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天守台を降りて正面側から天守台を見たところ↓。 前回の動画に映っていたように、側面には火災で被害を受けたと思われる石も使われているものの、正面側は綺麗に整えられている。あの焼けた石が明暦の大火の遺物なのかはわからない。ただ、天守を再建するつもりで天守台を修復したんだから、おそらく助役を務めた前田綱紀は天守台を綺麗に再建しただろう。小さい櫓レベルのプチ天守ならともかく、江戸城は首相官邸と国会議事堂を一緒にしたようなもの。日本一の天守を再び支える土台には当然しっかりしたものが求められる。外観の問題もあるしね。だから、今天守台に残っている焼けた石は幕末の火災でダメージを受けたものだろう。というのも、 (現地解説板より)天守台は南面(正面側)と東面を大奥に囲まれているのだ。大奥が火に包まれればすぐに飛び火するような位置に天守台はある。現在の天守台だけを見ると、さすがの妄想の得意なわたくしでも頭の中だけで天守台の上に巨大な上屋を立体視することは難しい。高さの目安になるものはある。両国の江戸東京博物館だ(「本所Wデビュー(8)」参照)。ただ、高さは同じでも江戸博と江戸城天守台とでは床面積の規模が違いすぎるので、やっぱりありし日の天守を思い描くのは難しい。この天守台に江戸博の高さの上屋を置くと、アスパラのようにひょろ長い建物になる気がするけど『歴史散歩 江戸と東京』(堤紫海/文化総合出版)によると、明暦の大火の後で前田綱紀が天守台を再建した時、罹災したもとの石垣は掘り起こして土中の基礎部分に使用し、地上の石垣はすべて築き直したという。江戸城には奇怪な話やら数々のエピソードが伝えられているが、天守にまつわる話もいくつかあり、同書によると前田綱紀が天守台を再建した 【この工事のとき、天守閣下の穴蔵に貯えてあった金銀の塊がたくさん出てきた。 これを拾い集めて、本丸倉庫に運んだものが、かますに何千俵もあったという。 しかし、土にまじった砂金や、火勢に溶けた金銀もあって、それを一々拾っている 余裕がなく、そのまま土中に埋めて、工事を急いだといわれる。これが本当であれば、 天守台の下には今でも金銀の塊が埋まっているはずである。宮内庁の役人に、 「発掘の計画はありませんか?」と聞いたら、「掘ったら石垣が崩れます」という ことだった。】だそうな。でもな~、天守台再建当時は数多くの被災者の救済をはじめ、江戸市中の都市改造計画、本所の大規模新興住宅地開発など、カネはいくらでも欲しいところ。「まだ金が残ってるけど、全部拾ってたら工事が遅れますう~」「だったら、ごっそり土を掘って脇によけとけ!落ち付いてからより分けたらよかろう!!」・・・てなんないのかな~って気もするのですが、それは貧乏人の発想でしょうか・・・ところで、江戸城に天守を再建しようというNPOなどがあることを前の記事のどこかで書いた気がしますが、イエアスの入府(天正18年:1590)から開城(慶応4年:1868)までの徳川278年の間、江戸城に徳川の天守が存在していたのはたったの50年間。堀端の石垣を除いては、皇居東御苑の観光客が立ち入れるエリアの中で江戸城時代の建造物というのは実に数が少ない。歴史ファンならともかく、一般の観光客にとってはやはり目に映る建造物というのが「観光スポット」で、ゆえに天守台にも多くの人が集まる。東京オリンピックも控えているし、江戸城に天守が再建されれば確かに観光客を引き寄せる「ウリ」にはなるかもしれない。いちおう、徳川時代に再建を検討していた時期もあったから、天守の図面は残されていてね。どこまで復元するかという問題はあっても、カネと時間とやる気さえあればそれなりの天守を再建することは可能ではある。天守がそれなりの期間、江戸城にそびえていたのなら色んな意味で再建にも意義があると言えるかもしれないけど、現実には5分の1にも満たない期間しか存在していなかった。しかも、廃止を決定したのは天守より都市と庶民の生活の再建を優先すべきという、当時の幕府首脳部の判断だった。ぶっちゃけ、こういう歴史を持つ天守をいま再建することにわたくしは何の意義も見いだせない。それより、どうせカネをかけて江戸城址の存在感を高めようというのであれば、歴史的な意義からすれば御殿を再建した方がいいように思う。なんたって、ここで長いこと国家の舵取りが行われてたんだからね。まあ、天守より御殿の再建の方がはるかに高くつくだろうけど(笑)。別に、天守再建を目指す方の考えをバカにする訳じゃないんですが、上屋のない天守台だけの方が江戸城と江戸の歴史をしのばせるにふさわしいんじゃないかとわたくしは思うのですよ。その方が、権威よりも実を取った当時の首脳部に敬意を表することにもつながるような気がしてね。さてね、皇居東御苑最上段の本丸エリアは現在こうなっている↓。 薄いグリーンの部分がだいたい園地で、右はじのオレンジの建物を含むちょっと濃いグリーンの部分は宮内庁エリア、で白が遊歩道。右上にある天守台を降りると、前方には大きな芝生の園地が広がる↓。 本丸エリアのど真ん中にある「本丸大芝生」は2つに分かれている。どちらもかなり大きいもので、地表から見るよりも前回の動画の最後の方がいくらか高い所から撮ってる分、見やすいとは思いますが、それでもほとんど手前側の大芝生しか映っていない。黄色で斜線を引いた大芝生のうち、右3分の2から宮内庁エリアまでが大奥。左3分の1から通路あたりまでが中奥。ピンクの斜線の大芝生を含む本丸域の左半分ぐらいが表で、大体の位置を想像しやすい造りになってます。この頃にはもう14:30近くて、歩きながらちょいちょいおやつを食べてきたけどもう限界。しかし、ここで昼メシを食べたくて我慢してきたのだ。予定ではこの頃には家路につきたかったんだけどな。しかし、やっぱり生クリーム入りのシャインマスカットのフルーツサンドを買わなくて正解だった。で、黄色の斜線の大芝生に入って天守台の見える位置で座れる場所を探したけど、なにしろ10月の快晴のサワヤカな陽気で、しかも大芝生はとても広いので、沢山の人が思い思いに憩っていてガキどもも走り回っている。静かに浸れる場所はないかと探した結果、赤で★を付けた場所に腰を下ろした。天守台から遠い分、人も少なかったのでね。ま、遠いといってもちゃんと天守台は見える。ので、天守台の方を向いて昼メシ開始。半分食べたところでガイジンの彼氏を連れた姉ちゃんがやってきた。「邪魔すんな、あっち行け!!」とわたくしが心の中で一心に念じていたことは言うまでもない。しかし、彼等は英語で相談したあと、わたくしと天守台の間に割り込んで座った。見ると、2人とも明らかに東御苑外で買ったコーヒーショップの飲み物を持参している。そして、わたくしのすぐそばに座って仲良くおしゃべりを始めた。もちろん、天守台なんか見ちゃいねえ。わたくしがせっかく人のいない静かな場所に落ち着いて萌え~し始めると、なぜかいつもこうやって邪魔が入る。歴史ファンならともかく、わたくしの幸せタイムを邪魔するのは決まって明らかに歴史に興味のない輩なのだ。どうせ見ちゃいないんだから彼等はどこにいたっていいハズなのに、なぜかわたくしのすぐそばで関係ない話で盛り上がってるのだ相手がカップルだからって、別に嫉妬してる訳じゃないですよ。でもウザかったのは事実で、引き続き天守台を眺めるとこちらを向いている欧米人の彼氏と向き合ってしまうので、残りのおにぎりは本丸の大きな御殿図を開いて眺めながら食べました。御殿図によると、わたくしが座っていたのは上御鈴廊下の中奥側の手前あたりで、幕末頃には舞台のあった場所らしい。能舞台は表にもあったけど、ここは中奥だから将軍専用の舞台だったのだろう。大奥でも女性だけの能や狂言のイベントが行われた。が、御殿図を見る限り、少なくとも幕末の大奥には常設の舞台はなかったらしい。ので、イベント時のみ特設の舞台がしつらえられたか、庭などの野天で行われてそれを御殿の方から見たりしたのかもしれない。にほんブログ村
2016年04月26日

少々人生に疲れておりまして(←単に体調が悪いだけ)、今回はちと雑談なぞ・・・熊本城は見るも無残な状況になっていて、地震の少し前に「熊本城、行きて~な~。次の夏休みで行っちゃおうかな~。でも夏の九州なんて暑いしな~」なぞと考えていたわたくしは大ショック・・・まあ、昔一度だけ行ったことはあるんですが、ホントの観光だったもので、お城ファンとして天下の名城をもう一度訪れたいと思ってたとこだったんだよね。しかし、自然災害はどうしようもない。もう少し落ち着けば城の復興の募金なども受け付けるでしょうから、せめてそれで協力するしかありませぬ。史跡を守り伝えていくのは歴史ファンの使命ですから。んで、今回のテーマ「一休さん」ですが、一定の年齢以上の人なら誰でも一度は観たんじゃないかという、往年の名作TVアニメ「一休さん」のことです。これを、第1話から観始めましてね。今、10話まで行ったとこ。ちょっと前に何となく思い出して、母親に「しんえもんさんて何者なの?」と聞いてみたところ、「あの人は将軍さまの命令で一休さんを監視してたのよ。それがそのうち、一休さん寄りになっちゃってねえ~」という答えだった。何しろわたくしが観ていたのは子供の頃で、「しんえもん」さん(蜷川-にながわ-新右衛門)は「みながわし~えもん」さんだと思っていたぐらい、何も知らず何も考えず素直に子供らしく観ていた番組。新右衛門さんと一休さんが仲良かったことぐらいは覚えてますが、そんな設定があったとは露知らず、ちょっとオドロキでした。えっとそれで、2~3日前にふと「一休さん」のことを調べてみたらなんかすごい設定になっとる・・・しかも、わたくしの記憶にない「末姫さま」という新右衛門さんの憧れのお姫様は、ぬわんと大内家のお姫様だという・・・えええ~、「一休さん」に大内のお姫様が出ていたなんて~!!ここから、俄然興味が湧いてきて、「一休さん」を初回から観ることになったのですが、初回のしょっぱなからオドロキの連続でした。一休さんやさよちゃんがお掃除などの作業中によく歌う歌、 か~ねがゴーンと鳴りゃカラスがカアがまず最初に出てきて、「おお懐かしい~」と思っていたら、その次の歌詞に耳を疑いました。 い~くさに焼~かれてお~寺はボウ! そ~れでも坊さんへ~いきな顔してな~むさんだあ・・・は?今、なんとおっしゃいました?戦に焼かれて・・・?しばし凍りついたあと、すぐこの歌詞を調べました。あるいはわたくしの聞き間違いじゃないかとも思ったのですがやっぱり、 鐘がゴーンと鳴りゃカラスがカア 戦に焼かれてお寺はボウ それでも坊さん平気な顔して南無三だあ つるつる頭にゃ毛がないね 毛がないねが正式な歌詞だそうな。「一休さん」の設定をあらためて紹介しますと、主人公の千菊丸は後小松天皇の庶子として生まれるが、母「伊予の局」が足利家に敵対した南朝方の家の出だったため、将軍家の命によって千菊丸は幼くして母と別れて貧乏寺の安国寺で出家し「一休」と名乗った。が、いつ南朝方から担がれるかわからないので将軍・足利義満は寺社奉行の蜷川新右衛門に命じて一休の監視をさせた、というもの。南北朝の争いについては、関東の動きを中心に連載中のシリーズの旅日記の方で簡単に紹介をしましたが(「将軍たちの宝(14)」~「(19)」あたり参照)、義満の頃になると南北朝および足利家内での争いもおおむね収まった。が、まだ熾火は残っており、戦の舞台となった京の傷跡も深い。アニメ「一休さん」はそういう時代の物語で、なかなかリアリティーのある設定です。もちろん、上の歌(正式名称:「鐘がゴーンと鳴りゃ」)は本作のオリジナル曲ですが、南北朝直後の世相を反映した歌だな~と衝撃を受けました。しかも、こういう歌をさよちゃんが高い甘ったるい声で歌うと、現実の歴史を知る人間にとっては頭を抱えて悶絶するほどの重みがあります。そもそもさよちゃんて近所の子供かと思っていたら、戦災で両親と死に別れ、他の孤児たちと一緒にいたところが運良く実のジイちゃんが見つかったので安国寺の寺男をしていたジイちゃんに引き取られて安国寺で暮らすようになったという設定。そういう暗い過去を背負った少女が、元気に戦災を暗示する歌を歌っているのだ。今泉みねが「子供でもコトンとも言わさず静かに死ねます」と言った江戸期もすごいと思ったけど、激動の南北朝を生き抜いた子供もすごいと心に鉄槌を打ち込まれたような衝撃を受けました。ちなみに、この歌には2番もあるらしく、 鐘がゴーンと鳴りゃからすがカア 坊さん修行は掃除に座禅 短い命でみっちり勉強南無三だあ あしたじゃ遅いぞきょうをよむ きょうをよむだそうな。「きょうを読む」は「今日」と「経」をかけとるのか・・・なかなか深いな、と脱帽しました。だいたい、子供向けアニメで「短い命」とかあまり使わんしな。衝撃を受けたのは歌だけじゃない。おそらく後期になるとそれほどでもないんだろうけど、初期は子供向けのほのぼのした話題の中に、どシリアスな内容がばんばん出てくる。そういう話が出てくるたび、「うっそおお~、子供のアニメでこんなのやっていいのかあああ~!!」と悶絶します。第10話までの仰天のシリアス話は、「将軍さま」がいよいよ一休さんと初体面する第5話、将軍さまは新右衛門さんに評判のとんち小坊主の顔の下に自分に敵対するような意思を持つようなことがもしわかったら、その場で首をはねてくれるわ!と言い放った。新右衛門さんも驚いてたけど、わたくしも驚いた。これは母上さまの決死の応援と一休さん自身の機転によって、将軍さまと仲良くなることに成功してピンチを切り抜ける。そういう一休さんを見て、新右衛門さんも一休さんを見直すようになる。6話では南朝方・楠家に仕えた千早六蔵という武士が一休さんを迎えに来る。六蔵をアヤシイ奴と見た新右衛門さんは六蔵をマークするが、六蔵は一休さんをなんとか南朝方の武士に仕立てあげようと説得する。一休さんは拒絶し、和尚さんももちろん反対するが六蔵は諦めない。安国寺の兄弟子・哲斉(てっさい)は新田家ゆかりの家の子で、足利家を憎み、いつか還俗して武士になろうと夜中にひそかに武芸の稽古をしていた。哲斉と知りあった六蔵は喜んで迎えるといい、できれば一休さんも連れてくるよう哲斉を説得する。一休さんが帝の子だと知った哲斉は悩むが、自分一人で行くことを決意し、托鉢の最中に出奔する。哲斉の様子がおかしいと気づいていた一休さんは哲斉を止めようとついていくが、待ち構えていた六蔵と新右衛門さんの立ち合いを阻止しているうちに六蔵とともに哲斉は消えてしまった・・・第9話では、正月に和尚さんと一緒に桔梗屋でごちそうになった帰り道、橋の下に住む人達の小屋を武士が無情に破壊する場面に出会う。その翌日、将軍さまが橋を通るので、道中にあるめざわりな物はすべて撤去するよう新右衛門さんが配下に命令したものだったが、橋の下に住む人達は戦災で家をなくして行き場のない人々だった。何もしてやれないまま安国寺へ戻ると、先ほど追われていた人達が風をしのげる寺の門前に集まってうずくまっていた。寺の本堂へ彼らを招き入れたものの、安国寺は貧乏で彼らに提供できる食べ物がない。その中には、さよちゃんが祖父に引き取られる前に一緒にいた少女も含まれていた。一休さんは一計を案じて桔梗屋などの金持ち商人から援助物資を引き出すことに成功し、山ほどのおにぎりを抱えて寺に戻るが、そこにはわずかな人数しかいなかった。どうやら、これから始まる戦のために武士がやってきて、食べ物をエサに男は兵士に、女は飯炊きにするために連れていってしまったらしい。戦のために焼け出されて戦を憎んでいるのに、どうして!と憤り、自分の無力さに悔し涙を流す一休さんだった・・・ウィキペディアには 【1960年代末に日本の民話をアニメ化する企画がこのアニメの原案である。その際、 他の物語が数案あったが、最終的にこの物語に決定した。しかし、衣装の古さや仏教色の 強さなどから、作品が日の目を見るには、本放送期間並みの年月を要することになった。】とあるけど、さもありなん。衣裳は「着物」と言われてフツーに連想するあの着物じゃなく、室町の装束。新右衛門さんは裃なんか着ないし、義満は烏帽子をかぶって置き眉をしている。一休さんの美人の母や桔梗屋の弥生さんは結髪じゃなく垂髪。そして、舞台は寺。一休さんのモデルで実在の人物・一休宗純は臨済僧なので、安国寺も禅宗という設定だと思うんだけど、堂内や小僧さんたちの生活の場などもそれなりの考証がなされている。ただ、少し前に初めて臨済禅を体験したわたくしには、安国寺の座禅は曹洞宗スタイルっぽい気がしないでもないけど、わたくしもシロートなもので余計なツッコミはやめておきましょう。曹洞宗の禅は「ひたすら座禅」がおおざっぱな特色で、臨済宗は「公案」・・・いわゆる「禅問答」も使う。「一休さん」の中でよく出てくるそもさん!(什麼生:さあ、答えられるか?)せっぱ!(説破:おうよ、答えてやるぜ)で始まる数々の問答は、公案をもじったようなものなのかと妙に納得しました。もちろん、子供向けアニメなので番組内ではなぞなぞといった程度ですが。ただ、各設定は気軽にアニメ化できるような内容でもないので、歴史ファンの視点であらためて観るとなかなかの意欲作だったんだな~と感心しました。桔梗屋さんが贈り物を持って寺にやって来た時、小坊主の一人は「1つ贈り物をするたび、極楽に一歩近づけると思ってるんだからやんなっちゃうよ」と言っていて、さりげなく仏教的な内容も盛り込まれてるのにはマジ驚きました。ウィキによると当初の放映期間はかなり短かったようなのに、難しい時代・題材を扱って長寿の人気番組に仕立てあげたんだから、大したもんです。まあ、室町当時に寺社奉行は存在しなかったとか、一休宗純が少年の頃には将軍は義満じゃなかったとか史実とは違う点もあるようですが、そこはフィクションだからね。わたくしの母親も、「再放送、やらないかしらね~」と言ってました。わたくしも今のところ、アマゾンで金を払って観ている状態で、しかも全話配信されていないようなので、タダで観られる再放送を願ってやみません。大人の鑑賞にも充分堪えられる、深いアニメです。てか、大人が歴史や仏教の知識を持って真面目にじっくり観る方が、このアニメの良さがわかるかもしれません。どう、観たくなったっしょ?にほんブログ村
2016年04月23日

そのまま進行方向へ進むと、右手にこの門が現れる↓。 北桔橋門(きたはねばしもん)といい、大門六門のひとつ。今回は行かなかったけど、これを出ると北の丸。太田江戸城ではここが大手だったとされる。かつてはその名の通りのはね橋だったようで、皇居東御苑と皇居を結ぶ橋も「西桔橋」という名を残している。ツュンベリーは第1回めの参府の際、 我々はかなりの時間、町中を運ばれて将軍の住まいの一角に着いた。そこは水を湛えた 濠と石壁に囲まれ、はね橋で分割されていた。と書き留めているが、カピタン一行の定宿から登城する場合、このあたりは通らないと思うし、この後の記述から考えても上の記述の時点ではまだ内郭に入っておらず、しかもその後大手門から登城したような記述になっているのでツュンベリーの頃には北桔橋や西桔橋以外にもはね橋があったものと思われる。現在では写真の通り、小さな高麗門が残るのみだけどかつては外枡形で、留守居与力・同心が警備を担当したそうな。ちなみに、この門の屋根にはなぜか菊がある↓。 近代に入ってから修復でもあったのかな。さて、北桔橋門にくるりと背を向けて進行方向を左に変えると、これがある↓。 ようやっと天守台に到着です。さすがにデカい。ま、日本一のデカさを誇る三原城の天守台よりは小さいけど、実際にはミワラには天守は置かれなかったということになってるしね。上の写真は天守台の真ウラで、ここから正面に回って天守台へ上り、降りかけるところまでを動画に撮りました。最初はカメラを縦にして撮ってたのを、後先考えず途中でカメラを横にしたため、ちゃんとした動画ソフトを持たないわたくしにはまともに観られる形に編集できませんでしたので、動画を途中で分割せざるを得なかったのですが、おヒマな方は2本続けてどうぞ。それと、フツーの観光客にとっては天守台は見どころのひとつなので人も沢山いたし、天守台の上にあるベンチにも多くの観光客が憩ってまして、人をなるべく入れないようにした結果、ロクな動画になってませんので、こちらもあわせて御了承ください。 では、江戸城天守について簡単に紹介していきますか。小田原攻めの後、イエアスが関東に転封になって後北条時代の江戸城を家臣が一団となって整備していったあたりは本シリーズの最初の方で史料をもとに少し書いてますが、イエアスはすぐには天守は建てなかった。まだその頃は秀吉も健在で、大坂城天守より大きなものを建てる訳にもいかず、さりとて大坂城天守より小ぶりなものを建てるとしたら、いつまでも「豊臣の家臣」を抜け出せない・・・だから、当面江戸城に天守を建てなかった、という風にもいわれる。イエアスの真意はわからないものの、徳川江戸城に天守がお目見えしたのが慶長12年(1607)。天守台は黒田長政、天守は伊達政宗らをそれぞれ助役とし、秀吉の大坂城天守を上回る日本最大の巨大な天守が出来上がった。イエアスの天守については正確なところはあまりわかっていないようで、ゆえに諸説ある訳ですが、一般的には五層の白い天守で位置も現在のような本丸域の北西の隅っちょではなく、中央部付近にあったとされる。塔のスタイルは層塔型という説もあれば、望楼型という説もある。イエアスの天守ができた頃は本丸御殿などの改築もあわせて行われており、人様の金と労力を使って為政者にふさわしい立派な近世城郭へとリニューアルした。ついで2代将軍となった秀忠は、元和8年(1622)に父・イエアスの天守を解体し翌年に新しい天守を建てた。この時の助役は天守台・天守とも浅野長晟(ながあきら:浅野長政の子)ら。秀忠の天守についても諸説あるが、一般的には現在の天守台の位置に移動し、高さも面積もイエアスの天守を上回る規模を誇り、五層の層塔型天守といわれる。イエアスの天守ができてからわずか15年であらたな天守を作った理由については、本丸の拡張工事もあわせて行われており、御殿が広がったから場所を移したとか、イエアスの天守ができた当時は日本一の天守だったのが、その後江戸城天守を上回る規模の名古屋城の天守ができてナンバーワンの座から転落しまったからリベンジを図ったとか言われる。まあ、確かに本家の天守が分家の天守に負けてるようじゃしょーもないしな。地味な秀忠にしては思い切った決断だけど、ともかくこれで再び江戸城天守がナンバーワンに返り咲いた。それと、この際に秀忠の天守のそば、もしくは内部に東照宮が置かれたという。しかし、江戸城天守の歴史はまだ続く。秀忠の跡を継いだ3代・家光は寛永14年(1637)に父・秀忠の天守を取り壊し、翌年また天守を建てた。この時も広島の浅野長晟らを助役としたそうな。イエアスから家光まで、15年おきにそれぞれ自分の天守を作っていた訳で、なに無駄遣いしちゃってんだってカンジですが、家光の天守の規模は秀忠の天守と同じでスタイルもほとんど秀忠時代のと同じらしいので、完全な新築ではなく解体して修復したと考えられている。ただ、規模・形は同じでも、外観は秀忠の天守とは違う。家光の天守は黒の銅板を外壁に貼った豪勢なものだった。岡山城のところで天守の外壁について少し書いてますが、たった15年で巨大な天守を建て替えるなんて浪費もいいとこ、ってのはわたくしのような下々の考えることで、秀忠の天守が漆喰の白壁だったのなら寛永後期にはせっかくの白化粧も無残な状態となっていたかもしれない。『鹿鳴館秘蔵写真帖』を見ると、全てではないものの、白漆喰の建造物は結構あちらこちら漆喰が剥がれ落ちているものがあって、剥落した面積が大きいものはかなりボロっちく見えるし、面積はわずかでも竹を組んだ骨組の「小舞」(こまい)がむき出しになっている建物なんかもある。あちこち旅する中で、古建築であれ現代家屋であれ人が住まなくなって手入れされなくなった建物の荒れ方を色々見たりもしたけど、さすがに頑丈な城郭建築はわずかな年数では本体は簡単には揺らがない。ただ、漆喰の外壁は本体ほど頑丈じゃないから、どうしても定期的なメンテナンスが必要になる。家光が日光の東照宮をごっそり派手に建て替えた件と同じように、江戸城天守の建て替えについても家光が秀忠を嫌っていたからだと解釈する向きもあるようだけど、ハゲてボロっちくなった漆喰の外壁を耐久性に優れる銅板張にチェンジしたということであれば、家光が父を嫌っていた理由としてはちと成り立たなくなる。まあ、家光の真意はわからないけど、ともかく壁も瓦も銅で固め、屋根には名古屋城と同じ金のシャチを上げたので豪勢な姿にはなった。ただ、家光の天守を描いた絵は存在するものの、数は少ないようで、わたくしが知る2枚の絵はそれぞれ外観が少し異なっている。国立歴史民族博物館所蔵の「江戸図屏風」に描かれた家光の天守は、すべての層の外壁は真っ黒。つまり全層銅板張の天守なんだけど、江戸東京博物館蔵の「武州州学十二景図巻」に描かれた家光の天守は全体的に白っぽい。江戸博所蔵の絵の方は『大江戸と洛中』展で買った図録に掲載されているもので、図録の解説には 【櫓や御殿の屋根を遥かに凌ぐさまで天守が描かれていることから、デフォルメされて いることは間違いないが、実景を見た上での描写であると考えてよい。この点は他の 絵画資料と比べてとりわけ重要である。壁面は初層(あるいは五層目もか)の壁面に 黒色が塗られるが、全体に白色で表現されていることから、総塗籠と考えられる。】とある。一般に語られる家光の天守の大きな特徴は銅板張で、「武州州学十二景図巻」でも初層はまぎれもなく黒い。五層目がビミョ~なのは黒っぽい部分が高欄に見えなくもないからなんだけど、家光の天守が銅板を使ったことに違いはないものの、使った割合によってだいぶ外観が変わってくることになる。さて、家光の子・家綱。家光は4代将軍となった家綱に大いなる遺産を遺した。それが知恵伊豆・松平信綱をはじめとする優秀で忠義者の重臣たちで、家綱の代にはあらたな天守は建てられなかったが、信綱指揮のもと、承応2年(1653)に本多忠義らを助役として天守の修復をしている。ところがその4年後、本ブログでもおなじみの明暦の大火が起こる(明暦3年:1657)。これの第2陣の火で天守は焼け落ちた。なんでも、2階の窓が「うっかり」で開いていたそうで、そこから火が入ったとかなんとか・・・大火のあと、天守を再建するつもりで大火の翌年にまず天守台を修復した。これは加賀の前田綱紀によるもの。が、上屋が天守台の上に載ることはなかった。なにしろ、明暦の大火は江戸市中のかなりの部分を焼き尽くした未曾有の大火災。江戸に参府したカピタン一行の一員が描いたと考えられている大火直後の絵は「一面焼け野原」というにふさわしい惨状を表現している。市中再建のためにやるべきことは山ほどあるし、カネだってかかる。天守再建については、再建賛成派が多かったといわれるものの、ここでまたもや保科正之が見事な提言をする。「この平和な世の中で、天守はもう必要ないんだよ。天守再建にカネを使うより、市中にあふれているおびただしいほどの被災者の救済にあてるべきだろう?」このもっともすぎる提言にみなが賛同し、万治3年(1660)に正式に天守の廃止が決定した。そののち、正徳2年(1712)に新井白石が中心となって天守の再建計画が進められる。が、この計画は御破算になったので、明暦の大火以降江戸城には天守台だけが残り、二度と天守が千代田の城にそびえることはなかった。ので、『暴れん坊将軍』でマツケン扮する美しい吉宗将軍がしょっちゅうジイと天守でのんびりくつろいでましたが、吉宗の時には江戸城に天守は存在しなかった訳ですね。いや、将軍様は超セレブだから、のんびりしたい時には幕府専用機で姫路城(←ロケ地)まで行って憩ってたのかもしれないなにほんブログ村
2016年04月20日

このたびの地震で被災された方に心よりのお見舞いを申し上げます。今回は広域にわたって大きな地震が続いていて、気象庁からも例のない事象だと戸惑いの声が上がっているようですが、義理の兄が豊後の人なもので、由布院に住む義理の兄のお兄さんのおうちでも被害が出たそうで、驚いております。わたくしが勤める部署の分所のようなものが小倉にあって、わたくしもこの2月にしばし出張に行っていたのですが、そもそもいつか必ず来る首都圏の大災害に備えて地震が少ないからという理由で北九州市が選ばれて分所ができたのに、これじゃリスク分散にならないじゃん・・・北海道に作った方がよかったんじゃね?と同じ部署のオジサマ達が話してたけど、北海道でも頻繁に地震が起こってる所はあるからな。富山は地震が少ないそうで、富山から転勤で来た人は地震に慣れていないため小さな地震が起こるたびものすごく怖がってましたが、地震列島ですからいつどこで地震が起こってもおかしくはない。本シリーズで参考にしている旅行記を書いたケンペル・申維翰・ツュンベリーの3人もそれぞれ短い江戸での滞在期間中に地震を経験しているしね。もちろん、彼らが遭遇した地震はごく小さなものですが、いつの時代も日本では大小含め地震が各地で頻発していたのだから、しかるべき心構えと備えが必要だとあらためて思いました。さて、前回の続き。御中臈以下の女中が将軍に見染められると、通常段階を踏んでひとつひとつ階段を登っていくところを特進となって一気に御中臈に出世する。ただ、側室となるとそれだけで特別な存在になるかのように思いがちだけど、職制としてはあくまで御中臈。6代家宣の頃までは側室や御年寄といったクラスの奥女中は「社宅」である長局には住まず、御殿向の方に住んでいたようなんだけど、家宣の頃から身分の差を明確にするようになり、御台ちゃま以外の女中はすべて長局に住むことになったそうな。して、将軍のお手がついても子ができなければ側室といっても御中臈のまま。子ができて、男子を産めば「お部屋様」、女子を産めば「お腹様」と呼ばれて子のないただの側室よりはランクアップしたようなんだけど、そうなって初めて独立した自分の部屋がもらえたという。「お部屋様」の呼称はそこから来ているようなんだけど、だったら「お腹様」は個人の部屋を持てなかったのだろうか?それと、お腹様といえば寛永寺シリーズで書いた「お腹様別当」を思い出すけど、「お部屋様別当」というのは聞いたことがないし、将軍生母の霊廟を管理するのがお腹様別当だったんだから、「女子を産んだらお腹様」という一般の説明とは食い違いがある。あるいは、寛永寺の別当のシステムが整えられた頃にはお部屋様とお腹様に分かれていた訳ではなく、子を持つ側室が一律お腹様だったのかもしれないし、将軍生母のみお腹様と呼ばれていたのかもしれない。その後、中期以降になって子の性別によって側室を区別するようになって、でも寛永寺では当初の古い「お腹様別当」という言い方が残った、ということも考えられるよな。『図説 大奥の世界』では 【位の高い奥女中には一人一部屋が与えられたが、将軍附御中臈は、御年寄もしくは 中年寄との相部屋だった。これは、将軍の跡継ぎを宿す可能性のある御中臈を守る 一方で、監視も兼ねていたからだとの説もある。】としている。まあ時期によって違いはあるんでしょうけど、子を持たない側室は長局で格上の奥女中と一緒に生活をしていたってとこなのかな。ところで、めでたく将軍様のお手が付いてもうかうかしてはいられない。というのも、伽をするには年齢制限があったらしいのだ。その上限は30歳。これを「おしとねお断り」といって、30歳を過ぎると、将軍様の指名を受けてもみずから辞退しなければならないルールになっていたという。辞退をせずに厚かましく伽を拝命したりすると、「好女」(すけべえ)と呼ばれてさげすまれたとか何とか・・・前回紹介したような床入りのルールは側室にのみ適用され、御台ちゃまの場合は監視役は付かない。監視する方も(普通の神経の持ち主なら)イヤだったろうけど、監視される方も当然イヤなもので、ストレスのある環境での「種まき」なら「種」は「実」になりにくかったかもしれない。しかし、年を取れば人間誰しも図々しくなるもので、30歳も過ぎて伽に慣れてくれば監視の耳もものともしなくなるかもしれないのに、大奥では女としての役目を終えなければならない。「夜のお相手」だけだったら30過ぎでも充分使い物になるハズだけど、こういう厳しいルールができたのにはそれなりの理由もあるらしい。現代では医学が発達しているので高齢出産も夢ではないけど、経年初産婦(年取ってからの初めての出産)は高いリスクが付きものだし、若くても今なお出産で命を落とす人もいる。昔ならなおさらのことで、出産による母子の命の危険を防ぐために30歳ルールができたともいわれる。ので、「側室という名の御中臈」を抜け出すためには30歳までに子を産んでおく必要がある。「(18)」で高級女中には休暇がないと紹介しましたが、『考証 大奥』によると格下の女中の場合の休暇は 【宿下がりのできるお目見以下の女中でも、奉公によって三年間は外出をとめられる。 三年たつと一回につき六日間、それから三年目ごとに許されるにすぎない。】というものらしい。しかし、側室になればいつ「ご指名」が入るかもわからないので休暇はない。宿下がりができないのはお手付きではない高級女中も同じだけど、代参などで外出の機会もある彼女らに対し、側室にはそういうこともない。将軍が死んだら落飾して御用屋敷などで余生を送り、病気になっても実家に戻ることはできず、死んだら桜田の御用屋敷で葬儀が行われ、死んでも実家には帰れない。側室といえば聞こえはいいけど、子を産まなければ現代人の感覚では不自由な生活を強いられることになる。まあ、経済的な面では何の心配もないんだけどね。それと、側室といえば御台所との確執をネタにするフィクションがあるけど、身分の差がきっちり明確に分けられていたので、実はそういうバトルはないんだそうな。ただし、本人同士のバトルはなくても、女中同士の間で張り合うというようなことはあったらしい。おかしなことに、大奥では将軍のお手がついた御中臈を「汚れた方」と呼び、お手がつかない御中臈を「お清(きよ)の方」と呼んでいたという。女がうじゃうじゃいる特殊な世界の大奥が「女の修羅場」みたいな感じに仕立てられて面白おかしく語られるのも、こういう様々な変わったエピソードが元になっているのだろう。まあ、もちろんそういうドロドロした話も実際にはあったんでしょうけどね。でもホントかどうかわからないような刺激的な話を持ち出さなくても、充分大奥は面白いとわたくしは思うので、本シリーズではそういうスキャンダル的な話題はすっぱりカットしました。さてと、それでは久々に現地に戻りますか。「(14)」以来だから、20話近くあれこれ歴バナ書いたことになるなできれば今月中ぐらいに本シリーズを終わらせたいな。「(14)」では大奥の裏手を登って現在の宮内庁書陵部があるところで動画が終わってますが、これが書陵部の建物↓。 ここでは平成26年に刊行されて話題となった『昭和天皇実録』ができるらしく(注:訪問した平成26年10月時点の話で、3ヶ月ほどの期間限定イベントだったらしい)、50分を1回として1日を7回に分け、火曜日~木曜日は各回定員12名、土日・休日は各回定員18名で開放しているとある。『昭和天皇実録』はフツーに本として出版されてるし、1冊あたりのお値段はそう高くないからわざわざここで閲覧しなくてもいいだろうと思うものの、書陵部前の看板を見ると ここでは和綴じ本が閲覧できるらしい。宮内庁のホームページを見ると、写本が閲覧できるとあるから、天皇陛下に献上した本の写しってことかもしれないな。書陵部の奥はかつて大奥の長局の並んでいた場所。 これは以前にも使った大奥の簡単な配置図で、長局は一棟しか描きませんでしたが、右側に二の局、三の局、四の局まで順に並べていくと、御台ちゃまのお部屋の辺りの右側に長局と囲まれた空間がぽっかり出来上がるでしょう?そこが天守のあった場所で、現在では天守台しか残ってませんが、時代をさかのぼって太田道灌さんの時代には書陵部から天守台にかけての場所に道灌さんが城を築いたと言われてます。本丸~三の丸を含む皇居東御苑では、当然本丸域が最も高台にある訳だけど、本丸域でも微妙な高低差があり、北の方・・・すなわち、大奥や天守台のある付近の標高がもっとも高い。ので、道灌さんは一番の高台に城を築いたということになります。にほんブログ村
2016年04月16日

え~、だいぶ脱線気味の感もあったけど、「奥」関連の話として、最後は側室周辺について書きたいと思います。徳川歴代将軍は、自身が夭折したため八十宮吉子内親王を迎えられなかった7代・家継を除いてはみな正室を持っており、3代・家光以降の御台所はすべて皇室か公家から迎えられていた。ただ、若くして亡くなったとか政務にタッチしなかったという理由で多くの御台所は一般にはほとんど知られていない。家光以降の正室で有名なのはやはり14代家茂の妻の皇女和宮とか、近年の大河で一般にも広く知られるようになった13代家定の妻・天璋院篤姫、それから8代・吉宗にからむ人として6代家宣の妻・天英院近衛煕子あたりかな。あと、夫との不仲という逆説的な理由から家光の妻・鷹司孝子も知られている。鷹司孝子を除いてはみな政治的な理由、および側室や周囲とのバトルなどによってドラマなどでもよく取り上げられる訳だけど、多くの正室があまり知られていないのはそういう理由のほかに世嗣を産んだ御台所が2代秀忠の妻・お江だけだったからということも考えられる。お江は一般的には秀忠の浮気を許さなかったといわれ、ために保科正之はなかなか陽のあたる場所に出られなかった。お江は激動の戦国末期をたくましく生き抜いた女性であり、秀忠の子をガンガン産み続ける強靭な肉体を持っていた。が、その子の家光は幼い頃は弟より劣って見えるほどひ弱で、しかも男色愛好家だった。そういう家光・・・つか徳川家の行く末を心配したのが乳母のお福(春日局)で、家光の気に入りそうな娘を探して自分の部屋子として仕込んだ上で側室として家光に差し出すなど、家光の子作り促進運動に奔走した。まあ、家光のような女性に興味を示さない人間は特殊で、家光みたいな人がいなかったとしても世継ぎを作るのは将軍としての大事な役目だから、いずれ側室の制度は整えられてはいったんだろうけど、はじめ秀忠が「将軍家の奥」として整えた大奥は、家光&お福の登場によって後世の人間にハーレムと誤認させるような場へと変化し、大奥に住む人間も膨れ上がって巨大な女の園が出来上がった。こんにち「大奥の制度」と紹介されるものは、おそらくかなり後代になって整えられた制度だろうとは思うけど、ひとまず今回読んだ本を参考に話を進めますと、5代綱吉の頃まではあまり側室の出自が問題とされることはなく、身分が低く出自のわからない女性もいるという。これも時代の必然ともいうべきもので、初代イエアスは将軍としての期間は短く、人生のかなりの部分を戦国武将として過ごしている。もともと三河の土豪の小せがれだったイエアスは、自分がランクアップするにつれ身分の高い姫を求めたりもしたが、その一方で生涯に持った18人の妻妾のうち、11人までが戦国武将として名を挙げていった天正年間にゲットした女性だそうで、身分の低い女性が多く、俗に「家康の裾貧乏」などとも言われる。それは自分の身分から女性の身分に対してもあれこれ言ってるバヤイじゃなかったからだけど、同じ戦国期を生きたたくましい女性には優れた才能や才知を持った人もおり、お梶や阿茶の局などイエアスの側室で色々と活躍した女性も多い。若い側室に囲まれてウハウハの晩年を過ごしたイエアスと違って、2代秀忠は正式な側室を持たなかった。秀忠の子を産んだ女性もいるので、お江ひとすじって訳でもないけど、お江がボロボロ子を産んだので何がなんでも側室を作る必要性はなく、歴代将軍のうちではむしろ秀忠の方が特殊だといえる。で、3代家光は前述のように自ら子作りに励むこともなかったので、お福が世話してやる訳だけど、なにせその意思がない家光に子を作らせようというのだから、家光の気に入るか、子を産める健康体であるかの方が重要で、これまた身分うんぬん言ってるバヤイじゃなかった。そして家光にあてがわれた女性の中から4代家綱・5代綱吉が生まれ、孫は6代家宣となった。家綱の母はもと農民の娘で、綱吉の母は桂昌院として有名な方ですが (京都・今宮神社にある桂昌院のレリーフ)八百屋の娘だとか西陣織屋の娘だとか畳屋の娘だとか色んな出自のウワサがあるものの、いずれも身分の低い女性だという内容で、桂昌院が「玉」という名前だったことから「玉の輿」の語源となったという俗説があるのは有名な話ですね。そういう流れがまだ残っていたのか、4代家綱は神祇官の娘、5代綱吉は黒鍬者(城内で土木・清掃・運搬などに従事した役職)の娘などを側室にしている。6代家宣の時、大奥は公家風を取り入れるなどして様変わりした(「(15」)参照)。その頃から側室の制度についても変わり始めたんだろうと思うけど、家宣自身は僧侶の娘を側室(=月光院)とし、その腹から7代家継が生まれている。ただ、月光院が家宣のもとに上がったのは家宣がまだ甲府綱豊だった時代のことで、将軍の側室として月光院を迎えた訳ではない。という訳で、ここから紹介する話は家宣以降の内容かと思われます。まず、側室になるには基本的に前段階として大奥に入る必要がある。それから、当然のこととして将軍が適齢期を迎えている必要もある。11代家斉(いえなり)の時、家斉が16歳になったので将軍付きの御年寄が「上様ももう16歳。そろそろ御女中などをお側に近づけてもよいのではございません?」と奥医師に打診し、奥医師でまだ早いという者と「そうだな、そろそろ・・・」という者があったという話がある。正室が世継ぎを産めればそれに越したことはないけど、正室をめとるのは政治的な事情という面も大きく、将軍や正室の年齢や生殖能力だけが問題となる訳じゃない。それに、京生まれ京育ちのなよやかな姫にはガンガン子を産むのは無理があった。それをカバーするのが側室で、子作りうんぬんより愛情で将軍が側室を作る場合もあったけど、周囲の御膳立てによる側室の場合は実質的な能力が大前提となってくるので、奥を管理する女中や奥医師によるこんな談合が行われたりもしたらしい。で、種まきができるようになって側室を用意する段になると、「お見合い」が行われる。もちろん、現代のお見合いのように双方が直接会って話をする訳ではない。側室は基本、御中臈の中から選ばれる。選ぶのは将軍ではなく、御年寄が相談して将軍付きの御中臈の中から候補を選ぶ。中にはこのコースを経ないで側室になる者もいたというが、このコースで側室になる場合はまず御年寄のお眼鏡にかなう必要がある。御中臈のリンク先で「一に引き、二に運、三に器量」の話を紹介してますが、ここでも御年寄の「引き」が出世の明暗を分ける。もちろん、引き立てた側でも自分の世話した娘が側室となって子を産んで出世すれば自分の権勢も増す。して、選ばれた娘は装いをこらして大奥の庭を散歩する。その姿を将軍が見て、気に入れば側室となれる。時には将軍付きの御中臈ではなく、御台ちゃま付きの御中臈を将軍が見染めることもあったらしく、その場合は御台ちゃまが差し出すという形で御台ちゃま付きから将軍付きへとお役替えが行われるそうな。御中臈より下の身分でも、将軍が見染めた場合には一旦御中臈へ昇格させてしかるべき上級女中の世話子にさせてから将軍のお側にはべることになる。さて、「床入り」。ドラマなどで当時そのままに床入りの場面をやるとたぶん面白おかしく話が作れなくなるから、そこは考証を無視してるんじゃないかと思うけど、伝えられる話によるとかなりオドロキの方法が取られていたらしい。まず、あらかじめ伽の相手が御年寄へ伝えられ、指名された相手はもちろんのこと、将軍の寝所も準備万端整えられる。寝所の準備は御年寄がすべてを仕切り、準備ができると次の間に控えて将軍の奥入りを待つ。一旦寝所を出たら彼女らは二度と入れない決まりになっていたという。将軍の奥入りは夜8時ころ。その1時間前くらいには指名された相手が長局から寝所へ向かう。この時、自分の夜具と衣裳を御三之間に持たせ、自分は総白無垢姿で髪は櫛巻き、かんざしは差さないものと決まっている。こういう姿で長局から大奥の端っこにある将軍の部屋まで「出勤」するので、今夜の相手が誰なのか大奥の女性にはすぐにわかったという。そして、その後には少し離れて別の御中臈がしずしずと従う。将軍の部屋に着くと、待機していた御年寄が指名の相手の髪を解いて中をチェックする。もちろん、武器を隠し持っていないかの検査で、それが終わると御年寄は次の間に下がって、御三之間が元の通り髪を櫛巻きに直す。この時もかんざしは差さない。それから将軍が上御鈴廊下を通って大奥に入るが、しばし話などをしてから床に入る。フツーに考えれば、寝所には将軍用と側室用の2つのふとんがあればいいハズだけど(ふとんは2ついらないんじゃないかというツッコミは置いといて)、寝所にはなんと4つのふとんが並べられている。将軍は真ん中のふとん、相手の側室はその右のおふとん。んで、将軍のふとんから少し離れた隣のふとんには御用の側室に付いてきた御中臈が入って将軍に背を向けて寝る。側室のふとんから少し離れた隣には、御伽坊主が入る。別に将軍が3人の女性を相手に奮闘する訳ではない。両脇の2人は、主役の2人の会話から何から背中で監視して、翌朝御年寄に一夜の出来事の一切合財を報告する任務を負っている。つまり、監視役の2人はふとんに入っても眠ってはいけない。まあそれでも、フツーの神経の持ち主なら決して楽しい仕事ではないので「白い粉薬」を飲んで寝るようにしたともいうけど、それで御年寄から叱られなかったのだろうか。御年寄への報告は監視役からだけではなく、伽をした側室本人からも話を聞いて報告の内容に誤りがないかチェックしたというから徹底している。こんなおかしなルールができたのは、寝所で将軍に度を越えたおねだりをした側室がいたからだという。少し前に話題になった沢尻エリカ主演の「大奥」の予告CMでは、誰かがするっと着物を脱いで素っ裸になったのを成宮寛貴(将軍・家斉)がスケベな目で「おお~」ってカンジで見上げてるシーンが映ってたけど、あの脇に御伽坊主と添い寝役がいたらドラマも盛り上げにくいからね沢尻の「大奥」は観なかったし、他のドラマも観ることはないので正確なところはわかりませんが、こういう珍妙な床入りをそのまま再現するドラマはおそらくほとんどないんじゃないかと思います。にほんブログ村
2016年04月10日

地方の戦国期の国人衆などと比べて、江戸は史料が充実しておりまた比較的手に入れやすいので、興味のおもむくままに追っていくと時間がいくらあっても足りない・・・研究に専念するために断筆をした杉浦日向子先生の気持ちが本当によくわかります。さて、顔のパーツであと残っているのは目と鼻と口。目は先行して「(26)」で少し書いてますが、化粧について書きだしてから色んな絵を観ていたら、お江の姉の初ちゃんが二重に描かれていることに初めて気がついた。お江の肖像画として有名なものは画像の状態がイマイチ良くないのでお江が二重かはわからなかったけど、浅井三姉妹の長女・茶々も二重に描かれている。ので、必ずしも日本人に二重が少なかったという訳ではなさそうだけど、江戸期には一重の涼しげできりっとした細目が好まれたということかもしれない。ただ、あまりに小さいのもイマイチだったようで、そういう場合の修正法は 生まれつき目が小さくて、目を開けてるように見えねえ奴がいるが、それを隠そうとして 無理に目をみはれば黒目が上に行くばかりで空を見ているみたいで見苦しいもんだ。 こういう目をフツーに見せるには、化粧法と気の付け方なのさ。 まず、フツーに化粧をしてから上まぶたのまつ毛のあたりを湿らせた手ぬぐいでぬぐい、 うすーく紅をさす。こうするとちょっとは良く見えるもんだ。で、目は向こうをはるかに 見るつもりではっしりと開けること。ただ、目をみはるとコワい目になって怒ってる 顔に見えちまうから、気を付けるんだぜ。と佐山半七丸はアドバイスしている。まあ、大きいの小さいの言ってもガイジンからすれば日本人の目はどれも同じように見えたようで、ツュンベリーは この国民の眼は、中国人と同様に広く知られている。それは多民族のように円形ではなく、 楕円形で細く、ずっと深く窪んでおり、ほとんど目を細めているように見える。 他の点では、瞳は褐色というよりはむしろ黒色で、瞼は大きな目尻ぎわに深い線を かたち造っていて目つきが鋭くなり、他民族とはっきり区別できる独特な風貌を 持っている。と一律細目だと言っている。『都風俗化粧伝』にはほかに垂れ目、つり目の修正法も載ってるんだけど、いずれも紅を使う。昔は今と違って白・黒・赤の3色しか化粧品がなかったが、単純な色あいを色々工夫して効果的に使っていたことがわかる。で、鼻。ツュンベリーから見た日本人の鼻は、 鼻は低いとは言えないがしかし太くて短い。だそうだが、平均して日本人の鼻はお世辞にも高いとは言えないだろう。きっと、ツュンベリーにとっては鼻の高低よりもずんぐりした団子っぱなの方が気になったんだろうな。しかし、当の日本人には自分たちの鼻が低いという自覚があったらしく、半七丸が紹介している鼻についての2つの項目は、いずれも低い鼻をなんとかする方法。高い鼻を低く見せる方法は載っていない。2つの項目のうちの1つは化粧法で、これは鼻すじを他より白く塗ることで鼻すじを通して高く見せるというもの。もうひとつは根本的な解決法で、「鼻を高くするおまじない」だと言っている。半七丸はまず、この方法の霊験をおごそかにうんぬんして、具体的な方法を説明する。 厠に入って心を静め、念仏でも題目でも各自の信じる方を唱えながら、右の親指と 人指し指、中指の3本の指で鼻の両肩の真ん中の下に当て、鼻柱を鼻先まで 高くもみあげるように挟んで何度もやれば自然と鼻は高くなる。この奇妙のまじない、 絶対に疑うんじゃねーぜ。つまりマッサージしろと言っていて、アン・シャーリーの洗濯バサミよりはいいと思うけど、トイレで「なんまんだ~」か「なんみょ~ほ~れんげ~きょ~」を唱えながらというところが仏教徒らしくて笑える。あるいは、人差し指と中指で鼻の両脇を、両眉の下の方から小鼻にかけて押し下げても効果があると言っている。低い鼻でお悩みの方は、お試しくださいませませ。顔の最後は口。口にはもちろん紅を塗る。紅は口だけではなく、アイシャドウやチークとしても使われたし、爪紅(つまべに)といってマニキュアとしても使われたが、頬紅は享保以降は遊女の真似をして使われなくなったという。紅は紅花から採る。産地によって製法に違いがあるようだけど、『日本の化粧』に載っている製法を引用してご紹介しましょう。 【まず、朝早く、露のあるうちに摘みとった紅花をよく水洗いし、踏んで黄色素 (サフロールイエロー)をもみ出す。赤い色素だけが残った紅花を花蒸籠(はなせろ)という 箱に広げて、さらにむしろをかぶせて水分を補給しながら、約二日間日陰に置き腐熱 させる。その後とり出してこねて、粘り気が出たものを丸めて自然乾燥すると紅餅になる。 こうしてつくられた紅餅は、目方を計って包装され京都に送られた。】当時は防腐剤などはないので、一年で最も寒いとされる寒中の丑の日に作られた紅が良質だとされたそうな。京に送られた紅餅は、各専門業者が紅を抽出して染料や口紅などに加工されたが、 【紅を抽出する技術は大変に高度で、その製法は門外不出の秘伝とされていた。】 (前掲書より)だそうで、必然的に口紅のお値段も高くなる。そのお高い紅を、大奥ではふんだんに使っていた。紅を塗る時には、まず白粉で唇を白く塗りつぶす。その上から紅を塗る訳だけど、口は小さい方が好まれたらしく、生まれつき口がデカい人がそのまんま自前の唇に紅を塗ると人を食ったような口になってしまうので、その場合は小さめに描く。小さすぎる口の人は、自前の唇いっぱいに濃く紅を塗る。一般的に当時は上唇は薄く、下唇には濃く紅を塗っていたらしい。半七丸が伝授する大きな目を小さく見せるテクは、目の中に入るぐらいにまで目の際に白粉を塗れというもので、目なんて中に入ればかなり吸収は早いし、口だって一旦白粉で塗りつぶすのなら飲食時はもとより、ちょっと唇を舐めたりするだけでもすぐ体内に取り込まれてしまうから、当時の白粉の成分を考えると実にコワい話ですが、まあそれは置いといて。「(24)」で桂川甫周が正月の挨拶時に見た御台ちゃまの緋袴が緋を通りこして黒く見えたという話を紹介してますが、口紅も同じような現象があり、紅を塗って塗って塗りまくるとギラギラと玉虫色に輝く唇になったそうで、ゼイタクしてた大奥では高価な紅をふんだんに使って「笹色紅」と呼ばれる玉虫色の唇を輝かせていた。が、高価な紅を沢山消費する笹色紅は庶民にはちと手が届かない。それでも、庶民の間でも笹色紅は流行った。なぜそれが可能だったのか、これも半七丸に教えてもらいましょう。 紅を濃く光らせるにはな、まず下地に墨を塗り、その上から紅を濃くつけるんだ。 こうすると濃く見えて紅の色も青みがかって光るのさ。ただ、あんまり濃いと 顔がコワく見えちまうので、ちょっと薄めにすると顔もやわらかに見えるし、 おとなしく愛敬があるように見えていいぞ。 あるいは、墨じゃなくて行灯にたまった油煙を採って筆で塗り、その上から紅を さすっていうテもあるぜ。 口に墨を塗るなんて、女性の化粧への執念を感じさせるような話だな各パーツは大体こんなとこですが、江戸美人はその人に合った化粧をするだけではなく、髪のお手入れや手足のお手入れのほか、歩き方や立ち居振る舞いなどすべてにおいて心を砕いて美しさを保つことが求められる。美人になるにはなかなか手間がかかったようですが、手間暇かけてそういう努力をしたのはなにも女性だけの話ではない。駿河でケンペルは そのうえ私が黙って見逃すことができないのは、村の街道に沿ってたくさん並ぶ家の中に、 9軒か10軒の立派な店構えの家があり、その前に10歳から12歳までの2、3人の 少年たちが、きれいに着飾り化粧して、きちんと一列に並んで座っていたことである。 彼らは婦人の姿をし、銭を払えば、神にそむくいやらしいやり方で、通りすがりの好色家の 思いのままになった。いま述べた膏薬を店先に出して売っているのは、一種の言いのがれの ためで、不案内の者が邪推しないように、また事情を心得ている者には、大胆に少年たちと 関係する機会を持ちやすくするためでもある。われわれ一行の指揮者である上奉行は、 これまで一度も、宿舎に着いた時以外は、自分の乗物から下りなかったのに、気晴らしの ために半時間も少年たちの傍に腰を下ろしていた。と男娼について書き留めている。まあ、この時は上奉行がのんびり美少年に鼻の下を伸ばしていたおかげで周辺をじっくり観察する時間ができたようなんだけどさて、化粧については今回で終わりとしますが、少し文字数が残っているので、『都風俗化粧伝』からいくつか面白い項目を紹介しましょう。 ○小便をこらえる法 青松葉(あおまつば)をよくもんで、へその中に入れておけば長く我慢できる。 ○大小便をこらえる法 急にもよおしたら、左の掌へ右の中指で、大便なら「大」の字を、小便なら「小」の 字を書いて、3回なめる。ぴたっと止まる不思議なおまじないだそうな。 ○髪を黒くし、つやを出す方法 男女の抜けて落ちた髪を集めてよく洗い清め、干して胡麻の油で煎じつめ、鉢の中で 乾いたものを細かくきざむ。それを油で練って髪につければ、髪は長く黒くなって つやが出ることウケアイだとさ。煎じつめられるほど落ちた黒髪を集めるのって 大変だと思うけど(笑)。 ○にわかに舌が腫れ痛むのを治す法 釜の下についた鍋墨を酒で溶いて患部につける。 ○耳から膿が出るのを治す法 セミの抜け殻を黒焼きにして胡麻の油で溶いたものを粉にして、紙のこよりの 先につけて耳に入れる。 ○顔のシワをのばし、少女のように若やぐ薬の伝 ブタの蹄を4つ洗い清め、米のとぎ汁で煮つめ、とろりとなったものを寝る時に塗り、 翌朝米のとぎ汁で洗い落とす。これを毎晩繰り返せば半月で顔のシワはのび、 きめが細かくなり、ツヤが出て若返ること少女のようである。 ○涙が多く出るのを治す法 塩を目にすりつけ、冷水で洗う。こんなのが色々と載っている訳ですが、昔の人はチャレンジャーだなとつくづく思う。ただ、結構現代に通じる方法もあって、顔のシワを伸ばしてチョ~若返る方法は要するにコラーゲンのパックってことらしい。まあでも、即戦力になるのは大小便をこらえる法ですかね旅には青松葉を携帯せねばならんな。にほんブログ村
2016年04月07日

ここまでの化粧は成分などは違っても現代とだいたい似たようなもんだったけど、今回は現代ではしなくなった化粧について。まずはお歯黒。これは本などでは「鉄漿」(かね)と表現されることが多いのでここでも鉄漿とします。鉄漿の起源については諸説あるようだけど魏志倭人伝や古事記にも登場するので、日本での鉄漿の歴史はかなり古いらしい。女性だけではなく、平安後期になると男性も歯を黒く染めるようになった。江戸期には鉄漿が売られていたらしいが基本的には自家製だったらしく、原料のひとつである鉄漿水の作り方は、沸騰した茶に焼いた古釘を入れ、飴・こうじ・砂糖などを加えて壺などで数ヶ月密封すると出来上がる。ただ、初めて鉄漿をつける時というのは女性にとっての一大イベントで、親類縁者の女性に「鉄漿親」というものになってもらい、鉄漿水を分けてもらったんだそうな。鉄漿をつけるのは一種の成人の儀式で、江戸期には結婚が決まると鉄漿をつけたので、鉄漿水をもらいに行く時には周囲からひやかされたりしたという川柳が残っている。しかし、鉄漿水だけでは歯は黒く染められない。鉄漿水に五倍子粉(ふしのこ)を混ぜ合わせてはじめて鉄漿が完成する。五倍子粉はヌルデの木にできた虫こぶを乾燥させて石臼で挽いて粉にしたもので、鉄漿水と五倍子粉を交互に歯に塗ってタンニン酸第二鉄塩を生じさせることで歯が黒く染められる。古い鉄釘とかタンニンとか、聞いただけで口の中が渋くなりそうだけど五倍子粉は『都風俗化粧伝』では「口中一切の瘡(くさ)、腫物を治す薬」や歯ぐきの出血を止める法、ワキガを治す法など各所に薬効が登場する。ので、鉄漿は口内衛生にもなかなかよろしかったらしい。さて、鉄漿をつける前にはよく歯を磨いて歯カスを取っておく。けし炭を使って歯を静かによく磨いておくと鉄漿が綺麗につくと佐山半七丸はいう。けし炭とは火を水で消した炭とのことで、そんな苦いもので歯を磨き、鉄漿水は臭いわ五倍子粉は渋いわ、現代人にはほとんど苦行のような化粧ですが、時には唇にしみることもあったらしい。しみる場合は髪の油を塗っておくとよい。けし炭でよく磨いておけば鉄漿の光沢も出るが、もっと光らせたい場合には鉄漿をつけた上から紅を塗るとよい、とある。鉄漿を塗っている間に唇にもついてしまったようで、浮世絵には唇についた鉄漿をぬぐうシーンも描かれている。鉄漿をつけるようになったら、これを毎朝繰り返す。御台ちゃまをはじめ、大奥の女性たちももちろん歯を染めていた。花柳界の女性たちも歯は染めていたが、江戸では吉原の遊女だけが歯を染め、芸者は染めなかったそうな。綺麗に鉄漿を仕上げるには結構大変な上に、鉄漿の画像を見ると見慣れていないせいもあって真っ黒い歯はとても美しいとは思えない。ツュンベリーは長崎で 既婚女性が未婚者とはっきり区別できるのは、歯を黒くしているからである。 日本人の好みでは黒い歯はまさしく美しいものだとされている。だが、大半の国なら 家から夫が逃げだしてしまうしろものだ。大きな口にぎらぎらした黒い歯が見えるのは、 少なくとも私にとっては醜く不快なものであった。とこきおろしている。昔の人は大変なことをしてたもんだな~とつくづく思いますが、それが文化であり慣習でもあったから明治に入ってもまだ女性達は歯を染め続けた。が、ガイジンからはやはり奇異なものとして映ったようで、明治3年に皇族などに対し鉄漿の禁止令が出されてもなかなか廃絶しなかったので、明治6年には皇后みずから鉄漿をやめたらしいんだけど、庶民の間では明治30年代頃まで続けられていたそうな。次に眉毛。眉墨の作り方は、麦の穂が「黒穂病」になったものを手でもんで粉にし、筆の先でこすりつける。あるいは燈火をともして火の上に紙をあて「油煙」を取るやり方もある。要するにススってことかな?火事には気をつけないとね。他にも、皮をはいだ麻の茎を黒焼きにして粉にして使うなど数種類ある。眉毛は一般に細く描けばかわいらしく見え、太いとゴツく見えるものだけど、あまり細すぎるのも顔がのっぺりして締まらない。眉毛の場合はこうというものはなく、その人の顔かたちによって作るべきだと半七丸は言う。丸顔の人は眉を短く作れば顔が長く見え、エラが張ってたり下ぶくれの人は眉を太めに作れば見る人の視線が上の方に行って下部のふくらみが目立たなくなるという。また、瓜実顔の人は眉毛を細めにしておくのがいい、とな。眉毛と目の間の間隔については「(26)」で紹介した通りですが、間隔が狭い人は眉毛の下の方を少し剃って上から眉を描き、中ほどでぼかすようにする。間隔が広い人は眉毛の上の方を少し剃って上から眉を描き、下の方でぼかして目との間を少し縮めるようにする。現在では眉を簡単に描ける定規なんかがあるけど、いかにも定規使いました~ってカンジで端から端までくっきり描く人を見かけると思わず「くすっ」て笑ってしまうのはわたくしだけではありますまい。江戸期もそれは同じで、描いたら端の方はぼかせと半七丸は言っている。ここまでは眉描きの一般的な方法ですが、こういう眉テクを必要としない人種がいた。眉テク不要の人種には2通りあり、ひとつは宮廷や大奥などの女性たち。カンのいい方はもうおわかりでしょうが、いわゆる「まろ眉」を使う人達な訳で、自前の眉は剃ってしまうので上のような眉テクはいらない。ただし、「まろ眉」のテクが必要になる。眉の歴史も案外と古く、中国では紀元前から眉化粧が盛んで、日本でも中国の影響を受けて古くから眉化粧があったそうな。もちろん、眉化粧も時代が下るにしたがって日本独自のスタイルが生まれるようになる。まろ眉といえば平安貴族を思い浮かべる方も多いでしょうが、平安末期頃になると女性だけでなく男性貴族も眉化粧をするようになり、それにならって武士も眉を作るようになった。さらに下って室町~江戸頃になると地位の向上に伴って武家で諸儀礼が整えられるようになり、その中で眉化粧も重要なものになっていったそうな。 【化粧の中で礼法として確立したものは、眉化粧だけであって、一般庶民と最も異なる 化粧でもある。】 (『日本の化粧』ポーラ文化研究所コレクションより)眉化粧が礼法だったなんてちょっとオドロキですが、まろ眉は「置き眉」といい、自前の眉をじょりっと剃り落としてツユクサの花の黒焼き・金粉・油煙を胡麻の油で練った「こね墨」でぽてっと描いた。古くは毛抜きで辛抱強く自前の毛を抜いていたらしいんだけど、のちにはカミソリで剃り落とすようもになる。ただし、【身分の高い人は、剃るという言葉を忌みきらい、垂れると呼んだ。そのため、剃刀も毛垂といわれた】(前掲書より)んだそうな。「元服」はなにも男性だけの儀式ではなく、女性にもあった。女性の元服には二段階あり、鉄漿をつけると「半元服」、眉を落とすと「本元服」となったというから、昔は眉が重要な位置づけだったことがわかる。鉄漿は口を開けないとわからないけど、眉の方は顔をぱっと見ればすぐにわかるんだからね。大奥では年がら年中置き眉をしていた訳ではなく、儀式のある日に御目見得以上の女中が描いた。もちろん、御台ちゃまも置き眉をした。置き眉をする時の白粉化粧はちょっと特殊で、額に白粉で線を引くなど顔の下の方よりも額が白くなる「白際」(しろきわ)という化粧をした。こうすることで、より置き眉の黒が際立って美しく見えると考えられていたんだそうな。古い絵にははっきり白際とわかる女性が描かれていることがある。して、眉テク不要のもう一種類の人種ですが、これは子持ちの女性。一般女性は元服なんて仰々しいものじゃなかったかもしれないけど、ステップは元服と同じで、結婚が決まって鉄漿をつけ、子が生まれると眉を落とした。ただし、大奥では眉を落とした後も儀式の際に置き眉をしたのに対し、パンピーは剃ったまま。浮世絵で眉のない女性を見たことがあるかと思いますが、眉のあるなしで子持ちかどうか、成人女性かどうかがわかる訳ですね。まあ、白粉化粧に地域性があったように、現実には地域などによって子がいなくても眉を落とした人もいたようなんだけど、浮世絵に描かれる女性は現物に忠実に描かれている訳じゃないから、浮世絵の女性は一般ルールで描かれていると考えていいんだろうと思う。ので、同じような年齢に見える女性でも鉄漿や眉の有無でそれなりの絵の設定がわかると考えていいでしょう。という訳で、江戸期には眉のない女性がそこらへんにゴロゴロしていた。当然、江戸へ向かうガイジンたちもそういう女性を目にしており、ツュンベリーは肥前で そして既婚女性は長崎でのお歯黒のように、結婚していることを示そうとして 眉毛を全部抜いているので、美しく整った顔立ちはだいなしになり、醜い。といい、上関でも また、どこでも既婚女性は眉毛を抜き取っていたので、その美しい顔はすっかり 変わってしまって、信じがたいほどであった。と言って不快感を隠さない。まあね、わたくしも自分の顔から眉毛をなくしたらさぞ間抜けな顔になるだろうと思うので、ツュンベリーの感覚が正しいだろうとは思うものの、そういうもんだという認識の中で生まれ育った人間には「眉毛がなくなったらブスになる」という感覚は露ほどもない。どころか、眉ナシは結婚して子を持った証なのだから、「お嫁さん」に憧れる若い未婚女性にとっては喜ばしい勲章のようなものだったろう。そういう若い女性の姿を描いた浮世絵も結構多いらしく、かんざしや筆などの細いものを使って、あるいは自分の指で眉を隠すシーンを描いた絵がある。眉ナシがなにを示すのか知らなければ、自分の眉を隠して鏡を覗き込む娘の姿は「ナニやっとんじゃ、オマエ!?」で終わってしまうものだけど、知ってさえいれば結婚して子を持って眉を落とした自分の顔を、あこがれやはにかみを持って鏡の中で想像する娘のほほえましい姿だということが理解できる。浮世絵を観る時にはこれらのことを参考にすると、もっと楽しく鑑賞できるかと思います。ケンペルと申維翰の旅行記には今回の記事では特筆すべきものはなかった気がするけど、ツュンベリーはこういう日本女性の慣習をよく知っていて、 日本は一夫一婦制である。また中国のように夫人を家に閉じこめておくようなことはなく、 男性と同席したり自由に外出することができるので、路上や家のなかでこの国の女性を 観察することは、私にとって難しいことではなかった。未婚女性は既婚者とははっきり 区別できる。と書いている。にほんブログ村
2016年04月04日

江戸城を訪れたガイジンは色々いる。もちろん、往時は鎖国下だから各自が自由に個人旅行できたハズもなく、公的な参府の制に基づいて諸事制限を受ける中で江戸までやってきた訳だけど、詳細な旅行記を遺している人もいて、今回わたくしが読んだのはそのうちの3つ。ここまでの記事の中でもケンペルとツュンベリーの旅行記から文章を引用してますが、あらためてわたくしの読んだ3つの旅行記を年代順に紹介しておきますと、○エンゲルベルト・ケンペル『江戸参府旅行記』(斎藤信訳) ドイツ人・ケンペルの『日本誌』の第二巻第五章を翻訳して一冊の本にまとめたもので、 オランダ東インド会社の船医としてインドで勤務したケンペルは、元禄3年(1690) タイから日本に入って出島にあるオランダ商館付きの医師として勤務し、カピタンの 江戸参府に従って元禄4年(1691)と元禄5年(1692)の2回江戸入りした。 その道中、および江戸城での出来事を書いた部分が本書の内容。○申 維翰『海游録―朝鮮通信使の日本紀行』(姜在彦訳) 朝鮮人・申維翰(しんいかん/シンユハン)が朝鮮通信使の製述官(せいじゅつかん: 書記官)として享保4年(1719)に来日して江戸参府した際の道中記。○カール・ペーテル・ツュンベリー『江戸参府随行記』(高橋文訳) スウェーデン人・ツュンベリーは「ツンベルグ」「トゥーンベリ」など色々な形で表記される。 医師であり植物学者でもあるツュンベリーはオランダ東インド会社に入社してセイロン、 ジャワ経由で安永4年(1775)に出島のオランダ商館付き医師として来日、安永5年 (1776)カピタンの江戸参府に従って江戸入りする。 本書は『1770年から1779年にわたるヨーロッパ、アフリカ、アジア旅行記』の 日本に関する第三巻の全文および第四巻の一部を翻訳して一冊の本にまとめたもの。これらはいずれも平凡社の「東洋文庫」から出版されているもので、わたくしが初めて東洋文庫の本を読んだのは源信の『往生要集』でしたが、その後『名ごりの夢』を読んで大変に良かったので、平凡社、いい仕事してるな~と思って巻末にある既刊本の一覧を見ていたら、ぬわんとT・E・ロレンス・・・一般には「アラビアのロレンス」として有名な方ですが、そのT・E・の書いた『知恵の七柱』まで東洋文庫から出版されていたので、思わずのけぞりました。あ、T・E・にはちょっと個人的に思い入れがあるのでね。『都風俗化粧伝』も同文庫から出版されているし、前々から手に入れようと思っていた円仁さんの旅行記もついでに同文庫からこの程入手したのですが、ぱらぱらと円仁さんの本をめくって見た時、「文字とはなんと偉大なんだ!!」と感動しましたね。千年以上も前に書かれたものを、こうしてわたくしが読むことができるんだからね。ま、それは余談ですが、江戸入りした3者の本から受けた印象は、ケンペルは辛辣、ケンペルの旅行記を読んで心がまえをしていたツュンベリーは実際に来日してみるといい意味で裏切られたことが多く、日本への評価はかなり好意的。ただ、ケンペルとツュンベリーでは100年近い時の流れがあるので、世間がだいぶ変わっていたということもあるかもしれないけど。2人とも西洋の学者らしく、また当時の世界情勢もあって道中の出来事をかなり詳細に観察し、かつそれを詳しく書き遺している。ケンペルが辛辣だとはいっても、日本とは文化の質がまったく違う西洋人にしては素朴に公平な見方をしている時もあり、そういう点では好感が持てる。が、お隣の国で古くから文化交流のあった申維翰さんはといえば、理解があるどころか辛辣さではケンペルの比ではない。アマゾンの書評では「面白かった」と好意的な評価をしている方ばかりだけど、最初の方でもうわたくしは読む気がしなくなった。申維翰の態度を一言でいえば「尊大」。これに尽きる。さすがに大帝国・中国の一の子分を自認してきた朝鮮人だけのことはある。最近の中国は各方面で各国と摩擦を起こして、あの国のトップをTVで観るたび「中華」(自分達が世界の中心で優れており、他民族は劣った存在だとする思想)の意識は変わっておらんな~と不快感がつのる一方ですが、その中華の人の尊大さがそのまま申維翰さんの態度だと思っていただければ想像もしやすいかと思います。儒学にハマった国には近代国家としての進化は難しいと言っていたのは井沢元彦氏だったっけか・・・『海游録』を読んで、確かにそうだよなと思いましたが、一応フォローをしておくと朝鮮とは鎖国下でも正式な国交を保っており、朝鮮通信使は新将軍の就任などの慶事で来日する国の正式な使者。国の威信をかけて国の代表として訪れる訳だから、単なる「貿易国」の商人付きの医師であるケンペルやツュンベリーとは立場が違う。ま、そういう部分を差し引いても儒教の持つ毒性が前面に現れている本だとは思うけどね。ついでに言うと、朝鮮通信使にも医師は随行していた。申維翰は医官じゃないから通信使の参府旅行時の日朝の医学交流の実態は書かれていないけど、たぶん医師同士のそれなりの交流はあっただろうと思う。ただし、正式な国使だから幕府の医官などの限られた人しか訪問できなかったんじゃないかと思う。この3者の観察したものを本シリーズであれこれ紹介させていただくためちと前置きが長くなりましたが、江戸城における彼らの体験談は後で紹介するとして、まずは化粧における各項目で引用していきます。ガイジンがどういう風に日本女性を見ていたかというのも、なかなか面白いものです。文化の違う人間が率直に感じた感想だからね。まずは前回白粉について書いたので、白塗りに関する記述から。(以下、本シリーズで各ガイジンの語る文章はすべて上記3冊からの引用です)ケンペルは肥前佐賀城を過ぎた鳥井町というところで初めて肥前の女性を目にして、 彼女はこの地方のすべての婦人と同様に美しい姿をし、行儀のよい身のこなしを しているが、大そう厚化粧していたので、われわれはこの娘を危うく人形と見まちがえる くらいであった。彼女たちは小さい体をしているが、大へん若々しく歩き回るので、 まだ未成年と思っていたが、それにもかかわらず乳を飲む子供を連れて歩いていた。 そのことは少なからずわれわれに不審の念を起させた。肉食人種の西欧人から見れば小柄な日本人が若々しく見えるであろうことは想像がつく。ちと話が飛びますが、鎖国下の日本においてガイジンはかなり注目を集めたらしく、江戸城でもケンペルやツュンベリーはまるで見世物のように色んなことをやらされている。(申維翰はさすがに正式な国の使者だったためかそういう事は要求されていない)その時にはどうやら大奥の女性たちも御簾の陰からガイジン見物をしたらしく、御簾の隙間から見えた女性についてケンペルは ヨーロッパ人のような黒い瞳をした、若々しい褐色がかった円みのある美しい顔立ち であった。また頭部から判断して、大きな体格と察せられ、年齢はおよそ36歳ほどと 思った。ケンペルが垣間見をしたのは自分が踊っている時で、しかもわずかな隙間から2~3回見ただけだというのに、執念ともいえるほどの観察眼には脱帽するしかありませんが註釈によるとケンペルに姿を見られた女性は「左大臣鷹司教平の娘で当時40歳」だというから医師の博識をもってした骨格からの分析もハズレだったようです。鷹司教平の娘が異様に若づくりをしていた可能性もなくはない。女性は化粧や衣裳・髪かたちで化けることができるからね。しかし、翌年の2回目の参府の際、将軍綱吉はカピタンとケンペルにクイズを出した。 (前略)備後(牧野成貞:江戸幕府初の側用人となった人)の年は幾つか当ててみよ、 と言われ、カピタンは50歳、私は45歳とお答えしたら、みながどっと笑った。 (カッコ内はジジイが追加)註釈によるとこの時牧野備後は57歳だったというから、やっぱりここでも実年齢より若く見積もっている。まあそうはいっても、「私、いくつに見える?」なんて本人から聞かれれば、相手が年寄りであればあるほど、しかも女性相手であればしゃかりきに当てにいくよりも実際に思った年齢より若めに年を言っておくのが人間関係を円滑にする社交辞令ってもんだけど鷹司教平の娘の場合はケンペルが頭の中で考えただけだから、社会人としてのマナーを気にする必要はない。てことで、ガイジンからすると日本人は若く見られたようですが、鳥井町の話に戻ると、相当白粉を厚塗りしていたらしい。人形と見間違うほどってどんだけ・・・厚化粧は鳥井町のこの女性に限らず、佐賀の町の総括としてケンペルは 住民は均整がとれていて小柄である。ことに婦人に関しては、アジアのどんな地方でも、 この土地の女性ほどよく発育し美しい人に出会うことはない。ただ、いつもこってりと 白粉を塗っているので、もしもその楽しげで朗らかな顔つきが生気を示すことが なかったら、われわれは彼女たちを操り人形だと思ったであろう。と言っている。日本女性の美しさについては他の二者も書き留めており、ツュンベリーは日本人には黄色い肌も白い肌もよく焼けて茶色になった肌もいるが、上流の婦人はたいてい外出時には何かで顔を覆っているので真っ白であるとして女性に関しては割とあっさりとした記述だが、おカタい儒学者である申維翰の記述は面白い。 女性の容貌は、多くのばあい、なまめかしくて麗しい。脂粉を施さなくても、たいてい 肌がきめこまかくて白い。その脂粉を施して化粧した者でも、肌が軟らかくて つやつやしく、生来のものの如くに自然である。すなわち、眉を描き、顔をいろどり、 黒髪、花簪に五色紋の錦衣を着け、帯をもって腰を束ね、扇をいだいて立つと、これを 望めば人の形のようでない。朝鮮通信使に対しては、日本側も前例にのっとって丁重にもてなしをしている。が、前時代(秀吉の朝鮮出兵)のしこりなどもあり、朝鮮の使節が日本側のもてなしを拒絶したり、申維翰も「通例」に異を唱えるなどして道中色々なもめごとがあったことを記している。率直に言って「お高くとまってるな~」とわたくしは思ったのですが、そんなお高い申維翰でも女性を絶賛しているのを読んで「見るとこはしっかり見てんじゃねーか」と笑えました。ただ、「多くのばあい」と言っているので、例外な女性も目にしたようだけどねにほんブログ村
2016年04月02日

現代と同じく、江戸女性も朝は顔を洗う。佐山半七丸は 毎朝湯をつかうに、至って熱き湯にて顔を洗えば、顔にはやく皴(しわ)を生ず。と現代と同じような注意をしている。顔を洗う時は「糠(ぬか)袋」というのを使う。糠はお米の糠で、これを手の平サイズぐらいの袋に詰めたものだったらしいが、『都風俗化粧伝』の註釈には 【成分中、特にタンパク質を11~17%、脂肪を15~20%も含んでいるので、 皮膚のためには天然のクリームの役をはたしていた、といえる。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)とある。そういえば、現代でも米ぬかシリーズなる基礎化粧品が出てたっけ。糠袋は別名「もみじ袋」ともいったらしいが、何といってもコメ由来なもので、中に入れる糠は絹でよくふるっておかないと米が混ざってたりなんかして皮膚を傷めることがある。また、強くこすりつけると肌を傷めるからそっと回して使うようにすること。そうすれば袋から糠汁がよく出てきめも整い、顔につやが出る。脂っぽい人は糠袋の中に「あらい粉」「あぶら落とし薬」を混ぜると、顔の脂がよく落ちる。して、使い終わったら顔や生え際についた糠をよく落とすことはもちろん、袋の方も裏表、縫い目に至るまでよく糠を落としておくこと。テキトーに洗って、前日の糠が残ったままの袋を使うと、酸化した糠が肌を刺激して肌荒れを起こしてしまうんだそうな。江戸では素材の美しさを大事にしたようで、かなり以前に読んだ本に後姿で目につくかかとを綺麗に保つのが江戸美人の心意気だったみたいなことが書いてあったけど、顔は現代と同じく白くきめの整った肌があこがれだったらしく、綺麗な白い肌をゲットするための方法が色々紹介されている。その方法はあまりに沢山あるし、現在では手に入らない材料を使う場合もあるので、ここでは「色を白くし、顔の光沢(つや)を出だし、皴をのし、一生年寄て見えざる手術の法」という、これまた行政指導が入りそうなタイトルが付けられている秘術を紹介しましょう。 まず、両手の掌をあわせて数十ぺんこすってから両の掌を合わせてみな。手の中が熱く なってるだろ?そしたらまず額をよ~く撫でこすり、次に両の小鼻、頬、口の周りと 順々に自分の顔かたちに沿って何十回もよく撫でる。それから両のまぶた、 次に耳の両脇から耳をよ~く撫でろ。これを毎日続けてりゃ、顔の血めぐりがよくなり、 色は白くつやが出てシワはできねえし、おできができることもねえし、目も耳もはっきり サワヤカになるんだ。これを5年続けてみな。顔の色・形は少女のようになり、ババアも 若返るオドロキの効果があるんだぜ。しかも金もかからねえし、簡単にできる割には 効果絶大という、実に驚くべき神妙の方法なんだ。最後の方はこれもまたちょっと大げさな気もするけど、要するに温感マッサージだよな。『都風俗化粧伝』にはホントかよ!?って爆笑モンの方法も多く載ってるんだけど、その一方で現代と同じ認識に基づく美容法が紹介されてもいるので、なかなか面白い。シワの老け顔でお悩みの方は、上記のマッサージを5年続けてみてください。ただし、効果がなかった場合のクレームは佐山半七丸あてにお願いします顔を綺麗にしたら、今度は化粧水。化粧水の使用がどこまで一般的だったのかはわからないけど、半七丸は家庭での作り方を紹介している。なんでも、ノイバラの花から作る薔薇化粧水のようなんだけど、焼酎の製造に使われていた蒸留器具を使うものの、そういう器具がなくても家庭にあるもので代用もできる。まず、火鉢に水を入れたやかんをかける。やかんの蓋は裏返しにして、そこに花を載せる。大きな茶碗を伏せて、かぽっとやかんの上に載せる。こうすると、やかんの湯が沸くにしたがってその蒸気がふたの上の花を蒸し、花をふさいでいる茶碗の中を花の露がしたたり落ちるので、それを集めて化粧水とする。図解では、やかんの上に伏せて置いた茶碗の上に、さらに水を入れた別の茶碗を上に載せるようになってるんだけど、湯気で伏せた茶碗がぐらつかないようにする重石の役目なのかもしれない。さて、素材の準備が済んだらいよいよメイク。まずはベースメイクで、白粉(おしろい)を顔に塗る。白粉の歴史は 【日本でも古代から顔を白くするために白土、殻粉、軽粉、鉛白、胡粉などが使われた。 なかでも軽粉(塩化第一水銀)は古代中国で発明され、鉛白(塩基性炭酸鉛)は 紀元前四世紀頃ギリシャではじめてつくられたという。】 (『日本の化粧』ポーラ文化研究所より)というものだそうで、鉛や水銀なんて身体に有毒なものを使うから昔の人は中毒になり、特に子供などに悪影響があったと言われるけど、現在でもファンデーションの原料は鉱物が使われてるしな。いちおう、現代で使われている鉱物は身体に無害だとされているものの、あと2~300年もすれば私達も後の時代の人間に「あ~あ、こんなもの使っちゃって」なんて言われるのかもしれない。鉛白が日本に伝わったのは持統天皇の時代で、奈良の元興寺の僧侶・観成が自分の持ち帰った文献をもとに鉛から白粉を作り、持統天皇に献上したのだという。ここにも仏教がからんでる訳だな。水銀は京や堺でも産出されたらしいが、伊勢の丹生(にう)のものが良質で、射和(いざわ)で軽粉に加工され、松坂で売られていたという。それを伊勢神宮の御師がセールスに全国行脚した際におみやげとして配ったことにより広く世に知られるようになったが、室町時代以前には薬として使われていたんだそうな。ことに、梅毒の治療の唯一の特効薬として使われていたらしい。もうひとつ知られていた水銀の効果に「堕胎」がある。『大奥のおきて』によると、「八王子槍組千人同心」という下級武士は10年に1度日光に火事警護のために1年間出張に出向くそうで、同心の女房たちは亭主がいないスキにヘソクリをはたいてわざわざ高い伊勢白粉を買うんだそうな。ただ、亭主がいない間にフンパツして高い化粧品でゼイタクするために買う訳ではなく、水銀の持つ別の効果に期待を寄せて伊勢白粉を買うんだという・・・・・・・ホントかどうかはわからないけどね。鉛から作った白粉の方は16世紀頃から堺で製造が盛んになって、のびもつきもよかったし、伊勢産などの水銀性高級白粉よりも安価だったので江戸期の白粉としては鉛白粉がポピュラーだったという。大奥で使われていたのは、高級な伊勢白粉の方。白粉は水で溶いて使う。歌舞伎の舞台裏を映す番組で役者が刷毛で白粉を塗りたくる化粧の場面があるけど、まあ江戸期の女性のベースメイクも大体あんな感じだったのかな~と思っていたら、生(き)白粉は鉛を酢で蒸したものを水にさらして固めたもので、3種類に分かれると半七丸はいう。すなわち、一番粒子が細かくて上等のものを生白粉といい、その下のランクが舞台香(ぶたいこう)といって役者が使うもの、一番低いレベルのものが「唐(とう)の土」といって値段も安くなるそうで、もちろん往時の舞台香と現代の歌舞伎役者が使う白粉は成分が違うだろうけど、3つのランクのうち下にさがるほど荒くて品質が下がるということのようだから、当時の一般女性は今の歌舞伎の白化粧ほど厚いベタ塗りってカンジではなかったのかもな。昔の白粉は今のものほど肌なじみは良くなかったようで、普段あまり化粧をしなかったり、男性が何かの用で急に白粉を使うような時には粉がふいてあんまり見てくれは良くなかったらしい。白粉化粧を綺麗にするには、とにかく白粉をよく水に溶くこと。少しずつ水を足してその都度よく指で水と白粉をなじませろと半七丸はアドバイスする。あと、湯せんにしてもよく溶けたそうな。よく溶かしたら指に少量を取って少しずつ丁寧に顔に伸ばす。いちどきに顔の上に置いてそれを伸ばそうとすると、体温や風で乾いてしまって綺麗に伸ばせなくなると注意しているから、結構乾きやすいものだったらしい。顔全体に伸ばしたら、眉刷毛に水を少し含ませて軽く丁寧に何度も顔を刷く。ここでしつこく眉刷毛を使っておかないと、粉が浮いてくるんだそうな。眉刷毛で白粉をよく伸ばしたら少し風にあてて乾かし、今度は半紙などを顔にあててその上からまた水を含ませた眉刷毛で何度も顔を刷く。こうすることで白粉が肌によく落ち付いてムラもなくなり、綺麗にツヤが出るという。うん、なんとなく白粉を顔に載せた時の感覚がわかってくる気がするな。なんか説明を読んでるだけで顔がカピカピしてくるような白粉は顔だけじゃなく耳や首筋にも塗った。もちろん、それぞれ丁寧にすりこまないと後がよろしくない。首に塗る時は油をよくすりこんでおいてから顔より濃い目に白粉を塗る。油を塗ることで白粉がよく伸びて持ちがよくなる。鼻すじに白粉を濃く塗ると鼻がすっと通ってみえる(ハイライト効果)し、顔と髪の境がはっきりしすぎてるとおかしいから、はえぎわはぼかすようにする。色黒の人はフツーに白粉化粧をすると白粉の部分と地肌の部分の境目の色が違いすぎて笑える事態になるから、白粉を塗る前にまず乾いた刷毛で粉白粉を髪の生え際など境目になる部分によくこすりこんでおき、筆を使って粉白粉を生え際に向かってはきこむように撫でつける。その上から白粉を塗れば黒い地肌が目立たなくなって綺麗に仕上がる。血色の悪い人は化粧したあとで紅や生臙脂などを少量手に取って肌色に近い色までトーンを落とし、顔に塗りつけてからまた白粉を刷毛で塗るとほんのりピンク色になる。また、白粉の上から粉白粉を塗ると顔がやわらかく見えるとある。などなど、基本的に白と赤と黒の3色しかない当時の化粧品において、よりよく見せるさまざまなテクもあり、下地を作るだけでも結構手間と時間がかかったようですが、一般に上方は厚塗りで、江戸は薄化粧だといわれる。江戸っ子の今泉みねはこんなことを言っている。 【そして何からなにまでさっぱりとして透きとおるような芸者といえば、みんなそのままに 洗い上げたようなすっきりとした感じでございました。白粉でつくったようなものは 一人だってありません。】 (『名ごりの夢』より)いやいや、どんなに白い素肌が自慢だったとしても、芸者がすっぴんのハズはない。それでもみねの脳裏に焼き付いた江戸の芸者が洗い上げたような透き通る美しさを持っていたのなら、それはよほど手間暇かけて何度も薄く白粉を塗り込んだんじゃないかとわたくしは思うのですが、素材をよく手入れしてその素材を活かす薄化粧をするのが江戸の粋、とも言えるのかもしれない。芸者や遊女は江戸のファッションリーダーでもあったから、世の女性たちもそれを真似たのかもしれないけど、一説には天保の改革頃のゼイタク禁止令によって白粉を厚く塗ることがはばかられたから薄化粧になったともいう。ま、少なくとも幕末頃の江戸では薄化粧が一般的だったとはいえるだろうけど、その一方で同じ江戸にあって厚化粧の集団がいた。それが大奥の女性たちで、特異な空間である大奥では薄化粧は下品だとされて高級な伊勢白粉をガンガン塗りたくっていたそうな。ただ、薄化粧であれ厚化粧であれ、1日の終わりには化粧を落とさなければならないのは現代と同じ。その成分からして白粉はやはりお肌にいいものではなかったらしく、白粉でかぶれたり、あるいは洗い残しがあった場合にはにきびができてしまったそうで、にきびができたら顔の皮を少しむいてかんざしの耳でにきびの端をむぎゅっと押せばにきびがぴゅっと出てきて治る、と半七丸は言っている。そんな荒いやり方して、あとが残りそうな気がするのはわたくしだけでしょうか・・・ にほんブログ村
2016年04月01日
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