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コンビニで生まれたコンビニ人間が他の人を真似て人間に擬態する話。第155回芥川賞受賞作。●あらすじ子供のころから突飛な行動をしてきた古倉恵子は大学1年生のときにスマイルマートというコンビニでアルバイトを始めて規則に従うことで居場所を見つけてコンビニ人間として誕生して、19年経って36歳になっても同じコンビニで働いていて、24歳の菅原さんの服装を真似たり愚痴に同調したりして人間のふりをして安堵する。地元の友達のミホたちと話していたら恋人がいないと素直に答えてしまい、病弱だと嘘をついてごまかす。35歳の痩せた男の白羽はバイトをさぼりがちで客の女性にストーカーして異物としてコンビニから排除されて、恵子はミホの旦那と会ったときにアラフォーなのに結婚を焦っていないことをヤバイと言われて自分も異物として排除されると危機感を持って、白羽に結婚を持ちかけて家に連れ込んで餌を与えて風呂場で飼うことにする。店長にうっかり同居していることを言ってしまったら同僚たちがゴシップに夢中になって仕事をさぼるようになる。妹が家に来て白羽を叱り、白羽の兄嫁が家に来て白羽を叱ったので、白羽は恵子にコンビニを辞めさせて就職させることにするものの、恵子は面接に行く途中に立ち寄ったコンビニでコンビニ人間であることを自覚して勝手に商品を整理しだして白羽と喧嘩して面接をキャンセルする。●感想恵子の一人称。ナラトロジーを理解していなくて、いつの時点でいつの出来事を誰に対してなぜ語るのかという設定ができていなくて、現在形と過去形が混在している下手な一人称になっている。私小説作家でない人は一人称で私生活を語る理由がないし、コンビニの規則に忠実なはずの恵子が働いている最中に守秘義務に違反して同僚の年齢とかのプライバシーまで公開して語るのは設定が矛盾しているので、そのぶんリアリティがなくなる。恵子がコンビニの規則に忠実だという部分はこの小説の根幹部分なので矛盾してはいけない。55ページで赤ん坊を静かにさせる手段としてナイフを見る場面は三人称ならホラー的な演出になるけれど、一人称で書くと恵子は子供をナイフで刺して黙らせてはいけないと自覚したうえであえてナイフに言及している計算高い人物だという構図になってしまって、常識がわからないという恵子の人物像が壊れてしまう。登場人物については読書に慣れている人なら恵子と対極の存在の白羽が出てきた時点でこれとくっつくだろうなと予想がついてしまうし、白羽はいかにもプロットのために用意した人物という感じでセリフや思考が芝居がかっていて不自然だし、予定調和的に同居するので、白羽の存在がご都合主義的でかえってつまらなくなってしまった。変人でないと恵子の相手役が務まらないにしても、変人が二人いると主人公の恵子が目立たなくなってしまうし、恵子はコンビニ人間に戻るというオチがついても白羽はどう生きるべきかというオチがついていない。妹が恵子を治そうとするのも変で、病気でもないのに何をどう治そうとしているのかよくわからない。恵子が目的のために手段を選ばないで変な行動をするのも子供の頃だけで、大人になってからは変人ぶりがこぢんまりしている。コンビニを辞めた後に手段を選ばずに老人が一人で経営している駄菓子屋を乗っ取ってコンビニに改装してコンビニオーナーとして働くくらいやるのかと思ったら、普通に就活しているところはけっこう常識的で期待外れである。哲学的な構図としては、コンビニ人間として生きようとする恵子のテーゼに対して、結婚せずにアルバイトのままなのはやばいというミホの夫や白羽とかがアンチテーゼとして出てくるけれど、そこでジンテーゼに至らなくてまたコンビニ人間になろうというところに戻ってしまう。結局恵子の考え方や生き方が変わるわけではないので、白羽との同居云々が蛇足のような話になっている。白羽が納得するようなコンビニ人間像が描けていればジンテーゼになったのだろうけれど、白羽は最後まで恵子の生き方が理解できないままで、恵子や白羽の人生観に進展がない。良い点としては、冒頭で音を中心に状況を描写してものの捉え方を異化しているのはよい。白羽の飼い方にもユーモアもあって、かわいそうな人を書いて同情を誘うような安直な話にはなっていない。この小説ではコメディとして戯化されているとはいえ恵子のような人は実際にいて、その点では人間の実存を描いているといえる。「普通」がわからない女性でもパートタイムの仕事は見つけやすいけれど、男性は生活のために手段を選ばずに犯罪をする「刑務所人間」になりがちで、例えば小島一朗は自分で考えて生きるのが面倒になって無期懲役になることを狙って新幹線で殺人をしたし、境界知能で就職できなくて何度も犯罪をする人は刑務所のほうが規則があってやることが決まっていて楽だからという理由で出所してもすぐに無銭飲食や窃盗とかをして刑務所に戻ろうとする。「刑務所人間」だと被害者がいるのでコメディとして笑えないけれど、「コンビニ人間」は社会の役に立って居場所があるだけまだ救いがある話になっている。結局は恵子は妹が求める「普通」になることはできなくて子孫も残さないだろうけれど、他人が何を言おうが自分が生きたいように生きるのが本人にとっては幸せなのだという希望があるのはよい。良い点があるだけに、ナラトロジーを理解していない下手な一人称なのはもったいない。一人称で書く必然性がない内容なので、三人称で書いたほうが技術的な完成度は高くなっただろうと思う。★★★☆☆コンビニ人間 (文春文庫) [ 村田 沙耶香 ]価格:693円(税込、送料無料) (2025/2/23時点)楽天で購入
2025.02.23
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私は私の視点しか持たないので他人にとって世界がどう見えているのかはわからないけれど、おかしなものの見方をする人や、不合理的な行動をする人や、論理的な話が通じない人がいるのを不思議に思う。こういうのは物事のとらえ方とかの視点の違いが根底にあるような気がするので、視点について考えることにした。●女性の自撮りの視点男性は写真を撮るときに物や景色だけを撮影するのに対して、女性は自分を中心にしてその背景に物や景色が映るように撮影して、なんでもかんでも自撮りにしてしまう。なんでそんな写真の撮り方をするのか不思議である。外国だと迫りくる電車を背景にして自撮りしようとして電車に轢かれる女性や、崖を背景にして自撮りしようとして崖から落ちる女性や、美術館で作品を背景にして自撮りしようとして後ろに下がって展示物を壊した人とかがいる。ARTnewsJAPANの「アート作品の「自撮り破壊」が急増中! 保険会社が「セルフィー・パンデミック」と警告」という記事によると自撮り中の事故が多いようで、個人の不注意というよりも、自撮りして周りが見えなくなる行動パターンが女性に共通する特性なのじゃないかと思う。女性は物事を自分を飾る背景として利用しているという仮説を立ててみると、この女性特有の自撮りのやり方の説明がつくような気がする。もちろん女性が全部そういう人というわけではなくて、YouTubeの旅行や食事の動画でも顔出しや声出しをしない女性はいるけれど、そういうチャンネルはあまり伸びない。アタシを見てというアピールが強くて感情を表に出して共感を集められる人ほどSNSではフォロワーが多くなる。動物の雄は雄同士で争って力ずくで配偶者を得ることが多いけれど、雌は自分に注目を集めるのが配偶者を得るための生存戦略になる。だもんで人間の女性は服にフリルやら刺繍やらをつけてアクセサリーをじゃらじゃらさせて化粧をして目立つ格好をしていることが多い。SNSが登場した後も無自覚に本能的に自分を飾るものとして利用して、フォトジェニックな被写体を自撮りの背景や小道具にして自分を飾って注目を集めようとしているのかもしれない。●理想主義者の視点理想主義者はこうあるべきという理想を掲げて、その理想に人間を合わせようとする。その極限が全体主義や宗教原理主義で、ソ連では個性を無視して国民を理想の労働力に仕立てようとして失敗して、中国では民族を無視して国民を一つの中国人にしようとしてチベットやウイグルを弾圧して文革で知識人が粛清されて文化や経済の発展が遅れた。宗教原理主義では言わずもがなで、異教徒や異端者が処刑されて、経典とは異なる説を主張する学者も処刑されて科学の発展が遅れた。歴史上で理想を掲げて理想通りにうまくいった国はないけれど、その失敗を欧米でも繰り返している。多様性と移民について考えるという記事でも考えたけれど、グローバリストの理想である多様性と移民受け入れ推進が原因で欧米は取り返しがつかない大失敗をしている。スウェーデンは難民を助けられる寛容な国になろうという理想に向けて邁進した結果、犯罪が多発してEUで一番治安が悪い国になった。EU経済の牽引役だったドイツは2000年代はEU内の移動の自由の恩恵を受けてポーランドとかのEU内の出稼ぎの安い労働力のおかげで製造業が好調だったけれど、2010年代に中東やアフリカの難民受け入れ推進や脱原発とかの左翼政策を実行したら、中東の移民は安い労働力になるどころか福祉頼みで働かずに犯罪をするし、ウクライナ戦争でエネルギー価格が高騰して産業の中心だった工業の製造コストが高くなってEVと中国と価格競争しても利益がでなくて景気が減退した。世界一の軍事力と経済力を持つアメリカでさえバイデン政権の4年間のLGBT推進やメキシコからの不法移民の受け入れで内戦の噂が出るほど国内が揺らいで、企業は優秀な人をLGBTだからといって差別せずに能力主義で採用するならまだしも、逆にマイノリティーが活躍するのが理想の社会なのだと優秀でない人をLGBTだからといって優遇して採用するようになって経営が傾き始めて、トランプ政権がDEI推進をやめたらgoogleやディズニーやゴールドマンサックスなどは好機とばかりに便乗してさっさとDEI推進をやめた。企業はCEOや株主がどんな理想を掲げようが現実を見て利益を出さないと収入が減るし最悪の場合は倒産するので方針転換が早いけれど、国家は政策の効果が出るまで時間がかかるし失敗が明らかになっても次の選挙で政権交代するまで何年も方針転換ができないし企業と違って倒産して別の会社を作ってやり直すこともできないので、そのぶん失敗の被害も大きくなるしリカバリーも大変になる。個人で理想の生き方を目指すのは個人の自由だけれど、理想の国家を作ろうとするとその理想と辻褄が合わない現実のどこかに無理がでるし、他人の自由や権利を制限して理想を実現しようとすると最終的には独裁と腐敗に至って、独裁者が自分を脅かす優秀な人や自分の間違いを指摘する人を排除するようになって独裁者の能力不足がボトルネックになって失敗する。ザイム真理教徒も借金や赤字がない状態が健全で安心だという理想ありきで国債発行や公共事業を否定して、バランスシートの負債の反対側には資産があるという会計の基本的なことさえ理解していない。国債を発行せず通貨を増やさず国が産業育成のために投資せずに資産を増やすことは無理だし、国は利益が出ない治水や保安や防衛とかをやらないといけないので必然的に国家運営は赤字になるし赤字でもキャッシュフローがなくなるわけではないので別に問題ないのに、現実の経済の仕組みを無視して理想に合わせようとして無意味な単年度のPB黒字化を目標にして緊縮財政でインフラ投資をやめて、世界が経済成長している中で日本だけ30年経済成長せず、土木業が衰退してインフラ補修ができなくてトンネルの天井が落ちたり橋や水道管が壊れたりして能登地震からの復興も滞って資産価値もなくなりつつある。豊かな国はどういう状態かというと、税収が多いことではなくてエネルギーや食糧やインフラや医療とかの生活に必要なものやサービスの供給が多くて国民がその恩恵を受けられることだろうに、政治家は与党も野党第一党の立憲民主党も税収を増やすことを目標にして増税して零細事業者を破綻に追い込んで供給力を棄損してインフレで国民を貧しくして貧富の差が拡大して食料さえ買えない人を増やして不幸においやって、その穴埋めに外国人を優遇して株や土地を売って国富を外国に流出させるというナンセンスなことをやっている。間違っている理想を否定するには単に正しいことを教えて間違ってるよと指摘するだけでは不十分で、間違った理想を壊す必要があって、それには大きなエネルギーがいる。例えば大日本帝国は太平洋戦争で敗戦しなければ帝国主義の間違いを自覚できなかったし、徹底的に理想が壊されたので日本に帝国主義者はほとんどいなくなって、一億玉砕だの鬼畜米英だのと言っていた人たちがすんなりマッカーサーと民主主義を礼賛するようになった。これはLinuxをインストールしたパソコンでWindows用のソフトを動かそうとしても動かないようなもんで、部品は同じでもいったんOSを削除してパラダイムを変えないと新しい考え方を受け入れられない。財務省の犬の岸田が暗殺されかけたり、財務省の前で財務省解体デモが起きたりしているけれど、それでも日本に数千万人いるザイム真理教徒の考え方を変えるには不十分である。日本でさらに少子化と人手不足が深刻化して移民だらけになって治安が悪化してぼろぼろになったり、首都直下型地震や南海トラフ地震で大都市圏のインフラがぼろぼろになったら政権交代を求めるエネルギーが集まって政策が変わるようになるのかもしれないけれど、そこまで追い込まれないと間違いに気付けないようだと手遅れである。●自己中心的ヒロイズムの視点左翼に話が通じない人が多いのも視点が違うからかもしれない。例えばトルコから来たクルド人は出稼ぎ目的だと調査で明らかになったにもかかわらず、左翼はなぜか偽装難民の不法滞在を支援したがっている。産経新聞の記事だと4人世帯だと最大で27万6千円の生活費が支給されると言っているけれど、左翼はこの事実を見ようとしなくて、デモクラシータイムズの動画だと保護費を何十万円ももらえるのは右翼のデマだと言っている。別の産経新聞の記事だともはやトルコでクルド人の弾圧はなくてトルコ政府は川口市のクルド人をテロ組織支援者だと認定しているにもかかわらず、左翼は現地を取材せずにいまだにトルコのクルド人は弾圧されたかわいそうな人だとみなして支援している。難民申請が認められなくて強制送還された人がその後投獄されたり処刑されたりしたか追跡調査すればすぐわかるだろうに、左翼はそれすらやらない。難民申請をする人が実際に政治的に迫害されているかどうかにかからわず、左翼はクルド人は迫害されているかわいそうな人たちだというストーリーに当てはめて自己満足のヒロイズムのために利用して、実際には迫害されていない単なる出稼ぎ外国人の不法滞在を手助けして、その負担は国民に負わせようとしている。自分は費用を負担せずにヒーローを気取れるので、偽装難民を支援するのは偽善者にとっては都合がいい仕組みになっている。弁護士が集団で偽装難民を支援したがるのも判例に名前を残したい名誉欲にかられているのだろうし、弁護士が不法滞在を支援したりテロ組織支援者を支援したりするのは異常である。生活保護の場合は不正受給すると詐欺罪で逮捕されるし、不正受給を手伝ったら詐欺幇助になるけれど、難民申請は政府に迫害されているという主張が虚偽だろうが放免中は生活費がもらえてビザが切れても滞在期間を延ばせるし、主張が虚偽だとわかっても犯罪になるわけでもないし生活費の返済を求められないのでやり得になっている。放免中は就労を禁止されているといっても常に監視されているわけではないので、既に日本に仲間が定住しているなら仕事をあっせんしてもらって違法に収入を得ることもできる。何もしなくても生活費がもらえる上に不法就労で稼げるし、逮捕されたところで警察官に外国語での取り調べができる人がいなくて不起訴になるか強制送還されるだけで金銭的なデメリットがないので、法律を無視して解体工事をしたり道路を占拠したりしてやりたい放題やっている。そんで偽装難民が無免許無保険で仲間に借りた高級車を乗り回して事故を起こしても、偽装難民を支援している偽善者の左翼が責任を取って代わりに被害者に補償するわけでもない。熊がかわいそうだから殺処分するなと主張する人たちも構図としては同じで、自分を正義の主人公に仕立て上げるための素材として熊を利用していて、電話で役所に抗議はするけれど熊被害を出さないための対案を出すわけでもない。何の知識や技能がない人でも「かわいそう」と認定した相手の庇護者のふりをすればヒーローを気取って満足できるので、役所や猟友会の業務妨害をするクレーマー化してストレスを発散しているのだろう。ヨーロッパの環境保護活動家とかのソーシャルジャスティスウォーリアーもそうで、自分では美術品を作れない無能な人たちが美術品にペンキをかけて壊したり、道路に座り込んで救急車を止めたりして自分に注目を集めて、実際の環境保護に全くつながらなくてもすごいことをやった気分になって自己満足している。こういう人たちは問題を解決するためでなく自分がヒーロー気取りで気持ちよくなるために活動しているので、自分の行動が他人や社会に害をもたらしていても無頓着である。●高望みする婚活女性の視点アラフォーの婚活女性がメディアで取り上げられるときに年収1000万円でイケメンで高身長で高学歴で長男以外で子供は欲しくなくて義両親と同居や介護はしたくないとかの高望みの条件を掲げて炎上するけれど、こういう女性たちは自分を客観的に見る能力がないのだろうかと不思議に思うので、なんでそうなるのか考えてみる。経営者とかの大金持ちの男性がトロフィーワイフとして美人の芸能人と結婚することがあるけれど、この場合はトロフィーワイフは夫の稼ぎで悠々自適に過ごせるので別に文句は出ないだろう。あるいは女医や水商売の経営者とかの高収入の女性が若いイケメンをヒモにするのも同様である。つまりは女性が金持ちになるには、美人になって金持ちのトロフィーワイフとして選ばれるようになるか、あるいは自分で事業を起こせばよい。ところが高望みする婚活女性の場合、美人というほどでもないのにトロフィーハズバンドの稼ぎで悠々自適に生活したがっているところが図々しいし、自分にたいした収入があるわけでもないのに低収入の男性を見下しているのも感じ悪い。しかも条件だけで選別して人格を見ていないのも相手に対して失礼である。こういう女性たちは自撮りをする女性のように、夫の肩書を自分を飾り立てる背景素材として使おうとしているのだろう。なんで当事者なのにそのおかしさを客観視できないのかというと、周りで婚活している女性が高望みの条件をつけていつまでも結婚できない人だらけなので、その中で自分ひとりだけが特におかしいとは思わないのかもしれない。ガンジス川で水浴びしているインド人たちが汚いという自覚がないようなもんで、周りがみんなやっているからそれが普通だと思って心が汚れている自覚がないのだろう。もし周りの人たちが相手の年収なんて関係ないわよ自分で稼ぐわよ容姿より性格わよという人だらけなら自分ひとりがイッセンマンッ!イケメンッ!出てこいやッ!と鼻息を荒くしているのはおかしいと気づくのかもしれない。●被害者ぶりっこの視点Xでしばしば交通事故のドライブレコーダーの映像が出てくるけれど、外国で女性ドライバーが信号待ちで止まっている車に後ろから衝突して、自分に非があるにもかかわらず被害者ぶって相手を批判している様子が晒されていた。こうした女性の傲慢な態度は「退かぬ!媚びぬ!顧みぬ!」とも揶揄される。5ちゃんねるが2ちゃんねるだった頃に、自分が浮気をして有責で離婚しても女性だから慰謝料をもらえると勘違いして相談を書き込んで夫を責めていた「伝説の92」と呼ばれる女性もいて、そういうとんでもない勘違いをしている人たちはまとめサイトで「報告者がキチ」というタグがついていたりする。四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件ではATMで女性が財布を盗もうとして失敗して被害者の男性を泥棒扱いして、男性が誤認逮捕されている間に逃げた。たぶんこういう女性たちは被害者ぶって泣いたりしてかわいそうなふりをすると「どしたん話聞こうか?」と周囲に保護してもらえるということが子供のころから刷り込まれて、危機的状況になったときに生存戦略としてとっさに事実をゆがめて自分は悪くない相手が悪いと罪をなすりつけてぶりぶりと被害者ぶりっこの振る舞いをするようになるのだろう。現代はそこら中にカメラがあって監視カメラやドライブレコーダーとかの客観的な証拠で嘘がすぐにばれるので、自分に非がないと主張してもその場しのぎにしかならなくてあまり賢い生存戦略とはいえない。それでも証拠がない場合だとかわいそうな人を助けてあげなくちゃという義憤にかられてヒーローになりたがる正義マンがしゃしゃり出てくるので一時的な味方は得ることができて、例えば草津町の黒岩町長冤罪事件で虚偽告発した新井町議は被害者ぶることでフェミニストたちを味方につけた。最近は赤いきつねのCMに対してフェミニストたちが女性の頬が赤いのが性的だのと批判しているけれど、この感覚も一般人の感覚と乖離している批判である。漫画やアニメとかのフィクションで女性がどう描かれようが実在の女性が被害を受けるわけではないのに、フェミニストたちは「女性像」が被害をうけたとみなして当たり屋みたいに難癖をつけて表現を規制しようとして、被害者かつ被害者を救済するヒーローという都合のいい立場にいようとしている。●妬む人の視点SNSでは芸能人や有名人のアンチが日々誹謗中傷を繰り返しているけれど、そのエネルギーはどこから来るのかというと、嫉妬が根底にあるのだろうと思う。SNSで誹謗中傷する人を情報開示したら生活保護や精神障害とかで示談金が払えないと泣きついてきたとかのエピソードがあちこちにあるけれど、社会的弱者ほど妬みが強くなるのかもしれない。世の中は不平等で理不尽なもので、生まれた家の親の国籍や裕福さや遺伝子でその後の人生の難易度が大きく変わるけれど、それが受け入れられなくて恵まれた人を妬む人もいるのだろう。あいつだけずるい、だから自分にもよこせという理屈で窃盗を正当化しようとする人もいる。日本人には同調圧力が強くて、自分が損をしてでも相手に損をさせようとするスパイト行動をする人が顕著に多いという行動経済学の研究がある。たぶん日本人は明治時代になるまで農民が土地を離れる自由がなくて同じ集落の同じメンバーでの農耕生活が長かったので、村八分にならないために同調しないといけないというメンタリティーが継承されてきたのだろう。高度経済成長期に終身雇用で一億総中流と言われた頃までは同調圧力があることで社会が円滑になったのかもしれないけれど、もはや終身雇用でなくて個人の自由が大きい現代では同調圧力はむしろ邪魔になっている。スタート地点は違っても結局は自分が知識や技術を身に付けないと自分の生活は向上しないし、自分より恵まれた人や優れた人を妬んで引きずり下ろして平等にしようとするのは不毛なので、SNSで有名人の生活を見て妬む暇があるなら自分の生活を向上させることに集中するほうがよいだろう。論語に「子曰く、如し周公の才の美有るも、驕り且つ吝ならしめば、其の余は観るに足らざるのみ。」というのがあって、いくら周公みたいな多才な人であろうが傲慢でケチならダメよと言っている。「君子は泰かにして驕らず。小人は驕りて泰かならず。」というのもある。実業家や芸能人とかの社会的成功を収めた人の中には傲慢でケチな人も少なからずいるし、松本人志みたいに女遊びに金を払うのをケチって転落する人もいるけれど、たぶんそもそも成功する人の絶対数が少ないので、成功するまで必死で仕事だけして生きてきて成功した後に教養がないし周りに諫める人もいないのでどう振舞えばいいかわからないのだろうと思う。だからといってそういう人たちを妬んで誹謗中傷してざまあみろと憂さ晴らししてよいわけではないし、才能がない人が傲慢でケチならなおさら見苦しくなる。●小説家の一人称の視点統計があるのか知らないけれど、私の体感だと男性の小説家には三人称の小説が多くて、女性の小説家には一人称の小説が多い印象である。そんで女性の小説家が書く一人称の小説は語りの構図が矛盾していることが多い。例えば『推し、燃ゆ』や今読んでいる途中の『コンビニ人間』とかも現在進行形で一人称で語ったりしていて、現実にはありえない矛盾した語り方になっている。これは単に文学理論を勉強していない作家が多いというだけの問題でなくて、性差で物事の認識の仕方が違っていて、女性は構造的な概念の認識能力が弱いのじゃないかと思う。図形認識や空間認識や論理的思考力に男女差があるのは科学的に研究されていて、男女差はないという説もあるけれど、将棋や囲碁では男性のほうが強いのが現実で、一般人の平均的な能力でなくプロ同士の能力を比べると明らかな性差がある。情報量が多い視覚的な構造の認識でさえ差がでるのだから、情報量が少ない抽象的な構造の認識でも当然性差が出てくるものだと推測できる。その一方で、女性は母語や外国語の言語能力や共感力とかの非言語能力が男性よりも高いと言われていて、これは狩猟採集生活をしていた頃に女性が赤ん坊の表情や泣き声とかに反応して育児していく中で能力が高まって性差ができたものと思われる。そんで共感力が高い女性の小説家は共感力を活かして登場人物に感情移入してそのまま登場人物になりきって一人称で小説を書こうとして、結果として矛盾した構造の一人称の書き方になることが多いのじゃないかと思う。美術だとでこぼこした複雑な立体の透視図の書き方を間違えると矛盾したねじれた線が出てきてしまうけれど、図形認識能力が低いとその矛盾に気付かない。スペインで美術品の修復に明らかに失敗しているのに修復した人に失敗の自覚がないのも認知能力が低いからだろう。小説も同様に文字だけで空間と時間の推移の四次元の物語を書く必要があるので、映画のカメラマンのようにどの場面をどの視点から俯瞰してどこに焦点を当てるかという構造を理解する能力が必須になるし、その能力が低いと構造の矛盾に気付かなくなる。共感力が高いのは長所と言えるけれど、だからといって小説の構造が矛盾してよいことにはならない。俳優の演技なら登場人物になりきるやり方でいいし、脚本家はセリフが中心で空間を描写する必要がないし、詩は抽象度が高くて主観的な感性が魅力になるので、共感能力が高い一方で空間認識能力が低い人は小説家よりも俳優や脚本家や詩人とかのほうが向いてると思う。●まとめ私は研究者でないので根拠のないただの偏見だけれど、男性は三人称的に社会と自分の感情を切り離して見る人が多くて、女性は一人称的に社会と自分の感情を結び付けて見ている人が多いような気がする。例えば女性は自分のことを〇〇ちゃんと言ったり、公的な場で家族に言及するときに第三者から見た血縁関係の「父」「母」でなく自分から見た「お父さん」「お母さん」と言ったりする。性差だけでなくて個性の影響もあるだろう。感情に左右される一人称的な視点ではものの見え方にバイアスがかかってしまうのが問題で、面白い考え方をする人がいる一方で、偏見にとらわれて困難な生き方をしている人もいる。男性は生涯を通じて視点があまり変わらなくて、社会に出て競争して強くなって地位を得て相応の配偶者を得て家族を守るために死ぬまで敵と戦うだけである。一方で女性は若くて弱いときは同性と群れて仲間外れにならないことが生存戦略で、婚期になると仲間の同性を出し抜いて利己的に優れた配偶者を得る必要があって、妊娠中は利己的でないと胎内の子供を守れなくて、出産後は〇〇ちゃんのママという社会的立場になって利他的になって子供を生活の中心にしないと子供を育てられなくて、育児中はまた群れを作ってママ友とギブアンドテイクで協力するのが生存戦略になって、育児が終わって働きはじめたら歴戦のゴリマッチョ男性と不利な競争を強いられてセクハラやパワハラの被害にあうので、ライフステージに応じて社会性や視点が変わる。その視点の切り替えがうまくできないと、子供を自分を飾るアクセサリーのように扱って子供の学歴でマウントを取ろうとして教育虐待をする毒親になったり、ママ友にクレクレ攻撃して利己的で非常識な人として仲間外れにされたりして不幸になってしまう。というわけで、人生や社会のいろいろなところで視点が重要である。視点を理解するには芸術を鑑賞したり小説を読んだりするのがよいと思う。
2025.02.16
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自転車便のメッセンジャーが刑務所に行く話。第166回芥川賞受賞作。●あらすじ佐久間(サクマ)は急ぎの自転車便を届ける途中にベンツに迫られて転倒してしまい、自転車が壊れたので近藤に配達を頼んで事務所に戻って自転車を修理する。所長の滝本に正規雇用にならないか誘われるものの、体力的にきついので断る。仕事が終わって事務所に戻り、町を見るとブラックボックスみたいだと思う。近藤が店を出すために仕事を辞めることになり、サクマは横田と晩飯を食べながら転職について会話して家に帰る。サクマは大家の離れの家に円佳と同居していた。部屋が片付いていないのに苛つきつつも円佳とエッチしたら妊娠したので、正規雇用になろうかと思ったらもう横田が正規雇用になっていた。滝本が近藤の陰口を言うのをダサいと注意したらシフトを減らされて、ウーバーイーツの仕事をしていたら税務署の職員が税金を払えと言うので職員と警察官を殴って逮捕される。刑務所に円佳から手紙が来ても子供のことは書かれていなかった。同じ部屋の伊地知が向井の食事にいたずらしていたので喧嘩して懲罰を受けて、手紙の返事を書きそびれたので忘れることにした。●感想サクマを焦点人物にした三人称。オーソドックスなリアリズムのスタイルで、ほとんどの読者が知らない自転車便の配達員を主人公にして、自転車パーツや業務内容とかの細部を詳しく書いているのはよい。作者は2016年にデビューして2021年にこの小説を書いていて小説を書き慣れているようで、描写や展開の仕方の基本ができている。いつの物語なのか明示されていなくても、「コロナ」という単語を出すことで現代の物語なのだと時代を仄めかすやり方は手際がよいし、登場人物はキャラ立ちしていて書き分けができているので名前を覚えやすい。しかし地の文で「ベンツ」「マック」「バーガー」みたいな略称を使っているのは気になる。神の視点の三人称の小説は建前としては作者がその世界にいないことになっているけれど、略称を使われると作者の存在を意識してしまって若干リアリティがなくなるので、作者の存在を感じさせないようにしてほしい。56ページの「高橋は、確か横田と同い年の二十四だ。」みたいに地の文でサクマが読者に対して直接説明するような書き方もおかしくて、三人称なのに地の文が客観的でなくて主観寄りになっている。刑務所にいる佐久間が過去の自分を客観視して回想してサクマについて語っていると解釈できなくもないだろうけれど、それだと144ページの「もういないやつなんかどうでもいいわ」という態度と矛盾するので、こういう主観交じりの三人称の書き方が意図的なのか単に下手なのかよくわからない。描写や説明の量もアンバランスで、横田との雑談や大家の家の離れがどうなっているのかとかのプロットに関係がない部分は書きすぎなくらい詳しく書くのに、円佳とのエッチの場面は6行くらいしかなくてDays Goneでだらだら遊んでいる場面より短いし、サクマが家から離れたかったという割には親との関係を掘り下げないので、焦点を当てて掘り下げる部分がちぐはぐな感じ。固有名詞の扱い方も一貫していなくて、iPhoneやYahoo!ニュースやNetflixやDays Goneとかは固有名詞を出すのに、70ページに出てくる100人が戦うゲームはPUBGなのか荒野行動なのか知らないけれど名前を出さないのは基準がよくわからない。あとタイトルだけ見て何の内容なのかわからなくて興味を惹かれないのでもったいない。他人の生活の様子はブラックボックスみたいでよくわからない、明日がどうなるかわからないというテーマをタイトルにしたのだろうけれど、異化したりして面白そうなタイトルにするほうがよかったかもしれない。文学的な仕掛けとしては、82ページでいきなり刑務所の場面に飛んで、過去の出来事か未来の出来事なのか妄想なのかよくわからなくなるような場面を展開している。これは物語に緊張感をもたらすけれど、その一方で読者を混乱させるので、あまり効果的な手法とは言えない。それに自転車便のネタだと話が膨らまないので後半の刑務所の話とつなげてニコイチにして、そのつなぎ目をごまかそうとしているように見える。刑務所の中の様子をテーマにしたフィクションはすでにあるし、せっかく自転車便を取り上げたのだから自転車便のネタだけで作品として仕上げてほしかったけれど、自転車便の話はウーバーイーツに逃げてしりすぼみになって終わってしまって、これなら別に自転車便の話でなくてもいいじゃんと思った。ニコイチみたいなやりかたで中途半端な中編にせずに、短編で自転車便の話か刑務所の話のどちらかに絞るか、あるいは長編で出所後の話も書いて円佳との人間関係を発展・変化させて、子供を見てサクマの考え方が変わるとか子供にイラついて殴り殺すとかのオチをつけるなりするほうが作品の完成度は高くなったかもしれない。例えばシリトーの『長距離走者の孤独』は長距離走という一つの場面で一つのテーマを書いて余計な場面がなくて、暴力を使わずに反抗をするやり方もひねりがあるので短編の名作として残っているように、文章を長く書くよりも必要最小限の文章に削る方がセンスがいる。心理描写としては喜怒哀楽のうちの怒の連続で、感情のメリハリがないのでストーリーが単調になって人物像が浅くなる。サクマはそういう人なのだと言われればそれまでだけれど、変化や成長が見られないので人間的魅力がない。サクマは出所後も同じような短慮で衝動的な行動を繰り返すのだろうし、サクマの今後の人生が気になるわけでもなく「もういないやつなんかどうでもいいわ」という読後感になる。1950-60年代のイギリスではangry young menの労働者を描いたキッチンシンク・リアリズムが流行したけれど、現代の日本を舞台にしてサクマみたいな些細なことで怒って周囲に反抗して殴りかかる若者を書いても20世紀の古臭い怒り方みたいな感じで今時の若い読者は共感しにくいと思う。Adoの「うっせえわ」の歌詞に「殴ったりするのはノーセンキュー」とあるように、殴らないで反抗的な言葉を言うのが21世紀のZ世代のおしゃれな反抗の仕方のように思える。angry young menを書くにしても、サクマが単に粗暴なのではなくて何かしらの魅力や哲学的な特徴がないと、昔書かれたテーマを現代を舞台にしてやり直したような既視感が出てしまって純文学としてはあまり見どころにならない。サクマの反抗のカウンターパートになる滝本や税務署の職員や伊地知もすぐに物語からいなくなってしまうし、本来カウンターパートになるはずの親が出てこないので、喧嘩が散発的で人間関係に発展性がない。明日のことはわからないという考えもサクマのような体験をしないとたどり着かない思考ではなくて当たり前のことを言っているだけだし、ちゃんと避妊していれば望まない妊娠は避けられるしちゃんと納税していれば税務署の職員が来ないことくらいはわかるのに何言ってんだこいつアホなのか自業自得じゃねーかと呆れてしまう。というわけで私が感動するような内容ではなかったけれど、平凡な書き方に収まらないように工夫する姿勢はよい。元自衛官だとかの作者の実体験以外の話題を取材して作者とは違う生い立ちの人間を書けるかどうかが今後の課題になるかもしれない。★★★☆☆ブラックボックス (講談社文庫) [ 砂川 文次 ]価格:682円(税込、送料無料) (2025/2/4時点)楽天で購入
2025.02.04
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