ・ヴィンチがいて、ピカソはキュビズムで成功してもそれに固執せずに作風をころころ変えているし、レオナルド・ダ・ヴィンチは芸術だけでなく多方面の学問で業績を残している。宮本武蔵がいろいろな道を広く知ればいかなることにも対処できるというのは自然の理を知る悟性のことで、自然で合理的なものと不自然で非合理的で本筋を外れているものが感覚的にわかって迷いがないのが空という心なのかもしれない。天才と呼ばれた人たちは物事の形や動きといった本質を把握する悟性があって、その本質に沿う技術を訓練して体得したからスタイルを変えても実践的に成果を上げることができる。一方で凡人は自然の理を理解できないので、本筋を外れて非合理的になったり、他の分野ではまったく通用しなかったりする。固定は死であり、固定しないことが生であるというのはVUCA時代を生きている現代人にこそ必要な考え方である。大企業が過去の成功体験に固執して製品をマイナーチェンジするのに忙しくて新しい事業に投資しなくなって技術革新についていけなくなるとか、同族企業が身内をひいきして経営陣を固定して適材適所でなくなって倒産するとか、政治家が二世三世だらけになって地元企業と癒着して腐敗するとか、固定して変化に対応できなくなる失敗がわんさかある。企業が社会の公器にならず、政治家が公人にならず、人の上に立つ人が善悪をわきまえずに私利私欲を追及して、日本はGDPの低下と少子化という衰退に直面して技術も文化も継承されなくなって徐々に死につつある。IMFによると日本の人口は今後40年間に25%以上減少して、実質GDPも25%低下するそうな。さらに首都直下地震が起きたり中国に侵略されたりして日本が滅亡する瀬戸際にきたら今まで政治に参加してこなかった人でも危機感を持って投票するようになるだろうけれど、追い詰められないと変われないのでは手遅れで、スクラップアンドビルドどころか壊れたきりもう立て直せないということになりかねない。先手を取るのが大事だというのは兵法だけでなくたいていのことに当てはまる。囲碁は先手が強いのでハンデがあるし、将棋でも先手の勝率が高いし、先手を取らずに受けにまわったら自分の意思を戦略に反映させるのは困難になって、得意な手法が使えなくなったり慌てて急場しのぎをしたりしてどんどん不利になる。ちなみに『渡辺幸庵対話』によると宮本武蔵は囲碁も強かったそうで、囲碁は先手をとったり相手の裏をついたりする考え方の訓練にちょうどよい。ヤフーのCSOの安宅和人が「シン・ニホン」という本を出していて日本はエンジニアが少なくて研究費が削られてこのままでは米中と競争できないと警鐘を鳴らしているけれど、巨額の投資をして世界中の才能を集めてベンチャーを買収しまくって特許を囲い込んで先手を取って世界のスタンダードを作ろうとするアメリカや中国の企業と、問題を先送りして逃げ切れればいいやというサラリーマン経営者とろくな装備も支給されない烏合の非正規や下請けからなる日本の企業では、戦う姿勢も戦略も技術も勝負にならないのは門外漢でもわかる。研究開発に巨額の投資が必要な分野は勝負にならなくても、コンテンツビジネスのように個人に才能があれば世界中で売れて再販費用が少なくて投資の費用対効果が高いもののほうがまだ外国と戦える可能性があるし、表現の自由がない中国やポリコレ警察の取り締まりが厳しいアメリカよりも日本のほうが有利である。国家戦略としてコンテンツの輸出に力を入れている韓国はうまくいっていてゲームを中心にしてコンテンツの輸出額が伸びているし、K-POPは事務所負担で練習生に英語とダンスを教えて育成するので外国で通用する人気アーティストが育ったし、『パラサイト 半地下の家族』で外国語映画として史上初のアカデミー作品賞を受賞したポン・ジュノ監督は国立の韓国映画アカデミー出身だそうで、人材育成に金をかけたぶんの結果がちゃんと出ている。それに比べてクールジャパン機構は外国に日本のコンテンツの宣伝はするけれど、才能の育成にはつながっていないようである。宣伝に金をかけるよりも才能を育てるほうが長期的に金が稼げるだろうに、日本は目先の儲けを優先して、人を育てるために金を出すのが嫌いでしょうがないようである。さて文学について考えると、文学にも二天一流の考え方が応用できそうである。リアリズムを基本にしてあらゆるテーマをあらゆる文体で変幻自在に書くのが私の理想とする小説のあり方である。文学の進歩に実験が必要とはいえ、最初から奇抜なものを書こうとして構図や文体ありきで細部を凝らして表現内容は二の次というのは文学の本筋からはずれている。何を表現したいかという内容が先にあって、そのために最適な技術を使いこなして、長編だけや短編だけに固執せずに内容に適した長さの小説にするべきである。作家は人間観察として表面的な細々とした服装や動作を見るよりも、社会の大局をとらえて人間の心を観るべきである。小説は作者と読者の勝負なので、先手を取って読者が予想できないプロットを仕掛ければ読者を圧倒することができる。巷の人は富や名声を求めて社会を知らない若いうちに急いで作家になろうとして筆の速さを競うけれど、基礎を知らないまま書く量だけ増やしても技術は向上しにくいし、功名や締め切りに気を取られて平常心をなくして急いで書いた作品では暇つぶしにはなっても読者の心を動かすことはできない。現代人は便利で早いことに慣れて、何事もすぐに成果や利益を出そうとして短気になっているけれど、司馬遷が何年もかけて『史記』を書いたように価値がある作品に時間をかけて取り組むべきである。ミケランジェロはGenius is eternal patienceと言ったそうだけれど、才能ある人でも生涯努力を続けるのだから、凡人が昔の天才に追い付くにはせめて近代化して作業が効率化したり寿命が延びたりしたぶんの時間をふんだんに使うべきだろう。文芸の道をきわめていくことは文士のつとめと心得て、気長にとりくんで文学修行をして、文学理論や描写技術などの原則を習熟したうえでよい作品を書きたいものである。文学を目先の金儲けの手段にするのではなく、生涯にわたって思想や人格の鍛錬をして人間としての道を磨く文士が増えたらいいなと思う。★★★★☆【中古】 五輪書 現代人の古典シリーズ2/宮本武蔵(著者),神子侃(著者) 【中古】afb
2020.02.26
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短編小説の書き方の動画をアップロードしました。個人的に短編小説のセンスは囲碁で磨けると思っています。囲碁だと序盤に2線に石を打つのは石を効率的に働かせられないので損する手なので、最初は3線や4線に打って定石通りに展開して四隅と中央のどちらも狙えるようにするのが効率的で、2線のヨセは勝負の後半になってから目を作ったり地を確定するために手を付けます。小説でも冒頭で細々とした説明から始めるのは損している書き方で、どの方面に物語を進めるのかざっくりとした方針を描いてから、飛び飛びになった文章を連結させていって、細かい描写や説明は後から補足すれば足ります。囲碁がいかに石を働かせるかを考えるように、短編小説もいかに効率よく文章を働かせるかを考えて書くと無駄な文章がなくなります。ウッテガエシやオイオトシはストーリー展開に似ていて、いかにして登場人物を苦境に追い詰めるのか、あるいは苦境に追い詰められた時にどう切り抜けるかという考え方を訓練できます。私はCOSMIの9路盤のレベル5で対戦していますが、たいてい目を作るのが遅れて攻め合いで1-2手足りなくて負けます。
2020.02.20
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日本を代表する政治家、領主、農業指導者、教師、宗教家を外国に紹介するために英語で書いた本の日本語訳。●まとめ・西郷隆盛(1828-1877)少年時代はのろまでおとなしくて仲間からはまぬけと呼ばれるものの、遠戚の切腹を見て義務に目覚めて、進歩的な陽明学とストイックな禅に興味を持ち、ヨーロッパには興味がなくて、江戸でヨーロッパ嫌いの水戸の藤田東湖から感化を受けて国家統一と日本をヨーロッパ列強に対抗する国にするための大陸の領土の拡張を計画して、薩長連合で革命を起こして周囲の反対を押し切って賊軍を大赦して国家を統一して、板垣退助の尽力で念願の韓国征服のための大使に閣議決定されるものの岩倉具視が閣議決定を覆したやり方に激怒して政府と縁を切り、故郷で西郷を慕う若者たちが反乱を起こしたので運命を共にして、腰に銃弾が当たって死亡する。人を相手にせず天を相手にして、財産には興味がなくて年金の大半は学校のために使った。・上杉鷹山(1751-1822)九州の小大名の秋月家に生まれて格上の上杉家の養子になり、17歳で米沢藩の世継ぎとなる。上杉藩は太閤以前は強大な藩だったものの、関ケ原の戦いで反徳川方にまわったので藩領を米沢に移されたうえに減封されて、十五万石の大名でありながら百万石の家臣を抱えて数百両の負債がある状態を立て直さなければならなくなった。極度の倹約をする一方で、郷村頭取、郡奉行、教導出役、廻村横目(警察)に人材登用して適材適所をして新体制に改革して、反対する保守派の重臣7人を処分する。侍を平時には農民として働かせて産業を促進して、50年かけて桑を植えて全国最大の絹の産地にして、興譲館を作って才能のある貧しい学生に奨学金を与えて高等教育をして、伍十組合の令で近隣の村人同士で助け合うようにした。・二宮尊徳(1787-1856)16歳で父と弟を亡くして孤児になり、叔父にこき使われながら勉強をして、叔父の家を出てからは不毛な荒地を開墾して倹約して資産家になる。小田原藩主の大久保忠真は有能な領民を田舎に埋もれさせたくなくて下野の博徒の巣窟になっている荒れた3つの村の再興を命じると、尊徳は怠け癖を引き起こす金銭的援助を断ち切って村民に自力で立ち直させて道徳で改革して、10年後には最も貧しかった土地がもっとも豊かな土地になって、諸大名が助言を求めるようになった。・中江藤樹(1608-1648)近江の侍の子として生まれて、少年時代に仏教が合わずに陽明学で道徳を学ぶ。母親に孝行するために財産を置いて藩を出て刀を売って村の教師になり、のちに岡山の役人になる熊澤蕃山が評判を聞きつけて弟子入りする。近江聖人と称されて全国の尊敬の的になって多くの大名が相談に訪れる。・日蓮上人(1222-1282)漁師の息子に生まれて善日麿と名付けられて、親は非凡な子供を世に出すために僧職につかせることにして12歳で寺に預けると、16歳で得度して蓮長と名乗る。仏教に無数の教派が存在することに疑問を持ち、真理を探す旅をして鎌倉や叡山に行って修行して、法華経に一生を捧げることにして日蓮を名乗って新興宗教を始める。32歳で故郷に戻って教えを説いてもきちがい扱いされて地頭に命を狙われたので故郷を出て、鎌倉で草庵を作って日昭を弟子にして日本初の辻説法を始めて他の宗派や権力者を批判して『立正安国論』を書くと、他の宗派に弾圧されて北条時頼に追放され、襲撃されて弟子が殺され、死罪を免れて佐渡に流刑になるものの、蒙古襲来の予言が当たって鎌倉に帰還して布教する許可を得る。仏敵とみなした人たちは苛烈に攻撃したが、虐げられた人たちにはやさしい人物だった。他の宗派がインド、中国、朝鮮の人を起源にするのに対して、日蓮宗のみ日本人が起源で仏教を日本の宗教にした。●感想日本人の価値観に影響を与えたのは仏教と儒教で、なんで神道が出てこないのかというと、戦前の天皇は表に出てこなくて政治的に利用されてきた存在だし、神主にも思想家がいないし、キリスト教の神学が神を批判して哲学や科学に分岐したのに対して神道は不敬罪があって批判を許さなかったからだろう。現代に古事記や日本書紀を科学的に正しいと信じる人はいないし、天皇が行事に出席して手を振ったり、神主が祈祷したりするだけでは、庶民の精神的支柱にはならない。二宮尊徳が根性で荒れ地を開墾したような古い時代のストイックな勤勉なやり方は工場で効率よく野菜を作っている現代の仕事には役に立たないだろうけれど、日本の美点とされる道徳が江戸時代にはあったようで、道徳の面では参考になる。野菜の無人販売は上杉鷹山の領地で「棒杭の商い」として行われていて江戸時代の人も驚いたそうだけれど、今では無人販売所の野菜泥棒やら果物泥棒やらが頻発するようになって道徳が退行した。現代は上杉鷹山の逆で、ゲーム理論の囚人のジレンマのように助け合って全体の利益を最大化するよりも自分の利益だけを優先するようになって、自治体の相互扶助がなくなって郷土愛がなくなって都会に人口が流出して、親族間の相互扶助がなくなって核家族化して、個人主義の時代になった。個人主義には良い点と悪い点があって、才能ある個人に余計な制約がなくなって頭角を現しやすくなる半面、自己中心的な悪人が増えると社会が荒廃して善良な市民が理不尽な目に合う。アメリカは個人主義の弊害が出ていて、格差が拡大してもはや才能がない平凡な個人は努力では底辺から這い上がれなくなっていて、福祉もないので医療費が払えずに病気で死んだり、麻薬にはまって死んだりしているけれど、それを貧乏人の努力不足として切り捨てているので治安が悪くて、自衛のために銃の所持を許可しているせいで銃を使った犯罪が多発している。NEWSWEEK2019.12.31号の17ページのパックンのコラムによると、2019年に死亡者3人以上の銃乱射事件は週1回以上のペースで起きたそうな。アメリカで起きたことはいずれ日本でも起きうるし、日本で格差が拡大して年金が崩壊したり福祉が削減されたりして底辺の生命が脅かされれば、強盗殺人や麻薬中毒者の無差別殺人が頻繁に起きるようになってもおかしくない。日本は銃がないし麻薬もそんなに蔓延していないのでアメリカほどひどくならないように対策する余地がまだあるけれど、日本人は民度が高いとのんきに構えて平和ボケしていると、半グレや移民のギャングが勢力を拡大して社会は荒廃するだろう。いったん道徳が廃れたら、金持ちになっても足るを知って犯罪から足を洗うことがなくなって、組織化して勢力を拡大して金儲けするようになる。その悪循環を止めるには個人の道徳観を教育するしかない。春秋戦国時代の諸子百家の思想は人間の欲に制限をかけて社会を平和に統治して富と権力を求めて殺し合うループから抜け出すための考え方で、鎖国していた江戸時代は陽明学で個人の道徳を律するのが小さな社会を変えるのに効果があったようだけれど、明治維新後の資本主義で世界に市場が開かれると個人も社会も欲にブレーキがきかなくなってしまった。国のために命を捨てた西郷隆盛とは逆に、日本に納税せずにタックスヘイブンを使って、経世済民をせずに従業員を安く使い捨てて、私利私欲のために政治団体に献金して経済に口入れして、相続税を逃れるために国を捨ててシンガポールに移民して、他人を助けずに国家を踏み台にして私欲を追及するのを恥とも思わないような連中が現代の代表的日本人である。日本の格差が拡大して国民の大半が貧しくなって改革をしなければどうにもならない窮地に追い込まれない限り、拝金主義が拡大して道徳の退廃は止まらないだろう。139ページで中江藤樹が「谷の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢はいる。ただ、その人々は自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々は、とるに足りない」と言っているけれど、これに対して内村鑑三は徳を手軽に教えている明治の教育制度だと俗悪を抑えられるか疑問だと言っている。この疑問は当たっていて、現代はもはや受験の役に立たない道徳を教えなくなった。学校の教師でさえいじめやらロリコンやらで問題だらけで、坊主でさえ犯罪をする有様で、家庭は核家族化してすれ違いの生活をして親子の会話がなくなって、俗悪を咎めて道徳を教えられる人が少なくなって、名誉、利益、高慢、欲望に執着する人があふれている。学歴詐称をする芸能人やら、くだらないことをするYouTuberやら、金を配る前澤やら、名前を売ろうと必死の人だらけである。有名になることが社会のためになるなら名前を売ればいいけれど、たいていは社会のためにならない私利私欲のための売名である。西郷隆盛は「命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である」と言ったけれど、名も要らずといっても本質的に価値がある仕事をしていれば名前を忘れられるということはないし、活動資金を援助する人も出てくる。庶民に尊敬される政治家は銅像なんか建てなくても語り継がれるし、いい作品を作る芸術家は枕営業なんてしなくても百年後も作品が残っている。侍の子である内村鑑三は武士道を美点があっても未完成なものだと批判してキリスト教徒になったけれど、それでも「金銭に対する執着は諸悪の根源なり」という侍の価値観でキリスト教を批判している。侍がいなくなって武士道がなくなって、無宗教になって模範となる価値観もなくなって、資本主義で金が万事の評価基準になってしまった現代に、芸術こそが金以外の真善美の価値を社会にもたらす希望となりうると私は思う。★★★☆☆代表的日本人【電子書籍】[ 内村鑑三 ]
2020.02.13
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香川県議会は子どものネット・ゲーム利用を制限する「ネット・ゲーム依存症対策条例案」の検討会を開いて2月に条例の成立を目指していて、これに対して県内の高校生が反対署名を集め県議会に提出して、国際ゲーム開発者協会が条例案は科学的・合理的な対策になり得ないとパブリックコメントを提出した。この件が巷で議論になっているので私も考えることにした。●ネット・ゲームの問題点・人間は新しい刺激に免疫が少ないテクノロジーの進歩で新しい刺激が出ると、人間は免疫がないので飽きるまで夢中になり続ける。印刷技術が発達して本が安価になると小説が主婦の暇つぶしの定番になって、映画が発明されると庶民が映画館に殺到して、テレビが発明されると親子でテレビのチャンネルを奪い合って、パチンコが発明されたら大人が自己破産するまでのめり込んで、コンシューマーゲーム機が発明されたら子供がゲームに熱中して、オンラインゲームが発売されたら大人が仕事をやめて廃人になるまでゲームをやって、YouTubeが出てきたら子供がYouTube漬けになった。ガラケーからスマホに移行して10年くらいたったけれど、未だに人々はスマホに夢中になっている。新しい刺激が出てきて洗練されてブームになって、コンテンツが飽和状態になってマンネリ化して飽きるまでのサイクルが数十年くらいあるんじゃないかと思う。その点でインターネットやゲームはまだ飽きられる段階に至っていないので夢中になる人が多い。・オンデマンドには時間制限がない週刊誌に連載中の漫画やテレビで放送中のドラマは、どんなに面白くても最新話が出る次の週まで待たないといけない。しかしオンデマンドではネットで配信されている膨大なアーカイブの中から過去作を一気に見ることができる。長期シーズンの海外ドラマにハマってしまうと続きが気になって一気に何時間もドラマを見るということもできて、歯止めがかからなくなりかねない。・子供が変な大人と知り合ってしまうツイッターで家出少女が泊めてくれる人を探したり、ツイッターでコンサートチケット転売の詐欺にあったり、「荒野行動」が出会い系として使われていたりして、ネットやゲーム絡みの事件がしばしば起きている。●ネット・ゲーム規制の問題点・ネット・ゲームの定義が広すぎる香川県の規制だと「ネット・ゲーム」というくくりで規制しようとしているけれど、これだと適用範囲が広すぎていろいろなものが規制にひっかかりかねない。例えば囲碁や将棋はパソコンで棋譜を並べて、AIで形勢判断をして、オンライン対戦で腕を磨くのが普通だけれど、これも定義次第ではインターネットでオンラインゲームをしていることになる。しかし将棋依存症や囲碁依存症という言葉がないように、将棋や囲碁自体は問題ないにもかかわらず規制対象になりかねない。スマホのアプリにも漢字検定の練習問題アプリとかがあるけれど、子供が勉強のためにスマホを使うことさえ規制対象になりかねない。問題が多いゲームやサービスを具体的に特定して制限するならまだ筋が通るけれど、一部のゲームやサービスに問題があるからといってネット・ゲーム全般を規制するのは過剰反応である。罰則がないとはいえ規制対象が明確でない曖昧な規制は基本的にやるべきでない。・eスポーツができなくなるeスポーツは動体視力や反射神経がものをいうので、プロチームに入る選手は若いうちに頭角を現して、20代後半で選手を引退してプロチームの監督や戦略アドバイザーやストリーマーになったりする。プロを目指すなら若いうちにゲームをやりこまないといけないけれど、ゲーム依存を防ぐために一律で全員を規制すると香川県の子供はプロゲームを目指せなくなって才能を潰すことになる。条例案の第8条に「eスポーツの活性化が県民のネット・ゲーム依存症につながらないよう慎重に取り組むべき」とあるけれど、時間制限をするのはゲーム依存症の防止というよりeスポーツを活性化させないように規制する条例になってしまう。・自己表現が制限される香川県議会はインターネットを受動的にサービスを受けるもののように認識しているように見えるけれど、インターネットは能動的に表現を発信する場でもある。学校や家で机に向かう勉強だけが勉強ではないし、夏休みの宿題として強制的に読書感想文を書かせなくても自発的にブログに漫画やアニメの感想を書いているだろうし、美術の授業で強制的に絵を描かせなくてもSNSにイラストをアップロードしている。広いインターネットには田舎の小さな学校の同級生よりも優れた人がいるので、その人たちと切磋琢磨することが自己表現能力の向上につながる。インターネットがもたらす利点を無視して、欠点だけを危険視して規制しようとするのは政治家としてバランス感覚を欠いているのではないか。・ゲームと学力・体力低下の因果関係が不明で科学的根拠がない条例を必要とする背景は、ITmediaによると「ネットやコンピュータゲームの過剰な利用は、学力や体力の低下、慢性的な睡眠障害、注意力・記憶力の低下、視力障害や頭痛を引き起こすとされ、2019年5月に世界保健機関(WHO)が「ゲーム障害」を疾病と認定するなど「国内外で大きな社会問題となっている」」ことが理由らしい。学力を規制の理由にするなら、部活漬けで学力が足りない生徒の部活動も規制するべきだろう。部活動が学力低下の原因になっても規制しないのは、運動はよいことで、ゲームは悪いことだという偏見が根底にあるようにみえる。これは学業に支障がでるといって恋愛を禁止して校則で髪型まで規制した昭和の学校と同様の非合理的な考え方で、時代に逆行している。最近は下着の色を白に指定するような理不尽な校則が話題だけれど、ネット・ゲーム規制も子供にとっては理不尽な条例である。たいていの生徒は学者やスポーツ選手を目指すわけでもないので、自分の人生の目的を達成するのに必要とされるぶん以上の学力も体力もいらないし、マイペースで楽しく生きたい人が命を削って部活や勉強をしているガチ勢と比較されても迷惑である。学校が数字で判断できる学力や体力だけが人間の才能ではないし、学力も体力も本人が納得していればそれでいいわけで、学力や体力が低下しようが他人が主観的な理由で個人の自由を規制してはいけない。・IT後進国化につながるインターネットにつながっていなければパソコンもスマホもたいして役に立たない。今後はあらゆる製品がIoTとしてスマホで制御できるようになったり、病院の問診などのサービスもオンラインでできるようになったりするかもしれないけれど、物やサービスを使う経験が乏しいと、どう物やサービスを製品化するかという発想も乏しくなる。ネットがない時代は頭の中に知識を詰め込んでおくことが役に立ったけれど、今では知識がサーバーにデータベース化されているので、スマホで調べればわかることを丸暗記して正答率を競うことが無駄な努力になりつつある。熱心に勉強している高校生たちも大学入試に必要だから仕方なく勉強しているだけで、センター試験で全科目で満点をとったところで就職や仕事に直接役立つわけでもない。インターネットの利用時間を制限して若者を古いパラダイムに押し込めたところで子供の未来にはつながらない。使用を制限するのではなく、逆にどうやってインターネットを勉強や仕事に有効活用すればいいのかを教えるべきだろう。大人がVUCA時代の生き方を子供に教える能力がないならせめてデジタルネイティブ世代の成長の邪魔をしないでほしい。・ゲームをやらない人が規制したがっている左翼がゲームを目の敵にしていて、軍人が銃で戦うシューティングゲームや女性を性的に描いているゲームを子供に遊ばせたくないようで、何か問題が起きるたびにゲームは悪だと規制したがっている。左翼のマスコミは犯罪が起きると犯人の部屋にゲームがあったと偏向報道してゲームを悪いものだと印象操作してきた。ゲームを規制するという目的ありきで、ゲーム依存症対策が後付けの理由という可能性もある。・家庭への過干渉子供に害になりうるものというのはネットやゲームに限らなくて、糖分のとりすぎだとか夜更かしとかいろいろある。しかし肥満を防ぐために砂糖を含む菓子や清涼飲料水は月に○kgまでとか、子供は○時までに寝ないといけないとかの条例がないように、そんなのはわざわざ条例で決めることでなくて各家庭で親が気を付けることである。ネット・ゲームの時間を条例で制限するのは子供に対して過保護で過干渉で、親の教育を信用していないともいえる。・規制の効果がなさそう子供は自己管理できないから長時間ネットとゲームをやっちゃだめよと規制したところで、違反したらスマホを取り上げるとかの強制力がなくて対処を家庭に任せるのだから、抑止力にならなくて条例を作る意味がない。結局は家庭任せになるのなら、学校で親にプリントを配ってゲーム依存にならないように啓蒙するレベルで十分ではないか。●私の不真面目な提言子供たちは自分より学力も体力も劣る大人に自由を制限されても納得できないだろうから、香川県の議員に高校生3年生レベルの学力テストと体力テストをやらせてみるとよい。それで高校生の平均以下の学力と体力しかない議員が多いようなら、政治活動で学力や体力の低下や税金依存症になるのを防止するために、政治活動を1日60分までに制限すればよいと思う。ついでに議員の下着は白で、髪型は丸刈りとおかっぱ以外禁止にすればよい。違反したら議会の周りを10週ランニングさせて、水を飲むのも禁止にしよう。議員を厳しく管理したらさぞかし立派な議員に育つに違いないよ。
2020.02.05
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