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汐見多聞下の石垣の石は、はつってるし↓ 矢穴の石もある↓。 奥までくると石垣の上は一段高くなっていて、櫓があったことがわかる↓。出っ張りの上に載っていたのが、「汐見太鼓櫓」。 太鼓櫓というからきっと太鼓があったんでしょうけど、三重櫓だったらしい。安政6年(1859)に火災で焼失したあと再建されたらしいが、文久3年(1863)でふたたび焼失。以後は再建されなかった、とな。それで、この石垣が切れるあたりの構造が複雑で、現地にあった現在の園内図や縄張図では対応しきれんのですが、まず上の写真に写っている石垣の先端を回り込んだところは ぽこんと突き出た低い石垣の上に何かの建造物が載っていたことを思わせる。ここの算木は完成形だから、もうイエアス時代の石垣じゃないみたいだな。この低い石垣の石は少し赤くなっている部分があって これも火災の記憶なのだろうか。 この低い石垣の道の反対側には、対になるような石垣などはなにもない。その代わり、道を挟んだ斜め向かいにはこういう低い石垣があって↓ 本丸側のぽこんと突き出た低い石垣は、上の写真の二の丸側にある石垣と連結して「二の丸喰違門」を形成していた(下の縄張図の赤丸の部分)。 二の丸への正門が大手側にある銅門だというから、こちらは裏門みたいな存在だろうか。けど、二の丸を守るのはこの門だけじゃない。で、まだ本丸へは上がらず、ここは一旦縄張図の矢印の方向へ進みます。二の丸喰違門を過ぎると、道はなだらかなカーブを描いてその先に門の石垣が現れる↓。 見てすぐにおわかりでしょうが、ここに渡櫓門の「下梅林門」があった。道の脇の奥の方には土塁も見える↓。 下梅林門跡には、門の礎石も残されている↓。 渡櫓門だから防御力が最強を誇るのは当然のことで、石垣のサイズから巨大な門だったことはシロート目にも明らかだけど、礎石に残る「ほぞ穴」がずいぶんと立派なことからも、この門が堅固にできていたであろうことは想像がつく。下梅林門を過ぎてすぐの右手には、二の丸と三の丸を分ける天神堀が流れている↓。 写真の正面に見えている石垣の上にはかつて「北多聞」が載っており、その向こうに二の丸大奥の長局があった(前回参照)。縄張図にあるように、かつての天神堀は二の丸の北側から東側にかけてぐるりと二の丸を取り巻いていたものが、今ではほとんどが埋立てられて宮内庁や皇宮警察御用達の敷地に様変わりしているので、現存するのは二の丸北側のこの付近のみ。それにしても、ずいぶん石の間から草が飛び出ているなあ。か細い雑草がコンクリを突き破って道路に生えているのを見るたび、植物の生命力ってすごいもんだな~と思うけど、石垣ってのはマメに手入れしないとこんな風に草が繁茂して、最終的には石垣を崩してしまうのかもしれない。早めに処理しておいた方がよくないですか?宮内庁さん。ところで、下「梅林」門と「天神」堀、この2つの「」のキーワードで「あれ?」と思った方がおられるでしょうか。「(4)」の徳川江戸城初期の城内にあった2つの社のエピソードで、山王社と天神社が梅林の中にあった話を書きましたが、太田道灌時代に勧請されたという天神社、および梅林はこの付近にあったとされ、そこから上下の「梅林門」と「天神堀」という名が付いたそうです。つまり、この付近は太田時代から城内に組み込まれていたようですね。最も古い、江戸氏の時代はどうだかわからないけどね。下梅林門を過ぎると道はすぐ右に折れて、少し規模の小さい門がある↓。 さすがに外郭に近い場所だけあって、二の丸喰違門からこっちこの辺もかなり複雑な造りとなっておりますが、地形としては現在の園内図の方が見やすいかもしれないな。 ピンクのラインがかつての門の位置で、二の丸から来たわたくしはマル1→マル3へと進み、上の写真はマル4の場所。ここは出枡形になっていて、マル4が一の門でマル3の下梅林門と枡形を構成するのかと思ったら、下梅林門は正確にはマル2の上梅林門と対になるらしい。まあ、そうはいってもマル4もちゃんと門があって下梅林門と連携して虎口を形成しているのだから、マル3とマル4で第一の虎口、マル3とマル2で第二の虎口ということになって、大手から二の丸へ入る時のように2連チャンで虎口を突破せねばならないことに変わりはないのだろう。ちなみに、マル4の正式な名称がわからないので、ここでは仮に出枡門としておきます。たぶん、下梅林門の一の門でいいだろうと思うんだけど、上下の梅林門がセットだと言われてしまうと、ちと一の門とは呼びにくいのでなんでこんな厳重な造りになってるのかとゆーと、この先に外郭に抜ける平川門と竹橋門があるからで、かつ下梅林門の内側は本丸と二の丸の両方へ行かれるからに他ならない。出枡門の石垣にも礎石が残っている↓。 出枡門を抜けたところから見た天神堀↓。 写真のちょうど真ん中へんの石垣が少し高くなってる部分には、かつて櫓があった。往時よりかなり堀が縮められたとはいえ、現在の天神堀もそれなりの長さは残っていますが、二の丸側からは都道府県の木が植わってる園地にずかずか入り込まなければならないし、ここより少し先へ進むと旧三の丸で現在は一般侵入禁止の宮内庁エリアなので、天神堀を眺められるスポットというのは限られている。現在では出枡門を出た先はフツーの通路になっているけど、かつては門の前は木橋だった。その木橋の場所に立って、天神堀と反対側を見ると 橋を境に、こちらの堀は「平川堀」と名を変える。平川堀に沿ってぐ~るりと道を回り込んで出枡門のあたりを見ると 何だ、アレ?帰ってから調べてみると、これは「水戸違い」というそうで、高低差のある場所で水位を調節する仕組みらしい。・・・?てことは、出枡門の手前は木橋じゃなかったのか?それとも、元は木橋だったのを後からこういうスタイルに変えたのかもしれない。本ルートの内郭最終地点にあるのがこちら↓。 これが平川門で、別名を「不浄門」という。不浄の名の通り、この門を通って罪人や死者が外へ送り出された。元禄赤穂事件の発端となった浅野長矩もここから出されて、別の場所で切腹した。ただし、清く生きてる人間もここを通った。ここから下梅林門→上梅林門と上がっていくとそこはすぐ大奥だったので、御殿女中もこの門を使った。ゆえに、「御局御門」という名もあわせ持つ。にほんブログ村
2016年02月28日

二の丸に入ったところまでを現在の図に描き込むと、 これを縄張図に対比させると こんな感じになるのかな。二の丸の様相も大きく変わっていて、たとえば入ってすぐの道の舗装路わきは 現在の園内図で「二の丸雑木林」とある場所にあたるのがこの辺だと思いますが、雑木林の中に二の丸御殿の表の3分の2近くと、大奥の一部がおさまる。大奥といえばドラマなどでも格好の題材になるので本丸の大奥を思い浮かべる方が多いでしょうが、二の丸や西の丸にも大奥はあったんですよ。二の丸は一般的には将軍世嗣が入ったように解釈されているかもしれないけど、居住者の顔ぶれはなかなかバリエーションに富んでいて、世嗣のほか、大御所となった前将軍だの、将軍生母だのが住んだりもしている。天璋院篤姫も一時ここに住んだ。明暦の大火(1657)では二の丸御殿も焼失し、『江戸幕府大事典』には 【万治3年(1660)、防火のためか二丸御殿の屋根が瓦葺きになった。】とあるので、それまでの御殿の屋根が板葺だか檜皮葺だかこけら葺かはわからないけど、瓦葺でなかったという点は興味深い。新しく高貴な方を迎えるたびに御殿が修築されたり、幾度かの火災で焼失しては再建が繰り返されたりした二の丸御殿だったが、慶応3年(1867)で焼失したのを最後に二の丸御殿は江戸城から姿を消した。『鹿鳴館秘蔵写真帖』には焼失した御殿跡に大きな礎石がむき出しになった二の丸の荒涼とした光景が写し出されている。まだこの頃にはいくつかの建物が残っていたようなんだけど、現地でもらったリーフレットによると、二の丸雑木林のスタートは 【昭和天皇の御発意により、都市近郊で失われていく雑木林を復元しようと昭和58年から 3か年かけて造成された二の丸雑木林があります。また、天皇陛下のお考えを受けて、 平成14年に拡張された新雑木林には流れもつくられました。】というものだそうで、二の丸御殿の礎石や各種遺構が雑木林の中にどの程度残っているのか気になるところでもある。雑木林の中にはうねうねと遊歩道も通されているものの、この時は奥の庭園の方を目指して進んでいきました。 【二の丸庭園 江戸時代、二の丸には小堀遠州が造り、三代将軍徳川家光の命で改修されたと伝えられる 庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃して いました。現在の回遊式の庭園は、昭和43年の皇居東御苑の公開の開始に当たり、 九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものです。】 (現地解説板より)最初の二の丸の縄張はこれまた藤堂高虎によるものとされるが、二の丸の最初の御殿は小堀遠州によるものだという。御殿は幾度かの再建を経ているので、時代ごとにそれなりの違いはあるようだけど、手持ちのいくつかの絵図では二の丸の奥部、三の丸に近い方はぽっかり空いていたり庭園が描かれていたりするので、おおむね庭園として利用されていたらしい。 この奥にあるのが、二の丸池。 結構広いッス。どこの城も中心的存在の郭にはめいっぱい敷地を使ってパッツパツに御殿が建てられているのが常で、日本国の政庁である江戸城の本丸も例外ではありませんが、それに比べると広い庭園を擁する二の丸はゆったりと優雅なもんで、池の端には この二の丸池にはアサザ・コウホネ・ヒメコウホネ・ヒツジグサの4種の水生植物が花を咲かせるそうで、これはアサザかな。現地の解説板によると、アサザは赤坂の御用池から株を移したものだそうな。こちらが池の奥側から本丸方面を撮った写真で↓ 大ざっぱに言って、真ん中に写っている高い木の向こう側が御殿の敷地。真ん中の高い木の両脇に広がっている低い木が雑木林だから、低い木の群れを御殿建築に置き換えてご覧ください。ここから池伝いに少し進むと、池の真ん中に通した園路があり↓ その先は石を配して往時を思わせるような造りとなっている↓。 池を一周して本丸方面へ向かって歩き出すと、建物が見えてくる↓。 ちょうどこの辺りで、例によってまた短い動画を撮ってきました。30秒ほどの短いものですが、広いところは動画に限るぜ。 気候もちょうどいい時期だし、天気はいいし、アサザは見ごろだし、それになにより都心のど真ん中とは思えない静かでリッチな空間。本丸の方と比べたら、この時は人もそう多くはなかったですが、皆様ベンチで憩ったりアサザを熱心に撮ったりと思い思いに優雅な庭園でのひとときを過ごされておりました。さて、二の丸庭園に別れを告げてルートの先にある建物へ。 【諏訪の茶屋 諏訪の茶屋は、江戸時代には吹上地区(現在御所等のある一帯)にありました。 この建物は、明治45年に再建されたもので、明治期の茶室風の建物として優雅な外観を もっているため、皇居東御苑の整備に当たりここに移されました。】 (現地解説板より)リーフレットによると、吹上でご休所として使われていた茶屋だとある。茶屋っつっても、相当デカいけどね。ところでMapfanで諏訪の茶屋のある場所はここですが、茶屋から西にかけての一帯は二の丸の大奥があった場所で、現在の園路で茶屋から先しばらくの間は「都道府県の木」が植えられている。茶屋から都道府県の木が建っているあたりがちょうど二の丸大奥の長局(ながつぼね)のあった場所で、大奥についてはこの先の本丸のところで少しまとめて書こうと思ってますが、奥勤めの御殿女中はみな住み込みだったので、その奥女中たちが住んだプライベート空間が長局。城内で女中は長屋住まいをしていた訳です。現在ではそこが長局だったことを示す案内板などはなにもなく、代わりに都道府県の木とどこどこの県のナントカという木という標識しかありませんが、木々の奥には江戸城二の丸の遺構がちらほら見える↓。 この記事の一番上の園内図で、諏訪の茶屋および都道府県の木は天神濠(堀)にほど近い場所に描かれていますが、その天神濠沿いにはかつて「北多聞」が建っており、上の写真は多聞へ上がる石段だと思われます。あ~、あれに近寄りた~い、あの石段を登りた~いと通路からいじましく眺めておりましたが、ここも皇居の一角で皇宮警察のパトロール隊は頻繁に城内を周回しておるので、ずかずかと園地に入るのはさすがに控えましたで、長局跡を抜けて本丸方面へ向かう。 上の図で矢印の先っぽの手前あたりから撮ったのがこの写真で↓ これが本丸と二の丸を隔てる石垣で、石垣の上には「汐見多聞」が載っていた。この石垣の下にはかつて東照宮があったそうで、「上野第二編(67)」で書いた城内の東照宮の変遷のうち、本丸に勧請されたものを二の丸に移したその場所というのがこの付近らしい(ただし、移した当時はまだ「東照社」)。ま、そのことは現地から戻ってから知ったので、実際に東照宮があったのは撮影地点よりもう少し戻ったあたりなのかもしれない。にしても、紅葉山には元和4年(1618)にすでに東照社ができてるんだから、いつでも手軽に参拝できるように本丸に小さな社を分祀するのはまだいいとして、それをわざわざ二の丸に移す必要性が感じられんのだが二の丸に降りてくるなら、紅葉山へ行くのだってたいして変わんなくね?って思っちゃうんだけどね。この付近にあった東照宮が紅葉山へ統合されたのは、承応3年(1654)。撤去された二の丸東照宮の社殿は多少の変遷を経て、なんと今でも別の場所に現存している。にほんブログ村
2016年02月23日

大手三の門の枡型内部にはこんなものもある↓。 【同心番所 「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、大番所とこの同心番所の3つが残っています。 城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。ここには同心が詰め、主として、 登城する大名の供の監視に当っていました。】 (現地解説板より)どんなに虎口を強化しようとも、こんな場所に番所なんか置いたら防御力ガタ落ちで元も子もないので、城好きの方はもともと別の場所にあったものだとおわかりでしょうが、前回下乗橋前で主人の帰りを待っていた家臣たちの監視をしていたというのがこの番所で、ゆえに一の門の内側ではなく、外側に置かれていた建物。大名の江戸城登城というのは、今でいえばさしずめ大病院を受診するようなもんかな。さんざん待たされたあげく診察時間はわずか、みたいな・・・まっ、それでも城内で粗相でもしようもんなら、ヘタしたら一族郎党どころか一国の家臣が一斉にプータローになってしまうので、大名本人にすれば「御城」への定例登城は大変なお勤めですが、門外で待ってる家臣たちは長い待ち時間を情報交換などのおしゃべりに費やしたりもしたそうで、「下馬」の立て札がある場所でのおしゃべりから「下馬評」の言葉が生まれたなんて話もある。それにしても、こんな場所に番所を移してくれんでもええのに・・・なぜって、 番所がジャマで枡型内部の石垣の眺めが一部遮られるからです。ちょっとわかりにくいですが、上の写真の奥は雁木になってます。反対の二の門側の雁木の前には、なにかある↓。 なんだろ、あれ・・・水場?さて、大手三の門の渡櫓門を突破すると、とたんに開放的な光景が広がります↓。 左に写っている大きな建物が百人番所で、あれの場所は往時と変わってない。城内には要所要所にいくつか番所があり、大手三の門は門の外に同心番所、門の城内側に百人番所があるという厳重な構成だった。ちなみに、『落穂集』では「現在の百人番所の門が当初の外構の大手門だったんですよ」と言っているので、イエアス入府直後頃の城域はかなりミニマムだったことがわかる。現在では大手三の門の先はやけに緊張感のないだだっ広い場所ですが、 青のラインが本丸へ向かう正式な登城ルート。わたくしは二の丸から攻めたので赤のラインをたどっていきますが、本丸・二の丸どちらへ行くにも複雑で厳重な造りとなってます。この付近は現在ではこうなっていて↓ かつて城を厳重に守った御門は見事に取っ払われていて、一部の石垣が残るのみなので、城の構成を知らずにただ二の丸目指して歩いていくとどうなってたんだ、これ?ってカンジになっちゃってますが、縄張図の方を見ていただくとわかるように、大手三の門を抜けるとすぐ右に90°向きを変え、またすぐ右に折れて枡型に入る。つまり、大手三の門の背中あわせにもうひとつ枡型があり、二の丸を攻めるには二重の枡型を立て続けに突破しなければならない訳です。第2の枡型の一の門は高麗門、二の門は渡櫓門の「二丸銅門」があり、「あかがね」だから門扉に銅を貼っていたものと思われます。慶長19年(1614)、寺沢広高によって建てられた門。で、これが銅門の枡型に入ろうとするところの写真で↓ 右に写ってる石垣は、下乗橋を渡って大手三の門の高麗門の正面にあった石垣の裏側。なので、ひとつの石垣を効率良く使って2つの枡型を作り上げる構造になってます。銅門は二の丸の正門にあたり、門前には番所があった。銅門の警備は持弓・持筒組が各5人ずつ詰め、門番は大番与力および同心が務めたそうな。銅門の枡型は、上の写真に写っている正面と右の石垣しか残っておらず、しかも石垣直下は園地に作りかえられているので、何も知らなければここが枡型だったとはとても思えない。その上、この場所から本丸側を見ると コレですから。幻の銅門枡型を思い描くより、目の前にそびえたつ石垣にみとれちゃいます上の縄張図で、赤の矢印の先端の上に短い堀と、堀の左右の端に櫓が描かれてますが、石垣2枚目の写真は左側の櫓の直下から本丸石垣を撮ったもので、この石垣の上に「台所三重櫓」があった。頑張って銅門を突破しても、あの石垣の上の櫓からまた攻撃されるんだな・・・んで、石垣直下の堀は「白鳥(しらとり)堀」といい、いくつかの変遷をたどっている。まず、太田時代から遠山(後北条)時代にかけては本丸・二の丸・三の丸の間にかなり深い空堀があったのを、イエアスが入府してまず堀を埋立てたので城の敷地がかなり広がったと『落穂集』は語る。白鳥堀も天正18年(1590)のイエアス入府直後に埋立てられたというから、一連の土木工事の対象になっていたものと思われる。その後、慶長11年(1606)の本丸工事の際に再び掘り起こされたようで、寛永12年(1635)頃には今よりもっと長い堀だったらしい。寛永14年(1637)になると堀の幅もずんと拡張され、銅門枡型も堀の中にすっぽり入るほど幅が広かった。堀には能舞台が建てられ、舞台から堀をはさんだ正面には観劇のための殿舎が建てられてここで優雅に能鑑賞を楽しんでいたというからまあ家光らしいというか・・・が、その優雅な施設も寛永20年(1643)には取っ払われてしまう。寺沢広高が銅門を建てたのが寛永19年というから、レジャーエリアを撤廃して白鳥堀の幅を縮小し、防御を厳重にしたってところかな。もともと本丸は堀に囲まれていたらしいんだけど、二の丸の拡張工事などで多くが埋立てられ、現在本丸の東側で堀が残っているのは白鳥堀のみ。ところで、白鳥堀付近の石垣はイエアス当時のものだそうで、城内にはほかにもその頃の石垣があるにはあるようなんだけど、一般公開されている場所でイエアス当時の古い石垣を見られるのはこの場所だけとのこと。上の本丸石垣の2枚目の写真なんかを見ると、確かに算木の積み方は高度に完成されたスタイルじゃない。堀越しでもあり、堀っぱたは園地になっているのであまり石垣には近寄れませんが、往時をしのばせる貴重な石垣ですので、登城の際はぜひご覧ください。で、二の丸の方へ向かって歩き出すとこんなものがある↓。 これは「皇居正門石橋旧飾電燈」だそうで、それ以外の詳しい解説はない。台座の部分の拡大↓。 「江戸城」にはとても似つかわしくないものだけど、日本橋にあった照明灯を思い出させる華麗な作り。で、このすぐ先に二の丸への入口があります。 右側に写ってるのは、トイレ。えっ、ここが入口?ってカンジの地味な造りになっちゃってますが、まあこれも時代の流れですから仕方ありませぬ・・・時代による差はあるんでしょうが、幕末頃にはすでにこのあたりから二の丸御殿が奥へと広がっておりました。↓ぽちりと四露死苦。にほんブログ村
2016年02月15日

大手休憩所の前からはいよいよ城内らしくなってきます。まずこれ↓。 ここが大手三の門ですが、ここまでのルートを皇居東御苑の地図に描き込んだのがこれで↓ (現地案内図より)矢印の先っぽが上の写真の撮影地点。大手門をくぐってからここまで、ずっと地面の上を歩いてきましたが、江戸城の縄張図に照らし合わせるとこうなってます↓。 ピンクのラインがわたくしのたどったルートで、こちらの絵図だと矢印の先っぽよりもう少し進んだ地点が撮影ポイント。縄張図まで城内に掲示してくれるのは大変ありがたいですが、少々色使いが地味でわかりにくい部分もあるので、堀の部分は水色で色付けしました。で、縄張図の方を見ると一目瞭然ですが、大手三の門に侵入するには堀にかかる橋を渡らなければならない。そして、絵図にはこの橋は「下乗橋」とある。江戸期も長いので、城内ルールには当然様々な変遷がありますが、登城ルールで一般的に言われていることをまとめると、ヒラ幕臣は大手門の外にある下馬所から歩かなければならない。ま、時には例外もあって、下馬所から歩くべき者でも体調不良などのやむを得ないケースで許可がもらえた場合にはも少し先まで駕籠に乗っていくこともできなかった訳でもないようだけど、あくまでそれは例外。大手門外で駕籠を降りなくていいのは「乗輿」といわれる特権を持つ大名や500石以上の高級役人、高家など。ただし、乗輿資格保持者でも登城のために引き連れてきた供のほとんどを大手門外の下馬所に置いていかねばならず、大手門より先に連れ込める家臣の数は身分によって定められていた。城内に連れ込める家臣の数を制限したのは、明暦の大火直後にはすでに見られるらしい。しかし、乗輿の権利を持つからといってのほほんとしてはいられない。なぜって、大手門を入ってほんの少し歩いた大手三の門の前にある下乗橋でほとんどの乗輿権利保持者が駕籠を降りなければならないから。ま、当事者たちにとっては大手門から大手三の門までのわずかな距離を駕籠に乗って行ける乗輿の特権というのは大変な価値があったんでしょうが、現実にはホントにわずかな距離なので、プチセレブといったところかな。もちろん、下乗橋で駕籠を降りる大名は一国のお殿様なのでバカにしてる訳じゃないですが、わたくしの基準は超スーパーセレブの輪王寺宮なもので上の縄張図で下乗橋の左横に内桜田門(桔梗門)があったのでついでに外桜田⇒内桜田経由で登城した場合のルートをピンクの点々で描きましたが、大手門・内桜田門のどちらから登城しても、この下乗橋で合流することになります。で、ほとんどの方がこの先から自分の足で歩く訳ですが、御三家や輪王寺宮は駕籠のままスルーします。増上寺はどうだろうな・・・もう少し先まで駕籠で行けたんじゃないかって気がするんだけど。プチセレブはここでも従者の数を制限されるので、置いてけぼりになった従者たちはここで主人の帰りを待つ。縄張図には描かれてませんが、下乗橋の手前には番所が設置されており、待機中の家臣たちの監視をしていたそうな。さて、大手三の門は二の丸への正門でもある。城内奥部への重要な通過点でもあるので、縄張図にあるように枡型の構成となっている。木橋である下乗橋を渡ると最初に現れるのがこの記事の最初の写真の石垣で、 ジャマな植え込みがなければ、奥にある高石垣までよく見えていい眺めだけど、ここでは奥の石垣は最上部しか見えない。反対側の石垣↓。 どっしりとしたお素敵な石垣ですが、内側へ回ってみると雁木がある↓。 なら、枡型の外側の門(一の門)は渡櫓門じゃないってことか。現地の看板に大手三の門を外側から見た絵が載っていて、 (国立国会図書館蔵『徳川盛世録』)多聞と連結された門らしい。しかしこの絵、大手三の門の石垣が亀甲積みになっとるぞ。現存する石垣と全然違うけど、こういう時期もあったのか?幸い、『鹿鳴館秘蔵写真帖』には大手三の門を外側から見た写真が載っているので見てみると、石垣は現存しているのと同じ布積み。しかも、多聞に狭間はない。『徳川盛世録』は明治22年刊らしいから、明治4年に撮られたと思われる『鹿鳴館秘蔵写真帖』の写真と外観が異なるハズはなく、『徳川盛世録』の上の絵については建造物のリアリティを追及したものではないらしい。じゃあ、『鹿鳴館秘蔵写真帖』に写されている大手三の門の外観はといえば、現存する石垣の上に白漆喰の多聞が乗る。多聞の屋根は本瓦葺。石垣の間に建つ一の門は、本瓦葺の高麗門のように見える。ちなみに、現存する石垣も写真の中では大手門石垣のように石と石の間が漆喰で固められたように一部白くなっている。今ある石垣は上の写真のように綺麗になっているので、大手門石垣と同じように後代になってから修繕されたんだろうな。一の門の石垣に使われている石はかなりのビッグサイズで、石が大きい分積んでる石の数は少ないのでぱっと見あまり高さがないようにも見えるけど、 石垣の前にたたずんでる左端の観光客がいい目安になってくれる。石垣だけで結構な高さがあります。巨石の石垣の奥に写っているのが、先ほど植え込み越しに見た高石垣で 一の門に使われてる石とはサイズも加工も積み方も全然違う。目立たない場所の石垣が少々雑になるのは、日光輪王寺や寛永寺なんかと同じだな・・・なんてちょっとおかしくなったりして。大手三の門の枡型を構成する石垣↓。 さすがに立派なもんです・・・門だけに。一の門をくぐって枡型内で左に90°折れると目の前にあるのが渡櫓門の二の門。ここも現在では石垣のみが残っております↓。 例によって城内だけでも結構な枚数の写真を撮ってますが、今見返すとなんでこんな撮り方したんだろ?とか、なんで全体の写真がないんだろ?とか、自分でも不思議な時があります。まあ大体はそれなりの理由があって、江戸城内ではおもに ・要所には多くの観光客がたむろしている ・デカすぎて広角がないわたくしのカメラでは画面に収まらない ・遠くから全体を見るよりも、近寄って観察したいといった理由で全体を収めた写真がないスポットが色々ございますのでご了承ください。要するに、この二の門でも「わあ、石垣!わあ、デカイ!すごい!!」と嬉々として近くで左右の石垣を別々に撮ったものの、門全体を撮った写真がない訳です。いいかげん、記事を書く時のことも考えて写真を撮らねばならんな・・・それでも、近くの木などと比較して石垣だけでもかなりの高さがあることはわかっていただけるでしょうが、この高い石垣の上にさらに渡櫓門が乗るんだからね。ビジュアルだけでも相当な威圧感があったことでしょう。ここの枡型は、寛永6年(1629)酒井忠世・真田信之などの8大名に命じてより厳重なものへと改修されたそうで、一の門を入ると正面多聞の狭間から攻撃を受け、気を取り直して左の二の門へ向きを変えても正面の渡櫓門および背後の多聞からびゅんびゅん矢が飛んでくる。もちろん、一の門正面の多聞からの攻撃は続くので、三方から矢を射かけられて痛い痛い・・・大手三の門はまたの名を「大手下乗門」「下乗門」といい、「黒金門」ともいう。「くろがねもん」なら門扉に鉄が貼ってあったってとこだろうけど、『鹿鳴館秘蔵写真帖』では一の門・二の門ともに門扉が写っていないのでどちらが「黒金門」だったのかはわからない。おそらく、二の門の方だろうな。一の門はせいぜい筋鉄が戸に打ちつけてあるぐらいだろう。ところで、枡型内部は最強の虎口といえど、敵を門前で食い止めるに越したことはない。が、一の門は強度の点で防御には難のある高麗門。しかも、高麗門脇の多聞に狭間はない。なら、一の門の突破は比較的ラクなんじゃないかとも思いますが、これはこれで問題ないのだ。というのも、 ちと見にくいですが黄色い小さな□が櫓。マル1が百人二重櫓でマル2が巽三重櫓。下乗橋前はこの2つの櫓から思いっきり狙い撃ちできる位置にある。今は地形からしてすっかり変わっているので、ここで脳内シミュレーションする人はほとんどいないと思いますが、『鹿鳴館秘蔵写真帖』には下乗橋前から左右を撮った写真が載っていて、左は百人二重櫓を筆頭に、右は巽三重櫓を筆頭にして奥へ多聞と櫓がずらりと並んでいて実に壮観。下乗橋側に面している二の門の漆喰が一部剥がれ落ちてボロっちく見えはするものの、これらが残っていたらどんなにいいかと思わずにはいられません。 にほんブログ村
2016年02月14日

では、まずは大手高麗門の方からご紹介します。 戸は筋鉄(すじかね)。戸を横から見ると 前回の写真の通り、この脇にはすぐに渡櫓門が控えているから、お城ファンにはここが枡型だとすぐにわかるでしょうが、それにしてもずいぶん薄い戸だなあ。福山城の筋鉄御門もこんな感じの薄さだったし、薄い板に海苔のように鉄を貼りつけるだけでそんなに強度って増すのか?なんて思ってみたりもする。高麗門内側のすぐ脇は おお、城だよ城!!江戸城跡地といっても、現在は「皇居東御苑」なのでどの程度城の遺構が残っているのかとちと不安もあったのですが、入口からこれだから当然テンションは急上昇。 堀っぱたの石垣とは違って、内部は巨石もふんだんに使われた綺麗な切込ハギでさすがの風格。はつってるような石もあるし↓ 石垣の上部は綺麗に揃えられている↓。 この石垣の先が 工事中でシートをかぶっている大手渡櫓門。この記事を書いている2016年2月時点ではたぶん工事も終わってるんでしょうが、工事前の渡櫓門の写真が現地にあったので、いちおう載せておきます↓。 大手門が最初にできたのが慶長11年(1607)で、築城の名手・藤堂高虎による。その後、元和6年(1620)に伊達政宗などによって修復されたが、明暦の大火(1657)の時に渡櫓門は焼失したらしい。本丸御殿などは何度も焼失しているものの、大火のあとに再建された渡櫓門は近代に入るまで罹災しなかったらしく、大正12年の関東大震災で大破して昭和2年に改築、その18年後に焼失してかつての門の遺物が大手枡型内に展示されている↓。 【旧大手門渡櫓の鯱 1945年(昭和20年)4月、戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱です。 頭部に「明暦三年酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)で消失した後、 再建された際に製作されたものと推定されます。今の大手門渡櫓は、1968年 (昭和43年)に再建されたものです。】 (現地解説板より)「戦災で消失」って、皇居って攻撃対象から外されたんだと思ってたんだけど、結構あれこれ罹災しているらしい。ネットで調べると、攻撃対象にはなってなかったけど堀を飛び越えた火によって延焼したとか、皇居(当時は宮城といった)への攻撃は禁止されていたのに、爆撃機のパイロットが行きがけの駄賃とばかりに勝手に爆弾を投下したとかあって実際のところはよくわからない。そもそも戦時下のことだから、正確な情報なんて公開されるハズもないし。ただ不思議なのは、渡櫓門は燃えたのにそのすぐ近くにある高麗門は残ったということ。高麗門の方がずっと燃えやすいだろうに・・・ということで、渡櫓門は昭和の再建ですが、高麗門の方はおおむね往時の姿をとどめているらしい。ちなみに、今回の工事は東日本大震災で建物が大きく変形したためだとある。年月の経過による耐久性の低下という面をのぞいても、大破したという関東大震災の規模のすさまじさがうかがえる話ですが、まあ東日本大震災は震源からかなり離れてるからな・・・んで、こちらが現在の皇居東御苑の全体図↓。 (現地看板より)大手渡櫓門をくぐってすぐの場所の写真がありませんが、現地にある別の絵図を一部拡大して加工したのがこれで↓ 赤い四角が大手門。橋を渡るとすぐに右に90°向きを変えるので、渡櫓門をくぐると赤い矢印の方向を見ることになるのですが、濃いグリーンになってる部分は一般が立ち入れないエリア。ここには宮内庁病院のほか、皇宮警察の宿舎や厩舎などがある。ここはかつての江戸城三の丸にあたり、最下段。渡櫓門のすぐ正面には大番所があり、その奥に下勘定所、奥の門を入ると三の丸があった。とはいっても、三の丸の御殿は元文3年(1738)に撤去されたといい、しかも現在はパンピーは入れないエリアなので、江戸城の訪問記を含めあまり世間で三の丸が話題になることはない。どのみち入れないエリアだからここでまとめて三の丸の概略を紹介しておきますが、ここも大手門と同じ慶長11年にやはり藤堂高虎が縄張を行ったとされる。当初は石垣のみで建物などはなかったようなんだけど、徳川四天王の1人・酒井忠勝の屋敷などは三の丸にあったというからオドロキ。寛永12年(1635)に隣接する上の段の二の丸の拡張工事が行われたため、三の丸の規模も変更される。幕末には約2万坪の敷地があったという。寛永20年(1643)に御殿の造営が始まり、正保3年(1646)に完成。新築なった三の丸御殿には、3代将軍・家光の子である亀松と徳松が入った。徳松はのちの5代将軍・綱吉ね。慶安2年(1649)にはさらに徳松のための御殿が建てられたそうなんだけど、それらの御殿も明暦の大火で灰燼に帰した。歴代将軍の生母でメジャーな人といえば、家光の母・江か綱吉の母・玉(桂昌院)がいい勝負かと思いますが、その桂昌院のための御殿が延宝8年(1680)に建てられ、元禄2年(1689)に改修されている。時期は異なるとはいえ、綱吉親子が住んだゴーカなエリアに今では警察官などが住んでおる訳ですが、そのほかにも銃器庫・製薬所などがあり、延宝5年(1677)には貨幣の改鋳が行われたりもしたらしい。(三の丸概略の参考文献:『江戸幕府大事典』大石学編/吉川弘文館)んで、上の三の丸エリアの図に戻りますが、「二の丸庭園」との間に石垣が描かれているので段差があることはわかるものの、上の図では地続きになってますね。が、かつては二の丸との間には堀があって、独立した郭だった。『鹿鳴館秘蔵写真帖』には大手渡櫓門を入ってすぐの、枡型の外側から三の丸方面を見た写真が載っており、それには二の丸石垣の下を堀が流れている。ので、御殿は江戸中期に撤去されたものの、江戸城開城まで二の丸とは堀で隔てられており、近代に入ってから埋立てられて現在のような地形になったものと思われる。さて、江戸城の図を見ると色々道が描かれていて「わ~、どこからどうやって回ろうかな~」とウキウキしますが、一般公開されているとはいえ天皇陛下のお住まいのすぐ隣でもあり、東御苑も皇居の一部ではあるのでなにげに立ち入れない場所も多く、ゆえに大手を入ると悩む必要もなく観光客は必然的にすぐ左に90°折れて奥を目指すことになる。道なりに進んだ右手にあるのが三の丸尚蔵館↓。 ここでは何かの企画展をやっていたけど、お腹もすいてきたし早く奥へ進みたいので中には入らず。ここにも二の丸東側石垣下から続く堀があったけどすっかり埋立てられている。三の丸尚蔵館の奥3分の2はかつての堀の中。その斜め向かいにあるのがこれ↓。 「済寧館」とあるこの建物は案内図に「gymnasium」とあるから、武道館てとこかな。ここも入れないエリアなので、皇宮警察の兄ちゃんたちが汗を流している場所なのかもしれない。その向かいにあるのが「大手休憩所」なんだけど、写真がないな・・・いろんな人種のニンゲンたちが沢山おったからな。中は売店のようだったので、掘り出し物がないかと休憩所へ入ってみた。せっかくの皇居なので、娘さんたちの首輪に付ける菊のストラップでもないかと期待していたのだ。・・・が、土産物の数はそう多くはなく、しかも「オオ!ジャパ~ン!!」てガイジンが喜びそうなグッズが多かった。それでも、「これ、買おうかな」と思った何か(←覚えてない)があったんだけど、売り子のおじさんは同僚とのおしゃべりに忙しかったので声をかける気も失せて早々に城攻めに戻る。にほんブログ村
2016年02月11日

さて、こちらが大手↓。 そこそこ古い絵図でもこの辺りに入口が描かれている。慶長年間にはすでにここが大手として存在していたようだけど、何かで大名の登城はここから入らず脇に回ったということを読んでいたので、この時はまっつぐ大手から入らず前回写真ナシで一瞬だけ紹介した桔梗門の方へ回ってみました。ま、今いろいろ検索してみても大手も大名の登城に使われてたようではあるんだけどね。 ↑脇の方から見た大手。ただこれ、6年前の写真です。今回わたくしが登城した時には大手の渡櫓門は工事中でシートがかかっているので↓、 ちょっと暗いけどシートがない写真の方がいいかと思ってさ。あの門の向かいには「腰掛」なんてのも絵図に描かれているから、確かにあの門も大名の登城に使われていたんだろう。江戸城への登城の際、格式によって駕籠を降りる場所が違っていたことを「上野第二編(21)」の宮バナで紹介してますが、将軍が住む江戸城には細かい決まりがあり、最上のマイカー(駕籠)で奥まで乗りつける特権を持つ輪王寺宮と違って、ここから歩く大名、もう少し先まで駕籠に乗っていける大名のいずれも緊張に顔をこわばらせながらあの橋を渡っていったものと思われますが、そんな厳粛な橋で宴会が開かれたなんてエピソードがあります。 この外大手の橋が初めて架かった年の8月25日、月の明るい晩に御老中方が申し合わせて 橋の上に毛氈を敷き、薄縁などを広げて夜更けまで酒宴をされたことがありましてな。 そのうち、本丸より御側衆もやって来て共に月見をしていたそうなんですが、そのことが お上の耳に入り、お重の差し入れを下さるとの上意をいただいたそうですよ。 ま~、今からじゃとても考えられませんけどな、どうもホントにあった話のようですよ。「外大手」ってのが正確にはどこなのかちとわかりかねますが、あの橋の外は「外曲輪」で外界と接していた場所になるので、あの橋の上でドンチャンやっていた可能性は充分にある。もしくは桔梗門あたりかもな。「お上」がイエアスなのか秀忠なのかも不明だけど、かなり初期ではあるのだろう。遊女の給仕(前回参照)といい、江戸城にものびのびした自由な雰囲気の時代があったというのが面白い。ではここから、内堀通りを桔梗堀に沿ってしばし南下します。 少々写真がボケているのはごめんあそばせ。2枚目の写真の石垣は、白い石がだいぶ雑なので近代に入ってから補修工事でもされたのかもしれないな。この辺の石垣はすでにイエアスの時代からあったようで、征夷大将軍になったイエアスは西国の外様大名に命じて江戸城の大リフォームを始める。工事を請け負った業者・・・いやさ大名たちは、石垣に使う石をおもに伊豆半島の東岸に求めたという。築城のために伐り出されながら運搬の途中で落下したりして使えなくなった「残念石」は各地にあるけど、江戸城の石垣になれなかった残念石も多く存在し、 【東伊豆から江戸までは「石船」で海上を運送していたが、石を港で積み落としたり、 途中で沈没する船が続出。記録によると慶長11年(1606)だけでも300隻が 海に沈んだという。東伊豆の沖や東京湾には、こうして海に沈んだ数多くの残念石たちが、 引き上げられることなく今なお海中深く眠っている。】 (『歴史群像シリーズ よみがえる日本の城2』(学研)より。漢数字は戦国ジジイが変換)というからハンパない。残念石だけではなく、晴れて江戸城の石垣にはなれたものの、現在でも地中に埋もれて世間の目に触れない石垣がある。既存の建物の建て替え工事に伴ってそういう埋もれた石垣が発見されることは平成の世になってもあるようで、日本一の大城郭だった江戸城を守った石垣が既知・未知含めて一体どの程度現存しているのかは、石垣ファンにとって興味深いところでもある。そんなことを考えながら歩を進めると見えてくるのが、桜田二重櫓↓。 前回6年前の写真から紹介したのと同じ櫓。大名登城口である桔梗門まで行ってみようとわざわざ回り道をしたものの、この頃には早くも後悔し始めていた。なぜって、 彼らがウザいからです。数多くの皇居ランナーが引き起こす問題などについてはよくTVでも取り上げられるし、まあそれなりにはいるだろうなと思ってはいたものの、ホントに多い。早朝とかならね、歩道もそれなりに広いしまあいいとは思うんだけど、この時は天気のいい休日の真昼間。日本を代表する観光名所なだけあって、ガイジンも多いです。ガイジンでも、日本に在住しておるのか結構小さい子連れもおって、みんなのんびりと歩いている訳ですが、そういう中をぬってランナーが走り抜けていく。しかも、あんまり歩く人に配慮するという姿勢が感じられない。(推定)ロシア人が押すベビーカーのすぐ脇をひょいひょい走っていったりするんだからね。見ててホントに危ないです。私も肩をかすられたりしたし。だいたい、何でここを走らなきゃならんのだ?どうせランナーは堀や石垣なんか見やしないんだから、ここでなくてもよかろ?休日といっても、この時はフツーの土曜日。オリンピックともなれば、観光客はもっと増えるでしょう。その時にまでこんな多くのランナーが我が物顔で歩道を走ってたらかなり印象悪いと思うし、歩行者とぶつかってトラブルが起こるケースも増えると思いますよ。ランナーの中にもマナーのいい人はおるんでしょうが、とにかく数が多いので、ここはやはりランニング禁止にすべきだと現地を歩いて思いましたね。お願いしますよ、舛添さんどうしても走りたきゃ、車道の路側帯を走るか隅っちょにタテ1列に並んで歩行者の迷惑にならないようにしてくれそんなでイラつきながら桜田二重櫓の前まで来ました。 だいぶ古ぼけた感もあるものの、破風をアップにしてみると へえ?青海波(せいがいは)じゃないか~。これはオサレだ。で、桔梗堀の向こうに見えるのが皇居外苑↓。 ホントはもそっと先まで進んで桔梗門の前まで行ってみるつもりだったのですが、門に近い場所に人が沢山いるのが見えたし、何よりウザいランナー集団から解放されたかったのでここでくるりと向きを変え、急いで大手目指して戻りました。で、老中や御側衆たちが酒盛りで月見をした(かもしれない)橋を渡ります↓。 ガイジンもそこそこいたけど、それより日本人の方が多い。ちょっとこれは意外だったな。 江戸城本丸エリア・・・現在の皇居東御苑は無料で一般開放されてます。タダなので、門の手前にあるちっこい建物は料金所ではなく、皇宮警察の詰所でございます。こちらは江戸城の正門ということで、勅使などもこの門を使ったというから輪王寺宮が登城される際もやはりこの門をくぐったのだろう。手前の門は高麗門。正面から見るとナニ門かイマイチよくわからないけど、裏から見ると一目瞭然↓。 この記事の最初の写真にも写ってるように、この時は高麗門の奥にある渡櫓門は工事中でシートをかぶっておりましたが、門内にあった解説板にかつての大手門の写真が掲示されてました↓。 (「鹿鳴館秘蔵写真帖」(社団法人霞会館蔵)より)今とは違って当然橋は木橋のようですが、それよりこの古写真で目を引くのは石垣だよな。なにせ明治に入ったばかりの白黒のボトガラヒーなので細部が見えにくい部分もあるものの、写真に写ってる石垣の多くの部分で石と石の間がやけに白くなっている。どうも、わたくしの眼には白漆喰で石の間を補強しているように見えるんだけど今の大手の石垣はこんな風にはなってない。「鹿鳴館秘蔵写真帖」は、江戸博の「大江戸と洛中」展で見た「旧江戸城写真ガラス原板」と同時期の江戸城を写したものだと思うけど、ガラス原版では城の各場所も草ボーボーだったりかなり荒れた様子が映ってた・・・にしても、これはひどい。ガラス原板の方であれだけ城内が荒れてたんなら、これは明治に入ってちゃちな修復をしたというよりも倒幕前からこんなだったと考える方が自然な気がする。一体いつからこんな風になってたんだろうか。城内の巨石を使った立派な石垣の中には、崩壊の危険があり平成に入ってから最新技術を駆使して修復されたものもある。たぶん、大手石垣も崩壊かもしくはあんまりな外観ゆえに近代に入ってから綺麗に修復されたものだろう。漆喰で隙間を固められた石垣の無残な姿は、石垣ファンにとっては驚愕すべきものだけど、今となってはこれも貴重な記録といえるのかもしれない。にほんブログ村
2016年02月09日

坂下門といえば、桜田門外の変で井伊直弼が殺された2年後の文久2年(1862)に、老中・安藤信正が水戸浪士に襲撃された「坂下門外の変」が有名かもしれませんが、『落穂集』では関ヶ原の勝利ののち数年の間、イエアスは駿府から下向すると外桜田門を通って西の丸へ入ったと言っているので(「(5)」参照)、であれば外桜田門⇒坂下門というルートで西の丸に入ったと考えるのが自然だろう。江戸期には坂下門は通用門だったと前回紹介しましたが、江戸城も長い歴史の中で色んな変遷をたどってるからね。通用口になったのは、もっと整備が進められたのちの時代のことなんじゃないかな。少し先へ進んだところから撮った坂下門↓。 撮影地点はこの地図の中心部分。内堀は橋を境に名を変え、井伊家前の堀が「桜田堀」で皇居の正門石橋から坂下門までが「二重橋堀」、坂下門から先は「蛤堀」となっているので、上の写真に写っているのは蛤堀になります。上の写真の右隅に算木の石垣が写ってますが、この石垣↓ に沿って北に進むとすぐに現れるのが桔梗門。・・・が、写真がないここにも坂下門と同じく警備の詰所があって、坂下門では詰所の建物の裏側から写真を撮ることができたんですが、桔梗門の詰所は堀っぱたギリギリに建物が建っているので、写真を撮りたければ警備員の視線にさらされるのを耐えなければならない。訪問から6年経った今でも「イヤだなあ。ジャマだなあ」と現地で思っていたことは記憶に新しいので(←根に持つタイプ)、詰所の真ん前から撮らずあとで撮ろうと思っていて、そのままスルーしたんでしょう。まあ、そのうちリベンジするさ写真がないので桔梗門についてはリベンジ後に紹介しようと思いますが、これがかつて「内桜田門」と呼ばれていた門で、2つの桜田門のうちの内側の門になります。桔梗門から先の堀は「桔梗堀」。桔梗堀沿いに先に進むとあるのが桜田二重櫓↓。 6年前の初詣の時は、このあと大手町へ抜けて有名な平将門の首塚を見てから柏へ戻って、そこから大カラオケパーティーを敢行しました。日本史にハマるにつれて時間を惜しむようになってきたので、ここ数年はカラオケにも行ってませんが、わたくしのカラオケのスタイルというのはとにかく歌う。カラオケだから歌うのは当たり前じゃん、とお思いでしょうが、だいたい6時間というのが通常のスタイルなんでね。相棒と2人で行くので1人あたり3時間になる訳ですが、最後の方になってくるともう声が割れてきますでも1~2時間じゃ歌った気にならないから、頑張るのだ。受付をする際に、「お時間は?」と聞かれて平然と「6時間」と言うと、たいてい「え?」と聞き返されますね。まあカラオケはともかく、6年前の写真はこれで終わりなので、今回の登城へと戻りましょう。外桜田門を入ってから桔梗門まで、往時の建造物は格段に少なくなったとはいえ、堀や石垣はそのままだし、実に壮観な大近世城郭という雰囲気でしたが、長い時間をかけて段階的に整備をしているので、イエアスが入府した初期の頃はまだまだの状態だったと思われる。古老が語った話によると、とりあえず住むところには困らなかったので城防衛の基礎である土木工事を優先させた印象がある。 権現様のご入国後、まずは今の日本橋筋から三河岸通りの竪堀の堀割から始め、 ついで横堀も段々とできていきました。堀工事で出た揚土はお堀端に山のように 積み上げてあったそうですが、諸国から集まってきた町人からの願い出を受けて 町家を割渡しされたので、町人たちは好きなようにその揚土を引き取って地形を築き、 屋敷を建てて表通りには葭垣をめぐらし、町並みが整って住みつく者も次第に増えて いきました。 まあ、そうは言っても初めのうちは町家を願い出る者も少なかったそうなんですが、 伊勢国の者達が多数やって来て願い出たので、伊勢者たちの町家が出来て、表にかかる のれんを見ると町内の半分には「伊勢や」と書いてあったそうですよ。『落穂集』の語るエピソードの信憑性は、モノによってはイマイチかもしれない。でも入府直後の頃の話も多く語られていて、整った近世城郭もいいもんだけど、初期の頃の自由でおおらかで活気のある雰囲気を味わえる『落穂集』などの話はわたくしは好きだけどね。同書には、城の整備と並行して発展を遂げていった町屋の話もある。なんでもまだ最初の頃は治安が悪かったので盗賊をとらえて手下に仕立てあげ、「毒をもって毒を制す」作戦で治安の向上に努めたとか、バクチが流行っていたので厳正に処分したとか色々と面白い話があって、ここでそのエピソードを紹介しようと思っていたのですが、旅日記の方とあわせて本シリーズが遅々として進まずヤバいことになっているので、今回はカットします。ただ、城に関する話はまだいくつかあるのでこの後紹介しますが、さっそく「将軍たちの宝(31)」の続きに戻りますと、大手町ファーストスクエアのあたりに「御評定所」や「伝奏屋敷」がありましたね。これの始まりについての話が『落穂集』にあります。 慶長5年(1600)の関ヶ原以前には伝奏の公家衆が江戸に来ることは ありませんでしたが、天下御一統ののちには伝奏が毎年行われることになったので、 公家衆の接待所としてあらたに伝奏屋敷を作りました。 それまでは老中方の寄合には老中の自宅が使われていたんですが、ふだんは伝奏屋敷は 使わないもんですから、老中の自宅での寄合はやめて伝奏屋敷がちょうどよい寄合所と なりました。伝奏屋敷での給仕やまかないは下奉行が務めていたのですが、老中の寄合の 時には誰に給仕をさせるかという話になり、板倉勝重殿が 「吉原はどうですかな?遊女たちを何人でも差し出させましょうよ~」 「おっ!それはいいですな」 「さすがは板倉殿じゃ。のう、皆の衆?」 「異議な~し!!」 てことで、満場一致で可決。 伝奏屋敷まで遊女が船でやって来る時には船の上をむしろで覆い、幕やすだれなどが 掛けられて、そのうち屋形船というものも始まりました。 伝奏屋敷は最初の頃は評定所としても使われていたんですが、評定所には傷を負った 罪人などが連行されることもありましたので、場所が穢れます。その上、春に伝奏の 公家衆がやって来ればここへ逗留されるので、その間は御評定をすることはできません。 ちょっとそれでは何かと問題があるので、別に御評定所の普請がなされて町方のまかないも やめ、以後はお城から坊主衆が給仕役として務めることになったそうです。板倉勝重は江戸町奉行や京都所司代の重職を務め、政治面で優れた才能を発揮して初期の江戸幕府を支えた1人。寛永寺シリーズでは、天海とともに京に赴いて権現号の承認獲得をしたり、松姫(徳川和子)の入内と「およつ御寮人」事件の際には藤堂高虎と組んで朝廷と幕府の和解に尽力した姿を紹介してますが、老中の集まりに遊女を呼ぼうって提案をするなんて、「板倉、おぬしもやるのお~」とツッコミを入れたくなるのはわたくしだけじゃないでしょう。『落穂集』に登場する質問者もさすがに遊女の給仕には驚いたらしく、 「ちょっと、ご老人。確かにその頃は何でも手軽に済まそうという雰囲気があったとは 聞いてますけど、老中方も立ち合われる評定所に吉原の遊女なんぞがウロウロしてた なんてとても信じられません。それ、ガセじゃないんですか!?」と問い詰めている。それに対する大道寺重祐の答えは、 まあ、私なんかも寛永年間(1624-45)の生まれですから、それ以前の話を 直接知ってる訳じゃないし、確信はありません。でも、あながちウソでもないだろうと 思うのですよ。 というのも、文禄年間(1593-96)に畿内で大地震がありましてな。この時は 京の大仏の像なども崩れ、聚楽第も大破し、長押に押し潰されて御家人が亡くなったり、 伏見や木幡・山城あたりの奥向の館でも500人ほども亡くなったという、大きな被害が 出たということですが、多くの女中が亡くなったので代わりの女中を入れてほしいと 年寄女中が秀吉公に申し上げたところ、秀吉公は 「え~、そう言われても、下女クラスの女中だって急に大量採用するのは 難しいしさ~・・・ そうだ、おい(前田)玄以、六条嶋原の遊女たちを呼んでとりあえず使おうか。 その間、おいおいに代わりの女中たちを集めたらどうだ?」 と仰せになったので、「近頃粋な御意見」と世間で称賛されることがあったそうでしてな。 板倉殿が吉原の遊女たちを使うよう提案されたのも、この秀吉公の一件をかねてから 聞いていて、それでこういう意見が出たんじゃないかと思っておるのですよ。 なら、秀吉のパクリか(笑)。ま、アイデアはパクリでも吉原のきれいどころがカタい席で老中の相手をしていた様子を思い浮かべると、役得だよな~とおかしくもなるし、それがもとで屋形船のスタイルが出来上がったなんて話も面白い。にほんブログ村
2016年02月06日

将軍となった徳川秀忠が江戸城にいる理由が「東夷」への押さえのためだというなら、そちらへの備えはどうしたのか?「東夷」の代表格は数ある戦国武将の中でも高い人気を誇るあの方じゃないかと思いますが、その当の本人が登場するエピソードが『歴史散歩 江戸と東京』(堤紫海/文化総合出版)にある。 【江戸城の大増築は、慶長12年(1607)に、天守と本丸が完成し、ついで 同17年から19年にかけて、二の丸付近の工事がおこなわれた。(中略) そのころのことだ。ある日、秀忠は伊達政宗を相手に碁盤を囲んでいたが、秀忠は 一石おろすたびに、「政宗にしよう。政宗にしよう」という。隻眼の政宗をからかって、 「一目にしよう」とふざけたのである。一方、政宗は、「本郷から攻めようか。 本郷から攻めようか」といいながら打った。対局が終ってから、秀忠がそのことばを 気にして、「本郷はそんなにあぶないか」と聞くと、政宗は「いかにも危険です。 わたくしが堀割りの工事をうけたまわりましょう」と答えた。これは本因坊家に 伝わる話である。 こういう話の末、伊達家は、平河の治水をかねて、神田、お茶ノ水の堀割りを通じ、 湯島台地と駿河台を切り離すという大工事を担当した。】おおいおい、碁坊主に守秘義務はね~のか~!?とゲラゲラ笑いましたが、大坂の陣で一旦工事が中断されて再開した頃の話となってるので、まだ算砂は生きてる頃なんだよな・・・算砂はあまり長いこと江戸にはいなかったようだけど、本因坊2代目の算悦はまだ子供なので、2人の対局を見守って情報をリークしたのは算砂か、あるいは算砂の弟子か。ま、これもホントの話かどうかはわかりませんが、秀忠と政宗の両方の性格をうまくとらえた愉快なエピソードではある。さて、現地に戻りまして内堀を渡ったところにあるのが桜田門↓。 手前の高麗門をくぐると右に90°折れて渡櫓門がある。現存する中で最大の枡形だそうで、国の重文。桜田門は実は2つあり、これは外側にある外桜田門。ただ、現在では内桜田門は別名の方が一般に名が通っており、ゆえに一般的には「桜田門」といえばこちらの門を指す。この門ができてから、それまで同じ場所にあった小田原門という呼び名が廃止された(「江戸城(4)」参照)。慶長7年(1602)頃とされる簡単な絵図には堀にかかる橋の下に【小田原御門是より柴の浜へつづく】と書きこまれており、イエアスの入府後もしばらくの間は小田原門と呼ばれていたらしいことがわかる。なんでも、この場所が小田原街道の始点なんだそうな。ウィキペディアによると、外桜田門ができたのは寛永13年(1636)。慶長7年頃の絵図はあまり細かい書き込みはないんだけど、この周辺のアウトラインは割合変わってない。桜田の枡形虎口を突破すると、皇居外苑に入る。その後の整備で外苑は堀できっぱり切り離されたような形になってるのでここも埋立てなのかと思ったら、慶長7年頃の絵図にしっかり地面が描かれているので外苑はもともと陸地だったらしい。が、外苑の東にある馬場先堀のそのまた東、現在の丸の内になると海抜は下がり、かつては日比谷入江が入り込んでいた。西から内堀通りを東に進んで、桜田門を入らずにそのまま通りを東進すると日比谷・有楽町に出て周辺には帝国劇場だの日生劇場だの帝国ホテルだのがありますが、そこもかつての海。『江戸東京 地形の謎』にはその辺りの解説として 【今日でも、工事をすればおびただしい水が湧出すると言われる】とある。日比谷の劇場へは昔通っていた時期がありましたが、何も知らなければなんてことない都会の風景。しかし、400年ちょっと前までは華やかな劇場のあたりで尻をからげた漁師たちが浅瀬の海で貝や魚を取っていたのだ。厳重な外桜田門の攻撃を突破して外苑に入ると この時は石垣ばっかり見ていて外苑全体の写真がありませんが、現在ではだだっ広い場所。「皇居前広場」ともいう。一般参賀の時ってこの辺に集まってしばらく待ってたんだっけか?今年の参賀はプリンセス佳子ちゃまもバルコニーにお出ましになるので、久々に一般参賀に行っちゃおうかな~などとも考えましたが、外出の準備でチョ~忙しかったので断念しました江戸期にはここにも重臣たちの屋敷が建っており、「阿部豊後守」なんて名もある。豊後ならたぶん阿部忠秋さんの家系だろうな。明暦の大火の時はこのあたりも火にまかれたと思われ(大火の経過はこちら)、その後リニューアルされたんだと思うけど、興味深いことに慶長7年頃の絵図には外苑の一角に「僧正殿」という区画がある。この絵図は通称「別本慶長江戸図」というそうで、手持ちの古地図は大して数がないのでわたくしは『江戸東京 地形の謎』に載ってるものを見るだけなんですが、この絵図が慶長7年頃とされる理由のひとつが「僧正殿」の書き込みなんだそうな。著者の芳賀ひらく氏は、慶長年間の「僧正殿」といえば大抵の人が天海を思い浮かべるだろうけど、天海が権僧正になったのは慶長14年(1609)で、大僧正に進んだのは元和2年(1616)で案外と遅い時期なので、 【むしろここでは、「僧正殿」が日比谷入江に面していることに注目すべきでしょう。 すぐに思い出されるのは、徳川菩提寺である増上寺は元来貝塚(麹町、喰違土手の前) にあって、そこから日比谷に移転し、さらに現在の芝に移されたという記録 (『江戸誌』『江戸名所図会』ほか)です。『東京市史稿』(宗教扁第三)は 『三縁山志』を引いて「學誉大僧正の自記に、慶長年間菩提所とあり」としていますので、 この「僧正殿」は、日比谷の増上寺を指していると考えたほうがよいのです。】 (『江戸東京 地形の謎』より)とし、さらに増上寺が日比谷から現在の芝へ移ったのが慶長2年~3年と言われるので、であれば「別本慶長江戸図」は通説の慶長7年頃よりももう少し古いものだろうとしておられる。増上寺がもと貝塚にあったというのはよく聞く話だけど、一時は皇居外苑にあったとはね。もうひとつの将軍家菩提寺・寛永寺はこの時点ではまだこの世に存在しておりません。もし菩提寺に指定された増上寺がイエアスのお声がかりでこの場所に引っ越してきたんだとすれば、そういうところへよく寛永寺が割り込んで入って、のちに増上寺をしのぐ大発展を遂げたもんだよな~と思ったりもした。やっぱり皇子(輪王寺宮)を迎えたことは大きかったよな。もそっと奥へ進むと現れるのが二重橋↓。 めがね橋になってるから二重橋なのかと思いきや、写真の橋の奥にもうひとつ橋があるので二重橋ということらしい。橋の奥の方に見える高台が現在の皇居で、かつての西の丸。写真の石橋は皇居への入口になるので「正門石橋」と呼ばれており、一般参賀の時は引率されてあの橋をみんなでぞろぞろ渡っていく。石橋が架かっているのは「二重橋堀」で、石橋を渡るとすぐ右に折れてもう一度二重橋堀を渡る。その2つ目の橋は鉄橋(正門鉄橋)で、そちらが正真正銘の二重橋。もちろん、今架かっている橋は近代になってからのものですが、2つの橋を渡って奥へ進むという構造自体は江戸期と同じ。写真奥の高台が「西の丸」と呼ばれていた頃には、1つ目の橋を渡ったところが西の丸の「大手」だった。だからまあ、ビジュアルは違っても江戸期の西の丸をしのぶことはできる訳ですが、なにしろ今は天皇陛下がおわす「皇居」なもので、気軽には立ち入れない。今回撮った本丸の写真はのちほどご紹介しますが、もし本丸跡が「皇居」になっていたら江戸城散策の魅力はガタ落ちなので、皇居ができたのが西の丸でよかったな~とは思う。が、その一方で個人的には西の丸が皇居になっていることは痛すぎる。なぜって、堀の向こうの高いところには城内における将軍霊廟・紅葉山があったからですよ~。上の写真で石橋の奥に高石垣があり、その上にこんもりと木が写ってますが、絵図を見ると大体その辺に西の丸の御殿が建っていたようなので、おそらく江戸期には撮影地点から西の丸御殿が見えていたのだろう。そして、御殿の奥に東照宮があった。霊廟はその北側、本丸に近い位置にあった。ま、明治のご一新の際に紅葉山の堂々たる霊廟は撤去されてるけどね。でも、「ここがあの紅葉山かあ~」って現地で浸ってみたくなるのが人情ってもんだよね。 うむ・・・木がジャマで中の様子がさっぱりわからん(←皇居ですから当然です)。堀向こうの石垣を見ながらさらに進むと次に現れるのが 坂下門。もっと正面から綺麗に撮ればいいじゃないかと思う方もおられるでしょうが、門の手前には警備の詰所があるのですよ。なんたって皇居ですから、橋を渡ろうとする不届き者をここで足止めせにゃなりません。ここには観光客も多く来るから警備の人たちも慣れてはいるでしょうが、じろじろと警備のおっさんに見られながら写真を撮るのもイヤなもので、少し脇の方から撮ったような気がする。この先のスポットにも同じように警備の詰所があって、まったり観たいわたくしとしては現地で「ウザいなあ」と思ったものだけど、考えようによっては今も江戸期と変わらず城を守っている訳なので、おっさん達の警備の制服と髪型を頭の中で着物とちょんまげに着せ替えすれば、江戸城警備RPGで楽しめるということでもあるところで、「坂下の門」ならたぶんここが「4」で紹介した、坂下に門ができて紅葉山参詣ができなくなったってアレだよな。千代田区観光協会のホームページには、西の丸の造営直後にできた門だとあるけど、西の丸が整備される以前には江戸庶民はこのあたりから紅葉山へ登っていたのだろう。西の丸にも大奥があり、坂下門は大奥に近いので西の丸造営後は通用門として侍女などが通り、現在では宮内庁職員が使う出入口だそうな。なので、坂下門は江戸城の移り変わりによってここを通る人々の顔ぶれが変わっていった門ともいえる。 にほんブログ村
2016年02月04日

え~、今回の江戸城訪問では大手からまっつぐ皇居東御苑に入ってそこだけで終わってしまったのですが、前回書いた2010年元日の赤坂日枝神社への初詣のあとで皇居外苑を抜けて大手町まで歩いていて、ちょうどその辺りが前回の『落穂集』などから紹介した御新城(西の丸)周辺にあたるので、ついでだから写真をご紹介しましょう。つっても、まだかけ出しの頃だからロクな写真もないんだけど・・・なにせもう6年も前のことですので相当記憶がアヤシイのですが、日枝神社(地図はこちら)で参拝を済ませたあと、皇居へ向かう道がわかりづらくてね~。道も入り組んでたんだけど、小さなアップダウンが多くて移動にまごついた記憶がある。当時は地形だとかには興味はなかったですが、今になって古地図を見てみればアップダウンがあるのも道理。日枝神社の西下から神社南東にある首相官邸の下にかけてはかつて山王溜池があったのだ。ん~で、神社からたぶん首相官邸と衆議院議員会館の間の道を抜けて国会議事堂の前へ回ったんだろうな。『東京時代MAP』(新創社)だと首相公邸のあたりは「内藤紀伊守」の屋敷があり、官邸の方は内藤さんちのほか、「京極周防守」・・・ってあの京極さんちだよな、そんなお大名の方々のお屋敷跡に建っている。このへんが前回出てきた「外桜田」のあたりで、国会議事堂に出るまでの間の写真がありませぬ。ディスクには保存してあるのかもしれないけど、あいにくただいまPCのドライブの機嫌が悪いので、写真を探すことができませんいやでもこの辺て、日本の心臓部だからな。元日だろうが早朝だろうがコワモテの警備のおっさんは常時詰めて目を光らせているし、このあたりを通る時はいつも「うろんな奴」と捕縛されないように(多少)行動を慎んでいるから、ほとんど写真も撮ってないかもしんない。当時はぼんやり歩いてたから記憶も定かではないけど、首相官邸から国会議事堂に向かうあたりはそうアップダウンはなかった気がする。多少はあったかもしれないけど、日枝神社の下とか赤坂なんかに比べたらずっとマシ。(赤坂周辺は「高野山が出稼ぎに来てます」シリーズをご覧ください)写真がないのが残念ですが、周辺と比べて高低差が少ないのは江戸初期に諸大名が揚土をもらってセコセコ土木工事をしたおかげなのかもしれない。さて、外桜田といえば「桜田門外の変」を真っ先に思い浮かべる方も多いでしょうが、西の丸の南側周辺を取り囲む桜田堀に面した場所に井伊さんのおうちがありました。 【井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸) この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。加藤家は二代 忠広の時に改易され、屋敷も没収されました。その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を 拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭(かもんのかみ) を称しました)。幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)3月に、この屋敷から 外桜田門へ向かう途中、水戸藩士に襲撃されました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)上の写真で左に写ってる妙な物体については現地に何の解説もなかった気がしますが、『古地図で歩く 江戸城・大名屋敷』(岡本哲志監修/平凡社)によると加藤清正が掘ったとされる名水「桜の井」で、 【一度に桶三杯の水を汲むことができたことから、江戸城を訪れる人々に重宝された。】という井戸だそうな。ただし、当初のものではなくあくまで移設のうえ復元されたものとのこと。一度に桶三杯ってどーゆー意味?(笑)井伊の上屋敷は国会議事堂・国会図書館の向かいにある憲政記念館をすっぽり含む場所にある。この桜の井の正確な場所はもう覚えてませんが、憲政記念館の敷地の道路沿いの地味な場所にあったんだろうな。で、内堀通りに出まして これが桜田堀。遠くに写っているのが桜田門・・・北条時代、「小田原門」と呼ばれていた門です。この辺の堀の幅は往時とほぼ同じなのかな。古老にもまた少しご登場いただきましょうかね。 遠山時代には当お城に石垣など築いているところは一ヶ所もなく、ぜ~んぶ芝土居で、 土手には竹や木が茂っていたそうです。権現様ご入国の頃には本丸・二の丸・三の丸があり、 各郭の間にはかなり深い空堀があったそうで、権現様が空堀をさっそく埋めなされたので 本丸の敷地がずいぶんと広がって中仕切りの石垣などもでき、遠山時代の堀とは 大層様子が変わったそうですよ。遠山時代・・・つまり後北条時代というのは前城主時代ということだから、イエアスの入府以前はこんな冴えない城だったんだよ~という意図も多少は含まれてるのかもしれないけど、実際関東の中世の城というのは西国に比べて土くさい城が多く、立派な石垣を残す城は西に比べて少ない。石垣に限らず、北条氏康の子の氏規(うじのり)が京に行った時、瓦葺きの家々を見てカルチャーショックを受け、小田原もせめて板葺きにしようと言ったというエピソードがあるそうな。だから、あながち前城主をおとしめようという理由だけでこういう風に言い伝えられたとも言えないと思う。ま、江戸城は徳川時代に入って洗練された近世城郭へとリニューアルするんだけど、上の写真の桜田堀は土居で石垣じゃありませんね。これについては、こんなエピソードが伝えられている。まず質問者が 「秀忠様の代に、西の丸吹上門外の土手を総石垣にしようというプランがあったのに、 工事が中止になったってホントですかあ~?」と問いを投げかける。吹上門はちょうど上の写真の撮影地点付近の堀の内にあった門で、写真に写っている土居も当然工事予定地に含まれていたんだろうけど、質問に対して語った内容は ちょうどその頃、大御所様が駿府から下向なさって、今の掃部殿(井伊家)の屋敷前の お堀端に沢山の石が積み上げられてるのをご覧になり、 「ナニコレ?ちょっと、駕籠を止めてよ」 とその場に立ち止まって松平正綱(智恵伊豆の養父)殿を召され、 「コレ、一体何のための石なのかちょっと聞いてきてよ」 と仰せになったので、正綱殿が問い合わせて言うには 「なんか~、ここのお堀端の両側とも石垣にするそうですよ」 「え~、そんなの聞いてないよ・・・・・・ 駿府へ帰ろっと」 「えっ!!!いやだって、皆様ご到着をお待ちですし・・・ ととともかく、西の丸へ入りましょうよ~」 「いや、いいよ。 ひとまず品川まで戻ってお茶にしようよ」 とガンとして聞かないので、正綱殿はあわててその旨を城内へ伝えられました。 権現様は慶長5年から数年の間は駿府から来られた折には外桜田門から 西の丸にお入りになっていたので、その頃は桜田門まで御老中方がお出迎えに 出ておられましたが、御隠居ののちは吹上門へ回ってお入りになっていたので、 半蔵門で御老中総出で権現様のご到着をお待ちしておりました。 そこへ突然駿府へ帰るという知らせが届いたので、本多正信殿が急いでやって来られ、 「大御所様!!お城へ入らずこのまま帰るってホントですか!? なんでまた、急に・・・何かあったんですか?」 「だって、こんな工事やってるなんて知らなかったんだもん。 ワシらが西の丸にいたら、工事の邪魔でしょ? だから帰るんだよ。それだけ。」 「そんなワケないでしょ~!! 秀忠様だって、先ほど品川からお戻りになって西の丸で大御所様を待ってるんですよ。 ここで大御所様がお帰りになったなんて秀忠様が聞いたら、私は何を言われることか どうか、私を助けると思って西の丸へ入ってもらえませんか~」 「アハハハ、変なことを言うね、お前は。 別にワシがこのまま帰ったところで、お前が迷惑することもないだろ」 「違うんです、そうじゃないんです。ちょっと私の話も聞いてください。 今回の石垣の工事は、秀忠様のアイデアじゃないんです。 今回、私が工事を任されたので石垣にしちゃいませんか~と提案したところ、 ならお前の思うようにしろという話になっただけなんですよ。 なのに、この工事が原因で大御所様がお帰りになったなんてことになったら、 工事をお勧めした私は秀忠様からどんなに叱られるか・・・ ですからどうか、私を救うと思って西の丸へ入っていただけませんか~。 オネガイ・・・・・」 本多殿の熱心な説得のうえ、松平正綱殿からもお口添えがあったので、 権現様は笑いながら 「まさか秀忠がこんなことをするとは思ってなかったけど、やっぱりお前だったのか。 これはとんでもない思い違いだぞ。なんでかわかるか? そもそも将軍である秀忠がこの城にいるのは、東夷への押さえのため。 だから、その方面に向かって城を堅固にするというならいいんだけどさ、 西の方面は味方の地なんだから、西への備えは必要ないんだよ。 ・・・まあ、お前がそれほどまでに言うならしょうがない。 西の丸に入ってやるさ」 そうしてようやっとご入城になられたのですが、夜になって本多殿が御前に出られ、 「このたびの石垣の件は、返す返すも私の不調法で申し訳ございませんでした。 ところで、石垣だけじゃなく、このお城には馬出というものが見当たりませんので、 1箇所作りましょうと秀忠様にお勧めして今準備をしているところです。 いずれ大御所様のお耳にも入るでしょうから、先にお伝えしておきます」 今度は権現様はそれほどご機嫌をそこねることもなく、 「なに?お前、この城に馬出があんの知らないの?」 「え?えええ~・・・・? いや、私は知りませんけど・・・ありましたっけ?」 「アハハ、馬鹿だなお前。 この城の馬出っつったら、大坂城じゃないか! さしあたって必要ないから、今は秀頼に預けてるだけだよ。 一般に将軍の居城には堅固な防御や掛矢なんて大層なものはいらないのさ」大坂の陣の前だから、慶長年間頃ってことになると思うけど、本丸の方にあれだけ石垣が残ってるのに西の丸の方が土手なのはなんか違和感がある。たしか千鳥ヶ淵の方も土居だったよな。大道寺重祐も「なにぶん、古い話なのでホントかどうかわかりません」と言ってるものの、話としてはなかなか面白い。にほんブログ村
2016年02月02日
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