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さてお次はオランダ人のヘンドリック・ドゥーフ。この方は「(24)」でも少しだけ顔を出してまして、発音としてはたぶん「ドゥーフ」の方がより原語に近いんだろうけど、わたくしは桂川家関連でこの方の存在を知って、今泉みねにならって「ズーフ」の表記に慣れ親しんでいるため、以後も「ズーフ」で通します。ズーフが江戸に来たのは1806年、1810年、1814年の3回。この頃は参府が4年に1回の割合に変わっていたのでね。が、ズーフにはちと特殊な事情があって、3回の参府をそれぞれ書くのではなく、3回分を一括した形で書いている(『日本回想録』雄松堂出版)。ので、全体的にアバウトな内容ではあるんだけど、前回ケンペルの頃から儀式の基本的な内容は変わってないと書いてるにも関わらずまだオランダ人の登城について書き続けるのは、前のケンペル・ツュンベリーとは違ってズーフがカピタン(商館長)であるから。この後でもう1人のカピタンを登場させますが、色々な面でやっぱり「外野」的立場である商館付医師と主役であるカピタンでは違うのだ。ま、主要な部分はケンペルとツュンベリーの記述だけで充分かと思うので、あまり細かくは書きませんが。でまず服装ですが、拝謁には決まった宮廷服が定められていたとズーフは言う。 商館長はビロード、医師と筆者頭は黒繻子のマントを着るが、我々はこれを城の奥に 入るときに、はじめて身につける。商館長だけが、黒いビロードの袋にいれた刀を、 後ろにつける特権を得ている。それ以外は、医師や筆者頭、その他の職員、船の士官も、 日本では帯剣を許されない。彼らは剣と銃を、船の到着の後、直ちに手渡さなければ ならない。ツュンベリーが、「儀式には我々が帯剣することを求められる」と記して いるのは、間違っている。 とツュンベリーに対してツッコミを入れているが、ツュンベリーの参府からズーフの初回の参府までの30年間でオランダ人の帯剣の取扱が変更になったということでなければ、前回紹介した そしてまた、儀式の日とそれにふさわしいように剣を帯び、普通の牧師のコートに よく似た極めてゆったりとした黒いコートを羽織った。というツュンベリーの文章の「そしてまた」と「儀式の日」の間あたりには「カピタンは」という主語が入るべきだったのかもしれない。して、登城したのは朝の6時。下乗橋で乗物を下りて百人番所まで歩いていき、これまでと同じようにそこで本丸御殿の準備が整うのを待った。番所では一番奥の部屋に通され、赤い小さな絨毯をかけたベンチを勧められて、茶と煙草盆で接待を受け、長崎奉行や宗門改めが挨拶に来た。番所組頭も挨拶に来たが、 ここでは、それぞれがその序列を守る必要があった。番所組頭は、私がもっとも名誉ある もっとも奥の部屋から、それにつづく表の間に行くように、と言った。彼は身分が低いため、 奥の部屋に行くことが許されないのである。私の方からも、私に指示された最高の場所を 離れるつもりはない、と断言した。組頭は私から畳二枚(だいたい2フィート)の ところまで近づいて、私に挨拶した。これについては私は自分の立場を堅く守った(日本では 正当なことは、常に行わなければならない)。私は古くからの慣例を維持するよう、配慮 した。寛大にもこれを一度逸脱すると、それを復活するのは、大変難しいことである。別にズーフが底意地の悪い人という訳ではない。交易のみが許されたオランダ東インド会社の社員という立場ではあっても、カピタンはただの「支社長」じゃない。幕府に対してオランダ一国の代表者であり、責任も名誉もある重い立場なのだ。単に古くからの慣例を守ったというだけではなく、日本国内の慣例を理解した上での行動であり、ケンペルやツュンベリーの著述を先に読んだわたくしは、同行者である医師とカピタンとではこんなにも意識が違うものかと少なからず驚いた。で、幕閣が御殿に揃うと一行も御殿に入るよう促される。まずは玄関付近の控えの間に案内されるが、 ここで我々は脚を床につけて横座りした。足を見せることは、日本では無礼になるので、 我々のマントで足を覆った。ツュンベリーは「長く正座なんかできっかよ!」と足を投げ出し、ズーフは失礼にあたるからと言ってはいるが、やってることは同じそれで、 小憩の後、長崎奉行と外国人世話係は、私を拝謁の間に案内した。ここで私は先ず、 要求されている儀式の練習をしなければならなかった。「おおう、こ、これは『習礼』じゃないか・・・!!」「習礼」(しゅうらい)とは、大事な儀式の前に行う予行演習のこと。諸大名が江戸にいる時は定例の登城がある。定例のおつとめ以外にも、たとえば若殿が成人して初めて将軍に拝謁し、あらためて臣従を誓う儀式など、藩主には江戸城で果たさなければならない重要なおつとめがある。将軍のおわす江戸城にはさまざまな細かい「きまり」があり、毎年年末にドラマになる、抜刀して傷害事件を起こした誰かさんのような行為は当然のこと、ささいなミスでも場合によってはその代償は大きい。たとえば『江戸城のトイレ、将軍のおまる』にはこんなエピソードが載っている。 【小笠原伊予守忠徴が顔の吹出物に膏薬をつけて登城してしまいました。公方様に「御目障」 になってはいかがかと、御坊主を通じ御目付に申しあげ、ご覧をいただき、念のため 大目付にも御届をしておきました。】各自がノーマルな、あるべき姿から無断で少しでもはみ出ると後がヤバいってことでこんなことにまで気を遣ってたというんだけど、いちばん大事なところで不測の事態が生じる可能性だってある。同書によると、大広間で拝謁した大名が平伏した時、腰に差していた刀の鐺(こじり:柄と反対側の先っぽ)が障子に当たって破ってしまったり、烏帽子が落ちてしまったり、前の人の長袴を踏んだりしてしまうことなんかも結構あったそうで、そういう不調法を極力起こさせないためにあらかじめ練習をしておくんだそうな。その手順はざっと 1、諸席内の当人と有志(親類の大名、その席の古参の大名)に御坊主衆を加え、私的に 目立たない場所で大筋を打ちあわせする。 2、私的に諸席内で、誰々は奏者番、誰々は御目付と役割を決め、当人と坊主衆を加えて 別席で練習する。 3、御目付より「寄せ」(集合)の声がかかり、奏者番・坊主衆が出て、本番の定刻より 早めに実習をおこなう。 (前掲書より)というものだそうで、時には大名の屋敷に招いて拝謁RPGを行ったりもしたそうな。こういう地道な練習を繰り返して初めて、限られた時間内でのスムーズな儀式進行が可能になる。何か目立つ失敗でもして、儀式の進行の妨げにでもなれば、本人はもとより、責任者である御目付などの責任問題にもなる。カピタンの拝謁の場合は、 もし途中でつまってしまったら、奉行がこれを償わなければならないからである。とズーフは言っている。カピタンがらみで重大なトラブルがあった場合、長崎奉行が何らかの責任を取っている例は実際にある。ズーフの時にはある人は更迭され、ある人は切腹した。 ズーフは長崎奉行と外国人世話係に呼ばれて一緒に習礼を行ったようだから、ズーフの言う通り、カピタンの拝謁にはこれらの人が直接の責任を負うのだろう。習礼を終えて一旦控えの間に戻ったあと、長崎奉行と大通詞とともに大広間へ向かう。大通詞は途中で待機し、長崎奉行とズーフの2人だけが拝謁の間に入る。 献上品は私の左側に並べられていた。ここに将軍すなわち皇帝がいたが、その服装は、 その家臣のものと、何のちがいもなかった。老中の一人が「オランダカピタン」と呼び、 私の拝謁を披露すると、私はこの国の諸侯と同様に、拝礼した。私より数フィート 後ろにいた長崎奉行は、ここで私のマントを引っ張って、拝謁が終わった合図をした。 すべての儀式は、長くても一分以内だった。たった1分のためにわざわざ長崎から遠路はるばるやって来て、奉行たち相手に予行演習までやった上に、黒いザリガニに徹しなければならない。カピタンも大変だな~と思うものの、意外にもズーフは (前略)多くの人が、オランダ人を非難し、オランダ人が日本の習慣と礼儀に従うのは、 自己卑下であると考えている。私はこれが何故卑屈であるのかわからない。我々が日本人に たいして守る礼儀は、彼らが互いに守っている礼儀であり、彼らの大官に対して、日本人 自身が示している尊敬以上のものを、要求されているわけではない。彼らの国の習慣は、 そのようなものであり、世界のどこに到着しようとも、そこで行われている習慣と礼儀に、 一致しなければならず、さもなければ、そこから立ち去らなければならない。友好を求めて きた国に、訪問者の習慣と一致しなければならないと、要求できないことは確かである。 私の考えでは、そこの人々が互いに守っているもの以上ではない、習慣や礼儀に従うことは、 少しも卑下ではなく、義務である。と言っている。「習慣と礼儀」の中には、おそらくザリガニの儀式も含まれるだろう。まあ確かに、そう言われればカピタンの拝謁は諸大名の拝謁と変わるところがない。ケンペルの時のように、第2幕でいろいろやらされた訳でもないので、ズーフには気を悪くするほどのことでもなかったのかもしれない。ただ、これは長い期間を日本で過ごし、日本のシステムと慣習を知り尽くしたズーフだからこその見解という可能性は多分にある。して、その彼が見た本丸御殿は 豪華なものは何ひとつなく、広間には家具もなかった。すべての広間には引き戸があり、 日本式に金紙をはり、絵が描かれ、これを開けるために金色の引手がついていた。 これがこの広大で空の宮殿の唯一のぜいたくだった。広間と建物全体の大きさ、そこを 支配している陰鬱、これ程多数の人々の間の、考えられないほどの静寂、これらすべては 豊かに飾り立てられた宮殿を超えて、身震いするような敬意を抱かせた。日本でもっとも権威と格式のある江戸城本丸御殿をつかまえて、「豪華なものは何ひとつない」と・・・先日の伊勢志摩サミットは無事に終わってようございましたが、各国首脳が伊勢神宮に参拝するシーンをTVで観ていた時、母親は「伊勢神宮は素晴らしいって、きっとみんな言うわよ」とコーフンしていた。しかしわたくしは、「日本人だからそう思うけど、ガイジンはどうかな~。価値観違うからな~」と思った。というのも、ケンペルは入口ばかり立派で、そのずっと奥にある社殿があまりに簡素であっさりしたものである神社を評して「大山鳴動して鼠一匹」と言っているのを知っていたからだった。実際の本丸御殿は木目の美しい立派な木材をふんだんに使い、ふすまには障壁画、大広間の格天井にはきらびやかな絵が描かれて充分豪華だったハズだけど、調度品で部屋を飾り立てる西欧とはあまりに違うので、こういう評価になったのだろう。ガイジンの素直な感想は、価値観が違うと見方もこれだけ変わるのかという点で面白い。にほんブログ村
2016年05月30日

糞尿調べにも多少のメドがついて、さすがのわたくしでも食事中に糞尿だらけの本を読み続けるのはちときつかったので、糞尿調べはもうやめて『江戸幕府大事典』を眺めていたら、オランダ商館についての記述もいくつかあることに気がついた(←全然調べてなかった)。「江戸参府」という項目には、 【江戸滞在は2,3週間程度、江戸城大広間での将軍への謁見の儀は日本式で 商館長は膝行・拝礼を行った。白書院では将軍や家族、大奥の女性が娯楽見物の 目的で商館長らオランダ人に舞踏や歌謡を注文することもあった。】とあっさり書いてあった。なあんだ~、やっぱり白書院だったのか。一生懸命考えたのにまあいいさ、自分の頭で考えることに意義があるのだ。フン。さて、次なるガイジン。オランダ商館付医師であるツュンベリーは、カピタンに随行して西暦の1776年4月27日江戸に入った。カピタンの参府は基本的な部分はケンペルの頃から幕末まで変わっておらず、一行は旅の間は諸事制限を設けられていた。大都市では必要があって何日か滞在もして、旅の間もっとも長くひと所に留まったのは江戸だったが、オランダ人には自由な行動、特に外出は許されておらず、出入りする日本人も許可を受けた者だけという厳しいものだった。もちろんそれは、彼らが日本で禁教となっているキリスト教徒だからで、ポルトガル人など日本から追い出されたヨーロッパ人がカトリック系で日本でも貪欲に布教をしたのに対し、オランダ人の場合は新教系だったのが日本に居残ることができたひとつの理由だったとも言われるけど、キリスト教徒であることに変わりはなく、ヨーロッパ諸国の中でオランダ人が日本貿易を独占できたのは、日本で布教しないという条件を承諾したからでもあった。ゆえに、参府の途上でひそかに布教をしたり宗教グッズを配布させないための防止策のほか、密貿易の防止という目的のために常に厳しい監視の目にさらされていた。で、江戸ではこの旅の最重要目的である儀式に臨まなければならないのでさっそく献上品の準備に取り掛かったと思われるものの、それについてはツュンベリーは書いていない。その代わり、大勢の日本人の訪問を受け、特に桂川甫周と中川淳庵とは親密な関係を築いたと書いている(「(24)」~「(25)」参照)。して、5月18日にいよいよ登城。参府の旅というのは、出発の日は決められていたが、途中海路を利用することや東海でのいくつもの川越えを抱えていて自然現象に大きく左右されたので、あらかじめ謁見の日を決めることはできなかったという。登城のあとで高官宅への挨拶回りなども控えていたためか、 この日、事前に十分な朝食をとった後、早朝、一番上等な衣服を着て、将軍の宮殿へ 行くために乗り物にのった。とにかく我々は、高価な絹地で作られ、銀糸が織り込んであるか 金モールの縁どりのあるヨーロッパの衣服を身に付けた。そしてまた、儀式の日とそれに ふさわしいように剣を帯び、普通の牧師のコートによく似た極めてゆったりとした 黒いコートを羽織った。とお腹も外見も準備万端整えた。ツュンベリーの頃もカピタンの任期は1年交代で、積み荷を載せたオランダ船が毎年長崎にやって来ていたが、新商館長と士官全員が上陸するとまず火薬や武器類を取り上げられたらしい。その上で荷揚げ作業などをして、船が再び港を離れる時に、日本側が預かっていた武器類をオランダ船に返すのだとツュンベリーは書いている。こうして安全のための措置を取っていたのだから、出島に住む商館員の所持できる武器類というのも当然制限はされていたんだろうけど、儀式用の剣を持つことはできたってことだな。それに、ツュンベリーは旅の途中で銃を使っている。まあそんなものオランダ人に預けておくはずはないし、彼自身別のところで「鉄砲の使用が許されず、手に入れることもできなかった」と書いているので、おそらく必要な時だけ日本の銃を借りたってところじゃないかと思うけど。そして、乗り物に揺られて江戸城に到着。 最初の門のそばには、強固に構えた番人がいたが、第二の門には毎日1000人の男が 立っているそうである。我々はこの門を通ってすぐに、まず乗り物からおり、それから一室に 案内された。さらに将軍の宮殿に入ることができるまでに、まる一時間をそこで待たなければ ならなかった。ようやくそこへ行ける許可が出た。我々は宮殿の入口までの両側に、長い列を なして並んでいる武士のあいだを歩いた。彼らは全員、武具を身に付け、上等な身なりを していた。ここには書かれていないけど、おそらく番所で待っている間に幕閣たちがスルーしていったのだろう。大勢の武士が居並ぶ荘厳な道をしずしずと歩いて本丸御殿に入ると、まず「客間」に案内されて、そこでもまた1時間ほど待たされた。 我々の役人は一方の側に日本式に坐り、オランダ人ならびに通詞がもう一方に坐った。 我々にとって日本式に普通に坐るのはかなり困難であった。我々はそのような姿勢を長く 保てなかったので、足を一方に投げ出し、その上に大きなコートをかけた。このような場合、 コートはたいへん好都合であった。お行儀の悪さをコートで隠して坐っていると、控えの間に大勢の見物人がやって来た。中にはこっそりやって来た藩主もいたという。オランダ人は当然、ユーラシア大陸のはじからはじまでやって来ているので色んな国の人種を見たりもしている訳だけど、外国ではおおむね身分の高い人間ほどさまざまなアクセサリーなどを身に付けているものなのに、日本人の場合はそういうチャラチャラしたものは一切付けず、将軍から農民まですべて同じ髪型と衣服でそこには差がないと感じたらしい。言われてみればなるほどと思うんだけど、もちろん身分や経済力に応じて多少の差があることはガイジン達もわかってはいる。ただ、江戸城ではみんなきちんとした身なりをしているので、ぱっと見てだれが殿様か外見だけで区別するのは難しかったかもしれないけど、殿様が部屋に入ってくるとすぐにし~んとなったので、藩主のお出ましはすぐにわかったと書いている。そういう風に色んな人の出入りがあったので、長い待ち時間の退屈しのぎになったらしい。 彼らの好奇心はあらゆる事柄に向けられたが、最も熱心であったのは、我々がどのように 書くかを見ることであった。紙や彼らの扇子に何かを書くよう求められた。二、三の者は また、以前オランダ人がそこに書いた扇子を見せてくれた。彼らはその扇子を、貴重品として 大切に保管していた。色々とガイジンについて紹介してきていて、とりあえずここでは江戸城に関することだけに内容を絞っているので朝鮮通信使の記事ではあえて書きませんでしたが、朝鮮通信使の一行には沢山の日本人が押し寄せて書を求めている。申維翰も金仁謙も書に関する役割で同行しているので来訪者のターゲットとなり、申維翰は墨をすらせながらその求めに応じたものの、あまりに数が多いので墨をするのが間に合わなかったと書いているし、金仁謙も老体にムチ打って沢山の書を与えてやったと言っている。中には街道から遠い所に住んでいるのにわざわざ一行に会いにきた日本人もいて、漢詩の心得のある人は自作の漢詩を見てもらったり唱和してもらったりしてるんだけど、庶民までも書を求めて押し寄せたらしく、なんでそんなに人気があったのかと思ったら、朝鮮人に書いてもらった書は福を呼び込むという俗説があったらしい。それでなくても通信使の一行は楽を奏でながら進んだり、馬上才などの珍しい技を持つ人などもいたし、そのうえ滅多にやって来なかったので、一行が来日したら「キャ~、サインしてえ~!!」ってカンジで、韓流ファンが狂喜してヨン様を迎えに行くような感覚だったのだろう。ケンペルの時にも字を書く様子を見物されたりはしているけど、ケンペルが江戸の宿舎で書き損じを窓から投げ捨てた時、ヨーロッパの文字が書かれた紙を窓から捨ててはいけないと注意されている。それが、ツュンベリーの時にははっきりサインを求められた。しかも、江戸城で。85年の間にずいぶん変わったもんだと思うけど、ケンペルからツュンベリーまでの85年の間に朝鮮通信使は4回来日している。ので、時代が下るにつれ「ガイジンが来たら、とりあえずサインもらっとけ~!!」てな感じに福を呼ぶガイジンの範囲が拡大していったのかもしれないと思ったさて、その後もっとも重要なカピタンの拝謁の儀式がある。ツュンベリーは、ケンペルの時とは大きく異なっていたと言っているものの、基本は変わらない。まず、カピタンだけが老中や藩主の居並ぶ大広間へ連れていかれる。儀式の間中、将軍・家治とその世嗣は御上段の間で立っていたと言ってるけど、これホントかな? 謁見の部屋の右側には、献上・進物品がうずたかく積まれて置いてあった。謁見は終始 その部屋だけで行われ、商館長は部屋に入るとすぐに膝を曲げ、両手を床につき、頭を畳に つけて、ちょうど日本人がその従順さと尊敬の意を表すようにお辞儀をする。それから 立ち上がり、そして前とまったく同じ道を客間へ連れ戻される。本丸御殿でのイベントはこれだけ。ツュンベリーがケンペルの時と全然違うと言っているのは、見世物興業をやらされた第2幕がなかったという点だろう。ただ、カピタンが控えの間に下がって待っている間、なんと家治みずからもっと間近でオランダ人を見ようとこっそり控えの間に入ってきたらしい。もちろんこの時も部屋の中は水をうったように静かになった。家治が入ってきたことはその場で知らされたので、ツュンベリーは間近で家治を見たと思われ、 将軍は中背でたくましい体格をしており、40歳過ぎと見受けられた。と書いている。しばし待たされたあとで、御殿内を少し見物してよいとの許可が与えられた。が、御殿に関する記述は少なく、 我々が見た他の部屋には、何も家具がなかった。床には大きく真っ白な畳が敷かれており、 枠や扉にはきれいに漆が塗られ、そして金具には金メッキが施してあった。で、御殿内の畳は通常より大型のものだったと書いている。にほんブログ村
2016年05月25日

金仁謙は第11次朝鮮通信使の従事官の書記として宝暦14年(1764)2月16日に江戸入りした。その旅のことを書いた『日東壮遊歌』(高島淑郎訳注/平凡社東洋文庫)は副題が「ハングルでつづる朝鮮通信使の記録」となっていて、もちろんわたくしは日本語訳されたものを読んだ訳ですが、たぶん申維翰の『海遊録』の原文は漢文で、ゆえに和訳されていても相当読みづらかったのに対し、『日東壮遊歌』は原文がハングルなために読みやすい。(ただし、文士である金仁謙の記録がなぜハングルで書かれているのかは不明。解説によると、漢文で書かれた『東槎録』をハングルで書き写したのが『日東壮遊歌』らしい。)すでに「(38)」で金仁謙の文を一部紹介したように、彼自身は江戸まで行きながらも儀式に臨まなかったので、金仁謙の分の記事についてはカットしようかとも思っていたのですが、それなりに詳しい話も同僚から聞いて書き遺しているし、申維翰が書いていない内容も書かれているので、ついでにここで紹介しておきます。今回もより前掲書からの引用が中心になりますが、なぜわたくしが金仁謙に対していい印象を持っていないのか、本文を読むことで理解して下さる方もおられるんじゃないかと思います。さて、江戸に到着した一行は毎日日本人からの挨拶を受けたりしていたが、2月27日にいよいよ登城となった。この日は雨だったが、 使臣方は朝服を召され、裨将らは戎衣、文士訳官は官服に身を整える。 使臣方の輿が従卒らに担がれ、笛や太鼓を打ち鳴らし、六行の礼をもって進むしかし、金仁謙は「(38)」で紹介したような理由で登城を拒否した。三使臣は 「ここまで来た上はともに赴き見物してきたとて悪いことではないから出かけよう」と説得したが、金仁謙は上役の誘いにもガンとしてうなずかなかった。 使臣方が仕方なく笑って言われる。 「そうして帰国した後、ひとり良い格好しないでくれよ」 「良い格好などとんでもない。物事の理を申し上げたまでです」別に一行をおとしめるのがこの記事の目的ではないのですが、いちおう言葉を添えておくと、要するに朝鮮側では日本人をさげすんでいるので、帰国後の本国で日本人に頭を下げなかった金仁謙の株が上がる、ということを意味しているらしい。もちろん、三使臣がそんな駄々をこねたら任務が果たせない。さすがに国使なだけあって、三使臣は別の場面でもきゃんきゃんわめきたてる金仁謙を政治的判断で叱りつけたりしている。金仁謙は申維翰よりも下の立場だったようで、別に登城しなくても不都合はなかったんだろうけど、それでも三使臣は「まあ見物だと思ってさ。軽く行こうぜ、カルく」と穏やかに諭している。三使臣はこの旅の朝鮮側の責任者でトップの地位にあるのに、それでも金仁謙はひとり宿舎に残った。そして夕方になって帰ってきた同僚の南玉をつかまえて詳しく聞いたところによると、まず本丸御殿の玄関に入るまでは「(38)」で書いた通りで、 板の段を上り柳の間に入ると、使臣方の外の控えの間。 角一本出た紗帽を戴いた紅衣の者や、木靴を逆さにしたような冠を戴いた者がいたが、 素足で坐っている者の数がきわめて多かったという。 内の控えの間に入る。松が描かれた部屋である。使臣方の右手に倭人数十人が坐していたが 皆黒い絹の官衣を着け、一角帽を戴いている。通詞に尋ねると、執政(老中)らとの ことである。対馬島主は黒衣を着てそのかたわらに坐り、その後には紅衣を着た者が 十列ほども並んで坐る。これは各州の太守らで、林信言、林信愛はいちばん端に坐っていて 軽く会釈したとか。 執政に導かれ梅の間に入り、一度着座した後また退室。次に国書を奉じて入り四拝し、 私礼単(非公式な贈品目録)を差し出し、また拝礼。関白(将軍)の宴に臨んでまた礼。 退出する際また礼をし、前後合わせて四度も四拝する。堂々たる千乗国(大国)の国使が 礼冠礼服に身を整え、頭髪を剃った醜い輩に四拝するとは何たることか。退石(金仁謙)が 来なかったことがうらやまれてならない。 首訳と文士はそれぞれ一列に並び、拝礼を済ませ退室する。軍官と上官全員は二組に分かれて 拝礼。次官と小童らは落縁で拝礼。中官は前庭で拝礼する。 (カッコ内はジジイが追加)「こんなに拝礼させられたんだよ!」「ええっ、マジか!?」「も~お前、ホント来なくてよかったよ」・・・て金仁謙と南玉の会話の様子が目に浮かぶようですが、金仁謙や南玉の悪意のかたまりの部分を除いて一連の流れを見てみると、申維翰の頃とほぼ同じ流れであり、おごそかに儀式が執り行われたのがわかる。カピタンの謁見とはまったく違うことは言わずもがな。人から聞いただけの話の割に内容が細かいのが笑えるところで、「梅の間」は御殿図には見当たらないし、儀式が大広間以外で行われるはずがないのでふすまに梅の絵でも描かれていたのだろう。「松が描かれた部屋」は恐らく大広間に連なる「松の間」のことだと思う。江戸に出ていた諸大名が正装して儀式に参加していたこともわかる。この時の朝鮮通信使は、第10代将軍・家治の就任祝いのためだった。南玉の話は続く。 関白の坐っている所が遠く暗いので顔はよく見えなかったが、白い衣服を着ていたという。 使臣方の席は関白に近く時間も長かったので、仔細に見たそうである。細面(ほそおもて)で 顎がとがり、気は確かなようだが挙動に落ち着きがなく、頭をしきりに動かし折り本を弄び やたらにきょろきょろして泰然としたところがない。傍らには6,7人の者が侍っていたと いう。 饗宴の席に赴くと、膳は7つ出され、飯は3度、汁も3度運んでくる。肴を3度取り替え、 茶は1度持ってくる。一対の造花は先の振舞いのときと同じである。食べ物の奇怪さ、 箸を付けられる物はまったく無い。申維翰の記述だけを読むと、儀式の後の饗応で一体どんな料理が出されたのかはわからない。ので、一国の国使をもてなす宴としてはちょっと考えにくいものの、「三献の儀」で出されるようなまともに食べられる料理じゃなかったのかもしれないとも思った。が、金仁謙(つか、南玉の)話ではっきりわかった。これは式正料理(本膳料理)(おそらく三汁七菜あたりの豪華なもの)だったんだ。もちろん料理の内容まではわからないけど、幕府がメンツをかけて朝鮮国の国使をもてなす訳だから、本当に食べられないものを出すハズがないのだ。そりゃそうなのだ。まあ、わたくしの脳裏に焼き付いている式正料理といえば室町期の大内さんちのもので、江戸期のものとは多少違っているかもしれないけど、たとえば現代の懐石料理なんかよりももっと盛りつけなども派手だったろうし、初めて見る朝鮮人にとってそれが奇抜に見えたであろうことも想像がつく。その後には少し御殿の記述も出てくる。 楼閣や軒下は丹青(各種の色で描かれた絵や模様)を施さず、 柱、梁、垂木にはことどとく鍍金(めっき)し、屋根瓦は銅で葺いてあるようだ。 殿宇は狭苦しいうえ、回廊も薄暗い。特に贅沢とは思えないが、精巧かつ堅緻(けんち) である。木目の入った材木を使い、つるつるに磨き上げられている。 使臣方が退室される際には四人の執政が従ってきて、玄関の式台で揖して送る。 島主と目付らは式台の下で揖し、二人の館伴、二人の長老は第三門(中之御門)の外まで 来て揖して見送る。使臣方は第四門から輿に乗られ、第六、第七の門では皆それぞれ 馬や駕籠に乗る。行列の威容を整え、館所に戻る頃には雨もあがったので、雨装束を解く。 三絃鼓笛を打ち鳴らし、三重の濠を渡ると、長い多聞と白い築地の塀が続き、朱塗りの高い 門には金の彫刻が施され、銅で飾った家々が左右に連なっている。通詞に尋ねてみると、 執政や太守の屋敷とのことである。黒衣を着た執政らには気品ある者も見受けたが、 紅衣を着た者どもは形ばかりの人形のようであったという。御殿内部の木材についてはケンペルも書いているので、薄い漆だけを塗って木目の美しさを活かした立派な木材はガイジンの目にひときわ印象深く映ったのかもしれない。珍妙な冠の描写からすると参列者の服装はおそらく衣冠または束帯で、『徳川盛世録』によると四位以上が黒、五位が浅緋だそうな。江戸城で粗相でもあれば後が大変なので、黒衣より格下であろう紅衣の者が「形ばかりの人形のようであった」のは当然とも思える。南玉からこれらの報告を聞いた金仁謙は最後に こうして話をすべて聞いてみると、行かずに休んでいたことが真実良かったのだと 嬉しくもあり幸いとも思う。と述べている。翌日、対馬藩主がイベントの成功を祝いに来て、 更に言うには、関白より言葉があったとかで 「朝鮮国の使臣らは礼儀正しく気品も備わりなかなか立派である」 とのこと。聞いていて可笑しい。その2日後の3月1日。 三人の兵房担当と三人の首訳が馬上才を引き連れ関白の御殿に赴き、技を披露して帰る。 関白が大層褒めたということである。さらに3月6日には 射芸が催され、我が一行からも8名を選抜、関白の御殿へ遣わす。島主の采配で行われるが、 各州の太守も集まっていた。「馬上才」は解説によると曲馬を演じる者で、寛永12年(1635)に家光が観たいと朝鮮に交渉して初めて日本で馬上才が演技したそうで、それ以後朝鮮通信使の一行に加えられるようになったそうな。「射芸」はそのまま弓芸のイベントらしく、朝鮮側からは軍官らが参加したが、当日の成績が悪かった金応錫は「病みつくほどに気落ち」して、それに対して金仁謙は「可笑しくもあり哀れでもある」と言っている。これらの記述から、使臣が国書を持って江戸を発つまでに、儀式以外でも城内に通信使の一行が迎えられ、文武の文化交流が行われていたことがわかる。にほんブログ村
2016年05月21日

将軍・綱吉への拝謁の3日後の1692年4月24日、ケンペルら一行はふたたび江戸城へ登城した。前年の訪問の記事で、拝謁した2~3日後にまた登城してオランダ人に対する法規を守ることを約束させられると紹介しましたが、そのシメの儀式のために再登城をした訳です。前年の参府の時にももちろん再登城はあったんだけど、あっさりした記述なので記事の中ではカットしました。毎年繰り返し宗門改めがカピタンの前で読み上げる「法規」は、ケンペルによると 大体次のようなことである。 日本に渡航する中国人や琉球人に妨害を加えては相成らぬこと。 またポルトガル人およびその供の者を連れ込んではならぬこと。 その方どものみ自由に交易し、入港を相許すこと。だそうで、これを再確認して「いわゆる幸福の手紙」がもらえる。幸福の手紙は「お墨付き」のことのようで、あわせて時服が下賜されて江戸での主要な儀式は終わる。たぶん、前年は例年通りこれだけの儀式で終わったから詳細な記述がないんだと思う。が、今回はまたもや第2幕が待っていた。この日は朝7時に宿舎を出たようで、カピタンの儀式が終わると【将軍の台所から出たと思われる食事】に招かれた。各ガイジンの江戸参府記には何を食べたという内容もそれなりに載っていて、特にケンペルの記述は詳細なので、オランダ人へのもてなしにどんな料理が出されたのかできればすべてをご紹介したいところですが、今のところはちょっと無理そうなので、せめてこの時に城内で出されたものを引用して紹介します。で、【どうみても将軍が出すには粗末な朝食】の内容は、 ・5個の温かい甘菓子。それは四角形で白い形をしていたが、にかわのように なかなか噛み切れなかった。 ・小麦粉と砂糖を混ぜて焼いた厚いパンのようなものが2個。周りは二指尺ぐらいあり、 中空になっていて白ゴマがふりかけてあった。 ・陶器の小皿に細く切った塩味の生ザケに醤油のような褐色のソースを少々かけたもの。 そのソースの味はたいして辛くはなく、かえって少し甘みがあった。2つめは和菓子の「松風」みたいなもんかな?あ、でも「中空」って書いてあるな・・・3つめはまあそのまんまの「肴」的なもんだと思うけど、1つめのなかなか噛み切れない白い温かい甘菓子ってなんだろ?「すあま」とか連想してみたんだけど。肉食人種にこれっぽっちの軽食が食べきれないハズもないと思うものの、「もっと食べなさい」と勧められてもそれほど食べなかったらしい。別に不味かったと書いてる訳でもなく、 ・すでに宿舎でも軽く朝食を食べていたこと ・城内の待機所である番所で出されたまんじゅうを食べていたこと ・礼儀上のマナーという理由によるものだと言っている。それから場所を変えて控えの間で待たされたが、待っている間に 奥まった将軍の部屋に運び込まれたのは、疑いもなく銀製の3つの洗面器であった。 その後から黒漆を塗った小さい重ねた膳部の、下の方には2,3枚の皿と小さい盆が 重ねてあるのを、再び運び出してきたので、我々はそこで恐らく将軍が食事をとられた ものと想像した。と書いている。その想像が正しければ、お別れの拝謁の第2幕のイベントは中奥で行われたという可能性が濃厚な気もするけど、しばらく待たされたあとでギャラリーが大勢居並ぶ広間へと入る。 そういうわけで、我々は日本流に床に坐って頭を下げたが、命じられて1人ずつ御簾の前に 進み出て、ヨーロッパの流儀で将軍に対し敬意を表さねばならなかった。それから私は またしても歌をうたえという命令を受けた。そこで私は、私をいつも信頼してくれた 昔馴染みのフロリメーネを讃えて、昨年ここで歌ったのと同じ歌を歌った。(中略) 結びの所を私は作り替えて「その数知れぬ黄金も、いとしきフロリメーネにくらぶれば、 なんの値打ちのあるべきか」と歌った。これについて将軍は説明を求められた。 「私はこの歌の中で、天上の神が将軍とその御一族に、はかり知れぬ幸福と泰平と祝福を もたらしますように、と申したのでございます」とお答えした。 歌い終わってから我々は外套を脱ぎ、部屋の中をぐるぐると歩き回らねばならなかったが、 カピタンも一緒だった。それから親しい友人と思いがけず会った時の挨拶や、友人や父や 恋人との別れの挨拶を演じた。喧嘩口論の末、仲直りして再び別れる仕草もやらされた。よくまあ飽きもせず次々と要求するもんだと感心するけど、言葉が通じないのを幸いに親しい女性への愛を替え歌にするなど、ケンペルもしゃあしゃあとおふざけに興じている。その後はちょっとしたお医者さんごっこが始まる。まず1人の足の悪い坊主を診察したあと、外科担当の奥医師が2名入ってきて質問を受けたりした。すると、また軽食が出された。 ・ゴマを付けた中空の小さいパンのようなもの2個。 ・白い縞のついた精製した砂糖1個。 ・我々の国のハタンキョウによく似た、皮のついたカヤの木の実5個。 ・四角の小さい焼菓子1個。 ・蜂蜜の入ったじょうごの形をした厚く巻いた褐色の菓子2個。これは歯切れが悪かった。 ・豆粉と砂糖で作った赤褐色のもろい四角の薄いせんべい2個。 ・米の粉で作った焼いた黄色の歯切れの悪い餅2個。 ・同様に焼いて小さく切った2個の四角い菓子。中に粘りのある求肥が入っていた。 ・豆から煮て作った褐色の砂糖(餡)入りの饅頭1個。 ・それより小さい、普通の大きさの饅頭2個。ケンペルの記述を基にして、これらの菓子をあの「とらや」さんが再現しています。とらやさんのホームページに写真が載っていますので、興味のある方はどうぞ。(トップ⇒菓子資料室 虎屋文庫⇒歴史上の人物と和菓子⇒ケンペルと将軍綱吉から下された菓子)余談ですが、『歴史上の人物と和菓子』には申維翰の記事もあります(『申維翰と求肥飴』)。ほとんどが甘いお菓子のようだし、まともに食べたら結構お腹いっぱいになりそう。あるいはがっついてペロリと平らげるのはマナーに反すると思ったのか、すべての品を少しずつ食べてあとは残したらしい。ちなみに、前年もこの時も一行が城内で食べ残したものはすべて通詞たちが包んで持ち帰らされている。軽食が終わると、 我々は命じられるままに、外套を着て1人1人御簾の前に進み出て、相応の臣下の礼をとって 別れの挨拶をした。して、最初は若年寄らに、途中からは宗門改めと長崎奉行に導かれて控えの間に退出したが、控えの間の前で長崎奉行は一行に別れの挨拶をした。 彼は同僚と一緒に、我々が将軍から異例の有難いもてなしを受けたことに祝意を述べ、 「長いこと思ってもみませんでしたが、オランダ人がこんなに厚遇されたことは 初めてです」と言った。ということで、この年の参府は前年にも増して大成功を収めたらしい。あくまで医師として参府したケンペルが役者になりきって大奮闘した甲斐があったというものだけど、やっぱり世渡りの上手いコルネリウス・アウトホルン氏も自ら日蘭友好のために頑張ったのかもしれないな。ところで、ケンペルはその日その日の出来事を1日ずつ日記形式で書いていて、個別の記述についてはわたくしが読んだガイジンの参府記の中でケンペルが群を抜いている。その情報量たるや大変なものだけど、惜しむらくは江戸城のトイレに関する記述がないこと。江戸城にももちろんトイレはある。わたくしの持っている御殿図にも、「これがそうかな?」ってのがいくつかある。御殿図にはわざわざ「雪隠」とか描かれてはいないので全部のトイレを把握できてる訳じゃないんだけど、確かにトイレはある。しかも、『江戸城のトイレ 将軍のおまる』(小川恭一/講談社)によると、小さいの用のトイレと大きいの用のトイレに分かれていて、大きい方のトイレが「雪隠」と呼ばれ、小用場(小便所)の奥にあったらしい。カピタンの参府の時は、日本側の衣裳は朝鮮通信使を迎える時ほど堅苦しい儀式用衣裳じゃなかったかもしれない。ただ、重要な儀式の時には大名たちは長い袴を引きずったりして、気軽にトイレに行かれるいでたちでもない。大きい方なんかもよおしたりしたらそりゃ~大変だっただろう。平安貴族のトイレ事情を「叡山攻め(102)」で簡単に書いてますが、江戸期にも尿筒(しとづつ)はまだ健在で、将軍が御所に参内した時に尿筒をもって小用のお世話をするためだけの役職があったらしいし、前掲書では下野黒羽藩主・大関増業の書いた『柳営勤仕令』にこんな文章があると紹介している。 【増上寺御拝礼に際し、着衣は衣冠なので、持参する三品を再確認する。「金剛草履」は 自分の懐中に、小用筒と渋二尺四方(用途不詳)は、留守居、刀番に持たせる。途中から 留守居は控場所に戻し、刀番は宿坊に戻す。】束帯衣冠などの正装でどんだけ着こむか考えれば、フツーに用を足すのはまず無理だと誰もがわかることで、そういう時は着物の脇から尿筒を差し込んで用事を済ませたようだけど、はたして本丸御殿で尿筒を使えたものだろうか・・・ケンペルに話を戻すと、もし自分が長い外国旅行をしてその日記を書くとしたら、やっぱり自分の生まれ育った環境との違いについての記述が中心になるだろう。それが軽蔑であれ面白いという感情であれ、沢山書くことがある中で目新しくもないものまで微に入り細に入り書くことはあまりないだろう。ケンペル一行は、結構長い時間を御殿内で過ごしている。当然トイレにも行きたくなるだろうし、トイレに行かれなくて苦労したなんてわたくしのような記述は見当たらないから、たぶんトイレに行ってるだろう。御殿のトイレだけじゃなく、排泄関係で他にも気になることがあったので食事中にまで糞便の本を読んでこのところ糞尿まみれの日を過ごしているわたくしですが、ケンペルの時代、ヨーロッパの高貴な方々のトイレは奔放だった。 【フュルティエールの伝えるところによると、王妃アンヌ・ドートリッシュの侍従であった ブランカース伯爵はある日王妃の手を放すと壁のタペストリーのところへ行って放尿したと いう。アンリ4世は1606年、ルーヴル宮殿内を汚物で汚すことを禁じ、違反者には 4分の1エキュの罰金を科すことにした。ところが、まさにその日にアグル嬢は王太子が 自分の部屋の壁に向かって用を足しているところを取り押さえた。(中略)また大蔵卿 ショーンベルク殿の甥リュード伯爵は伯父の家へ入ると真直ぐに暖炉の方へ行き、 そこで長々と放尿したので、居合わせた人々は大笑いをしたという。】 (『トイレの文化史』 ロジェ=アンリ・ゲラン/筑摩書房より)しかし、そういう時代に生きたからってさすがに江戸城の好きな所で立ちションはしないだろう。どんなに過ごしやすく配慮してくれたところで、御殿内では必ず監視の目があったハズだから、3人のオランダ人のうち誰かがお行儀の悪いことをしたら大目玉をくらっただろうし、そういう出来事があれば不本意ながらもケンペルが書き残してるんじゃないかと思うのだ。幸い、カピタン一行の服は日本人の儀式服とは違って用を済ませやすい作りだった。ので、きちんとトイレを借りてお行儀よく定められた場所で用事を済ませたのだろう。そして、金ピカの便器だとか特段変わった作りのトイレでもなかったのでケンペルの記述からはもれてしまったのだろう・・・残念です。実に残念です。小川恭一氏によると、江戸城のトイレに関するあれこれはわかっていないことが多く、史料に見られるわずかな記述から推測するしかないようで、鋭い観察眼を持つケンペルがどんなトイレだったか書き残していてくれればと惜しむのはわたくしだけではありますまい・・・(たぶん)。にほんブログ村
2016年05月16日

前回はうっかり間違えて申維翰の登城を先に紹介してしまいましたが、ケンペルは2年続けて江戸へ参府しているので、時系列的にはケンペルの2回目の登城の方が先でした。すみませぬ・・・まあ、1回目の時と似たようなもんですが、ついでなのでケンペルの2回目の登城についても書いておきます。2回目の江戸入りは1692年3月31日(←月日も西暦)。着いたら早速長崎奉行や宗門改めなど幕府要人から歓迎のあいさつを受ける。長崎奉行といっても1人だけではなく、ケンペルの頃には3人の奉行がいて、江戸詰めと在勤とを交代で行っていた。そして登城までの数日間をまた将軍や要人への贈り物の準備に費やす。贈り物自体は長崎から運んできたものだけど、江戸で献上にふさわしいナリに整えるのはすべて江戸の専門家の手によるもので、彼らへの礼金はかなりかかったらしい。この準備は長崎奉行や旅を引率してきた付添検使、通詞などカピタンの参府の責任者たちの立会いの下に行われた。して、4月21日に登城。登城の2日前から強い雨が降り続いていたが、拝謁は雨天中止って訳にはいかない。ので、朝8時頃馬に乗って宿舎を出発。この時も大手から入り、本丸の手前の大番所で待機。雨はまだ降り続いていたらしく、靴や靴下が濡れてしまったので待ってる間に履き替えたと言っている。その横を幕閣たちが通り過ぎていき、御殿の準備が整って呼ばれたのが10:30。拝謁の儀式に臨んだのは前年と同じくカピタン1人で、それが12:30。かなり待たされたよな。そしてまた、ギャラリーにとってお楽しみの第2幕が始まる。カピタンが大広間から戻ってきたあとで長崎奉行の山岡十兵衛に連れられて奥へ進む。 (前略)献上品が並べてあった左手の広間の所を回って、畳2、3枚だけ高くなっている 将軍の座所のある部屋の傍を通り過ぎ、上の方に金張りの縁飾りがついた別の立派な 廊下を通って、拝謁が行われる広間のすぐ近くにある長い次の間に入った。というルートだとケンペルは書いていて、まず最初に通り過ぎたのがカピタンが拝謁した大広間だろうと思うんだけど、入側をぐるっと回り込んでいく場合、どうやっても大広間は右手になる。ので、ケンペルの言う「左手」とは一致しないんだけど、「将軍の座所」はまんず大広間の御上段を指すんだろうと思う。ただ、フツーに考えれば献上品は大広間内に陳列されたんだろうと思うものの、大広間からちょっと外れたところに「御時服置場」というのがあって、これの用途がよくわからないけど時服(将軍家と大名家の間で贈答される季節の衣服)を置く場だったのなら陳列スペースと考えてもよさそうだし、御時服置場に献上品を陳列していたのなら通路から「左手」にあたる。一行が通った廊下に「松が描かれていた」とか「竹の絵があった」とかケンペルが書いていてくれたら、第2のイベントの舞台ももう少し絞りやすいんだけど、少なくとも大広間より奥へ進んでいったとは言えるだろう。で、一旦「長い次の間」に入ったものの、ここまでで相当一行を待たせていることに自覚があったのか、 われわれが坐りきりで長時間待っていて疲れるといけないので、他の廊下にさがらせ、 そこで気楽に時を過ごすことができるようにしてくれ、しまいには近くにある庭が 見えるように戸をあけてくれた。『よみがえる江戸城』(平井聖監修/NHK出版)には本丸御殿をCGで再現したDVDが附属していて、ケンペルらはどこまで御殿内を進んだのだろうかと考えながらあらためてDVDを観たけど、やっぱり黒書院か白書院のどちらかじゃないかと思う。どちらもすぐ近くに庭があるので、ケンペルの記述だけでは判然としないけど、黒書院より白書院の方が広くて大勢のギャラリーを収容するのに都合がいいし、粋なはからいをしてもらった休憩所に見合うような場所もある。総合的に考えると白書院のセンが濃厚なのかな。しばらく待っているとお呼びがかかって、第2イベントの始まり~。今度も取り次ぎ役は側用人の牧野備後で、 彼は将軍の名において、よくぞ来られたと挨拶をし、それから、正座しなさい、 外套を脱ぎなさい、と言い、我々の氏名や年齢を言わせ、立ちなさい、そこらを 歩いてみなさい、向きを変えなさい、舞ってみなさい、、などと命令し、特に私には 歌え、と言った。我々は互いにお辞儀をしたり、叱り合ったり、怒ったり、客に何かを 勧めたり、いろいろの会話をやらされた。それから我々2人を親友とか、親子とかいう ことにし、互いに別れを惜しんだり、訪ねてきたり、互いに出会う2人の友人の仕草を したりした。また、1人の男が妻と別れる場面を演じたり、子供を甘やかしたり、 腕に抱いたりする真似をした。ケンペル1回目の参府は第59代カピタンのフォン・ビューテンヘム氏に従ったが、その次の第60代カピタンのコルネリウス・アウトホルン氏は「真面目で敏感な性格」のフォン・ビューテンヘム氏とは対象的な性格だったらしく、 2度目の参府の時はバタビア総督の弟のコルネリウス・アウトホルン氏に従ったが、 彼は博識で世故にたけ数ヵ国語に通じており、その生来の愛想の良さによって、 疑念を抱いている日本人にうまく取り入っていたので、それによって会社の利益を 非常にあげた。と評しているので、あるいはオランダ東インド会社座による一連の演目にはカピタン自らが参加していた可能性もありそうだけど、次から次へと出される「お題」がギャラリーの関心の高さを物語っている。皆さんが国の代表として言葉の通じない辺境の外国に行って、異性の役をやらされたり子供の役をやらされたり、歌えだの踊れだのガイジンから命令されたらどう感じます?楽しんで与えられた役にいそしむ人はそういないんじゃないかと思うので、ケンペルたちもよく辛抱したな~と感心するものの、ケンペルは前年の参府で免疫ができていたかもしれないちなみに、アウトホルン氏もこの時が2度目の参府になる。して、小芝居のほか、質疑応答も行われた。「その方はどんな職業についているのか?その方はこれまでに重病を治したことがあるか?」「捕虜と同じような状態にある長崎では治したことはありませんが、日本以外の所ではあります」「家はどんなか?習慣は違っているのか?」「はい」「その方どもの所では葬儀はどのように致すのか?」「遺体を墓場へ運んでいく日で、それ以外の日には葬儀は行いません」「その方どもの皇子(国王か?)の地位はいかなるものか?バタビアにいる総督は皇子より身分が低く、その下に立っているのか、それとも彼1人で国を治めているのか?」「その方どもはポルトガル人が持っていたような聖像を持ってはいないのか?」「持っておりません」「オランダやヨーロッパの他の国々にも雷が鳴ったり、地震で揺れたりするのか?落雷が家を焼き、人々を殺すことがあるのか?」ケンペルは一問一答形式で書いてはいないので、ケンペルがどのように答えたのかわからない部分もあるけど、多岐にわたる内容の質問を受けたらしい。それからケンペルに沢山の膏薬の名を挙げさせ、またダンスをさせた。カピタンは家族構成なども聞かれた。堅苦しい儀式の第1幕とは違って、第2幕では綱吉の興味のおもむくままに質問タイムや小芝居タイムが交互に繰り広げられ、 我々は帽子を脱ぎ、鬘(かつら)をとったり、また言葉を交わしながら、 15分ばかりあちこち歩き回らねばならなかった。記録というのは実に重要なもので、ここからケンペルがヅラを使っていたことがわかる訳ですが、もちろん現代のような薄毛の人用のヅラではなく、バッハやモーツァルトの肖像画に見られるオサレなヅラの方です。しかも、御殿内でもヅラの上に帽子をかぶってたってことだよな。ま、オサレなヅラとは言っても、くるくる巻き毛の下の自毛は短くするか剃っていたそうなので、当時の衣裳にツルッパゲや坊主刈りを組み合わせたのを想像すると笑いが込み上げてくる。ケンペルの肖像画は残っていないのか、ウィキペディアには想像図だけが載っていて想像図ではなかなかの悪人ヅラをしている。ツュンベリーの方は『江戸参府随行記』に肖像画も載っており、それによるとモーツァルトタイプのヅラをかぶっている。この回の第2幕の様子はケンペルが絵に描いて残していて、オランダ人の面々はみなもしゃもしゃのルイ14世タイプのヅラをかぶっているように見える。ただし、髪の長さは肩ぐらいまでだけど。ケンペルによると、御台ちゃまもこの場で見物していたらしい。役職にもよるけど、大奥の女性たちは好き勝手な外出はできなかった。その代わりに各種イベントが1年を通じて行われており、四季の花々や自然を楽しむための屋外でのイベントもあった。が、吹上の庭など大奥以外の屋外でイベントが行われる場合は幔幕を張り、出入口をきっちり管理して男性役人との接触を避けていたぐらいなので、御台ちゃまが表向に来るということが最初は信じられなかったし、ゆえにケンペルの初めての登城のところでも書いたように、儀式の後の第2幕は大奥で行われたんじゃないかとも一時は考えた。もちろん、御台ちゃまは御簾の奥にいた訳だけど、ケンペルは何度も御台ちゃまの方を見ていたらしく、「美しい将軍の御台所」と書いている。が、御簾ごしにそんなに見えるもんだろうか・・・さて、イベントが段々盛り上がってくると、遠巻きに見てるだけじゃ物足りなくなったのか、 それで私は御簾の所からもう少し近くに行かされ、鬘をもう一度とり、飛んだり跳ねたり、 一緒にダンスしたり、歩き回ったりした。(中略)さらに、我々は夫が妻に対して どういう風にするのかを、わかりやすくやってみせねばならなかったが、その際 不意に接吻してみせたので、婦人たちの所で少なからず笑いが起った。それから、 我々はまたしても飛び回ったり、最後には身分の低い人が高い人に対する、また王に対する ヨーロッパ人の敬意の表し方をやって見せねばならなかった。私は歌をうたうことを 求められ、いろいろの歌のうちから二つを歌い終わると、みなからそれ相応の喝采を受けた。 それから我々は外套を脱ぎ、次々と将軍に近づいて、ヨーロッパの王の前でするように、 てきぱきと別れの挨拶をした。そうすると、みなの顔に楽しげな満足な様子が浮かんだので、 我々はそれを見届けてから、退出の許可を得た。第2幕の上演時間は3時間半。退出できた時はもう16時だった。前年と違って、御殿で軽食を出されたとは書いてないので昼飯ヌキだよな。城を出てそのまま牧野備後の屋敷に行くと、「大層結構なもてなし」を受けたそうな。おそらく、役者たちが張り切ってキスのサービスまでしてギャラリーの要請に応えたので、見終えた満足感を反映した接待だったのだろう。もちろん、牧野備後が個人的に満足したところで興業の成功とはいえない。綱吉の上機嫌を見て、それにふさわしい接待を備後守が用意したのだと思われる。にほんブログ村
2016年05月13日

申維翰が江戸城へ正式登城したのが享保4年(1719)10月1日。江戸城へ向かう朝鮮の面々は正装に身を包み、国書を奉じて宿舎を出発した。朝鮮通信使の一行は、カピタンの江戸参府とはずいぶん趣きを異にしており、音曲を奏でる楽士も随行していた。登城の際にもそれら楽人の奏でる弦楽をまといながら、ゆるゆると一行は進む。ウィキペディアによると 【通信使の江戸城への入城については、幕府は江戸城裏門からの入城しか許さなかったと 言う説と、大手門から入城できたという説がある】ということなんだけど、申維翰の記述を簡単にまとめると 第一城門を入ると錦繍の衣を着た男女が多数見物しており、 第二城門を入るとまるで宮殿のような執政・太守・諸貴人の屋敷が連なり、 第三城門を入るとそこが宮城で、軍官以下は下馬し剣を外して歩いて入る。 その奥の門では堂上訳官が輿から下りて歩き、その奥の門では使臣が輿を下りた。 対馬太守などが迎えに出て、それに従って奥の門を入ると首訳は国書を両手に捧げて入る。 門内には丁字形の一高閣があり、板梯を登ると上に閣道が通じ、これを玄関という。となっていて、確かにどこから入ったのか判然としない。大手以外から入ったとしても、身分に応じて途中で下馬・下乗するのは当然のことだし。もう1人、金仁謙の書いた『日東壮遊歌』(平凡社)を読んだと前回書きましたが、じゃあ金さんはどう書いてるかとゆーと、この方は登城していない。高官というほどの役どころではなかったにせよ、身分が低くて登城できなかった訳じゃない。どころか、三使臣がせっかくだから一緒に行こうよ~と再三勧めたにも関わらず、 国書を奉じて行かれる使臣方は致し方なく行かれもしましょうが、 一介の文士である私としては、行事を見るために行き 犬の陰茎のような倭人に拝礼するのは苦痛です。 どうあっても行けません。とガンとして固辞しやがった。「こんの、ボケがあぁぁぁ~~~!!江戸に行って江戸城を見ずして何とする!海を渡ってはるばる江戸までなにしに来たんじゃ!!」とゲシゲシ蹴りを入れてやりたいところですが、わたくしがバカバカしいと思うのは、金仁謙は気取って登城しなかったにも関わらず、登城した同僚から詳しく城内の様子を聞いて、しかもそれを細かく書き留めていることで、同僚の言によると 55の正門、4つの橋、城門3つを次々と通過し、関白(将軍)の宮殿(江戸城)に 到着。第一の門がある橋の上に下馬の札があり、上官らは馬から下りる。旗指物・軍楽も ここで留まり、煙管を持つことも禁じられる。第二・第三の門で駕籠の者も下り、 第四・第五の門で使臣方も輿を下りられる。出迎えに従い中に入ると、通路には薄縁が 敷かれ、第六・第七の門より先は畳敷きの廊下である。だそうで、やっぱり詳しいルートはわからない。ただ、日本側では通信使一行にかなり気を遣っており、国書を奉じた正式な国使な訳だから、素直に考えれば大手門から入ったんだろうと思う。 申維翰に話を戻すと、迎える日本側も烏帽子をかぶっての正装で、まずは控えの間に入ったらしい。その後、大目付がやって来て儀式の開始を告げ、首訳が国書を奉じて進み、三使臣が次に従う。 一つの正庁にいたって卓上に国書を安置した。これすなわち関白の坐殿である。日本へ来るガイジンはそれなりに日本の政治形態も把握している。ツュンベリーなどは天皇を宗教上の皇帝といい、将軍を世俗的皇帝と言ったりもする。申維翰も朝廷と幕府の二重体制を知った上で、江戸城を「宮城」といい、御殿に入ることを「入内」などと表現している。まあこれは朝鮮の社会構造や文化の質から単にこういう表現になってるだけかもしれないけど、日本人からするとちょっと紛らわしい部分もあるので、いちおう申し添えておきます。で、御殿に入って場所を移動しているので、玄関付近の待合室から御殿内で最も格の高い大広間へ移動したってことだと思うけど、ケンペルの時と違うのは、三使臣以外の申維翰らの随行者も一緒に大広間へ移動していること。すでに大広間には幕府高官や大名たちがそろっており、大広間に入ると使臣は東に座り、世話役である対馬藩主はその向かいに座った。それから首訳が国書を対馬藩主に渡し、対馬藩主から老中へ渡し、老中から将軍・吉宗へ渡される。申維翰の回は吉宗の就任祝いのための来日であり、国書だけでなく贈り物も持参してきていた。御殿内に置ける贈り物は(おそらく)廊下へ陳列された。贈り物の一つである鞍付きの馬は中には入れられないので、庭先に立たせて披露された。朝鮮側から日本側へ渡された中で最も大事なものは当然朝鮮王からの国書で、これを吉宗に献じると儀式の最も重要な場面が終わる。ので、国書を献じたあとはさしあたって三使臣も首訳もすることがなかったと廊下の辺りから遠巻きに見ていた申維翰は書いているが、もちろんこれだけで終わるわけではなく、 使臣が入り、関白を拝して出た。ふたたび入り、酒礼を行って出た。これより諸上官が 順次に入る。「入る」といっても別に仕切られていた訳ではないだろうから、吉宗の着座する大広間御上段に近づいて拝礼を行ったということだろう。諸上官以下の随行員はその身分に従って、遠い場所からそれぞれ将軍を拝する。申維翰も「はしらの外」から拝したというから、入側から拝礼したってことかな。 余は拝礼のとき関白を望見したが、頭には一角烏帽を戴き、身には淡い青袍を着、 座ぶとんを重ねた上に坐っていた。床、椅などの諸物はない。余と相去ること 三、四間をへだたるにすぎないが、その坐所が奥深く、左右には珠簾や彩帷を設けて いるうえに、殿内の見通しがよくないため、そのひととなりを詳見することは できなかった。しかし、およそのところ、精悍にして痩勁、坐貌は秀でて高く、 顔色は白いがやや黄味があり、豊碩(豊かな顔つき)には欠けているようだ。吉宗といえば武芸を奨励し、自身も狩りを好んだともいうからがっしりした体格なのかな~というイメージだけど、申維翰から見た吉宗は比較的やせ形だったらしい。で、「一角烏帽」と「淡い青袍」ですが、 また聞けば、関白が戴くところの烏帽はすなわち執政の着帽と等しく、またその 淡色の青袍はすなわち木綿衣という。倭冠はほんらい君臣の別ないものであり、 平素においては倹を尚びこのんで木綿衣を服するが、しかし、正庁に坐して隣国の使臣を 引接する聘礼の盛事にいたるまで、どうして等しくするのだろうか。しかもまた 粗末な服や冠を用いてみずから賓にその栄意をなす者、その人が詭異を好んで行いながら、 もって俗をただしうるのだろうか。だそうな。申維翰にしろ金仁謙にしろ、儒教の国だけに朝鮮人は「礼」にはうるさく、前回の最後でも書いたように、朝鮮通信使の来日時には礼にからむトラブルが少なくない。読んでる方としてもウザいと思ってしまうんだけど、ことこれに関しては(申維翰が聞いた話が正しいのだとしたら)申維翰の言の方が正しいと思う。何も国使を迎える儀礼の席でまで木綿の袍なんか着ることはなかろうに。最も重要な儀式が終わると、老中から宴のお誘いがある。将軍はこれに列席せず、御三家が将軍に代わって一行をもてなした。ただ、尾張継友は病のために欠席。申維翰も宴に参加し、紀伊と水戸の藩主を見ているが (紀伊)宗直は年わずかに弱冠、(水戸)宗堯は年わずかに十四、五、 みな乳臭い児である。と言っているので2人とも相当若かったらしい。ま、この2人だけで通信使をもてなした訳でもなく、幕閣もいるので問題はない。 斑衣に袴を曳く者数十百人、一時に饌をすすめる。饌品は前と同じである。ただ高く 盛りあげた果物をならべ、金銀彩花が燦々として林を成すが、食うにたるものはない。 干しあわびを糸の如く細く切り、それを膠で貼り合わせ、高く円く盛り合わせて 唐帽状にしたのがある。見たところ驚き笑わざるをえない。 使臣は、酒を酌むこと三盃して、起ちあがる。執政四人が行閣の内まで揖して送り、 館伴と両長老は轎に乗る処まで揖して送る。諸官もつぎつぎと、あるいは轎に乗り、 あるいは馬に乗って出る。そして再び軍儀、鼓吹を列べて帰る。日暮に館に着いた。申維翰も金仁謙も何度も「食うに足るものはない」という言い方をしているので、単に日本食が朝鮮人の口に合わなかったのか、バカにして食べる気も起こらなかったのか、それとも本当に見かけばかりで食べられるようなものがなかったのかは不明。ただ、これは幕府主催の正式な饗応の場であり、細く切った干しアワビをうず高く積んだようなものが出ていたのなら、少なくともこの宴においては「三献の儀」のような儀式料理が並んでいて、ホントにまともに食べられる料理はなかったのかもしれない。その後で対馬藩主と「両長老」・・・まあ、この人たちは全行程における責任者みたいなもんで、その人たちが宿舎にやってきて、一連の儀式が無事に終わったことを祝ったという。11日になって、吉宗からの回書が届けられた。これをもって朝鮮通信使は帰国の途につく。琉球からの使節については勉強不足で把握しておりませぬが、まあ大体似たような感じでしょう。一国の正式な使者だから、ケンペルのようにあれこれやらされることはない。面白味がないっちゃ~ないんだけど、朝鮮通信使はしょっちゅう来るものではなかったので沿道でも沢山の民衆が見物した。江戸城内でもやはり見物の衆がおったらしく、 宮中宴享のとき、左右の庁壁に垂簾があり、観ると、その隙間から窺う者は必ずこれ 関白の宮女(大奥の女性たち)である。聞くと、関白もまたその中にあるという。つまり、オランダ人のようにしいて何かをさせるということはなかったけど、御簾の中から将軍と奥の女性たちが見物していたのは同じで、礼節を重んじる申維翰が当然これを快く思うハズもなく、 規模かくの如く、人を用いることかくの如く、儀度またかくの如くである。と述べている。にほんブログ村
2016年05月08日

17世紀を生きたオランダ人で、モンタヌスという牧師がいる。モンタヌスは1689年に『日本誌』という本を出した。その名の通り、日本に関することをまとめた本らしいが、モンタヌス自身は日本の地を踏んだことはなかったらしい。いや、日本どころがアジアにすら来たことがなかったそうなんだけど、宣教師や来日したオランダ人などから話を聞き、それを基にたくましい想像力で日本についてのあれこれを書いたんだそうな。その中には将軍家へ贈り物を献上するシーンを描いた絵もある。なにせ、アジアにすら来たことがない人が描いたものだから、何の解説も予備知識もなしにこの絵を見せられたら、ほとんどの人が日本を描いた絵だとは思わないであろう不思議な絵になっている。わたくしだったら「バタビアどすか?」って言うだろうな。建物とかのハードについては中国っぽいと言えなくもないけど、描かれた多くの人達の頭はたぶんちょんまげを描いたと思われるものの、おでこにも髪があるので、トンスラにしか見えない。着ている服もゆったりした修道服のような感じなので、頭もトンスラだし、アジアにやって来たキリスト教修道士たちがわらわらいるようにしか見えないのだ。ケンペルはこのモンタヌスの絵を目にしていたらしく、江戸城および拝謁の儀式はモンタヌス風なイメージを持っていたのが実物を目にして「全っ然違うじゃん、モンタヌスぅ~!!」と思ったものの、それでもすべてが美しく、大変貴重なものだと書いている。御殿内部についての記述はそれほど多くはない。 将軍の御殿は平屋建てであるが、かなり高い建物で、周囲は大変広々としている。 たくさんの利用されない廊下や、開けたり閉めたりして、大きくも小さくもできる 部屋がある。廊下(の戸)を開け放つと、狭い中間の場所を通して、中にある部屋は かなり明るくなる。これらの部屋のうち最も重要なものには、一つ一つ名前が付いて いる。(中略) これらはすべて建築術の非常に厳密な規律に従い、日本的な好みで造られている。 天井・梁および柱は、杉やクスノキや江尻材で、これには自然に花やその他の模様が 付いていて、それゆえ、ただ薄く漆をかけただけの部屋が多い。ほかの所では 漆を濃く塗ったり、あるいは鳥や木の葉を精巧に刻んで金を塗ったりしている。 引戸や襖や壁にはきれいな絵が描かれ、まだらに金箔が施され、床にはへりの所に 金色の布で縁どりした、清潔で美しい畳がきちんと敷いてある。御殿に入って最初にケンペルらが待たされた部屋は 金張りの柱や壁や襖でみごとに飾り立てられ、また襖を閉めた時には、それに続く 右手の家具部屋の、かなり高い所にある欄間を通してほんのわずか光がさすだけで、 大変暗かった。といい、第2幕のイベントが行われる部屋までの廊下には美術的な彫刻と綺麗に金箔が張られていたと書いている。ケンペルの時にはもう天守はなかったので、天守に関する記述は当然ない。それから、ケンペルが直接見たものではないけど、聞いた話として面白い事が書かれている。 殿中にはなお地下室があり、その上部の天井は水を入れた平らな広い水盤からできていて、 将軍は雷が鳴る時には安全のためにその地下室へ行く。なぜなら、その場合には稲光が 水の中で消されるかもしれないからだという。まあ地下室はね、武家屋敷・町方を問わず造られたっていうから江戸城にもあって何の不思議もないんだけど、天井に水を張った地下室に避雷に行くってホントかよ真偽のほどはわからないし、ケンペルが誰からこの話を聞いたかわからないけど、日本人が教えたんだとしたら、よく城内のヒミツを教えてくれたもんだよな~。さて、前回のような一連の出し物が終わった後、オランダ人1人1人に日本食の小さな膳が出された。これはあまり食べなかったらしいが、食べる様子ももちろんギャラリーからじっくり観察されていたのだろう。フォークとナイフは出されなかったので、箸で食べるしかなかったんだけど、ケンペルらはうまく箸を使えたのだろうか・・・それが終わると、外套を着てようやくお役御免となる。幕府高官が登城する前に城内で待機していたんだから相当早く宿舎を出たハズだけど、御殿でのイベントが終わったのは午後の3時をまわっていた。が、まだ宿舎には戻れない。この後、老中や若年寄などの重臣たちに挨拶回りをせねばならんのだ。で、29年飛びまして朝鮮通信使に随行した申維翰(しんいかん/シンユハン)。申維翰もケンペルもツュンベリーも、そこそこ日本の歴史について触れている。まあ、申維翰はお隣の国の人だから、国許で日本の歴史について学んだものだろうけど、当時の朝鮮人儒者がどのように日本の歴史を解釈していたのか、本人の言から一部引用して紹介しましょう。 関白(将軍のこと;ジジイ註)の先系は、天皇から出ている。唐の867年に、 皇子貞純は源氏の賜姓を受けた。源氏の摂政は貞純から始まるが、源頼朝にいたって、 ますます大となる。かれはよく天皇を斥逐して専横をほしいままにし、大将軍の 位に居りながら一国の威福を得るようになった。その由来するところ、すでに久しい のである。(中略) 万暦年間(1586年)に、平賊秀吉が奴隷から身を起こして源(織田)信長に代わり、 王となった。世伝では、秀吉は中華人で、日本に流入したという。そのひととなりは、 木こりをする下僕である。信長が関白となったとき、その容貌の奇なるを見て 宮中に引き入れ、近きにはべらせて寵愛し、事に用いた。よって秀吉は、信長を弑し、 みずから立って関白とかいう博陸候(関白の唐名)となり、諸酋を虐滅して 州島を統合した。 このとき源家康だけは、城に拠って服しなかった。家康はすなわち、いにしえの関白 源義定の11代目の世孫にして、関東に拠り、八州の衆を撫有した。(中略)家康は 秀頼を立て、久しからずしてこれを撃断した。ついに平(豊臣)氏一族を誅し、 源家の旧物をことごとく復した。けだしまた人傑である。 子孫を伝えて家光、家綱、家宣、家継にいたる、家継は、夭折して嗣子がない。吉宗は、 家宣の女婿であり、はじめ紀伊州の太守となってその統を承け、宗室の至親となる。 国俗として、婚娶に、従父兄弟を択ばないゆえである。ツッコミどころ満載の歴史解釈ですが、時の将軍は8代・吉宗。一行が江戸に着いたのは享保4年(1719)9月27日。実は「(29)」を書いたあとでもうひとつ、朝鮮通信使に随行した文士の旅行記を読んだのですが(金仁謙/『日東壮遊歌』)、朝鮮人は出島に滞在するオランダ商館員よりももっと日本慣れしていないので、読む側としてもある意味新鮮な内容となってます。まあその、「(29)」で申維翰が尊大だと書いたけど、申維翰も金仁謙も朝鮮人で儒家。金仁謙は日本人のことを何度も「犬のような倭人」と書いていて(原文では「犬」と「のような」の間に「の陰茎」という言葉が入るらしい)、相手が日本となるとしゃにむに勝ちに来る現代のスポーツの日韓戦を思い出して頂ければこの2人がどういう論調で旅行記を書いているのかイメージしやすいと思いますが、それでも日本の良さを認めざるを得ないような記述もある。本人としては、劣っているはずの日本の良さなど認めたくはなかったでしょうが、それでも認める文章を書いてるということはよっぽどだったのだろうと思う。で、面白いのは江戸に近づくほどその繁栄ぶりに驚いていることで、途中で通過する大都市・京や大坂、名古屋などの繁栄にも驚嘆しているんだけど、最終目的地の江戸はそれらの大都市をもしのぐほどだと言っていて、申維翰は江戸は京・大坂の3倍賑わっていると書いている。初期の朝鮮通信使の江戸での宿所は馬喰町の本誓寺だったが、それが焼失したため申維翰の頃の宿所は浅草の東本願寺となっていた。何度も書いているように、朝鮮通信使は国の正式な使者。ゆえに国書を奉じて江戸までやって来ており、宿所ではまず大事な国書を「正庁」に南向きに安置した。翌28日には日本側の接待役の主宰で宴が催される。やや遅れて老中もやって来た。そして、今後のスケジュールが言い渡され、夜遅くなって登城時の式次第とゆーか留意点のようなものが日本側でようやくまとめられたものの、翌朝に届けられたそれは日本語で書かれた上におそらく崩し字であったために解読できず、日本語を漢文に翻訳する係で対馬からずっと同行してきた雨森東(雨森誠清/芳州)が病で伏せっているので漢文に翻訳できる者がいないという。朝鮮通信使は正使・副使・従事官の3名を「三使臣」といって、これが一行のトップ。申維翰は三使臣ではなく、「製述官」という役どころで、一般には「書記官」という風に説明されるが、本人に言わせると 近ごろ倭人の文字の癖はますます盛艶となり、学士大人と呼びながら群をなして慕い、 詩を乞い文を求める者は街に満ち門を塞ぐのである。だから、彼らの言語に応接し、 我が国の文華を宣揚するのが、必ず製述官の責任とされるのである。というお役目でもあるらしい。通訳は他にいるので、レベルの低い倭人に漢文の書や詩文を与えてやる職務のうちでもっとも高い地位にあるといったところだろうけど、吉宗の時代に入って典礼儀式なども改訂があったらしく、従って登城における注意点や一連の流れがわからないまま儀式に臨む訳にはいかないと朝鮮側でゴネる事態となったが、申維翰らが出動してどうにか翻訳し、予定通り儀式に臨むところにまでこぎつけた。朝鮮通信使は新将軍の就任時などの節目に来日し、タテマエは両国の融和・親睦を深めるというものだったが、朝鮮人はとにかく上から目線で日本人をさげすんでいるし、日本側では通信使を「朝貢使」ばりに将軍権威の高揚に利用するという面もあったらしい。つまりはお互いに内心では「日本に行ってやる」「日本に来させる」というような意識もあったようで、そこに国家の威信やプライド、儒学的差別意識などの色々な要素が絡んで時には外交摩擦へも発展し、江戸への道中でも「態度が無礼だ」「礼にかなってない」と言って文書や贈り物をつき返すなど大小さまざまなトラブルがあった。で、申維翰の回では登城の直前までそういうトラブルが起こっていたらしい。まあ、朝鮮側にしてみれば、どうやって儀式を進めればいいかもわからないなんて困ったどころの話じゃないだろうとは思うものの、そこまでの旅程でいちいち細かいことに難癖を付けたり、日本を小馬鹿にする記述が続いているので個人的にはあまり同情する気持ちが起こらなかったというのがホンネ。にほんブログ村
2016年05月04日

『一休さん』も20話を越え、問題のシーンが続々・・・現代アニメならともかく、当時の子供向けアニメで主人公が入水自殺を図るなどあってよいものだろうか安国寺で一時面倒を見ていた少年が一休さんの目の前で母親の乳をねだるシーンでは、一休さんも美人の母上さまの胸をはだけて頭の中で母上さまの乳をまさぐる妄想を展開していた。一休さんの設定年齢は一体いくつなんだとワタシは問いたい。っと、それはともかく、紛れもない日本の中心地、江戸城本丸御殿までやってきましたので、今回わたくしが読んだ史料の中からここを訪れたガイジン達がどのように過ごしたかを紹介したいと思います。年代順に行ってまずはケンペルさんですが、この方は大変だった。ケンペルさんの江戸到着は1691年3月13日(←月日も西暦)。着いたらまず、宗門改め(大目付と作事奉行)と長崎奉行へ報告する。翌日には宗門改めから丁寧な挨拶があり、献上品の準備が始まる。カピタン(オランダ商館長)の江戸参府というのは、一言で言って将軍への「御礼参り」であり、あわせて献上品の贈呈も行われる。出島から大切に運んできたその贈り物を、江戸に入ってから献上できる形に綺麗に整えたらしい。これに数日を費やしている。さらに、江戸に来たついでに幕府高官にもご挨拶をする必要があり、彼らのためにも贈り物を色々と準備した。対象は、老中(5名)、若年寄(4名)、寺社奉行(3名)、宗門改め(2名)、江戸町奉行(2名)、長崎奉行(3名)、それと平戸候。して、謁見がかなったのが3月29日。当初は28日に拝謁がかなうと通告されていたのが、側用人の牧野備後が兄の喪に服していて29日まで公の席に出られないので、また1日延びたんだという。宗門改めと長崎奉行・川口摂津守の代理人の案内で献上品が運ばれ、長崎奉行らの配下の護衛を受けてカピタン一行がその後に続いた。将軍への拝謁ということで、一行は式服として黒い絹の外套を着て、カピタンは乗物で、ケンペルは馬で宿舎から江戸城へ向かう。常磐橋を渡り、大名小路を抜けて大手門から入城し、下乗橋を渡って大手三の門からさらに奥へ。その辺りの道の石垣は信じられないほど高かったとケンペルは驚いている。ここまでの記事では、わたくしは大手三の門からすぐ二の丸方面へ向かったのでケンペル達が通った正規の登城ルートはこの後、逆順路で紹介することになりますが、ケンペルはまず「百人番所」で時間調整をしたと書いている。が、その後の記述から考えて、ケンペル達が待たされたのはおそらく百人番所の先にある「大番所」ではないかと思われる。ここで待たされたのは1時間にも満たなかったらしいが、番所の2人の組頭は茶や煙草を出して一行を丁寧にもてなしたという。2人の宗門改めと川口摂津守も挨拶にやって来た。そうしているうち、老中や若年寄の幕府高官が番所の前を通って御殿へ入っていく。彼らが全員揃ったところで、一行が呼ばれて一連のイベントが始まるのだ。さて、一行が呼ばれて中へ入ると、まず玄関のすぐ右手の控えの部屋に通される。「虎の間」とも考えられるけど、ケンペルは「虎がいた」と書いていないので、「遠侍の間」あたりで待たされたのだろう。ここでたっぷり1時間ほど待つ。その間に将軍が御座につく。それから宗門改めと川口摂津守がカピタンを連れて謁見の間に向かう。と、すぐに「オランダ・カピタン」という大きな声が聞こえてきたらしいので、すぐそばの大広間でカピタンの謁見が行われたらしい。 それは彼が近づいて敬意を表わす合図で、それに応じて彼は、献上品がきちんと 並べてある場所と、将軍の高い座所との間で、命じられた通りひざまずき、 頭を畳にすりつけ手足で這うように進み出て、一言もいわずに全くザリガニと 同じように再び引き下がった。いろいろと面倒な手数をかけて準備した拝謁の 一切の儀式は、こういうあっけないものであった。正式な国交がないとはいえ、カピタンは公使。大航海時代を経て世界に散らばっていった誇り高いヨーロッパ人が、文化の全く違う日本の作法にのっとって畳をズリズリと這いまわるのは屈辱以外の何物でもないと思うけど、カピタンはオランダ東インド会社の看板を背負っている。この儀式をクリアしなければ、日本を最初に見つけたポルトガル人のように追い出されてしまうかもしれない。ケンペルの頃には日本での貿易のうまみはかなり減っていたようなんだけど、中国人とともに唯一交易を許された利権を手放す気はなかったらしい。で、拝謁はこうしてあっけなく終わる。ケンペルによると、昔はカピタン1人だけが出頭して拝謁し、その2~3日後に法規が読み上げられるのを拝聴して、オランダ国民の名において「カルケマッタ」(かしこまった)と法規を守ることを約束すればそれで長崎に帰れたという。ところが、ケンペルの訪問の20年前頃からはイベントの様相が変わってきた。ケンペルの出番はここからです。カピタンが控えの間に下がると、将軍も退席する。すると、今度はカピタンを含む3人のオランダ人が奥へ招かれる。実際にはケンペルはオランダ人じゃないけど、オランダ商館から来たヨーロッパ人はすべて「オランダ人」としてくくられています。ケンペル達が御殿のどこまで招き入れられたのかがよくわからないんだけど、ケンペルが言うにはまずいくつかの部屋を通って15分待たされ、さらに他の廊下を通って一つの広間で座って待っているよう言われて30分ほど待つ。そして薄暗い廊下を通って最終目的地へ到達する。ケンペルは2回目の参府で御殿の中を見て回った時に畳や柱、ふすまの数を数えておいたそうで、謁見の広間やその後のイベントの部屋の様子を絵に描いている。ただ、ケンペルの絵からでは具体的な最終目的地はわからない。総合的に考えて、表の白書院か黒書院あたりかともいう気がするけど、大奥の可能性も捨てきれない。というのも、ケンペルが描いた絵には小石を敷き詰めた小さな坪庭が部屋の外にあるのだ。ケンペルの絵の見取り図と小さな坪庭に該当する部屋は表にはない。坪庭を手掛かりとするなら大奥の方がそれらしい構成の部屋があるにはあるけど、さすがに大奥までは連れ込まないだろう。なぜというに、ケンペルの絵には高官はもとより、入側には幕臣たちがずらっと座っているのだ。いくらイベントとはいえ、これだけの男どもを大奥へ入れるとは考えにくい。それに、わたくしが持っている本丸御殿図は幕末のものなので綱吉当時の御殿とは構造が違っている可能性がある。ということで、やっぱり白書院か黒書院あたりが妥当かと思われますが、わたくしが大奥まで視野に入れたのにはワケがある。奥の部屋まで招き入れられたカピタン一行を見物した中には、男性役人だけではなく御台ちゃまをはじめとする大奥の女性達もいたとケンペルは言っているのだ。そしてここからが、ギャラリーにとってお楽しみの第2幕。まずはカピタンが総督の名においてあらためてこれまで日本での自由な貿易が許されたことに対する礼を述べる。御簾の奥には将軍・綱吉がいる。でももちろん言葉は通じないし、下々の者が将軍と直接言葉を交わすことは許されないのでまず通詞が通訳し、それを側用人の牧野備後が将軍に伝える。綱吉からのお言葉は逆の手順でオランダ人に伝えられ、ようやく会話が成立する。見世物の初めは、ケンペルに言わせると「馬鹿げた」会話から始まる。オランダ人1人1人に名前と年を聞いて、名前を紙に書かせたあとで「オランダはバタビアからどれほど離れているか」「長崎からバタビアまではどのくらいあるのか」「バタビア総督とオランダの王とはいずれが権力を持っているのか」とカピタンに尋ね、ケンペルには「(24)」のような質問が浴びせられた。フツー、御簾の内というのは外からは見えない。この時も綱吉が自ら言葉を発したのでそこに将軍がいることがわかったぐらいだとケンペルは言っているものの、そのくせ、 われわれの前方、畳で四畳ばかり離れた、同じように御簾の後ろには、将軍一族の 姫たちや、その他大奥の女性たちが招かれて集っていた。この御簾の合せ目やすき間には 紙を挿し込んであり、楽々とのぞけるように、彼女たちは時々そこを開いた。私はこういう 紙を30個以上も数えた。だから、それと同じくらいの人々のいることが想像される。とも言っている。綱吉ははじめ、御簾から奥まったところに座っていた。が、ケンペルらの応対に手ごたえを感じたのか興が乗ってきたようで、御簾にかなり近い所にまで座を改めていた。ケンペルの時代にはまだカピタンの江戸参府は1年に1回だった。参府のスケジュールはしっかり決まっているので、毎年カピタンの表敬訪問があり、しかも綱吉の将軍就任は延宝8年(1680)だからもう10回以上こうしたオランダ人を見てきているはずなのに、この時は思わず身を乗り出すほど心はずむものだったらしい。江戸にはカピタン一行のほか、唐人(朝鮮人)もやって来た。ただし、朝鮮通信使はおもに新将軍の就任祝いなどが目的で、ほかに琉球の朝貢使もやって来たがこれも江戸期を通じてそれほど回数は多くない。ちなみに、中国人も交易だけは許されてはいたが、彼等には江戸参府は許されていなかった。まあ、鎖国だ~鎖国だ~という割には、実のところ江戸より西の江戸時代人は結構ガイジンを目にする機会はあった訳で、それなりに目は慣れていただろうと思うのに、それでもケンペル達は出島を一歩出れば頭のてっぺんからつま先まで熟視され、日本人は実に好奇心の強い民族だと言っている。将軍といえど例外ではなく、オランダ人の礼装を脱がせ、作法通りに平伏していると顔が見えないからと上体を起こして座るよう命じ、続いて色々な動作をするよう指示を出した。指令のあまりの多さに、もうそのすべては覚えていないとケンペルは言っているものの、覚えているのは われわれはある時は立ち上がってあちこちと歩かねばならなかったし、それから踊ったり、 跳ねたり、酔払いの真似をしたり、つかえつかえ日本語を話したり、絵を描き、 オランダ語やドイツ語を読んだり、うたったり、外套を着たり脱いだり等々で、私は その時ドイツの恋の歌をうたった。しかし、わが長官の威信が傷つけられてはならないと、 高官たちが気付いたので、カピタンは跳ねたりしないで済んだ。しかも彼は真面目で 敏感な性格でもあったから、そういうことをやったところで、全くうまくは行かなかった であろう。もちろん先方には少しの悪意もないのだが、絶えず不当な要求に応じながら、 二時間にわたり、こういうようにして見物されたのである。要するに、第59代カピタンのフォン・ビューテンヘム氏が彼自身の性格およびその立場上、日本人の望む珍獣になりきれなかったので、医師のケンペルや書記官らが奮闘してギャラリーの要求に応えたらしい。ケンペルが鷹司教平の娘を垣間見たのは、この奮闘中の出来事です。にほんブログ村
2016年05月01日
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