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【化粧は、人類発生とともに始まったといわれるほど、長い歴史がある。】 (『日本の化粧』ポーラ文化研究所より)考えてみれば、古代エジプトなんかでも化粧した絵が描かれてるもんな。化粧は単なる美の追求だけではなく、文化によって祭祀やさまざまな目的で発展していった。同書によると、日本の化粧の始まりはやはり大陸の影響を受けているそうで、遣唐使の廃止によって独自の国風文化が発展していったように、化粧もまた外国文化流入の一時ストップによって日本独自の方法が発展していったらしい。それだけではなく、どうも化粧の歴史は大きな歴史の流れと連動しているようで、江戸期に入って世間が安定し町人の経済力が高まると、化粧も広く下々にまで浸透するようになったし、また社会の身分制度が厳格に分けられるようになると化粧も身分・年齢や既婚・未婚の別などが現れるようになったという。陶智子氏によると、浮世絵の中でも化粧や身支度の最中の女性を描いた絵というのは相当に多いらしく、江戸期には『都風俗化粧(けわい)伝』のような化粧マニュアル本も出版されているくらいなので、江戸女性の化粧の情報に関するニーズは結構あったらしい。『都風俗化粧伝』では巻之上のはじめに、 我が日本女性は他国にすぐれて貞操正しく美しいが、中でも都会、都会の中でも 都の地には美人が多く化粧もうまいので、都女郎、都風俗などといってもてはやされる。 いったい、同じ天地に生をうけて多少土地柄に違いはあっても、都会だけに美人が生まれて 田舎にはブスが生まれるのだろうか?いんや~、そうじゃねえんだ。 都会の婦人はその顔に合った化粧をし、スタイルに合った衣服をうまく着こなすから ブスも美人に見えるだけなのさ。一方、田舎の婦人はせっかく美人に生まれついても 化粧がヘタで顔に全然合ってないし、どんなに金をかけて贅沢な衣裳で飾り立てても 模様や色のセンスは悪いし、着方もイカンし、立ち居振る舞いもなってないので どんな美人もブスに見えてしまうんだ。田舎の婦人が1~2年でも都会に住んでごらんよ、 田舎に帰れば垢ぬけた都会人だとみんながほめそやして縁談が降るように舞い込むわ、 玉の輿に乗る人はいるわで世間が手の平を返したようになるもんさ。 都へ出たからって低い鼻が高くなる訳じゃねえし、チビがノッポになる訳でもねえ。 ただ化粧法と所作を変えるだけで低い鼻が高く見え、低い背が伸びたように見える だけなのさ。 (江戸っ子バージョンで相当意訳)とぶち上げている。こういう、「美しい人はより美しく、そうでない人もそれなりに」というコンセプトで素材の良しあしに関わらずよりよく見せる方法を色々と紹介しているんだけど、前回紹介したような修正の方法だけではなく、基本的な美容のノウハウも満載。そのうえ、しもやけを治す方法とかワキガを治す方法、果ては白髪を黒くする方法や髪が増える方法まで載っていて、美容マニュアルと「家庭の医学」をセットにしたような内容になっている。そうか、江戸時代にもワキガに悩む人がいたんだな、と同じ悩みを持つわたくしはほほえましく読んでおりましたが、毛はえ薬の方はすごい。 口伝にいう。薬を付けるはへらにて付くべし。指にて付くべからず。もしあやまって 指にて付くるときは、その指に毛を生ず。この油、外(ほか)の身に落つれば、 落ちたる所に髪を生ず。大切にすべし。薬が付いた所からどこでも毛が生えてくるというんだから、実に驚異的ですま、ホントにそんな驚異的な効能があるんだったら現代にハゲは存在しないし、各種養毛剤も開発されてないし、カツラ業界は商売にならんからちょっとこれは消費者庁の行政指導が入る可能性大の誇大広告かな。毛はえ薬はいくつか紹介されてるから、薄毛でお悩みの方は『都風俗化粧伝』をご覧ください。ところで、佐山半七丸は巻之中の冒頭で、化粧をすることの意義についてこう語っている。 化粧(けわい)容儀(かたちつくり)することは愛敬を身に付け、徳を修めることの 根源となるもので、不浄を清潔となし、礼を正しくするものなんだ。身が清ければ 心もおのずから正しくなる。聖人も婦人の四徳を挙げてるが、中でも「徳」と「容」を 並べて挙げている。「徳」とは身を修め、家をととのえることをいう。「容」とは 容儀(かたちつくり)することをいい、容儀とは化粧し容儀(すがた)を正しくすることを いう。心と容儀とは元来一体のもので、化粧して容儀(かたちつくり)する時には 心はおのずから清く、父母をはじめ夫や舅・姑にはよく仕え、年寄りを敬い子供や使用人には 優しく、他人を敬う心はみな愛敬から出るものなのさ。 だから朝早く起きて日々鏡に向かっては化粧し身だしなみを整え、心の鏡に向かっては 悪い心やわがままを抑えて素直なよい心を映し出していることこそがまことの女の道を 守り、化粧の真髄をゲットしたことになるんだ。 いくら日々鏡に向かって化粧して外見だけは綺麗に整えたとしても、心の化粧が正しく なければガンコですぐにキレたり、悪態をついたり、他人を妬み他人の不幸を喜び 善いことをそしったりとロクでもねえ心ばかりが湧き起こって、外見の美しさも なんにもならねえ。このことをよく覚えておいて、周りにも教えてやるんだな。 化粧ってもんは、艶っぽくてもやさしく、風流にやわらかく作っておけば さぞや心も奥ゆかしく優れているのだろうと他人から思われて、玉の輿に乗ることも できるってもんさ。ふむ、ツッコミを入れたくなる箇所がないでもないけど、顔のいい悪いじゃなく、性格がこの顔を作り上げたなって顔の人、いるよね。いくら美人でも、いかにも性格悪そうな表情してると確かに台無しだしな。わたくしの場合、平日もラフなカッコで出勤してますが、休日ともなるとさらにきったないカッコして顔すら洗わなかったりするけど化粧して髪や洋服なんかも(それなりに)きちんとしてる日はやっぱり気持ちがしゃんとするような気もするし。のちの大奥のベースを作り上げたお福(春日局)は、「化粧も髪結いも全部夜明け前に整え終えるようにしなさい。女の寝顔は醜いものだから、朝寝して寝顔を他人に見られるなんてのは女として最大の恥よ!!これは奉公する者だけじゃなく、人妻の場合も同じだからそう心得ておきなさい」と諭したそうな。その教えと関連するのかはわからないけど、今泉みねがこんなことを語っている。 【なんでも御殿(江戸城大奥)では、火事というしらせがありますと、みんなそれぞれの つぼねにはいって中から鍵をかけ、身支度をととのえてからでございませんと、たとえ 火が来ましても一歩もそこをのかないというのが御殿女中の身だしなみであったと きいております。】 (『名ごりの夢』より。カッコ内はジジイが追加)大奥は幾度か火事で炎上して、御殿女中からも火災の犠牲者が出ている。まあ、みんながみんなホントに化粧のためにこもってるうちに火が回って逃げ遅れたという訳でもないだろうけど、みねの話は御殿女中のプライドの高さ(もしくは執念)をほうふつとさせるエピソードではある。ともあれ、佐山半七丸も各項目で「身支度は朝早くに済ましておけ。みっともない寝起きの姿を見せるな」とも言っているので、奥御殿でもパンピーの長屋でも、夜明け前には多くの女性が鏡に向かって「かたちつくり」をしていたのだろう。では、『都風俗化粧伝』を中心に大ざっぱに化粧の段取りを紹介しましょう。まずは身体のお手入れ。 身だしなみのよしあしでその人の心ばえまでもわかるもんなんだから、よく気を配って 手入れをすること。身だしなみが悪いと途端にレベルダウンして人から笑われちまうぜ。 自分じゃよくできたと思っても、他人からはなってない部分がよくよく見えちまうもんだ。 10のうち8・9まではよく作っても、たった1・2落としただけで、できてる部分まで 悪いように言われちまうのさ。綺麗に紅白粉(おしろい)をしても、鼻毛が伸びてたり 耳の毛がモサモサしてたり、耳垢が溜まってたり、歯クソが付いてたり、舌にコケが 溜まって口が臭かったり、伸びた爪に垢が溜まって黒ずんでたりといったことが 1つでもあれば、すぐに笑われちまう。他人のチェックってのは厳しいもんなんだぜ。 ま、手入れするべきところは沢山あって一度に全部やろうとするのは大変だから、 日頃から気を付けて手入れをしておくんだな。てことで、鏡に向かったら鼻毛を抜いてかんざしを持ったついでに耳掃除をし、朝はよく歯を磨けという。当時の歯ブラシは房楊枝(ふさようじ)といって、木の小枝の先っぽを煮て鉄槌で叩いて砕き、それを櫛で梳いて木の繊維を柔らかくしたものを使っていた。男性用の房楊枝には灌木、女性用には柳がおもな素材だったという。歯ブラシというよりは絵筆のような形状をしたもので、反対側の先っぽは鋭く削られて舌のコケを取り除く「舌こき」として使えるようになっていた。ただ、これだけじゃ歯カスが充分に落とせなかったのか、爪楊枝も使って歯を綺麗にしろと言っているものの、あまり深く爪楊枝を使ったり使いすぎたりすると歯を傷めるから気をつけろと半七丸はいう。陶氏は 【楊枝は奈良時代に仏教とともに伝来したといわれる。口を清潔にすることは仏教の戒律に みられる。神社に参拝するときにも禊ぎとして口を漱いだ。だから、神社仏閣の境内で 房楊枝や歯磨き粉が売られることが多かった、というのである。やがて房楊枝の使用は 僧侶から貴族へと伝わり、平安時代には庶民にも伝播したと考えられている。】 (『江戸美人の化粧術』より)という。へえ、こんなとこにも仏教の影響があったのか。「みそぎ」自体は仏教伝来以前からあったかもしれないけど、口腔衛生分野とセットになって仏教の発展とともに整理・体系化されていったかもしれないよな。たぶん、私達が意識しない日常生活の中にももっと沢山仏教の影響はあるだろうから、仏教が日本にもたらした総合文化の幅の広さには驚かされます。ちなみに、江戸期は入れ歯も普及していたようで、はじめ入れ歯は仏師が片手間に作っていたものが、のちに専門の職人が生まれたというからこちらも歯と仏教のつながりを物語るもののようです。浮世絵に描かれている歯磨きや舌こきのシーンは、どれも水場で行うのではなく、御台ちゃまがなさっていたように室内で、水を入れた茶碗から口をすすぎ、大きなたらいに吐き出すやり方をしている。だから、奥女中も長局で部屋子に手伝わせながら毎朝口のお手入れをしたのだろう。にほんブログ村
2016年03月29日

しばらく奥医師の話が続きましたが、大奥とも関連のある役職だったためで、まだ大奥の話は終わってはおりませぬ。今回はタイトル通りの内容で、大奥といえば数多くの女性たちが密集して住んでいた場所。ここまで見てきたように、大奥ではその身分と役職に従って厳格なきまりとそれぞれの職務があり、女性の最高機関としての対外的な役目も果たすお役所だった。ので、世間からよく好奇の目で見られるような愛と淫欲の世界が大奥のすべてじゃない。とはいえ、身分が低くても運と才知の上に見た目が良ければ側室として・・・あわよくば将軍生母という破格の大出世を果たすこともできる。ま、初めからそんな一発逆転を狙う女性は少なかったんじゃないかと思うけど、地道に女性官僚コースを歩むにしても周りは女性ばかりだから体面(or ライバル意識)もあるし、上を目指せば目指すほど個人の自由はなくなる。出世すればしたで一生奉公の生涯独身路線も堅くなっていくし、世間でよく大奥の女性は「結婚を諦めたがゆえに性的ストレスが溜まっていた」なんて言われるけど、大なり小なりそういう面もあったかもしれない。「(23)」の最後で水戸斉昭の復権工作を紹介しましたが、あの中に出てきた上臈御年寄の姉小路は水野忠邦による「天保の改革」の時代の人で、一般的に上臈御年寄は大奥そのものの経営にはタッチせず、実権を持たなかったと言われるのに姉小路は強大な権力を発動したとされる。たぶん、水戸斉昭が謹慎となる以前の話だと思うけど、斉昭が姉小路を水戸家に招待しようとしたことがあったそうな。水戸家といえば言わずと知れた御三家の一家で、家格こそ尾張・紀伊に続いて3番目だったものの、尾張・紀伊には参勤交代が課せられていたのに対し、水戸家は「定府」(じょうふ)・・・つまり参勤交代はせずに、江戸にあって必要な時だけ幕府の許可を得て帰藩するという定めがあったために俗に「天下の副将軍」といわれるようになったという家柄。(ただし、水戸家が定府となったいきさつについては正確なところはわかっていない)ところが、姉小路は斉昭の誘いを断った。「多忙につき」というのがその理由だったというが、ホントに多忙だったとしても御三家の招きをあっさり断るなんてちょっと考えられない。そういう彼女だから、水野忠邦が大奥に経費削減を求めた時にも当然反論した。「大奥は男のいない女だけの世界。異常でしょ?これって異常でしょ?そういう異常な世界で、女たちは男との付き合いを諦めてじっと奉公しているのです。こうなったら美食や娯楽、オサレでゼイタクして鬱憤を晴らすしかないじゃあ~りませんか~。それのどこが悪いのです?ねえ、どこが悪いとおっしゃるのですか!?」忠邦はぐうの音も出なかった、とされる。『図説 大奥の世界』(山本博文編著/河出書房新社)は『千代田之大奥』(揚州周延筆)をはじめとするビジュアル史料満載の大奥入門書で、揚州周延の描く美しい大奥女性の絵や現存する衣裳・化粧道具の写真も載っている。毎日女装して出勤するわたくしとしては、世の女性同様御台ちゃまや奥女中たちがどんな装いをしていたのかが気になるところなので、化粧関係の本をいくつか読んでみました。え~とまず、素材の方から。江戸期の美人画を見ると、誰もかれもが目は細くキューッとつり上がって鼻もアゴもキューッと細く、口はちょぼん。ぶっちゃけわたくしの好みではないので、『江戸美人の化粧術』(陶智子/講談社選書メチエ)に沢山載っている江戸美人を見たあとで『源氏物語絵巻』の下ぶくれ平安美人を見た時、思わず「なんてふっくらとしてかわいらしいんだ!!」と感嘆の声を挙げましたが、平安期の主食は釜でやわらかく炊き上げた姫飯(ひめいい)ではなく、「こしき」で蒸した硬い強飯(こわいい)。おかずも野菜や肉・魚などを細かく刻んで生食していたので相当の咀嚼力を必要とし、ために平安期は美男も美女も強靭なアゴゆえに下ぶくれだったという説がある。動物というのは環境に応じて変化(適応)していくものなので、硬いものを食べなくなった最近の若者は本来生えるべき歯のスペースが充分に確保できないほどアゴが細くなっているとも言われるけど、それにしたって平安美人と江戸美人では目の細さを除いてはこれが同じ人種か!?ってほどの違いがある。トーハクの東洋館で各国の仏像の顔を見比べてみた時に、仏像もそれぞれの製造国の民族の顔をしているものなんだと初めて知りましたが、たとえ優雅な生活の中でナマ野菜やナマ肉の硬いおかずをゴリゴリ食べていたにせよ、日本のほとんどの仏像がふっくらと丸顔なように、下ぶくれが日本人本来のスタンダードなんだと思う(単一民族かどうかという話はここでは除く)。かくいうわたくしも、平安時代に生まれていたらきっと美人と言われたであろう丸顔をしている。江戸では美人が評判になるとブロマイドよろしく浮世絵が出され、美人番付なども出てそれをもとに評判の美人を見に行くという現象も起こった。しかし、陶智子氏によると、それらの美人画は必ずしも本人の姿を忠実に反映したものではないらしい。どころか、同じ絵師が描く同時期の複数の美人の顔はどれも同じだというのだ。そこで陶氏が辿りついた結論は 【浮世絵の中の美人は、「誰を描いたか」ということが重要なのではなく、「誰が描いたか」 が問題なのである。たとえば、(笠森)お仙への興味、お仙の実際の容姿への関心よりも、 「お仙を(鈴木)春信が描いた」ということの方が大切だったのだ。妍を競い合うはずの 美人の顔が瓜二つ、ということの答えは、こんなふうに考えざるを得ない。】 (『江戸美人の化粧術』より。カッコ内はジジイが追加)ということで、美人画をそのまんま信用してはいけないらしいということが陶氏の考察からわかる訳だけど、でもあれだけ目も鼻もアゴも手足も細い女性が美人として描かれているからには、それが当時の美人の条件と思われていたとはいえるだろう。浮世絵には色んなものが描かれる。人間を描いたものでも、美しい(とされる)男女だけではなく、時にはぎょっとするような顔の作りや表情をする人間が描かれることもある。平安美人も優しいお顔の仏像も江戸美人も、共通するのは目の細さ。現代ならくっきり二重のぱっちりお目々にみんな憧れるところだけど、いわゆる美人画というものに二重まぶたのぱっちり美人は登場しない。いや、陶氏によると描かれていない訳じゃない。前掲書には氏の所有する数多くの浮世絵が掲載されていて、二重まぶたのぱっちり女性も載っているんだけど、その絵のタイトルは「七けんのんむすぶ縁日」だそうで、「けんのん」は「剣呑」とも「険難」とも書く。現代では一般的に使われなくなった言葉だけど、絵に描かれた7人の女性を見るに、現代風にタイトルを付けるならば「こういう女には近づくな」とか「アブない女たち」とかいう感じだろうか。とにかく「よろしくない女」が7人描かれているものだとご想像ください。で、具体的にどうよろしくないのかといえば、気が強すぎる女だとか酒グセの悪い女だとか、現代人が読んで納得できるものもあるがそうでないものもある。ぱっちりお目々の女は御殿女中風ないでたちをしていて、 ごほうこうはありがたい事にてぎやうぎをしつけ女の第一の事也。しかしいかほど かたくしてもゆだんしては心がゆるみつい心得ちがひが尽たがる也。これとても はたからみればどうもけんのんゝという詞書がついているのでいちおう内面を問題にしているようではあるけれど、女の風貌は決して美人じゃないがふっくらした人の良さそうな顔をしている。江戸期の『都風俗化粧伝』(佐山半七丸/平凡社)という化粧マニュアル本にこういう項目がある。 ○大きな目を細く見せる法 目は顔の中央にあって顔の格好を引き立てる最も重要なパーツだから、凛として 強いのがいい。といっても、あんまりデカいのも見苦しい。見苦しいから細く 見せようとして目をすぼめたりすればいわゆる「やぶにらみ」になって、 かえって目のクセを怪しくしてしまう人もいる。 目というのは瞳を定めてものを見るのが本来の用い方だから、簡単に直せるものでも ないけど、次に述べる方法を常に心がければ自然と目をむいて瞠(みは)るようなことは 治っていくだろう。 さて、外出したり晴れの席に出る時などは「目八分」にして、自分の前八分を見下ろす ようにすること。目八分とは、立った時には自分の足元より1.8mほど先を見、 座った時には自分の膝より0.9mほど先を見るようにすることをいう。 こうすれば自然とまぶたは下がって目が細く見える。いつでもこれを心がければ、 苦もなくできるようになるからね。まあ、この方法は大きな目を小さくする訳じゃ ないんだけど、自然と身につくたしなみでもある。最も慎まなければならないのは、 目を大きく瞠ることだからくれぐれも気をつけるように。 また、化粧の仕方で何とかできる場合もある。まぶたには白粉(おしろい)を濃く塗って、 目の中にも入るぐらいに塗り込むと少し細く見えることもある。 ただし、場合によってはかえって目が目立つこともあるので、その場合は いつも通りに化粧したあとで濡れた手ぬぐいでまぶたとまなじりを軽くぬぐい、 生臙脂(しょうえんじ:紅のこと)をぬぐった箇所にごく薄くさすと、目の大きさが 目立たなくなることもある。 どちらでも、自分に合った化粧法を選んで細く見える目をゲットしようぜ現代の若い子で、目のまわりぐるっとラインを引いてつけまつげして、見るからに「自前の目、相当小さいでしょ!?」って子がいるけど、現代人からすると目を細く見せたいなんて願望、ちょっと考えられないよな。この次の項目には「小さな目を普通に見せる法」があるので、大きすぎても小さすぎても悩みのタネではあったようなんだけど、「大⇒小」「小⇒大」の項目に載ってる挿絵の目は、どちらも細い。現代人に比べたら、おそらく当時の女性のほとんどは修正を必要としないほどの日本人らしい細い目が多かったんじゃないかという気がするんだけど、そもそもの感覚からして違うからな。目の修正の次には眉毛と目の間の間隔に関する項目が続き、そこではずばり 生質(むまれつき)、眉毛と目の間のせまきは、いたって賤しく見にくきもの也。と言っている。目が大きければ必然的に眉毛との間隔は狭くなるし、間が広い方がいいというのであればいわゆる「やぼったい目」がよろしいということになる。もちろん、狭い場合の修正法も紹介されている。陶氏によると、浮世絵でぱっちり二重の女性というのはホントに少ないそうで、『都風俗化粧伝』の中の目の修正法に描かれた挿絵の目は二重、「けんのんな女」として描かれた奉公ふうの女中も二重。 【このように、好まれない状態に関する説明の挿絵に二重まぶたを描く、ということは、 「二重まぶたはよくない例」という意味だとも考えられる。ならばこれは「大き過ぎる 目の持ち主は二重まぶたであることが多かった」ということなのか。それとも、単に 「二重まぶたは好まれなかった」ということなのだろうか。後者のような気がするのだが、 残念ながら傍証がない。】 (『江戸美人の化粧術』より)いずれにせよ、通常「美人」としてぱっちりお目々が描かれなかったのであれば、細くて眉毛との間隔が広い方が好まれたとは言えるだろう。↓こーゆーのは完全NGだよな。にほんブログ村
2016年03月28日

正月の話の続き。表で厳粛な新年のイベントが行われる一方で、奥では将軍様の御前に金屏風の囲いができ、奥医師がくじを引いて順番に1人ずつ金屏風の中に入るという遊びが行われていたそうな。 【さてお屏風のなかでは外から何がとびこんできますやら、坊主あたまを気にしながらも、 かしこまっておりますと、「御用意はよろしいか、そら、まいりますぞ」との声と いっしょに、それでもはじめはお褥(しとね)や御時服のような柔らかなものが ほうりこまれますので、さっそく頂戴、頭へかぶってつぎの心がまえをしておりますと、 ズシーンバタン、そらお机、お文庫、御用たんす、お硯箱やら花瓶やら、お火鉢に、掛軸、 ひとしきりはつぎからつぎと降るようでございます。「もうよいか、まだか」とおそばから 公方さまのお声、もう品物はお屏風のうえにまでもとどきそう、身の置き場所もないような 中から「まあだ、まだ」と申しあげる者もありますし、二つ三つで「もうけっこうで ございます。どうか御免をこうむります」と申しあげる者やとりどりで、公方さまは始終 御満悦カラカラとお笑いだそうでございます。 その折の品は全部拝領となりますそうですが、だれもそんなことを最初から考えにいれて いるものもなく、その様子のおかしさやなんかで大笑いだということでございます。御時服の 黒綸子と白綸子をときましたら、はいっていますこといますこと、真綿のお山ができて驚いた ことをいまもありありと私はおぼえております。】今泉みねは結婚してまもなく、夫に連れられて京都へ行った。そこで御所の破れた障子などを見せられて夫から説教され、【ただ畏れ多く、徳川全体のものが天子様を思うことの足りなかったのがしみじみとわかりました】と思ったと回想しているが、時代の流れってもんがあるからね~。むしろ、外国からすれば天皇家が残ったこと自体が歴史の非常識であるんだけど、お屏風の遊びのエピソードは、徳川の世が遠く過ぎ去った現代人のわたくしからすると「御城」の奥で行われるにふさわしい贅沢な遊びだと素直に思う。さて、なんだか呑気な話が続いたけど、奥医師もちゃんと仕事をしていた。みねによると、【昔の阿蘭陀外科医のおもな仕事は、手術とお膏薬(こうやく)】だったらしい。前回書いたように、ツュンベリーの参府の際には桂川4代の甫周(みねの父とは別人)は毎日熱心に彼のもとに通い、 【そして私の根気強い教えと彼ら自身のたゆまざる学習により、病気を正しく診断する知識を 相当に磨いた。そしてまた私の指導のもとに、ヨーロッパで使われているような治療薬を 用いて、病人を回復させ始めたし、また病気になったときの治療薬について多くを会得 した。】 (『江戸参府随行記』高橋文訳/平凡社より)カピタン(長崎のオランダ商館長)による江戸参府は寛永10年(1633)までは不定期で、寛永10年から寛政2年(1790)までは年1回、それ以降は4年に1回という変遷を経ているが、医師も随行しており、ツュンベリーは 【また我々が到着する前から、通詞をとおして、今年やってくるオランダ医師は、これまでの 医師より学識豊かであるという評判が立っていた。これまでの医師はおそらく、大半は無知な 外科医であったのだろう。私がパリやアムステルダムから携帯してきた美しい外科用器具類 が、すでに私について抱いていた好意的な評価をさらに一層高いものにした。】 (前掲書より)とちょっと自慢げに語っているが、実際にツュンベリーに会って色々教えてもらう中でおそらく甫周らはツュンベリーの知識の確かさを実感したのだろう、 【(前略)幕府の高い地位にある高貴な患者について相談されたことがあった。しかし私が 患者の性別、年齢等医師として知っておくべき一般的な必須事項を教えてくれるよう 要請したさいに、一切が秘密とされて、私はどんな薬も処方することができなかった。】 (前掲書より)性別すらわからない患者に一体どんな治療しろって言うんじゃ!!とツュンベリーの苛立ちが伝わってくる気がしますが、話を聞くだけでもかなり重篤な様子がうかがわれたのでせめて患者と直接話をさせてほしいと訴えて、どうにか面会は許された。ところが、患者を見ることも脈をとることもできず、なんと御簾ごしに次の間から患者を観察するにとどまったんだという。この患者は将軍の姫君だったらしく、ツュンベリーは戦法を変えて甫周を実際の治療にあたらせ、自分は甫周を通じて得た知識でもって薬を処方して見事患者を回復させたと語っている。ツュンベリー以前に入府した外国人医師たちが、彼の言うように本当にレベルの低い医師だったかはわからない。ただ、毎年春になるとやって来るカピタン付きの医師のもとには最新医学を学ぼうとする日本人医師が訪問しただろうと思う。ちなみに、ツュンベリーより80年ほど前の1691年(元禄4年)、カピタンと共に入府したE・ケンペルも旅行記を書き遺しているが、ケンペルと言葉を交わした医師もいるものの、会話の内容は記録されておらず、むしろ5代将軍・綱吉が西洋医学にも興味を持って色々質問したことが書かれている。ま、ケンペルやツュンベリーも書いているように、日本人はガイジンを信用せずに情報の流出を嫌って参府旅行でも厳しく目を光らせていたようなので、蘭学を許されていない日本人医師にとってガイジン医師はちょっと近づきにくい存在ではあったかもしれない。杉田玄白らが立ち会った腑分け以前に、幕府の御典医たちが解剖人にあれこれ質問しなかったのは、見学者が外科以外の医師だったから質問できなかったって可能性もあるよな、とも思った。その点、唯一の公認蘭方医である桂川家は、知識の向上を図れる絶好の機会であるカピタン(に付いてくる医師)の入府を誰よりも待っていたかもしれない。誰に教わったものかははっきりしないけど、桂川家が将軍に処方する膏薬は年2回自家で製造していたそうで、 【なんでもその日はさんぴん達も朝から紋付きに襷(たすき)がけ大小をさしてかいがいしい いでたちです。大門の前にはちょうど焼芋やの釜の大きなようなのが土竈(どべつつい)に かかってしつらえてございまして、それで脂を煮つめるのですが、なんとも言われぬその 臭いは鼻について(中略)きっと近所合壁の大迷惑だったに違いありませんが、だれとて それを口にするはおろか、思ってもならないのです。上様御用の御膏薬に対する不敬に なるのですからみんなじっとがまんして慎んでおります。さんぴん達はこのときにとばかり 鼻をひこつかせて急に反身になると申すもおかしゅうございますが、ふだんはひとが三寸 さげる頭も今日は五寸さげて通りますから大いばりなのでございます。 さてどのくらいの時間か煮立てて煮つめたこのお膏薬は、すっかりさまして固まらせたあと は、飴細工のように丸め、ビンつけや梳き油のようなものができあがります。御つかい料 としてとっておきますのはそのうちの千分の一ぐらいのものでございましたでしょうが、 それは塗り物のちょうど印蘢の大きなもののような中に入れ、総(ふさ)のついた紐が かかり、一かさねごとにそれにはいちいち片方には和名と片方には横文字とで名前がついて ありましたこともおぼえております。そしておあまりとしての大部分はわけることは できましても、売ることなどは絶対にできませんかった。】といい、みねの手許に膏薬の処方が残っていたようなんだけど、秘伝の膏薬は【二百年ももっと以前から伝わっているもののようでございます】といい、【アルマンスという長崎にいた和蘭人】から教わったものらしいとみねは言っているが、それが本当なら江戸初期頃(平戸にオランダ商館ができたのは慶長14年/1609年)に伝わった薬を長いこと使い続けていたということになる。もっとも、みねが口述した時からカウントして200年以上と言っているのであればもう80年ほど遅い計算になるけど。(ここまで、出典の記載のない【】内はすべて『名ごりの夢』より)17~18世紀以降なんて科学とともに近代医学も飛躍的に発展していった時期で、鎖国そのものにはわたくしは否定的な見方を持っていないんだけど、日本医学界の最先端を行くはずの桂川家でさえこれだから、医学の分野では相当後れを取っていたことがわかる。まあ、歴代当主の中には甫周のように参府した外国人医師から積極的に知識を吸収してその溝を埋めようとした人もいただろうけどね。え~と、奥医師の話は今回で終わりとしますが、少し文字数が余ったので医学に関する綱吉とケンペルの会話を紹介しましょう。 綱:内科と外科の病気のうちで、何が一番重く危険だと思っているか? 癌(がん)とか体内の潰瘍にその方はいかに対処しているか? 支那の医師が数百年行ってきたように、その方もまた長寿の薬を探し求めて いるのではないか?あるいは他のヨーロッパの医師がすでにそうした薬を 発見したのではないか? ケ:どうすれば人間は高齢になるまで己れの健康を保てるか、という秘法を発見しようと われわれ医者は毎日研究しております。 綱:そのためには何が一番良いか? ケ:経験が他のものを教えるまでは、最新のものが最上のものであります。 綱:一体どれが最新のものか? ケ:一種の酒精で、適度に用いれば、水気を流動的に保ち、そして活力を旺盛にします。 綱:それは何という名か? ケ:「ザル ヴィラティレ オレオムス ジルヴィ」 綱:一体どこで手に入れることができるのか?誰がそれを発明したのか? ケ:オランダで、ジルヴィウス教授でございます。 綱:その方もその薬をつくることができるか? ケ:はい、できまする。しかし、ここではできませぬ。 綱:バタビアでは手に入るか? ケ:はい。 そこで将軍は次の船でその見本を送れと要求した。その薬は次の年にそういう名前で 届けられたが、それは実際には丁子(ちょうじ)を加えて浸出した好ましくない アンモニア精に他ならなかった。 (『江戸参府旅行記』斎藤信訳/平凡社より)ジルヴィ博士の薬を作れるかと問われた時、そばにいたカピタンは「できないと言え」と目で合図したそうな。だから、話の内容と話す人によってはいつでもよりよい情報が得られたという訳ではないらしい。その点、甫周はツュンベリーとかなり有意義な交流をしたと言えるだろうけど、それには中川淳庵の語学力が大きな役目を果たしたそうだから、いつの時代も語学力というのは大切なようです。にほんブログ村
2016年03月27日

桂川甫周が将軍から目をかけられたのには甫周の父と妹のことも関係していると今泉みねは語るが、甫周の父・甫賢にも面白いエピソードがある。 【(前略)毎晩人が寝しずまってから調べものなどをしていますと、トントントントン 戸をたたものがございます。「たぬか、はいれ」と申しますと、戸がスウッとあきます。 何かこちらの都合で「おまち、まだいけないよ」と叱りますと、決してはいらなかった そうですが、ときにはたぬの方でいたずらをして、「この夜更けに何をしておるか」と 将軍の声色をつかうこともあります。なにしろ仮にも公方様のお姿に化けておりますの ですから、どうにもできませぬ。「おい、それだけはよしてくれ」とあやまって油揚を やりますと、行ってしまいましたとか。】狸の世界にも知られるほどの将軍家との親密さ桂川初代の甫筑は森島小助といい、蘭方の始祖といわれる嵐山甫安に学び、のち長崎でオランダ人医師から外科を学んで日本で初めての兎唇手術を行った。その後、甲府綱豊の侍医となるが、綱豊が6代将軍となるに従って江戸に入り、以後蘭学をもって幕府に仕えた。3代・甫三は青木昆陽に学び、前野良沢・杉田玄白とは友人で【「解体新書」は彼の推挙により将軍に内献した】(『名ごりの夢』解説文より)そうで、4代・甫周(国瑞)は「解体新書」の翻訳に参加し、日本で初めて顕微鏡を医学に用いた。たぬのエピソードを持つ6代・甫賢はオランダ商館長のズーフから「ボタニクス」(植物学者)という呼び名を与えられ、シーボルトからは学識やオランダ語のレベルの高さを評価されたという。シーボルトといえば、国外持ち出し禁止である日本地図を持ちだそうとしたといういわゆる「シーボルト事件」が有名ですが、ツュンベリーの第1回江戸参府記(1776年)によると 【通詞は全員が現住の日本人であり、多かれ少なかれ、はっきりしたオランダ語を 話す。幕府は、外国人が日本国の情報を入手できなくするため、外国人の日本語習得を 許していない。】 (『江戸参府随行記』平凡社/高橋文氏の訳によるもの)だそうで、日本語の輸出も禁止していたらしい。が、ズーフはフランス人のフランソワ・ハルマの蘭仏辞書をもとにして蘭日辞書の編纂に着手し、ズーフの帰国後は日本人通詞が引き継いで20年ほどかけて「ズーフハルマ」(道富波留麻)という辞書を完成させた。桂川家は日本で唯一蘭学の研究を許された家で、ズーフハルマは当初桂川家に1冊、ほか長崎訳官と天文台に各1冊のみが置かれた。それ以外の刊行は幕府からは認められなかったが、7代・甫周(国興)の代はもう明治維新目前で、国防という観点からも甫周はズーフハルマの刊行の必要性を幕府に熱心に訴えたそうな。 【が、なかなかむずかしくて、そのためにはもう地位を捨ててもいいというほどに 論じましたそうです。やっとのことで御許可が出ましたが、それは代々幕府に仕える 桂川ゆえ許されましたので、他には決してそれをきかれなかったと申します。】ツュンベリーの参府の際には大勢の日本人が彼を訪問し、6人の医師もいた。うち4人はあまり訪ねてはこなかったし、来ても目立たないようにして来たと言うが、残りの2人は毎日来て、夜遅くまでツュンベリーの教えを乞うた。 【一人は桂川甫周で将軍の侍医であり、まだ若く、親切で、頭の回転が早く、そして はつらつとしていた。桂川は衣服に将軍の紋章をつけており、友人の中川淳庵と 連れ立ってきた。淳庵は多少年上で、最も主要な藩[小浜藩]に属する藩主の侍医で あった。二人とも-とくに中川は-かなりうまいオランダ語を話し、また自然誌、 鉱物学、動物学、植物学についてなにがしかの知識を持っていた。(中略) 二人とも言い表せないほどにうちとけ、進んで協力し、学ぶことに熱中した。そして 前任者にはなかった知識を私が持っていたことから、次々と質問を浴びせてきた。 (中略)彼らの熱心さに疲れ切ってしまうことがよくあったが、彼らと一緒に楽しく かつ有益な多くの時間を過ごしたことは否めない。】 (『江戸参府随行記』平凡社/高橋文氏の訳によるもの)・・・とまあ、教科書に載るほどの超有名人ではなくても、桂川当主は代々さまざまな活躍をして、時にはガイジンからも高い評価を与えられるような根っからの学者家系だったようで、ビンボー学者として有名でいながら、それでいて世間の尊敬も集めていたらしく、大名でさえ簡単に奥医師の診察は受けられないルールであるにも関わらず、 【しかし、よくよくの事情で、例外として、往来でかごをとめて、かごの中から病人を診た ということもきいています。そんな時決して直接には患者の手に触れないで、ふくさを かけてその上から脈をとったのだそうですが、先方はなんでも気ちがいのようになって 桂川のかごに追いすがり、「せめて桂川さまに脈をとっていただいて死にたい」という 非常な執心なのですから、それでかえって病気はけろりとよくなったとかいうためしも、 再三再四ではありませんでした。よしんばなおらない場合でも、「ああよくよく業の深い 病気でした。これで思い残しはさらにありません」とあとから涙ながらに申して来る 者もおりました。】なんてこともあったそうな。将軍の奥医師、法眼という高い地位にありながらも甫周は 【父はいかにも情深い人であったと思います。歌、俳諧が好きでした。よく申しますが、 人好きのする方で、一度あった方は誰でもいい方だと言います。】という気さくな人であったようで、唯一の幕府公認蘭方医ということもあり、洋学を志す前途洋洋の若者たちが桂川家に入り浸っていたようなんだけど、学者の家に集まるのは学者だけではなかったそうな。 【それから芸者がよく来た訳を申しませば、ああいう人達は病気だのけがだのを 将軍の御脈をとる御典医に診てもらうなどというわけにはどうしてもゆきませんので、 なにかの口実をつくって、じつは診察を願いたいというようなわけがあったようです。 こういった意味で、ほかにもまだまいった人のなかに杵屋文左衛門がありました。この人は 当時長唄の方では三芝居にも出て、その名声を鳴らした人でしたが、指をはらしてぜひ 御療治をうけたかったのです。なにしろまだ河原ものなどといったそのころのことで、 文左衛門なる大師匠にも表向きにはそれがかなわぬものでしたから、七つになる私に お稽古をつける理由で邸へ出入りいたしました。毎日毎日痛い指をかかえて出かけて まいりましたが、当の私はのんきなもの、ほかの者たちがこれ幸いと夢中でした。なにしろ 音にきこえたその人からけいこをつけてもらうことは並では大したことで、大名などの ところでもちょっとできなかったのを、前のようないきさつで私はりっぱな師匠から稽古が はじめられました。】あいにく、おてんば娘のみねは色々とおいたをして大師匠を怒らせたりしたようだけど、ある時などは芸者衆が1日休みをもらってお金を出し合い、桂川の台所を借りて揚げたてのエビを食べる息抜きのイベントがあったそうで、 【その日はお客様の方で遊ばしてやる、芸者をお客にして今日こそのびやかに遊ばして やります。また名前も桂川様とか殿さまとか言わないで、カネールカネールと父のことを 言いました。水品<楽太郎>さんはたきさん(あちらでは旦那さんという意味でしょうか)、 あごが長い成島<柳北>さんはおばけと言われなさいました。そのお皿をこっちに取って 下さい、そのお肴をくしにさして下さい、という調子で、芸者からつかわれてゲラゲラ 笑いながらごきげんで、いっしょになって揚げものなどしていらっしゃいました。 神田<考平>さん、宇都宮<三郎>さん、柳河<春三>さん方もぶきっちょな手つきで お給仕やく、気が利かなくって罰金をとられたり、いつもの意趣返しとかなんとかワアッ ワアッと大笑いでした。福沢<諭吉>さんもいらっしゃったかもしれません。】 (<>内はジジイ註)いくらいい医者といっても、甫周が受け入れなければこんな色々な人間が自宅にまで押し掛けてくることもなかっただろう。「一事が万事」というのは世間で色んな人を見たわたくしの持論ですが、こういうエピソードから類推するに、甫周は裏表のない、かといって真面目一本やりの人間でもなく、そういう人柄が幅広い身分の人から愛され、信頼されたのだろうと思う。『名ごりの夢』の解説文によると、若くして異例の高い地位に召され将軍から愛された甫周は時に同僚からの嫉妬を買ったという。まあそれもそうだろうという面はあるものの、甫周を含めた奥医師は年がら年中病気の治療をする訳でもないので、多くは歌や俳諧のお相手をしたり、内々の宴にはべるなど将軍のプライベート空間にあってごく親しく仕えた。正月の年始登城の様子を『徳川盛世録』(平凡社)に沿って見てみると、まず将軍は元日、表の白書院にて越前家や老中などの賀儀を受け、宴を賜い、時服を与える。その後、表で最も格の高い大広間に移動して、譜代や外様の大名や交代寄合、高家など多くの家臣たちから賀儀を受けて宴を賜う。この中に法印・法眼の医師もおり、時服が与えられる。さらに白書院に移動して小姓組、絵師、碁坊主などの賀儀を受ける。翌2日はまず白書院で御三家の嫡子の賀儀を受け、ついで大広間で諸大名の賀儀を受け、白書院で代官・医師・神道者・連歌師や総検校からの賀儀を受ける。3日目も白書院や大広間で無官の大名や町年寄などから賀儀を受ける。6日には寛永寺を除く諸寺諸山の僧侶・社人・山伏等が登城する。(寛永寺がこの日登城しない理由は「上野第二編(21)」参照)元日がやはりもっとも厳粛で、日を追うごとに客の格が落ちていくようだけど、各人が着る装束ももちろん決まっていて、元日と2日の法印・法眼の衣裳は直綴(じきとつ)。早朝に支度をする父の姿は幼いみねに芝居のような美しさを思わせた。 【父から聞いたところによりますと、登城してみんなそろって年賀を申しあげますと、将軍は ただ一言、「めでとう」とおっしゃるきり、その折に御台様の召されたお袴が黒のように 見受けられ、どういうことかと思われたが、緋も染めて染めてほんとに染めぬくと黒いように なるものだそうで、やっぱり緋のお袴だったなどと父が申したこともおぼえています。 それからみなは一様に紅白の切り餅をおしいただき、懐紙に包んでひきさがるのですが、 それを”おてがちん”というていましたのですとか。】 (ここまで、出典の記載のない【】内はすべて『名ごりの夢』より)元日には確かに御台ちゃまは緋袴を着る。でも御台ちゃまが表に出てくるハズはないから、これは大奥での出来事で、奥仕えの奥医師などからの内輪の祝いなんじゃないかと思う。正月の話はもう一つあるのですが、文字数の関係で本日はここまで。にほんブログ村
2016年03月26日

『名ごりの夢』は今泉みねの息子の源吉が、自分の出していた雑誌の穴埋めの記事として母親に昔語りをさせ、それを口述筆記したものをのちに1冊の本にまとめたもので、みねが80歳の時から亡くなる82歳までの間に書かれたもの。内容としてはみねがお姫様として育った桂川家での少女時代から、18歳で今泉家に嫁に行った直後ぐらいまでの話がほとんどで、老婆の昔語りとはいえみねがフレッシュな時代の話が中心なため、みずみずしい本に仕上がっている。内容に加えて、みねの語り口が上品でやわらかな老婦人のそれであるため、あとには清々しいさわやかな読後感が残った。まあ個人差はあるだろうけど、昔の人ってのは実にしゃっきりしていたもんで、上品な中にも一本芯が通っているとゆーか、現代人とは違う強さがある。教科書で習う江戸時代ってのは町人文化が栄えた一方で、封建時代という印象が強いので社会の仕組みにはあまりいいイメージを抱かない人が多いかもしれませんが、みねが語った中にこんな話がある。 【男の児には腹を切ること、女の子には自害の仕方を教えますが、大ていは大人が ついていて介錯をしてくれますから、ただにっこり笑って死んで行けばいいのです。 無茶苦茶に死なないで、りっぱに書置きをして死体の処理を大人に頼んで死ぬ、 こういうことは、よく言いきかされていましたから、子どもでも、コトンとも言わさず 静かに死んで行くことができます。自分は桂川の娘だということだけを、死んでも覚えて おればいいと父が申しました。武士の娘という考えが、昔はきつかったようでした。 めったにしおきはしませんかわりに、武士の家に生まれて、その名を汚してはならんという その一言で、まるで人が違ったようになりました。】「ただにっこり笑って死んで行けばいい」なんて言葉、さらっと現代人に言えますか?そういう覚悟を幼い頃から仕込まれて生き抜けば、そりゃ~強い人間にもなるわな、とこの文章を読んで思いました。とは言ってもなにぶん昔の人なので、「つんぼ」とか「さんぴん」なんて現代人が読んだらちょっとぎょっとするような表現もあるし、もしみねがもう少し早く、それも男子に生まれていたらもっと興味深い話も残っていたかもしれないという面はあるのですが、わたくしのオススメの1冊であることに変わりはありません。ので、今回はみねの心地よい語りに浸っていただくためにも『名ごりの夢』から多く引用いたします。で、引き続き奥医師と桂川家について紹介していきますが、奥医師は奥女中同様、お役に就く際に奥での出来事を家族にも口外しないとか、治療は複数の医師が相談して決めるとかいう誓詞を提出したようなんだけど、幼いみねが父から聞いた奥での出来事は80歳になったみねの脳裏に焼き付いていて、みねの父が口外禁止のルールをこっそり破っていたおかげで1人の人間としての将軍の素朴であたたかい側面が現代に伝わっている。みねの父・桂川7代の甫周は12代将軍・家慶(いえよし)にずいぶん可愛がられたそうで、甫周の父・甫賢が亡くなったあと若くして召されて 【(前略)規則外のお呼び出しで法眼の位をもいただきました。「このわがままは許せよ」 と仰せられての特別のお召しかかえだったことをあとから知って、父は深く御恩に 感じていました。その後も、奥医仲間のだれよりも若い父は、いつも上様からお愛し いただいて、どういう時にか、父がうたた寝していましたら、そっと御かいまきを おかけさせになったり、御自身のお膝を枕におさせになって、しずかに坊主あたまを お撫でになられたことがありますとかで、もうありがたいやらもったいないやらで 恐れいっておりました。 そのおかいまきはお駕籠に入れて、下城のときは「下へ下へ」で大得意でしたものの、 邸に駕籠がつきました時は、それをおしいただいてお部屋にころがり込むようにして、 感極まって暫くは泣いておりましたそうでございます。】将軍のお側で居眠りこくってどんなじゃ!!とついツッコミを入れたくなりますが、奥医師は交代で24時間詰めていたというので、夜勤の時だったのかもしれないな。また甫周が若い時分の頃、将軍(たぶん家慶)のお伴で狩りに行った時に将軍が射落とした雁を拝領したことがあったそうな。 【さあ大変、矢には葵の御紋がついております。しかもこれは御手添えの雁で甫周拝領と いうのですから、邸へはすぐさま”はや”がとびました。いまどきでしたら 電報や電話というところですが。 邸では御無礼のないよう用意も万端ととのえてお待ちうけせねばなりません。親類縁者は もとより、近所合壁へも知らせてこの喜びを分たねばなりません。一方雁のほうは、 お駕籠のさきに結びつけ、先供がお尻をはしょって走り出しますと、なにしろ矢の葵が ものをいうのですから、大名でもなんでもみんな左右によけておじぎする中を、大得意で 邸へ帰りまして、それから雁のおふるまいがはじまりますが、雁一羽が大変な御馳走に なったものです。】この雁拝領のフィーバーを、みねは【今からみればなんと馬鹿げた恐れ入ったことでございましょう】と言っているものの、みねの息子・源吉によれば何か話すと自慢話のようになるから昔話をすることをみねは好まなかったという。わたくしの母方の実家は旗本だったことを過去の記事で何度か書いていますが、母方のさらに母方は近衛に入っていて、ひいばあちゃんは某天皇様(もちろん幼少時)にお乳を差し上げた人なんだそうな。つまり天皇の乳母だった訳ですが、そういう関係で、天皇の乳兄弟にあたるおばあちゃんは当時公家にしか使用を許されなかった漢字をいただいて名前を付けられたという。それをこれまで記事の中で書かなかったのは、「読んだ人に自慢話だと思われちゃうかな」という思いが頭をよぎったからで、ゆえにみねの気持ちはわかる。しかもみねの場合は、徳川幕府の崩壊からまだ年月もそれほど経っていないし、奇跡の王政復古や西洋化という時代の大変動のさなかの上に、天下人たる将軍に間近に仕えてしかも殊の外可愛がられたという事実から相当話しにくい面は確かにあっただろう。みねが少女の頃の桂川家は【桂川の貧乏やしきといって評判だった】らしく、桂川の家計を心配した将軍(誰だかは不明だけどたぶんこれも家慶)のおせっかい、んにゃ配慮は続く。 【さて”おはま”(浜御殿:現在の浜離宮。ジジイ註)の奉行木村は地位は高くありません でしたが大変なお金持、当時たった一人娘のおくに様と言ったら、お器量よしで芸ができて、 薙刀、馬、武芸に至るまでなんということはなく優れていて、片手で碁盤の上に石を おいたまま持ち上げたという話ものこっています(碁も二段の腕前がありましたとか)。 こういう申し分のない奉行様のまな娘が、桂川には乞食の子もくれないという程貧乏な 雨もりがする学者の家に、どういうことで縁づくようになりましたかについては、はじめは 誰もほんとにするものはなかったと申しますが、これは将軍家御みずからおもしろい おとり合わせをあそばしたのでございまして、 「又助、娘を桂川に、仲だちは余だ」 とまで仰せだされた以上、ただ一言ハアッと恐れ入りますばかり、なぜになどとはもちろん、 上様の御声がかりに違背など決して決して申しあげられなかったものでございます。】甫周の父・甫賢は高収入のアルバイトである大名家への往診を好まなかった(「(20)」参照)。 【いったい奥医は、手足をみがいて、香などたきしめたいい着物をぞろっと着て駕籠に乗って 歩いていましたから、まるで婦人のようでした。といって武芸の嗜みが全然なかったのでは ありません。ただ公方さまのお手を執るからというので、自分の身はきよめにきよめて あらぶれないようにしていました。ほかの人はまず診ないということになっていまして、 百万のお金をつんでも、奥医に脈をとってもらうことはできなかったそうです。大名あたり から申し込みがあってさえ、公儀にまずうかがって、お許しがなければ脈はとれないという むずかしいものでした。】そんなめんどくさい手続きをしても奥医師に診察してもらいたいという大名はいて、甫周が往診を好まなかったかはわからないけど、おそらく積極的に出向くということはしなかったんだろうと思う。もし甫周がマメにバイトしてれば、将軍から乞食にまで広く知られるようなビンボーは続いてなかったんだろうからね。しかし、仙台や加賀などへは出向いたことがあるらしく、 【何せよ、お大名からは、山のように積んだおくりものがひきかえしひきかえし来ますので、 そんな時貧乏医者はいきをつきます。公方様は何もみな御承知のように、涙のでるほど 桂川のしんしょうをも御心配になられ、しばしば御声がかりで「どこそこへ」ということも ございましたのですとか。】 (ここまですべて【】内は『名ごりの夢』より)と将軍みずからバイトのあっせんをしてやったというのだから、どんだけビンボーだったのか幕末の名君として名高い水戸家の斉昭(なりあき)が安政の大獄で蟄居となった際、水戸藩士は斉昭の復権を目指して大奥に近づいた。まずは三保野という御中臈を味方に引き入れるが、三保野は側室のお定の方も味方に付ける必要があると言い、さらに自分を快く思っていない上臈御年寄の姉小路の動向に左右される可能性があると言う。そこで、姉小路が世話になった前将軍の御年寄・是生尼に働きかけて姉小路への口ききを依頼し、どうにか斉昭の謹慎が解かれるところまでこぎつけた。もちろん、大奥の人間を動かすにはそれ相応のカネがいる。なんでも、三保野付きの女中にさえ計120~30両のカネを渡したそうで、大奥全体に使った金は1万両にもなったという。しかし、主君が謹慎をくらっている家の、それも一介の藩士などが単身でおいそれと大奥に渡りを付けられるハズもない。その間を仲介したのが、大奥に太いパイプを持っていた坂幽玄ら奥医師だった。もちろん、仲介者にも相応の謝礼が支払われる。斉昭の一件ほどデカい話はそうそうなくても、口ききを依頼する話は沢山あっただろうから、うまく立ち回れば奥医師はおいしいバイトで蓄財することもできたかもしれない。それでも世間で有名になるほど桂川家はビンボーだったというのだから、甫周は欲のない学者バカだったのかもしれない。そういう甫周の人柄が家慶にも認められて、世間知らずの将軍をして家計の足しになるような各種算段をさせたんじゃないかという気がした。にほんブログ村
2016年03月25日

連休はバシバシ記事を上げようと思っていたのに、アマゾンプライムの無料月間に入ったため、映画観まくりでした(←もちろんすべて時代劇)。少し前の記事で、日本史にはそこら中に面白い話が転がってるんだから同じ時代ばっか大河でやってんじゃねえ!と書いた記憶がありますが、今回お祖師を扱った映画を2本観ましてね。お祖師を扱うとなれば、その宗派の本山の介入・・・いえ、アドバイスも当然入る訳だからそこそこポイントは外さない訳ですが、観ていて正直「言うは易し、だな・・・」と思いましたね。面白くないとかって言うんじゃなくて、お祖師を描くのは難しいもんだな~と思って。1本は難しい人物を描いたなかなかの意欲作だと思ったけど、もう1本はちょっと意図的なものも感じてね。それに、映画ともなればそれなりの興業収入も挙げねばならんから一般にもわかりやすいような見せ場も作らなきゃならんし、ドラマティックな材料が沢山あっても、それをひとつの作品に仕立てるには色々と難しい問題があるもんなんだな~と思った訳でして。ところで、お祖師といえばわたくしがトライしていた『金光明最勝王経』(大辨才天女品)、ようやく最後まで行き着きました頭で考えずにスムーズに言えるようになるまではあと少し時間が必要ですが、その期間を含めて1年半ぐらいかかったことになりますかね(笑)。その間、回向文を覚えたり、公私で家を何日も空けていたり、中だるみで1~2週間もサボったりと色々ありましたが、天女がいかなる人なのかわかったし、理解できることも増えたので、コンプリートできて良かったです。わたくしの場合、きちんとした仏教の勉強をしている訳じゃなく独学で勝手な解釈をしていることは百も承知ですが、ごく最近、金光明最勝王経について少し触れている歴史ブログをたまたま読みましてね。それを読んで「この人は単に他人の文章を小綺麗にまとめているだけだな」とすぐにわかりました。ま、そんなことも自分なりにあれこれやっている中で付いてきたオマケな訳で、仏教であれ歴史であれ、つたない知識でもしっかり自分のモノにするとしないとでは記事の厚みや深みがずいぶんと違ってくるものなんだな~と思いました。特に仏教関係は、読む人が読めば自分なりの理解の上に書いてるのかが一目瞭然なので、何も知らない人が安易に他人の文章をコピペしない方がいいもんなんだと知りました。まあ、わたくしのようにバカ丸出しってのもどうかとは思いますがさてと、2話続けて桂川家が出てきたので、話の流れでここからは奥医師と桂川家について書くことにします。奥医師には広義の奥医師と狭義の奥医師があるそうで、ここで取り上げるのは狭義のほう。幕府が抱える広義の奥医師のうち、狭義の奥医師が医官の実務上の最高位で、その制度が確立されたのは5代・綱吉の代だという。古くは「御匙」(おさじ)「御近習医師」といい、宝永年間(1704-11)に「奥医師」という名称が登場し、延宝の頃には「御側医師」という呼び名も現れる。狭義の奥医師は文字通り「奥」のエリアで将軍およびその家族たちの診療を行うのが役目。「奥」には本丸御殿の中奥も含まれ、その他二の丸や西の丸でも診療にあたったそうな。現在の総合病院は各診療科に分かれているけど、江戸期にもいくつかの診療科があり、このうち最高位が内科。ほかに外科・針科・眼科・口科があった。桂川家は外科ね。文化・文政年間(1804-30)には各科をあわせて15人ほどの奥医師がいたらしい。ものによっては、各診療科でそれぞれ20人程度の医師を抱えていたと書いてる人もいる。その奥医師たちが交代で毎日登城して、中奥での将軍様のお支度の間にお脈を測り、場合によっては腹診なども行った。将軍だけでなく、将軍世嗣や御台所、側室たちの診察もしたので、大奥への出入りは比較的自由だったという。大奥へも出入りする関係からか、奥医師は坊主だったようで、高貴な方々を診察するという職務上、格上になると法印や法眼という高位に叙せられた。スウェーデン人医師のC.P.ツュンベリーが1776年に初めて江戸参府した際、日本人医師たちが彼のもとへ色々と質問に来たが、ツュンベリーは 【医師らは、頭髪を全部剃りあげていることで、他の者と区別できることもあるが、 他の者と同様、剃らずにそのままにしている者もいる。】 (『江戸参府随行記』平凡社/高橋文氏の訳によるもの)と書いている。TV時代劇でおなじみの小石川養生所の医師も広義の奥医師に含まれるけど、竹脇無我(←古い)は頭にちょんまげ載せてたもんな。だから、必ずしも奥医師が坊主だったとも言えないのかもしれないけど、職場が江戸城の「奥」になれば出家は必須だったんじゃないかという気がする。今泉みねの父は桂川7代・甫周(ほしゅう)で、甫周の弟に甫悦(ほえつ)という人がいた。甫悦はのちに三千石の旗本の藤沢という家に養子に行ったらしいが、 【御城に何かありました時の話、叔父(甫悦:ジジイ註)は「こんどこそおあにいさまと 同席ができると思ったら、あにはからん、自分はまだまだはるか小さく見えるくらい 段がちがって下座にいた」と申して、私の父(甫周:ジジイ註)を心から敬って おりました。】 (『名ごりの夢』今泉みね/平凡社より)『江戸幕府大事典』には、内科が200俵高でそれ以外の科は100俵高だとある。もっとも、『名ごりの夢』の解説には甫周の頃は家禄2~300俵、役高100ぐらいだったとあるものの、いずれにせよ三千石の知行取りの家に養子に行って「藤沢志摩守」となった甫悦とでは年収にかなりの差がある。それでも、江戸城では甫周は甫悦よりはるか上座にいたというのだ。『名ごりの夢』の7代・甫周の解説にはこうも書いてある。 【公卿に準じて地位は非常に高く、参議、納言にも匹敵したという。】いやいや、さすがに参議・納言に匹敵とはちょっと大げさじゃないかと思うものの、『名ごりの夢』の初代・甫筑の解説文にある奥医師は 【(前略)道中には長柄の駕(かご)に乗り、駕かきの陸尺(ろくしゃく)四人、駕脇侍 二人、薬箱持ち一人、傘持ち、挟箱持ち、袋杖持ち、草履取りなど、すべて十一人の供方を 備え、旗本などと行きあうときに道を譲らせるほど幅をきかせたという。】とあり、みねが語る少女時代のエピソードにも、奥医師の「格」を物語る内容がある。桂川家は蘭学をもって代々世襲で幕府に仕えた家柄で、みねは娘時代に明治維新を迎えているので、歴史に名を遺した幕末の著名人たちが桂川家に数多く出入りしていた。福沢諭吉もその1人で、みねが6~7歳の頃、福沢諭吉におぶわれて出かけたことがあった。 【普通は駕籠でなければ出られないのですが、福沢さんがかまわずそっとつれ出して 下さいましたので、はじめて大川を見て大きなお池だとびっくりいたしました。】食事の時は家の主人だけは別格で、その辺の区分けはかなり厳格だったようなんだけど、 【お給仕のしかたがまた問題で、誰が給仕に出るということまできまっていて、女中に それぞれ順番がありました。(中略)女中のことを考えてみますと、(中略)それぞれ 係りがあって、燭台を磨いたり、行灯をつけたり、あかりの係りだけも上下で数人、 洗たくのもの、お客様のお茶係り、その他女中たちの数からしても、人間が多かったように 思います。】こうしたことについては、みね自身、なにぶん子供の時の記憶であり、よそ様の旗本がどうだったかは知りませんが、と断っており、わたくしもみね同様、他家と比較する材料を持っていないのでどこまでが旗本のスタンダードなのかはわからないものの、おそらく同じ年収の旗本の家の娘はみねほどのお姫様育ちはしなかったんじゃないかと思う。とにかく年収と格が見合っていなかったことは確かで、それが桂川家にひとつの悲劇をもたらすことになるんだけど、その話は少し置いといて、みねが語る桂川家の実情をいくつか拾ってみると、 【食物は前申しましたとおり、旗本屋敷だなどいっても、まことに簡単でお粗末でした。 まあおからだのお豆腐だの八杯酢だので、お肴といったらひものか鮭をよく使ったようです。 ごまみそ、てっかみそなどもありました。平生は精々二種ぐらいのもので、江戸に生まれても 浅草のりの香などそのころはあまり覚えがありません。私は一人娘も同様でしたのに そんな風でした。】 といい、 【それにいただきものは少なくって、いわば位まけがしていた桂川のことですから。】と言っている。7代・甫周の父の代でもかなり家計が苦しかったことを前々回紹介してますが、甫周の代になってもそれは続いていたようで、ビンボーなくせに奥医師としての対面は保たなければならない、プラス洋学を志す若者たちが多く出入りする。ので、 【朝などあんまり大勢で、おみおつけの実がなくなり「桂川の山吹汁」・・・ みの一つだになきぞ悲しきは当時有名だったようです。】という。山吹のエピソードをご存じの方も多いでしょうし、それゆえにあえて太田道灌さんのところでは書かなかったのですが、補足としていちおう書いておきますと、ある時道灌さんが父の所へ行く途中で突然雨に降られた。「うわっ、スゲー雨!あ、あそこの農家でミノを借りようっとごめんくださ~い、ちょっと雨に難儀してるんで、ミノ貸してくださ~い」農家から出てきた娘は黙って一輪の山吹の花を差し出すだけだった。「え、いや、花じゃなくてミノを・・・あ~もう、わかりました!どうもお邪魔さま!!」と怒ってその場を立ち去った。あとで家臣にその話をすると、「ははあ・・・で、殿はその意味がわからなかったというワケですな?それは娘ごに可哀想なことをしましたな。後拾遺和歌集にこんな歌があります。 七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき娘の家は貧しくて、ミノ(実の)一つもないということを奥ゆかしい方法で殿にお伝えしたのですよ」そんなこともわからなかった道灌さんは恥じて、それ以後古歌も勉強して立派な歌人となったというお話。このエピソードにかけて、「実のひとつだになき」味噌汁を桂川家では山吹汁と呼んだというワケですな。にほんブログ村
2016年03月22日

引き続きカネのお話。女たちが妍を競い綺羅を飾る大奥で、すべての女中が衣裳代や交際費に追われ汲々と暮らしていたかというとそういう訳でもない。 【奥女中は、蓄財にたいへん長けていた。千両ぐらいは普通で、七千両という 事例もあった。現代で言うと、数億円のレベル。最低でも百両を下らない。】 (『江戸城・大奥の秘密』より)元祖・大奥の女たちともいうべきイエアスの側室たちも、かなりヘソくっていたらしい。 【慶長12年(1607)12月、駿府大火の折、側室たちが、せっせと貯めた 金を焼失したと『当代記』にある。金額は阿茶の局が金30枚、お亀の方は 1500枚、茶阿の局、お万の方(蔭山。頼房の母)は300枚または500枚を 焼いた。】 (『考証[大奥]』稲垣史生/ グーテンベルク21より) イエアスが晴れて天下人になったといってもそれまでは色々苦労したし、幕府を開くところまでこぎつけてもこの先どうなるかはわからない。寛永寺シリーズでお梶の小袖の話を紹介してますが、おそらくお梶に限らず他の側室たちもイエアスにならってケチケチ生活を送りながら「せっせと貯めた」のだろう。稲垣氏はイエアスの側室たちを 【何かみみっちくて天下人の思われ者らしくない。】 (前掲書より)と失礼な言い方をしているものの、イエアスと時代の影響によるものだから無理からぬことだと思う。しかし、後代の奥女中たちのヘソクリは全く質が違う。よく時代劇などで、無役の御家人が有力者に付け届をして猟官運動をする姿が描かれるけど、そういう類のお願い事は大奥へも向けられた。それでも、稲垣氏によると前時代からあった就活のための付け届はワイロや汚職といったものとはまた別なものだそうで、大奥へ流れるカネの質が変わり始めたのは6代・家宣の頃だという。公家風にハマった家宣が諸事を公家風に改めたあたりを「(15)」で少し書いてますが、家宣が大奥改正のほか雅楽を奨励するなどしたため、各方面で公家風の衣裳を新調する必要が出て、それまでの官民の衣裳調達係だけではとても間に合わなくなった。そこで新たな業者を開拓することになったが、何しろ幕府が相手の商売でしかも贅沢品がおもな取引対象ということになれば、業者としてもおいしい商売になる。ので業者間の争いも激しくなり、カネだけではなく芝居や料理で歓待するといったオプションを付けてあの手この手で勝者になろうとする。選ぶ側としても、おいしいオマケを付けてくれる業者を選びたくなる。まさに「ワイロ」そのものだけど、そうやって取り入ろうとするのは何も商人だけではなく、利権が絡む者達・・・たとえば寺社やコエビ業者など色々いただろう。そういう方面から入ってくるカネが、「最低でも百両」は下らない後代の奥女中たちのヘソクリの重要な財源となっていた。なぜ、大奥がターゲットになるのか。それは、大奥の基本的存在意義にある。大奥の記事の最初の方で書いたけど、大奥とは将軍と御台所の生活空間。将軍は中奥にも御座所を持っていたが、 【原則として、将軍の側近や身の回りの世話をする御小姓や御小納戸役、あるいは 奥医師ぐらいしか中に入ることはできなかった。幕府の閣僚である老中でさえ、 将軍の許可なくして中奥には入れなかった。】 (『江戸城・大奥の秘密』より)中奥が老中でさえ気軽に入れない空間だとはちょっとオドロキでしたが、江戸も中期頃からは側用人が力を持つなどしていったこともあって、将軍はどんどん「雲の上の人」になり、老中筆頭であっても将軍と直接言葉を交わしたことのない人もいたという。それに対して、大奥では女中たちが将軍の側近く仕えて身の回りの世話をする。もちろん、奥女中が誰でも将軍の側に行かれた訳でもないけど、国政を預かる老中でも簡単に言葉を交わすことのできない将軍と、老中よりも身分の低い奥女中が親しく話せる場合もある。 【とりなしができるということは、将軍と込み入った会話ができるということ。】 (『大奥のおきて』より)が、とりなしだけならまだいいけど、場合によっては大奥による政治への介入もあった。大奥の高級女中に「これは将軍様の御意向ですのよ」なんて言われても、大奥に入れない男性役人にはそれが本当のことなのかどうか確かめるすべはない。世の男性陣が入れない将軍のプライベート空間を握る大奥は、利権を狙う者にとって是非とも味方につけたい相手だった。しかし、大奥による介入は政治の混乱や腐敗を招く。そこで、幕府ではワイロだの口ききだの介入だのを禁止するお達しを幾度となく出すことになる。徳川吉宗の母・お紋は身分の低い女性で、大昔の大河ドラマ『八代将軍吉宗』では山田邦子が演じて、素朴な女性だという印象をわたくしは持ってますが、ある時、お紋に長く仕えた女性の息子が老中ににらまれて紀州で蟄居の身となった。近しい人間の不遇に同情したお紋は、自分の息子に罪の軽減を頼んでみた。しかし、頼まれた吉宗は 【天下の政治は重大ゆえ、婦人のことばに左右されたくない。今後とも 表向のことはお控あるよう。】 (『考証[大奥]』より)ときっぱり断ったそうな。お紋はおそらく金で動いた訳じゃないと思うけど、それでも実の息子に願いを却下された。まして金によって奥女中たちが親類縁者や町方の各種業者の口ききをするなど、言語道断。6代家宣の代で最初に口ききの禁止令が出た時、当然大奥からはブーイングが出た。それで奥女中たちは意趣返しのために表役人の落ち度を探し始めたといい、ある誤認裁判を見つけて敗者を逆転勝訴させて表役人にカウンターをくらわせてやったという。 【表役人が大奥の機嫌をとらねば、いつ足をすくわれるかも知れない。大奥との 緊密な連絡を保ち、顔色をうかがうようになったのは、この時からである。】 (前掲書より)それでも、時には骨太の政治家が出て再び禁止令を出すといったことが繰り返され、表向と大奥とのいたちごっこは続けられた。安藤氏によると、ある時表向の高級役人が知り合いの御年寄に対して大奥の贅沢な暮らしぶりに苦言を呈したことがあったそうな。言われた御年寄は「まあ、オホホホ・・・何を言うかと思ったら、オホホ、あらおかしい。考えてもみてくださいな。贅沢をするには先立つものがいりますでしょ。いくら奥女中がゼイタクしたいと思ったところで、お金がなかったらどうにもなるもんじゃありません。わたくし達が望みもしないワイロを、表の役人やその家臣たちがせっせと運んでくるものですから、しぜん贅沢になっていくのですよ。つまり贅沢の源は表にあって、奥での贅沢はその支流に過ぎません。表をたださずに奥にばかりお小言を言うのは、油を注いで火を消そうとするようなもので、まったく意味のないことじゃございません?」と笑いながら言うので、返された方もただ苦笑するしかなかった、とな。実にふてぶてしいけど、さすがに大奥を差配する御年寄、とも思うし、大奥の力とすごみを象徴するエピソードだとも思う。現代でも政治改革には経済的項目が盛り込まれるけど、江戸期も同じで、大所帯でぜいたくな暮らしをする大奥は幕府財政の大きな負担だった。ワイロというおいしい副収入があるとはいえ、正規の運用費は幕府の負担。経済改革をするには、どうしても大奥の経費削減は外せない。たとえば、草履。大奥では御年寄は上履きを履いていたそうで、奥女中最下級の御末でさえ御殿向へ出勤する際に履く草履の草履取りを雇っていたんだと。つまり奥女中にとって上履きは職務上の必需品だったようなんだけど、その消費の仕方がハンパない。 【彼女たち(御年寄:ジジイ註)が御台所の居間に参上する時には、新しい草履を 用いることになっていたが、一度履いたら、二度と履かないのが慣例であり、 上草履だけで、毎日数百は必要だった。居間に行くたびに、新しい草履に 履き替えたのである。】 (『江戸城・大奥の秘密』より)幕末の御年寄の定員は6人だったかな。その程度の人数で1日に数百の草履が必要ってどんだけ・・・寛政の改革を行った松平定信は、これを1日に1足(笑)にカットしようとしたが、大奥の猛反発をくらってあえなく断念したという。草履の話はほんの一例で、エコとはほど遠い巨大な金喰い虫である大奥へ手を入れようとすると、いつも猛反発をくらって思うように改革が進まなかったという。と、ここまでカネと権力の話を書きましたが、大奥はいつだって悪者だったという訳じゃない。方向性によっては、善男善女から感謝されることもあった。前回、奥医師・桂川家のことを少し書きましたが、桂川初代の甫筑(ほちく)は伊豆諸島の御蔵島(みくらしま)で神として祀られているそうな。数ある大奥のスキャンダルの中でも、絵島・生島の事件(1714)はかなり有名ですが、御年寄・絵島と歌舞伎役者・生島の間を取り持ったという罪で奥医師の奥山交竹院は御蔵島に配流となった。櫛の原料といえばツゲが有名ですが、御蔵島はツゲの産地として知られており、江戸期にツゲの櫛の人気が出てからはツゲを輸出して島の財源としていたそうな。ところが、奥山交竹院が流された頃は三宅島が御蔵島のツゲを伐採して搾取していたそうで、苦境にあえぐ御蔵島では島の神主であり実力者である加藤蔵人らが中心となって独立運動に燃えていた時期だった。それを知った奥山交竹院は、元同僚の桂川甫筑に島の現状を訴えて助勢を依頼する。甫筑の願いはすぐには通らなかったらしいが、老中に熱心に嘆願した結果、御蔵島は三宅島からの独立を果たし、幕府の直轄となったそうな。それで、独立運動の功労者である加藤蔵人・奥山交竹院とともに桂川甫筑も島の神社に祀られ、今でもその三者を祀る社が残っているらしい。前回書いた奥女中・桂川てやの姪にあたる今泉みねは晩年、『名ごりの夢』という回想録を残している。みねによると、独立した御蔵島の島人は桂川家への感謝の念をずっと持ち続け、島では手に入らない物の買い出しに島人が年に1度ほど江戸へやって来るたび、桂川家へ寄ってシイタケや薪やその他の島みやげを大量に置いていったそうな。それは維新後に桂川家が幕臣でなくなって引っ越しても続けられたそうで、島人が桂川家へ納めたシイタケは島にある桂川大明神の境内の木に生えたもの、また薪の方は境内の木を手入れして薪に仕立てたものだというから何とも心温まるエピソードでございます。江戸で奔走した甫筑が具体的にどういう行動を起こしたのか詳しいことはわからないものの、奥医師という立場での人脈を活かし、大奥のバックアップも得ただろうと安藤氏は語る。力の格差が歴然としていた時代、大奥の力がいい方へ働いたケースもあったというお話です。にほんブログ村
2016年03月17日

ここまで、大奥を支え運営する女性役人について紹介してきました。大奥の御殿女中を「役人」と表現して書く歴史ファンはあまりいないと思いますが、大奥には役人以外の女性達も住んでいたので、あえてこういう表記をしています。役人とそれ以外とはどういう意味か?ここまで紹介してきた女中たちは、幕府に採用されて幕府から給料をもらっている。だから役人。幕府に採用されていない女性がなんで大奥に住んでいるのか・・・それは、女中たちのプライベートな生活にあります。 上の図は大奥の構成をごく簡単に描いたものですが、これまでのおさらいも兼ねますと、黄色の広敷向が男性役人の職場。紫が御殿向で、「将軍」「御台」とあるところが将軍様と御台ちゃまのそれぞれのお部屋。御台ちゃまのお部屋を職場とする高級女中もいるけど、身辺のお世話以外の大奥の運営に携わる女中たちの職場が「御殿向」の文字の周辺あたりの部屋。そして、ブルーの長局向が奥女中たちの生活空間。長局に青のラインを入れてますが、これは大きな廊下でこれを通って長局にある自分の部屋から御殿向の各自の詰所まで「出勤」していた。長局から右手に廊下が延びているのは、時代によっては4棟などという長局が右の奥の方へずらっと並んでいたからです。長局が複数棟ある場合、御殿向に近い方から「一の側」「二の側」という風に呼ばれ、ランクの高い女中ほど御殿向に近い長局に住んでいたようです。長局では、自炊。その奥女中の生活を支える女中たちが長局に住んでおり、「又者」とか「部屋方」などと呼ばれる。歴史ファンには「陪臣」と言った方が理解が早いでしょうが、要するに女中たちが自分で召使を雇って部屋に住まわせて自分の世話をさせていた訳です。部屋方の雇い主は御殿女中で、職場は長局。幕府に雇われている訳ではないので、部屋方は大奥の公的な場所である御殿向などへ行くことはできない。長局では御殿女中たちは個人個人の部屋を持てた訳ではなく、ランクの高い御殿女中を除いては相部屋。たとえば一番下の御末などは20畳ほどの部屋に3~5人が住んでいたそうな。部屋方は御殿女中の使用人だから、主人の衣裳を整えたりご飯を作ったり生活上のこまごまとした雑用をしたり。長局での御殿女中の生活はそれぞれ独立していたので、ゆえにご飯を自分達で用意する必要があった。もちろん部屋方も住み込み。一の側にある高級女中たちの住まいとなると他の女中との相部屋ではなく、しかも1人部屋といってもワンルームではない。御年寄クラスなら自分用のスペースとして6部屋、部屋方用に4部屋あり、さらに炊事場・トイレ・物置などが付く。御年寄ぐらいになると、部屋方は20人ほどもいたそうでね。ちなみに、トイレは女主人と下女では別のものを使った。長局は2階建てで、1階は御殿女中とその部屋方の部屋で、2階には居候的身分の者が住む。広くて結構なお住まいのようでもあるけど、2階での火の取扱は一切認められず、暖房はもとより照明のためや線香などの火さえ使えなかったそうな。2階に住む「居候的身分」ですが、これには色々いる。前々回「世話親」が出てきましたが、部屋の女主人を世話親とする「世話子」は世話親の部屋で一緒に住んでいたらしい。世話子はおもに町人や農民などパンピーの娘が対象だったようなんだけど、本来御目見得以下の女中にしかなれない身分でも、「引き」の強い世話親の下で行儀見習いをしてモノになりそうであれば御目見得以上の女中になることも可能だったそうな。ただし、その場合はそれ相応のカネがいる。それから、御殿女中が親類縁者の娘を預かって仕込む「部屋子」というのもいて、まあ部屋の女主人の格によってひと固まりの集団の規模にはかなりバラつきがあっただろうけど、長局はもちろん女性だけのエリアなのでここまでは女性。が、1人の女主人を頂点とする小グループには実は男性も含まれていた。それが「五菜」(ゴサイ)と呼ばれる下男で、女性陣は好き勝手に大奥を出入りできないので、女性陣に代わって外で買い物をしたり手紙を届けたりする役目だったらしい。「(17)」の給料のところで出てきた「五菜銀」はこのゴサイを雇うためのお手当で、ゴサイを雇えるのは高級女中に限られるものの、御年寄なら3人、御中臈なら1人まで雇うことができたという。上の図で玄関の右に長局へ延びる廊下がありますが、ここの出入口が「七ツ口」でゴサイはそこまでは出入りできたんだそうな。以上、役人系と部屋方系をざっと紹介してきましたが、大奥にはもう一種類の人種が生息している。よく「員外」と言われるので役人系と部屋方系のどちらに所属するのかわからないんだけど、「御犬子供」(おいぬこども)と呼ばれる女性たちがいた。これは雑役をこなす下女で、大奥の残り物を食べていたことから御犬なんて名称が付いたとも言うんだけど、なぜ員外なのかといえば給料がないんだそうな。だいたい15・6~20歳前半ぐらいまでの若い女性だったらしいが、貴人の側近く仕える華やかな大奥で給金ナシの残飯処理係だなんて、一体どういう身分の娘たちがどういうルートで大奥に就職してどう大奥を退職していくのか、はなはだ興味深いところではある。さてと、今度はカネの話をば。女中の給料はランクによってだいぶ違ってはいたけど、世間と比較すれば女性の収入としてはかなりいい方だったんじゃないかと思う。『大奥のおきて』(由良弥生/阪急コミュニケーションズ)では、武家の娘が大奥に上がる理由をこんな風に紹介している。 【旗本や御家人の暮らし向きは、腕のいい大工より悪かったのです。腕のいい大工は 月に二十日ほど働いて一両稼ぎ、長屋の家賃を払い、食べる、飲む、着る、遊ぶという けっこうな消費生活を送っています。 旗本や御家人の娘たちは生活に不自由していました。贅沢に手の届くようなけっこうな 生活はとてもできません。つまり、彼女たちが大奥奉公へ上がることが多かったのは、 親元が貧乏だったからなのです。】ふむ、一生奉公というタテマエはあっても、三食付きの住み込みで通勤費がかかる訳でもないし、生活必需品もそれなりに幕府から支給してもらえる。給金はまずまず手許に残って、ステータスも得られる。そういう風に考えれば確かにおいしい職場かもしれないけど、果たして本当にそうだったのか?歴史家の安藤優一郎氏は、新書などの手頃なお値段と読みやすい文章で、かつ史料にもとづく豊富な話題を提供してくれる方で、過去の記事では江戸の勤番侍やコエビの話の時にお世話になりましたが、今回大奥をイチから勉強するにあたって手に入れた数冊の本の中にも氏の『江戸城・大奥の秘密』(文芸春秋)という1冊がございます。その中から、大奥に勤めた2人の女性を紹介しましょう。まずは多摩郡下師岡村の名主の娘・吉野みち。みちは身分柄、御目見得以下の女中かもしくは部屋方だったようなんだけど、大奥に勤務している間に実家へ数多くの手紙を送っているらしい。そしてその多くが金を送ってくれという内容で 【送金を求めるだけでなく、父親払いで物品を購入することも稀ではなかった。 地元多摩郡で採れた農産物を送ってくれるよう頼んでもいる。うどん粉や黒豆を、 実家からの品として上司や同僚に振る舞うわけだ。】 (前掲書より)もう1人は幕府の奥医師、桂川家の娘・てや。奥医師についてはこの後で少し紹介しようと思っていますが、収入に比べて格はかなり高く、そういう点では高家と似たようなもんだった。御台所の記事で、島津家から2人徳川将軍の嫁になった人がいると書きましたが、桂川家は島津家に出入りしており、てやは11代家斉の正室・茂姫の時の御年寄・花町からスカウトされて花町の部屋子からスタートし、その翌年には御中臈となって花町のみならず茂姫からも可愛がられた。が、スカウトされた当初はてやは気が進まなかったらしい。花町は公家の出身だったようで、島津家出身の茂姫は一旦近衛家の養女となっているので、そういう関係で花町が下向して御年寄となったようなんだけど、桂川家は島津家からも扶持を受けていたので、花町からの熱いラブコールを断り切れなかったと安藤氏は語る。大奥に上がったてやが実家の父にあてて書いた手紙が残っているそうで、その頃の桂川家の家計は大変に苦しく、そのうえ父の甫賢(ほけん)は実入りのいい大名家への往診を好まず、欠勤も多かった。吉野みちの実家は裕福だったようだけど、部屋方であれ給料はもらえるのだから経済的に自立していたと言えそうなもんなのに、父親のツケで買い物をしたり金やモノを送ってくれとせがんでいる。結局のところ、大奥というのは女性の最高機関である訳だから、大奥で生活する上で大変に金がかかったらしい。役人の最下級である御末でさえ、衣裳代という名目の給金は出る。しかし、女性たちが集う大奥では衣裳代だけでもかなりの金がかかり、とても給金だけじゃやっていけない。その上、同僚への贈り物だの、宿下がりから戻った時のおみやげだのの交際費がかかり、寺への参詣が多かった奥女中は周囲と同じ金額のお布施を用意する必要もある。これは男性でも似たようなもんで、奥医師は将軍の診察をするお役目だから、その格に見合った服装なども必要になってくる。ところが、桂川家では屋敷の修繕などで費用がかさみ、当主の甫賢は高収入のアルバイトである大名家への往診もしたがらない。ので家計は苦しいままで、登城するための立派な衣服も用意できない。そこで甫賢は金策に走る必要があり、そのために奥医師の職務も休みがちになる。でも金策のために休むなんて体面上言えない。奥医師と大奥とはごく近しい関係にあったから、父がそんな勤務状況だとてやまで同僚から色々言われて立場が苦しくなる。それで、気に入らなくても往診をして家計を助けてくれるように、そうすれば欠勤しなくても良くなるんだし・・・という切々たる手紙を父に送っている。てやは12歳で大奥に上がり、13歳で御中臈に昇進している。年の割にかなりの高収入になる訳だけど、大奥での生活では結構な金がかかったから、やはりてや自身の給料だけではやっていけなかったらしい。吉野みちのように実家が裕福であれば、実家に頼ることもできる。が、苦しい状況の桂川家にはそんな余裕はない。そもそも、てやが大奥へ上がることをためらったのはそうやって実家に頼って出費がかさむことを強く懸念したからだという。つまりは 【実家が裕福でなければ、江戸城にせよ、大名屋敷にせよ、奥奉公することなど 到底できなかった。】 (前掲書より)と安藤氏は言う。吉野みちは異常に見栄っ張りだったんじゃないの?という見方もできる。でも出自からしてみちが下っぱだったとは言えるだろうし、いくら金持ちでも分を越えた大盤振る舞いは逆に周囲の反感を買うだろう。だから、わたくしも安藤氏のお説の方が妥当だと思うんだけどね。にほんブログ村
2016年03月14日

続いて、御目見得以下の奥女中。(14)御広座敷(おひろざしき)(7)の表使の下働きという立場で、ものによっては御目見得以上の役職という説明もある。広敷向と女性エリアを分ける出入口は2箇所あり、(10)の御切手書の所で書いた「七ツ口」は長局への出入口で、御殿向との境には「御錠口」という出入口があった。広敷向から御錠口を入ってすぐの場所には「御広座敷」という部屋があり、老中などの表役人が御年寄と対面したり、御年寄が女中に採用を言い渡したりということに使われた部屋のようだけど、そこに詰めて表使の指示を受けて訪問客への応接の手伝いをした。また、諸大名家の女使が来訪した時に御膳を整えたりした。(15)御三之間(おさんのま)御広座敷とどっちが立場が上なのかよくわからんのだけど、給料は御広敷と同じ。この役職の守備範囲は広く、まず「三之間」という部屋以上の部屋の掃除。御台ちゃまのお風呂のお湯を担いで運び、湯加減を整える。火鉢や煙草盆などを小姓に渡す。御年寄・御客応答・御中臈などの高級女中の用事をこなす。(9)の御次とともに、イベント時には盛り上げ要員として活躍した。役職としては御目見得以下だけど、旗本の娘が奉公に上がるとまず御三之間からスタートしたという。御台ちゃまのスケジュールのところでは書きませんでしたが、御台ちゃまがお目覚めになると各部屋にそのことが通達される。もちろん、館内放送設備なんてものはないので、御三之間が「六ツ半どき(午前7時)お目覚め、おめでとうございます」と言いながら触れ回ったんだそうな。余談ですが、「御台様、御病気御大切」という知らせが大奥へアナウンスされると(御三之間が触れ回ったのかは不明)、御台ちゃまはすでにこの世の人ではない。通達から3日後に公式発表がなされ、『図説 大奥の世界』によると 【死去から五日ほど経って、遺骸に白装束を着せて髪をおすべらかしに結い、曲禄 (きょくろく)と呼ばれる椅子に腰掛けさせて、将軍との水盃の式が行われる。 その後、柩に遺骸を座らせ、腰から下は抹香、上には朱を詰めた。】というから、埋葬前の遺骸の各始末は大体将軍様と同じってことだな(「上野第二編(53)」参照)。ただ、すでに硬直が始まっている遺骸をどうやって座らせたのかが相変わらず気になるところだけど。まあ、死の直後だったら脳からの指令がすべて失われてぐにゃりとしてとても座らせるどころではないとは思うけどね。曲禄というのは、もとは貴人の座る椅子という意味だったそうなんだけど、現在でも寺などで使われている。寺で行われる各種の法要の際にも使われるし、禅宗などに多い高僧の等身大の木像が腰掛けているのも曲禄。御台ちゃまももちろん、平川門から出て将軍家菩提寺である寛永寺か増上寺で葬儀が行われ、葬られる。(16)御仲居(おなかい)御膳所で献立にもとづいてすべての煮炊きを担当する。ほかの役職の場合、必ずしも職務上必要とされる技能を採用時に求められたという訳でもないようなんだけど、御仲居の採用にあたっては技能試験があったそうな。わたくしが読んだところでは、手の平に乗せた豆腐を同じ大きさにそろえて切ったり、大根の千切りをしたりといった試験科目があったんだという。とはいっても、これも一種の儀式みたいなもんだったともいうので、よほどのぶきっちょさんでなければ採用された後にOJTでウデを磨いていったのだろう。料理担当らしく、「お鯛」「お蛸」というように御仲居は魚にちなんだ愛称で呼ばれたというから面白い。(17)火之番(ひのばん)これも役名のまんまの役割で、昼夜を問わず大奥内をパトロールして火の用心に努める。江戸城内では大小あわせてさまざまな規模の火事があり、火災による死者も出ている。いかに豪華とはいえ、城内の御殿は木造平屋建てでしかも規模が大きいので、一旦御殿から火が出れば大事になる。ゆえに火の取り扱いには神経を使い、同じような役職は大奥だけでなく表向・中奥、それから二の丸や西の丸といった各御殿にそれぞれ設置されていた。大奥火之番の主な役職は火の取り締まりだが、希望すれば遊芸のお稽古をすることもできた。芸が上達すれば、御次・御三之間と共に大奥内でのイベントに演者として参加する道もあった。ところで、芸事といっても色々あるけど、少なくとも江戸後半の大奥では初期の頃の武家風よりは公家風に転換していただろうから、「女性のたしなみ」といわれて現代の私達が思い浮かべるお茶やお華、歌舞音曲のほか、学識や儀礼作法などの教養も求められる。たとえばお茶会が開かれる時は当番が各部屋に華を生けて回ったというし、歌会や能・狂言も開かれた。ここでいう能や狂言というのは、劇団を招いて大奥内で興業をさせたという意味ではなく、奥女中による興業をさす。身分の壁があるから、上から下まですべての女性役人が幅広い諸芸を求められた訳でもないけど、旗本出身の女中であれば昇進するにはより高い各種教養を身につけることは必須だろう。昇進に限度のある女中でも、芸術的センスがあってその方面で上達すれば何もしないよりは昇進のチャンスがある。あと、昇進に関わったかはわからないけど、大奥では武家らしく長刀の鍛錬も行われた。広敷役人にも警固役という側面はあったけど、大奥の女性エリアへ入ることのできる男性役人は限られていたし、入ることのできる男性役人もイベントの時だとか一時的なものに限られていたので、女性警固団を作る必要があったのかもしれない。なんでも、大奥内に道場が設けられて長刀のお稽古をしたらしいんだけど、柄が長くて簡単に扱えるものでもなく、うっかりすると柄が着物の袖に入ってしまって危ないので真剣そのもので練習に励んだという。御三之間や火之番などが訓練したというから、武芸の鍛錬に励んだのは御目見得以下の女中が中心だったのかもしれないな。(18)御茶之間(おちゃのま) 御台ちゃまのお食事中に湯茶を整えて差し上げるお役。(19)御使番(おつかいばん) (7)の表使の下につき、広敷向との間にある御錠口の開閉を管理してヒトやモノの出入りを監視したほか、外部との取り次ぎを担当。 (20)御末(おすえ) 「御半下」(おはした)ともいう。 奥女中の最下級に位置し、あらゆる雑用をこなす。代参のお伴もした。御三家や御三卿の正室が大奥へ入る時も広敷向の玄関を使ったようで、その時は御末が御広敷から御三之間まで駕籠を担いだ。水汲みなどの下働きらしい仕事も職務に含まれていたので、力のある者が選ばれたといい、毎日駕籠を担ぐ練習をしたんだそうな。 と、ここまでが御目見得以下の女中の職務内容で、それぞれに違いはあっても「下女」と呼ぶのがふさわしいような役どころ。でもここまでは女性役人なのだ。下っぱであろうとも将軍様や御台ちゃまのお側近く仕えるのだから、基本的には武家の娘が奉公に上がるというタテマエがあるものの、町方の出身でも大奥で働くことはできた。しかし、「奥女中募集!!憧れの大奥で、貴女も働いてみませんか?初心者歓迎、高級優遇いたします。さらに、強運の持ち主なら将軍御生母という大昇進も可能お問い合わせは江戸城広敷向事務局まで」な~んてチラシが世間に出まわるハズもない。自分から応募する場合、まずは「宿元」という身元保証人を立ててコネを使って大奥へ入る。宿元が御目見得以下の身分であれば、大奥での身分は御目見得以下にとどまる。が、御目見得以上の女中を目指す抜け道があって、御目見得以上の旗本などの養女になってコネを使えば、御目見得以上の女中になることも可能だった。もちろん、町民や農家の娘がタダで有力者の養女になれるハズもなく、上を目指そうとするほどカネはかかる。江戸も後期になって町方の経済力が強くなってくると、礼金を目当てに旗本や御家人の方から養子縁組を持ちかけるケースもあったそうな。養女にした娘が大奥で出世すれば、養父にも利益が還元される。その最も有名な例が、最近人気ドラマ『大奥』で沢尻エリカが演じたお美代の方(11代将軍・家斉の側室)で、この人はなんと日蓮宗僧侶・日啓の娘だった。実の両親の元ではなく、町人に育てられたお美代はやがて美しく成長し、中野清茂という小納戸役300俵取りの旗本の家に奉公に上がる。お美代の才知に期待した中野清茂は、お美代を自分の養女として大奥へ上がらせる。するとたちまち将軍のお手がついて側室となり、清茂は300石取りの小納戸頭へ昇進、さらに300石を加増されてついには2000石の新番頭にまで昇り、お美代のバックアップもあって将軍の信任を受け、絶大な権勢を誇った。ついでに言うと、お美代の実父・日啓が住職を務める中山法華経寺の子院・智泉院は将軍家御祈祷取扱という栄誉をゲットしている。ま、そんな大チャンスをつかめるのはほんの一握りだったものの、大奥で奉公すれば本人の華々しい経歴ともなるし、退職して嫁に行く段にはそのステータスが有利な条件ともなる。また、裕福な商家に生まれてお嬢様として育った娘には、嫁入り前に貴人のもとで行儀見習いをさせ、わがままいっぱいに育った性格に我慢することを覚えさせるという目的もあったともいう。身分の低い者にとっては、大奥での大出世を目指すという見果てぬ夢よりも、嫁入りに有利となる経歴を身につけるという現実的で堅実な目的を持って大奥入りを目指したケースの方が多いのかもしれない。なにしろ、女性役人の最下級である御末でさえ、一歩城の外に出れば「御殿女中」。町人や農民の娘が武家の家に奉公に上がるというだけでもハクが付いたのに、将軍様や御台ちゃまのお側近く仕える江戸城大奥での勤務というのは、当時のパンピーの女性にとっては最高のステータスとなって本人や親兄弟も鼻高々だっただろう。大奥へ奉公するルートとしてはまだ他にもありますが、それはこの後で紹介します。にほんブログ村
2016年03月12日

奥女中の職制の続き。給料の高い順に紹介していきます。(3)御客応答(おきゃくあしらい)名前の通りの接待役で、将軍様が大奥へお渡りになられた時の接待や御三家・御三卿などの家門からやって来る女性たちの接待役も務めた。この役は一般に御年寄を務めた者が老いて一線を退いたあとに志願して役に就く、隠居役みたいなもんだという説明が多いけど、その一方で御年寄になるための通過点ともされる。大奥の実務における実権はあまりなかったとされるものの、さりとて高貴な方々のお相手をすることもある訳だからペーペーには務まらないだろう。給料も多いし。(4)中年寄(ちゅうどしより)御年寄の下につき、御年寄をサポートする。御年寄が病気の時などはその代理も務め、御年寄が代参の時はお伴もした。また、献立を指揮するのはこの人で、毒見も務めた。(5)御中臈(おちゅうろう)お側について身の回りのお世話をする係で、将軍付きと御台所付きに分かれていた。実際に細々と立ち働く女中の中では御中臈が花形的役目って言えるんじゃないかと思う。側室については各職制のあとで書きますが、一般に御中臈の中から側室が選ばれた。運が強ければ場外大ホームランをかませることのできる立場でもある。時代によっては中年寄と同じ給料の時もあった。 (6)御錠口(おじょうぐち)これもその名の通り、中奥と大奥を結ぶ大奥側の出入口を管理するお役目で、交代で24時間詰めて人の出入りを監視した。表向から大奥にいる将軍様や御台ちゃまへ御用の向きが伝えられた時は、その使いを詰所に待たせたままで将軍様や御台ちゃまへ直接要件を伝え、伝言を承って使いに伝えるという役目も果たした。中奥と大奥を結ぶ「御鈴廊下」は上下の2本あり、ドラマなどで将軍様がお通りになるのは上御鈴廊下。下御鈴廊下は一般的には明暦の大火後に非常用として設けられ、普段使われることはないという説明が多いと思うけど、設置の年代ももっと後の時代だという説もあり、使われないどころか将軍様が生母に会いに行く時は下御鈴廊下を通り、中奥で作られた料理を大奥にいる将軍様に届ける時もこちらのお廊下を通ったという。そのほか、御台ちゃまのお部屋に時刻を知らせる仕事もあった。大奥には色んな立場や身分の女性たちが住んでいたが、御錠口までが「一生奉公」。んにゃ、建前上は奥女中はみな一生奉公のようなんだけど、実際には大奥を「卒業」することができた女中もいるし、下級女中は休暇(宿下がり)ももらえた。しかし、上級の女中になると休暇はナシ、宿下がりも親が死んだなどの重大事以外は職場から出られない。「休みがないとか、ホント勘弁して!」ってカンジだけど、まあお福(春日局)が毎日の勤務じゃ疲れるだろうと1日おきにあらためたそうな。ただ、職場のすぐ近くの社宅に住んでたようなもんだから、場合によっては非番の日に出ざるを得なかったことなんかもあったりしたのかな、って気もする。それから、8代将軍・吉宗は宿下がりがないことをかわいそうだと思ったのか、宿下がりのない高級女中たちに対してはこんな取り決めをしている。 祖母・母・娘・姉妹・おば・姪の親族の女性たち、および男子は9歳までの 子・兄弟・甥・孫に限り大奥へ呼び寄せてもよい。大奥へ泊めねばならない 理由がある時は、御年寄に願い出て御留守居役へ届け出た上で、2晩に限って 泊めることができる。だから、血の近い女性や生殖能力の低い男児に限っては、会おうと思えば会うことはできたらしい。(7)表使(おもてづかい)「大奥の外交官」と呼ばれるのがこのお役目。御年寄の下につき、諸大名の奥向や大奥の広敷役人との交渉を担当。御台ちゃまあてに表向から広敷向に要件が伝えられた時は、それを取り次ぐ。御年寄や御中臈などの上位の女中に随行して代参に行くこともあった。また、買い物リストを作成し、広敷役人と交渉して必要な品を整えた。奥女中は必要なものを外に買い出しに行くことはなかったのでね。必要なものといっても、自分たちで使うものだけではなく贈答品や女中への下賜品など色々ある。奥へ出入りする御用商人から直接個人の買い物をすることもあったでしょうけど、公的なものであれば外部の業者から広敷向へ請求書が届けられ、表の勘定方に回されてチェックを受けたあとで勘定方から業者へ支払われるというシステムだったらしい。外部との交渉を担当する結構重要なお役目なためか、御年寄と同じく表使にも拝領町屋敷が与えられて優遇されていた。(8)御右筆(ごゆうひつ)日記・書状類の公文書担当。諸大名などからの進物のチェックもし、大奥から書状とあわせて進物を贈る際には御年寄と相談して品を決めた。代参の際には随行もした。(9)御次(おつぎ)仏具や御膳などのお道具類を管理し、運搬をするお役目。また、奥女中の応接所である対面所の掃除もする。大奥の大掃除(煤払:すすはらい)は12月1日から始められ、12日まで続けられた。大掃除の中心となるのが御次とあとで紹介する御三之間(おさんのま)の女中たちで、1日交代で20人ずつが長局の身分の低い女中部屋からスタートし、ゴールが御台ちゃまのお部屋。お掃除が終わるとそばや反物・手ぬぐいなどが下賜され、翌13日には大奥を統括する御留守居役が裃をつけていくつかの部屋を回り、恵方に向かって煤竹で「久」の字を書く所作をして「万々歳」と唱えて大掃除終了のお祝いをした。大奥にはさまざまな行事があり、華やかなイベントが行われた。たとえば2月の初午(はつうま)の日は城内の稲荷社の縁日で、御目見得以上の女中たちが代参をしたが、大奥には舞台がしつらえられて御次などの女中が踊りや狂言などの出し物をする。イベント盛り上げ要員でもあったため、芸達者な者が選ばれ御目見得以下の女中でも芸事に秀でていれば御次に昇進することが可能だったともいう。若い芸達者がそろう役職でもあったので、時には将軍様のお目に留まって御次から側室に昇進する者もいたそうな。(10)御切手書(おきってがき)大奥からは上下の御鈴廊下が延びていたことは御錠口で書いた通りですが、これはあくまで表側の御殿への連絡通路。大奥から直接外部に出ることができる出入口は、広敷向にある玄関の一ヶ所のみ。奥女中が外に出る時は必ずその玄関を通らなければならないが、広敷は男の職場でもあるし、女の職場とはきっちり分けて管理する必要がある。男女の持ち分の境のうち、広敷向と長局の境となるのが「七ツ口」と呼ばれる出入口で、七ツ口の管理をしたのが御切手書。奥女中の親類や御用商人が長局へ入る際、「切手」という通行証を発行して出入りする者をチェックするのが役目。ちなみに、広敷の方でも出入りする者を当然チェックしていて2重のチェックを受けることになる。宿下がりなどで奥女中が外出する際には、あらかじめ広敷役人へその旨が伝えられており、諸検査も行われた。大奥では芸事を習うために師匠を招くことなんかもあったそうでね、割合ヒトやモノの出入りがあったようなんだけど、広敷を通過する際に諸事検閲を受けたってことなんだろうな。(11)呉服之間(ごふくのま)将軍様と御台ちゃまのお衣裳の裁縫を担当。専門職なので、他の役職への異動は少ない。縫い針を扱う役目柄、針を紛失したり針の先が欠けているのが発覚するとなくした時に着ていた着物を着たまま、見つかるまで捜索しなければならない。1円でも金額が合わなければ合うまで集計する銀行の会計担当のようだとわたくしは思っておりますが、針の捜索に従事している間はごちそうが出たんだそうな。針のルールはお福が定めたものだという。(12)御伽坊主(おとぎぼうず)坊主といっても、これも女性です。坊主の名の通り、頭をマルガリータ(丸刈り)にして羽織袴の男装スタイル。大体が40~50歳ぐらいだったというから、本人の御面相によっては女と判別するのが難しかったんじゃないかなんて思っちゃいますが幅広く雑用をこなす。御伽坊主に御台ちゃま付きはおらず将軍付きのみだったが、主に御台ちゃまの御前にいて御台ちゃまから将軍様への伝言を伝えた。とはいえ、将軍様付きの女中なので御台ちゃまといえどみだりに御伽坊主を使うことはできない。将軍様の雑用もこなし、ほかの女中が基本的に大奥だけで活動するのに対し、この役だけは御用があれば中奥まで出入りできる。また、表向へ使いとしておもむくこともあった。「御伽」という名に関わる重要なお役目もあったが、それはまた後ほど。(13)御小姓(おこしょう)御中臈予備軍。だいたい7~14歳ぐらいの少女が務め、御台ちゃまの煙草やトイレなどこまごまとした身の回りのお世話をした。ここまでが御目見え以上で、旗本の娘という条件がある。30年以上勤めると退職後も一生お手当がもらえた。ところで、大奥で出世するのに必要なものはなにか。生家の家柄、生家の財力、容姿、資質、能力、時の運・・・考えられる要件は色々あるけど、一般に大奥では「一に引き、二に運、三に器量」といわれる。「引き」とはなんぞや?御年寄・御客会釈・御錠口といったレベルの高級女中たちは、「世話親」というのを務めた。新人が大奥へ上がると、誰しもこの世話親のお世話になる。その世話親の「引き」・・・すなわち、引き立てがモノを言ったそうなんだな。力のある世話親に付き、世話親に気に入られれば出世も早い。寛文の時に定められた法の中に、 すべて御台所のおためになるよう心がけよ。当座は気に入られても、 あとで支障が出るようなことがあってはいけない。という条文がある。推薦する世話親にも当然責任があるから、見かけだけ良くても怠け者だったり、機転のきかないニブチンだったり、要領だけいいような小利口な者ではのちのち支障が出る。才知がありなおかつ世話親の下で真面目に奉公に励んでこそ出世の道も開けるというものだろう。その次に運が来る。見てくれはそれより下なのだ。もちろん、顔がいいに越したことはないだろうけどね。にほんブログ村
2016年03月10日

今度は、御台ちゃまの下につく女性役人について。大奥の職制については歴史ブログなどでもよく紹介されるので、ここでは割愛しようかと思っていたのですが、1ぺん書いておくとたぶん後がラクになるので一通り紹介しておきます。「(14)」で大奥の支配体制を3つに分けて紹介しましたが、第1の御広敷(男性役人)と第3の女性役人によるシステムは、第2の御台ちゃまを頂点とする大奥本来のシステムに内包されるものの、前回・前々回で紹介したように御台ちゃまというのは御自分のことですらほっとんど御自分でなさることはしない高貴な方で、大奥の実際の運営に当たるのは男女の役人だということを切り分けておきたかったのであえて3つのシステムに分けて書きました。で、役人の中でも男女の違いは何かとゆーと、対外的な事務を取り仕切るのが男性役人で、内部の実務全般を担うのが女性役人てところでしょうか。山本博文氏は 【女性のみによってこうした役所が運営されたことは、世界でも稀なことであり、 日本の女性の高い能力をよく示している。】 (『図説 大奥の世界』河出書房新社より)と評しておられる。まあ、女が2~3人も寄ればすぐあの人がどーだとかこの人が気に入らないとかって話になって、かくいうわたくしもつい最近「も~、ホント女、めんどくせえ~~!!!」てものすごく消耗した経験がございますが、時には千人以上いたともいわれる大奥で、好奇の目で見られてドラマなどの格好の題材になるような女同士の大なり小なりの数々のバトルはあったかもしれないにせよ、めんどくさい女達がわんさと集う大奥がほぼ最初から最後まで女性のみで内部運営を任されていたという史実は、山本氏の言われるようにもっと評価されてもいいような気もします。江戸城大奥じゃないですが、イエアス在世中のエピソードにこんなのがあります。 権現様が駿河におられる時、奥向の若い女中たちが集まって 「松下淨慶ってホントやな奴だよね~」 「も~、アイツほどむかつく奴いないわ!」 などと口々に言っているのを権現様がお聞きになり、年寄女中を呼んで 「なんで淨慶ってあんなに皆に嫌われてるわけ?」 「まあ、ホホホ・・・ お耳に入りましたか。 いえ、大したことはないんでございますがね、 浅漬けの香の物があまりにも塩辛いので、もう少し塩を抑えてくださいと 淨慶殿へ何度もお頼みしているのに、いまだに塩辛いものですから、 皆怒っているのでございますよ」 「ああ、なるほどね。 そりゃ~、淨慶がイカン。 皆が怒るのも無理はないよな。 じゃ、ワシからも淨慶に言っておこう」 というやり取りの後、表の間で権現様が淨慶を呼ばれ、くだんの浅漬けについて 淨慶殿に申しつけられたところ、淨慶殿は権現様のお側に這い寄って 何事かひそひそ申し上げ、権現様はそれを笑って聞いておられました。 それを見ていた近習たちが不審に思って後から淨慶殿に会い、 「あの時、権現様に何を申し上げていたんですか?」 「ハハハ・・・まあ変わったことでもないんですがね。 皆さんも大根の香の物についてのお話はお聞きになったでしょうが、 今現在、あれだけ塩辛くしても大量に食べてるんですよ。 それを、女中たちの好む塩加減にしたら、どんだけ大量の香の物が必要になるか とてもわかったもんじゃありません。 私としてはそれはできませんので、権現様は聞かなかったことになさるのが よろしいでしょう、と申し上げたのですよ」 ということでした。 この松下淨慶はその頃、台所頭だったんでしょうかねえ。今でも駿府城内に 淨慶蔵、淨慶門というのがありますよ。 (「駿河土産」より)漬物の塩加減で人の恨みを買っちゃうんですよまあ、見方によってはほほえましいエピソードだとも言えますが、陰湿で強気な女中でもいて、なおかつ上の人間が丸くおさめられなければ罷免問題にまで発展したかもしれない。ましてそれが、女だけの世界での出来事だったら・・・なので、女がうじゃうじゃいる大奥を安定して運営するのは結構大変だったんじゃないかと思いますが、ではどんな役割分担があったのか。女性役人は幕臣と同じように御目見得以上と以下に身分が分かれており、まずは御目見得以上を上から順に紹介しましょう。(1)上臈御年寄(じょうろうおとしより)奥女中のナンバーワン。たいがいは御台ちゃまがお輿入れで下向される際に一緒にお伴してきた公家の娘で、主な仕事は御台ちゃまのお相手。おしゃべりをしたり、遊びのお相手をしたり。また、御台ちゃまに大事があった時には身代わりになるという重要なお役目もあった。(2)御年寄(おとしより)「老女」とも言われ、奥女中のナンバー2。とはいっても給料は上臈御年寄と同じで、上臈御年寄が御台ちゃまにべったり寄り添ってお相手をするのに対し、御年寄は「千鳥の間」という部屋の煙草盆の前にどっかと座って女中たちを万事差配する。つまりこの方が実務上の大奥のトップで、寛永寺・増上寺の将軍家菩提寺や紅葉山に御台ちゃまの名代として代参もした。御年寄には年番と月番があったそうで、月番の時には朝は10時・・・朝の惣触が終わったあとってことだと思うけど、10時に千鳥の間に詰めて夕方4時までお仕事をした。一般に、「御年寄の権威は老中に匹敵する」という説明をよく見かけるんだけど、これはかなり誤解を招く表現じゃないかと思う。そういう風に書いてる人は、あるいは本当にそう思っているのかもしれないけど、わたくしは一国の政治を取り仕切る老中と大奥女中の最高権力者である御年寄とが同じハズがないじゃないかと思っている。後で書くつもりですが、大奥のバックアップを得ようとして豪勢な付け届けをする多くの人間は確かにいた。御年寄も時には政務に口を出したといわれる。老中が大奥の御年寄衆と面談する際、まず最初は両手を膝より下にして挨拶をするというのが慣例だったそうで、寛政の改革を行った松平定信(1759-1829)が老中首座となって初めて御年寄と対面した際、定信は膝より下に手を置かなかったので「これまでの方はみな両手を下にして挨拶してましたのに、あの方は両手を膝の上に置いてましたのよ!な~んて無礼なんざましょ!!」と大奥からクレームが付いた。それに対し定信は「ワシは老中で越中守である。その方たちは元来女中であって、我が家の召使の身分ではないか!な~んでワシが召使に手をついて挨拶せにゃならんのだ!!」と雄々しく説教したので、御年寄は二の句が継げなかったという。・・・身分的には、定信の言う通りだと思うんだよね。将軍様と御台ちゃまを除いた職制表を作れば、表向のトップは老中で大奥のトップが御年寄だから、表の老中に対応する職制だって程度だと思うんだけど。まあそうは言っても大奥の陰然たる勢力はあなどれないもので、現に定信以前の老中、それも首座という立場にある者が揃いも揃って手をついて御年寄に挨拶していた訳だから、「御年寄の権威は老中に匹敵する」という簡単な言葉で片付けてしまってもあまり問題はないのかもしれないけど。大奥の行事には、御三家をはじめ諸大名の奥向から使者が遣わされた。使者はもちろん女性で、 【祝儀・服装・贈答などが細かく定められている大奥で、諸大名の奥方・姫君たちは、 御台所を頂点とした支配体制を確認させられるのであった。】 (前掲書より)という意味合いがあったそうなんだけど、日本中の女性の中で実質的な最高の女性が御台所。大奥はその御台ちゃまの支配する女性の最高機関。その大奥の実務上のトップである御年寄は、相手がたとえ御三家・御三卿の奥方であろうとも頭を畳につけて挨拶することもなく、言葉遣いなども遠慮することはなかったという。おっとろしいの~本来は女中のくせに・・・なんて思いも頭をかすめるけど、代参のほか御目見得以下の女中に下賜する品がある時は御台ちゃまに代わって下賜したり、書状に目を通したり、日々持ちこまれる女中たちの相談に応じたりととにかく職務範囲が広く、とても並の者じゃ務まらない。そういう大変なお役目だからか、給料は上臈御年寄と同じだと最初に書きましたが、実は上臈御年寄より優遇されている。それが「拝領町屋敷」と呼ばれるもので、読んで字のごとく町中の屋敷を与えられていた。屋敷だけじゃなく、土地もセットになっている。拝領町屋敷は下級幕臣ももらえたものらしんだけど、土地には当然地価がある。御年寄が拝領した町屋敷は、地価の高い場所の屋敷だったらしい。大奥の奥女中は住み込みだから、拝領町屋敷に現役の御年寄が住む訳じゃないんだけど、地代が収入になるからね~。 文字数が中途半端になりそうなので、ついでに奥女中の給料を紹介しておきますと、内訳は色々ある。上臈御年寄と御年寄の場合、 ・切米(きりまい:年俸に相当) 50石 ・合力金(ごうりききん:衣裳代) 60両 ・扶持米(ふちまい:扶養手当) 10人扶持 ・薪 20束 ・炭 15俵 (13代・家定の頃。『江戸城・大奥の秘密』安藤優一郎/文芸春秋社より)長局での自分の生活は自炊なので、上記のほかに油や風呂の燃料となる木などの生活必需品が現物で支給され、あと「五菜銀」という銀がもらえた(五菜については後述)。これが正規の給料で、安藤氏は1千万ぐらいで500石の中級旗本クラスだろうか、としておられるものの、御年寄の場合は拝領町屋敷が上乗せされ、さらに第3の収入源がある。ので立場や時代によっても奥女中の実際の収入は相当バラつきがある訳だけど、正規の給料だけに限ってみても、同じ量のコメを支給されても金額に換算した奥女中の給料と幕臣のそれとは違いがある。何が違うのかって、コメの品質が違うらしいのだ。最上のコメは奥女中に、それ以下のコメは上位の幕臣に、最も質の劣るコメがヒラ幕臣に支給されたというから、同じ量のコメを換金しても、奥女中とヒラ幕臣では相当な差が出てくるんだそうな。にほんブログ村
2016年03月08日

さて、御台ちゃまのお食事は10人前用意される。もちろん、歴代の御台ちゃまが揃いも揃って大飯喰らいだった訳ではない。御広敷の御膳所で食事の用意が整うと、まず広敷向の役人である「御広敷番頭」と「御用達添番」の男性役人が一箸ずつ味わう。広敷役人によるお毒見です。御台ちゃまのために丹精込めて作られた豪華な、しかもできたての温かいものをまず賞味できるのでのんきな見方をすればこれも「役得」ですが、命をかけたお役目だし、もしこの後・・・特に御台ちゃまに何かあれば責任は重大なので、まあ味わうどころではなかったでしょう。しばらく2人はそのまま様子を見て、お互いに何事もないようであれば第1ダンジョンクリア。残り9人分を、今度は御殿向の御膳所へ運び、そこでも当番の中年寄が1人前消化して無事であれば、第2ダンジョンクリア。それが済んでから御台ちゃま用の華麗な食器に盛られ、控えの部屋まで運ばれる。そこから御台ちゃま付きの高級女中である御中臈(おちゅうろう)に渡され、ようやくお腹をすかせた御台ちゃまに供される。毒見にはそれなりの時間がかかるものだし、貴人のお部屋から遠い所で作られたお食事はこうした様々な前段階を経るうちにすっかり冷めてしまい、熱いものを食べたことがない諸大名などはみな猫舌だったともいわれるが、御台ちゃまのお食事の場合は御殿向の御膳所で一旦温め直されただろうと考えられているらしい。ま、こういう色々な手順があるから好きな時間に勝手に起きることは許されないんだろうな。みんなの手順が狂うからね。それで、御台ちゃまのスケジュールの方に戻りますが、2回のお毒見を経て持ちこまれるのはつごう8人前。いくら御台ちゃまとはいえ、さすがに食事まで「あ~ん」して食べさせてもらう訳ではなく、そこはご自分で箸を操ってお口へ運ぶ。お膳には魚が付いていたと前回紹介しましたが、何でも旬のものが出たという訳でもなく、脂の多いイワシやサンマなどは除外されたといい、また「コノシロ」は「この城」に通じ、「この城を食べる」ということになるのでこれも縁起が悪いとされて出されなかったそうな。天ぷらがイエアスの死因だったため江戸城では食されなかったというのは有名な話ですね。で、箸でつかんでそのまま食べられるような料理は御自分でそのまま食べたけど、焼き魚や煮魚などのちょっと手を加える必要がある料理については、介添えの高級お女中が骨を外して身をほぐしてやる。それを御台ちゃまが一箸か二箸食べると、お付きが「おかわり!」と言って新しいものに替えさせる。次のお魚が出されるとまた同じようにして、全部食べないうちにおかわりになる。んじゃ~、そうやって「わんこそば」ばりに8人分おかわりをし続けるのかといえばそうでもなく、おかわりは3回までと決まっており、しかも3度めのおかわりには手を付けないならわしだったそうな。なら、食べ途中でおかわりされた料理や、おかわり対象にならなかった料理はどこへ行くのか?これは女中たちの胃袋に収まったんだと10人分調理された食事のうち、御台ちゃまは満足に1人前のお食事をされたのか・・・そもそも、合格食材として調理に回された食材は買い付けた食材や献上された食材のうちのごくわずかなものだったから、いかに安く、あるいはタダで手に入れたものとはいえ相当ムダなことをしていたのがわかる。ま、ムダと言っても別に捨てた訳じゃなく、収まる胃袋が男女の役人にスライドしたというだけだけどね。大奥で夜を過ごさなかった日の将軍様は、御台ちゃまより少し早い時間に中奥でお1人で朝食を召し上がる。が、小姓に髪を結ってもらいながらのお食事なので、あんまり消化によろしくなかっただろう。ものの本によると、御台ちゃまもお食事をしながら髪を結ってもらったともいうけど、ここではその説は採用しないでおきます。お食事が済むと、御台ちゃまはお化粧をする。これには洗面と歯磨きも含まれ、歯はご自分で磨くが顔は女中に洗ってもらう。お化粧自体は御台ちゃまがご自分でされ、白粉をつけてお歯黒をし、紅を引いて眉を描く。お化粧の後で、髪を結ってもらう。髪型は身分と立場に応じて結えるものが決まっており、御台ちゃまの髪型のうちで最も格式が高いのが儀式の時に結う「おすべらかし」。それからお風呂に入る。御台ちゃまのご入浴は基本的に朝風呂の1回で、将軍様が奥泊まりをされて御台ちゃまがお添い寝をされる日は夕方にも入ったそうな。お風呂はサウナではなくお湯を使うタイプのお風呂で、御目見得以下の下女がお湯を担いで運び、水とお湯をちょうど良い温度にブレンドした。お風呂場でも、御台ちゃまはほとんどご自分では何もしない。お着物を脱がせる役、お身体を洗う役などがそれぞれいてみ~んな女中がやってくれる。お風呂から上がるとバスタオルでぱたぱた拭くのではなく、浴衣を何度か着替えて汗を吸わせた。身を清めた後で、正装にお召し替えになる。正装といっても儀式用のではなく、日常的な正装ということだけどね。朝からぱりっとして何をするのかといえば、将軍様の奥入りを待つのだ。将軍様は、大奥と中奥にそれぞれご寝所を持っている。人によっては奥泊まりの頻度が高かった将軍様もおられるようだけど、中奥で眠る日もあった。奥泊まりをした場合でも、将軍様は一旦中奥で身じまいを整えてから再び大奥へ入る。戻ってきた将軍様は、裃(かみしも)に二本差しという正装をしているので、御台ちゃまもそれに応じた正装で将軍様を待つというわけ。将軍様の奥入りというとたぶん一般的には子作りのためという印象が強く、「オイオイ、朝から子作りかよ~!?」なんて早合点をする人もいるかもしれませんが、将軍様の朝の奥入りは毎日のことで、正装の必要があるおつとめのためだった。前々回、大奥がハーレムであるという見方はあまり正しくないという山本博文氏の文章を紹介してますが、それは大奥がこういう日常行事を担っているからだという点も含まれているからじゃないかと思う。将軍様が朝の奥入りをするのが、午前9時頃。お互いに正装をした将軍様と御台ちゃまは、朝の挨拶をしてから一緒に御仏間へ向かう。御仏間はその名の通りのお部屋で、部屋の四面には金砂子に金泥で蓮が描かれており、奥の二尺ほど高い場所に黒塗りの仏壇が置いてあって、中には歴代将軍の位牌が安置されていた。ここでお2人は毎朝そろって拝礼をする。代々の先祖供養のために、お2人はきちんと正装する必要があったのだ。もし将軍生母が大奥にいる場合は、その後で挨拶に行った。それが済むと、御小座敷へ移動して御目見得以上の女中たちの挨拶を受ける。御小座敷ではなく、将軍様が大奥へ入るルートの御鈴廊下だったともいうけど、ともかく挨拶を受けた。これを朝の惣触(そうぶれ)といい、御台ちゃまがこの時着ている衣裳を「惣触召し」という。惣触が済むと、将軍様は中奥へお戻りになる。御台ちゃまはぱりっとした惣触召しからゆったりとした「お昼召し」に着替えてお昼食をとる。食後にはお菓子も出たそうな。同じ頃、将軍様は中奥で普段着に着替えて武芸の鍛錬やお勉強、老中との面談や大名を謁見したりとその日ごとに色々された後で中奥でお昼食をとる。お昼食の後は政務を執ったり読書をしたり、能を楽しむこともあった。それぞれの時間を過ごして午後2時頃になると、また将軍様が大奥へやってくる。朝と違って将軍様はリラックスした着流し姿で来られるものの、御台ちゃまは将軍様をお迎えするためにまたお召し替えになる。そしてお2人でおしゃべりしたりお菓子を食べたりしてくつろいでお過ごしになる。しばらくすると、将軍様は中奥へお戻りになる。その後、夕方までの御台ちゃまは娯楽をしたり散歩をしたりと自由に過ごされる。んで、午後6時頃お夕食。将軍様が大奥に入っている時には、お2人でお召し上がりになる。お食事は魚料理が中心で、将軍様は御酒を召しあがることもあったそうな。夕食のあと、御台ちゃまは「お夕召し」にお召し替えになる。前回は書きませんでしたが、お朝食の前か後に1度「朝お召し」にお召し替えをしているようで、ここまでに何度もお召し替えをして、その都度お化粧直しもしている。将軍様が御台ちゃまと夜を共にする日は、事前に連絡があるので、御台ちゃまは2度目のお風呂に入っておく。将軍様が奥泊まりをする日は必ずしもお夕食を一緒にしたという訳でもないようで、お夕食を別々にとった場合には将軍様は午後8時頃大奥へおなりになる。その場合は、しばし御台ちゃまがお茶や御酒でおもてなしをしたようだけど、実際にこまごまと動いてくれるのは介添えのお女中たち。就寝前には「お寝召し」に着替えて、午後10時頃ご就寝。将軍様と一緒の時は、大奥にある将軍様のお部屋で夜を過ごすが、お1人の時は御殿向にある御自分のお部屋で寝についた。おおむね、これが御台ちゃまの平時のスケジュール。惣触召しとお昼召しは毎日違うものをお召しになったようだから、なんともぜいたくなことでございます。にほんブログ村
2016年03月06日

では、今回は御台所(みだいどころ)について。御台所とは正室の呼称で、将軍家、特に徳川将軍家の正室を指すというのが一般的な認識かもしれない。14代将軍・家茂(いえもち)の正室は激動の時代での降嫁ということもあって「皇女和宮」として有名な方ですが、内親王というプライドからか徳川家の嫁となっても武家風を嫌い、依怙地に御所風を通したという話もこれまた有名で、一連の「武家風」の中には、「御台様」と呼ばれることを嫌がって「宮様」と呼ばせたというものも含まれる。ところが、歴史的には御台所という呼称はなにも武家の専売特許ではなく、平安の昔から公家でも正室に対して使われていたものだった。ウィキペディアによると、平安中期までは三位以上の公家の正室は「北政所」と呼ばれていたのが、のちに「北政所」が摂政か関白の正室に対して贈られる称号となったため、摂政・関白以外の三位以上の正室に対する呼び名が必要とされるようになり、それで「御台所」や「御台盤所」(みだいばんどころ:御台所と同じ)という呼称が生まれたんだそうな。徳川将軍家の場合、将軍世嗣に嫁いでも「御台所」とは呼ばれない。夫が晴れて将軍になったあかつきに、初めてその正室は「御台所」と呼ばれる。夫が将軍となるまでの間は、「御簾中(ごれんじゅう)様」と呼ばれた。が、6代将軍・家宣がまだ将軍宣下を受ける前、家宣は正室の煕子を「御台所」と呼ばせた。先例のない出来事に老中は狼狽し、側用人の間部詮房を大奥へやってなぜ将軍宣下前に御台所と呼ぶのかその理由を聞いてこさせた。応対に出た局は、「あら?将軍家は室町御所の例にならうと京で聞いてたんで御台所と呼んでましたのよ~。でも、貴方のお話によるとどうも違う先例をお持ちのようですわね。ふ~~~ん・・・・ならついでに伺っておきますけど、今後は当将軍家を室町将軍家より一段低いものとしてよろしいかしらん?」とケロリとして言った。間部詮房がそれを老中に報告すると、「ナニソレ?室町幕府の先例!?ちょっと、どーゆーこと!!??」とあわててみんなで各種資料を探したが、わからない。幕府の学者に聞いても局の言葉の意味がわからない。家宣の妻・煕子は公家の近衛家の出身で、よくドラマなどにも登場して有名な天英院のことですが、この方の父・近衛元煕は有職故実に明るく、近衛元煕が幕府にあてた公文書の中で「御台所」と書いてあるのを見つけたので京の元煕にお伺いを立てたところ、室町3代将軍・義満の時代より将軍世嗣の正室に対しても「御台所」と呼んでいたという回答が、証拠書類と共に戻ってきたという。だから、御台所という称号は長い歴史の中ではなにも徳川将軍家だけのものではなく、さらに各時代においては将軍家の正室以外にも御台所と呼ばれた女性もいたし、武家の中だけで使われた呼び名という訳でもなかった。15人の徳川将軍は1人を除きみな正室を持っていた。正室を持たなかったのは7代将軍の家継で、これは当の家継が夭折したため、八十宮(やそのみや)吉子内親王とは婚約止まりだったことによる。もし家継がもう少し長生きしていたら、史上初の皇女の降嫁は和宮ではなく八十宮になっていた。その他の将軍には正室がいたけど、14人の将軍だから正室も14人という訳でもなく、継室を迎えた将軍もいたので、正室の実数は将軍の数より多い。将軍家の正室は宮家か摂家(近衛・鷹司・九条・一条・二条)から迎えるルールだったが、イエアス・秀忠のごく初期の将軍は江戸幕府の開府以前までに最後の継室を迎えているので、この2人の正室は上記ルールにはあてはまらない。生まれながらの将軍である3代・家光の代になって初めて鷹司家から正室を迎えたので、ここから正室ルールが始まることになるが、家光以降の将軍の正室にも例外がいた。それが11代・家斉の正室・茂姫と13代・家定の正室・篤姫で、この2人はともに島津家の出だった。ただし、2人とも近衛家の養女となっているので、形式上は原則から外れてはいない。「武家の棟梁」たる将軍家は武家中の武家、ともいえるだろうけど、だからといってしきたりの何もかもが公家と違うということもなく、ことに学問好きで温厚な6代・家宣は公家風にハマって積極的に公家の作法を取り入れたりもしたそうな。家宣は「上野第二編(4)」で少し経歴を紹介してますが、近衛煕子を正室に迎えたのはまだ父の綱重(家光の子)が生きてる時で、綱豊と名乗り、将軍世嗣どころか日陰の身からようやく次期甲府藩主として認められたばかりの頃だった。煕子との夫婦仲はまあまあ良かったらしく、また上にも書いたように煕子の父・元煕が有職故実に詳しく公家第一の学匠と言われるほどの人だったため、父譲りの学識と公家のプライドを持つ煕子の影響を受けて綱豊も公家風を好むようになっていったらしい。して、綱豊が家宣と改名し、ついで6代将軍になると、煕子も当然大奥へ入り、大奥も公家風に染まるようになっていった。大奥には沢山の年中行事があるものの、正月三が日などの重要な儀式がある日には御台所は衣裳・髪型・化粧などすべて公家式にならった装いをし、それが正装だった。まあそれでも、家宣の後には武家の気風を重んじる吉宗のような将軍も出たし、当初より公家風を取り入れたとはいっても公家そのものじゃないから、そういう本場の公家風とのギャップに和宮は抵抗を覚えたのかもしれない。さてと、ここからは御台様の1日を追ってみましょう。生活臭い話が大好きなわたくしにとっては、女同士が競い合う泥沼のスキャンダリ~な話よりも記録にも残らないような大奥での平凡な1日の過ごし方の方がよっぽど面白いんだけどね。ただし、200年を越える大奥の歴史の中では色々と変遷もあっただろうし、すべての御台所が寸分違わぬ1日を過ごした訳でもないと思うし、ものの本でも説明に多少の違いがある箇所もあるので、6代・家宣以降の御台所はだいたいこんな感じで生活してたのかな~ぐらいな感じで読んでください。まずは、朝のお目覚め。御台様は朝7時頃お起きになる。平時のスケジュールは規則正しく進められるものなので、早く目が覚めたとしても「お目覚めになってもよろしゅうございます」とお付きに言われるまでは布団から出たりはしない。それに、布団から出るまでにやることがある。それが髪を梳くことで、これは寝所で寝たまんまお付きに髪を梳いてもらう。髪が梳き終わると、起きて口をすすぐ。自ら洗面所に立って「ガラガラガラ~、ペッ!!」なんてお下品にすすぐ訳じゃなく、うがいセットが部屋に用意されてお付きが水の入ったコップを差し出してくれるので、それを持ってガラガラしてから「たらい」に吐き出す。たらいっつってももちろん「汚物入れ」的な粗末なものじゃなく、御台ちゃまにふさわしい豪華なたらいだけどね。それから手を洗う。手を差し出すとお付きがその手を洗ってくれて、拭いてもくれる。トイレにも行く。トイレは1人では入らず、大事な御用が済むとお付きがお尻を拭いてくれる。パンピーじゃないから当然トイレも広々としており、一説には御台ちゃま専用のトイレは深くふかあ~く掘ってあって一生汲み出すことはなく、代が変わるとまた新しい「穴」を掘ったという。ま、なんにせよ御台ちゃまは「出す」だけで後始末は自分ではしない。と、同じニンゲンなので朝起きてまずすることは現代人と変わらなくても、そのやり方はずいぶんと違っている。ここまでの間に朝食が用意されている。お朝食は午前8時頃。朝食は1人でお召し上がりになる。もちろん、食べるのが1人という意味で、周りには介添えのお女中たちがいる。一の膳にはご飯と汁物、刺身・酢の物などに煮物が付く。二の膳には豆腐や卵の汁物、プラス焼き魚。汁物は季節によっても違うらしいが、春にはシジミが多く、意外なことに「鯉こく」もよく出されたらしい。うっぷ、朝から胃がもたれそう・・・ついでにここでお食事全般のことを紹介しておくと、将軍と御台所のための食事を受け持つ役人は江戸城内に100人以上いたそうで、メニューは食材を用意する役人や調理担当の役人(御家人)が個人の嗜好を勘案したりしながら決めた。食材や食器類、下駄や家具などの日用品の買い付けは賄方(まかないかた)が行い、それぞれの役人が品物別に担当を持っていた。賄方の役人を統括するのが賄頭(まかないがしら)で、城内で使われるすべての食材は賄頭が一括して買い付けをした。魚は日本橋、野菜は神田多町(たちょう)で買い入れたというが、時価ではなく常に安値と決まっていたらしい。そして、買い付ける量は実際に使用される量よりはるかに多く、買った食材の多くは料理人が「これ、使えね~。あ、これもダメ」とダメ食材としてはじいておき、自分ちに持ち帰ってしまったという。あこぎな商売するのう・・・「香の物」のたくあんは城内でもかなり消費されたようで、高野山の企画展シリーズでコエビ(肥ビジネス)のことを紹介してますが、江戸城でも自分達のウンコと引き換えにたくあんをゲットしていたらしい。江戸城のウンコ争奪戦は相当激しかっただろうな。それ以外にも、食材は諸大名からも献上されたので材料自体はなかなか豪華なものだったが、素材も重要だけど料理のいい悪いを左右するのは何といっても料理のウデと調理法。将軍夫妻に出す料理だから、当然神経は使われる。ご飯の場合、まず御春屋(おつきや)で精米される。その後、御春屋の役人が米を黒塗りのお盆の上にざあっと広げて石やねずみのフンなどの異物が混入していないか、欠けた米粒はないか1粒1粒吟味をした上で米を研ぐ。米は白ければ白いほどよいとされたのでこれでもかってぐらい研ぎこまれ、そのため脚気になる人が多かった。炊き方もちょっと変わっていて、「炊く」んじゃなくて沸騰する湯の中に入れて「煮た」んだそうな。煮た上でそれを釜に移して蒸したというから一体どんなご飯に仕上がったのだろうかとちと興味は湧くけど、試してみる気にはならない。城内で実際に炊かれる米はわずかなもので、あとはこれまた役人が持ち帰った。献上された食材なども同じで、まさに「役得」な訳だけど、中にはそうして得た食材で弁当を作って他の役人に売る者までいたそうな。タダで手に入れた食材で小遣い稼ぎをする輩については、初期の頃はまだ大目に見られていたのが、のちには厳しく罰せられることになったんだと。そりゃそうだよなにほんブログ村
2016年03月04日

平川門を出たところもなかなかテンション上がる遺構があるようだけど、まだ核心部を見ていないわたくしはここで門を出る訳にはいかない。てことで、平川門の手前でターンしていよいよの本丸を目指すのですが、 これが前回の出枡門を外側から見たところで、二の丸喰違門の手前までは来たのと同じ道を通っていく訳だし、ここまでは断片的に写真を撮ってきたので、今度は動画を撮りながら本丸へ上がっていくことにしました。動画はこの後ももう1本ありますが、動画編集ソフトを持っていないわたくしはこれまでもチープにYou Tubeの動画加工ツールに手ブレなどを直してもらってましたが、この撮影時点で人の顔をぼかす機能があるかどうかを把握してなかったので、とりあえず他人の顔が入らないようにカメラの角度を下げたりしていて、ところどころ「ジジイ、どこ撮ってんじゃい!!」て映像になってますが、人様の肖像権に配慮した結果ですので御容赦ください。あと、人がいない所でもぼかし効果が入って多少見苦しい映像になってる箇所もございます。こちらもあわせて御了承ください。出枡門から本丸大奥の裏手まで4分ほどの映像です。 さて、こちらが江戸城本丸の縄張図↓。 本丸・二の丸・三の丸の中ではもっとも小高い場所にあり、太田氏の江戸城もこの本丸域にあったものと推測されている。動画の最終地点は天守台の少し手前の場所で、進行方向の左手には大奥の建物が広がっていた。縄張図にもあるように、本丸域には御殿がパッツパツに建っており、その半分近くを大奥が占める。で、ここからは少し大奥について書いていきたいと思います。大奥といえばドラマなどでも格好の題材で、某民放局では演者を変え設定を変えて大奥シリーズが放映されて人気を集めておるようですが、妖しく淫らな愛と権力の渦巻く女ばかりの園・・・なんて側面で捉えた大奥なんてのがもちろんわたくしの眼中にあるハズもなく、ここではもそっと真面目な、つかここでフツーに生活していた女性たちがいた、ぐらいな感覚で大奥を紹介していく予定です。まあ、大奥の実態についてはあまりわかっていないことも多いようだし、何でもかんでも詰め込むとそれだけでゆうに1冊の本になっちゃうので、多少内容を絞り込みながらおおまかなところをまとめておこうという程度ですが。まずは、大奥の成り立ちから。武家の屋敷には、上は将軍から下は旗本まで「表」と「奥」があり、表向は対外的・公的な場で、私的な空間である奥向には家族たちが住んでいた。奥の主人は当然その家のファーストレディー、つまり夫人(妻)であり、そこから夫人のことを「奥様」と呼ぶようになったそうな。戦国期にも表と奥はあったけど、江戸期ほど表と奥の区別は明確じゃない。まだイエアスが今川氏から独立して織田氏との同盟関係にあった頃、イエアスの長男・信康の侍女に酒井忠次が惚れて、五徳(信長の娘)に頼んで念願の女性を手に入れたなんて話もある。ま、忠次の話がホントかどうかはわからないものの、イエアスの側室たちが持つエピソードを思い返してみても、お梶や阿茶の局などイエアスが篤い信頼を寄せた女性たちはそれぞれ表向、もしくは中奥に出て男性の家臣たちと同席する機会がたびたびあったことをうかがわせる。徳川氏が江戸に入府して幕府を開いたあとも、老中の寄合に吉原の遊女を呼んだり、老中たちが城外の橋の上で月見の宴会をするなど当初はまだ自由な雰囲気が残っていた。関ヶ原で勝利したイエアスは諸大名のカネで江戸城の大リフォームを行い、天守も大奥もこの時できた。将軍職はリフォーム期間中にすでに秀忠に譲られていた。大奥に対して抱くイメージは人それぞれでしょうが、山本博文氏はこんな風に言っておられる。 【大奥は、原則として将軍以外の男子禁制の社会である。しかし、将軍のハーレム(後宮) という見方は、あまり正しくない。大奥は、将軍とその正室である御台所の生活を支える 役所だった。】 (『図説 大奥の世界』河出書房新社より)大奥の基本は、将軍夫妻の生活の場。大奥が役所だったというと意外に思う方もおられるかもしれませんが、天下人たる徳川本家の当主夫妻であれば立派な公人で、ゆえにプライベートな空間でありながら公的な機関でもあった。そういう役所にふさわしい制度を最初に整えたのが秀忠で、元和4年(1618)に「壁書」を発し、ついで元和9年(1623)に「大奥法度」を定めている。まずは 1、大奥への男子の出入り禁止 2、通行証なく御殿女中が城門を出入りすることの禁止 3、夕方6時以降の門の出入りの禁止 4、女の駆け込みの禁止 5、奥向については天野孫兵衛・成瀬喜右衛門・松田六郎左衛門が昼夜交代で勤務し、 すべてこの3人の裁量に従うことという内容で、それまでは多かれ少なかれこれと逆の現象が起こっていたであろうことを思わせる。真偽のほどは不明なるも、3代将軍となる家光がごく若い頃、大奥に忍びこんで母・お江の侍女をはらませてしまったというエピソードなどもある。(この話のてんまつは、家光の小姓が身代わりとなって捕縛され、あわれ小姓もお江の侍女も処刑されたというもの。)で、元和9年の法度が1、2、4、5(ただ、奉行の顔ぶれは変わっている)に加えて 6、夕方6時以降は、通行証を持っていても出入りを禁ず 7、僧侶・神官が大奥に入る際は奉行の許可を得てその指示にしたがうこと 8、大奥への往診は曲直瀬道三ら3人の医師に限る 9、諸大名の使者は奉行の許可を得てその指示にしたがうこと 10、商人は後藤源左衛門・幸阿弥の2人に限定し、それ以外の者を呼ぶ際は 奉行の許可を得ること 11、奥向の御用はすべて3老女がはからい、奉行はこれをサポートすることという風にさらに進化した内容となっていて、3と6は同じではあるけれどたとえ通行証を持っていても時間を過ぎたら一切通行を認めないとなっていて、他の1・2・4・5も語調を強めた言い回しになっている。ので、第1段の禁制だけではイマイチ効き目がなかったのかもしれない。こうして秀忠は大奥の基礎を整え、その後将軍の乳母として幅をきかせたお福(春日局)がより進化させ、幕府の方からも幾度か制度の改定などもあり、のちには奥勤めの女中に奥向のことは一切他言しないという誓詞を取るようになる。明治に入ると奥向のことを語る御殿女中も現れたが、それはごく一部の、しかも身分の高くない女中ばかりだったので職務上彼女らが語る大奥は全体のわずかな側面であり、信頼性という点ではイマイチだという評価がされている。身分の高い女中は大奥が崩壊しても律義に誓約を守ってべらべらしゃべることはしなかったので、詳しい大奥の全貌がわかっていないのは他言無用の掟が大きな要因になっているものと思われる。して、大奥といえば将軍や将軍の子供達以外は男子禁制だというのが一般的な認識だろうと思いますが、秀忠の取り決めの中に「奉行」が出てきますね。実は大奥の支配体制というのは複数あって、ちょっと複雑なのだ。先に書いたように、大奥というのはひとつの役所で、ゆえにそこに勤める御殿女中たちは役人。大奥に住む女性の中には役人でない女中もいるけど、大奥の運営に携わって役職を持つ女中たちは役人。その役所を統括するのが、留守居役という男性役人。留守居役は老中の支配下にあり、留守居役の下にはこれまた男性で構成された奥向の管理に携わる役人たちのシステムがある。もともと留守居役は、その名の通り将軍不在の間江戸城を守るのが役職で、その役目柄臨時の役職だったのが常設となり、職務内容も多岐にわたり、大奥の管理や儀礼などにも関わるようになった。ただ、管理者だからといって大奥のどこでも好きに行けた訳じゃない。本丸御殿は表・中奥・大奥の3つに分けられ、このうち表と中奥はひとつながりの御殿だったが、大奥は別建ての建物で表・中奥との間には厳重な銅の壁の仕切りがあった。大奥の建物も御殿向・長局向・広敷向の3つに分けられ、御殿向は御台所や子女の住まいで大奥内での「表」みたいなもの。長局向は前々回も出てきましたが、御殿女中たちの住居。最後の広敷向(ひろしきむき)が男性役人の詰める場所で、まあ事務局みたいなカンジ?将軍が大奥に入る時は、中奥と大奥をつなぐ「御鈴廊下」を通っていくことは皆様も御存知のことと思いますが、広敷向勤めの役人たちは御鈴廊下を渡るのではなく、専用の入口があった。御鈴廊下から入る入口が表玄関なら、広敷役人たちが使う入口はお勝手口みたいなもんで、奥勤めの男性役人は勝手口から入ってその付近にある限られた空間でのみ行動が許される。行事の時などは一部例外もあるけど、ここでは基本的な話をしています。第2の管理システムは、大奥の女主人である御台所を頂点とするもの。そして第3が実務的な面での支配体制で、これは女性役人で構成される。その頂点に立つのがドラマなどでもおなじみの「老女」。もちろん、ババアという意味じゃなく役職名です。よくドラマなどで「大奥総取締役」というのが出てきますが、これは正式な役職ではないらしい。大ざっぱなシステムはこんなとこですが、時代による差はあるものの、次第に細かなシステムが出来上がり、規模も大きくなっていったものと思われます。それと、大奥という名称は将軍家専用のもので、中奥に対しての大奥ということらしい。表・奥の区別がある諸大名や旗本の場合は大奥とはいわず、あくまで「奥向」だった。御家人の家には表と奥の区別がないので御家人の家の女主人は「奥様」といわず、「御新造様」と呼んだそうな。にほんブログ村
2016年03月01日
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