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私はあまり音楽の勉強はしていなかったのだけれど、エデュアルト・ハンスリックという19世紀末の音楽批評家がワグナーやリストのオペラとかの歌がついているロマン主義の標題音楽を否定して、器楽曲が純粋な音楽である主張して形式主義(フォルマリズム)を展開して、「音楽は鳴り響きつつ流動する形式である」と定義したというのを小耳にはさんだので、形式について考えることにした。●形式とは何か形式とは物事が存在するときに表に現れている形や、物事を行うときの一定のやり方を意味する。生物は遺伝子という設計図によって形が作られていて、植物の葉や花の形は一定の法則で成長して一定の形になるし、自由意思がない昆虫は光や温度とかの周囲の環境に反応して一定のやり方で行動する。自由意思がある人間が作る様々なものも形式があって、ハンマーやハサミとかの道具は何かの目的があって作られるので目的を達成するのに適した形式になる。工業製品はモデルごとに設計図が違っていて形が違う。家にも〇〇造りとかの形式があって、屋根の形式だけでも切妻屋根や片流れ屋根や方形屋根とかいろいろある。役所の手続きや裁判とかは法律で形式が定められて一定のやり方で行われる。スポーツやゲームはルールが形式になっていて、プレイヤーの裁量がある部分で身体能力や技術力や判断力を競って勝ち負けを決めていて、裁量部分が少なくて運の要素が大きいのはスポーツでなくギャンブルになる。食事の食べ方にはコース、アラカルト、ブッフェ、おまかせ、立ち食いとかの形式があるし、料理にも揚げ、焼き、蒸し、煮込み、鍋、生、ジュース、発酵、漬け、ムース、冷凍とかの調理方法の形式がある。良い形式は共通のマナーとされて、形式を外れると行儀が悪いと批判される。こうした様々なものの形式の違いが総合的な文化の違いになって、国ごとにいろいろな形式がある。●芸術の形式音楽、絵画、文学は相互に影響を与え合っていて、どこかでなんとか主義が出てくると他の分野も変化していくけれど、形式の考察に関しては音楽が先に発展したようである。西洋音楽にはソナタや舞曲や行進曲とかの目的に合わせた構成の形式があって、長調や短調や旋律や終止形とかのパターンがあった。それからジャズでアドリブでコードを展開するようになった。シンセサイザーやミキサーやサンプラーとかの電子楽器が作られたら同じリズムパターンを繰り返すハウスやテクノが作られた。リズムパターンに即興のラップを載せる形式のヒップホップが出てきて、高い楽器を買って長時間の練習をやらなくても済むようになったことで貧困層でも音楽を表現できるようになってラッパーが増えて、ポップミュージックにもラップの形式が取り入れられるようになった。EDMではビルドアップして盛り上げてからドロップするという形式をとっていて、ハウスよりもメリハリがあってドラマチックな展開がわかりやすいので人気になった。西洋絵画は宗教画を中心に発展してきたものの、カトリックが腐敗して人文主義やルネサンスが起きて徐々にキリスト教の影響力が衰えて風景画が描かれるようになって、近代になってリアリズムを否定する抽象画が出てきて絵が色や形に還元されていって、ダリがシュルレアリスムで物の形をぐにゃっと崩したり、ピカソがキュビズムで多面的な人を描いたり、マティスがフォービズムで描写を簡略化して人を抽象化した色と形で描いたりして、絵を構成するモチーフの形が変化していった。美術は二次元から三次元に発展して芸術作品が単に部屋を飾る装飾品でなくなって作家性が強くなって、インスタレーションで観客と相互作用する形で作品を展示したり、芸術家自身がライブペインティングで制作の様子を見せるパフォーマンスをしたりして、絵画とは違う形式で表現するようになった。漫画やアニメは初期はリアル寄りの劇画調だったのが、表情がわかりやすくてかわいく見えるように目が大きくて鼻が小さくデフォルメされた人間が標準的な表現形式になった。建築ではヨーロッパではレンガが中心で窓が小さい形式だったけれど、建材に鉄筋コンクリートが使われるようになってデザインの自由度が増したらドイツで建築の機能性に美術的な要素を取り入れたバウハウスが出てきて、壁がなくて窓が広くて開放感があるようなシンプルでモダンな感じの形の建物ができた。映画は初期の無声映画(活動写真)の時は活動弁士が映画の内容を説明する形式をとっていたけれど、音声がつくようになったら活動弁士が不要になって、CG合成ができるようになったらアクション映画で実際にセットを爆発させたり危険なスタントをさせたりする必要がなくなったりして、撮影機材や撮影技術の進歩とともに表現形式も変わっている。演劇だとスーパー歌舞伎が3S(スピード、スペクタクル、ストーリー)を重視して伝統的な歌舞伎よりも派手なストーリーや演出の形式をとってエンタメ性を強めて差別化している。●文学の形式文学では詩には形式があったけれど、その形式の良し悪しとかの美学の考察には発展していない。20世紀にシュルレアリスムのアンドレ・ブルトンが自動筆記とかの手法を試したけれど、意味が分からない言葉の羅列では読者は感動しようがないので、文学は標題的にならざるを得ないということで音楽や絵画とは違う道をたどる。そんで波乱万丈のロマン主義小説や格調高い古典の否定として出てきたのが自然主義小説で、人間を誇張したり美化したりせずに書くのが純粋な文学だということで自然主義小説が日本の純文学の主流になった。明治時代の初期の自然主義小説はまだドキュメンタリーみたいに当時の人の生き方や考え方を後世に残す意義があったし、言文一致したばかりの口語体での文章を普及させたという意義もあったけれど、大正時代の自然主義小説は現代でいうインフルエンサーみたいなことをやりだしてカフェやバーで遊びまわってネタ作りしてその様子を描くようになって、思想の深化や技術の洗練や独自性もなんもないので次第に自然主義小説は廃れていった。そんでポストモダン小説でSFやファンタジーっぽい変なことをやったりして迷走して、今では何が「純」なのかという本質が忘れ去られて純文学雑誌に掲載されたら純文学だという大雑把なくくりで芸術性が乏しいエンタメみたいなリアリティがないものも純文学扱いされる有様になってしまって純文学は表現形式の特徴を失って劣化してしまった。別にリアリズムだけが文学の評価基準というわけではないのでリアリティがないこと自体が悪いわけでもないけれど、シュールリアリズムやマジックリアリズムやアンチネオレアリスモとかのリアリズムに代替する形式がないままリアルでない小説を書くのでは単に下手なだけに見えるし、リアリズムの手法や面白さは確立されているのだから代替する形式がないなら素直にリアリズムで小説を書けばいいじゃんと思う。どういう表現形式をとるにせよ、作者が人間の実存を観察する姿勢が根底にないのでは読者も共感して感動できないのでたいして価値がある作品にならないし、美大生が遠近法や明暗法で物の形を正確にデッサンできるようになってから独自の表現を追求するように、実存を観察するにはまずリアリズムを基礎にするのがよい。文芸批評ではロシア・フォルマリズムや構造主義とかの文学理論が出てきたけれど、小説を細切れに分析して解体したところで人を感動させる小説を書けるようにはならないよということであまり創作手法には反映されていない。だからといってフォルマリズムに意味がないというわけではなくて、音楽一家出身のミラン・クンデラが小説に音楽的構成を取り入れて構成の美しさを目指したように、形式が創作の要点になりうる。文学理論は創作理論というよりたいてい批評理論で、直接創作に役に立つわけではないけれど、それでも理論を知らないよりは知っておく方がよい。停滞している純文学を再興するには、かつて音楽や絵画と相互に影響し合ったように、他の分野の形式に目を向けるやり方もあると思う。例えば協奏曲のカデンツァでソリストが即興で演奏するように小説で主人公が長めの自己主張をする場面を入れるとか、ミニマルミュージックで音のパターン反復するように同じフレーズや描写を何度も繰り返して強調するとかの構成の工夫もありうる。音楽のマッシュアップみたいに小説Aの登場人物と小説Bの舞台を組み合わせたセルフパロディーをしたらネタ切れしにくそうである。ビジュアル系純文学として美男美女のグループを主人公にして純文学的なテーマを書くようなやり方も外連味があって面白いかもしれない。スーパー歌舞伎に倣ってスーパー純文学として派手な比喩をわんさか使ってズンドコと畳みかけるように物語を展開したら従来の地味で暗くてもっさりした純文学と差別化できて面白いかもしれない。ライブ創作として掌編小説を書く様子を動画で撮影して公開するような美術的なプロモーション手法もできるだろうし、印象的なセリフを抜き出して詩的な動画にする音楽のMV的なプロモーション手法もできるだろう。文学作品の品質管理に製造業の品質コストの評価形式を取り入れて、出版社側が出版したら後は知らねという態度を取らずに、内部失敗コストとして出版前にフィードバックして一定の水準になるまで書き直させるとか、出版後に作者が聞きたくないような読者の不満や厳しい批評も外部失敗コストとして作者にフィードバックするとかして、出版ビジネス自体の改善をしたら作品の品質も上がるだろう。小説を書くときにカスケード制御のフィードバックループの形式を取り入れて、主人公(マスター)が破天荒な行動をしても脇役(スレーブ)が修正してストーリーの破綻を防ぐようなやり方もできるかもしれないし、そしたらロマン主義的な波乱万丈な展開を昔の作家よりもうまく書けるようになってシン・ロマン主義的な形式ができるかもしれない。というわけで、世界には様々な形式があるし、どの分野もいろいろ工夫の余地はあると思うので、様々な形式を観察していろいろな形式を試してみるとよいと思う。
2025.05.24
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最近は中国人観光客が日本で桜の枝によじ登って枝を揺らして折ったり、写真を撮るために枝を折ったりしているようである。というわけで花について考えることにした。●花とは何か花とは種子植物の生殖器官で、たいていおしべとめしべがあって、受粉すると実がなって種ができる仕組みになっている。花が咲くには温度とかの条件があって、春に咲く花は多いけれど冬に咲く花は少ない。花を咲かせるのには栄養がいるけれど、まず葉のほうに栄養が行くのでつぼみができてからすぐ花が咲くわけではなくてタイムラグがある。そんでたいていの植物は耐寒性がなくて冬に枯れたり、葉が落ちたり、日照が少なくなって光合成が減って冬眠モードに入って水やりがいらなくなったりするし、たいていの昆虫も越冬できなくて死んだり、冬は卵や幼虫の状態で越冬していたり、ミツバチは気温が下がると巣ごもりして受粉を手伝わなくなったりするので、冬は花が咲くのには向いていない。そんで冬が終わって温かくなってくると植物が活動モードになってつぼみに栄養が行って花が咲いて昆虫が花粉を集めたりして受粉して、花が散ったら新芽が出てきてまた葉のほうに栄養が行って、葉が大きくなって光合成して実に栄養が行って種ができて分布を広げるというサイクルになっているようである。サガリバナや月下美人のように夜に花が咲いて蛾やコウモリとかの夜行性の動物に受粉させて朝には花がしぼむ植物もある。バラとかの観賞用の花は咲き終わった花をそのままにしておくと綺麗に咲かなくなるので、剪定して花に十分な栄養がいくようにする必要があって、手間をかけて育てられている。●桜の枝を折ってはいけない梅と桜は似たような花が咲くけれど、梅は2月頃に咲くのに対して桜は3-4月頃の卒業式や入学式の節目に咲くので、桜のほうが日本を代表する花として人気があって、桜をテーマにした歌も多い。公園や街路樹の桜は自然に生えたものではなくて植樹されていて、病気や害虫に弱くても人が手入れしてきたからこそきれいな花を咲かせるわけで、いわば病弱だけど皆に応援されて頑張っている花界の清純派アイドルのようなものである。「徒然草」に「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の公衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ」とあるように、桜の花が散る様子をもののあわれとしてとらえるのが日本ならではの鑑賞の仕方である。野生の猿でさえむやみに桜の枝を折ったりしないのに、猿より知能があるはずの中国人が意図的に美しいものを壊して喜んでいるのだから、よけいに無教養な無粋さが際立つ。桜の花を派手に散らそうとして枝を揺さぶって折ったり花見で酔って騒いでごみを散らかしたりする人たちはそもそも美を理解していないので花見をしても時間の無駄である。そもそも中国人は同胞の中国人でさえ人間扱いしていなくて臓器移植のために児童を誘拐したり有害な偽食品を販売したりしている有様だから、桜を傷つけるなと注意したところで理解できないだろう。しかし華道で花を切ったり花束を作ったりする行為自体は日本人もやる。生け花で花を切るのはよくて中国人観光客が桜の枝を折るのはなぜだめなのか、どちらも植物を傷つけているのにどこに違いがあるのかと考えると、根底に植物の美しさへのリスペクトがあるかどうかが大きな違いといえる。華道は自然のままでも美しい花をより美しく見せるために配置を考えて飾り付けるけれど、中国人観光客は自分を飾るために美しい桜を利用する。共産主義の中国人は植物をただの物体として扱って自然への畏敬の念がないので、「花を愛でる」という感覚を持つ日本人からしたら花を雑に扱うことにイラっとするのだろう。●花と文化花は色も形も様々で、自然の中では色鮮やかなので、昔から人目を引いて栽培されて利用されてきた。花の鑑賞としてはガーデニングとして四季折々の花を楽しんだり、花畑を観光地にしたり、生け花とかで花を花瓶に入れて部屋に飾って観賞したりする。植物の派手な生殖器を鑑賞したり匂いを嗅いだりするのはとらえようによっては変な文化で、ポリコレが極まった未来の世界では植物虐待の変態行為として禁止されるのかもしれない。農業だとマリーゴールドとかの虫よけの効果がある植物がコンパニオンプランツとして畑に植えらている。紅花のような色の濃い花は染料として使えたので産業用としても利用されてきた。花柄は華やかな文様として家紋や衣類や壁紙や包み紙などにも取り入れられて、特に女性向けの衣類や小物ではよく使われている。ドレスのフリルも花びらを模したものだろうし、アクセサリーとしてコサージュやブートニアのような花飾りをつけたりもする。女子はシロツメクサとかで花冠を作ったりする。花粉症でマスクをする人が多いのも文化といえるかもしれない。花の匂いにはリラックス効果もあるので、ローズティーのように花を乾燥させてお茶にして飲んだり、花を蒸留して香油や香水や化粧水として使ったりもする。食用としては日本では黄色や紫の食用菊を刺身に添えたり小鉢に入れたりして彩を加えている。ブロッコリーも花のつぼみが食用になっている。エディブルフラワーは高級レストランの創作料理とかで使われたりしているようである。一般的に花を食べるよりも葉っぱを食べる方が収穫量が多くて農業の効率がよいので、視覚的な効果を気にしない人ならわざわざ花を食べるものでもない。人参の飾り切りやアイスで花を模したりするように、食材として花を使うよりも花の形だけを真似るほうが一般的である。花は贈り物としてもよく使われて、表彰式や送別会とかのセレモニーで花束を渡したり、母の日にカーネーションを贈ったり、店の開店祝いに花を贈ったりする。ハワイでは歓迎や祝福の時にレイという花の首飾りを贈る。演劇の舞台で客席を突っ切るような作りになっている通路を花道というけれど、そこで役者に祝儀の花束を渡したのが名前の由来だそうな。菊や牡丹や百合や蘭や薔薇は豪奢な花を咲かせるので贈答用だけでなくガーデニング用にも人気がある。故人を飾るのにも花が使われて、葬式を花で飾ったり棺桶に花を入れたり墓に花を添えたりする。神棚には榊以外の植物を飾らないのに墓には花を飾るのは何なのかと考えると、花の色で悲しみを紛らわせたり花の匂いで死臭をまぎらせたりする意図もあるのかもしれない。蓮は仏教を象徴する花になっていて、しばしば仏像は蓮の花の上に座っている形になっている。ブッダの誕生日の4月8日の灌仏会は「花まつり」とも呼ばれていて、ルンビニーの花園で生まれたこととか桜の季節だからとか由来には諸説あるそうな。女性の人名にも花の名前が使われることがあって、桜、梅、菊、百合、菫、葵、蘭とかの2-3文字の花が名前に使いやすいようである。茄子や葱や里芋とかの野菜も花を咲かせるけれど、野菜は花よりも葉や実とかの食べる部分の印象が強いせいか人名にはなりにくいようである。花は花びらの数や形が数学的に均整がとれていて、フィボナッチ数列やバラ曲線とかの数学的なテーマにもなる。小学校では夏休みに朝顔や鳳仙花を栽培させて観察する宿題が出たりするし、校庭にチューリップやヒマワリとかの子供が好きそうな植物が植えられていたりするし、押し花を作ったりするので、子供のころから花と親しむ環境がある。●花とビジネス日本は南北に長くて雨量が多いので、いろいろな気候条件で多品種の花を育てることができるのがビジネスとしての強みになっていて、令和3年の国内消費は1.1兆円(個人消費8813億円、業務用2491億円)で、令和4年の花き輸出額は91億円で植木や盆栽の74億円よりも多い。切り花は鑑賞期限が短いし、一年草は一年で枯れてしまうので、定期的に花を買うリピーターが多いのだろう。花き市場では輸出体制が整っていて、アジアへは3-5日、アメリカやヨーロッパへは5-7日で輸出できるようで、リーファーコンテナとかで花を冷やして品質保持をして輸出しているようである。日本固有の花が人気というわけでもなさそうで、ダリアとかの豪奢な外国の花を高品質で栽培できるので外国に需要があるようである。花屋は華やかなイメージと違って重い鉢を移動させたりする重労働が多くて手荒れもして、八百屋と違って鉢に水やりとかをしてこまめに商品の管理もしないといけなくて大変である。しかし冠婚葬祭での個人消費の需要があるし卒業式・入学式シーズンの花束需要やお盆用の仏花需要とかの繁盛期が毎年あるのでビジネスとしては安定しているようで、街角の小さい花屋が長く営業を続けていたりする。植物園や花畑を観光地にするのもビジネスといえるけれど、数百円の入園料を取ったところでたかがしれているし、無料の集客の手段にして他の商品やサービスで収益を上げるようなやり方のほうがよさそうである。花畑でのセルフィーで満足できない層に向けてプロのカメラマンが映える記念写真を撮るとか、花畑の借景がきれいなカフェを作るとか、何かしら花を有効活用したビジネスができそうな気がする。他に何か花をビジネスにできないかと考えてみると、最近はアイドルがメンバーカラーというのを設定してグループ内で特徴を差別化しているけれど、メンバーカラーの代わりにメンバーフラワーという花のイメージを決めれば物販で推しメンの花を売るビジネスができると思うので、採用するアイドルがいたら私にアイデア料を払うと良いよ。あとホストクラブが酒の代わりに花束を注文するシステムになって花束を抱えてフゥワフゥワするようになればもっと健全になって王子様っぽくなるかもしれない。採用するホストクラブがあったら私にアイデア料を払うと良いよ。●花と芸術華道やフローリストの表現手段として花が使われて、花の飾り方で芸術性の違いが出る。ニコライ・バーグマンが箱に花をぎっしり詰めた『フラワーボックス』は、花束が一般的だったフラワーギフト界に新しいフラワーギフトの形を提示して人気になったようである。花は詩のモチーフになりやすくて、花の名前は和歌の季語になっている。小説だと美しい人物の比喩としてしばしば花が使われるし、花が咲いたり散ったりする様子を人生の比喩として象徴主義的に使うこともあるし、「花を売る」が売春の比喩になったりもする。花言葉はあまり実用的な意味はないけれど、フィクションなら象徴や暗示として使える。絵画だとゴッホの『ひまわり』やモネの『睡蓮』のように絵の主題になることもある。少女漫画で登場人物の背景をゴージャスな感じにする演出にも花が使われるけれど、恋愛がテーマの場合は植物の生殖器で飾り立てて性的な雰囲気をむんむんさせるのは正しい演出の仕方と言えるのかもしれない。植物の派手な生殖器を装飾的演出に使うのが許容されるのなら、マンドリルの派手な尻を装飾的に使うのもよいような気がする。音楽では『チューリップ』のように童謡としてなじみがある。クラシックだとゲーテの詩にシューベルトが曲をつけた『野ばら』やリヒナーの『勿忘草』とかがある。ラトビアの民謡を基にした『百万本のバラ』も有名である。日本のポップスだと桜がテーマになりやすくて、森山直太朗の『さくら』みたいなしんみりした感じの卒業ソングも多いし、『千本桜』みたいなかっこいい感じの曲もある。せっかくいろいろな種類の花があるのだから、桜ばかりテーマにしないでもっといろいろな曲を作ればいいのにと思う。「百万本のショクダイオオコンニャクの花をーあなたにあなたにあなたにあーげーるー」とかだったらすごい嫌な歌になって面白そうである。アニメだと花が擬人化されて、花のところに顔がついて喋ったりする。しかし木の場合は幹に顔がついていることが多い。たぶん花の茎は細すぎて顔を書き込めないという技術的な理由なんだろうと思う。●花と私私の父は植木が好きで庭にいろいろな木や盆栽があるので、私は男子のわりには花に親しんできた。特に実家のアベリアの生垣が好きで、くまばちがぶんぶんと蜜を集めているのをよく見かけた。私は藤の花も好きで、上杉神社の藤みたいに和風の建物のそばに紫の藤の花があると風情があってよい。藤の花があるところに行くとくまばちがぶんぶんと蜜を集めているのをよく見かけた。私とくまばちは好みが合うようなので、私はくまばちも好きである。もしミニロトが当たったら田舎の中古の家を買ってアベリアと藤を植えてくまばちの楽園を作ろうと思う。
2025.05.09
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