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レフィスゾーン: 会社は最初、1602年にジャワ島のバンタンに商館を建設した。 1620年にはバンタン商館をバタビアに移し、各地に広がっていった商館を統括した。 バタビア大商館といい、アジア各地のオランダ商館の本店であり、 のちの長崎商館はその支店にあたる。 長崎の商館はコンツワール・ナカサキ Comptoir Nangasackij という。りり: ナカサキ?「ナガサキ」と濁らないんだ・・・ 私はオランダ語は話せないけど、オランダ語って鼻から息が抜けたドイツ語みたいな 印象があるんだよな。ツュンベリー: 17世紀のオランダ人は、自分たちの住んでいる地域を「ドイツの一部」といい、 言語を「ドイツ語」と表現していたから、お前の印象もあながち外れてるとは 言えないかもな。ズーフ: 実際の貿易を行うアジアの各商館を束ねるのがバタビアだが、 会社としては本社を持たなかった。 そもそも会社の正式名称は「総(または連合)オランダ特許東インド会社」で、 本国では略して「連合東インド会社」と呼び、頭文字からなる「VOC」の略語が 用いられた。 前回話したように、各地の先駆会社を包括的に合併したから「連合」な訳だが、 形式上は旧各社は同格で、定款では取締役の数は60人と決められたが、 旧各社の取締役がそのままVOCの取締役にスライドしたので、最初は73人もいた。 その中から17人の重役を選びだして構成された最高機関を「十七人重役会」といい、 これは本国にあって輸出額の決定や各商館の管理などの会社の重要事項を司る。申維翰: 重役会からの指令が東アジアへ届くのにも相当の時間がかかるだろう。 なんとも壮大な話だな。り:それに、最初はスペインやポルトガルの支配領域に割り込んで追い落としながら 会社の拠点を増やしていく訳ですからね。ケンペル: まあ、商館の中には軍隊を駐留させて要塞を築いているところもあったがな。 とある東インド総督で、 「戦争なくして貿易はなし得ず、貿易なくしては戦争はなし得ず」と言った者も いたそうだ。 会社の特許の中に軍隊を置くことが認められていたというのは、そういう実態や 必要に応じて現地国との武力衝突もやむなしと考えられていたからだろう。 現に、私が来日する数年前の時点の会社の駐在員の職種の中では軍人が圧倒的に多かった。り:ふ~ん。 ヨーロッパ人の海外進出というと、まずコルテスやピサロなどのように 軍事力で制圧したようなイメージがあるけど、英蘭の東アジア進出は、 最初は必ずしもそういう訳でもなかったみたいですね。レ:それはそうだよ。スペイン人なんかと一緒にしないでほしいな。 まあ、現地の状況によっては侵略行為もあったけど、つとめて地域の権威者と 有利な条件のもとで商館を設ける権利を得て拠点を増やしてるんだから。 日本の商館では我々は幕府や高官たちに多大な贈物をしてきたけど、 ペルシアやインドや他の国でも同じように献上品を贈ったりしてるんだよ。り:ふむ、手を変え品を変え東アジアの支配にいそしんだ訳ですね。 「植民地」の性質が変わるのは、やっぱ1757年のプラッシーの戦い以降なんだろうな。 時代が下ってヨーロッパでの動乱の余波がアジアにまで及んでくると、 増える一方の軍事費が会社の経営を圧迫するようになるんだな。レ:幸い、日本では武力を行使する必要はなかったけどね。り:なんで日本は植民地にならなかったのかな~。 一つの説として、日本は資源が少なくて利用価値がなかったからだというのが あるっていうんだけど・・・ツ:それは我々がスペインやポルトガルの魔の手から日本を守ったからじゃないか!り:でもオランダだってチャンスがあれば攻略してたかもしれないでしょ? まあ私が思うに、タイミングが良かったってのはありますよね~。 スペイン人やポルトガル人が入ってきた頃は戦国の直後だったし、 オランダ人が割り込んできた時は江戸幕府が開かれていたといっても まだ戦国の気風をバリバリに残してた頃だったからな~。ズ:どうも言葉のはしばしにトゲがあるような気がするんだが・・・ケ:いちいち気にしてたら身が持たないぞ。金仁謙:コイツの性格の悪さは救いようがないんだ!!り:(無視)え~っと、それじゃリーフデ号。 前回の流れのところでも書きましたが、リーフデ号は1598年6月24日、 先駆会社が派遣した5隻の艦隊のうちの1隻ですね。 レ:そう、「リーフデ」はオランダ語で「愛」を意味する言葉なんだ。 はじめこの船はオランダの誇るエラスムスの名を冠した「エラスムス」号だったが、 のち「リーフデ」号に変えられたらしい。り:ふむ、人文主義者として有名なエラスムス先生ですね。 だから船尾にエラスムス先生がくっついてたんだろうな。ズ:くっついて・・・? どういう意味だ?り:ほらこれ。 (画像提供:東京国立博物館)ケ:これは・・・?り:リーフデ号のおしりにくっついてたエラスムス先生の像ですって。ツ:うっそ!マジで!?り:この画像はレプリカの像ですけどね。 本物もちゃんと残っていて、下野の龍江院というお寺が所有していて、 寛永寺があった場所にできた博物館に寄託されてます。 こんなのがあったなんて全然知らなかったから私も驚いて、ソッコー 仕事の帰りにトーハクに寄ってエラスムス先生に会いにいこうかと思ったんですが、 実物が展示されてるかもわからないし、とりあえずこの画像で我慢することにしました。ケ:下野というと、江戸より北か? なんでまた、そんなところに?り:え~と、「佐野市仏教会」様のサイトによると、旗本の牧野成里さんという人が ウイリアム・アダムスから砲術を教わって、その縁でエラスムス先生をもらったらしいです。 んで、牧野氏の菩提寺の龍江院に所有者が移ったみたいですね。ズ:これは感動的だな・・・ 日本人のもの持ちの良さは我々もあちこちで見てきたから、 この像もさぞかし大事にされてきたのだろう。り:いやそれがね、色々見てみたら、笑っちゃう歴史があったようなんですよ。 龍江院の方ではいつの頃からか来歴もわからなくなっていたようで、 エラスムス先生はなんと古代中国の伝説上の船の発明者である貨狄(かてき)だろうと 考えられて、「貨狄尊者」(かてきそんじゃ)とか「貨狄さま」と 長いこと呼ばれてきたらしいです。申:この風貌をなぜ貨狄としたのか理解に苦しむ・・・ 倭人の発想は実に奇怪だ。り:でも正体不明の像を船にゆかりのある貨狄になぞらえたということは、 「船にあった像らしい」という伝承だけは残っていたのかもしれないですよね。 ただ、貨狄だとしながらも像の風貌がイマイチなんで、江戸期の地元では 「小豆洗い婆」とか「小豆研ぎ婆」と呼ばれて、夜になるとムジナに化けて 不気味な歌を歌いながら町を徘徊すると思われてたらしくてね。 その話を読んだ時、も~うゲラゲラ大爆笑しましたよツ:ちっともおかしくないんだけどレ:私なんかもう涙が出そうなんだけど。 なんで婆? なんで小豆なのさ?ズ:それで、不名誉なあずきババアの称号を脱出できたのはどうしてなんだ?り:それが20世紀の大正時代に入ってから、バチカンで行われた世界宗教博覧会に 「在日本キリスト教聖人像」として出品されたことで学者たちの注目を集め、 詳しく調査した結果、リーフデ号に乗っておられたエラスムス先生の像だということが わかったらしいです。 右手に持った巻物に文字が彫ってあって、欠損している文字もあるものの、 「エラスムス」と「ロッテルダム 1598」とは読めるみたいでね。 ま、江戸期には子供のいい遊び相手だったらしんですけど、 今は国の重要文化財として大切にされてますから安心してくださいな。レ:子供の遊び相手・・・ しくしくしく・・・り:像には鉄砲の跡があって、腹部には穴が開いてるらしいんですけど、 途中で攻撃でもされたのかな?ケ:ロッテルダムを出港した5隻の船団は、大西洋を横断するコースを取った。 そのうち、トラウ号とフライデ・ボートスハップ号はそれぞれポルトガルとスペインに 拿捕されている。 その他、食料補給のために途中で寄港した際にインディオに襲撃されたともいうから、 そういう中で銃撃を受けたこともあったのかもしれない。 もっとも、インディオは銃は使わないだろうがな。り:ふ~ん、それで2隻脱落。残り3隻は?ケ:ヘローフ号は1隻だけはぐれてしまったので航海の継続を断念して帰国した。 残った2隻のうち、ホープ号は沈没した。 最後まで残ったのがリーフデ号だ。 英国人ウィリアム・アダムスははじめホープ号に乗っていたが、 沈没する以前に弟トマスとともにリーフデ号に配置転換されていたので、命拾いをした。り:アダムスの弟も一緒だったんだ~。 じゃあ、兄弟そろって日本の土を踏めたわけか・・・ その割には知名度低いけど?ツ:日本に着くまでの苦労は、外国人から攻撃を受けただけじゃない。 寄港地では赤痢などの病気に感染もしたし、長期の航海だから壊血病も蔓延して 出帆時に110人いた乗組員は日本に着いた時には24人に減っていた。 トマスもインディオに殺されたそうだ。り:なるほど~。 じゃあまあ、会社の歴史としては輝かしい第1歩ではあったものの、 実際はほうほうの体で漂着したってことだったんですね。ツ:そんなとこだろうね。 何しろ、船長まで重体でまともに動けなかったそうだから。 24人が日本に着いたとはいっても、漂着の翌日に3人死亡したらしいし。 それで、アダムスら動ける人間が船長に代わって大坂に船とともに召し出されて 権現様に謁見することになったんだ。 健康は何よりの宝だよ。申:いかにも医師らしい発言だな(笑)。り:この時はまだ家康はいわゆる「五大老」という身分で天下人ではなかったけど、 秀吉はすでに死んで幼い秀頼が跡を継いでいた・・・ それで五大老のトップである家康が代わって漂流者を吟味した訳ですね。 秀吉が生きてるうちに着いてたら、会社のその後の運命もまた変わってたかも しれませんよね。 その点でもツイてたよな。ズ:それはお前の言う通りだろう。 リーフデ号の漂着当時、日本にはイエズス会の宣教師らがのさばっていた。 リーフデ号の日本漂着の報を聞くと、奴らはすかさずリーフデ号の乗組員を処刑するよう 上申していたらしい。り:すでにこの時から先住ヨーロッパ人との戦いは始まっていた訳だ。ズ:だが、家康公は公正寛大な方で、宣教師らのホラを心に留めながらも、 実際に乗組員に会って話をする中でオランダ人やイギリス人に対する誤解を解いた。 その後も宣教師らによる処刑の要求は執拗に続いたらしいが、自分の目を信じる家康公は それを黙殺して、ついには江戸に招くまでになった。 アダムスとヤン・ヨーステンは江戸で重用され、持てる知識を駆使して幕府に仕えたので これがのちの通商への土台となっていく。り:オランダ人のヤン・ヨーステンはちょっと調べたぐらいだとあまり具体的な経歴が 出てこないですね。 ただ、彼が与えられた和田倉門外の屋敷のあった付近が、ヨーステンの日本名の 耶楊子(やようす)から転じて八重洲という地名になり、それが今も残っているので 現代日本人にも名前だけはそれなりに知られているというぐらいで。 それよりは、やっぱウィリアム・アダムスのが有名だよな。ズ:なんでイギリス人の方が有名なんだ。 納得がいかん。り:まあまあ。 で、「外国」との交流ですが、前回の流れを一部再掲しますと 1600 3月、リーフデ号が豊後に漂着1602 オランダ東インド会社設立。1604 家康が松前藩にアイヌとの交易独占を認める。1609 薩摩藩が家康の許可を得て琉球に侵攻、なかば領土内におさめる。 対馬藩を介し、朝鮮との交易が再開される。 てことで、きちんとした歴史を知らない現代日本人のイメージといえば 「外国=出島=南蛮貿易」ってカンジじゃないかと思うんですが、 もう少し知識のある人なら前回の教科書からの引用にあるように 「長崎でのみオランダと中国との交易があった」という認識になるかもしれません。 でも実際は松前藩がアイヌと、対馬藩が朝鮮と、薩摩藩が琉球と交易があって、 スタイルの違いはあれ都合4ヵ所で5ヵ国との交流があった訳ですね。 なのに何で長崎ばかりがクローズアップされるのかと思ったんですけど、 朝鮮は別として、アイヌと琉球は結局のちに「日本」に組み込まれちゃったから あんまり目立たないのかな~っていう風にも考えました。ツ:へえ、アイヌと琉球は吸収されたのか。 でもまあ、朝鮮だって属国だろう?申:そんな訳ないだろう!!金:野蛮な倭国の属国だなんて、侮辱もはなはだしい!!り:ちょっとツンさん、朝鮮人を刺激しないでください。 外国との窓口となった松前・対馬・薩摩・長崎は今では「4つの口」という 言い方をされてるようで、このうち最も整備が遅かったのが長崎なんですが、 『オランダ風説書』(松方冬子/中公新書)によると、 【この「四つの口」は突き詰めれば日本が国交をもたない中国へと間接的につながる ための経路であった。中国で生産される生糸、絹織物などを安定的に手に入れ、 漢籍や絵画などから学びたいという欲求は日本国内で非常に強かったのである。】 ということらしいです。ケ:中国とつながる? 日本は古くから中国に朝貢したりして、関係の深い国だったじゃないか。り:いやそれが、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって朝鮮だけではなく、中国(当時は明)との 国交も途絶えちゃったらしくて。 でもケンペルさんの言う通り、日本の歴史は良くも悪くも中国との関係をヌキにしては 語れませんから、なんとか国交を回復させたいと思ったらしいんですけど、 結局明に拒絶されたままで直接の関係を復活させることはできなかったんですって。金:我らの神聖な国土を侵したりするからだ! 身の程を知らないにも限度がある!!ツ:りりだって興奮させてるじゃないか。ケ:それで何でアイヌや琉球なのだ?り:松方冬子氏によると、 【蝦夷地のアイヌは、サハリン(樺太)に住むアイヌを介して大陸との交易ルートを もっていたし、琉球は明の朝貢国であった。こうして家康は、とりあえず間接的に 明との関係を保持しようとした。】 なんですって。 言われてみるとなるほどってカンジですけどね。 だから、松前口・対馬口・薩摩口の3つは「中国とつながるための装置」。 これに対して長崎口は他の3つの口とは全く違う性格と重要度を持っていて、 それについてはまた後ほど話題にしたいと思いますが、 とにかく長崎だけが外国との接点だったと思ってる日本人は多いと思うので、 いちおうここで紹介しておきました。※今回の主な参考文献は・『栄光から崩壊へ オランダ東インド会社盛衰史』(科野孝蔵/同文館)・ 『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』(松方冬子/中公新書) とウィキペディア。にほんブログ村
2016年07月31日

りり: え~と、最初は皆さんが参府の途中で見たあれこれなどについて お聞きしようと思ってたんですが、その前にオランダ商館について 少し知っていた方が理解しやすいかなと思ったので、東インド会社や商館の概略を 聞かせていただこうかと思います。 たぶん、多くの日本人は商館のことをほとんど知らないと思うんですよ。ツュンベリー: えっ・・・知らない? だって、オランダ商館は江戸幕府と長い歴史をともにしてきたのに?り:現に、私も知識ゼロだったもんケンペル:じゃあ、お前の知識とやらをちょっと語ってみろ。り:江戸期に入って徳川幕府はキリスト教を禁止し、出島でのみ外国との関係を持って ここに鎖国が完成した。ズーフ:うむ・・・それで?り:そんだけ。レフィスゾーン:え!? ツ:なんだそれ!知識なんて言えないじゃないか!!り:だから、知識ゼロだって言ったでしょ。 歴史に興味のない人の知識もこんなとこじゃないかなあ~。申維翰:どこにもオランダ人が出てこぬではないか。り:ん~、まあ、時代劇なんかでは「蘭学」とか「蘭方医」なんて言葉が出てくるから、 よく考えればオランダ人を指すのはわかるんですけど、 「外国」がどこを指すのか興味もなかったから、オランダ人がどーのこーのとか 別に考えもしなかったしなあ。金仁謙:勉強しないとこういうくだらない人間が出来上がるの見本のようだな。り:だって私は長いこと世界史派だったんだもん。 日本史に興味を持ち始めたのはほんの数年前のことで・・・レ:もしかして、学校でも我々のことを教えないのか?り:あ、それはね、私が使っていた教科書には結構ちゃんと書いてありました。 【幕府は、貿易の奨励のためにキリスト教を黙認してきた。しかし、イギリス人・オランダ人 が、ポルトガル人・イスパニア人には領土的野心があると中傷したことなどから、 しだいにキリシタンの圧迫をはじめた。1612(慶長17)年、京都の教会を破却し、 宣教師の国外追放を命じ、翌年、それを全国におよぼした。さらに、1614(慶長19)年 には、高山右近ら信徒300余人を国外に追放した。朱印船の海外渡航も、禁教の強化に ともなって減少していった。 家康の没後、禁教はさらに徹底したものになり、1616(元和2)年には、ヨーロッパ船の 来航を平戸・長崎に制限し、1624(寛永元)年には、イスパニア人の来航を禁じた。 さらに、1633(寛永10)年、奉書船以外の海外渡航を禁じ、海外在住者の帰国を 制限した。翌々年には、日本船の海外渡航、海外在住者の帰国を全面的に禁止した。一方、 1634(寛永11)年には、長崎港内に出島を築き、ポルトガル人をここに移した。 こうした中で、1637(寛永14)年、領主の苛酷な年貢取り立てに苦しんだ九州の島原・ 天草地方の農民が一揆をおこした。この一揆の参加者は3万5千人にもおよんだが、 その中にはキリシタンが多かったので、幕府は不逞なキリスト教徒の一揆であると宣伝し、 諸大名に出兵を命じて、これを鎮圧した(島原の乱)。 幕府は、乱の背後にポルトガルの布教活動があるとして、1639(寛永16)年には、 ポルトガル船の来航を禁じた。1641(寛永18)年には、平戸のオランダ商館を長崎の 出島に移し、オランダと清の商人に限り、長崎での貿易を許した。 このような、幕府の管理と統制のもとにオランダ・清だけに貿易を許し、他の諸国との交渉を 閉ざした状態を、のちに鎖国と呼ぶようになった。鎖国は、幕藩体制を維持・強化するために 幕府のとった政策であった。しかし、このため、国民の海外渡航の道は閉ざされ、世界の進展 から取り残されることになった。海外事情については、わずかに「オランダ風説書」に よって、幕府が知るだけとなった。】 (「高等学校 日本史」清水書院より)ケ:ずいぶん、ざっくりな歴史だな。レ:初期の頃は変動が大きかったから、 重要項目だけを羅列するとこんな感じになっちゃうんですかね~。申:清は出ても、我々を出さないのはなぜだ! 侮辱もはなはだしい!!り:教科書は効率よく歴史を紹介するために項目ごとに分けて記述したりしているので、 朝鮮通信使については別のところで少し紹介されてます。 ただ、対外関係については思っていたよりも紙面を割いてる一方で、 これじゃ全体像がつかみにくい。 それに、今では「鎖国」についても解釈が変わってきているようなので、 そのあたりも踏まえながらざっくりとした教科書の文章の陰に隠れている もっと生々しい実態について、色々皆さんにお話をうかがいたいと思います。 突っ込んだ話についてはもっと後の方でするとして、まずは入門編てカンジで。 じゃ、なれそめですが、1568 ネーデルラントの貴族・オラニエ公ウィレム1世(オレンジ公ウィリアム)が スペインに反旗を翻す。(「八十年戦争」、または「オランダ独立戦争」の始まり)1579 ネーデルラント北部7州がユトレヒトにて、対スペインの軍事同盟を結ぶ協定に調印。 (ユトレヒト同盟)1596 フランスとイングランドが北部7州を国家として事実上認める条約(グリニッジ条約) を締結し、ネーデルラント連邦共和国が成立。1598 6月24日(西暦)、リーフデ号を含むオランダ東インド会社の艦隊が ロッテルダムを出港。1600 3月、リーフデ号が豊後に漂着。同月、家康がアダムスらを引見。 9月、関ヶ原の戦い。1602 オランダ東インド会社設立。1604 家康が松前藩にアイヌとの交易独占を認める。1609 薩摩藩が家康の許可を得て琉球に侵攻、なかば領土内におさめる。 対馬藩を介し、朝鮮との交易が再開される。 7月、13隻のオランダ艦隊のうち、ローデ・レーウ号とフリフーン号が平戸に投錨。 平戸藩主松浦鎮信のあっせんにより両船の商人頭アブラハム・ファン・デン・ブロークと ニコラス・ボイクが駿府で家康に拝謁し、朱印状を与えられる。 オランダ東インド会社が平戸に商館を置き、ヤックス・スペックスが初代商館長となる。1648 ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約で、スペインが ネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認。(八十年戦争の終結)り:日本史の教科書を真面目に勉強したところで、すでにこの時点で 教科書的知識はもろくも崩れ去るよな~。 ええと、リーフデ号よりも早くに来日したオランダ人もいたようで、 1585年(天正13)7月31日サンタ・クルス号に乗って長崎にやって来た ディルク・ヘリッツゾーンが、日本を訪問した蘭人第一号のようですが。ズ:ただ「来た」というだけではどうということもないだろう。 我がオランダと日本との関係は、リーフデ号以降の歴史に始まるのだから。り:オランダ船リーフデ号が関ヶ原の半年前に漂着したってのは有名だけど、 その時点でまだオランダは正式に独立してなかった訳ですね。 つか、ネーデルラント連邦共和国(←オランダの正式名称)の成立年自体も はっきりしてないみたいだし。 いちおう1596年ということになってはいるみたいですが。 それより、オランダ東インド会社(以下「会社」と表記)の成立が リーフデ号の日本到着以後ってどゆこと?レ:オランダは自然風土に恵まれない環境の国だった。 資源も少なく、国土も狭く、洪水もたびたび起こったので、 生計を海に求めるようになった。り:都知事選真っ最中の現在、「東京都だけでオランダのGDPを上回る」と しょっちゅうTVで言ってますもんね。 自国だけの経済力はもともとその位のレベルだったってことだろうな。ツ:「とうきょうと」って何さ?り:う~ん、「武蔵半国の経済規模がオランダ一国のそれを上回る」ってカンジ?レ:当時、スペインは新大陸を発見し、ポルトガルはアフリカ南端回りのインド航路を 開いて、世界の海を制覇していた。 その頃、東方商品に対するヨーロッパの支払いは銀か毛織物という手段しかなかったが、 暑い国に毛織物は必要ないので、とにかく銀が必要とされた。 新大陸貿易と東方貿易という世界商業の二大分野が銀で結ばれ、その接点に位置していた アントワープが国際的な中継・金融市場として栄えた。り:アントワープは南部の都市で、現在ではベルギーの所属ですね。 金じゃなくて銀が決裁手段だったんだ?ケ:東インドの住民には、金よりも銀のほうが喜ばれていたのさ。レ:オランダでは13世紀末頃から漁業に従事し、ニシン漁で発展するようになっていった。 ポルトガル人が香辛料など東方の品を持ち帰るようになると、リスボンなどで買い入れて 北欧へ運ぶことも始め、のち東インドの商品はオランダ人の取り扱う主要商品と なっていった。 まあ、中継貿易だね。 一方、神聖ローマ皇帝カール5世が退位すると、ハプスブルク領が オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分割されて、 ネーデルラントはスペインの支配下に入った。 その頃のネーデルラントではプロテスタントのルター派が広まっていて、 弾圧も厳しかったが、そうした苦難を経てネーデルラント諸州に同胞の意識も 芽生えていった。 そしてカール5世(=スペイン王カルロス1世)は1555年にネーデルラント17州を 息子フェリペ2世に譲り、翌年にはフェリペ2世がスペイン王となる。り:おお、フェリペ2世!スペイン絶頂期の象徴!!ツ:フェリペ2世は知ってるのか。り:まあ、彼は有名だから一般常識ですけどね。 アメリカやフィリピンを領有し、ポルトガル王も兼ねて「太陽の没することなき大帝国」 を作り上げた人でしょ。レ:フェリペ2世の代になった頃、フランスからカルヴァン派が多く移住してきた。り:カルヴァン派もプロテスタントですね。レ:オランダではゴイセンというけどね。 そしてまた弾圧が強まり、独立運動へとつながっていく。り:ふ~む、それでグリニッジ条約でフランスとイギリスの後押しを受けて いちおう国家のナリを整えるようになったってことですか。 それにしても、グリニッジ条約のわずか2年後に極東へ向けた艦隊を出すなんて すごいじゃないですか!ズ:それにはもちろんそれなりの下地ができていた。 15~16世紀には毛織物が世界の主要な貿易品で、特に新大陸との取引には 欠かせないものだった。毛織物の主要な産地であるフランドル地方が戦乱に巻き込まれて 職人たちがオランダのライデンへ大量に移住してきたので、オランダでは原料から 仕上げまでの全工程をこなす独立工業と、イギリスで生産された白地製品を加工する 加工工業が発展し、新大陸へ輸出するようになり、新大陸の銀が直接オランダへ 流入するようになった。 東方貿易に銀が必要だったとさきほど話が出ただろう?り:だけど、スペインの栄光にも少しずつ翳りが見え始めたとはいえ、 そうそう簡単に長期の航海に出られる訳でもないでしょう?ズ:東インドからの輸入品の中でもっとも重要だったのは香辛料で、調味料としてだけではなく、 媚薬・強壮剤・防腐剤などとしても活用されて、その利益は莫大なものだった。 会社の原型ができる頃、ポルトガルの胡椒取引はポルトガル王の直轄で、 価格も指定されていたので、中継貿易では大きな利益は得られなかった。 当時、ただでさえヨーロッパでの需要に供給が追い付いていなかったのに、 胡椒の運送路にあたる東地中海の政情が不安定で、これが供給不足に拍車をかけた。 我が国はそこにチャンスを見込んだのだ。り:利にさといと言われるオランダ人らしいエピソードとも言えるかもしれないけど、 イギリスも同じ頃世界に羽ばたくんだから、スペインやポルトガルがいかにウハウハの ボロ儲けをして、周辺国がそれを妬ましく眺めてたのか想像もつくってもんだよな。ズ:長期の東インドへの航海についてのノウハウは、ポルトガルは秘密にしていた。 だが、メルカトル(ヘルハルト・クレメール)が図法を考案したり、 大司教ヤン・ハイヘン・ファン・リンスホーテンがインドへ航海した際の見聞録を 公開したりしたので、知識や技術の面でも準備が整っていった。り:「メルカトル図法」のメルカトルさんですか! 彼、オランダ人だったんだ。ズ:それでも、最初はポルトガルと出くわさない航路を開拓しようと苦労したらしい。 当時、シベリアの北海岸はオビ河の河口から東南へ屈曲していると考えられていたので、 ユーラシア大陸の北回りのコースを採った方が喜望峰を経由するコースよりも はるかに近道であると考えられていた。 それで、果敢に北回りの航路の開拓にいそしんだんだが、ある船はノバヤ・ゼムリヤ島 西海岸で氷に閉ざされて1年以上同地で越冬し、翌年9月にかろうじて スカンジナビア半島の北岸・コアに着くなどといった状況で、 結局北回りのチャレンジはすべて失敗に終わった。 その一方で、ポルトガル人と同じ南回りのコースで東インドへの航海を目指す動きがあり、 1595年4月にオランダから出港した4隻の船隊が、14ヵ月かかって ジャワ島西部のバンタム王国の首都・バンタムに着いた。 これが東インドへの自力航海の第1号だ。 出港当時240人いた乗組員は、帰国時には87人になっていた。り:喜望峰付近の航行は危険が多く、また熱帯地方を通過するために病人が続出したとか 言いますもんね~。 なにもそんな苦労してまで、よそ様の土地を狙わなくてもいいのに・・・ ヨーロッパ人は本当に強欲ですたいズ:(無視)最初の航海が成功すると、オランダでは航海熱が高まり、 各地に小規模の会社が設立されて乱立の様相を呈した。これらを「先駆会社」という。 しかし、当時は帆船だったので季節風を利用することが多い関係上、 東インドでの買い付けでも本国での売却でも各社の船が重なって、競合の弊害が現れてきた。 さらに、オランダに対抗して1600年にイギリスで東インド会社が設立されたので、 我が国でも様々な困難を経て多くの先駆会社を合併させることとなり、 1602年3月20日、「諸会社の特許すなわち合併」の議がオランダ連邦議会で可決され、 会社に特許が認可された。 これが「オランダ東インド会社」だ。り:長い話だったなあ~(笑)。 つまり、1600年のリーフデ号は先駆会社の派遣した船だったってことですか。レ:そういうことだね。 特許の中身は、会社の船だけがオランダから東インドへ航行できること、つまり貿易の独占。 それから外国の国家と条約を結び、軍隊を置き、要塞を設け、貨幣を鋳造し、 地方長官や司令官を任命できるというものだった。 特許だから期限があるんだが、その期間は21年間で、21年ごとに更新されることに なっていた。が、実際は会社の設立から解散までずっと継続された。り:ふ~ん、会社と一口に言っても、国家の運営する会社のようなもんだったのか。※今回の主な参考文献は『栄光から崩壊へ オランダ東インド会社盛衰史』(科野孝蔵/同文館) とウィキペディア。にほんブログ村
2016年07月23日

ツュンベリー: 私が日本へ向かう時のことだ。 1775年6月20日乗船、21日に大きな三層甲板船でバタビアを出港し、 8月13日、長崎へ入港した。 日本への航海はインド全域中で最も危険であると常に見なされており、 オランダ東インド会社は日本向けの5隻の船のうち、少なくとも1隻は 失われるとしている。 現に、私の航海は船を日本の港に3~4ヶ月安全に停泊できる、最適にして唯一の季節と いわれながら、5回もの暴風雨に見舞われ、速度の遅い帆船ブライフェンブルグ号は 沈没こそ免れたもののマカオで航行不能となり、広東で修復されることになった。 積荷の大部分である粉砂糖はほとんど全部がだめになり、水夫たちの間には 間歇熱が猛威をふるい続け、4回目の暴風雨ではついに乾いた衣服もなくなり、 5回目の時に大波で船が強い衝撃を受けた際、甲板にいた私は端から端へと投げ飛ばされて 右足にリンゴ大のこぶを作った。 これで日本への航海がいかに困難で危険であるか、台湾を取り巻いている海が いかに荒れ狂い暴風雨に襲われるか、おわかりいただけよう。りり:なんでみんな、海が荒れてる時に甲板に出るかな~。 頭、おかしいんじゃないッスか?ツ:・・・それが苦労してはるばる日本までやって来た人間に言う言葉か? 私が観察した日本人は、気に入らないことがあってもその場では顔に出さない 忍耐強い人物ばかりだったぞ。り:すいませんね、顔に出て。 もう江戸期とは違うんですよ。 でも、江戸っ子なんかはケンカっ早いって言いますけどね~。 わたくし、江戸っ子の血が入ってるもんで。レフィスゾーン: ま、まあまあ、我々は日本人に対して忍耐することに慣れてるじゃないですか。 ここまでの会話でりりが凶暴な性格だってことは十分にわかったから、 昔取った杵柄で、ここはぐっとこらえて・・・ね?ツ:ハア、死してなお日本人に忍耐を強いられるとは・・・り:まあでも、海に放り出されなくてよかったじゃないですか。 バタビアから日本への航海途上じゃ、荒れてる海に飛び込んで助けてくれる 勇敢な日本人はそばにいませんからね。ツ:ま、骨折しなかったのが不思議なくらいだとは思ったけどね。 他にも海で苦労した人、いる?ケンペル:そういえば、ドゥーフ君は本国へ向かう途中で遭難したと言っていたな。ズーフ: 私は私の半生を過ごした日本を出帆して、バタヴィアへ向かった。 もし私が東インドに留まりたいと望んだら、もっとも利益のある地位が与えられただろうが、 なにしろ21年祖国から離れていたので、私は帰国することを望み、 祖国への航海に軍艦アドミラル・エーフェルツェン号を選んだ。 1819年2月16日、私の乗った船は戦艦プリンス・ファン・オラニエ号、 フリゲート艦マリア・レイヘルスベルヘン号とともにバタヴィアを出帆した。 しかし前者は我々の先を航行し、後者は3月の末に視界から消えた。 我々は絶えずスコールと高波に奮闘しなければならず、我々の主檣の船首材を失った。 船は漏水し、我々は絶えずポンプで水をくみ出して、ようやく海上に浮かんでいた。 3月30日、浸水はさらに増え、全員がポンプに配置された。私もすべての乗客と同様、 4時間続けてポンプを押しては、4時間休息しなければならなかった。 漏水個所を発見するため、あらゆる手を尽くし、ついに水が烈しい勢いで流れ込んでくる、 2つの大きな穴を発見した。 その他にもいくつか小さな穴があり、これだけでも我々の船を座礁させるに十分だった。 高波と激しい風のため、もっとも大きな漏水個所をふさぐことができず、 我々はまったく悲惨な状況だった。申維翰:引き返すとか、近くに避難するとかの措置は取れなかったのか?ズ:いや、その時もっとも近いモーリシャスはなお400マイル離れていたし、 南東のモンスーンが待ち受けていたので、スンダ海峡、あるいはスマトラに引き返すのは 非現実的だった。 牽具の多くは損傷して帆走もできない状態だったが、その修理に乗組員を割くと 1つ以上のポンプが止まり、沈没を早めることになるので、修理もできなかった。金仁謙:にっちもさっちもいかないとはまさにこの事だな。ズ:それで、風を避けて200マイル離れているディエゴ・ガルシア島を目指すことにした。り:え~、註釈によるとディエゴ・ガルシア島はモルディブの南の英領シャゴス諸島の島、と。 けど、ディエゴ・ガルシアなら英語じゃなく思いっきりスペイン系の名前だよな。 もとスペイン領か、もしくはポルトガル領だったのかな?レ:お前はヘンなとこに食いつくね。り:疑問を持った時に調べておけば少しずつでも知識が広がるでしょ。 え~と、ウィキペディアって名前の物知りのトモダチによると、 【16世紀の初期にポルトガル人によって発見され、「ディエゴ・ガルシア島」と 名付けられた。当時は無人であったが、その後18世紀にフランス人が入植して 黒人奴隷を導入しココヤシ栽培とコプラ生産のプランテーションの経営を始めた。】 ふん、やっぱりそうか。 で、その後、イギリス人が強奪して、今はアメリカにレンタルしてると・・・ うん? 2014年のマレーシア機行方不明事件で、ディエゴ・ガルシアの米軍基地が 注目を浴びてるそうな。残骸が見つかったとかいう報道もいくつかされてるけど、 アメリカについての黒い噂も飛び交ってるみたいだな・・・ ふ~ん、今じゃそんな話になってるのか・・・ズ:・・・話、続けてもいいか?り:あ~、はいはい、すいません。 そこらへんの海で、みんなで必死こいて水をかき出してた訳ですね。ズ:時々生命の危険を冒していくつかの漏水個所を止めようとしたが、すべて失敗に終わった。 船を浮かせるために、大砲と火薬を若干、甲板から投げ捨てたが、漏水は減らなかった。 それどころか、ポンプの1つが故障して、水は再び増加した。幸いにも、艦内には 大変有能な鍛冶屋がいて、もっとも性能のよいポンプの1つが動かなくなると、修理した。 軍艦ナッサウ号から我々が買い取ったこの2つのポンプがなかったら、我々はこの船を、 これほど長い間海上に浮かべておくことはできなかったろう。 そうして3月30日から4月8日まで、船はまだ沈没しそうな状態にあり、死は目前に 迫っていた。我々の唯一の希望は、ディエゴ・ガルシア島だった。ここに人が住んでいるかは 知らなかったが、ただ、ここに碇泊所があることは知っていた。 我々が4月8日の朝、この小島を目の前に見た時の喜びと、神への感謝は どれほど大きかったことだろう。 島の小さな湾の入り口に近づいた時、アメリカの旗を立てたブリック船が近づいてきて、 その船長が我々の船に乗船したので、我々の喜びは、どれほど高まったことだろう。 ブリック船ピッケリング号の船長ジェームズ・B・イーズは我々の状態に唖然とした。 この船の名とその立派な船長の名は、私の記憶から去ることはないだろう。 我々は、彼とこの船のおかげで救われたのだ。申:生死の境をさまよったものの、助かってよかったではないか。ズ:しかし、逆風が吹いていたので、沈没しかかった船では湾内に入ることができなかった。 長い間待ち望んだ島に着きはしたものの、停泊することはできず、そのまま我々は 完全に島から離れてしまい、日も暮れてきて、船員は気力を失った。 ・・・こうなったらもう、我々全員を彼の小さな船に引き取ってくれるよう、 アメリカ人の船長に願うしか道は残されていなかった。 イーズ氏は、水が刻々と満ちてくる、我々の船の悲惨な状態を見て、さしあたり 我々の船に留まる決心をしてくれた。これは我々を少なからず安心させた。 さもなければ、乗組員たちは意気消沈して、我々は皆溺死しただろう。 そして船の司令官、海軍少将バイスケスは作戦会議を開いて皆の意見を聞いた。 こうしている間にも、船は風と潮流で次第に島から遠ざかっており、このままいけば モンスーンと潮流によってディエゴ・ガルシア島の北西の珊瑚礁で沈没する危険があった。 そこでは船を保護するものは何もなく、船にいる340人は食料も得られない。 熟慮の結果、船を捨ててピッケリング号へ移ることを決議した。ケ:やむを得ない選択だな。 そのブリック船の船長はディエゴ・ガルシア付近に住んでいたのか?ズ:島には9人のヨーロッパ人と150人くらいのモーリシャスの黒人がいた。 が、彼らは定住者ではなく、豊富なココナッツと魚から製品を作り、年2回、 彼らの製品をモーリシャスに送っているだけだった。 イーズ氏がディエゴ・ガルシアにいたのは、まるで我々を救出するために神から遣わされた 奇跡のような偶然だった。 ピッケリング号は3年前にアメリカを出帆し、アザラシの捕獲のために太平洋の小島に 乗組員の一部を下ろし、しばらくしてからまた迎えに行く船で、迎えに行くまでの間は マダガスカルに航行して、モーリシャスに食料用の家畜を運搬していた。 家畜の運搬には多くの水を必要とするが、マダガスカルは水がよくないし、 モーリシャスでは高価なので、水質がよくしかもタダのディエゴ・ガルシアに 水を得るために来ていたのだ。レ:おお、神よ・・・ズ:ピッケリング号には飲料水とココナッツが積まれていたが、これはディエゴ・ガルシアで 豊富に得られるものなので、これらを海に投げ捨て、我々の収容場所を作った。 そうして4月9日の夜、沈みつつある船から退去を始めたんだが、 アドミラル・エーフェルツェン号のように80門の大砲を備えた巨大な船が 突然沈没する際には、小さなブリック船は海のうねりで共に飲み込まれる危険があるので、 移動は慎重に行われた。 午前1時、まず何人かの病気の乗組員と共に私が移動する命令を受けた。ツ:なぜ健康な君が先に移動したんだ?ズ:それは私が臨月に近い妻を伴っていたからだ。 これまでの驚愕と不安で、妻はすでに重病で憔悴していた。り:ズーフさんには日本人妻と子もいたけど、彼らを国外に連れ出すことはできなかったんでね。 この時一緒にいたのは、バタビアに戻ってから娶った奥さんです。申:ああ、国禁があるからな。り:臨月の新妻を、危険な航海に連れ出したことがまず私には理解できませんね。ズ:・・・・・・ ツ:おさえて、おさえてズ:私は妻をできる限りハンモックで包んだ。 この時のイーズ氏の人道的な援助を、私は決して忘れることはないだろう。 その後ボートは何回も往復して、午前11時頃、すべての乗組員がブリック船に移った。 すでに水は一番下の甲板まで達していた。 ところが、船からかなり離れた頃、残した船から砲声が聞こえた。ツ:なに、怪奇現象!?ズ:直ちに点呼を行ったところ、砲手が1人足りなかった。 彼は疲労のためか刺激性飲料を飲みすぎる習慣のためか、眠っていて忘れられたのだ。 彼が目を覚ました時、沈んでいく船にただ1人震えていたが、大砲を撃つだけの 知恵がまだあった。金:ぶりっく船に当たらなくてよかったではないかズ:(無視)我々に選択の余地はなく、ふたたび沈没していく船に戻り、砲手を救い出した。 その後島に向かって更に一晩航行したが、翌朝見捨てた船から黒煙があがるのを見て驚いた。 恐らく、例の砲手が不注意に発射したため、船は水ではなく、火のために沈没したのだろう。り:最初にちゃんと点呼しておけばこんなことにはならなかったのに。 詰めが甘いよなあ。ケ:茶化すなよ、アジア人たち。 それで船は沈没し、緊急だったためロクなものも持ち出せなかったという訳だな。ズ:私は日本滞在の19年間で収集した、日本の珍しい物、書類、その他多くの持ち物があった。 しかし、このような状況だったのでそれらが大きな場所を占めることは許されず、 重ね着をした何枚かのシャツ、私にとって重要な若干の書類、それとかなりの額の現金しか 残らなかった。申:そんな中で多額の現金を持ち出すとは抜け目ないではないか。ズ:金は私が持ち出したものではない。 私がブリック船に移ったあと、大きなボートの漕ぎ手の1人が私のために取ってきて、 しかも正直に無傷のまま私に渡してくれたものだ。 ブリック船のおかげで無事、全員が島に移れたが、先に話したように島には人がいて、 我々は340人もいたので、ディエゴ・ガルシアに留まるのは好都合ではなかった。 かと言って、この人数でブリック船で20日以上かかる航海はできない。 そこで隊を2つに分けてブリック船でモーリシャスまで運んでもらうことになった。 私がモーリシャスに向けて出帆したのはようやく4月22日のことで、 私は辛うじて助かった妻をそこまで無事に連れていきたいと願ったが、 航海の4日目に妻は亡くなった。 妊娠中で、しかも船の難破でショックを受けていたので、妻の身体は 航海に耐えられなかったのだ。我々は結婚後10ヵ月しか経っていなかった・・・り:あ~、奥さん、ホントお気の毒!! それにしても、ズーフさんは初来日のあと一旦バタビアへ戻ってるし、 平戸の最後の商館長だったフランソワ・カロンもタイオワン(台湾)だの バタビアだのへ行ってるし、危険だと言いながら当時の諸技術で よくもまあ日本との間を無事に往復してますよね。 オランダ人、マジしぶといよな~。レ:今回の話のシメ、そこですか?にほんブログ村
2016年07月18日

りり:それじゃ申さん、朝鮮通信使の旅程の概略の説明をお願いします。 まずはざっとね。申維翰:我らはソウルからの出発だ。我が国内をずっと南下して釜山を出港し、 まずは対馬へ渡る。対馬の東海岸を伝って壱岐へ渡り、筑前領藍島へ渡る。り:藍島は六連島の北西にある島ですね。そこまでくれば、本土がもう目の前だ。申:藍島から赤間ヶ関を抜けて大坂まで行く。ここまでは船だ。 そして陸路で大坂から淀・伏見を通り京へ入る。ツュンベリー:あとは私達と同じ東海道だね。申:いや、京から大津へ出て、しばらく琵琶湖沿いを進んだ。 そして山を越えて大垣へ抜け、名古屋へ入る。その先からはオランダ人と同じようだな。ケンペル:すると、大きく北側へ迂回した道を進んでいったということか?り:カピタンの参府ではまんま東海道を東進したから、草津から水口を通って 亀山へ抜けてますけどね。 中身はどうであれ、朝鮮通信使は丁重にもてなされたので、こういうルートになってます。レフィスゾーン:迂回することと丁重なもてなしとどういう関係があるんだ?り:この道は関ヶ原を突っ切るルートで、一部美濃路を通ります。 読者の方には、東海道新幹線のルートだといえばわかりやすいかな。 関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利したあと、家康はこの道を通って上洛しています。 また、その息子で2代将軍となった秀忠も同じ道を通って上洛しているので、 徳川家にとって吉例の道とされ、その後沿道には将軍の休息所も設けられて、 以後の将軍が上洛する際に使われ、将軍専用の道とされて、 参勤交代で国許と江戸を往復する大名たちには通行が許されなかったという、 特別な道なんです。ズーフ:我々とは差がつけられていたということか・・・り:まあ、そうしんみりしないで。 この後、おいおいわかってくると思いますが、とにかく朝鮮通信使への接待というのは 異常なほどなんですよ。 なもんだから、もともと傲慢な朝鮮人がますますつけ上がって・・・金仁謙:おい、そこの倭人!!り:(無視)旅程はこんなとこですかね。 どのぐらいの人数で旅をしたんですか?ケ:まず小倉までの陸路は100名。 これには馬丁や大名が護衛に付けてくれた人数が含まれる。 その先の海路では、水夫が含まれるのでそれほど少ない数にはならない。 大坂から江戸までの陸路では、荷物も人馬で運ばなければならないので 馬40頭に人足も同じだけの数がいて、150名にもなることがある。ツ:オランダ人は商館長と書記官、それに医師の私の3人なんだ。 あとは役人、通詞、従僕、召使のおよそ200人にも達する相当な数の日本人が随行する。り:200人という数については、「この人数は疑わしい。通常は60名ほどという」という 注釈がついてますけどね。レフィさんの時は?レ:私の時にはオランダ人は私とドクトル・モーニッケの2人だけで、その2人に対して 保護・監視を目的として61人の日本人が付いた。り:ふむ、回によって多少の増減はあるだろうけど、やっぱりそのぐらいの人数が スタンダードだったんだろうな。申:余の時は朝鮮側だけで475名。うち109名は大坂で船に留まるがな。レ:え?金:私の時は総勢484名だ!レ:申さん、今「朝鮮側だけで」って言いましたよね? すると、金さんの時も朝鮮人だけで484人てこと? なんでそんな大人数になるんですか?申:中心となるのは正使・副使・従事官で、これを三使臣という。 一行は上房・副房・三房の3つに分けられ、三使臣がそれぞれ、各房の上に立つ。 そして通事・書記・軍官・船将・小姓・水夫・従僕などがそれぞれの房に所属する。 もちろん医官もいる。ケ:それだけでそんな人数になるのか?り:いや、朝鮮通信使のメンバーには驚くべき職種も含まれてるんです。 金さんの回の名簿から変わりダネをいくつか拾ってみると、まず画員。ツ:絵描き?り:それから楽人。一行のパレードの際は、楽人たちが笛やラッパをピープー吹きながら 行進します。あと、各滞在地でも楽を奏でさせて内輪の宴をしたりしてますね。ズ:ずいぶんと優雅なもんだな。り:それから大旗の持ち手や毛槍の持ち手。ケ:そんなのの専任がいたのか?り:料理人や屠牛匠。ツ:牛の屠殺人てことか?我々の一行にも料理人はいたが、全部日本人だぞ。り:オランダ商館員は日本に住んでましたからね。 でも朝鮮人の場合は一時的な「お客様」だから、文化の違いもあるし、 全部が全部朝鮮人料理人が滞在中の料理を作った訳でもないみたいだけど、 自国の料理人を抱えていた方が何かと都合がよかったんじゃないですか? 朝鮮人は文句が多いし。申:文句が多いと言うが、宴で出された料理でまともに食べられないものは多かったぞ。り:それは儀式料理だから。 文化が違えば調理法とか盛り付け・味付けも異なるのは当然のことなんだから、 四の五の文句言う前に素直に色々食べてみればよかったのに。金:そこの倭人、無礼が過ぎるぞ!!り:(無視)あと馬上才。馬で曲芸する人のことです。 それと馬の獣医。 金さんの回の名簿にはちょっと見当たらないけど、鷹の飼育係もいるはずなんだけどな。 回によって鷹のいない時もあったのかな。ズ:ということは、馬や鷹もいたということか?り:左様でございます。将軍家への献上品でございまする。 こーゆーのを引き連れて、しめて500名近く。 この時点ですでに日本人随行者も含めたカピタン一行の人数をゆうに超えてますが、 対馬~江戸間はこれに対馬藩の護衛が付きます。 さらに、道中での案内・接待・護衛のために沿道付近の藩やそれ以外の藩からも 多くの人が供されたので、日本人随行者も含めると朝鮮通信使の一行や 接待に駆り出された人の数はとんでもないものになります。 ツ:はあ~・・・・・・(←開いた口がふさがらない)レ:私もちょっと見てみたかったな。り:いやあ~、オランダ商館の皆さんは見ない方がいいでしょ。 平戸時代の皆さんのライバルだったイギリス商館の商館長のリチャード・コックスが 1617年に大坂で通信使の一行を見ているんですが、 「皇帝の命でいたるところで王者のように待遇されている」と日記に書いてます。 コックスが見たのは第2回でまだ初期の頃ですが、 それでもすでに相当な待遇だったんだから、回を重ねるごとにエスカレートしていった 過剰なほどの接待を皆さんが直接見たら、これはもうフラストレーション 溜まりまくりだと思いますよ。ツ:あっ、なんか、「監獄」の記憶がよみがえってきたな・・・り:んじゃ、前回船酔いの話が出たので、海での苦労話を 申さんに披露していただきましょうか。申:余は釜山から1日で対馬に着いたが、それでも終日船酔いに苦しんでいる者がいた。 対馬から壱岐に渡る時には海が荒れて、我らはもとより櫓工・倭通詞までことごとく 船酔いのために嘔吐した。 起きてはたちまち扶擁しあい、すがりついても立つことはできず、転倒してしまう。 余は屋中で小臥しようとしたが、四隅の板を見ると板がゆさぶり動いてまさに壊れんばかり。 立って楼頭にあがり、足をのばして坐って天際の雲霞を望めばやや快かった。り:対馬海流は対馬をはさんで日本海に流れ込むけど、対馬~壱岐間よりも 対馬~朝鮮半島間の流れの方が早いみたいですけどね。 それでも壱岐までもずいぶん荒れたようですね。 そんな中、甲板に出るなんて危ないじゃないですか。 申さんは病気持ちだってのに・・・ツ:病気?なんの?り:「ちにてんてん」のツラい病気ですよ(笑)。ツ:あっ、「ぢ」かあ~!そりゃ辛かったでしょう。申:・・・・・り:それがもとで壱岐ではあんまり人の応対もできなくて船で休んでて、 ちょうどその頃、運悪く家が壊れるほどの暴風雨が吹いたので、 荒れ狂う船の中でじっと耐え忍んでたりと実にお気の毒でねえ~。ケ:お前、なんか楽しそうだな。 しかし、医師だって同行していたんだろう?り:さすが医者。食いつくなあ申:うるさい! 医官もいるにはいるが、余はもう長くアレを患っていたので仕方ないのだ。ツ:長崎に寄ってくれれば、最新のオランダ医学で治してあげたのに~。 つっても申さんの来日当時、私はまだ日本に来ていなかったけど。申:壱岐から藍島まで行けば九州はもうすぐだが、我らは九州へは上陸しないのだ。り:藍島からはほんのひとまたぎで九州だけど、その先の旅程を考えれば わざわざ下船して九州北部を横断する必要なんかないですもんね。申:長崎のことは余も聞いている。 中国商船が停泊する港で、その名勝は百物繁華とともに国中でもっとも有名である。 ぜひとも見たいと思ったものだが、路程から外れているので寄れないのが遺憾であった。り:申維翰(しんいかん)さんが遺憾・・・ぷぷぷ・・・申:日本語読みするな。我が名はシンユハンだ。レ:申さんが我々の居留地を見たらびっくりすると思いますよ。 オランダ人にとってあそこは監獄だから。り:オランダ商館員は出島のことを「海の牢獄」と呼んでいたそうですね。レ:監獄は出島だけじゃないけどね。どこでも日本国内、我々の行く所は牢獄だ。申:藍島に着いた時、早暁からの暴風雨がいよいよ激しくなって接岸できなかった。 船中に留まっていた櫓人や格卒たちは死ぬかと恐れ天を呼び泣き喚いた。 迎える岸辺でも対馬州の奉行などがそれぞれ倭人数百を率いて救済にあたろうとしたが、 海岸は荒れ狂い手も足も出ずに、岸でも船でもなすすべがなかった。 とつぜん、風威がやや衰えたとき、1人の各卒が海に飛び込み、 波間に浮かぶ碇綱をつかんで岸に泳ぎついたので、諸倭はこれを挽いて 船をつなぐことができた。また壮士ではあるまいか。ズ:風が強いなら、当然海も荒れていただろう? そういう中に飛び込むとは・・・ツ:日本人は勇敢だからな。り:私も、この話を読んで仰天しましたけどね。 ライフジャケットも何もないこの時代、荒れ狂う海に単身飛び込むなんて ちょっと信じられなかったけど、金さんの回でもそんな話があるので、 海の男は強靭な身体と精神を持ってたみたいですね。ツ:へえ、そうなの? 金さん、ちょっとその話を聞かせてくれませんか~?金:壱岐勝本でのことだ。 夕刻になると風雨が一層激しくなり、船をつないだともづなが切れて 沖へ流されそうになったが、肥前の奉行と裁判が身も軽やかに自ら海中へ飛び込み、 他の綱でかろうじて繋ぎ止めどうにか事なきを得た。ケ:ホントにすごいな。 彼らにはそれが当たり前のことなのだろうか。金:海での苦労話なら沢山あるぞ。 まず釜山を出港すると早速海が荒れて船酔い者が続出し、上船の舵棒が折れ、 副船も2度も舵が折れて大変だった。り:まるでその後の行程を予言するかのような悪すぎる船出・・・ ぷぷぷ・・・金:(無視)対馬から壱岐勝本への海路も荒れて船房の揺れがまたひどく、 体は左に右にと転がり回り、帆柱はきしんでばりばりと音を立てるのでびっくり仰天。 すっかり肝を潰す。 船中の人々はことごとく嘔吐に苦しみ、閻魔王国の十王殿とは板子一枚を隔てるのみ。 正使の船は三里も行かないうちに一抱えもある古木の舵棒が風濤に折られてしまい、 船が傾いて波間に浮きつ沈みつ荒れ狂う波濤が四方に立ちはだかり、 舵楼にいる者の衣服はびしょ濡れとなった。 ・・・正使は桃紅の帯をもって国書を背に縛り付け船上に待機され、 国書と運命を共にする御覚悟。大邱(テグ)通引の白太竜が上衣をお脱ぎ下されと 泣きながら頼むが、正使が言われるには「人の生死が着衣一枚に左右されると思うか」と ついに最後まで脱がれなかったとか。その気力は見上げたもの。 丁度その時、副船が傍らを通り過ぎ、正使の船に乗った者が副船に乗る同僚を見つけ、 手を上げて永訣の挨拶をする。その光景むごくも哀れ。哀れを極めたのは崔鳳齢で、 自分の兄の危急を副船から目撃し、気を失って倒れ込み、なかなか覚醒しなかった由。 無惨この上ないこと。上陸した後も死人同様だったという。 レ:上着を脱ぐ脱がないのところがよくわからないのだが・・・り:えっと、註釈によると「上衣を脱いで海に投げ込むことによって波を鎮めようという 一種の水神信仰」ということらしいです。 でもこの場合、上着を神に奉納するというよりは、正使が帯で背に縛り付けた 国書のことを指すと思われますね。 古い時代、船で大陸へ渡った沢山の日本人がいるんですが、 海上で暴風雨にあった時に仏舎利を海に奉納したエピソードなんかがあります。 当然、価値があるものほど霊験があるもので、朝鮮通信使の場合は国書に勝る貴重品はない。 なんたって、国王の親書ですからね。 だから、その貴重なる国書を神に奉納して海を鎮めてくださいと 部下が泣いて正使に頼んだということだと思いますが、 今回の使節団の総責任者でもある正使はついに脱がなかった、と・・・ レ:へええ~。 仲間の船が今にも難破しそうなのに、どうにもできずにただ見ているだけなんて 辛かっただろうな。 まして、自分の兄弟がその船に乗っているともなれば・・・金:壱岐勝本から藍島へ向かう時には、我等の船の舵が根元だけ残して折れた。 曳船がやって来ないので号砲などを放ってみたが、ついに一隻も現れなかった。 副船は岩にぶつかり船底より水が入りはじめ、副使をはじめ乗員はかろうじて 倭船に乗り移った。 この事故は曳船が来なかったためであるとして追及をしたが、倭人はなかなか 認めようとしない。 その後、この件について私を訪ねてきた倭人を懸命になだめすかして聞いてみると、 初めは隠していたが、ついに折れて語ってくれた。 「曳船を出さなかったのは対馬の裁判が前もって知らせなかったためである。 護行の船主は腰斬の刑となり、太守は江戸へ赴き、第三の奉行はこの地に居て 死罪となるか流罪となるか太守の処分を待っているところだ。 結局のところ心労の果て、自決するよりない」とのことであった。ツ:ひえ~、護衛の不手際で死者が出るのかあ~。 ところで、「前もって知らせなかった」って誰に?り:対馬の護衛団は国内では最初から最後まで通信使にぴったり寄り添いますが、 各領内を通る時には、それぞれの藩が領内での先導・護衛を務めます。 ひとつの領内を出る時には、次の藩の護衛にバトンタッチして 通信使一行を案内していくんです。 壱岐は筑前領だから、筑前への連絡がうまくいってなかったってことでしょう。金:・・・対馬人の悪行の数々、日増しにその度合いを高め、昨日も今日も賄賂があり 二人の者が金を持ち去ったが、その額はかり知れず。数万両はあったという。 そのくせ後になってこのことが知れ渡ったら死を免れぬ者多いといって 繰り返し口外しないよう頼み込む。 陰険極まりない対馬の奴らが間にあって勝手に振舞い、すべての事を隠してしまうから、 何一つ明るみに出なかったが、この話によりその片鱗を垣間見た思いだ。ズ:・・・? いきなり賄賂の話になったが・・・り:この件について、実際のところ対馬と筑前のどちらに落ち度があったのかはわかりませんが、 筑前領内でのトラブルは筑前の責任。 朝鮮通信使への抜かりない万全の対応は幕府から各藩へ厳命されていることなので、 註釈では筑前の不手際を知られないように筑前から対馬へ賄賂が贈られたのだろうと しています。 朝鮮人は対馬人をいつも悪く言うので、金さんの言うことだけを聞いてたら いかにも対馬人が腹黒みたいに思えてくるけど、武士は相身互い。 全行程に責任を持つ対馬藩と、領国内での責任を持つ各藩としては、 なるべく事を穏便に運びたいという思いもあって当然だと思いますけどね~。 それが、賄賂とかの形になるのも仕方のないことでしょう。ズ:私は日本に長く滞在したので、日本人の性向もよく心得ているが、 日本人は「内々に」とかが大好きな民族だからな。り:別に賄賂をヨシとする訳じゃないですが、何でもかんでも事を荒立てて 処罰者を出せばいいってもんでもない。 とはいえ、時にはそれに味をしめて賄賂をせがむ悪い対馬人もいたかもしれませんけどね。金:釜山で生まれて初めて見た対馬人はつるつるの頭に素足のまま。 人品まるでなく、いかにも汚らしかった。 壱岐勝本では金銀などあらゆるものを倭の通詞に渡し肥前の者にやってくれと頼み 部屋に戻ったが、朝鮮人がくれたと言い対馬の奴がすべて持ち去ってしまったと聞いた。 対馬人はそういう奴らなのだ。り:まあまあ、壱岐は豊かで自給自足も可能だったようだけど、 対馬は全島の9割が山岳地帯で土地もやせてるそうだし、 対朝鮮で色々と大変な訳だから対馬なりの事情はあったんでしょうよ。金:ふん。 まあ、折れて流された舵棒は筑前州に流れ着いたとのことで、筑前太守の使者が 壊れた部分の長さや形を描いて送り届けてきてくれたがな。 倭人の我々への応接、ここに極まるといえよう。申:荒れていない海でも危険はあるぞ。 対馬までの海には水宗という危険地帯がある。別に岡嶺があるのではなく、 大洋中の波濤が束立するところ、おのずから界隈をなし険しいのをもって かく名付けたのである。幸い、行きは気付かないうちに無事に過ぎたがな。金:対馬の鰐浦は屏風のような険しい岩が蔚山から伸びてきていて、 50里を横に塞ぎ海底に隠れているという。船一隻が通り抜けるだけの場所が一ヶ所 開いているが、わずかでも水路を間違えば瞬時に船は破壊されるという。 そこで倭人らが2隻の船を両側に並べ、船の通り道をつくり、その間を進めという。 我ら6隻は用心に用心を重ね順々に渡っていくが、荒々しい波が雪山のように襲いかかると 船は耐えきれず航路を誤りそうである。危険と恐ろしさは比べるものがない。 ようやくにこの難所を切り抜けた時は安堵の吐息を洩らした。申:たった1日の渡海といっても、決して安全という訳ではない。 鰐浦は巨石が海の中に屹立してサメの牙・虎の歯のようで船が転覆することもある。 実際、第5回(1643年)の時には、渡海した訳官がそこで溺死した。 私が製述官になったのは、正使公があやまって私の名を知り、指名してきたからだ。 私は母が老い、家が貧しく、さらに才鈍くして怯弱なため重責に応えられないと 断ったのだが、とりあってもらえなかった。 製述官の職務は煩雑で責任は大きく、かつ、使臣の幕下にありながら 万里波濤を越えて訳舌の輩とともに出入りし周旋するのは苦海であらざるはなく、 人はみな畏れて鉾矢に当たるのを避けるがごとくこれを避ける。 余の乗っていた駅馬は、釜山で余の乗船するのを待って帰るようにした。 馬卒は「どうか無事で帰られますよう。そのとき、またこの馬で迎えに来ます」と 泣いてたもとを濡らした。人情ここにいたる。 骨肉至親のものには岸上でこれを見せるべきでないと思った。金:釜山から出港する時、桟橋に行くと水夫の父母や妻子もそこここに集まっては 夫や息子を取り囲み、袖にすがり手を握り慟哭して別れを告げる様は むごたらしく哀れで、とても見ていられなかったものだ。 なにせ、こういう危険な旅だからな。ツ:ちょっとちょっと! 対馬や壱岐周辺の海が確かに危険だということはわかったけど、 たった1日の渡海でしょ? 私らなんか、大陸のはじからはじまで来てるんですよ。 お2人には悪いけど、ちょっと朝鮮人ひよわじゃないですか?り:ツンさんのおっしゃる通り。 朝鮮人はプライドだけは富士山よりも高いけど、ちょっと船が揺れたりすると ワーワーきゃーきゃー泣きわめいて、ヘタレもいいとこですよ申:見てきたようなことを言うな では、オランダ人の苦労話とやらを聞かせてもらおうか。 にほんブログ村
2016年07月13日

ここは三途の川の中州に建つ一軒のレストラン。その一室を借りきって、様々な風体の男たちが円卓を囲んでいた。 りり:皆様、ようこそおいで下さいました。 司会を務める戦国ジジイこと白川りりと申します。 本日は日本を訪れた皆様に、色々なことを語っていただきとうございます。 あ、料理や飲み物は好きなものを自由に頼んでくださいね。 江戸期に来日したガイジンの中には朝鮮人もいるんですが、 ここだけの話、ちょっと色々と難がありましてね、 今回はオランダ商館の方だけにお集まりいただきました。 え~と、ではまず、簡単な自己紹介から始めていただきましょうか。 まずは年寄り・・・いや、来日の古い順にケンペルさんから・・・ん?ケンペル:誰か来たぞ。お前の席の隣が一つ空いてるが、その客か?ツュンベリー:ここにいるのはジジイを除いてみなヨーロッパ人だが、 あの細い目は明らかに東アジア人だな。申維翰:おお、間に合ったようだな。おいこら、余への連絡が漏れていたぞ。 倭人は昔からずさんでいかん。り:え~と、すいません、どちら様ですか?申:なに、余を知らんのか?お前が待っていた申維翰とは余のことだ。り:えっ、申維翰さん?なんで!?申:金仁謙からこの座談会の話を聞いて、遅れてはいかんと慌てて飛んできたのだ。り:金さん!? そ、それで金さんも来てるんですか?申:一緒には来たが、倭人と同席はしたくないと言って部屋の外にいる。 ほら、こちらを覗いているあの男がそうだ。ツ:ここまで来たなら部屋に入ればいいのに・・・ お~い金さん、食べ放題飲み放題だそうですから、一緒に食卓につきませんか?金仁謙:誰が犬の陰茎のような倭人と一緒に食事などするか!り:ちっ、秘密にしてたのに、アイツ一体どこからこの座談会の話を聞き込んだんだ・・・申:なにか言ったか?り:いえ、何も。ホホホ。申:え~と、席は・・・なんだ、倭人の隣か。まあ考えようによっては、 進行役の隣は上席ともいえる。どれ、どっこいしょり:あっあっ、ちょっと待って!今すぐお席を用意しますから。 すいませ~ん、椅子ひとつ持ってきてくださ~い!! ケ:いいのか?たった今、難があるとか何とか言っていたが・・・り:何の話ですか?(←しれっ) もうおひと方は遅れてらっしゃるようですが、先に始めましょうか。レフィスゾーン:廊下にいる金さんも呼んであげた方がいいんじゃないのかな?り:いいんですよ、自分が来たくないって言ってるんだから。 あの人は頑固だから、イヤだと言ったら聞きゃ~しません。 なんせ、江戸まで行って江戸城に行かなかったぐらいですからね。 ちょっと金さん、テーブルにつかない人には発言権はないですからね!!金:うるさい!倭人のくせに私に命令するな!!り:アレだから。えっと、それじゃあ・・・ん?ケ:また誰か来たぞ。ドゥーフ:やあ、遅れて申し訳ない。り:あっ、ズーフさん!お待ちしておりましたあ申:声が変わったぞ。余が入ってきた時とはえらい違いだな。ツ:なに?お前、この男が好きなの?り:やだあ、ツンさん!そんなはっきり・・・ツ:ツンさん!?り:だって、皆さんの名前長いんだもん。めんどくさいから、長い名前の方は 縮めさせていただきますね。ズ:愛称だと思えばまあいいじゃないか。にしても、お前発音悪いぞ。 我が名はドゥーフだ。り:発音が悪いのは、日本人である証です。エッヘンツ:いばるな。 まあ、オランダ通詞もはっきりしたオランダ語を話しはしたが、 語順とかはまるでなってなかったしな。り:通詞は実力で選ばれる訳じゃなく、世襲でしたからね。 さあズーフさん、お席へどうぞ。ツ:ご指名だ。ジジイの隣へ座りたまえ。 しかし、りりがこーゆー顔が好きだとはな・・・ズ:い、いやしかし、男性に好かれてもな・・・ケ:いやドゥーフ君・・・これでも一応コイツは女だ。ズ:えっ!?ウソ!! だってジジイって・・・外見だって確かに・・・ツ:いや、いちおう女だ。医師の我々が言うんだから間違いない。ズ:う、ううん・・・ 釈然としないが、では、隣へ座らせて頂こうか。り:どうぞどうぞ。なんだったらお酌もしますよ さてそれじゃ、全員揃ったところで自己紹介から始めて頂きましょうか。ケ:私はエンゲルベルト・ケンペル、ドイツ人だ。 オランダ商館付医師として1690年来日、翌1691年と1692年の2回 江戸参府に随行した。申:余は申維翰(しんいかん/シンユハン)。朝鮮人だ。 1719年の第9回朝鮮通信使の製述官として来日した。ツ:製述官ってなに?り:一般には書記官という風に説明されるけど、文書起草を担当する高官てとこですかね。 はい、じゃあツンさん・・・じゃねえ、金さんがその前だ。 あの人には発言権は与えてませんからわたくしが代わりに紹介しますが、 金仁謙さんは第11回朝鮮通信使の従事官の書記として1764年に江戸入りしてます。ズ:・・・一体、誰のことを話しているんだ?レ:この部屋に入る前、廊下に男がいませんでしたか?ズ:ああ、中国人みたいな男がいたが・・・彼のことか? 廊下で盛んに飲み食いしていたぞ。り:なんだとお~!! まあいいや、このテーブルの上のものはわたくしが代金を持ちますが、 それ以外のものは一切責任持ちません。 金さんには自分で払ってもらおうツ:次は私の番だな。 カール・ペーテル・ツュンベリー、スウェーデン人だ。 ケンペル先輩と同じく、オランダ東インド会社の出島商館付医師として来日し、 1776年に江戸参府に随行した。申:オランダ商館といっても、ドイツ人だのスウェーデン人だのと、 オランダ人が1人もおらぬではないか。り:オランダ東インド会社は多国籍企業なんて風にも言われますけど、 各商館に勤めたのはオランダ人だけって訳でもなくてね。 ま、ここからは正真正銘のオランダ人ですから。ズ:私はオランダ人のヘンドリック・ドゥーフ。 オランダ東インド会社出島商館の第156代商館長を務めた。 初めは下級商務員として1799年に来日したが、 色々な混乱のあとで商館長になったのだ。 ・・・ここでその経緯をすべて話してもいいかな?り:いや、長くなるからあとにして下さい。 じゃあ、最後にレフィさん。レ:ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン。私もオランダ人だ。 出島のオランダ商館の第164代商館長を務め、江戸には1850年に参府した。り:と、いうわけで17世紀ラストから19世紀なかばの開国直前までの江戸期に 日本に滞在した方にお集まりいただいております。 江戸初期からのメンバーを揃えられればベストだったんですが、 ちょっとそこまで手が回りませんでした。ケ:それにしても、お前の前に積み上げられた本の山はなんだ? 食卓にそんなもの積み上げるなんて無作法じゃないか。申:倭人は礼というものを知らんり:うるさいな。気にしないでください。 も~、皆さんが膨大な内容の本なんか書き遺すから、こんなことになるんです。ズ:どれどれ?おお、これは私の書いた回想録じゃないか!ツ:ドゥーフ君、日本語読めるの?私は日本語をマスターするところまではいかなかったからな。 ・・・ちなみに、私の本もある?ズ:ああ、あるとも。ここにいる諸氏の本はすべてこの中にあるようだな。レ:じゃあ、私の書いたものも邦訳されてるってことか。それは嬉しいな。り:この座談会での皆さんのセリフは、主要な部分についてはこれらの本から引用します。 いちいち出典は書きませんが、ラストにまとめて参考文献の一覧を載せますので、 読者の方はそちらをご参考になさってくださいね。 も~、この番外編へ漕ぎつけるまでにわたくしがどんだけ苦労したか・・・ こんなもの書こうなんて思わなければ、もっと早く本編も終わらせることができたのに・・・ケ:・・・誰に向かって、何の話をしてるんだ?り:いえ、こちらの話です。 さあて、それじゃまず参府関係の話から始めましょうか。 朝鮮通信使とカピタンの参府では少しルートが違うので、 まずオランダ商館の方から簡単に旅程を説明していただけますか?ケ:この国の大名や重臣の参府の日が将軍によって決められているように、 我々の出発の日も日本の1月15日または16日(陰暦)と決められている。 したがって、出発の日が近づくと色々な準備に入るのだが、 まず西暦の2月20日に長崎出島を出発し、時津から大村湾を渡り彼杵(そのぎ)へ行く。 彼杵から飯塚~直方と進み、小倉へ出て、下関へ赤間ヶ関を渡る。 そこで先行させていた船に乗り込んで、港々を転々としながら兵庫まで船で行く。り:先行させていた船? どうせなら、皆さんも長崎から兵庫まで一気に船で行っちゃえばいいのに・・・ケ:昔は我々もそうしていた。だが、ある時ひどい暴風雨にあって危なかったことがあってな、 死ぬのはごめんだから、将軍の赦しを得て荷物だけ小倉へ先回りさせておいて、 我々は陸路で小倉まで行くことになったんだ。り:荷物って?ケ:献上品や大きな荷物だ。陸路だと費用もかかるし、色々と煩雑だからな。 この船は参府旅行専用に建造された船で、2年ごとに幕や調度品を綺麗に手入れしておき、 船が古くなったら取り換える。これだけでも結構費用がかかるものさ。り:ふ~ん。しかし兵庫なんて、ずいぶん中途半端な所で下船するんですね。ケ:大坂の港は浅くて我々の乗ってきた船では行かれないので、 兵庫からは小舟に乗り換えて大坂へ向かうのだ。 大坂からは京に出て、あとは東海道をひたすら行くだけさ。 長崎から小倉までは陸路で通常5日。小倉から船で大坂もしくは兵庫まで行き、 大坂から江戸まで2週間かそれ以上。海路だと、いい風を得られなければ かなり時間がかかることがある。 船旅の時は用心して夜は停泊するので、あまり距離は稼げない。 江戸で20日滞在し、同じように長崎へ戻り、3ヶ月以内ですべての旅を終える。 と、これは初回の参府で、行きに29日かかり、帰りは3月2日に江戸を出発したのに、 出島に戻ったのは5月21日だった。 2度目の参府は、出島を出て諫早・竹崎から有明海(湾)を渡って柳川付近へ。 あとは前年と同じだが、帰りは兵庫から船に乗った。ツ:私も先輩とおおむね同じルートだよ。少しだけ違う箇所もあるけどね。 私の時は小倉まではずっと陸路で、九州で船を使うことはなかった。 大坂への大型船の乗り入れは禁止されていたから、兵庫で降りたのは先輩と同じだけど、 兵庫からは西宮・尼崎経由で神埼まで陸路で行って、そこから大坂まではまた船。 あとは京から東海道だね。 ただ、先輩の時は商館長だけが駕籠に乗って、先輩と書記官は馬だったけど、 私の時はみんな駕籠だった。レ:私は商館長だからもちろん乗物だったけど、ずっと乗ってるのは好きじゃなかったので 結構自分で歩いたよ。 私の時には、下関から室まで行く船は下関で借りた。 行きには50日かかったし、帰りは5月4日に江戸を出て6月12日に出島に着いた。ツ:私の時も行きには海上で26日もかかっちゃってさあ~。 行きは3月4日出発で江戸に着いたのは4月27日。 帰りは5月25日に江戸を出て、長崎には6月30日に戻った。り:大変な長旅だなあ~。片道でゆうに1ヶ月はかかるってカンジですかね。 瀬戸内海なんてその名の通り内海なんだから、スコーンと兵庫まで 行っちゃいそうなもんだけど、ここにいる誰1人として海で難儀しなかった人は いないという・・・ツ:私の時には、下関から兵庫までの船は会社が毎年480レイクスダールを支払って 借りてたんだけどさ、順風なら8日で兵庫に着くそうだよ。 だけど、私の時は下関から家室(かむろ)へ行き、その先の中島で逆風となって 嵐になったので、上関まで戻って3週間停泊せざるを得なかった。 ほとんどは船上で過ごしたけど、時には上陸して寺院観光などもした。 それに、もし順調に旅が進んでいたら長崎に戻るまでに花々は まだ咲いてなかっただろうから、いい面もあった。 ケンペル先輩は、献上品も船に積み込んで先回りさせたと言ってたけど、 こんな風に波浪に左右される海路に大事な献上品を託すことはできないので、 私の時は320里の全行程において献上品を携行せざるを得なかった。ズ:私の時も、会社の印をつけたオランダの旗を掲げた船には重い荷物を積んだ。 私は3回参府したんだが、私の最初の参府(1806年)の時から出発の日程が 早められ、それまでは(陰暦)正月15日に出発していたのが、正月7日になったのだ。レ:私の時の帰りは風が強くて、なかなか兵庫から出港できなかった。 あまりに船を出さないもんだから、出帆に適当な風を利用しないならば再び岸へ戻るという おどしさえして熱心に説いたので、やっと抜錨したんだ。り:ふむ。じゃあ、ケンペルさんの時だけ、小倉へ着くまでに大村湾や有明海を渡ったけど、 あとは小倉から兵庫まで船で行って、東海道の起点から終点までを陸路で行った訳ですね?レ:私の時は、室から上陸して陸路を進んだんだ。ツ:え?なんで?レ:・・・大いに船酔いしていたからだ。ここで古い習慣に従って申し出なければ、 兵庫まで船で行かなければならなくなる。兵庫までもとても難儀で不快であると 言われているのに、とてもじゃないけどもうそれ以上は耐えられなかったんだ。ケ:船酔いか、それは仕方ないな。 で、帰りは?レ:帰りは通常通り兵庫から出港したよ。帰りは上検使が船酔いしていた。り:船酔いねえ~・・・ 朝鮮通信使は、オランダ商館員より長く船に乗っていたので、 相当船酔いにも苦しんだみたいですよ。 じゃあ、次は朝鮮通信使の方に語っていただきましょうか。ツ:ちょっと待ってよ。 ドゥーフ君、やけに口数少なくない?ズ:それは・・・り:ツンさん、痛いところを・・・ ズーフさんはね、バタビアから本国に向かう途中で海難事故に遭って、 多くのものを失ってるんです。 この座談会は皆さんの著述で成り立ってるので、他の方のように細々と書いたものが 残っていないズーフさんにはあんまり喋らせられないんですよ。 商館日記の方には書いてあるのかもしれないけど、わたくしは持ってないのでね。ケ:お前は時々、訳のわからないことを言う。り:わたくしにも色々と事情があるんです。 ま、細かいことは気にしないでください さて、それじゃ次回は朝鮮通信使の旅程から始めますね。にほんブログ村
2016年07月08日

大手門を出て、橋の上から丸の内を眺めたところ↓。 右奥の建物がパレスホテルかな。その手前にちっこく車の列が写ってますが、これが内堀通りで、このまま大手町の駅から電車に乗っていっちゃってもいいんだけど、ついでなのでもう一ヶ所だけ寄ります。てことでしばし内堀通りを南下しますが、結局東御苑に入る前に外苑の手前まで歩いていった(「8」参照)のと同じ道を再び通っていったワケで・・・いや、この時はどこをどう見ていこうとか計画立ててた訳じゃなかったんでさ。で、気になるのは社会問題にもなっている皇居ランナーの存在ですが、もうそろそろ夕方にさしかかろうという時間帯だったので、来た時ほどはいないかなと思ったら、 まだいやがったしかも、見ているこちらが恥ずかしくなるようないでたちで堂々と走っているツワモノもおる。きっと自分じゃイケてるなんて思いながらコーディネートしてるんだろうなと内心笑いながら歩いていくと、和田倉が近くなる↓。 左の白い建物がパレスホテルの終わりの部分で、かつては御畳蔵があった場所。そこから奥は、道路部分も含めて幕末には会津松平容保の屋敷がでーんと広がっていた。容保さんちを突っ切っていくと、皇居外苑に出る↓。 だだっ広い外苑の中にもかつて屋敷が色々と建っていたが、今はない。古くは阿部豊後守屋敷(忠秋さんちの系統)などがこの場所に建っていた。外苑の奥の方には売店やら楠木正成の銅像やらがあるらしいので、売店で皇居みやげでも買おうかと当初は思ってたんだけど、今回はもうやめた。次回のお楽しみとしよう・・・さて、外苑の入口で向きを東に変えると、内堀通りの向こうに和田倉噴水公園がある↓。 名前の通り大きな噴水があるが、ここも容保さんち。公園脇の「行幸通り」をまっつぐ行くと東京駅なので、早く東京駅で買い物をしたいわたくしは公園内には入らず、行幸通りを進んでいった。と、 おおっ、石垣だあ~(←知らなかった)行幸通りの向かい側を見てみると、 おお、向こうにも!後から図を見てみると、道路向こうの石垣は櫓台のような形をしているので、櫓が置かれていた時期もあったのかもしれない。ちょうどこの辺りに、史跡解説の看板があった。 【特別史跡 江戸城跡 江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に 北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって 西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。 明治維新後江戸城は皇居となり、昭和二四年に「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、 昭和四四年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。この江戸城跡は、三百年 近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その 規模はわが国随一のものであることから、昭和三八年五月三十日に文化財保護法による 「特別史跡」に指定された。】 (現地解説板より)この解説板の後ろにある石垣も立派なもので、 これをアテにしていなかっただけに、石垣ファンとしては嬉しかった。石垣が切れるところから見えるのは これが和田倉堀。広い堀の向こうには、橋がかかっているのが見える↓。 堀に近代ビル群が映り込んでいるのは城跡としてはイマイチかもしれませんが、これはこれでなかなか風情があってしばし見とれる空間でもありました。 この時は行幸通りから噴水公園と和田倉堀を見ただけでしたが、あの橋を渡って公園内に入ったところにはかつて和田倉門があったらしい。明治天皇が入城した際には、和田倉門から入ったらしく、門はもうないけど石垣は残っているようなので、ここも今後の宿題だな。 満足してそのまま歩いていくと、東京駅に出る。 何年か前に旧観に戻す工事が終わって話題になった駅舎ですが、旧駅舎ってどんな姿だったっけ・・・丸の内側から駅を眺めたことなんてなかったから、どこがどう変わったのかぶっちゃけわからないで、たしか大丸のデパチカあたりに行こうと思ったんだよな。あれは八重洲側にあったような気がするから、構内を抜けていこうと思ってとりあえず向かって右手ドームにある丸の内南口から入ってみたら、なんと行き止まり うっそお~、東京駅ってどこからでも抜けられるもんじゃないの!?こちとら疲れてるところをえっちらおっちら歩いていったのに、行き止まりかよイライラしながら、北口の方へ向かう。フツー、駅舎ってど真ん中が出入口になってるもんだけど、東京駅の場合は東京ステーションホテルが陣取ってるから、そういう常識は通用しない。帰ってしばらくしてからたまたま東京ステーションホテルの紹介をしている番組を見たんだけど、ここって実は高級ホテルらしい。内装も素敵だし、南北のドームに沿った部屋からはドーム内の駅舎が部屋の窓から見下ろせるという面白い造りになっていて、人気も高いらしいとその時初めて知った。ただし、お値段も相当よろしい。ま、この時は南口から北口までホテルの前を歩いて通過する際に、チッ、こんなとこにホテルなんか作りやがって・・・通行の邪魔だ!!と思いながらヘロヘロ歩いていただけですが。あっ、そうそう、丸の内北口へ向かう途中、救急車やパトカーが何台もサイレン鳴らしながら駅前にやってきたんだな。結構な台数が出ていたので、一体何事が起こったのか、電車が止まって帰れなくなったらどおしようとビクビクしながら様子をうかがったけど、幸い電車が軒並み止まるような大した問題ではなかったらしい。皇居もすぐそばだし、休日とはいえ巨大オフィス街だから何か起こると即座に大勢で駆け付けるのかもしれない、と思った。して、北口から抜けてこんなものをやたらゲットして (銀座あけぼのの期間限定「白玉栗大福」)家路につきました。さて、これにて本編は終了です。書き始めが去年の10月24日だから、たかが日帰りの、しかも1日めいっぱい使った訳でもない短時間の行程に8ヶ月かけたんだから我ながらオドロキですが、以前のわたくしならとにかくどんどん記事を上げることを優先していたのが、本シリーズではあらたに手をつけたことが多く、それなりにしっかりと自分の中で消化してから書く必要があった内容なので、勉強の方を優先させて急がなかった結果こうなりました。でも、前々回の叡山シリーズなんかもそうでしたが、歴史というのは色々な側面があって、勉強すればするほど面白いしタメにもなるもので、本シリーズも叡山シリーズに負けず劣らず新しい世界が広がって、本シリーズで得たものは非常に大きかったので、記事を上げるペースは格段に落ちたものの、わたくしとしては満足しています。で、早速次の記事からわたくしの前に広がった新たな世界を展開していきますので、そちらも気長にお付き合いいただけると嬉しゅうございます。■旅日記から通しでの参考文献・徳川実紀(吉川弘文館 国史大系)・駿河土産(国立公文書館デジタルアーカイブ)・落穂集(国立公文書館デジタルアーカイブ)・今昔物語集(橘健二訳/小学館日本古典文学全集)・名ごりの夢-蘭医桂川家に生れて-(今泉みね/平凡社東洋文庫9)・江戸参府旅行日記(ケンぺル著、斎藤信訳/平凡社東洋文庫303))・江戸参府随行記(ツュンベリー著、高橋文訳/平凡社東洋文庫583)・日本回想録(ドゥーフ著、永積洋子訳/雄松堂出版 新異国叢書第三輯10)・江戸参府紀行(シーボルト著、斎藤信訳/平凡社東洋文庫87)・江戸参府日記(レフィスゾーン著、片桐一男訳/雄松堂出版 新異国叢書第三輯6)・海游録 朝鮮通信使の日本紀行(申維翰著、姜在彦訳/平凡社東洋文庫252) ・日東壮遊歌 ハングルでつづる朝鮮通信使の記録 (金仁謙著、高島淑郎訳/平凡社東洋文庫662)・南北朝内乱と東国(櫻井彦/吉川弘文館動乱の東国史4)・歴史散歩 江戸と東京(堤紫海/文化総合出版)・関東の名族興亡史(新人物往来社)・武蔵武士団((関幸彦編/吉川弘文館) ・源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究(川合康/講談社選書メチエ) ・賤民の場所 江戸の城と川(塩見鮮一郎/河出文庫)・真説【戦国北条五代】早雲と一族、百年の興亡(学研歴史群像シリーズ)・江戸東京年表(大濱徹也・吉原健一郎編/小学館)・徳川盛世録(市岡正一/平凡社東洋文庫496) ・江戸城のトイレ、将軍のおまる〈小川恭一翁柳営談〉(小川恭一/講談社)・逆説の日本史1 古代黎明編(井沢元彦/小学館)・鹿鳴館秘蔵写真帖(社団法人 霞会館) ・よみがえる江戸城(平井聖監修/NHK出版)・古地図で歩く 江戸城・大名屋敷(平凡社 別冊太陽)・江戸城 よみがえる日本の城2(学研歴史群像シリーズ)・図説 城造りのすべて(三浦正幸監修/学研歴史群像シリーズ) ・江戸城・大奥の秘密(安藤優一郎/文春新書)・お江と徳川秀忠101の謎(川口素生/PHP文庫) ・大奥のおきて(由良弥生/阪急 コミュニケーションズ)・図説 大奥の世界(山本博文編著/河出書房新社)・考証 大奥 Kindle版(稲垣史生/グーテンベルグ21) ・江戸美人の化粧術(陶智子/講談社選書メチエ)・日本の化粧(ポーラ文化研究所)・決定版 図説戦国女性と暮らし(学研歴史群像シリーズ)・公家の服飾 日本の美術339(河上繁喜/至文堂)・結髪と髪飾 日本の美術23(橋本 澄子/至文堂) ・都風俗化粧伝(佐山半七丸/平凡社東洋文庫414)・東京時代MAP 大江戸編(新創社)・日本の街道 歴史を巡る!(西東社)・皇居と江戸城重ね絵図(木下栄三/エクー)・復刻古地図 江戸城と近傍図(日本地図選集刊行委員会編/人文社)・江戸東京地形の謎(芳賀ひらく/二見書房)・特別展「東山御物の美-足利将軍家の至宝-」図録(三井記念美術館)・江戸東京博物館開館20周年記念特別展「大江戸と洛中」図録(江戸東京博物館)・江戸幕府大事典(大石学編/吉川弘文館)※あとは思い出したら適宜追加します。にほんブログ村
2016年07月02日
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