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倉橋由美子、河野多恵子、大庭みな子、林京子、三枝和子、富岡多恵子、石牟礼道子、金井美恵子、島津佑子、増田みず子、山田詠美の11人の女性作家の1970-90年代の短編集。●各短編のあらすじと感想倉橋由美子「パルタイ」わたしがパルタイという団体に入ろうとしたらあなたに経歴書を求められたり労働者に求婚されたり警察につかまったりして、パルタイに入ることを許可されたとたんに辞めたくなった話。1960年の作者が25歳のときの作品で、明治大学学長賞に入選して文学界に掲載されて、当時の新人作家の最先端の方法として大評判になったそうな。一人称。文章は独特なスタイルがあるし、評判になったのもわかる。しかしこの小説は意図的に抽象的に書かれていて、いつのどこの話なのか不明だし、「わたし」や「あなた」が誰なのかも不明だし、「わたし」が何を考えていて何をしたいのかも不明だし、パルタイが何の団体なのかも不明なまま話が進んでいくので、学生運動を体験していない私にとってはその情報不足の部分に好奇心が起きるというよりはわからないことが多すぎてつまらなく感じる。解説によると、「パルタイ」は当時の共産党を指す俗語で、「オント」という言葉はフランス語で恥を意味するそうだけれど、私は教養がないので意味がわからない。この小説は物語を読むというよりは、男女不平等だった時代に男性の恋愛感情や学生運動に対して醒めた感じで冷や水をぶっかけるところが見どころなのだろう。しかし無感動に冷笑して終わりで、代わりの思想を提示したわけでもない。ナラトロジーの点では「わたし」が「あなた」に向けて手記を書いているわけではないのに、「わたし」と「あなた」という書き方なのが引っかかる。これは女性の読者を「わたし」に共感させて、男性の読者を「あなた」に共感させようという試みなのだろうか。「あなた」を使ったのは何が狙いなのかよくわからない。河野多恵子「骨の肉」女が別れた男が部屋に残した荷物をどうしようか悩むうちに、男と付き合っていた頃は牡蠣やローストチキンのような骨や殻がついた食べ物を食べていたことを思い出して、男の荷物を焼却炉で燃やしたら大量の牡蠣の殻が出てきた夢を見た話。1971年の作者が45歳のときの作品。三人称。部屋の整理だののの細々とした描写をしつつ現実と回想をいったりきたりして心理を掘り下げていく構成で、最後に夢オチにしてしまったのが残念なところ。夢として書かずにマジックリアリズムで幻想的な現実として書いたほうが面白かったかもしれない。解説で男の残り物を食べる女がマゾだの、夢に出てくる赤鉛筆はペニスの象徴だのなんだのと言われるとなるほどと思うけれど、フロイトやユングを知っていて夢を分析したがる批評家向けに小説を書くわけでもあるまいし、一般の読者が分かるように書かないとオチの意味が分からなくてなんじゃこりゃという感じになる。大庭みな子「山姥の微笑」他人の心が読める山姥は若い頃は男の心を読んで理想の女を演じて、歳をとって脳出血で寝たきりになったら看護を嫌がる娘の心を読んで自害した話。1976年の作者が46歳のときの作品。三人称。昔話を元ネタにした現代人の風刺が見どころだけれど、心を読める特殊能力があっても社会に働きかけようとせず、家族関係しか書かないあたりはSFのエスパー系の派手な物語と比べると話の展開の幅が狭くて物足りなく感じる。いかにも昭和の女性のテーマという感じ。現代の作家が心が読める山姥を書いたら、渋谷のヤマンバギャルが男を手玉にとったりカジノで稼いだりするチート無双系のエンタメになると思う。林京子「野に」長崎の原爆で死んだ中学の同級生の三十三回忌に行って、同級生や遺族と話したり、自殺したMについて考えたりする話。短編連作『ギヤマン ビードロ』の中の作品で、1987年の作者が47歳のときの作品。私の一人称。一人称だけれど独りよがりで感傷的な内容にはならず、同級生の西田の視点から自分を相対化しているのはよい。Mが自殺した理由は不明なままでオチはないけれど、他人とは共有できない傷を提示したという点では成功している。実体験に基づくリアリティが文章の緊迫感になっていて、書かざるを得ないことを書いているという創作姿勢がよい。三枝和子「野守」妻を亡くして娘に邪険にされて居場所がなくなった70歳の老人が自分の居場所を確認しようと能の「野守」の鏡を探しに京都の教王護国寺に行く話。短編連作『野守の鏡』の中の作品で、1980年の作者が51歳のときの作品。一人称。夫の妻への仕打ちを露悪的に書くのが狙いなのだろうけれど、誰に語るのか、なぜ語るのかというナラトロジー的な始末がついていない不自然な一人称になっている。文学理論が出てくる前の作家なのでしょうがないけれど、死ぬのがオチなら一人称で語るのは物理的に不可能なはずで、三人称で書くべきだった。創作手法としてはミステリに見立て殺人というのがあるように先行作品を下敷きにしたオーソドックスなやり方で、これは見立て自殺とでもいうのかもしれない。しかし私は能を知らないし京都にも行ったことがないので、説明不足でオチがいまいちよくわからない。見立てありきの展開で物語が弱い感じ。富岡多恵子「新家族」ウブすぎて見合いを断ってアラフォーになった独身女性が動物園に行って新しい家族たちが動物にエサを投げるDQN行為をしているのを眺めて見合い相手を思い出す話。1990年の作者が55歳の時の作品。一人称。見合いして結婚するのが一般的だった昭和時代の独身女性の未練話という感じで書かれた当時は独身女性がマイノリティなのだろうけれど、生涯独身が珍しくない現代だと平凡な話に見える。今は東村アキコの漫画みたいに個性的な行き遅れ女性を書いたフィクションがあるので、この小説が悪いというわけではないけれど時代の変化ゆえにわざわざこの小説を読むほどの魅力がなくなっている。石牟礼道子「いまわの花」水俣病の少女が死に際に桜の花について母親に話したことなどのエッセイ。1990年の作者が63歳の時の作品。水俣病の被害者のモノローグに作者の意見を重ねるような形式。回復することのない被害をうけたことを宗教的な次元でどう解釈するかという普通のエッセイとは違う感じでエピソードをまとめていて、単なる聞き語りになっていないあたりは独特である。金井美恵子「兎」作家が散歩していたら穴に落ちて兎を殺すのが好きな猟奇的な少女に会って独白を聞く話。1992年の作者が45歳の時の作品。一人称の日記形式。少女の独白を語り手が日記で語りなおすという二重の語りにしたせいでいかにもフィクションという感じでリアリティがないし、寓意として読むにしても作者が書くことについて書くメタフィクションをテーマにしているというテクスト外の情報がないと理解できないような書き方で、解説にあるような恋人の不在がどうのこうのという解釈をしたところで面白いわけでもない。ミステリのように答えがある謎かけなら答え探しが楽しいけれど、寓意を提示して好きに解釈しろと投げっぱなしなのでは楽しめない。作者は20歳で作家デビューしたようで文章はうまいけれど、そういう早熟で器用な作家にありがちなテクニックだけで書いた小説という感じで、個人的にはこういう現実と向き合わずに想像で書いたような小説は私の現実に感応しないのでつまらない。津島佑子「黙市」シンママが六義園で捨て猫を見つけて、子供たちが雄猫を父親だと思ったらいいのにと思ったり元夫について考えたりする話。1982年の作者が35歳のときの作品。一人称の私小説。津島佑子は太宰治の娘で、子供を捨てて愛人と心中した父親の不在が作者のテーマになっているようで、この小説だと六義園に動物を捨てる人たちと子供を捨てる親を重ね合わせていて、心境の書き方に純文学らしいテクニックを使っている。元夫を具体的に描写せず、会話の声も出さずに回想として抽象的に書くことで父親が子供の目の前にいるのにいないような感じが出ていて、実在の父親というよりは概念としての父親っぽく書けていて、そのあたりが普通の私小説よりも技術的に一段上という感じ。子作りしまくる雄猫と父親を重ね合わせている点は、元夫がよそで情交していることを仄めかしているのかもしれないし、そんな人を咎めずに子供は父親と思ってほしいということかもしれない。この話は地域猫が去勢されている現代だと成り立たない話で、動物を森にポイ捨てしているあたりとかも昭和のDQNな価値観だなあと思う。増田みず子「あなたへ」女があなたを探していたずら電話しまくったり牧場に行ったりする話。1982年の作者が34歳のときの作品。女の一人称。実況中継のように語っていて、ナラトロジー的に不自然な一人称になっている。解説によると「あなた」は生きる目的とか本当の自分とかで、自分探しの旅の物語のようで、チェーホフやカフカみたいなへんてこなことをやりたかったのかもしれない。私はこういうリアリティのない抽象的なSF風純文学や自意識がどうのこうのという話は嫌いで、この作家は社会からの逃避をテーマにしているという他の小説のほうが面白そう。山田詠美「海の方の子」転校して人の心をつかむのがうまい久美子がクラス全員に嫌われている海の方に住んでいる哲夫と仲良くしようとして家についていく話。1991年の作者が32歳のときの作品。久美子の一人称。父親の転勤で子供の頃に各地を転々としたのは作者の体験に基づいているようだけれど私小説ではないようだし、いつ語ったのか、なぜ語ったのか、誰に語ったのかというナラトロジー的な始末がついていない不自然な一人称になっていてそのぶんリアリティを損ねていて、そこを掘り下げていればこの小説はもっとよくなった。●全体の感想私は外国の古典を読むのを優先して戦後の日本の作家はあまり知らないので、横着してアンソロジーでいろいろな小説を読もうとしてこの本を買ったのだけれど、テーマも作風も多様で短編集としては当たりだった。林京子と石牟礼道子は初めて読んだけれど、テーマに向き合う姿勢がよくて、こういう気魄がある書き方ができる作家は今はなかなかいない。ネットが充実した今は豊富な資料を参照してそれっぽい小説を書くことができるし、女性作家特有の饒舌な文章のうまさでうわべを取り繕うことができるけれど、心理的なリアリティは同時代を生きた人にしか踏み込めない領域で、その人の声を聴くところに古い小説を読む価値がある。そのリアリティを追及せずに抽象的な表現や言葉遊びに逃げると、時間がたった時に読む価値がなくなってしまう。当事者が死んでいなくなったらそれで問題が解決したわけではないので、小説の中にリアルを閉じ込めて逃げないようにしておくことで出来事を風化しないようにできる。林京子や石牟礼道子と同様に、東日本大震災やコロナウイルスのような天災や事故を経験した人の中から忘れないために書かざるを得ない物語を書くようになる作家がいずれ出てくると思う。表現のためのメディアはいろいろあるけれど、エンタメ小説や漫画だと現実の重みを受け止めきれないだろうし、純文学は危機の時にこそ存在感を見せてほしいものである。★★★★☆【中古】 短編 女性文学(現代) /今井泰子,薮禎子,渡辺澄子【編】 【中古】afb
2020.04.26
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最近仕事が減ってちょっと暇ができたので部屋を片付けていらないものを捨てているうちに、そもそもものを持つというのはどういうことなのかと疑問に思ったので、所有と共有について考えることにした。・所有とは何か法哲学の説明だと、所有とは法によって正当化された占有だそうな。ではなぜ我々はものを所有するのかと考えると、ものが生活に必要で、所有するものが多いほど生存に有利になるからである。我々はたいていは市場で売買されているものを買って個人で所有することで、ものや知識などの個人資産を増やしていく。服や雑貨のような実用品は使いつぶしたら捨てる。しかし人間は生活や生存にあまり関係ないものも所有したがる。高級なものは金銭欲や名誉欲から執着して、いったん所有したものはあまり手放したがらない。ぬいぐるみのような実用品でもなく資産価値がないものは、愛着のために占有して手放したがらない。実用的な価値以外の個人的欲求を満たすために所有しているものは、共有ではその欲求を満たせないので個人で占有しているといえる。逆に言えば愛着がないものは占有する必然性もなくなる。例えば父親が愛着を持っている田舎の古い家は都会で働く息子が相続しても資産価値がないし愛着もないし実用性もないし固定資産税がかかるだけなので、所有する理由がなくなって売却される。夫が愛着を持っているプラモデルのコレクションは、妻にとっては資産価値がなくて愛着もなくて場所を取って邪魔なので捨てようとする。車が社会的ステータスだという価値観を持っている人は自慢げに高級車を乗り回すけれど、車を単なる移動の道具としか見ていない人は使うときだけレンタカーを借りたりタクシーに乗ったりして無駄に費用をかけないようにしている。人間のように売買できないものは契約や権利によって占有しようとする。恋人同士は結婚をしてお互いを占有することで不貞を防ぐ。会社は従業員と雇用契約をして占有することで他社への情報漏洩や技術流出を防いでいる。・有形のものの所有と無形のものの共有有形ものを所有するときには、資本主義の原理が働いて金持ちしか価値のあるものを所有できなくなる。土地や食料などの限られたものを所有しようとすると人口の多さがネックになって、人口が多いほど一人当たりの居住空間が狭くなって食料が減って幸福度が下がる。それゆえに有形のものが不足していた時代は、土地や労働力としての奴隷を他の国から奪うために戦争が起きた。現代の先進国では特許や著作権などの知識のほうが産業として重要なので、領土を拡大して土地や資源や労働力を得るための戦争はコスパが悪くて行われなくなったけれど、その代わりに金の奪い合いが起きている。お金も有限なもので、誰かがお金を多く貯め込んで市中に放出しなかったら、新規に通貨を発行しない限り市中に流通するお金が減ってお金の価値がものの価値よりも高くなってデフレになる。いくら日銀が金融緩和しても金持ちの通帳の数字が増えて金を貯め込む一方で、従業員の給料は上がらなくて貧乏人はそのままでトリクルダウンは起きないので、格差が拡大してデフレが進行してインフレにならない。一方で、知識や物語や音楽のような無形で複製が可能なものは他人と共有しないと価値がない。一定期間は権利を占有して利益を得ることができるけれど、最終的には権利が切れて社会全体で共有するものになる。作家や学者や哲学者や宗教家が貧乏でも割と平気であまり金儲けをしようとしないのは、自分が本質的に所有できるのは自分の体だけだと知っているからである。作家は過去から未来の歴史の中の特定の時間や空間として現在をとらえて、生きながらも自分の死を受け入れたメタ認知的な視点から世界を見る。死んだ後は財産は他人のものになるし、言葉や知識や技術は過去から未来へ受け渡されるものにすぎない。自分ひとりの幸せを最大化するために生きるというよりは、現在という時代にどう関わって未来に何を残すのかという視点で生きているので、技術を磨いて残す価値がある作品を作ったり、思想や学問を研究したりするわけである。しかしある程度金がないと学問の研究や芸術の創作がはかどらないので、ルネサンスのように金持ちが芸術家を支援したときに文化が発展している。・個人所有から共有への移行高度経済成長期は家や車をマイカーやマイホームとして個人所有することがあこがれだったけれど、現代は大量消費社会から環境に配慮したエコ社会になって、断捨離や終活などがブームになって個人で大量に物を所有することが見直されて、物を個人で所有せずに共有する生活になりつつある。家や車のような高額なものは個人のステータスを誇示するようなものだったけれど、シェアハウスやカーシェアリングで共有できるようになった。日用品である自転車もシェアサイクルで共有できるようになった。ブランド服もコンパとか冠婚葬祭とかで着るときだけレンタルできるようになって個人所有する必要がなくなった。洗濯機は三種の神器と呼ばれて一軒家で家族の服を洗濯する主婦の生活必需品だったけれど、賃貸住宅に住む独身の人は狭い家に洗濯機を置いても邪魔だし引っ越しも大変なのでコインランドリーを使う人が増えた。零細企業やフリーランスはコワーキングスペースで働くようになって自前の事務所や事務用品を持つ必要がなくなった。DIYワーキングスペースも出てきて、自前で高額な工具を何種類もそろえなくても使うときだけ借りれば済むようになった。仕事もワークシェアで共有するようになって、1人が長時間働いて属人的に仕事をこなすよりも、複数人でノウハウを共有して短時間働くようになった。さらにインターネットの出現で情報だけでなく体験も共有できるようになった。本という物理的な形がある情報だと本の流通量や値段や保管場所の問題で所有できる人が限られていて、本屋や図書館を通じて不完全な形でしか知識を共有できなかった。しかしインターネットが普及して世界中のどこからでもサーバー上にある同じ情報や知識を共有できることになる。SNSは体験の共有を可能にした。自分で上手く写真を撮れるように高いカメラを買って練習してフォトジェニックな観光地に旅行して写真を撮らなくても、写真好きな誰かがSNSに撮った写真をアップロードしている。地方の祭りを見るために観光に行かなくても、誰かが現地で動画を撮ってライブ配信している。足が不自由な人でも旅行する体験を共有できるし、ペットを飼えないアパートに住んでいる人でもペットを飼う体験を共有できる。今後は何が共有されるものになるのかと考えると、ものや金を貯め込むほうが生存に有利になるので、失業や老後の不安が取り除かれない限り、個人が物を貯め込む生存戦略は現在と変わらない。労働、収入、医療、介護、エネルギーの問題が解決してものや金を貯め込まなくても生存できる時にはあらゆるものが共有される社会になるかもしれない。AIや機械が24時間自動で稼働して人間の代わりに仕事をするようになったり、AIのオンライン診療が普及して医療がコモディディ化して誰でも最先端の医療を安価に受けられるようになったり、風力発電や太陽光発電の効率が良くなってエネルギーが安くなったりすると、収入は個人が占有するものから社会が共有するものになって、ベーシックインカムが導入されるかもしれない。ベーシックインカムで何もしなくても最低限の生活が保障されるようになって個人資産を貯め込むことにあまり意味がなくなると、遺産相続のもめ事がなくなって複婚が可能になって配偶者や子供を複数人で共有するようになるかもしれない。遺伝子組み換えによるデザイナーズベビーが作られるようになると、病気になりにくい遺伝子とか頭がよくなる遺伝子とかが人類で共有されるようになるかもしれない。AI化や機械化で労働から解放されて1日4時間労働の週3日勤務くらいで平凡に生活できるようになったら、暇になった人が副業で娯楽産業に携わるようになって、あらゆるコンテンツが作られて新しいコンテンツが出てこなくなると、新しいコンテンツを作るクリエイターがいなくなって、著作権という概念がなくなるかもしれない。そうなると既存の物語やキャラクターを共有して演出を変えるアレンジャーが出てくる。漫画だとオリジナル作品を書こうとする人よりも同人誌を書く人が多くてコミケがにぎわっているし、なろう小説だと異世界のMMORPG的な世界設定を使いまわしているし、音楽は電子音楽が主流になってDJが過去の曲をサンプリングしているし、動画はアニメの場面を切り貼りしたMAD動画が人気になっている。これはクリエイターからアレンジャーへと創作の質が変容しつつあるということかもしれない。私個人としてはアレンジにはオリジナルほどの芸術的価値はないと思うけれど、インターネットの出現で情報や画像のコピペが簡単になってからは社会がアレンジを歓迎する方向にシフトしている。・資本主義も共産主義も幸福の共有に失敗した宗教は治世のために権力者に利用されて中世に権力を持つようになってキリスト教や仏教が貧民を保護する機能を果たしたものの、みんなで貧乏になって神や仏に祈って苦難を我慢しようという精神論で終わって生活の向上にはつながらなかった。その後16世紀の宗教改革でキリスト教にプロテスタントが出てきて金儲けを容認するようになると、勤労意欲が生まれて中産階級が出てきて庶民の暮らしが豊かになったものの、欲に歯止めがきかなくなって大航海時代の後は欧米が世界中を植民地化しだして世界大戦に発展した。資本主義は個人が膨大な資産を所有して遺産相続を重ねるうちに格差が拡大して固定される点と、倫理よりも金儲けを優先するようになる点がだめである。広い土地を持っている地主は土地を貸すだけで生活できるし、大企業の株を持っている一族は財閥化して政治を牛耳るようになって民主主義を脅かす。日本は敗戦を機に農地解放と財閥解体で既得権益をなくしたことが戦後の高度経済成長につながったけれど、倫理よりも金儲けを優先する点が相変わらず社会に害をなしている。問題が起きてから法律で規制するにしても、日本のように議員が利権に寄生して腰が重くて法律を変えようとしない国では問題が長期間放置される。資本主義は資本家と政治家と癒着しやすくて、金儲けのために環境破壊をしたり、労働者の人権を軽視して低賃金でこき使ったりして、長期的に見た場合に信用が失われて破綻するシステムになっている。そんな悪徳資本家や腐敗した政治家への対抗策として労働者が支持したのが共産主義だった。共産主義は労働を平等にやろうとして個人の適性や才能を無視して計画生産をして非効率になった点と、個人の自由と幸福を無視した点がだめだった。基本的人権を侵害されて自由を制限された状態では個人はあまり幸福になれないし、自分の裁量がなくて党幹部の指示通りに作業するだけでは個人の能力が伸びないので社会が発展しないし、環境の変化にも対応できなくなる。中国が1980年代に開放政策をとって方針を転換して、ソ連が経済政策で失敗して崩壊して共産主義の失敗が明確になって、世界はまた資本主義に戻る。その資本主義のあり方をめぐって、グローバリズムやらネオリベラリズムやらの是非が議論されている。イギリスのボリス・ジョンソン首相がコロナウイルスにかかったことで、サッチャーの「社会というものなどない(There is no such thing as society)」は間違いだったと認めたように、個人で対応できない物事には社会として対処する必要があるので、医療や防災や治安などの社会機能の維持ために個人から税金を取っている。ということは政治が個人に干渉せず、社会保障を減らして大企業が税金を取られないようにするネオリベラリズムのやり方では税金が足りなくて社会の崩壊につながる。同様に、安い移民を働かせたいけれど福祉にかかる税金は負担したくないので本社をタックスヘイブンの国に移すというグローバリズムも社会の崩壊につながる。金持ちが社会維持のために本来負担すべき税金を負担しようとしないので社会にひずみがでる。バフェットが富裕層への増税を主張しても米国内からは偽善者として批判されて賛同者が少ないように、富裕層は社会のことなど考えないほうが儲かるので、フランス革命や共産主義革命のように権力者が処刑される側に回るまで追い詰められないと資本主義の仕組みは変わらないのだろう。フランスの黄色いベスト運動の過激化や極右政党の国民戦線のル・ペン党首の支持が増えているのをみると、庶民の我慢の限界が近づいてきているようである。・幸福を共有する社会にするにはどうすればよいのか幸福の定義には宗教的な価値観が影響するので、幸福を共有するためにはまず言語や宗教や文化を共有していることが必要になる。EU諸国でアフリカからの移民がしばしばテロを起こしているけれど、労働して金さえ稼げば幸福になれるというわけでもなく、異国で価値観を共有する相手がいなくて社会から孤立して不幸になってテロに至る。そうすると多文化主義やグローバリズムではなく、民族や宗教という単位でアイデンティティや価値観を共有できる人同士で国を形成するのが幸福につながるといえる。イギリスがEUから離脱して主権を取り戻そうとするのもグローバリズムの不満の反動といえる。他国から侵略されないで長期間平和を保てるという条件が満たされれば、江戸時代の日本のように鎖国していても文化はそれなりに発展してそれなりに幸福になれるので、あまり大きな戦争が起きていない現代に社会に混乱をもたらすグローバリズムを否定して保護貿易や民族主義に向かうことが社会全体の幸福につながるかもしれない。夫婦や家族で財産を共有することは一般的でも、遺産相続の際には兄弟で争いが起きる。ましてや顔も見たことがない人や、宗教も文化も違う外国人に自分のものを分け与えるのには抵抗がある。相互扶助がうまく行ったのは上杉鷹山の伍十組合の令で近所で助け合うやり方だろう。最低限顔を知っている人同士なら困っている人を助けようという気になるし、自分が困ったときには相手からも助けてもらえるという保障になるので助けるインセンティブになる。私有財産への個人的愛着をなくして、郷土愛や民族愛とかの社会的な愛着に置き換えれば財産を社会で共有することが可能になる。しかし貧乏人同士の助け合いよりも、他人から助けてもらう必要がない金持ちが相互扶助に加わるか否かでその社会の幸福度が大きく変わる。例えば金持ちが個人で大きな土地を所有して素敵な庭園を造っても、数人しかその庭に入れないなら社会全体の幸福度はあがらない。これを誰でも使える公園として開放すれば、大勢の人が散歩をしたり花を観賞したりして幸福になれる。これを国家が強制的にやろうとすると大富豪の私有財産に上限を作ったり相続税を上げたり私有財産を国有化したりしないといけなくて憲法29条の私有財産の保護に違反するので実現しそうにない。大富豪が利益度外視で自分から財産を他の人と共有しようとする自発的な好意がある場合には幸福の共有が実現できる。例えばココ壱番屋の創業者がクラシック音楽好きで、高級な楽器を若手音楽家に貸し出しているので、大勢の人がよい演奏を聴くことができる。しかし日本の労働環境がひどいのを見ればわかるように、金持ちの実業家には自分さえ儲かれば他人がどうなろうが知ったこっちゃないというケチなサイコパスが多くて篤志家が少ないので、金持ちに自発的に行動してもらうのを期待して待つだけでは社会は変わらない。個人の自由と民主主義制度を保ちつつ資源や財産は社会全体で共有する社会はどうすれば成り立つのかと考えると、個人の欲を制御するための思想や脳の発達や法律とかが不可欠で、自発的であれ法律の強制であれ個人の欲を制御できるようにならないと、力がある人が個人的な幸福を最大化するために物資や権力を独占しようとして争って社会を犠牲にするようになってしまう。数千年後にまだ人類の文明が存続していたら、原始的な欲や闘争の本能を制御して他人に共感して社会と調和する能力を発達させる方向に脳が進化して、人間の能力が限界を迎えて文化が成熟しきって科学も新しい発明がなくなって、宇宙コロニーのような逃げ場がなくて物資が限られた閉鎖的な空間で争わずに生きるために人口の上限を決めて産児制限をしてすでにあるものを分けあってリサイクルして循環している共有主義とでもいうような社会になっているかもしれない。果たしてそれはユートピアなのか。暇があったらSF小説でも書いて共有主義という構想をもうちょっと考えてみたい。
2020.04.16
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小説を書きたい投資家のために、投資家にもわかる小説の書き方の動画をアップロードしました。投資家も小説家も一人でこつこつ情報を調べていろいろ分析して自分の判断で成果を出そうとする点では似ています。アルゴリズム取引が出てくる前の投資には人間の心理が出ていて、株価は未来への期待をはかる数値として機能していました。投資家は自分の心理の状態を把握しつつ投資をして、他の人がどう動くか相場を読む駆け引きをしていますが、これは小説家が自分が何を書きたいのかを把握しつつ小説を書いて、読者がどう反応するのかを分析して書き方を変えるのと似たやり方です。投資をすると自分の心理状態を俯瞰して理解するメタ認知能力が向上すると思うし、大損のエピソードも面白いので、投資家は小説を書くのに向いていると思います。
2020.04.07
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食料の増加よりも人口の増加のほうが多いから貧困と悪徳は増大すると考察した本。原書は1798年の刊行。●面白かったところのまとめ人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが、生活資料は算術級数的にしか増加せず、人口の増加力は生活資料を生産する土地の力よりも大きい。国の住民を支えるに足る以上に人口が増加すると、食料品の値が上がり、労働の価格が下落して、下層階級が困窮して結婚が困難になって、人口の増加が停滞する。牧場国は耕作地国と比べて同数の住民を扶養することはできないが、住んでいる地方の地力が不生産的なときも野蛮人は将来の困難を考えて人口を制限することがなかった。場所を変えれば状態が良くなるという期待と、いつでも略奪できるという予想と、困れば子供を奴隷に売る権力があるので人口が増加して、のちに飢饉や戦争で抑圧されることになる。イギリスは貧民救済のために巨額の資金を集めているが失敗している。生活資料が不足している状態では、下層にいくら金を配ろうが生活資料が増えるわけでなく、金を多く出す人にものが買われてしまうので意味がない。救貧法は一家を支える見当がないのに結婚する貧民を製造して生かしておく法律で、救貧院で消費される食糧の分だけ勤勉な人の分け前が減り、そのせいで独立できない人を増やすことになる。独立できない貧民は辱めておくのがよく、一家を支える能力がないのに結婚をする労働者は同僚労働者全部の敵である。労働者の貧民は小商人や小農家と違って節約や貯蓄をせずに「手から口」の生活をして酒代にしてしまい、イギリスの救貧法は庶民の貯蓄の力を奪う。ゴドウィン氏の平等社会で獲物を平等に分ければ争いがなくなって利己主義でなくなって社会の利益を考えるようになるという構想は実現しない夢物語で、文明社会の悪徳と窮乏をほとんど全部社会制度の罪だとしている点が間違っていて、全ての人が自然の恩沢を平等に分けることはできないので利己主義が勝って争いはどこまでも続く。思慮なしに罪のない子を窮乏に陥らせた人には不名誉と不便が降りかかることが必要である。女子が自分の子供を養うに足る資力を持つとは限らず、男が女を捨てた時に子供は社会が養わなければならなくなる。男子が犯してもあまり刑を受けない罪を女子が犯せば社会的に葬られるやり方は自然的正義に反する。人口の原理により人々はつねに圧迫を感じるが、それが将来に希望を持たせる。社会から貧乏人や金持ちを除いてしまうことはできないが、そういう極端な地位にある人々の数を減らして、中層にある人々の数を増やす政策を採用するのが我々の義務である。地位が上がる希望や下がる恐怖があるから中層社会が機能して、艱難汝を玉にす、というようにひどい目にあって努力することで才能が芽を出す。人生は悲哀であり困難であるが、この刺激は人を愛するための努力を生むためになくてはならない。誰も同じように栄達というのが通則であっては人格は向上せず堕落する。ほんとうの悲哀を味わったことのない心では、同胞の苦しみ、よろこび、不足、希望を身近に感じることはできない。そういう人の心には兄弟愛や情け深い愛情が少なく、それでは優れた才能があっても高い人格とはいえない。才能が人間の心のすべてではなく、愛にあふれる人々は才能が優れていなくても社会的には上位である。道徳上の善が生まれるためには悪が絶対に必要で、偉大な能力を濫用して害を残した人は人々に悪徳の印象を与えたという点で任務を果たした。世の中にある害悪はどれも偉大なる創造のために絶対に必要な成分である。●感想なんで本のタイトルに初版とついているかというと、初版はエッセイのようなもので、第二版は論文のようなものに修正されているようである。前半は人口についての考察で、終盤は道徳についての考察でそこは面白いけれど、中盤はアダム・スミスを引き合いにして工場は農業より効率がわるいだのという時代遅れの考察をしているのでその辺はあまり読む価値がない。日本は高度経済成長期は中層が厚い社会だったけれど、バブル崩壊以後に中層が没落して若者は非正規雇用で貧乏になって、人口が多い就職氷河期世代が結婚できなくなったので少子化と人口減少が決定的になった。目先の景気の上下よりも人口のほうが日本の未来にとって重大な問題なのだけれど、政治家は問題を先送りして何もしないし、国民も自分が死んだ後に子孫がどうなろうがどうでもいいやと思っているようで政治家をせっつくわけでもない。このまま人口減少を放置していたら日本は滅亡してしまう。というわけで古典としてしばしば名前が出てくるこの本を読んで人口について考えることにしたのだった。・人口増加のリスク地球上に未開の土地があったころは人口が増加して賄いきれなくなったら新しい土地を開拓したり、周りの国を征服したり、外国に移民したりして対処したけれど、もはや地球上に勝手に耕していい未開の土地はなくなったし、戦争で外国の土地を得るのは費用対効果が見合わないし、無条件で大量の移民を受け入れる国はないので、増えすぎた人口に対処する手段がなくなってしまった。人口が増加すると国内に貧乏人を大勢抱えることになって、家が足りなくなればホームレスが発生するし、福祉が不十分だと貧乏人が金や食料を奪い合うようになって治安が悪化するし、治安を維持するための警察や刑務所のコストもかかる。警察のコストを賄いきれずに治安が悪化すると、投資が減って経済活動が低下して仕事がなくなるってますます治安が悪化するという悪循環になる。福祉コストの増加と治安の悪化が人口増加のリスクである。20世紀までは戦争と飢餓と伝染病が死因のトップだったけれど、第二次世界大戦が終わってからは中東やアフリカで局地的な戦争はあっても世界を巻き込んだ大規模な戦争が起きていないし、農薬ができて食料も安定して生産できるようになったし、医療も発達したので、寿命が延びてリタイアした高齢者への医療と福祉のコストが増大した。若年層が多くて人口に見合うだけの経済成長があれば福祉コストを賄えるけれど、人口増加による福祉コストの増加のリスクが顕在化するのは増えた人口が高齢化したときである。高齢化すると必然的に新しい知識の吸収ができなくなって動作や判断がのろくなって仕事のパフォーマンスが落ちて経済成長が鈍化する。政治家は票田になる高齢者の意見を聞かないと当選できないので高齢者を優遇する一方で、福祉コストを負担するのは現役世代なので働き盛りの人の税金が増えて収入が少なくなって、民主主義の先進国は少子化が進んで将来若者が負担するコストがさらに増える悪循環になる。外国でコロナウイルスを高齢者を除去するブーマーリムーバーと呼ぶのは高齢者が社会の負担になっているからである。地球全体の資源は有限なので、地球の人口が増え続けてリサイクルが進まないまま資源を使い捨てて資源が枯渇すると、先進国でも教育が行きわたらなくなって科学文明を維持できなくなって、文明が後退して土地や資源の奪い合いで戦争がおきるようになると思う。・発展途上国の貧乏人が先進国に移民する問題労働集約型産業の縫製工場とかは人件費が安い発展途上国に移転して、中国が経済成長して人件費が高くなったら東南アジアに移転して、東南アジアが経済成長して人件費が高くなったらインドやアフリカに移転するように、価格競争に負けないために大勢の労働者が低賃金でないと成立しないビジネスモデルになっている。貧乏であまり幸福でない人たちでも子供を産むから資本主義がなんとか成り立っているけれど、日本のように貧乏な人が子供を産むのをやめてしまうと低賃金労働者に依存する資本主義は成立しなくなってしまう。そこで貧乏な移民を連れてきて都合のいい労働力にしようという発想になる。第二次世界大戦後に国際情勢が安定してから世界の人口が増え続けているけれど、人口が増えているのはたいてい発展途上国で、発展途上国の貧乏人は母国を発展させるよりも先進国へ出稼ぎに行こうとするし、先進国では3Kの人手不足の仕事を移民にやらせたがる。利害が一致してウィンウィンのように見えるけれど、移民が労働者として稼ぐ以上に治安維持や福祉のコストがかってうまくいっていない。不法入国しようとした子供が溺死してかわいそうだと積極的に移民を受け入れてきたドイツは治安が悪化して国民が反発して移民の受け入れを停止した。アメリカもメキシコからの不法移民を止めようとしているけれど、国境を閉鎖したところですでに国内にある格差の問題は解決しない。欧米は日本に移民を受け入れろと要求するけれど、貧乏な移民をちょっぴり先進国で受け入れたところで根本的な問題解決になっていない。国際連合広報センターによると世界人口は2100年ごろに110億人で頭打ちになるという予測があるけれど、いまでさえ移民や難民の支援が手一杯なのに、さらに貧乏人が増えたら対処しきれないだろう。発展途上国で貧乏人が育てられないほど子供をぽんぽん産んで貧乏人が増え続けて先進国に移民して福祉にぶら下がってフリーライダーになるのをどうにかしないと、先進国も福祉コストを賄いきれなくなってつぶれてしまう。マルサスが貧民に援助すると自立心をなくすと援助を否定的にとらえている点ではサミュエル・スマイルズの『自助論』や二宮尊徳と共通する部分があって、これは耕作できる土地が余っていて知識がなくても食料を生産すれば生きていけた時代だからこそ成り立つ考え方で、物よりも知識が経済基盤になっている現代の先進国にはあてはまらないけれど、アフリカとかの土地や資源があるのに支援に頼って飢えている発展途上国にはある程度あてはまる。イギリスの救貧法とアフリカへの国際的援助は似ていて、アフリカ諸国への援助は底なし沼で、どれだけ食料や医療を支援をしようが結局は政情が安定して経済的に自立できるようにならない限り根本的な問題は解決しないし、教育も受けられないほど貧乏なのでは民主主義は成立せず、政府軍と反政府軍の利権争いの内戦がいつまでも終わらない。艱難汝を玉にすといっても食料が足りなければ隣の村を襲って奪う武装勢力が跋扈するような国家のていをなしていない国では努力は実らないので、発展途上国で不幸な貧乏人が増え続ける問題をなんとかしないといけない。・資本主義の行き詰まりトマ・ピケティが『21世紀の資本』でR(資本収益率)>G(経済成長率)とを明らかにしたように、資本主義では資本家がどんどん富んでいく一方で経済成長率はそれほど伸びなくて庶民は給料が増えずに貧乏なままで格差が拡大している。TEDの動画でニック・ハノーアーという超富豪が格差が拡大して超富豪に所得が集中するとフランス革命のように民衆に襲われる日がやってくるのは時間の問題だと警告して、いんちきなトリクルダウンをやめて資本主義経済の成長と繁栄の源である中流階級の所得を増やすように提言している。中流階級が大事だという点はマルサスと同じである。産業革命の時はラッダイト運動で機械を壊したけれど、現代は利権と富を手放そうとしない富裕層が打ち壊しの対象になりうる。普通の仕事も家庭もある人は犯罪をしようと思わないのでデモをしたりする程度だけれど、仕事も家庭もなくて失うものがない無敵の人にとっては犯罪で捕まるリスクよりも犯罪が成功したときの報酬のほうが大きくなるので、犯罪するインセンティブになる。最低賃金の引上げとかを求めるフランスの黄色いベスト運動の激化に庶民の不満の兆候が出ていて、このまま貧乏人が増えて政治家が不満を抑えられなくなったら富裕層や富裕層を優遇する政治家の排除という形で革命が起きて資本主義は終焉するのかもしれない。哲学のトロッコ問題で太った人を線路に突き落としたら5人が助かるときにどうするかというのがあるけれど、富裕層を1人犠牲にしたら1万人の貧乏人が助かるとしたら富裕層を犠牲にする選択をする人が増えるかもしれない。そうならないように欧米の富裕層はノブレス・オブリージュとして慈善活動をして善人アピールをしているけれど、そもそも企業が従業員を低賃金の非正規雇用でこき使わずにもっと高い賃金を払っていたら貧乏人向けに慈善活動をする必要もないし、搾取した金の一部を配りなおして善人ぶるのはおかしい。正義と悪の観念は時代によって変わるし、富の寡占が悪だとみなされる社会になることもありうる。当分は資本主義は終わらないだろうけれど、いずれ機械やAIで代替できるような単純労働はなくなって貧乏人がやれる仕事が限られて失業率が高くなるだろうし、2100年に世界人口が110億人になって大勢の貧乏人がEUやアメリカに殺到したら国境が封鎖されて移民の条件が厳格化してグローバリズムが終わって、移民を成長の原動力にしてきたアメリカやドイツが増え続ける貧乏人を抱えきれなくなって略奪や内戦が起きて崩壊して、そんな感じで先進国の資本主義が終わるのかもしれない。・人口減少のリスクマルサスは制限しなければ人が増えるものとして考察していて、日本のように何もしなくても人口が減少していく場合については考察していない。マルサスが言うように不幸な人が発生してから対処するのでなく、不幸な子供を産まないように予防するのが一番よいやり方に思える。中国は一人っ子政策で二人目以上の子供にかかる税金を増やすことで人口を制限したけれど、それでも14億人も国民がいて多すぎて、都市に人間が集中して不衛生になって度々疫病が発生している。日本は性欲のままに行動するDQN以外は子供を不幸にしたくないモラルがある貧乏人が多いので、中国のように子供を制限する政策を取らなくても一番よいやり方をして未婚化が進んで少子化まっしぐらになった。人が減ることのリスクはインフラが維持できなることと、技術継承が途切れて才能のプールから多様性がなくなることである。林業や道路工事などの儲からない仕事で働く人がいなくなってインフラの維持ができなくなれば洪水や土砂崩れなどの災害が起きやすくなって災害からの復興も遅くなる。技術の継承は社会の維持のために必要で、才能のプールは社会の発展のために必要である。才能を伸ばすには適切な環境が必要で、人口が減ると競争がゆるくなってスポーツや芸術のレベルが下がったり、技術革新も起きにくくなったりする。あるいは人手不足で適材適所ができず、才能を発揮できない別の仕事をやらざるを得なくなって非効率になったりする。才能を伸ばすためには高等教育のコストがかかるけれど、高等教育を受けられないほどの貧乏な人がいくら増えても指示された作業をするくらいしかできないので、発展途上国はいくら人口が多くても発展しない。出生数に応じてお金をあげる政策は子供を増やしてインフラを維持するのには効果があるだろうけれど、目先のお金につられて貧乏人が子供を産んで出生数が増えたとしても、高等教育を受けられず才能を発揮できないのでは国家は発展しないだろう。これは単純労働をする移民を入れても同じである。一生懸命働いてもワーキングプアを抜け出せず、生活保護を受けたり刑務所に入ったりするほうが食事や医療が豊かになるような労働環境では勤労意欲も削がれるので生産性も上がらない。日本は人件費をコストとみなすようになって人材育成をしなくなって搾取する方向に向かったけれど、人間を正当に評価せずに搾取で儲けようとする社会構造を変えない限り日本が没落する未来からは逃れようがない。・日本の人口を増やすにはどうすればよいのか移民に頼らずに日本の人口を増やすにはどうすればよいのかというと、生活資料を増やせばよい。食料が捨てるほど余っている現代人の生活資料は食料よりも家と教育である。昭和は持ち家に三世帯同居していて家賃が低かったし、高卒でも正社員として働けたので教育費もかからなかった。しかし現代は家族が暮らす広さの部屋は家賃が高いし、家は高くて買えないうえに大企業でさえ潰れるVUCA時代は長期間住宅ローンを払えるほど将来の見通しがないし、大卒でないと正社員になりにくいけれど大学の学費は貧乏人には出せないので、子供にろくな教育を受けさせられなくて不幸にするくらいなら結婚せず子供を作らずに貧乏の連鎖を断ち切るのである。女性が結婚相手に高い年収を望むのは贅沢をしたいというより子供を私立学校にいれたり習い事をさせたりしていい教育を受けさせるためだし、高等教育を受けられないような少額の子供手当を配る程度だと未婚の人が結婚して子供を産むインセンティブにはならないので、貧乏人でも高等教育を受けられるようにしないと安心して結婚できない。このまま未婚化と少子化が進んで人口が減ったらそのぶん土地や家が余って家賃が下がるだろうし、オンライン授業で大学の学費が安くなったり地方在住でも一流の教育を受けられるようになったり、不妊治療の医療費が安くなったりしたら貧乏人でも生活資料に余裕が出てきて結婚するようになって未婚化が止まって子供が増えるかもしれない。放送大学は学費が70万円くらいかかるようだけれど、一定の所得以下の学生の授業料を無料にするくらいならたいして予算がかからないだろうし政策ですぐにやれると思う。・少子化と結婚制度の問題戦前は10代後半に結婚して生涯に4人くらい子供を産んでいたけれど、日本のいまの一夫一妻制だと核家族化して子育ての経済的・身体的な負担が大きくなっていて、子供をたくさん産めない。結婚出生率は2くらいで安定しているので、結婚した人に何人も子供を産ませるよりも、未婚の人に結婚させるほうが子供が増えることになる。一夫一妻制は家父長制で跡取りになる男性の子孫を残して不貞を防ぐために女性の処女を重視する古い価値観に基づいたもので、家父長制でなくなって子供の実父を特定する遺伝子検査ができる現在では一夫一婦制でなければならないという合理的な理由はない。複婚を認めて夫二人妻三人の家族や夫一人妻四人の家族で生活できるようになれば、産休での収入低下や育児の負担をカバーしやすくなるので、未婚化が止まるかもしれない。再婚して連れ子と暮らしたり、婚姻関係がない不特定多数の人がシェアハウスに同居したり、同性愛者が結婚して養子を持ったりするのに問題がないなら、複婚も問題ないのではないか。恋愛小説だと三角関係で誰を選ぶのか悩むのが定番の展開だけれど、200年後くらいに日本で複婚が認められるようになれば、好きな人がみんなで一緒に暮らせばいいじゃんという程度の話になっているかもしれない。昔は一途な純愛系フィクションが流行ったのに比べて、今はハーレム系フィクションが流行っているのは未婚化の反動かもしれないし、ハーレム系は日本の未来を先取りしているのかもしれない。★★★★☆人口の原理改版 (岩波文庫) [ トマス・ロバート・マルサス ]
2020.04.02
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