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雷門をくぐると、まずはずらっと長屋状に長く軒をつらねる仲見世がお出迎え。 写真に写っているだけではなく、裏手にも店が並んでいて現在は89店舗あるとのこと。「仲見世」の名称の由来は、雷門前の広小路とこの先にある仁王門との間にあったからだといい、元禄の頃、花川戸の住民に境内の清掃と引き換えに営業を認めたものが始まりだとされる・・・が、たぶんそれ以前から小さな屋台とかの類は周辺に集まって営業してただろうと思うんだよね。古くから人気の浅草寺だもの。それらを整理して境内清掃の義務を負わせるなどして整えたのが江戸中期なんじゃないかと個人的には推測します。明治維新の折にはさすがの浅草寺も寺領の没収は免れえず、仲見世は一旦立ち退きを命じられたあとで明治らしい赤レンガの洋風なものにリニューアル。が、関東大震災や戦災などでも被害を受け、その後復興。商売人のしぶとさ・・・あやや、たくましさを物語る仲見世の歴史ですが、まだ7時を過ぎたばかりのこの時間はどこの店も開いていない。店が開いてたら開いてたで色々見たくもなるだろうから、時間のない今回はこれでいいのだけど、江戸期の人々の娯楽の場でもあった寺の雰囲気を味わうには店が開いてる時間帯の方が望ましいだろうな。とはいえ、休日のオフィス街だとか普段人通りの多い場所が閑散としている中を歩くのは好きなので、これはこれで気分がいい。人が多ければイラつくのは目に見えてるし。それに、浅草寺仲見世には店が開いてる時には見られないものがある。 店舗のシャッターに描かれたこれは、平成元年にあの平山郁夫氏の指導によるグループが「浅草絵巻」と題して浅草の歳事を描いたものらしい。「いかにも江戸!」ってカンジの絵だけではなく、鎌倉期を思わせるような風雅な絵もあるので、人の少ない静かな門前街で絵を眺めながら歩くのもオツなもの。仲見世をずっと進んでいくと、左手に道がのびている↓。 ここには今も下馬札が立っている。馬でお越しの方はここで下馬してください。ここはそのまま正面へ進みます。伝法院通りは浅草寺の本坊・伝法院の敷地の南側に沿った通りで、敷地の東側は本堂へ向かう参道に面している。そこには浅草寺の歴史を語る文章や絵が並んでいた。浅草寺創建や檜前(ひのくま)氏については簡単に「将軍たちの宝(7)」で書いてますのでここでは解説の全文を紹介はしませんが、絵の方は少しご紹介していきましょう。 ガラスケース入りの絵なので、ガラスに映った後ろの建物も写りこんじゃってますが、これが浅草寺ができる以前の浅草を描いた場面。奥の方に広がっているのは今はなき千束池かな。この辺は今ではただの平地だけど若干の土地の起伏もあったらしく、水没することを免れた7つの小山が水面から顔を出している。そういう場所には古墳があり、浅草寺本堂裏手の熊谷稲荷の塚から出土したという石棺が現在も伝法院に保存されている。浅草寺のホームページでは、境内域から石棺が出土したことについて 【浅草寺のご本尊さまご示現以前において、浅草の地に有力な豪族が住んでいたことを 示している。】 (伝法院のページより)としている。さて、そういう古い歴史を持つ浅草でヒノクマ兄弟が観音様を曳き上げる↓。 個人的には、上記リンク先で紹介した塩見氏の創建についての推測もアリだと思うけどね。というより、その方が現実的だろうと思う。もちろん寺伝にケチをつける訳じゃないけど、浅草寺サイドでも檜前兄弟&土師中知の伝承以外にも 【そうした縁起とは別に、十人の童子がアカザという草で御堂を建てたという 伝承もあった。】 (現地解説板より)という文章を加えているし、十童子が草庵を作っている絵も並べてある↓。 絵の右下にちょこんと座っている坊さんが土師中知(はじのなかとも)ね。「無事故(645)で終わった大化の改新」の年に浅草寺を訪れて観音様を秘仏と定めた勝海(しょうかい)上人がいかなる人だったのかはわからない。でもまあ、公的な仏教伝来より100年ほど経ってるとはいえまだまだ日本仏教の草創期ともいえる時期のことだから、日本では「○○宗」というような明確な区分はなかった頃かもな。ちなみに、645年は仏法興隆の詔が布告されて、国家として仏法を奉じることが定められた年。浅草寺は国家仏教とほぼ同じ長い年月を歩んできた古いふる~いお寺でございます。さて、「将軍たちの宝」で浅草寺の歴史に触れる以前にわたくしは寛永寺シリーズで浅草寺に親近感を持ちました。現在の浅草寺は「聖観音宗」の大本山。これは昭和25年からで、じゃあその前はというと天台宗なんだな。「上野第二編(16)」でイエアスが入府した頃に菩提寺と祈祷寺の選定についての『落穂集』の話を紹介しましたが、浅草寺が天台宗だったことを知って自称・大乗なら天台!!のわたくしは急に浅草寺をぐっと身近に感じるようになりました。戦後になって天台から独立して聖観音宗を打ちたてた訳だけど、ぶっちゃけそんなものどーだっていいです。天台の歴史の方が長いし、わたくしの中では今でも浅草寺は天台宗です(勝手に・・・)。そもそもが何宗だったのかもわからないし、はっきりナントカ宗から天台宗へ改宗したと言っていいのか、いつ名実ともに天台宗となったのかなど詳しいことはよくわからんのだけど、少なくともこの時点からは天台宗寺院と言えるでしょう↓。 天台座主第3代の慈覚大師円仁さんの登場です。円仁さんが座主となる頃の話については「叡山攻め(81)」でも少し触れてますが、叡山のトップという立場にあった円仁さんが訪れたという寺はかなり多い。それだけで1冊の本ができてしまうほど多い。 記事はまだアップしてませんが、「叡山攻め」の後、再び叡山に行きましてね。「叡山攻め」の時はオフシーズンで泣く泣く下界に宿を取りましたが、再訪した時は念願の宿坊に泊まってきました。荷物を送る手配をしてチェックアウトしようとした時、「あっ、ちょっと待って」と言って奥に引っ込んだ延暦寺会館のおじさんが戻ってきた時手にしていたのがこの本。これを気前よくタダでくれるというので、「えっ!いいですよ、そんな・・・てか、これどこにあったんですか?」「いや、なんかあったから・・・こういうの、好きかなと思って」「好きですよ~、大好き!!うわあ、いいんですかあ~」・・・とちゃっかりもらってきたので今わたくしの手許にあるワケですが、チェックインの時わたくしはぶりぶり怒っていてチョ~態度悪かったので、おじさんはカンジの悪い客をなだめようと色々勧めたりしてくれた。ので、これもその一環だろう・・・手に入れたい方はこちら↓。【楽天ブックスならいつでも送料無料】慈覚大師円仁と行くゆかりの古寺巡礼と、それはともかく、この本の表紙には「ゆかりの550社寺」とある。550だってよ!!国内だけでもゆかりの地といわれる場所は沢山あるのに、その他唐にも渡って沢山の苦労をしてきてるんだから、強靭な肉体と精神力、それと運がなければこれほどの伝承は生まれ得ません。で、その円仁さんは浅草寺で何をしたかとゆーと、絵の中で光輝く仏像を彫ってますね。勝海上人が観音様を秘仏と定めた後に浅草寺を訪れた円仁さんは、もうお目にかかれなくなった観音様の御前立(おまえたち)を彫ったとされます。もっとも、現在ではその御前立も秘仏化しているようなんだけど、1年に1回、年末の煤払いの翌日の法要の時だけは御開帳となるんだそうな。いくら御利益のあるありがたい観音様とはいえ、まったくそのお姿が拝めないんじゃ参拝した善男善女もテンション下がる。パンピーにはやはりビジュアルに訴えるものが必要だと考えたのか、「柳の御影」という観音様のお姿を彫った版木も円仁さんが作ったとされる。そのほか、円仁さんが将来したという伝承を持つ仏具も数点伝えられているんだそうな。これは写真で見ると密教法具のようで、円仁さんが持ち込んだものでなかったにせよ確かに浅草寺が天台宗として歩んだ歴史のかほりを匂わせている。そういう事蹟を遺した円仁さんは、浅草寺において中興開山とされる。現地での解説板ではこのあたりを 【版木が作られたことは、参詣者が増えてきたことを物語るのだろう。】としているけど、わざわざ中興の開山として今でも尊崇しているんだから、観音様が秘仏とされてしまったことによって一時は客足も遠のいていたのを、庶民向けの施策を円仁さんが打ち出したことで再び呼び戻してその後の発展の基礎を築いた、という風に考えることもできると思う。さて、円仁さんより100年近く後になると、また強い味方が登場する。 【平公雅(きんまさ)堂塔伽藍を建立 平安時代中期、天慶5年(942)安房の国守であった平公雅は京に帰る途次、 浅草寺に参拝した。その折、次は武蔵の国守に任ぜられるように祈願した処、 その願いがかなったことから、そのお礼に堂塔伽藍を再建し、田地数百町を 寄進したと伝える。その伽藍に法華堂と常行堂の二堂があったことから、 浅草寺が天台宗の法の流れに属していたことが知られる。】 (現地解説板より)平氏の簡単な略図については「将軍たちの宝(9)」などでも載せていますが、その系図には書かなかったものの平の姓を賜った高望王の子に良兼という人がいて、良兼の子が公雅。つまり、平将門のいとこにあたる方のようです。ウィキペディアによると、公雅さんが安房守となったのは将門の乱のあとのことで、乱によって浅草寺も荒廃していたのだという。ウィキではさらに 【天慶8年(945)の3月18日に公雅の枕元に観音様が立ち「この沖合に生ずる青、赤、 黒三通りの海草を食すれば、無病開運、来世は必ず仏果を得べし。」 と告げたので、 教えの通りにそれらの海草を集めて食してみたところ、非常に美味しくて体にも 良いことから「観音様の法(のり、教え)だから『浅草のり』だ」と評判になったという 伝説も知られている。】という愉快な伝承も紹介している。いや、浅草海苔はともかく、ここはやはり公雅さんが再建した中に法華堂と常行堂があったというのが目をひくよな。寺院の規模にもよるんだろうけど、天台宗ではこの2つのお堂はセットになってるからね。(「叡山攻め(111)」やその次あたり参照)浅草寺のホームページには年中行事の一覧も載ってるんだけど、正月の修正会(しゅうしょうえ)に始まり、中興開山である円仁さんの命日には「慈覚大師忌」の法要が行われ、日本天台宗開祖の最澄の命日には叡山と同じく法華八講が行われ、10月には「十夜会」として常行三昧があり、中国天台宗開祖の天台大師・智ギ(ちぎ)の命日には「霜月会」としてこれまた法華八講が行われるんだそうな。(「叡山攻め(62)」などなども参照)しかも、これまでまったく知らなかったけど、1月3日の元三の日には・・・長らくの読者様にはもうおわかりですね。元三(慈恵)大師・良源さんの命日であるこの日は、ぬわんと浅草寺でも良源さんの徳を讃える「元三会」の法会を行うんだそうな!!これ、過去の話じゃなく現代の話です。ちょっとネットで検索してみると、『浅草寺って天台宗なの?法要のスタイルも天台宗と同じなんだけど』なんてのが見つかるので、聖観音宗独自の法要も当然あるものの、古くから引き継がれてきた法要などは天台宗形式で行われているようです。円仁さんは中興の開山だからまだわかるとして、智ギや最澄、さらには良源さんの法要まで聖観音宗本山寺院が行っている・・・その上ホームページでは、「円仁さま」「最澄さま」「天台大師さま」と表記している。もちろん、わたくしの良源さんも「良源さま」となってます。延暦寺会館のおじさんにもらった本には、 【(浅草寺の)境内で円仁を見かけるのは、宝蔵門の手前、浅草寺幼稚園を過ぎた 参道左手にある絵説きの浅草寺縁起ぐらいだろう。】とある。確かに、ハード面ではそうかもしれない。でもソフト面をちょいと覗けば、今でも天台カラーがムンムンしている。浅草寺の宗派なんかどうでもいい?ま~、たいていの人はそうでしょうよ。でもわたくしにはテンションがチョモランマよりも高くなる重要事項なのだああ、浅草寺の元三会ってどんなだろ・・・でも浅草寺の元三会は伝法院でやるらしく、普段伝法院は一般公開していないので元三会も見られない可能性のが高そうだなそういえば、寛永寺の元三会にもまだ行ってないんだっけ。今年は行こうかと思ってたんだけど、すぐ後の連休のお出かけの準備で忙しかったから行くのをやめたんだよな。叡山横川の元三会も狙ってはいるんだけど、前回横川を訪れた時はちょうど四季講堂で良源さんのバースデーパーティーが行われる前日でね。「叡山攻め」の時と同じく参拝客はいなかったけど、翌日の準備で大わらわなのが門をくぐった直後からわかった。普段は静かな四季講堂が、ご住職らしきお坊さんまで総出でワイワイやっている・・・もうまともな参拝すらできないような状態で、良源さんを愛してやまないわたくしですから重要な法要だってのは十二分にわかってはいるんだけど、やっぱイベント嫌いだ~と心の中でぶつくさつぶやいたのも事実。時間が経った今となっては、もはやそれも懐かしい記憶ですが。にほんブログ村
2016年11月18日

都合により、ガイジンとの座談会を一旦中止してあげやすいものからアップしていきます。これは約1年前の日帰りのお出かけで、寛永寺から法要への参加のお誘いをいただいたので出かけていったものです。<2015年11月28日(土)>はれせっかく柏のイナカから都内まで出かけていくのだから、ついでにどっかへ寄りたい・・・とはいえ、時間を有効に使うには寛永寺のあとでどこかへ行くよりも法要の前に先に「ついで」を済ませてしまう方が都合がいい。(↑連休でもなんでもないフツーの土曜日だからあまり長居したくない)朝の早い時間ならまだ人も少ないしな。どこへ行こうかと色々考えて調べたところ、浅草寺が早い時間から開いていることを知った。観光寺院て拝観時間は9時スタートってところが多いけど、中にはかなり早い時間から拝観できるところもある。以前TVで「京都の穴場」的な番組を観た時、清水寺のスタートが早いというのをやっていて驚いたもんです。浅草の浅草寺にはもちろん行ったことはあるけど、「ただ行った」だけなので、仏教や建築に興味を持ってからあらためてあの有名なお寺を拝観したいと思ってた。が、都内で手軽に楽しく参拝できる人気の浅草寺とくれば、日本人のみならず世界中からやって来たガイジン達もわんさか集う。TVに浅草寺が映るたび、群がる観光客の多さに「うわ~、行きたいけど無理!!」と毎回思っていた。でも朝早い時間なら仲見世も開いてないし、ゆえに昼間よりは人は少ないだろう・・・この時期の浅草寺の拝観スタートは6:30で、寛永寺の法要は10時から。法要の前には何か食べておきたいし、移動の時間を抜いても浅草寺には2時間から2時間半ぐらいは取れる。仲見世での買い物は考えなくていいし(まだ店が開いてないから)、そのぐらいの時間があればまあ何とかなるだろう。ということで、寛永寺に行く前にちゃちゃっと浅草寺見学をこなすことにした。わたくしが浅草寺に行きたかったのは、仏教や建築面のほかにもうひとつ理由がある。この頃は「将軍たちの宝」を書き始めて間もない頃で、浅草についても少し触れたから。(「将軍たちの宝(7)」あたり参照)浅草といえば浅草寺のイメージが強すぎてあまり「歴史」を考えることはなかったけど、塩見鮮一郎氏をして「江戸は浅草があってはじめて成立したといってもいいすぎではない」と言わしめた歴史を感じたいと思ったのだ。して、色々と準備をして朝早くに家を出た。柏から浅草に行くには上野を回っていくか、もっと手前で京成に乗り換えるかの2つのルートがある。この日は久々に京成に乗って浅草へ出た。着いたのは7時頃。ここからはさすがにスカイツリーが近い。 古い人間のわたくしには、浅草駅前といえばスカイツリーよりも金色のウンコの方がずっとおなじみなんだけど、ここからはちょうど木のかげになってお尻の部分しか見えない知らない方のために一応書いておきますと、スカイツリーの横に映っている黄色いビルがアサヒビールの本社で、その横の低い建物の屋上にデカい金のウンコがでーんと載っているのでございます。ビール会社のオブジェだから、あのウンコはビールの泡を表現していると聞いてたんだけど、あらためて調べてみるとビールの泡ではなく(もちろんウンコでもなく)燃えさかる炎を表現したもので、アサヒビールの心の象徴なんだとか。しかもデザインしたのはフランスの著名なデザイナー、フィリップ・スタルク氏だというんだからオドロキ・・・色といい形といい、ウンコにしか見えないんだけどえ~、ウンコはともかく、浅草駅は大川(今は隅田川という)のすぐ近くにある。両国のあたりも大川端は整備されてたし、浅草なら川沿いにベンチとかの休憩スポットもあるだろうと思って、確認しに一旦大川に出てみた。浅草寺を見終えたら寛永寺に行く前にどこかで腹ごしらえをしたいんだけど、大川端に休憩できるようなところがあればパンか何かを買って水辺で食事を摂ろうかと思ったのだ。が、駅周辺ではあいにくいい場所は見当たらなかった。ちょっと歩けば見つかったかもしれないけど、今日はそんなにのんびりしている訳にもいかない。仕方ない、大川を眺めながらのランチは諦めるしかないな・・・それで、向きを変えて商店街を歩き出す。 まだお店の開く時間じゃないので、さすがに人は少ない。少し歩くと、前方でガイジンたちが写真を撮っていた。 あ、ここのようだな。浅草寺に行ったことがあるとは言ってもかなり以前のことで、しかも数えるほどしか行ったことはない。当然今とは全然視点も違うし、ゆえに「初めての経験」と何ら変わることはない。それで、ガイジン達のところまで歩いていってみると、浅草寺に行ったことのない人にもすっかりおなじみのあの門があった↓。 【雷門(風雷神門) 天慶5年(942)、平公雅(きんまさ)によって創建されたのが始まり。 門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」 と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を 打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、 左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺の護法善神として、伽藍守護・ 天下泰平・五穀豊穣の守り神とされる。 現在の門は、慶応元年(1865)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和35年 に松下幸之助氏のご寄進により復興された。浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、 また、東京・浅草の顔として全国的に有名。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)という訳で、パナソニックの松下氏による鉄筋コンクリート製の再建門。古くはこの場所ではなく、もっと南の駒形にあった門で、火災による焼失と再建を繰り返して慶応元年の焼失以降約100年再建されなかったのが、昭和に入って新しい浅草寺の顔としてお目見えしたもの。ウィキによると、「浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したもの」なんだそうな。雷門のシンボルがデカい「雷門」の赤ちょうちんだけど、これも松下電器産業からの寄贈。浅草寺の裏にある浅草神社の祭礼「三社祭」と、台風の時以外には畳まれないというツワモノのちょうちん。ま、これが開いてないと雷門てカンジがしないしな。しかし、10年に1度はこのちょうちんが姿を消す。ちょうちんの張り替えの時には実物に代わってちょうちんの写真のシートが架けられるそうで、2013年の張り替えの時には約2ヶ月シートが代役を務めたらしい。その張り替えも松下が受け持つんだそうな。重さが700kgもあるそうだから、張り替えも大変だろう。雷門の焼失は江戸期の火災によるものだけど、その他にも浅草周辺も確か東京大空襲とかの戦災にあってるし、都内の寺院に再建の伽藍が多いのは致し方ない。もちろん古建築が残ってればベストだけど、再建された建物でも面白いものはある。湯島天神の蟇股群なんか見応えあって写真撮りまくりだったしな~。火災といえばわたくしの食いつきポイントですが、雷門の前の道は「浅草広小路」だそうな。明暦の大火の後、各所に火除地としての広小路が作られたと「本所Wデビュー(28)」で紹介しましたが、たぶん浅草の広小路もこの一連の流れの中で作られたんだと思う。明暦の大火では浅草も本郷から出た第一陣の火によって被害が出ているけど、浅草寺までは届かなかった。保科正之が噂で聞いた浅草門付近の大勢の大火の犠牲者というのは、浅草寺より南の浅草橋にある見附の門を閉め出された人達のことで、罪人が脱獄したという誤報を受けて浅草門が閉じられてしまったので、逃げ場を失った市民がそこで多く犠牲になったと言われている。ちなみに両国・下谷(上野)・浅草の3つの広小路を「江戸三大広小路」とも呼ぶらしい。でもそれぞれが回向院・寛永寺・浅草寺という大寺院の門前にあって賑わった場所なので、繁華街という意味合いの「三大」だろうと思うんだけど。では、広小路に面した風雷神像から紹介していきますか。あみあみのフェンス越しなのであまり映りはよくないですが、まずはこちらが向かって右側の風神様↓。 こちらが雷神様↓。 風神と雷神の門だから「風雷神門」が正式名称なんだけど、江戸時代から「雷門」と呼ばれていたらしい。で、これが赤ちょうちんの下面で↓ 龍だ・・・立体的な彫刻が迫力ある。門をくぐって歩いている時、脇にこんなものがあるのが目に入った↓。 おお~、デカい寄進をするとこうやって名前が残せるんだな。そもそもわたくしがこの日寛永寺に招かれたのも、微々たる寄進のゆえだし。 さて、門の裏側にも2体の像がある。説明文の通りならば、向かって右側のこちらが「金龍」だろう↓。 おや、なんだか端正なお姿・・・護法善神としてはいいビジュアルだけど、なんでこれが龍?と思ったら、 光背にで~んと龍が描かれていた。それに、脇から見ると うしろの着物の裾からにゅきっと持ち上がっているものがシッポに見えなくもない。(ホントに尻尾かは不明です)そう思って見てみると、金龍が左手に持っているボールは龍の持つ宝珠なのかもしれない。で、こちらが向かって左側の「天龍」↓。 こちらは無表情の金龍と違って、武張ったスマイルがチャーミング↓。光背に龍を背負っているのは金龍と同じ。 金龍と天龍の像は開帳1350年を記念して彫刻家の平櫛田中氏が制作したものだそうな。そもそも浅草寺の山号は「金龍山」。寺伝によると、御本尊の観音様が現れた時、金龍が寺の周辺で舞うと一夜にして千株もの松林が生じたという伝承がある。現地でもらってきたチラシによると浅草寺には3つの寺舞(じまい)があるそうで、 3つのうちの1つが「金龍の舞」。 (チラシより)これだけ見ると中華街かおくんちかってカンジですが(笑)、昭和33年の本堂再建を記念して始められたのがこの舞だそうで、参詣の際にまずくぐる雷門から龍づくしは始まっております。にほんブログ村
2016年11月05日
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