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ケンペル: 平山常陳事件が落着した翌月には、長崎で教会関係者らが一斉に処刑された。りり: 「元和の大殉教」といわれるやつですね。 この時に火刑・斬首となった者は55名で、宣教師だけじゃなく、 彼らをかくまった女子供まで処刑されたとか・・・ツュンベリー: 一斉に大人数が処刑されたことや、ヨーロッパにもこの報がもたらされたことから 「日本二十六聖人」の処刑と並んで有名なものだけど、キリシタンの処刑は 太閤の時代から行われていたよ。り:キリシタンの歴史もまた色々あって、後半で少し触れようかと思ってはいますが、 元和の大殉教までにも前段階があった訳ですよね。レフィスゾーン: それはそうだよ。禁令が出されてからも果敢に布教する宣教師もいたしね。 幕府も宣教師を捕らえては投獄したりしてキリシタンの取り締まりを強化していたけど、 平山常陳事件をきっかけに堪忍袋の緒が切れたってとこだろう。 長崎奉行の長谷川権六は前回話したように宣教師をかばったので、 自身にもキリシタンの疑いがかけられて、その疑いを返上するために 弾圧に積極的に乗り出したといわれているよ。り:「鎖国」を形成する重要側面のひとつであるキリシタン禁制も、 ここで大きく動き出した訳だ。 そして、別のファクターである朱印船についても動き出すんですね。ズーフ: そうだな・・・ 前回、お前が言っていたように、日本人は朱印状を掲げて海外に買い付けに出ていた。 これは権現様が定めたものだったが、ヨーロッパ人の東南アジア進出によって 色々とトラブルが起こるようになった。 ヨーロッパ船によって拿捕されたり、朱印船を利用して宣教師が日本に潜入しようとしたり。 幕府は高官が朱印船貿易を行うことを禁じていたが、実際にはひそかに出資していた。 そういう裏事情があるので、ひとたび朱印船がトラブルに巻き込まれれば 問題も大きくなったし、我々ヨーロッパ人への風当たりも強くなった。 ・・・まあ、色々な意味で平山常陳事件がいい例と言えるな。り:大坂の陣も終わって名実ともに天下平定に至ったとはいっても、 まだ前時代の記憶が鮮明な時期だから、譜代であろうと個人に経済力を持たせるのは 危険だという考えだったのかな。ズ:我々としては、何としても中国に足がかりが欲しかった。 平戸の商館長はスペックスからレオナルド・カンプスに代わっていたが、 平山常陳らが処刑された同じ頃にカンプスが書いた報告書によると、 ポルトガル人の日本貿易は十分な成績を示し、利益は100につき 50より少ないことはなく、たいがい75を挙げていたと言い、 マカオは以前は寒煙荒涼の地だったのが、この称賛すべき甘すぎる利益により 富める町となった。 それゆえに、新たに有効で利益のある他の国土を探し、土着し、商業を行おうとするほど ポルトガル人やスペイン人は馬鹿ではないと考えられるといい、 【彼らは如何に日本において侮辱されても、如何に多数の人々が不法に生命を失い、 なお毎日殺されても、アンドレ・ペッソアのガレオン(大船)が皇帝(将軍)の命令により 兵力をもって攻撃せられ、長崎の前で沈没しても、我々のために海上で危険を冒しても、 日本を捨てて他へ行きかねるのである。ガレオンでは危難不幸多しとし、小さなガリオット (小舟)をもって代えた。すべてこれらは甘い利益が奴隷的のくびきの下に彼らの肩を 屈せしめたのでなければ、世界統一を志せる賢明高慢な国民の耐え得ざる所であろう。】 と分析している。 ツ:甘い利益は人を狂わせるからねえ。 我々がヨーロッパ人の中で日本貿易を独占してからも、命をかけて密貿易を 行う人間もいたしな。り:カンプスの報告書はまだ各国が競合してた時期のものだから、内容的にはかなり 生々しさがプンプンしてますけど、甘いあま~い蜜を持つ、日本という名の小さな花に 強欲な虫たちが群がってる光景が目に浮かびますね。レ:虫?・・・って、私たちのこと?り:当時の状況を端的に表すいい表現だと自負してますけど、何か?レ:・・・・しくしく・・・・・・・・ケ:日本人は世界を二分していたスペインとポルトガルを完全に追い出し、 次に覇者に躍り出た我々オランダをも日本国内では厳格に管理下においた。 その厳しい日本人の血を、お前も確かに受け継いでいると実感するよ。り:まあ、視点を変えればこれも痛快な話じゃ~ありませんか。 世界の覇者たちが揃いも揃って、極東の小さな島の強権にあらがえなかったんだから。ツ:そして今も、ジジイの凶暴性にあらがえない・・・金仁謙: いちいち相手にするな。女々しいぞ。申維翰: さっきの話に出てきたあんどれナントカとは何だ?り:朱印船に出資していた中には九州の大名などもいて、有馬晴信が出した朱印船の船員が マカオでひと悶着を起こしたので、当時マカオの総司令官だったアンドレ・ペッソアが 鎮圧して日本人が多数死傷したそうです。 その翌年、ペッソアが事件の申し開きなどのために来日したんですが、 色々といざこざがあって、大した成果も得られないうちに、有馬晴信らが ペッソアと船の捕獲をイエアスに嘆願し、イエアスもGOサインを出しました。 それでペッソアに召喚の命令が伝えられたものの、ペッソアは召喚に応じず 出国の準備を始めたので、有馬晴信らによってペッソアのガレオン船の マードレ・デ・デウス号を襲撃してペッソアは自殺、船は炎上したという事件です。 もっとも、一般的には船名は「マードレ・デ・デウス号」の方が有名ですけど、 ポルトガル側の史料では「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号」とあるらしいですね。ズ:この事件のあと、ポルトガル船は2年来航しなかった。 高慢な国民にしては、ポルトガル人は貿易面や宗教面でうまく日本に入り込んで 長く日本との交流を深めていたとは思うが、随所でちらりとのぞかせる高慢な態度が 自らの首を絞めていったと言えるだろう。り:その言葉を額面通り受け取れば、ポルトガル人は自滅して日本貿易の道を閉ざしたって 想像しちゃうけど、ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を攻めればポルトガルとの貿易が ストップすると懸念したイエアスに対し、 「ダイジョーブ、我々がちゃんと生糸を運んできますから、 大御所様は心おきなくポルトガル船を攻めちゃってクダサイ」 とスペイン人がそそのかしたって話もありますよ。ズ:それはスペイン人の悪事だろう。 我々には関係ない。り:さっきの虫のたとえで言えば、長らく甘い蜜を独り占めしてポルトガル虫は 大きく成長したけど、あとから蜜の花を見つけた小さなスペイン虫・オランダ虫・ イギリス虫が蜜の独占を目論んであの手この手で大きなポルトガル虫を花から 引き離そうとやっきになってる虫たちのサバイバル状態ってカンジだよな。 カンプスだって、例の報告書の中で「神これを与えよ」とポルトガルに取って代わる 欲望を堂々と述べてるんだから、今さら気取ることないじゃないですか。 さて、さっきの中国方面でのサバイバルに話を戻しましょうか。ズ:権現様が亡くなった年、我々とイギリス人は貿易を平戸に限定された。 どこでも好きに入港して交易してよいという当初の朱印状よりも自由が狭められた訳だが、 それでも主要な輸入品であった生糸のルートを我々が押さえることができれば、 その不自由さも挽回できる。 まずはポルトガルの拠点を奪えば奴らに打撃を加え、奴らがこれまで享受してきた利益を そのまま我々が手に入れることができる。 しかし、これだけでは生糸のルートをすべて押さえたことにはならない。 日本人は朱印船を出して、マカオのほかマニラやコーチシナなど様々な場所で 生糸の買い付けをしていたからだ。 だが、マカオを手に入れれば東アジアにおける日本人の朱印船貿易はみずからやむだろうと カンプスは考えていたらしい。 そうなれば、我々こそが日本貿易を独占できる。 カンプスが先の報告書を執筆したのは、その夢の実現に向けてバタビアがすでに 動きを始めていた真っ最中だった。り:時の総督は「(6)」でも出てきたイケイケのクーンですね。 カンプスは好戦的な総督の軍事行為を理詰めでバックアップする文章を書いたのか。ズ:1622年3月、クーンはライエルセン率いる艦隊を派遣した。 ターゲットはもちろんマカオだ。 そして6月に攻撃を開始したが、さすがにポルトガル人の抵抗は激しく、 死傷者130人を出した。 そこで一旦退いて、タイオワン近くの澎湖島の南西部に城を築き始めたが、 中国の福州総督がこれを危険視して船隊を送って妨害しようとしたので、 福州船隊との間に武力衝突が起こった。ケ:中国人も我々を快く思っていなかったからな。ズ:それで、福州総督との間に戦闘と外交交渉を重ねた結果、翌年我々は澎湖島対岸の タイオワンに移ることになった。申:オランダ人の拠点がわずかに東にずれだだけではないか。レ:福州総督が言うには、澎湖島はシナの領土である。もしオランダ人が澎湖島を出て タイオワンに移るならば、船を出して交易しようということだったんですよ。り:ほお?これは興味深い。 現代では台湾北東の尖閣諸島をめぐって日中間にトラブルがある・・・ つか、中国が一方的に尖閣諸島は歴史的にも中国の領土だ、てなことを 主張してるだけなんですが、少なくとも1620年代前半の時点では 澎湖島までは中国の領土だけど、そのすぐ東の台湾は領外だから、 オランダ人は台湾まで退けって言ったって意味ですよね? 台湾が領外なら、さらにその北東にある尖閣諸島なんて外国もいいとこじゃないですか。ツ:へ~、今はそんな話になってるのか。 中国も面白いこと言い出すな。り:今の中国はかつての「中華」を取り戻そうとして、周辺諸国の多大なヒンシュクを 買ってますよ。 あれだけ国土が広いんだから、その上ちっぽけな日本の領土を削ろうなんて セコい考えやめればいいのに・・・ 中国人の強欲さは、オランダ人と十二分に張り合えますね。ズ:(無視)我々と福州総督との意見はなかなか折り合わなかった。 そういう中、ライエルセンは辞職して後任のマルチヌス・ソンクが澎湖島に着いてみると、 多数の中国兵がいて、我々の少数の守備隊ではとうてい抵抗しうる見込みがないので、 ソンクは引き上げてタイオワンに移ることにした。 そして1624年、タイオワンにオラニエ城を築いた。 オラニエ城はのちにゼーランディア城と名を変える。り:台湾には私は行ったことないけど、地図で見ると結構大きな島ですよね。 ただ、ここでいうタイオワンは台湾本島南部の安平(アンピン:台南市)のことで、 「台湾」の名の由来には諸説あるみたいだけど、ひとつの説として オランダ人が安平に入植して周辺にもその勢力が及んだので、タイオワンが台湾に なったという話もあるようです。ツ:ポルトガル船が初めて台湾沖を航海した時、あまりの美しさに「美しい島」という意味の 「イル・フォルモサ」と呼んだとも言われているよ。 ポルトガル人の地図には大きな3つの島が描かれていて、南の島をレケオ・ペケノ、 中の島をイル・フォルモサと呼んでいたらしい。り:北の島は?ツ:北の島には名前が描かれていないんだ。り:ふ~ん。 ゼーランディア城跡は現在では「安平古堡」として史跡公園化していて、 ゼーランディア城の遺構は今ではだいぶ少なくなってるみたいですけど、 城を描いた絵や19世紀後半の朽ちた城跡を写した古写真を見ると、 かなり立派な要塞だったようですね。ケ:そうか、朽ちたのか・・・り:あ、すいません。 要塞を最終的に綺麗に破壊したのは、日本軍らしいです。 でも会社がバタビアから運んで築いた城壁が一部保存されているみたいですよ。 ちょっとゼーランディア城(跡)を見に台湾に行きたくなっちゃったな。ツ:タイオワン付近の海は荒れるぞ~。 お前も海に投げ出されないようにしろよ。り:船なんかで行きませんよ。 今はぴゅ~んとお空を飛んでいくんです。 ソウルまで確か2時間ぐらいだったから、2時間半ぐらいで着くかな?金:空を、飛ぶ、だと? 何を馬鹿なことを・・・申:倭人は虚言・妄言が多いからな。 どれだけ年月が経っても、倭人の性向は変わっていないと見える。※今回の主な参考文献『日本大王国史』(カロン原著、幸田成友訳著/平凡社東洋文庫90)『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫) 『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店) とウィキペディア。にほんブログ村
2016年08月27日

りり: さて、前回の1621年に英蘭両国に出された禁令ですが、 これも色んな話がからんでくるんだよな~。 壮大すぎて、もうめんどくさくなってきちゃったな~。申維翰: 思考を放棄するな。だからお前は馬鹿なんだ。り:へいへい。 人身売買とか奴隷なんてものはよその国で行われたことであって、 日本には無縁だと思ってる現代日本人は多いんじゃないかと思うんですよね。ツュンベリー: そうなのか?なんでだ?り:皆さんの死後、全世界を巻き込んだ大きな戦いが2つありましてね。 それを境に、それまでとはずいぶん違った考え方が生まれたんですが、 欧米人やクリスチャンは自分たちに都合の悪い情報を隠したがってねえ~。 自分たちが好き勝手なことをさんざんやってきたくせに、他者に責任転嫁したり、 情報の操作とかいろいろやってるみたいですよ。 調査捕鯨もイカンとか言っちゃって、お前らがドレスやコルセットに使うためだけに さんざん乱獲してきたんだろ!ってカンジですよね。レフィスゾーン: ・・・あの、クジラの話は禁令に含まれてないと思うんですけど・・・り:ああ、そうでしたっけね。 まあ、そんな事情も関係してあまり日本人には知られてないみたいなんですけど、 江戸初期頃までは日本人も自主的に、あるいは身売りなどで かなり海外に出ていってたみたいですね。 人身売買にはイエズス会の宣教師も関わっていたとか・・・ケンペル: ルイス・フロイスによると、太閤は九州攻めで下向した際、 初めてポルトガル人の宣教師に会って周囲が驚くほど彼らを厚遇していたのに、 1587年7月24日に豹変して布教を禁じたが(=バテレン追放令)、 その中に奴隷売買に関する項目もあった。 ポルトガル人が太閤の不興を買ったひとつの理由だとは言えるだろう。り:ええと、『完訳フロイス日本史』(松田毅一・川崎桃太訳/中公文庫)によると、 【予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、 多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として 彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。 よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての 日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに 不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。 予はそれに費やした銀子を支払うであろう、と。】ケ:イエズス会の宣教師はもちろん奴隷売買を知っていた。 だが売買の主体は商人で、イエズス会では太閤以前から それに対する危機感も持っていたとはいう。 宣教師にしてみれば、あくまで自分達は布教のために来日しているのであって、 奴隷を扱う商人といっしょくたにされては布教の妨げにもなると考えて、 1571年には国王セバスティアン1世から日本人貧民の売買禁止の勅令を 取り付けてもいるが、太閤がコエリョに突きつけた内容を見るに、 1580年代後半まで売買は続いていたようだな。り:ふんむ。それで副管区長のコエリョは秀吉の叱責に対して 【日本人のように名誉をいとも尊ぶ国民にとり、人身売買を行うことは、たとえそれが 彼らの間であれ、国外に対してであれ、大いなる信用の失墜と言う外なく、寒心に 堪えざるところであった。だが、この忌むべき行為の濫用は、ここ下(シモ)の九ヶ国に おいてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、 かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。 だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、 厳にそれを禁止せねばならぬという点である。】(前掲書より) と弁明してる訳だな。 でも結局、九州の大名が人身売買を行ってるんだからそいつらに言ってよ!って 責任転嫁してますよね。 それに、コエリョ自身が奴隷売買の契約書に署名している事実もあるっていうんだから、 なんだかな~。ズーフ: ヴァリニャーノやオルガンティノはコエリョの挑発的な身の処し方が追放令を招いたと 非難しているから、まあ仕方がないだろう。 ・・・ポルトガル人の弁護など決してしたくはないのだが、1596年に日本に赴任した 司教のペドロ・マルティンスは奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると キリシタンの代表者らに通達したというから、イエズス会としてはそれなりに 善処したのだろう。り:日本人の人身売買については真っ向から否定している人もいて、 仮にそれなりの数が奴隷として外国に売られていったとしても、 当時の航海諸技術では売却先が遠方であればあるほど生命の危険にさらされる訳で、 途中で死んでしまったら海に捨てられただろうし、実際人身売買でどれほどの日本人が 海外に流出したのかは算出不可能でしょう。 それでも、人身売買をヌキにしても相当な数の日本人が海外に進出していたのは 事実なようですね。申:どういう理由で国外まで出ていったのだ?り:申さんや金さんは秀吉の話なんか聞きたくないでしょうが、秀吉の頃もまだ倭寇はいた。 倭寇と区別するために秀吉は朱印状・・・つまり身元証明書であり渡航許可証を与えて 朱印船貿易を開始したとされます。 明ではいわゆる海禁政策を用いて自国民の出入国の管理をしていたけど、 のちに一部解禁された。 それでも、相変わらず日本人は規制の対象になっていた。 ポルトガルの日本への主な輸入品は中国産の生糸で、これはのちにオランダ商館に 引き継がれますが、日本人は正面から中国の生糸の輸入はできなかったので、 解禁によって中国人が海外進出した先に日本人が出向いて、 そこで生糸を買い付けるようになった。 「出会い貿易」ってやつですね。 朱印船貿易家は、「出会い」の場にも駐在員を置くようになった。 こうしてできたのが、東南アジア各地にある「日本人町」で、その分布は のちにオランダ東インド会社がテリトリーとした海域とかなりの割合で重複する。 結構広い範囲にまたがるので、あらためて日本人町の分布図を見てみると オドロキですけどね。申:ふん、商売のためか。り:それだけじゃないッス。 東南アジアには、傭兵として活躍する日本人もいたそうです。 もっとも有名なのが山田長政ですけど、あるいは傭兵の中にも奴隷として 売買された人もいたかもしれない。 でも、戦国末期のうち続く戦いの中で、国内にはプータローになった武士もいたし、 秀吉から家康の時代にかけての大きな戦いで行き場を失った日本人もいて、 そういう武士がみずから新天地を求めて海外に渡ったケースもあったかもしれない。ツ:スペインがルソンを征服したのは1571年だが、 すでにいくばくかの日本人も在住していた。 また、タイオワン(台湾)に拠点を置いた日本人もおり、フィリピンに進出した スペインとしばしば激しい戦闘が行われたらしい。 甲冑を着込み武器を携えた彼らは、スペインの大砲に破れて多くの死者を出したりもしたが、 そうした戦闘を通じて向かう所敵なしと自信を持っていたスペイン側の恐怖と驚愕も 増していき、現地の太守からフェリペ2世に対して守備兵をもっと増やしてくれだとか、 フィリピン人と日本人を決して混同するべきではなく、十分な兵力をもって この地の日本人を掃討しなければ、到底安全に経営していけるものではないと訴えている。り:それはどちらかというと、倭寇の人間だったかもしれませんね。ツ:かもしれないな。 だが、精巧な武具とともに屈強な日本人兵士が海外で活躍していたことは事実だ。 日本人兵士に悩まされたスペインでは、保累を築いたり色々と日本人対策を講じたらしいよ。レ:よっぽど怖かったんでしょうねえ。ツ:マニラのスペイン人の間で中国を攻める話が持ち上がった時には発想の転換で 日本人傭兵を大量に雇う案が出て、具体的な方法まで煮つめられたらしい。 実戦を通して、日本人兵士の実力がそれだけ認められてたってことだろうね。り:アルマダの戦いで無敵艦隊がイギリスに敗れるのは1588年でまだ先のことだから ルソンを攻略した頃にはまだスペインは強さを誇っていた時期だったろうに、 わざわざ日本人傭兵を雇おうとしたんですか?ツ:強いと言っても本国から遠く離れたアジアでのことだし、スペインは手を広げすぎて 戦力をそう多くはアジアへ回せなかったんだよ。 まあ、結局傭兵の話は実現しなかったらしいけど。り:だから、よそ様の土地なんか狙わないで自分ちでのんびりオレンジでも 食ってりゃよかったのに・・・ ところで武器の話が出ましたけど、当時の日本は世界有数の鉄砲保有国だったそうですね。 日本への鉄砲伝来の時期は諸説あるものの、1540年代前半というのが大半のようですが。ズ:日本には高度な技術を持つ刀鍛冶がいたからな。 それで、わずかな期間で国内での量産化に成功したという。 権現様が天下を取った頃の全世界での日本の鉄砲は5割を占めたというぞ。 り:そんなの教科書で習った覚えない・・・金仁謙: 国史を学ばぬ愚か者だから、授業中寝ていたのではないか?り:まあ確かに、教科書の肖像画に落書きなんかしてましたけど・・・ あれ?落書きは世界史の教科書の方だな。ツ:どれ? へえ、これがお前の使ってた教科書か。ずいぶんと絵が豊富だな。 色々と線が引いてあったり文字の書き込みもあって、だいぶ使った感があるな。 それにひきかえ、こっちの日本史の教科書は綺麗なままだな~。レ:使用感が全然違いますよね。申:やっぱり勉強していなかったのではないか。 王安石(宋の政治家)の絵に変な色眼鏡なぞ描き込みしおって・・・り:うるさいな~、もう。 今やってるんだからいいでしょ 学生の頃なんてメじゃないくらい、勉強してますよ。 それで、秀忠の代で軍需品の輸出が禁止されたのは、高度な武具産出国であった 日本の武具を提供することで自国へのマイナスの影響が出ることを恐れたためですか?ズ:どうかな・・・ スペックスがバタビアの総督に送った書状によると、オランダの要塞、船、 東インドでの戦争に必要な軍需品を十分に供給できるなら、我々にとって ほとんど障害にならないと言っている。 ただし、今後もし鉄や銅も軍需品と見なされればその輸出も禁止されるかもしれないから、 それについては十分に考慮する必要があるとも述べている。 日本人の海外移送禁止については、ポルトガル人の主張によって設けられた項目だが、 ポルトガル人への好意によったものではなく、日本人を外国での戦争の危険に さらしたくないための命令だとスペックスは解釈している。 スペックス自身はこうした事態をかねてから予測し、日本人を輸送する際には 将軍の正式な許可を得るようにした方がよいと以前から総督に勧告していたらしいな。り:てことは、オランダ人も日本人を海外へ送り出してた訳だ。 永積洋子氏は、 【この命令書は、将軍の領土、領海内での無法な暴力を一切認めず、ポルトガル人の 主張といえども、それが正当なものであるならば承認し、将軍の権威を外国人にもはっきり 認めさせようとしたものだといえよう。日本に来航するヨーロッパ諸国民の中で、 オランダ人の優位はまだこの時期には確立していず、スペックスの目から見れば、幕府は ポルトガル人、スペイン人に好意を寄せている時代である。そして、日本近海での オランダ人の海賊行為が、日本商人の損得にかかわることはいうまでもない。 このような過渡期であればこそ、将軍秀忠はポルトガル人の主張の是非を判断しかね、 問題のフレガット船船長に対して閣老や平戸藩主が尋問する時、次の間に潜んで聞くほどの 熱意を示したものであろう。】(『平戸オランダ商館日記』より) と解説してます。 秀吉もイエアスも決してキリシタンに好意を持っていた訳ではなかったのに、 貿易を重視した結果、セットでくっついてきたキリスト教をやむなく黙認したと 言われますが、そのうえ同じキリスト教徒であるオランダ人とイギリス人まで受け入れたのは ポルトガルやスペインの対抗馬にする目論みがあったという解釈もありますね。レ:対抗馬かはわからないけど、リーフデ号のウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを そばで見てきた家康公だからこその判断だったとは言えるかもしれないね。り:それを引き継いだ秀忠は、ま~大変だったろうなとつくづく思いますけど、 見方を変えればひとつの出来事に対する判断材料が増えたとも言える訳ですね。レ:そういう面はあるだろうね。 我々が海外事情を幕府に報告する「風説書」は1641年から義務づけられたものだけど、 そういう情報は中国人や他の「口」からも仕入れていて、幕府は常に他の情報と比較しながら 情報の信ぴょう性や我々の誠意を判断していたよ。り:日本の「鎖国」はオランダ人にハメられて引きこもりになったものだと言う人がいますけど、 ズ:それはとんでもない誤解だ! 我々が出島に移って日本との関係が安定期に入るまで、いや入ってからも 幕府は常にしたたかだったよ。り:・・・そのスリリングさは商館長がつづる商館日記を読んで初めて実感しましたけど、ツ:? 商館日記は読んでないって前に言ってなかった?り:あ、何年か分は手に入れました。 わたくしも色々と忙しいので、まだすべてを読破してはいませんが。 じゃなくて、4ヵ国ものヨーロッパ人が国内でぐちゃぐちゃやってたから、 日本人も対ヨーロッパ人について次第に鍛えられていったんですね。 にしても、貿易相手を入れ替えるつもりなら、英蘭を受け入れた時点で ポルトガル・スペインをばっさり切っちゃえば秀忠も次の間で盗み聞きするハメにも ならずに済んだろうに・・・レ:いや、我々やイギリス人は中国に拠点を持っていなかったからね。 ポルトガル人の強みは、マカオに拠点を持っていたことだ。り:日本人が欲しがっていた中国の生糸を輸入するために、ポルトガルを切る訳には いかなかったってところですか。 その弱みを補うために、英蘭は海賊行為を繰り返す訳ですね。 ところで、禁令の最後の長崎商人の船の宣教師って何ですか?ケ:それは、「平山常陳(じょうちん)事件」といわれるものだ。 1620年(元和6年)7月、マニラから日本に向かっていた平山常陳の朱印船が 我がオランダとイギリスの船隊に拿捕され、平戸に入港した。 朱印船にはポルトガル人とスペイン人も乗っていた。 積荷は我々が押収したが、相手が朱印船だったため平山常陳が訴え出て問題となった。り:英蘭防禦協定の後だから、両国が日本の周辺海域でバリバリ海賊してた頃のことですね。 威勢よく拿捕したはいいけど、相手が悪かったな。ケ:我々は朱印船が日本ですでに禁止されていた宣教師の渡航の告発に協力したので、 これは海賊行為ではなく正当なものだと反論し、長崎奉行らによって取り調べが 行われることになった。 平山常陳自身もマニラ在住のキリシタンだったが、宣教師も確かに2人乗っていたんだ。り:どうせ「たまたま」でしょ? マニラから出た船だからおい、あいつ捕まえちゃえ~って拿捕してみたら朱印船だった。 でも都合よく宣教師も乗ってたからいい言い訳になったってとこじゃないんですか?ケ:む・・・レ:確かに当時の朱印船は和船ではなく中国のジャンク船を使ったりしたようだから、 「マニラを往復する中国船」という防禦協定の定めに該当すると勘違いして 拿捕した可能性はあるね。 日本船の拿捕は厳禁されていたから、総司令官だったロバート・アダムスも 処置に迷ったっていうし。 でも船底に隠れていた宣教師を発見して、これを正当な行為とする決断をしたと いわれているよ。ツ:まあ、日本人の役に立つことにはなったんだしさ、結果オーライってことで。り:調子いいなあ、もう それで?ケ:そこからの攻防は大変だった。 長崎奉行の長谷川権六は、潜伏していた宣教師のことを知っていた。 それなのに、権六はしらを切った。 宣教師らは自分たちは商人だと言い張り、権六は 「ほら、商人だと言ってるじゃないか。ウソだというなら証拠を出してみろ。 証拠がないなら、こんな無法を犯すお前らとの貿易はもう終わりだな」 と我々を脅す始末だった。 しかし、我々だって負けている訳にはいかない。 そこで、身の潔白を証明するために奴らが宣教師である証拠探しに奔走した。り:身の潔白ったって、好き勝手な海賊行為のツケが回ってきただけじゃないですか。レ:お前はどうも噛みついてくるね。 そんなにオランダ人が嫌いなのか?り:嫌いだったらこんな座談会開かないですよ。 ズ:だったら少し大人しくしていなさい。り:ぶ っ・・・・・金:あっ、コイツ、屁こきやがった!!り:こいてないですよ! 近くにいればわかるでしょーが!!ツ:人前でも平気で屁をこくのは日本人の悪いクセだね。り:こいてないってば!!レ:あるフランスの作家は韻文でこの禁忌をこう表現しているよ。 「屁を洩らすことなかれ、 風を逃さず、中にて抑え 穴閉め、尻をばひたと寄せ合い、 こらえてぐっと締めつける、 たとえ切なさ昂まりて 産婦の苦しみ凌ぐとも。 悪臭芬々(ふんぷん)、忌むべき屁をば、 食卓などで放てば満座の男も女も 口を極めて汝は全く 仏国一の下司と言うは必定。」ツ:エラスムスはこうも言ってるな。 「屁をこらえるのは健康によくない、それを密かに出してしまうのは正しい行為である。 若者達に尻をぐっと締めて屁をこらえよと説く者がいる。ところがそれは違う。 礼節を守ろうとして病を得るのはよくない。もし部屋の外に出ることが可能ならば 人から離れた所で放出するべきである。それが不可能ならば古くからの教えに従い、 咳をして音を隠すべきであろう。」 私は医師だから、そりゃ我慢が健康によくないのはわかってるよ。 でもせめて、エラスムスの言うように咳で音を隠さなくちゃ。り:こいてないって言ってるのに・・・ 人の話、聞きゃしねえズ:何の話をしてるんだ、まったく・・・ケ:宣教師は我々によって拷問にかけられた。 それはイギリス商館長のリチャード・コックスが目をそむけるほどの 苛酷な拷問だったと聞く。 さらに、奴らを知る証人たちを見つけ出してきたので、ついに自白を得るに至った。 そして2年後の1622年8月、平山常陳と2人の宣教師は火あぶりにされ、 日本人の乗組員12名も斬首の刑に処せられた。り:なるほど。 両者の意見が真っ向から対立して落着するまでに時間がかかったから、 秀忠みずから盗み聞きしてどちらの言い分が正しいのか見極めようとした訳ですね。ズ:この事件を機に、流れは大きく変わり始めた。 スペックスが自分たちより優遇されていると感じていたポルトガル人は信頼を失い、 事件が解決した翌年に商館長になったナイエンローデが参府した際は 素早く拝謁が叶い帰路についたというのに、ポルトガル人にはなかなか拝謁の許可が 下りなかったそうだ。り:へえ、ポルトガル人も参府してたんだ。ツ:イギリス人だってしていたよ。 その時、コックスが朝鮮通信使を見たんだろ?※今回の主な参考文献『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『完訳フロイス日本史』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳/中公文庫)『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』(奈良静馬/大日本雄弁会講談社)『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』(松方冬子/中公新書)『トイレの文化史』(ロジェ=アンリ・ゲラン著、大矢タカヤス訳/筑摩書房) ↓娘さん(大)の抜け毛でヅラを作ってもらったうちの娘さん(小)にほんブログ村
2016年08月16日

りり: それじゃ、日蘭交流の幕開けに移りますか。 リーフデ号の漂着から9年後の慶長14年(1609)、平戸にオランダ船が入港、と。 少し間が空いたけど、満を持しての来日ってカンジですか?レフィスゾーン: ちょっと違うかな。 我がオランダ艦隊がマライ半島ジョホールに停泊していたところ、近々ポルトガル船が マカオから日本に向けて出航するとの情報が入った。そこで艦隊の指揮官は ローデ・レーウ号とフリウーン号の2隻にポルトガル船の捕獲を命じたんだが、 もし不成功の場合にはそのまま日本に向かって通商を開く交渉をさせることにして、 国王オラニエ公モーリッツの権現様宛の書簡を託した。 2隻はポルトガル船を発見できず、5月、そのまま長崎港外に到達し、 次いで平戸港外に投錨した。 入港の経緯はこんなところなんだ。申維翰: ならば、もし拿捕に成功していたら倭国に渡る時期はもう少し遅れたということか。ズーフ: そういうことになっていたかもしれないな。 それで、時の平戸藩主・松浦鎮信公はオランダ船の来航を歓迎して、通商許可を 権現様に斡旋した。両船の商人頭、アブラム・ファン・デン・ブロークとニコラス・ボイクは 同年7月、駿府で権現様に拝謁して、オランダ国王の書簡と贈物を進呈し、権現様から 我が国王宛の書簡と通商許可の朱印状を与えられた。 平戸に帰ったブロークらは、商館を平戸に開くことを決め、ヤックス・スペックスを 商館長とし、同年9月にバンタンに帰っていった。り:ヨーロッパ諸国の中でのちにオランダが日本貿易を独占するに至るには さまざまなラッキーが重なったことが大きいだろうと思うんですよね。ツュンベリー: 運だけじゃないさ。 多大なる努力のたまものでもある。り:えげつない努力のね。ツ:・・・・・・・・・ケンペル: それじゃ、お前の考える「ラッキー」を言ってみろ。り:ローデ・レーウ号とフリウーン号が首尾よくポルトガル船を仕留めたところで、 いずれ会社は日本へも触手を伸ばしてはきたんだろうけど、イエアスから朱印状を もらえたことは大きかった。 これは皆さんも認めるところでしょう?ケ:それはもちろんそうだ。 幕府は大御所様の時代に決められたことを「祖法」だと言って尊重したからな。申:その朱印状にはどんなことが書いてあったんだ?ズ:我々がどこに入港してもよいことを許可したものだが、 そこには何ら制限は加えられていなかった。 つまりは誰とでも、我々の自由な意思の通り、強制されずに取引できるというものだ。り:それから、重要な局面においてよく日本の事情や慣習をわきまえ、 それに見合った対処ができる人が商館長の立場にあったこと。 あるいは、そういう元商館長がバタビアで重要な地位にあって適切な対処をしたこと。 これも大きい要素ですよね~。レ:日本を熟知していたスペックスはかねてから、日本に来る人物はこの国の慣習に精通し、 勇敢、謙虚、慎重でなければならないと警告していた。 平戸時代は出島時代に比べてはるかに自由ではあったけど、競合も激しかったし 日本国内の情勢が変わっていく時期でもあったから、特に商館長にはそういう資質が 求められただろうね。り:平戸の商館長の中でもっとも有名なのはカロンだろうけど、 彼自身は結構激しい性格の人だったみたいなのに、よく耐えてうまく対処しましたよね。ズ:カロンの日本の知識なんて大したことないんだぞ。ケ:それは裏を返せば自分の方がカロンより日本についての知識があるということか? たいした自信だな。金仁謙:「かろん」て誰だ?レ:フランソワ・カロン。平戸のオランダ商館最後の商館長となった男ですよ。り:あの厳しい時期、日本と日本語に精通しているカロンがいなかったら、 オランダ人だって追放されてたかもしれないんですよ? ズーフさんも長く日本に滞在して、数々の苦難を切り抜けてきたから 「我こそ日本通の第一人者」という自負があるのかもしれないですけど、 わざわざ回想録でまでカロンをけなすことないじゃないですか。ツ:へえ、自分の回想録でもそんなこと書いてるんだ。 それはオドロキだな。り:もうライバル意識むきだしですよ。 私に言わせれば、カロンとズーフさんは結構似た者同士だと思いますけどね。ズ:りり・・・お前は私の味方ではなかったのか?(と、ジジイの手を握って見つめる)り:あっ・・・ツ:うわっ、出た、禁じ手の色仕掛け! さすが、百戦錬磨のカピタンだな。レ:人聞きの悪いこと言わないでください。 商館長がみなテクニシャンという訳じゃないんですから。ケ:ドゥーフ君は日本女性に子を産ませたって言ってたしな。 女性の扱いもうまいようだな。レ:1年交代だったお2人の頃と違って、私やドゥーフ殿の頃には任期が延びてましたからね。 ドゥーフ殿の先代の時の商館付医師も日本女性との間に子を儲けましたし、 ドゥーフ殿の次代の商館長あての遊女屋からの請求書も残っているくらいだから、 何もドゥーフ殿だけが女遊びをしていたって訳でもないし・・・金:そういう君も、結構ケッコーだったんじゃないのか?レ:え! い、いや私は・・・ゴニョゴニョ・・・り:え~っと、ちょっと脱線しましたが、話を戻しましょうか。オホホ。 平戸時代の32年を知らずして長崎は語れませんからね。 大きな事件とからめながら、オランダ人が最後の勝者になるまでと、 栄光の勝利者がみじめに出島に押し込められるあたりを、簡単にね。ツ:色仕掛けで凶暴性がやわらいだらしい。ケ:牙を抜かれたライオンのようだな。レ:そうですかね・・・相変わらず言葉にトゲがありますけど。り:オランダ人のラッキーのひとつはイエアスから直接朱印状をもらえたこと。 このタイミングは実に良かった。1603 家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。1605 家康隠居。秀忠に将軍職を譲る。1609 平戸にオランダ商館を置く。1611 会社が社宅と倉庫を新築。1612 幕府が京都の教会を破却し、宣教師の国外追放を命じる。 会社が大坂(京・堺との取引を兼ねる)と江戸(駿府との取引を兼ねる)に出張所を置き、 各1人ずつ配置する。1613 禁教令。 イギリス船が平戸に来航し、平戸に商館を設ける。 前年、京都で行われた弾圧が全国に広められる。1614 大坂冬の陣。高山右近らキリシタンを国外追放。1615 大坂夏の陣。武家諸法度、禁中並公家諸法度を制定。1616 家康死去。秀忠によりキリシタン禁令が出される。 ポルトガルは長崎に、イギリスとオランダは平戸に寄港地を限定される。 り:オランダ人が来航した時、イエアスはすでに隠居はしていたけど、 大御所として変わらぬ存在感を保ち続けていた。 もう少し来日が遅れていたらイエアスは死んでたし、 イエアスが生きてはいても朱印状の交付者が秀忠だったら、 「つぶし」が効きにくかったかもしれない。 それに、オラニエ公の書簡を持っていったのも正解だった。 今回勉強する中で、江戸幕府の存続中に会社が解散していたことを知って 私は仰天したんですけどね。 「じゃあ、会社の解散以降、日本はいったい誰と貿易をしていたんだ!?」ってね。レ:そう、会社は国家から特許を与えられていたとはいえ、正式な国交ではなかった。 でも我がオラニエ公からの書簡に対して通商の許可を与えた訳だから、 幕府の認識では会社=オランダ国だったんだろうね。 ただ、それゆえにバタビアの総督の言葉が相手にされなくて困ったこともあったけど。 総督は国王の臣下でしかないからね。 り:ふ~ん。 秀吉の時代からすでに禁教の嵐は吹き荒れていたけど、 そういう中でキリシタンであるオランダ人も順調に勢力を伸ばしていったんですね。ケ:当初は布教が禁じられていただけで、キリスト教そのものが禁止された訳ではなかった。 貿易に従事するポルトガル人はまだ国内に残っていたぞ。り:そういう善良な商人まで追い落としにかかる訳だ。 平戸時代の歴史はドキドキハラハラで面白いんですけど、 同時にオランダ人のえげつなさも浮き彫りになりますよね。ツ:お前、「えげつない」を連呼するけど、当時の情勢からしたら必然なんだよ。 どこもやっていたことなんだし、競争って言い換えてくれないかな。り:だって、イギリスが日本貿易に参入して以降の会社の「競争」相手は 先住民のスペイン・ポルトガル、新参者のイギリス。 まあここまではわかるとして、当時朱印船で海外に乗り出していた日本人貿易者、 古くから関係の深い中国人、さらには自国の自由市民までも排除して 会社がすべてを独占しようとしてたんだから、これを欲深と呼ばずして何と言う 日本がわずかにでもつながろうとした中国人の排除を目論むなんて、 図々しいにもほどがあるってもんでしょ。ツ:だからそれが競争ってもんなんだってば・・・ケ:早くも新しい牙が生えてきたみたいだな。レ:しかも、前より鋭くなってませんか?ズ:自由市民の排除というのはあくまで商館長ナイエンローデの個人的な考えで、 会社の方針という訳ではないぞ。り:そおおですかねえ~。申:話の流れがさっぱり見えんのだが。り:あっ、ごめんなさい。 オランダ商館にからむ出来事というのは実に壮大で、各人の思惑はもちろんのこと、 いくつものファクターが複雑に絡み合うので面白くもあり難しくもあるんですけど、 各項目については後半の方で見ていくとして、ザビエルの来日(1549年)以来 長らく日本に根を下ろしていたポルトガル人は、オランダ人が割り込んできた頃には だいぶ落ち目になって不遇の時代を迎えていたようですね。ズ:それは奴らの浅はかな思慮と行為によるものだろう。 多くの著者は、1600年にオランダ船がはじめて日本に漂着した時に、 オランダ人のために、キリスト教迫害とスペイン人、ポルトガル人の追放が始まったという 誤りを犯している。 オランダはこの時、スペイン・ポルトガル両国と戦っており、戦争中の慣習どおり、 スペインがオランダを真っ黒に塗りつぶしていたことは事実で、ポルトガルも同様だった。 そこで1609年、オランダ人が貿易のためにはじめて2艘の船で到着したとき、 自国の利益のために、上記のスペイン人の話を確認したのは当然だろう。 しかし迫害の基礎はすでに築かれていたのだ。 有名なオンノ・ズウィール・ファン・ハーレンはその小著『ファン・ハーレン日本論- 日本キリシタンとオランダ』の中で、「この迫害を招いたのは1人のイギリス人であって、 オランダ人ではないということになろう」と我が国を弁護している。ケ:・・・・・・・ツ:・・・・・・・り:皆さん言葉を飲み込んでらっしゃるのでわたくしが代わりに言わせていただきますが、 それは詭弁てもんでしょ。ズ:なにを言う!どこが詭弁なのだ。り:ハーレンさんとズーフさんはウィリアム・アダムス(←イギリス人)1人に 罪を着せようとしてるみたいだけど、アダムスはイギリス人とはいえ、 そもそもオランダの会社の船に乗ってきてるんですよ。 それを言うなら、ここにいるケンペルさん(←ドイツ人)もツンさん(←スウェーデン人)も オランダ商館の人間じゃなくなっちゃうじゃないですか。ズ:それとは別の話だ。り:じゃあ、100万歩譲って、リーフデ号漂着以降しばしの迫害は イギリス人のせいだとしましょ。 もっとも、秀吉の時代にすでにバテレン追放令が出されているので アダムスのせいとも言えないんだけど。 それでも、その後のポルトガル人追い落としについてはズーフさんもはっきり 「悪事」と認めてますよね。申:ほお、どういう悪事なのだ?ズ:カピタン・モールと呼ばれるポルトガル人の日本商館長は、日本で生まれたカトリックの 熱心な信者だった。カピタン・モールは、密かにローマ・カトリックを信じる、 日本の大官と陰謀を企てた。彼がポルトガル国王に送った書簡には、 誓いを立てた仲間の名前が記されていた。 この書簡は、喜望峰付近で拿捕されたポルトガル船から押収され、オランダ人により 日本の当局に提出された。そこで日本人ははじめて警戒した。 誓いを立てた仲間は、もし長崎奉行の強力な支持を得ていたなら、 助かったかもしれなかった。 この書簡の真偽が疑われていた頃、カピタン・モールからマカオの長官に宛てた別の書簡が、 日本人自身により発見された。この発見により、彼らはさきの書簡を本物と納得した。 ポルトガル人とともに、この陰謀に加わった日本の大官は、国外に追放され、 ポルトガル船でマカオに向かった。 ・・・これが我々により行われた悪事であるが、スペインに我々は宣戦を布告しており、 ポルトガルも当時はスペインに属していたので、戦時の権利として完全に正当とされよう。 我々はポルトガル人の友人であり、同盟者である日本人にたいして、 ポルトガル人の奸計に注意するよう警告しただけなのだから。り:現代はグローバルとか言われてるけど、すでにこの時代にヨーロッパでの争いが アジアにまで持ち込まれて、日本でも代理戦争のようなものが行われてたってことですね。 迷惑な話だぜ、まったくレ:まあまあ。 世界の勢力図がまさに塗り替えられようとしていた時期だったんだからさ。 平戸では本館・長屋・倉庫のみならず、製材所・火薬庫・ロープ製作所・牧場なども 合わせて建設され、1618年にほぼ完成した。本館には講堂・貯蔵庫・台所などがあった。 我々は誰の監督も受けずに積み降ろしするなど、非常に大きな自由を享受していた。 ポルトガル人の場合、船が到着するやいなや厳封されて将軍の買い物係が参府して 相手の言い値で生糸が配分されるまでの数ヵ月の間は、何も出来なかったんだ。 当時、イギリスとオランダの商館はどちらも関税は免除、貿易地は無制限で 治外法権まで認められていた。ツ:オランダ人はかつて、日本人人夫が間違いを犯した場合、罰したり打ったりする自由まで 持っていたんだよ。り:新参者がずいぶんと調子よく権利を獲得していったみたいだけど、 その数年後には早くも新参者同士の間でも利権争いが勃発したようですね。ケ:まあな・・・ 大御所様が死去したその年(1616年)、バタビアの総督クーンは モルッカ諸島を往来する英船を敵と認めて処分する旨を宣言した。 これ以後、英蘭の衝突が烈しくなった。 翌年8月以降はイギリス船の日本入港が途絶え、さらに翌年にはオランダが イギリス船アッテンダンス号を捕獲して、同号を日本に伴って入港した。 イギリス商館長のリチャード・コックスは総督をイギリス王の敵とみなす旨を宣言し、 江戸入りして幕府にオランダの不法を訴えるが取り上げられなかった。り:なんで無視されたんだろ?ツ:これが国内で起きたことであれば幕府の役人を派遣するが、 今回は外洋で起きたことであって、将軍は外洋や外国の王じゃないからってことさ。り:なるほど。 それでなくてもオランダ人もポルトガル人もそれぞれがお互いの悪口を言いふらして ウザかったのに、その上外国で起こった外国人同士の争いにまで介入してたら 大変だもんな。ケ:次の年の1619年には、1617年にオランダが捕獲していたイギリス船スワン号を 率いて平戸に入港した。スワン号の乗組員はひそかに船を脱出してイギリス商館に 助けを求め、碇泊中のオランダ船7隻の水夫600名余がイギリス商館を襲撃すること 1日3回に及んだという。 平戸候はイギリス商館を護衛し、英蘭の調停を行うが、陸上でのみの誓約と解釈した オランダ人によるイギリス船砲撃・乗組員の拘留などは続き、再度コックスは江戸で 幕府に陳情するが、幕府の回答は平戸藩主の裁定に任せるというのみだった。り:オランダ船が7隻も平戸にいたんですか。それは壮観だったろうなあ。 でも当時のヨーロッパでは、東アジアに来ようなんてのはまともな人間の 考えることじゃないって思われてたみたいだし、実際当時の水夫を描いた絵なんか見ると うらぶれたやくざ者みたいな男たちってカンジで、そういう肉食人種が闊歩して 小競り合いなんか起こしたら平戸の町は大混乱だっただろうなあ。ケ:しかし、さすがにこれでは両国の利益にならないという判断のもと、ヨーロッパの 本国において1619年7月に英蘭防禦同盟条約が結ばれた。 これには双方ともこれまでの出来事を水に流し、一致協力して自由に商業を営み、 香料の買い入れ値段を協定で決めるなどの項目が含まれていたが、 両国の艦隊を平戸に集結させ、航海中マカオから平戸に向かうポルトガル船に出会ったら これを拿捕し、日本に向かう中国船は自由に航行させてよいがマニラを往復する中国船は 拿捕し、スペイン人に対しては可能な限り損害を与えよという内容もあった。 バタビアに防禦同盟の報が届いたのは翌1620年7月だった。ツ:当時、マカオにはポルトガル人が、マニラにはスペイン人がいたからな。り:つまり、東南アジアから日本へのルートの制海権を英蘭両国で握ろうとした訳ですね。 勝者が2人いる状況なんていつまでも続くハズがないのに・・・レ:それでも、当面はスペイン・ポルトガルから覇権を奪うことが重要だったからね。 りりの理論からすれば、外国の領海を勝手に分配するなって言うだろうけど、り:よくわかってるじゃないですか。レ:将軍だってオランダ人が海上でポルトガル人と出会った時、彼らを拿捕しても 差し支えないと言っていたんだから。り:でも分捕り品は平戸に運んで、自分達の積荷としてしゃあしゃあと日本で 売りさばいてた訳でしょ。 立派な海賊行為じゃないですか。 なんでも、持ち込む商品の大半はポルトガル船への海賊行為でゲットされたものだったので、 その質や量については安定性を欠いていたとか・・・ それでも元手はかかってないから、おいしい商売ですよね。ズ:まあ当時は白糸の品質の良し悪しに関わらず、値段は日本に一方的に決められていたから、 順当な貿易で積荷を得るよりは純利益は大きかっただろうがな。 捕らえた中国人を日本に連れてくれば、拿捕の事実を幕府に 訴えられるのではないかという恐れから、ある場合には彼らを小島に置き去りにしたことも あったと聞く。申:ずいぶんとひどい話ではないか。ズ:しかし露骨な海賊行為は平戸の藩主たちさえ不快にさせたと見え、スペックスは手紙の中で、 遠回しに、平戸藩主の留守中、奉行たちから妨害や中傷を蒙り、 少なからず当惑し不安を感じた、とも述べている。り:ヤコベさんも苦労したなあ。金:ヤコベって誰だ?レ:ヤックス・スペックスの愛称ですよ。 1度、我々の船が長崎付近でマカオのフレガット船(小型帆船)を追跡した時があって、 それを見た日本人の間に我々がフレガット船を長崎まで追跡してきて砲撃したという 噂が流れてね。そこで長崎奉行はその時長崎にいたエルベルト・ワウテルセンに向かって 「なにぐずぐずしてんだ。急いで船に行ってあれを止めてこい!!」 と厳しく命令したので、ワウテルセンは船に乗り込み、将軍の領内でポルトガル人を 攻撃してはならず、誰にも損害を与えてはならないことを伝えたので、ヤコベや商館員は フレガット船をそのまま航行させたということがあったそうですよ。 バタビアの総督などは日本を直接知らないから、可能であれば日本に碇泊中のポルトガル船の 錨を外してしまえなんて過激な命令も当時あったようでね。 初期の頃は日本を軽く見る人物もいたことは確かでしょうね。 ただ、ちょうど将軍の権威も高まってきていた時期でもあったから、日本に長く滞在して 日本をよく知る商館長はそういうバタビアの意識を変えさせようと、 日本の事情を伝える書簡を送ったりもしているけどね。ズ:それで1621(元和7)年9月、平戸のオランダ商館、イギリス商館長に 将軍からの命令が伝達された。 ・将軍の許可状なしに、日本人を(雇傭にせよ、人身売買にせよ)オランダ船、イギリス船、 ジャンク船で送り出すことを禁止する。 ・短剣、短銃、その他の武器、軍需品の輸出を禁止する。 ・オランダ人、イギリス人は、日本近海で略奪してはならない。 ・長崎では、外国からの大船も、その他の船も、大御所様の時に定められたとおり、 少しも変更することなく、取引を行うこと。 ・海上でオランダ人、イギリス人の略奪を受けた長崎商人の船には、調査の結果宣教師が 2人おり、押収されたのはそのためであるといわれている。宣教師がいたかどうかを、 厳しく調査させ、報告させること。 スペックスが聞いたところでは、フレガット船の船長は将軍の主要な閣老の前に呼び出され、 尋問を受け、その論議を将軍みずから別の部屋に隠れて聞いていたそうだ。 そこには平戸藩主と二人の主要な秘書も呼ばれた。彼等は口頭で尋ねられ、平戸藩主は みずからの領地・資格が傷つくほど、我々のために好意的に弁じたという。り:う~ん、皆さんが参府した際、恒例の法規の読み聞かせがありましたけど、 なんでああいう項目を毎年再確認させるのか初めはわからなかったんですよね~。 でも、こういう歴史があったから中国船や琉球船などの日本と交易をする船の保護を オランダ人に徹底させる必要があったってことなんですね。 日本の庇護のもとで交易する外国船は、それぞれ安全を保障されてたって訳だ。 人身売買などの項目については次回にしましょうかね。※今回の主な参考文献『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『長崎のオランダ商館 世界のなかの鎖国日本』(山脇梯二郎/中公新書)『日本回想録』(ドゥーフ著、永積洋子訳/雄松堂出版 新異国叢書第三輯10)『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店)にほんブログ村
2016年08月11日
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