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中雀門を抜けきるところ↓。 現在ではなだらかなスロープだけど、道路の真ん中へんにうっすらと引かれた横のラインのあたりにはかつて石段があった。そのすぐ先には、この建物がある↓。 【大番所 「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、同心番所とこの大番所の3つが 残っています。中之門の側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって 警備されていました。前の坂を上ったところが本丸の入口で、中雀門がありました。】 (現地解説板より)カピタンの参府の時はいつも「番所」で時間調整させられた(「36」以降参照)。その番所は「百人番所」だったと書かれている場合もあるけど、この大番所で待機したんじゃないかという可能性が個人的に捨てきれない。登城した本人たちが「百人番所」と書いているのに、なんでわざわざ疑うんだと思う方もおられるでしょうが、ガイジンの書いた文章には伝聞や勘違いも含まれていて、結構間違った記述があったりするのだ。レフィスゾーンは待機した番所内部の配置図と思われるものを描いていて、その時には大目付は「欠席」とあるものの、宗門改めや長崎奉行といった高官がカピタンらの近くで一緒に座っていたように描かれている。上の解説文もあわせて考えると、そういう人達も一緒にいたのであれば、百人番所よりは大番所の方がしっくりくる気がする。「番所」で登城する幕閣たちを見送ったあと、本丸御殿へ向かう様子をレフィスゾーンは次のように書いている。 9時に、上検使が、われわれを城へ連れていく命令を受けた。そこで、そのために、 儀式用のマントを着て、降りしきる雨の中を、全く乾いていない、全く近くない道を、 徒歩で、向こうへ行った。 そこに着いてから、綺麗な石の階段をのぼって、その巨大な建物の門のところで、 坊主頭すなわち城の案内役によって受けつがれ、中に導かれて、沢山の大名や高官がいた 控えの間を通って、日本風にもっとも綺麗に飾った部屋に導かれ、まず、そこで待つように いわれた。上の文章をレフィスゾーンのセリフに置き換えて意訳すると、「も~、こんな雨の中行きたくないよ~。えっ、なにこの道!びしょびしょでドロドロじゃん!え~、まだ歩くの~?マジ勘弁して~!」てカンジになるかと思うけど、ここには重要な情報が含まれている。まず、「巨大な建物の門」をくぐるとすぐに「坊主頭」によって御殿の中へ案内されるんだから、「巨大な建物の門」は中雀門のことで、門の手前に「綺麗な石の階段」があることからもそれは確認できる。問題は「石の階段」までの距離。大番所を出ればすぐ目の前に「石の階段」があるんだから、いくら雨が降ってたからってレフィスゾーンがボヤくほどの距離はない。ので、やっぱり百人番所の方で待ってたのかなって可能性が濃厚になってくるけど、その場合重要な情報がひとつ欠けている。この大番所は周囲を石垣に囲まれていて、 右手前の石垣が中之門の石垣。「これより本丸」といった位置づけの中之門は、現在では門はない。が、 四半敷の部分がほぼ渡櫓門である中之門の奥行で、これだけでも門の大きさがわかろうってもんだけど、現地解説板には中之門の古写真が載っている↓。 これは明治に入ってからの写真なので、江戸期には限られた人しか入れなかったこの場所に、パンピーが好き勝手に入って記念撮影などしまくっている。ちなみに、左の奥に写っている多聞は「中之門多聞櫓」で、中之門の奥にちょっとだけ写っている櫓は位置および上層が逓減されていないことから、重箱櫓(前回参照)だと思われます。で、縄張図。 マル1が大番所で、マル2が百人番所。百人番所からスタートしたなら、必ず中之門を通っていくはずなんだけど、レフィスゾーンは大きな門をくぐって綺麗な石の階段へ行ったとは書いていない。惜しいな、中之門のことが書かれていたら、待機場所は百人番所で確定なんだけど。さて、中之門にも綺麗に礎石が残されている↓。 門を出たところの石垣↓。 綺麗な巨石が見事に組まれている。これより少し先、大手三之門に近いところには石垣の修復についての説明が色々と書かれていて、この中之門は平成17年から19年にかけて修復されたらしい。なんでも、【長い年月の間に変形し、はらみ出し、目地の開き、ひび割れ、剥離などが発生していました】とのことで、国の特別史跡なだけに最新の測量技術である「三次元レーザ測量」で事前調査をして、職人の技でもって慎重に修復にあたったとある。見よ、この巨石を↓。 (現地解説板より工事の様子)上の写真の石のことではないと思うけど、中之門の石垣の築石に使われている石は城内でも最大級の巨石が使われているそうで、重量なんと35トン昔の人ってホントすごいわ~。もうこの頃のわたくしは帰る気マンマンで、中之門のろくな写真もありませんが、現地解説板から中之門の簡単な歴史を紹介しますと、まず中之門の縄張が行われたのが慶長12年(1607)。藤堂高虎によるものだという。して、明暦の大火の翌年の万治元年(1658)、罹災した城内の復旧工事が始まり、中之門は細川氏によってあらたに普請された。元禄16年(1703)に関東を襲った大地震の時には中之門が崩落し、翌宝永元年(1704)に池田氏によって門が修復された。平成の修復時には鳥取藩主・池田吉明による修復の際のものと見られる刻銘が出土したそうで、解説板には親切に写真も載っていた↓。 風雪にさらされなかったためか、銘の保存状態はすこぶる良い。それから、その前の熊本藩主・細川綱利による再構築前の門の遺構と見られるものも出土していて、 (現地解説板より)↑まずこれが『江戸図屏風』に書かれた大火以前の江戸城本丸で、赤丸が中之門。その遺構がこちら↓。 (現地解説板より)うおお、そそられるな~(笑)。平成の解体修復工事ではずいぶんと色々なものが見つかったらしくて、 (写真は2枚とも現地解説板より) 【石垣構造としてはたいへんめずらしい大鎹(カスガイ)が出土しました。これは、 築石転倒防止のため築石裏側に設置された石と連結した補強材で特異な構造です。】 (現地解説板より)へえ、石垣にかすがいなんてそれは確かに珍しい。地震での被害によって修復されたものだから、地震の教訓を生かしたってところでしょうか・・・さて、中之門を出て右に向かうと西の丸ですが、前回の富士見櫓のところで書いたように、現在の皇居へ向かうこの道には宮内庁エリアが立ちふさがっているので、右には行かれません。ので左方面へ向かいますが、中之門の斜め前にあるのが百人番所↓。 中之門を出ればすぐこの光景だから、百人番所から御殿へ向かったってボヤくほどの距離じゃないんだけどね・・・でもわたくしのイメージでのレフィスゾーンは小言幸兵衛(こごとこうべえ)という訳でもないので、降りしきる雨にうんざりしてたってところかもしれないな。ちなみに、レフィスゾーンの図によると、彼と随行の医師が待機していたのは上の写真では手前側の一番はじっこの部屋の奥まったところだったらしい。百人番所の破風↓。 妻板は銅板葺だな・・・屋根には葵の紋が載っている。 が、その一方で明らかに「葵」を外した形跡も見受けられる↓。 江戸城で葵を外すことになんの意味があるんだろう・・・まあ、ここが「皇居」になってからの出来事だろうな。百人番所前から大手三之門方面を見たところ↓。 左の大きな石垣の奥にあるのが中之門修復工事の説明板で、ここには修復時に交換された石材が展示されている。近くにいる観光客と比べて石の大きさを実感してください。まずはこちら↓。 【中之門石垣の特徴である、表面が広く奥行きが短い築石です。(鏡張り)】その次がこれで、ベンチだと思ってガイジンが座ってやがるのも遺物です↓。 【角石の破損部を切断した石で、母材は中之門石垣の中で最大級の花崗岩です。】この2つは瀬戸内産花崗岩。その次が伊豆半島産安山岩で↓ 【傷により交換した築石です。安山岩は花崗岩に比べ節理が発達しており大材の採取が困難です。】(ここまで、【】内はすべて現地解説板より)これらは最後の大規模工事である池田氏の石ってことになるのかな。最後に平成の修復の中之門石垣の断面図↓。 これにて内郭は終了です。にほんブログ村
2016年06月26日

自転車で去りゆくお姉さんの背中を眺めながら歩いていくと、そこらへんが本丸域の最南端。 (現地看板の縄張図を加工したもの)赤丸で囲った箇所には、これがそびえる↓。 【富士見櫓 「櫓」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。 今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っています。その中で、富士見櫓は 唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657年)で消失した天守閣の代用としても使われ、 将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています。】 (現地解説板より)ふっ、品川の海・・・江戸城から品川まではちょっと距離があるし、今は高層ビルが建ってるので富士見櫓の最上層に登ったところで海を眺めるのはキビシかろう。が、江戸期なら遮るようなものはほとんどないし、今ほど埋立てられてはいなかったから確かに品川付近の海が見えたかもしれない。しかし、それよりさらに時代を遡ってこの付近から品川よりもっと近い海を見ていた江戸城主がいた。それが太田道灌さんで、「(1)」で中城に静勝軒という屋敷が置かれたと紹介しましたが、その静勝軒が富士見櫓の辺りにあったらしいのだ。太田氏時代の江戸城は徳川江戸城より城域が狭く、しかもまだ日比谷は入江だったので「海を眺める」どころの話じゃない。もっとも、静勝軒のあった場所については本丸域の対局にある大奥跡付近だとする説もある。ただ、もし塩見鮮一郎氏の推測の通り、2つの客館の「含雪斎」と「泊船亭」が静勝軒と連結していたのだとしたら、「含雪」(富士見)と「泊船」(オーシャンビュー)の眺望を得るには大奥跡より富士見櫓の場所の方が条件はいいようにも思える。ま、それはともかく、『江戸幕府大事典』によると富士見櫓の建設は慶長11年(1606)。すぐ近くにあった数寄屋三重櫓が明暦の大火で焼失したらしいのに、富士見櫓は難を逃れたのか、江戸期の修復は文化12年(1815)、嘉永元年(1848)でさらに明治に入って1度修復されたのが、関東大震災で惜しくも倒壊したらしい。現存する富士見櫓はその後の復元。富士見櫓は「八方正面の櫓」とも言われる。どこから見ても端正な姿が拝めるというのがその名の由来だそうだけど、『落穂集』では大道寺重祐が若い頃、北条氏長が「八方正面の櫓なんて、いかに太田道灌が築城の名人だといっても技術だけで作れるもんじゃないさ。第一に地形そのものの問題がある。次に地面取りのやり方による。諸国に城は数多くあれども、八方正面の櫓なんてそうそうあるもんじゃない。そういう櫓が江戸城にある。これは御当家が繁栄する印だろう。」と語っていたのを聞いたことがあるとしている。が、現在では色々と制限があるので、八方からの眺めを堪能することはできない。富士見櫓は現在の江戸城で数少ない櫓だけど、中には入れない。どころか、手前には柵があってあまり近寄ることもできない。チッ!と思いながらぼんやりと櫓を眺めていると、 ああ、鬼板んところにある紋、あれ菊だわ・・・なるほど確かに復元だな。で、破風に目をやると ほ~おおお、青海波(せいがいは)!これは面白い。ここの解説板には外側から見た富士見櫓の写真が載っていて、 いつの撮影とは書いてないから復元前なのか後なのかわからないけど、わざわざ白黒写真を載せてるあたり復元前のものなのかもしれない。細部まではあまりはっきり見えないけど、妻板は青海波のようにも見える。『鹿鳴館秘蔵写真帖』にも富士見櫓の写真はあるんだけどね、こちらはもっと遠くからの撮影でちっちゃくしか写ってないので、解説板の写真よりもっとわからない。んが、遠景なだけに『鹿鳴館秘蔵写真帖』の方の写真には富士見櫓下の本丸の高石垣もばっちり写っていて、それはそれは見事な眺め。富士見櫓があるのは、蛤堀を挟んで皇居外苑に近い場所ではあるけど、蛤堀に直接面してる訳ではないので、宮内庁の職員にでもならない限り、『鹿鳴館秘蔵写真帖』にあるような見事な高石垣の眺望をゲットするのは難しいかもしれない。ま、少しは外苑からでも見えそうだけどな。今度行ったらここも見てこよう。さて、言葉だけでは何で外側から富士見櫓下の石垣が見えないのかわからないでしょうが、現地はこういう構成になっております↓。 (現地案内図より)赤丸が富士見櫓で、ここはもう皇居のすぐ近くなのだ。濃いグリーンの部分は宮内庁エリアで一般の立ち入りは禁止されている。ので、富士見櫓脇の下埋門を通って宮内庁エリアに侵入することはおろか本丸最南端の石垣付近まで行って下段の宮内庁エリアを見下ろすこともできない。外苑から本丸を眺めた場合、蛤堀のさらに向こうに広がる宮内庁エリアが邪魔をして本丸最南端の石垣はあまり見えないだろうと思った訳です。上の絵図に描き込んだ青いラインは細い園路で、たとえばこれは下埋門に通じるルートだと思うけど↓ 途中何もないうえに(かつては上埋門があった)その奥は がっちり行き止まりざます。せめて門の近くまで行かれればとも思ったけど、このルートには 踏み入ることすらできないんざます。今、この下の宮内庁エリアには「馬車課」とか「自動車班」なんかが置かれてるようだけど、かつては金蔵などがあり、『鹿鳴館秘蔵写真帖』の写真にはびっしりと建物が写っている。ただし、明治の撮影なので屋根なんかはかなりボロボロになってるけど。さてさて、今回はこれにて本丸を退出いたします。通行禁止のルートを恨めしく眺めながら進むとそこにあるのが中雀門(ちゅうじゃくもん)跡↓。 縄張図だとこうなります↓。 ピンクのルートが上埋門から下埋門を抜けて金蔵などのある下段へ本丸から直接出られる道で、これは現在通行禁止。これから進むのが赤のルートで、これが正式な本丸への登城ルート。つまり、ガイジン達も幕閣たちもこの道を通って御殿へ入っていった訳です。日本の心臓部への最後の入口だから造りはとても厳重で複雑。この門を入るとすぐ目の前に御殿の玄関があった。乗輿のまま下乗橋の通行を許されていた御三家も、この門の手前で下乗したという。臣下で唯一、乗輿のままこの門を通れたのが我らが輪王寺宮だと思うけど、世間では輪王寺宮も門の手前で下乗したと言っている人もいるので、(ちょっと考えにくいけど)「乗物で御殿に横付け」の特権は時期によって変遷があったのかもしれない。で、上の写真で門の周りにたむろしている人がちっこく見えるので門の規模もおのずと想像がつくってもんですが、「玄関前門」「書院門」「書院大門」などとも呼ばれた門の石垣へ近づいてみます。 あら? おんやあ~?反対側も↓。 火災の痕跡がこんなにも・・・これは文久3年(1863)に本丸御殿が火事になった時、類焼したものなんだそうな。しかし、写真をよく見ていただくとわかると思いますが、門の内側の石垣、つまり本丸に面した側の石垣はところどころ赤くはなっているものの、石材自体は破損はしていない。表面の剥落がひどいのは通路に面した部分の石垣なので、門扉が燃え上がったその熱でこの部分がひどく傷んでるんだろうな。中雀門は明治以前に焼失しているのであいにく写真は残ってないけど、『江戸三十六城門画帖』に絵が描かれていて、それによると渡櫓門だったらしい。その重い門扉を支えた礎石もちゃんと残っている↓。 その先↓。 本丸を守る最後の砦なので、もちろん枡形。江戸城天守の概略については「(34)」で紹介しましたが、明暦の大火で家光の寛永天守が燃え落ちた後、天守を再建するつもりでまずは天守台を修復した。その時撤去された寛永天守の石垣の石がここに転用されたという話がある。まあ、現存する天守台の石もあれだけ火災でダメージを受けてるんだから、全部じゃなくて綺麗な石だけをここに持ってきたんだろうけど、写真手前の石垣の上には多聞が載っており、その奥にちょっとだけ写ってる石垣の上には書院ニ重櫓が載っていた。『鹿鳴館秘蔵写真帖』には書院二重櫓の小ぶりな姿が残っているが、『江戸幕府大事典』によると明治6年に撤去されたと考えられているとのこと。石垣に沿って先へ進む。 これが虎口を抜け切るところの石垣の先端で、この上には書院出二重櫓があった。似たような名前で紛らわしいですが、こちらには「出」が付いてます。書院出二重櫓の方は四間×四間の小ぶりな櫓で、【上下同大の重箱のような特殊な形式であった】(『江戸幕府大事典』より)ので別名「重箱櫓」とも呼ばれるようなんだけど、『鹿鳴館秘蔵写真帖』の写真を見るとすぐ近くにある書院二重櫓が通常の櫓のように上層が逓減されているのに対し、「出」の方はホントに下層も上層も同じ幅で、ものすごくおかしな形をしている。もし実物が残ってたら「えっ、これ櫓!?」って笑う人が多いんじゃないだろうか(わたくしはソッコー笑いました)「出」の方も明治6年の撤去と考えられているらしい。にほんブログ村
2016年06月20日

石室からさらに進む。広い江戸城の中では結構石垣も残っていて、一般的にはお堀端とかわたくしがこれまでたどって来た場所の派手な石垣が目を引くけど、こんなところにも地味に石垣は残っている↓。 石垣はいいんだけど、フェンス張られてるな・・・この先が少し小高い所に園路が付けられていて↓ おっ、高いところを通るならわずかばかりでも旧紅葉山が見えるカモ? わざわざ書く必要もないでしょうが、右手に組まれている石積みは明らかに公園整備のために近代になってから組まれたものです。この先にあるのが 【富士見多聞 「多聞」とは、防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋 とも呼ばれました。鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓を開けて狙い撃つことが できました。本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて万一に備えられていました。】 (現地解説板より)現地でもらえるリーフレットにも「富士見多聞」だと書かれているけど、この付近に埋まってる石碑には とある。わたくしの手持ちの資料のどれにもこれは「御休息所前多聞櫓」とあって、『江戸幕府大事典』にも富士見多聞なるものは載っていない。ので、なぜ宮内庁サイドがこれを富士見多聞だとしているのかはわからないけど、この先の右手は だめだあ~、完全に見えね~しかも、土塁の手前の低いフェンスには日米中韓の4カ国語で「立入禁止」と書いてある。ばかなわたくしは何も考えず、ただ江戸城址だというだけで紅葉山を眺めるのを楽しみにしていたのですが、よく考えれば立ち入り禁止なのは当たり前なのだ。もちろん、土塁や石垣の保護、事故防止という面もあるだろう。しかし、土塁の下を流れる蓮池濠を越えれば現在ではそこは天皇陛下のおわす皇居なのだ。誰もが気軽に眺められるワケがない。ちなみに、現地で初めて気が付いたことがある。お城ファンの方ならよくおわかりでしょうが、城址公園てのは道があちこちに延びていて、事前に縄張図などを眺めていても位置関係がよくわからないことがある。今回、おもに現地でもらったリーフレットを手に歩いたけど、現在地がよくわからなくなってすまほを取り出して位置を確認しようとした。そしたら、城内ではGPSが役に立たなかった。「おお~、一般公開されてる東御苑といえど、皇居だもんな!皇居内は情報を制限しておるのだな!!」と初めて知る現実に少々コーフンしました。ま、元々GPSなんて軍事用だからな。わたくしが山をやっていた昔はすまほなんて便利なものはなく、登山用のGPSを携帯して山歩きをしていましたが、一般用にはまだまだわざと精度を落としていた時代だったのでGPSだけで歩くなんて危険なことは到底できず、25,000分の1地図や登山地図などを併用しながら歩いたもんです。それが、今じゃよほどの山奥じゃない限り、かなりの精度で現在地と向きまでわかるようになったんだから、当時のことを考えれば「時代は変わったなあ~」て年寄りくさいセリフの一つもこぼれてきます。叡山の飯室から横川へ向かう中尾坂ではなかなか衛星が捕まえられないこともあったけど、こんな都心のど真ん中でGPSが機能しないなんて、わざとそうしているとしか思えない。こうやって情報を制限してるところは今の日本ではそうないでしょう。思いつくのは、自衛隊の基地内と原発施設ぐらいかな?でもどっちも気軽に入れる場所じゃないし、事前予約も何もなしに出入りできるのは皇居東御苑だろうな。山奥や地下などの周囲の環境によるものではない「GPS、使えね~」体験をしたい方は江戸城までお越しください御休息所多聞の少し先の蓮池濠に面したところには、かつて数寄屋二重櫓があった。御休息所多聞と数寄屋二重櫓の間には長い数寄屋多聞が建っていたが、現在その付近はこんなで↓ 土塁とわずかな石組が残るのみ。『鹿鳴館秘蔵写真帖』の写真に姿をとどめる数寄屋多聞は壮観ともいえる長さで、多聞へ上がる雁木も付けられている。数寄屋多聞の創建および撤去の時期についてはわかっていないらしいが、数寄屋多聞が接続する数寄屋二重櫓と同時期のものだとすれば、慶長11年(1606)頃から明治6~11年頃までの間、本丸に存在していたのだろうと『江戸幕府大事典』は語る。今は多聞も二重櫓もないけど、それでもこの付近には多くの観光客が足を止める。なぜって という場所だからで、例の事件で知名度が異様に高い廊下が園地の中に延びていたのだ。いちおう解説板の文章も紹介しましょうかね。 【松の大廊下跡 赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への 刃傷事件(1701:元禄14年)のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が 描かれていたのが名前の由来といわれます。江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの 立派なものでした。】この付近では、史跡めぐりツアーと思われる一団とバッティングした。 自分で何も準備せず考えることもせずお手軽に見られるあーゆーツアーは、人によってはラクでいいものかもしれないけど、自分で歩きながら何かを見つけたり想像したりするのが楽しいわたくしからすると、人に連れられて歩いて何が楽しいんだろうと思う。ま、時には耳寄りな話なんかも聞けたりするのかもしれないけど、少し距離を置きながら彼らの様子を見るともなしに見ていると、引率者に連れられて話を聞いてるだけなので、園地の中に地味に残っている土塁や石積みに目を留める人はいない。せっかく天下の江戸城に来ているのに、もったいないことよ・・・まあそれでも、わたくしが木々の間に見える地味な遺物にカメラを向けているのを見て少しそういうものに目を留め始める人もぱらぱらと見受けられたけど。松のお廊下を過ぎると、数寄屋二重櫓の石垣が残っている↓。 『鹿鳴館秘蔵写真帖』には数寄屋二重櫓も写っている。すでに撮影時点で本丸御殿はなく、御殿跡は悲しいほどの完全な更地となっているが、遮るものがない分、御殿跡越しにでも数寄屋二重櫓の全景がはっきりと確認できる。その姿は、多少漆喰が剥げているような部分もあるものの実に端正な二重櫓。ただ、当初は三重櫓だったのが明暦の大火ののち、二重櫓として再建されたという。てことは、数寄屋三重櫓も大火で罹災したってことだな。数寄屋櫓に火が移る頃には将軍・家綱は西の丸(現・皇居)に動座していただろうから、蓮池濠沿いに立つ数寄屋櫓の炎上の様子は西の丸からもよく見えただろう。堀越しの眼前に広がる惨状を、家綱はじめ智恵伊豆や阿部忠秋さん、保科正之ら幕閣はどんな思いで見つめていたのだろうか・・・だからね、やっぱり阿部忠秋邸火元説は絶対ガセと思うんだよね。家綱が江戸城を出たって、自分だけは絶対ここに残る!!って頑張った忠秋さんだもの、あとからでも自分ちから出火したなんて知ったら、腹を切ってるよ(←しつこい)。さて、園路に従っててろてろ歩いてたら、自転車に乗ったお姉さんに抜かされた。 おっ、おまわりさんだ。婦警さんもおるのか。この日、城内では結構な数のパトロールに出会った。車や徒歩、そして自転車を使いながら毎日毎日警備にいそしんでおるのだろう。にほんブログ村
2016年06月13日

ちとガイジンシリーズが長くなりましたが、大名や幕閣・役人が江戸城に登城するのは当たり前の話なので、そういう広く知られている登城者以外にも結構色んな人が出入りしていたんだよ、ってことでガイジンについて紹介してきました。同じコンセプトで、今度は日本人バージョンを紹介します。広い本丸御殿のうちで最も南にあるのが、ガイジン達も出入りした大広間。そのすぐ南側には能舞台が設置されていた。これは御殿とは別棟で、常設の舞台だったらしい。舞台は大広間御上段・御中段・御下段の南北3間続きの部屋の正面にしつらえられ、かなり遠くはなるけど将軍が御上段にいても舞台が見える作りになっていた。この能舞台では、将軍宣下や若君誕生、婚礼などのお祝いごとや遠忌の法会、日光参詣の折などの重要な儀式で「祝儀能」として能が上演された。儀式が無事に済んだことを祝う目的で、数日間にわたって上演されたそうなんだけど、その初日には江戸の町衆も能の鑑賞が許されたという。これを「町入能」(まちいりのう)という。町入能の歴史は意外に古く、慶長12年(1607)1月7日が最初。『江戸幕府大事典』によると、この最初の町入能は「江戸城入城祝儀能」というそうで、慶長12年といえば天下普請でリニューアルし、徳川江戸城に最初の天守ができた年でもある。ので、天下に号令してようやく天下人にふさわしいナリを整えた江戸城リニューアル記念祝賀会ってとこだろうか。で、最後が文久2年(1862)の家茂様結婚おめでとう祝賀パーチーで、255年の間に50回ちょっと町入能が行われたらしい。招かれた町人は、 【江戸八百八町(八百八町は東照宮関八州を領し給いたるときに江戸に置れたる町々にして 三河町・駿河町をもってその第一とす。その他数千町ありといえども爾後新開のものたれば このうちに加えず)の町人(家主(今いう差配人なり)一町二人ずつ)どもへ能楽の 見物を許さる。】 (『徳川盛世録』より)ということで、希望者が誰でも見物できた訳でもないようなんだけど、対象者にはあらかじめ町触で麻上下(あさかみしも)の着用や関係者以外の見物の禁止といった心得が示され、事前に鑑札も配られていたそうな。花のお~江戸はぁぁ八百八町~ぉぉぉ今日も決~めての今日も決~めてのぜ~にがぁぁ飛~ぉぉぉぶ~(by 銭形平次)とは言うものの、初期は300ぐらいだった町数も中期頃になると江戸の町は実に1000を越えていたそうで、『徳川盛世録』の八百八町の定義が果たして正しいのかはわからないけど、いずれにせよ町入能に招待される「町の名士」の数は結構な人数になったらしい。それで、4代・家綱の代からは午前と午後の二交代制になって町衆の入れ替えがあったそうな。二交代制になっても各回で2500人という数だったらしいから、大広間と舞台の間にある白洲は相当ぎゅうぎゅう詰めになったことだろう。大広間のある御殿と舞台は別棟だったため、町人席となる白洲には屋根がない。しかし、これだけの人数を招待するのだから準備も色々と大変だし、町入能に「雨天順延」という選択肢はない。「家綱様お誕生おめでとう祝賀町入能」の時にはあいにく雨が降ったそうで、それ以降、招待された町衆が二重橋を通って入城する際には、傘(からかさ)が手渡されるのが慣例となったそうな。慣例だから、当日の天候には関係ない。よく晴れた日でも1人1本傘が渡され、それはそのままお土産として持って帰れる。また、傘のほか強飯が配られた。さらに、午前の部と午後の部の入れ替えの際には町奉行から饅頭と御酒(みき)が配られ、後日には1人ずつに鳥目一貫文が下されたというから、メシ・おやつ・お土産にさらにおこづかいが付くという、江戸城での祝儀能にふさわしいものだった。小布団や煙管などの持ち込みは禁止されていたそうなんだけど、イベントムード満点だったためか、持ちこんじゃう不届き者もおったそうな。さて、町入能といっても別にわざわざ本丸を提供して町衆のために上演する訳じゃない。舞台正面の大広間には将軍をはじめ大名や公家衆もいた。『徳川盛世録』によると、将軍は舞台に近い御下段まで出て見物をしたという。各種おみやげもさることながら、お祭り好きで将軍のお膝元にいることをなによりの誇りとしていた江戸っ子のこと。そもそも町入能自体が何らかのおめでた系で行われることが多いイベントだったから、かなりハイになった町衆もいたらしく、ぎゅうぎゅう詰めの白洲から大広間にいる将軍や公家・武家などの高貴な方々に向かって「親玉!」「千両箱!!」などと叫ぶ輩もいたというから、なんとも江戸っ子らしいエピソードとゆーか・・・とまあ、本丸には結構色んな人種が出入りしていたようでございます。ところで、「(37)」でケンペルが雷よけの地下室について語ってる話を紹介しましたが、『江戸幕府大事典』によると、本丸御殿には「地震の間」なるものがあったらしい。これは中奥にあり、 【地震があった際に将軍が避難したとされる。五代将軍徳川綱吉の時代の中奥では、 二ヶ所あり、休息間の北の山・泉水などがあった庭と御座間の南の廊下に囲まれた 部分に建っていた。絵図には、ほかの部分とは違う描かれ方をしており、特殊な 構造であったことがわかる。】 (前掲書より)だそうな。手持ちのいくつかの御殿図を見たけど、あいにくはっきり「地震の間」と描かれているものはなかった。まあでも、御殿図に部屋が描かれているのなら、地下室ではなかったってことだよな。さてと、それでは久々に現地に戻りますか。え~と、「(35)」でカップルの邪魔が入ってイラつきながらご飯を食べたとこまで書いたんだっけかな。ここからは、ランチ場所のオレンジの★のところから蓮池濠の近くへ行って、そこからぐるっと園路沿いに反時計回りに歩いていきます。 この図で★の上に描かれている細い園路は所により少し小高い位置にあって、広々とした御殿跡の園地とは違って木々の間を歩くコースになっている。歩き出すと、明らかに江戸城時代の遺物であるこんな石もあった↓。 実はこの蓮池濠付近は、今回のわたくしのお目当てのひとつでもあった。なぜって、濠を挟んだ向こう側はかつての紅葉山なのだ。東照宮が置かれ、歴代将軍の霊廟があった紅葉山は現在の皇居なので、いつでも自由に立ち入れる訳じゃない。もちろん、紅葉山の霊廟はとっくに撤去されてるけど、別に霊廟なんかなくたってかまわない。とにかく、徳川時代には神聖な場所であった紅葉山がどんなところなのか、遠巻きにでも自分の眼で見て浸りたかったのだ。しかし、歩き出したあたりの濠方向は ・・・くっ、見えね~いつもなら楽しい土塁を、この時ほどうらめしく思ったことはない。上の写真を撮ったあたりはすでに大奥エリアで、将軍の大奥での御座所があったあたりだろうと思われるものの、 今ではその面影すら残っていない。でも、かつてはこの付近で珍妙な床入りが行われたりしていたのだ。その先にはこんなものがある↓。 【石室(いしむろ) 抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際、 大奥用の調度などを納めたところと考えられます。内部の広さは、20平方メートル あります。伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天上には長い石の板が 使われています。】 (現地解説板より)内部の撮影にトライしてみたけど、 こんなボケた写真にしかなりませんでしたので、解説板に掲載されている写真から内部の様子を紹介します。 おお、確かに金蔵っぽいな。解説文には「大奥御納戸の脇」とあるけど、石室の場所自体は大奥との境目に近い中奥で、この付近にはかつて慶長期の天守があったともいう。して、慶長期天守のあった場所が本丸エリアのちょうどど真ん中の位置にあたる。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2016年06月06日

出島のオランダ商館にいたヨーロッパ人の中でも、歴史ファンを中心に広く世間にその名を知られているのは、ケンペル、ツュンベリー、そしてシーボルトの3人だろう。これは17世紀、18世紀、19世紀の各時代においてそれぞれが詳細な日本の記録を遺しているからで、中でもシーボルトは鳴滝塾で蘭学を教えたり、いわゆる「シーボルト事件」で教科書にも載っているので、歴史に関心がなくても、なんだか知らないけど名前だけは知ってる、という日本人は多かろう。ドイツ人のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、「ズィーボルト」の方が原語に近いようで、ゆえに「ジーボルト」と表記されることもあるけど、ここでは「シーボルト」で通します。参考文献は『江戸参府紀行』(斎藤信訳/平凡社東洋文庫)です。んで、シーボルトさんはオランダ商館付の医師として来日し、カピタンと共に1826年5月1日に江戸城に登城した。ズーフと同じく朝の6時に宿を出て、大手門から入って例によって百人番所で待機。ここで出された茶はたいへん悪いものだったと言っており、ズーフがカピタンの名誉をかけて断じて動かなかった緋毛氈のかかったベンチのある奥の部屋の設備はすべて「堂々とした感じを与えはしなかった」と言っている。沢山の彫刻が施された仏教様式を思わせる門を通って御殿に入ると、まず控えの間に通される。 そこでは立っていても歩いていても腰かけていても構わなかった。これまで紹介してきたオランダ商館の人達は、足を崩してコートで隠しながらもみんなお行儀よく座っていたのでちょっとこの文章は疑問があるけど、「ここで座って待っていなさい」と事細かに指示されなかったのをいいことに、彼はあるいはウロウロと歩き回ったりしたのかもしれない。ここで待っている間、さっそく見物人がやって来て、扇子や紙にオランダ語でサインしてほしいと頼む者もいた。ズーフはサインを求められたとは書かなかったけど、すでにツュンベリーの以前からオランダ人にサインしてもらうのも定着していたので、ズーフもおそらくなにがしかを書いてやったかもしれない。ただ、カピタンには予行演習があったからな。シーボルトの時にも習礼はあったようで、 ここでまた奉行と外人接待係がわれわれを訪ねてきて、謁見式の次第を次のやり方で 説明した。使節は「拝礼を練習するために」謁見の広間に行くことを求められた。彼は 侍臣に導かれて進み、われわれも数歩はなれて黙って彼について行くことを許された。 (中略)すべての木造部には精巧な彫刻がしてあり金張りになっている。ひとつの 閉め切られた部屋が見え、その左には机の上と、白い檜、いわゆる日の木で作った担架に 似た進物台の上に献上品がうまくきちんと並べてあった。ここで使節は二度・三度と 拝礼する。そのうえ日本流にひざまずいて深く頭を下げ、拝礼と拝礼の間にはその都度 起き上がるのである。拝礼と拝礼の間は起き上がるって、なんだか五体投地みたいだな。イスラムの拝礼じゃないんだから・・・って笑ったものの、「立ち上がる」って書いてる訳じゃないから、まあ座ったまま上体を起こしたって意味だろう。面白いのはその次で、 第三回目の拝礼を終えると目立つほどの色の白い美少年がふたり、畳を敷いた階段を 三段目まで降りて来た。それは将軍のふたりの子であった。今や使節はなおしばらくの間 立ち止まっていて四方から見物されねばならなかった。時の将軍は11代・家斉(いえなり)。家斉といえば50人を越す子だくさんで有名な方ですが、26人いる男子の中で誰が見物にやってきたのかは不明。少なくとも世嗣でないのだけは確かで、ゆえにウワサを聞きつけて大奥から表まで見物にやって来たのだろう。大奥からはるばるやって来た美少年へのサービスのため、習礼が終わっても控えの間に戻れなかったカピタンの姿が少々哀れを誘うして、いよいよ本番。 奉行ならびに数名の侍臣が使節を案内し、ふたりの上席番所衆と通詞が随行し、そして われわれは静々とついて行った。 使節とそのふたりの随員にとってはたいへん 名誉であった 。これを素直に読むと、シーボルトも拝謁の行われる大広間までついて行ったように思えるけど、カピタン1人が連れられていって医師や書記などの随行員はフツー控えの間で待機しているので、ちょっと考えにくいんだよなあ・・・その後の文章も、シーボルトが自分の目で見たものを書いているのかイマイチ判然としない。ま、ともかく 広間のふたつ目の角のところでふたりの上席番所衆はあとに残り、通詞は三つ目の角まで 従った。そこで使節は一瞬立ち止まると、大名や他の高官達はじろじろと彼を眺めた。 それからすぐに低いシーという声が聞こえた。最も高い地位の人が近づいて来られる 合図であった。みなはめいめい決まっている席につこうと急いだ。他の人の記述を読むと、カピタンの拝謁は大広間が一分の隙もなく整ってから大広間に向かっていくという感じだったんだけど、シーボルトの記述からはあまりそういう雰囲気はうかがえない。それでまた「オランダ・カピタン!」と声がかかって拝謁と相成る訳ですが、シーボルトは 使節はここでひざまずき低く頭を下げていたので、前方の金張りの木彫を見ただけで、 将軍の影さえ目に入らなかった。と見てきたようなことを書いている。ホントに大広間までついていったのかな・・・わたくし的には、これは後でカピタンから聞いた話を書いただけじゃないかと思うんだけど。仮にシーボルトが大広間の外から見ていたとしても、カピタンと同じように平伏していなければならなかったハズだから、悠長に見物していられるはずはなかったと思うのだ。して、儀式を終えてカピタンが控えの間に戻ってくると、関係者から拝謁が無事に終わったことの祝辞をもらった。 ここでまた多数の大名や高官が姿を見せていて、その中には10-11歳ぐらいの たいへん礼儀正しい少年で将軍の世子のいちばん下の弟もみえ、2,3のオランダ語を 紙に書いてくれと使節に頼まれたので、書記はただちに書いて差し上げた。見物されるのも これが最後としばらく我慢してから、使節は随行者と共に退出することが許された。 儀式は終わった。エンゲルベルト・ケンプファーが述べたように、透き通って見える 竹の簾の後ろにかくれた将軍の前で踊ったり歌ったりするオランダ人の個人的な演技が 時の移る間に廃止されたことは、やはりわれわれの幸福というべきだった。・・・とまあ、「じろじろと見物されるのは閉口したけど、ケンペルん時みたいに色々やらされなくてよかった~」と言っている。5月4日には再び登城して、例の法規の確認の儀式があった。この時にもまたカピタンは習礼をしたようで、本番の儀式の その間、われわれだけが残っていることは不名誉と考え、拝謁のため使節に随行することが 許されるよう坊主に頼んだ。この願いは奉行や高官らの打合せののちに許されたが、 使節が将軍の前でお辞儀をしている間、われわれは広間の入口で立ち止まっていなければ ならないという点では、相変わらず名誉とはいえなかった。と興味深いことを書いている。ふむ、少なくとも再登城の時には大広間までくっついていったことは間違いなさそうだけど、立ったままで待っていたということは、将軍からは見えない位置にいたってことだろうな。「残っていることは不名誉」って、シーボルトもはいつくばってお辞儀をしたかったのだろうか。 さて、最後のガイジンはオランダ人のヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン。この方は第164代カピタンで、レフィスゾーンの後に2人のカピタンが続くので最後のカピタンではないけれど、江戸参府をしたのはレフィスゾーンが最後。その最後の参府(1850年)でレフィスゾーンが語る内容(『江戸参府日記』片桐一男訳/雄松堂出版)を簡単に紹介しますと、御殿に入るまでの段取りはこれまでと同じ。御殿に入って案内された控えの間は 高く、珍しい、描かれた天井と障壁、彫刻、金メッキの銅で飾られた柱と障壁などを 感嘆するのに、われわれの眼は十分ではなかった。と言っている。人によって御殿の評価が全然違うのがなかなか笑えるところですが、レフィスゾーンの眼はしごくノーマル。して、レフィスゾーンも習礼のために別室へ連れていかれたが、その移動の最中には数えきれないほどの人が彼らを見ようとしていたという。習礼を終えて控えの間に戻ると、 そこで、いろいろの領主、特に肥後、加賀、仙台、久留米の領主に、そして薩摩の世子、 人々がそういっているように、将軍の親戚にまでも尋ねられた。それらの人たちは、 われわれを感嘆し、さわってみたり、かつ私の懐中時計をみせてもらい、もっとも 鄭寧で、われわれに対して親切であった。持ち物や身につけているものなどを、せがまれて日本人に見せてやることはケンペルの昔から同じだけど、ここでは「おさわり」まで追加されている。ガイジン達の書き遺したものを読むと、それなりに各自の個性もうかがえるもので、『江戸参府日記』を読む限りでは、レフィスゾーンは比較的鷹揚な育ちの良さを感じさせるな~というのがわたくしの印象。で、ここでは「おさわり」までされながらもそれで気分を害したというようなことは書いていない。大藩の藩主たちが物見高くオランダ人を取り囲んでいたというのが興味深いですが、レフィスゾーンが登城した1850年4月26日は旧暦の3月15日。つまり、大名の定例登城の日だったらしい。これはちょっとオドロキだったな。そして、12代将軍・家慶に拝謁。レフィスゾーンがいた場所からは結構距離があり、また周囲が暗めだったので家慶の姿を全く見分けることができなかったと言っている。4月29日(←西暦)には再登城して、お約束の法規の確認をした。この時も習礼があったと言っている。レフィスゾーンはザリガニの儀式のことを、「私にとって大層屈辱的であった」と言っている。同じ時期の世界情勢を考えれば、これはごく当然の感想だと思うんだよね。カピタンの記録は、わたくしはズーフとレフィスゾーンのしか読んでいないので他の歴代カピタンがどう思ったのか、どう書いてるのかは知らないけど、割合からすれば屈辱だと考える人の方が多かったんじゃないだろうか。出島でも参府の道中でもオランダ人はかなり窮屈な生活を強いられていた。その上に、ザリガニの儀式。ウィキペディアによると、 【オランダ人の初の拝礼は慶長14年(1609年)の使節ニコラース・ポイクによる 駿府での徳川家康との謁見であった。】だそうな。その後、様々な変遷はあったけど、1850年のレフィスゾーンの参府まで241年。カピタンはじめ、オランダ商館員の数えきれないほどの様々な感情と忍耐の上に日蘭貿易は成り立っていた。その最も象徴的なものが、江戸城での拝謁の儀式とも言えるんじゃないかとわたくしは思う。にほんブログ村
2016年06月02日
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