全6件 (6件中 1-6件目)
1

ケンペル: ノイツがタイオワンに戻った5ヶ月後、また浜田弥兵衛率いる末次平蔵の船が2隻 タイオワンに入港した。 そこでノイツは弥兵衛や日本で将軍に拝謁してきた新港の台湾人を拘留した。金仁謙: こりない奴だな。 倭国で使命に失敗した意趣返しか?レフィスゾーン: 弥兵衛の船には数門の大砲が備えられていて、他にも大量の小銃やその他の武器が 積み込まれていたそうでね。 しかも乗組員も470人ほどもいたそうで、どう見ても武力でカタを付けに 来たようにしか思えなかったと言われてますよ。 それに、平戸のナイエンローデからの報告によると、平蔵は大坂で100人の 兵士を募集したそうで、ノイツも用心していたんでしょうね。 それで、まず日本人の上陸を禁止して弥兵衛を拘留し、その間に船を点検して 武器を押収し、さらに台湾人が将軍から下賜された品も取り上げたそうです。りり: ああっ、将軍様からもらったオラの土産が~! そんなご無体な~!申維翰: ふざけるんじゃない、倭人。り:ふざけてませんよ。 純朴な台湾人の気持ちを再演しただけじゃないですか。 武器はしょうがないとして、なんでそんなものまで取り上げる必要があるんですか。 オランダ人、ひどすぎるよな~。ズーフ: あれはノイツの単独プレーだ それに、船が出帆する際には武器は返却することになっていた。ツュンベリー: まあ、船に戻った弥兵衛が船での一連の出来事を知って抗議をしてもとり合わないし、 弥兵衛が生糸を積むために中国に渡りたいと願い出ても却下されるし、 なら日本に帰りたいと言ってもこれも拒絶されたりと可哀想といえば 可哀想とも言えるけどな。 日本人の気位の高さを知らないノイツは、弥兵衛と交渉する時はいつも高い椅子に座って 足台に足を置くという傲慢な態度だったとも言うし。ズ:おい、何を言い出すんだ!ツ:いいじゃないか、どうせノイツの単独プレーだろ?り:江戸でザリガニになったのちのカピタン達とはえらい違いだよな。レ:ああ、あれは屈辱だったよ。ズ:そうか? 「郷に入っては郷に従え」じゃないか。ツ:だいたい、日本人てのは実に素晴らしい民族ではあるものの、高慢という 大きな欠点を持っている。 自分たちは他の人種より優れていると思いこんでいて、特にヨーロッパ人は 劣っていると思っているので、たとえあらゆる他の不公正な仕打ちに耐えることが できたとしても、他人の高慢さには耐え得ない民族なのさ。 ノイツもそれを知っていれば、もう少し日本人に適した応対をしただろうに。ケ:それで、事件は起こった。 弥兵衛がどういうつもりで武器や兵士を満載してきたのかは知らないが、 これまでのことを踏まえてそれなりの覚悟もあったのだろう。 そういう相手に対し、ノイツの行動はあまりにも軽率だった。 弥兵衛が日本人の供を引き連れて再度帰国の嘆願にノイツの下に行くと、 またもや拒絶された。 ノイツとしては、近々オランダ船が中国の生糸を積んでやって来るはずだから、 それを待って弥兵衛に対応するつもりだったというが、ノイツの回答に 堪忍袋の緒が切れた弥兵衛らはいきなりノイツに飛びかかって、 ノイツとそばにいたカロンを取り押さえ、ノイツの胸に短刀を突き付けた。 その場にいたムイゼルらオランダ人は逃げ出して外の兵士に急を知らせたので 小競り合いが起こって死者も出た。り:キタ !カロン!! この事件を通して、カロンは男を上げたとも言えますよね。ズ:・・・・・・・・・(ジロリ)ツ:ねえ、それってやきもち?ズ:な!なにをバカなことを・・・り:あらやだ、ズーフさんたら金:倭人の図々しさには呆れて物も言えんり:へ~んだ、ひがんじゃって。金:誰がひがむか! 馬鹿も休み休み言え!!申:どうも倭人がからむと話が脱線するな。 お前、進行役だろう? 話の腰を折るんじゃない。 邪魔するだけなら、少し黙ってろ。り:ぶ っっっ・・・金:また屁こきやがって・・・り:屁じゃねえっつってんだろーが!!ツ:ダメだ、こりゃ 先輩、話の続きを。 カロンはこの時、通訳としてタイオワンにいたんですよね。ケ:そうだ。 この場にいる人間で日本語とオランダ語の両方を解するのはカロンだけだった。ズ:その先は私が話そう。 蘭人を集めたムイゼルらは、ノイツを開放しないと日本人を皆殺しにするなどと言って 弥兵衛に対峙したが、肝心のノイツは武力抵抗をやめるよう蘭人に命令したし、 強行突破した場合、この事件が元で日本在住の蘭人の生命も危うくなる上に 日本貿易が途絶える可能性がある。 そこで、武力ではなく交渉によって状況を打開する努力が続けられた。 そしてまとめられた条件が、 日蘭双方から人質を出し、長崎で人質の交換をすること。 新港の台湾人の監禁を解き、没収した下賜品を返却すること。 今回の船で妨害された生糸200ピコルとソンクが先に没収した生糸15ピコルを 返還すること。不足分があれば現金で支払い、あわせて 今回の生糸200ピコルの仕入れが遅延した賠償金を支払うこと。 生糸の受け渡しが済んだら双方の人質を交換してそれぞれの船に乗せ、 日本への帰路の安全を保障すること。 というもので、生糸や金の受け渡しは無事に済み、ノイツは開放された。 ケンペル君やツュンベリー君は、1630年にノイツの無礼な仕打ちを受けた日本人が タイオワンに切り込みに行って『そこで日本人は総督の頭を真っ二つに割いたのである』 などと書いているが、これは間違っているぞ。ケ:・・・・・・・・・ツ:・・・・・・・すいません・・・・り:まあまあ、ズーフさんは持論をもって色んな人にツッコミを入れる ツッコミ大王ですから、気にしないで。ズ:誰がツッコミ大王だ その後、互いの人質を乗せた船が長崎へ向かったが、オランダ側の人質には ノイツの息子のラウレンスやムイゼルがいた。り:ノイツの行動で一番のとばっちりを受けたのがムイゼルさんって気がする・・・ズ:長崎に着けば人質を交換してそれですべてが済むと思っていた。 ところが、我々は日本人の人質を解放したのに、日本人はオランダ人を解放しなかった。 それどころか、タイオワンからの人質のみならず船の乗組員まで 大村と有馬に分散して監禁し、タイオワンからの船および碇泊していた蘭船まで 武器を取り上げられた上に厳重に抑留し、平戸の商館は閉鎖された。金:いかにも卑賎な倭人のやりそうなことだな。り:弥兵衛はただの船長だから、長崎に帰れば発言権が小さくなるのも当然だし、 元はといえば勝手に割り込んできてデカい顔したオランダ人のせいでしょ。 タイオワン付近での小さな火種がついに大爆発を起こしちゃったんだな。 さあどうするオランダ人! 頑張れカロン、いよいよ君の出番だ!!ズ:・・・・・・・・・ツ:濡れタオルでこいつの鼻と口覆っちゃう?申:個人的には大いに賛成するが、君、医師だろう?ツ:冗談だよ、ジョーダン。 じゃあ、またドゥーフ君にジジイの手でも握らせておくか。 (ツュンベリー:長崎歴史文化博物館展示資料より)ズ:いやだ。私は別にやきもちを焼いてる訳ではない。 私が出島の商館に勤めていた間の苦労に比べれば、 りりの侮辱など大したことではない。レ:ドゥーフ殿は実に苦労しましたからねえ。り:ズーフさんは色んな経験をしすぎて話がべらぼ~に長くなるので、 ズーフさんについてはまた別の機会を設けようと思ってます。 邪魔者のいないところで、ゆっくりとねツ:客をつかまえて、邪魔者だってさズ:バタビアの総督クーンは事態を重く見てノイツを召喚し、プットマンスを後任に据えた。 そして日本との関係改善のためにウィレム・ヤンセンを日本に派遣した。 ヤンセンに与えられた使命は事件を根本から調査して、 もし参府の必要があれば美々しい行列をもって日蘭間にかかる暗雲を払拭せよ、 というものだった。 だが、もし日本側がタイオワンの主権と貿易の独占を主張するならば、 総督の決定を待つと回答せよ、ということも含まれていた。申:さきに弥兵衛が新港の台湾人を連れていったことの影響があるかもしれない、 という判断か。ズ:事実、日本側からはゼーランディア城の引き渡し、もしくは破壊を求めてきた。 特使のヤンセンは日本に到着したものの、船は抑留され、 交渉に入ることすらできなかった。 そして、日本の事情を説明し要求を伝える書状をヤンセンに持たせてバタビアへ 送ることになったが、中でも末次平蔵の書状はもっとも過激な内容で、 城を破壊し、タイオワンを割譲しなければオランダ人は2度と日本の地を踏めなくなるが、 もし要求を呑めば会社が日本貿易を存続できるよう自分が尽力するというものだった。 バタビアへの船には、カロンも同乗した。 この間にクーンは急死し、スペックスが総督に就任していた。金:あの「やこべ」のことか?レ:そうですよ。り:ヤコベとカロン、日本を熟知する役者がそろって真っ暗なトンネル内にも ようやく一条の光が見え始めましたね。ズ:書状を受け取ったスペックスは驚いた。 タイオワンの割譲や城の破壊など、これまでの幕府の考えからすれば あり得ないことだったからだ。 彼は、これは幕府の決定ではなく平蔵の一存に過ぎないだろうと看破した。 カロンも同意見だった。 そこでこの要求には断固として応じないことを決議し、一連の事件はノイツ個人の 過失によるもので、すでにノイツは監禁しその資格を剥奪したので、 貿易の再開を願う旨の回答をもって再びヤンセンやカロンを送り出した。り:ヤコベさんが平蔵のたくらみを見破った理由って?ツ:将軍はこれまで、外洋や外国での争いには関知しなかったじゃないか。ズ:ここまでの間に、日本でも重大な変化が起きていた。 ことあるごとにオランダ人と対立してきた平蔵政直が死んだのだ。 そもそも幕府がバタビアへの使者を送り出したのは平蔵の強い言い分に押されての ことだったし、タイオワンの割譲もスペックスの見立て通り、平蔵がさかんに 言い立てていたことだったので、平蔵の死後に来航したヤンセンらは 今度は参府が許されることになった。レ:平蔵政直はかねてから中風を患っていたが、不正、人を欺く悪漢めいたやり方などが 明らかとなり、最後には狂気となり、自分の罪を懺悔し、閣老、平戸候、有馬候、 その他大勢の高官を糾弾しつつ告白を始めた。 そしてその噂が江戸の大官たちに伝わると、発狂したという理由で平蔵を牢獄に幽閉させ、 最後には牢獄で将軍の家臣によって刀で袈裟がけに斬られたと 商館日記に書かれているよ。り:その話、ホントなんですかねえ~。レ:さあね。 でもまあ、あり得ない話じゃないだろう。 高官たちの朱印船への出資などについても、平蔵は知りすぎていた。ケ:長崎代官で著名な者は数人いるが、1592年(文禄元年)に長崎が内町と外町に 分けられた際、最初に外町の代官となったのが村山等安(とうあん)で、 等安はその多才を生かして太閤や権現様の信任を得、朱印船貿易でも巨利を収めた。 その等安を失脚に追い込んで代官職を奪ったのが平蔵政直だ。ズ:平蔵政直の死によって、幕府の対応も幾分やわらいだ。 そして閣老を前にしてヤンセンが述べたのは、オランダ人の釈放以外に 何も要求することはなく、タイオワンでの一件はノイツの経験不足と平蔵政直らの 虚偽申し立てによるものであるから、どうか許してほしいという しごく穏やかなものだった。 長崎代官の職は平蔵政直の死の直前、政直の息子の末次平蔵茂貞が継いでいた。 平蔵茂貞は放蕩や悪事に手を出していたという噂のある人物で、 政直との折り合いも悪かった。 そのためか、平蔵茂貞はこの件に関しては父が行ったことで自分は何も知らない、 オランダ人に対しても何も言うことはないと言ったので、 このまま解決に向かうように見えたが、同じ頃に大御所様(秀忠)が亡くなったので 事件の終結は先延ばしとなった。り:ここまでの間、平戸の商館はずっと閉鎖されたままだったんですね。レ:タイオワンから例の人質を乗せてきたエラスムス号は積荷も積んでいたんだが、 その荷は押収されて平戸の倉庫に封印されたままとなっていた。 一方、自由市民の船は自由で、取引も自由にできることが許可された。 だから、オランダ船による貿易が100%ストップした訳ではないんだけど、 会社の取引は一切禁止されたままだった。 オランダ人の出入国も、商館員を除いては自由だったよ。ズ:そして1632年9月10日、自由市民の船ワールモント号でノイツが送られてきた。 ヤンセンが再度日本に来航してから、2年近くの歳月が流れていた。 事件の解決が進展を見ないので、バタビアのスペックスが最後の切り札を切ったのだ。 これには日本人もオランダ人も非常に驚き、「これ以上適切な処置は考えられない」と 日本人はスペックスの決断を称賛した。 そしてついに、 「ノイツの送還によって総督が将軍の家臣としての誠意を示したので、はなはだ満足である。 ゆえにタイオワンでの過失を大目にみてオランダ人を許すことにする。 出帆を希望している無実のオランダ人は全員出帆してよい」 という将軍の下命が伝えられた。 これをもってようやく平戸の商館は再開された。 タイオワン事件から4年、ノイツが特使として初来日した時からは5年が経っていた。ツ:日本人の高慢、正義、そして勇気について知っていれば、この国民がひとたび怒りを抱けば、 自分の敵に対してまったく容赦しないということについて驚くことはないだろう。 この国民は尊大で大胆であると同様にまた、極めて執念深く無慈悲でもある。 そして己の激しい憎悪をむき出しにすることなく、しばしばそれを異常なまでの 冷淡さの内に隠し、復讐の好機をねらう。 日本人ほど激情に流されることのない者を、私は知らないな。レ:そういう日本人をよく理解し、日本人から絶大な信頼を得ていたスペックスだからこそ、 ノイツを人質として送る大胆な決断ができた訳だし、通訳として事件のすべてに関わった カロンも経験値を上げてそれが商館の存続につながっていくことになった。 ともあれ、日本との交渉は忍耐が第一。 タイオワン事件で会社はそう痛感したかもしれないな。※今回の主な参考文献『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳/岩波書店)『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店)『長崎奉行』(外山幹夫/中公新書)『江戸参府随行記』(ツュンベリー著、高橋文訳/平凡社東洋文庫583)にほんブログ村
2016年09月24日

りり: さて、いよいよ「事件」の幕開けですね。ケンペル: まだ前段階がある。 会社と日本人朱印船貿易家の間での緊張が高まり始めた頃、バタビアから 日本に特使を派遣し、その代わりに恒例の参府で贈物の献上を行わないことにしては どうかという提案が2年続けてもたらされた。 申維翰: 緊張緩和のための特使派遣か?ズーフ: そんなところだろう。 しかし、この時は実際に特使が派遣されるには至らなかった。金仁謙: なぜだ? こういう状況下では特使派遣の方がいいように思うがな。レフィスゾーン: この頃、ポルトガル人は上方で我々について言いたい放題の虚言を撒き散らして いたから、そういう時に恒例の参府を取りやめるのは我々の不利になる。 かつ、参府は他の外国人も行っていたことで、日本では確かに関税はかけられなかったが その代わりに献上品を納めているのだから、その点でも我々の不利になる。 平戸候はじめ、我々と親しい間柄にある日本人がそう言って参府の取りやめに 強く反対をしたそうなんですよ。 それで結局恒例の参府のみとなったんですが、江戸での待遇は良かったので 商館長のナイエンローデはタイオワン方面でのトラブルにはまだしばらく そ知らぬふりをしていられると思ったようです。り:まだこの頃の参府というのは、必ずしもカピタンがみずから行っていた訳でも ないんですね。ツュンベリー: そうだな。 この時の参府もナイエンローデが行った訳ではなく、船長と下級商館員が行ったらしい。ケ:しかし、前回の1625年のソンクによる課税や積荷の没収、 その翌年にもタイオワンで末次平蔵の船とのトラブルがあり、 そうした出来事が将軍の耳にも入り、幕府からは朱印船の取り扱いを丁重にしなければ 今後会社に損害をもたらすだろうという注意があった。 それを受けたナイエンローデは、1年はタイオワンでの関税を中止し、 その間に特使を派遣して幕府に釈明をする提案をバタビアに送った。 そしてついに特使を派遣することになり、あらたにタイオワン長官に任じた ピーテル・ノイツを1627年1月に大使として日本に派遣した。 ただし、ノイツはバタビアに来たばかりでタイオワン長官となり、 日本の事情に通じていない。 そこで、日本での参府経験も持つ商人のピーテル・ヤンスゾーン・ムイゼルを 副使としてノイツに付けた。り:ノイツの日本での使命は、関税の件の弁明ですか?ズ:それはもちろんだが、他にもある。 まずは将軍と老中に贈物を献上してこれまでの会社に対する好意を謝し、 今後の継続を願うこと。 それから、タイオワンでの日本人とのトラブルを避けるため、今後は タイオワンへの渡航を許可した朱印状の発行を禁止してもらうこと。り:それはずいぶん勝手なお願いじゃないですか? オランダ人が割り込んでくる前から日本人はタイオワンにも行ってたんだから。 前に、中国人が尖閣諸島の領有権を主張している話をしましたけど、 少し前には尖閣諸島付近の領海に侵入した外国人は武力行使で排除するって 法令を定めたとかなんとかってニュースが流れて、 「ふざけんのもたいがいにしろよ!!」 と脳血管がブチ切れそうなほど怒りましてね。ツ:お前は確かに脳血管疾患でポックリ逝きそうな性格してるよな。り:中国人は国際法も何も通用しない暴力団のようだと思ったんですが、ふと 「そうか、往時のヨーロッパ人もこんな感じだったんだろうな~」 って思いましたよ。 人様の土地に勝手に来て、勝手に占領して勝手に 「はい、ここは我々の土地だから今日から関税10%ね~」 って言いやがったオランダ人とそっくりじゃないですか。金:おい倭人、暴力団て何だ?り:話、聞いてなかったんですか? 中国人やオランダ人と同じような人達のことですよ。ツ:またビッグウェーブが来たなズ:タイオワン行きの朱印状の廃止が不可能ならば、せめて1年~数年の間は 渡航を見合わせてもらうよう嘆願するのがノイツの役目だった。 こういった交渉を円滑に進めるよう、前年に会社にジャンク船の借入を却下されて タイオワンに足止めとなっていた浜田弥兵衛が船長を務める船を、 関税を徴収せずに出帆させることもノイツは命じられていた。 会社はお前の言うように一方的にゴリ押しをする中国人とは違う。 柔軟に妥協もしながら交渉を進めようとしていたんだ。 わかるな?り:全然わかんないッス。申:倭人の理解なんかどうでもいい。 話を続けろ。ズ:タイオワンでノイツは浜田弥兵衛の船について処理を委託してから日本へ向かった。 しかし、タイオワンでは事態が進展しなかったため、浜田弥兵衛は 新港の台湾人たちを引き連れて日本へ向かった。 日本に着いた特使一行は立派な献上品を持って江戸に着いた。 江戸では平戸候などから特使派遣の目的などについて繰り返し質疑が行われた。 まずここで問題となったのがバタビアの総督からの書簡で、 国王の血縁でもない臣下が将軍に対して書状を送るのは外交儀礼にかなっていないという 結論になった。 その上、特使の目的についてノイツは、同じ頃日本に着いた浜田弥兵衛の船について 不満を述べ、将軍に裁定してもらうつもりだとストレートに言ってしまったので、 日本人は驚いて騒然となった。申:なぜ倭人の船の件で大問題となるのかわからんレ:浜田弥兵衛が新港の住民を引き連れてきたのは、我々に対する不満を述べ、 タイオワンを将軍に捧げさせるためだったと言われてるんですよ。 浜田弥兵衛の船はそもそも長崎代官・末次平蔵のものだったんですけどね。ズ:ノイツの配慮のない言い回しによって、将軍に拝謁するどころか その発言の主旨にばかり焦点が集まってしまって、事態はまったく進まなくなった。 そのうち、オランダ人への待遇は露骨に悪くなり、食事も来訪してきた日本人が 顔をそむけるほどの粗末なものへと変わり、自由に外出すらできなくなった。 それどころか、平蔵らが江戸に到着するまで待機させられることになった。 先にも話した通り、ノイツは日本の事情にうとい。 膠着した状況に我慢できなくなったノイツは、なんとか拝謁の許可を得ようと あちこちの閣老の家臣に頼み込んだ。 商館が出島に移ってからはすべて長崎奉行を通じて事態を進めていたが、 この時代は平戸候がその役割にあたっていた。 その平戸候を無視してノイツはみずから閣老につなぎを付けようとしたため、 今度は頼みの綱である平戸候の機嫌まで損ねてしまった。金:八方塞がりだな。ズ:まったく先の見通しが立たないまま江戸にむなしく滞在するくらいなら いっそタイオワンに帰りたいとノイツは考えたが、拝謁を願い出ておきながら 回答を得てもいないうちに帰るのは無礼だとして、これも認められなかった。 しかし、どうにか出発の許可だけ得ると、副使のムイゼルを江戸に残して さっさとノイツはタイオワンに帰ってしまった。 商館長を務めた我々からするととても考えられない行動だが、 ノイツには経験と知識がなさすぎたのだ。り:平戸時代から出島時代を通じて、日本を熟知して日本人とうまく付き合った カピタンの中には、多くの日本人に慕われた人も結構いますよね。レ:そういう地道な交流が、我々が長く日本貿易を独占する土壌を養ったんだよ。 ドクトル・ケンペルだって江戸で相当頑張ったんだからさ。り:あれ、ほとんどヤケクソじゃないですか?ケ:仕方ないだろう。 人には持って生まれた性分というものがある。 フォン・ビューテンヘム氏は好奇心むき出しの日本人の気ままな要求に すべて応えるには向いていなかった。 商館長の威信もあるしな。 それで私が飛んだり跳ねたり踊ったり歌ったりと奮闘したのだ。 (ケンペル:長崎歴史文化博物館展示資料より)ツ:先輩のあの話は有名だもんな。 あ~、私は色々やらされなくてよかったあ。ケ:人の気も知らないで 特使派遣は結局失敗に終わり、オランダ人に対するいやがらせが増えた。 長崎での最高官僚はもちろん長崎奉行だが、奉行は江戸から派遣され、 しかも長く居続けるということがなかったので、在地の代官・平蔵が実力者だった。 大口の朱印船貿易家でもある平蔵とのトラブルが続き、平蔵を敵に回したのは 実にまずかった。り:ポルトガル人が追い出されるまでの過程でも、日本人の彼らに対するいやがらせって 結構激しいものがありますよね。 読んでて「うっわ~、陰険」って気の毒になっちゃうぐらいの。ツ:毎回、正面から我々に噛みついてくるお前とはまた違った陰湿さはあったな。 ポルトガル人やスペイン人に向けられているうちはよかったんだが、 タイオワン方面でのトラブルが増えてくると我々にも容赦なく 矛先が向けられるようになった。 ノイツの派遣は大失敗だったが、それでいてノイツはタイオワンに帰る前に 例年通り商館員を参府させるよう指示していった。 けど、総督からの特使が拝謁できなかったのに、商館員がすんなり拝謁できると 総督の権威が失墜する。 それに、ノイツに従ってはるばる江戸から帰ってきた商館員をまたすぐに 江戸に送るのもどうかという考えから、ナイエンローデは参府をさせなかったので 事態は一層悪くなるばかりだった。 こういう緊張状態が続くと、会社の船もいつ抑留されるかわからないので、 総督も平戸商館の経費を極力節約するようにという指令を出すほどだった。り:オランダ商館、危うし!ベン、ベベンベンベンベン ところで、平蔵が連れていった台湾人はどうなったんですか?レ:そちらは速やかに拝謁が叶い、多くの土産まで下賜されたらしいよ。 ただ、タイオワンを将軍に捧げるという話は幕府は取り合わなかったらしい。 なんにせよ、特使の面目は丸潰れだ。 オランダ人が拝謁を却下されたのは、ノイツの時が最初だった。 実に不名誉な話だが、日本と付き合いを続けていく難しさがここからもわかるだろう?※今回の主な参考文献『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店)にほんブログ村
2016年09月17日

かはくは地球館と日本館の2つの建物から構成されているようだけど、トーハク(東京国立博物館)のように一旦建物を出て他の館に向かうのではなく、地下の通路でつながっていて結構フクザツ。しかも、人が多い。ガイジンも結構多かったんだよな。ちょっとこれは意外でした。で、こちらが日本館の中央ホール↓。 昭和3年から3年5ヶ月をかけて建設された日本館の建物は、それ自体が国の重要文化財。して、日本館の2階に参ります。翼を広げた飛行機型の日本館2階は、南翼が「生き物たちの日本列島」、北翼が「日本人と自然」という大テーマで構成されている。ここでのお目当ては北翼にある。ここには動物たちの剥製が多くあり、わたくしのような愛らしい小動物がお出迎え~。 めんこいのうテンちゃんには夏の浅間山登山で至近距離で出会ったことがある。夏毛だったからもっと黄色かったけど、プレーリードックのようにぴょこんと立ち上がっていた姿が印象的だった。ちっさいのだけじゃなく、大型動物もいる↓。 かわいいバンビちゃんしかし、奈良公園にいた鹿は鹿せんべいを握りしめるわたくしの周りに大層群がって、コートを噛んで「せんべおくれよ~」とアグレッシブに催促してきたツワモノ揃いだった。鹿と戯れる夢破れ、鹿にむしられてあっとゆー間に鹿せんべいを巻き上げられたか弱いわたくし・・・(奈良編はそのうち公開します)ここでの第1のお目当てはこちら↓。 渋谷のハチさん(下)と南極においてきぼりにされたカラフト犬のジロさん(向かって右上)。向かって左上はタロさんではなく、甲斐犬の甲斐黒号だそうです。タロさんは苛酷な体験をしたにも関わらず14歳7カ月という長生きをして、今は北海道ではく製になって展示されているそうな。ジロさんはさすがにカラフト犬だけあって、毛が密集している。うちの娘さん(大)もジロさんばりに毛深くて、彼女をシャンプーするには体力を必要とする(いつも栄養ドリンクでドーピングしてからシャンプーに臨む)。まあ、(大)は幸い体臭も少ないうえに今では目も見えないしほとんど耳も聞こえない状態で彼女の負担になるため、以前よりもシャンプーの回数は減らしてるけど。それでも、こないだ久々にシャンプーしたら派手に鳴いた。「助けて~シャンプー嫌いなのよ~!!」て悲壮な鳴き声ではなく、「アタシに何すんだよお!アタシャ嫌なんだよお!おやめったらもう!!」てカンジの実にいやらしい声で鳴いたので、家人の失笑を買っていた。ハチさん達の近くには鳥もいる↓。 ウコッケイってこんなに奇麗なのか・・・少し前、何かの番組でかはくの収蔵庫拝見というのをやっていた。トーハクのように、中には寄託されたものもあるのかもしれないけど、実に沢山の剥製などがあるらしく、「へえ~」と思いながら観ていた。常設展の方だけでも、色々なジャンルにまたがる展示品はかなりの数になると思うけど、それでもごく一部だっていうんだからオドロキだね。さて、もうひとつのお目当てを探しながら歩いていると、奥の方に人だかりがあった。人の後ろから覗いてみると、そこに第2のお目当てがあった↓。 ※撮影禁止画像だとのご指摘をいただきましたので、画像を削除しました。(2020/7/12)これが「江戸時代のミイラ」として展示されているもので、 【火山性の酸性土壌が国土を覆っている日本では、埋葬された遺体は速やかに 分解されてしまい、骨が残ることすらまれである。そんななかで、この江戸時代の 女性は奇跡的に屍蝋(しろう)の状態となって発掘された。その後、遺体は 乾燥され、ミイラの状態になった。ミイラは見る者の心にさまざまな感慨を 呼び起こすが、科学分析はそれとは異なる過去の人々の生き様を明らかにする。 最先端の科学がミイラに何を語らせるかを見ることにしよう。】 (展示解説文より)かはくには全体を案内するリーフレットもあるけど、そのほかに「おたずねの多い展示」というものも置いてある。要するに人気が高い展示物ということで、イトカワの微粒子もハチさんやジロさんもこのリーフレットで存在を知った。で、ハチさん達と同じフロアに「江戸時代のミイラ」とあったので、日本でミイラができるはずもなし、これは屍蝋のことを指すに違いないと思って勇んで観に来た訳だけど(だって屍蝋なんてそうそう見られるもんじゃないし)、この解説文によると発掘された当初は確かに屍蝋だったけど、その後乾燥してミイラになったってことらしい。う~ん、それは残念・・・この女性は谷中の三崎町遺跡で発見された方だそうで、谷中小学校の東側だというから千駄木の団子坂の近くらしい。台東区のホームページによると、この場所にあった近世寺院跡の発掘調査で幕臣を埋葬した甕棺や庶民用の木棺など約350の墓が発掘されたとのこと。この女性の前の通路はそう広くない上に、子供から大人まで結構な人が集まっていたので人の後ろからぱっと写真を撮っただけで、ゆえに解説文を読んでおらず詳しいことはわからんのですが、まあ庶民だろう。屍蝋のリンク先で徳川将軍の埋葬方法について紹介しましたが、庶民ならあれほどの厳重な処理がなされるはずもなく、それを考えると屍蝋となって発見されたのは確かに奇跡に近い。ま、現在ではミイラ化してしまったとはいえ、外観はそう変わってないだろう。屍蝋の方がもっとみずみずしくて生々しいかもしれないけど。でも髪の毛もしっかり付いてるし、よくこんなに残ったもんだよな。こうなってくるといまだ手つかずの日光埋葬組の遺骸が気になるところだな。イエアスの保存状態にはさすがに期待できないかもしれないけど、家光や天海は生きていた頃の面影をまだ残しているかもしれない。さて、今回はかはくはこれで終わり。でも「おたずねの多い展示」に載ってるだけでも興味深いものは色々あるし、常設展を丁寧に観ていけば面白いものも沢山見つかると思う。ので、機会をあらためてまたかはくには行きたいと思っている。それに、かはくのホームページを見たら、9月13日~12月4日まで「日本の自然を世界に開いたシーボルト」と題して、シーボルトやその関係者が採集した標本の展示をやるんだそうな。う~ん、ぜひとも観たいところだけど、ちょっとこれから忙しくなりそうなので時間的にキビシイかな・・・かはくを出て、今度は寛永寺へ向かう。今回は両大師と観音堂に行くつもりなんだけど、かはくまで来たら両大師が近いのでまずは上野公園を出て両大師に向かう。 はい、すっかりおなじみの寛永寺両大師境内でございます。まずは本堂の向かって左手前にある手水舎でおきよめ。ここの水盤は寛永寺シリーズですでに紹介したので全部観たと思ってたのですが、ふと水盤に目をやると 鳥が沢山飛んでるようにも見えるけど、これおもだか(沢瀉)かな?・・・あれっ?前の時は持ち手や邪鬼にばかり気を取られていて、水盤側面の意匠は観なかったのかな?側面の図柄はこんなだった↓。 やっぱりコレ、観てないや。しかしこのアジアンな感じ、徳川家製作の銅灯篭のデザインとよく似てるな。おきよめをしてから、すぐ近くにある宮の墓所へ行って門の手前からお参り。ちょうどこの頃、拝観に来ていたジイさんが庭の掃除をしていた職員のおじさんに「この塀の向こうにはずいぶん立派なお墓があるようだけど、どなたのお墓なんですか?」てなことを聞いていた。(宮だよ、宮!上野の宮様がここに眠っておられるのだ)とわたくしがエアで答えていたのは当然のことですが、しかしこの塀は結構高くてほとんど見えないのに、このジイさん寛永寺のことを知らない割によく墓所に気がついたな。本堂と手水舎の間にある小さな池には、ちょうど蓮の花が咲いていた↓。 おっ、そういう時期か。なら、不忍まで足を延ばせば綺麗に花が咲いてるのが見られるかもしれないな・・・なんて考えながら本堂に行こうと向き直ると そこ、座るところじゃないし。しかも足で玉砂利をざらざらかき回しているとてもガイジンには見えないし、いい年をしてこんな非常識な日本人がおるのかと目を疑いました。それで本堂。今回は3つの目的がある。まずは今年もどうにか大殺界が終わったので良源さんへお礼参り。それから、良源さんのおふだの仕入れ。前に両大師のおふだはゲットしているのですが、職場で隣の席の人が「見える」人で、かつ本人の生活態度もいかにも悪いモノを呼び込みそうな危なっかしいものばかりなので、魔よけにと未使用の良源さんグッズとおふだを持っていったところ、全部持っていかれてしまったのだ。持っていった中からどれか好きなものを選んでもらうつもりだったのに、まるごと全部彼女が持っていってしまったのでまた新たに仕入れる必要があったという訳で。3つめの目的が御朱印。これまでわたくしは御朱印に興味はありませんでした。が、ちょうど1年前に某有名寺院で生まれて初めて写経体験をしまして。もともと写経をするつもりすらなかったのが、ひょんなことから写経をする気になり、写経の基本を教わったので、せっかくだから続けてみよう。書いたら納経しよう。そういう流れで御朱印をいただくことになりました。世間では御朱印ブームで、読者様の中にも御朱印を集めている方がおられるかもしれませんが、本来寺でいただく御朱印というのはお経を納めてその証としていただくもの。参拝記念でも、スタンプラリーでもありません。納経には御本尊の前でお経を唱えるのと、写経したものを納めるのと2通りあります。わたくしは写経を納めるやり方で、写経の最後には家内安全とか恋愛成就とか厄難消除とか先祖供養とかのお経を納める目的(為書き)を書きます。初めはわたくしもそういう一般的な為書きを書いていたのですが、せっかく歴史と思い入れのある寺に行くのだから、それに沿った為書きにしようと思いフツーの人はまず書かないだろうというような為書きにしています。もっとも、いただいた沢山の御朱印を紹介しているブログなどは数あるものの、実際に納経する人は少ない。なんでそれがわかるかってーと、ある寺では「えらいですね」と褒められたし、最近行った2~3の寺では納経の意味すら知らないようでした。もちろん、納経を知らなかったのは寺の事務員さんの場合で、お坊さんならさすがにそんなことはありませんが(あったらコワイ)。納経の目的は、わたくしの場合結縁(けちえん)。だから、どこの寺でも御朱印をいただく訳じゃありません。そもそも写経にもそれなりの時間がかかるものだし。それで、目的やエリア別にいくつかの納経帖に分けています。そのうちの1冊が良源さん用で、天台の中でも良源さんとゆかりの深い寺だけで構成されています。ので、本尊として良源さんを祀る両大師には良源さん用の納経帖を持ってきました。して両大師でまず納経をお願いすると、靴を脱いであがってお参りしてくださいと言う。おふだとかもついでに頼もうとしたら、まずお参りするようにまた言われた。離れたところからはさっきお参りしたんだけどな・・・まあいいや。通常バージョンの本堂の中に上がって、より良源さんに近いところでお参り。で、いただいたのがこちら↓。 よしよし、これで両大師での目的は果たしたぞ。本堂を出る前におみくじを引いたら、(やっぱり)大吉だった。最後に阿弥陀堂にお参りしてから今度は観音堂へ向かう。清水観音堂での目的も、納経。ここでは御朱印客の「待ち」がいたが、手にしていたのは御朱印帖だけで納経する雰囲気の人は誰もいない。寺離れの著しい昨今、寺によっては御朱印が貴重な収入源になってるところもあるかもしれないし、人それぞれと言えばそれまでですが、寺や仏教に興味のない人が300円払ってひたすら御朱印を集めて何が楽しいんだろう・・と正直思っちゃいますね。現在では神社でも御朱印をやってるところもあるようですが、御朱印本来の意味を考えれば神社での御朱印なんてさらに意味不明。神仏習合の時代ならともかく、今じゃ寺と神社はぱっきり分かれてるからね。これまでの旅で、訳あってここには是非とも納経したいって神社もありました。でも神社で納経なんて受け付けてくれるハズもないので、そういうところでは泣く泣く諦めます。納経して御朱印をいただく。これが仏教をわずかなりともかじった者のマナーだと思うからです。清水観音堂では良源さんを祀っている訳じゃないけど、個人的に良源さんを感じる場所だし、良源さんは観音様の化身とも言われるので良源さん専用の納経帖に御朱印をいただくのがふさわしいだろうと考えていただいたのがこちら↓。 納経とあわせて、観音堂恒例の「恐怖のおみくじ」もひきました。結果は(やっぱり)辛口で、「十に七八は死ぬ」でした。まあ、今回はちょっと思い当たることもあるし、毎回死ぬと言われて免疫がついたせいもあるけど、よく考えるとおみくじに「生死(いきしに)」の項目が含まれているところってほとんどない。他のおみくじではそもそも生死の項目がないんだから、死ぬと言われることがないだけなのだ。してみると、観音堂のおみくじはより古いタイプなのかもしれないな。これで今年のお墓参りは終わり。一時はアメ横に寄ろうかとも思ったけど、お腹もすいたし帰ることにする。で、上野の駅ナカで恒例のお土産を買う。わたくしはミートパイも好きなので、いつものマミーズ・アン・スリールで「ミートパイを置いてくれたら嬉しいんだけどな~」と美人のお姉さんに言ってみた。お姉さんは、「私もそう思うんですけど、認可とかの問題で許可が下りなくって。本店や他のお店にはキッシュとかあるんですけどね~。でもまたプッシュしてみます」と言っていた。ぜひにとお姉さんにお願いをして宮のこごめ大福を買いに行くと、以前あったブースに竹隆庵岡埜さんがいなかった。あれっ?おかしいな・・・この場所にあったはずなのに。上野駅のエキュートでは、わたくしはほとんど同じようなお店でしか買わない。たまに違うものも買うこともあるけど、たいがい恒例の品だけを目当てに行く。のであんまりエキュート内の店舗構成も憶えてないんだけど、何となく前回来た時とは構成が違っているブースがあるように思う。岡埜さん、なくなっちゃったのかな・・・こごめ大福を楽しみにしてたのに。諦めきれなくてエキュート内をぐるぐる回っていると、はじっこに岡埜さんを見つけた。「場所、変わりました?探しちゃいましたよ~」とお姉さんに言ったら、イートインができたので店舗スペースが縮小され、ブースの移動があったんだという。確かに、岡埜さんの近くには今までなかったイートインのコーナーができていた。ま、何であれ岡埜さんがあって良かった無事こごめ大福をゲットして家路に着く。この墓参りから1ヶ月以上たちますが、墓場で会ったジジイのアドレスはまだわたくしのすまほに入ってます(つか、入れたことを忘れてた)。あとでネットで調べてみたけど、何しろジジイのプロフィールの名前はひらがなで登録されていて漢字名がわからないので、ホントに芸能関係者なのかはわかりませんでした。別にどっちでもいいんだけどね。かはくの「海のハンター」展は10月2日(土)まで。金曜は夜8時までやってるそうなので、お近くの方はぜひどうぞ。にほんブログ村
2016年09月11日

かはく(国立科学博物館)に来たのなんて相当久しぶり。子供の頃以来か、少なくとも学生の時が最後の来館だろうと思う。特別展の会場に向かうと、さすがに結構人はいた。でも我慢できない程でもないし、展示物だけをぱっぱか見るつもりだからまあ大丈夫だろう。内部は撮影もOK。お子ちゃまたちが集う場所だから、やっぱり撮影できないとつまらないよね。てことで、わたくしもばっちりカメラを構えていざ中へ。最初は「太古の海のプレデター(捕食者)」というテーマで、古生代から新生代までのハンターたちが集まっている。まず最初に目をひくのがダンクルオステウスの頭部で、 ちとボケてますが、鎧のようなすごい堅そうな頭をしている。いちおう魚の部類に入るらしいが、もう恐竜だよな。コイツは噛む力がすごいらしい。 (名称不明)ふと映像資料に目をやると、なんだかすごいシーンが映っていた↓。 ああっ、お兄さんが丸呑みされるう~! サメみたいなコイツはカルカロドン・メガロドンといって、地球史上最強の「噛む力」の持ち主だと解説にある。最初のダンクルオステウスもかなりのアゴ力の持ち主だけど、アゴの力は0.7トンぐらいだったと考えられているという。1本の歯にかかる力は、巨大なホホジロザメが1.8トン、地上の王者ティラノサウルスが6トン。ダンクルオステウスがどのくらいの力の持ち主だったのかが気になるところだけど、ダンちゃんには歯がなかったから「1本の歯の力くらべ」には参加できないんだそうな。それで、カルカロドン・メガロドンとなるとなんと18トン。アゴの力じゃなくて、歯1本にかかる力だからね。そのうえ、【アゴの力に加え、切れ味の鋭い歯をもっていたので、最強の捕食者だったのだろう】(解説文より)という、最強クラスのプレデターだったようです。会場内では、頭上にも注意しなければなりません。 細長いのが、首長竜のタラソメドン。かはくには国内で初めて発見された首長竜のフタバスズキリュウの本物がいる。ただしここではなく、日本館3階の常設展の方にあるとのこと。今回はフタバスズキリュウは観なかったけどね。その隣にいるのが宙を泳ぐカルカロドン・メガロドンの全身模型↓。全長12.5m。 会場ではあまり丁寧に写真を撮らなかったので名前はわからないけど、 口のデカさもさることながら、歯がすごい。歯が。巻きビシをびっしり植えつけたようなオソロシイおくち。今回はホントに解説とか読まずにひたすら展示物を見て目の保養に努めただけなんだけど、もらったチラシを見ると展示標本の提供者に北九州市立自然史・歴史博物館の名前もある。あっ、これ、「いのちのたび博物館」のことだ。懐かしいなあ。あの時は大内氏の企画展を観に行っただけなので、常設展の恐竜ゾーンには行かなかったけど、あの時ショップで買った恐竜のクリアファイルは今も仕事で使っていて、恐竜好きの同僚には評判がいい。太古のゾーンを抜けると、今度は「大海原のハンター」にテーマが変わる。 海のハンターといえばまずサメを思い浮かべるけど、コアホウドリやオウサマペンギン、ビワアンコウなんてのもいるし、こんな海辺のハンターもいる↓。 でもやっぱ、花形はサメだよな~。今回はサメを観に来たといっても過言ではないのだ。 特にサメが好きって訳でもないんだけど、間近でサメを見るとテンション上がる。最後に寄ったショップにサメの形の海苔があったので姉への土産に買っていったんだけど、姉一家は「えっ、りりちゃんがこれ観に行ったの?どーしたの?」と不思議に思ったらしい。 上の写真でひときわ目をひく白いのはシロワニ。ワニじゃなくてサメ。「鰐」じゃなくて古代でサメを指す「和爾」なんだそうな。凶悪な顔がいかにもサメ~って感じだけど、凶悪なのは顔だけじゃなく 歯医者さんが職人魂をそそられるんじゃないかってほど見事に歯並びの悪い、何列もの歯。これに噛まれたら、逃れようともがけばもがくほど食い込みそーだつか、どんなものでも逃がさない反面、噛んだ本人も歯にひっかかってうまく獲物が飲み込めないんじゃないかなんて心配してみたりもするガスガスと会場内を進んで、いよいよ今回の目玉であるホホジロザメの液浸標本にあっけなく行きついた。あっ、あれっ?これが出たらきっと展示は終わりだよな・・・ちょっと勢いよく進みすぎたかな。チラシを見ると、ホルマリン漬けのホホちゃんで第2章は終わり、ブースを替えて第3章「海のハンターたちのテクニック」、第4章「ヒトも海のハンター」へと続くようだけど、実際には見応えのある標本展示は第2章までだった。今回の目玉であるホルマリン漬けのホホちゃんは日本初の成魚の展示だそうで、大きな水槽に口を開けたホホちゃんが静かに浮かんでいる。ホホジロザメの成魚は4~5mほどにもなるそうだけど、かはくにいるホホちゃんは成魚というもののそんなには大きくない。ちょうど若者の男女のグループがやって来て、180cmあるという男子がホホちゃんに並んでスーパーマンが飛ぶような姿勢をやってみせていた。ホホちゃんはその男子とそう変わりないサイズだったので、体長2mちょっとというところだろうか。人間でいえば高校生から大学生ぐらいってカンジかな。ホホちゃんの写真は、もちろん撮りました。が、これは目玉商品なのでここには載せません。お近くの方はぜひかはくに足を運んでホホちゃんの実物に会っていってくださいで、展示室を出て通路を歩いていくと壁にいくつかパネルが掛けてあった。 うっひょ~、すげえな。しかし、もっとすごい写真があった↓。 うひゃああああ、こんなやり方で撮影しとるのか。いくら防御柵があるといっても、カメラマンも命がけだな。ショップでお買い物して企画展を出ると、もうすぐ11:30だった。かなり急いで観たから、なんとかいい時間にまとまったな。さて、かはくを出ようかな・・・館内にあるリーフレットを取って、常設展の方には何があるのかな?と思って見たら、こんなのあるのか~ってのをいくつか見つけたので、目ぼしいものだけを見に常設展の方に向かう。だってせっかくお金を払って入ってるんだしさで、移動したのは地球館の2階。ここは科学技術のフロア。 まず最初にあるのが重要文化財のこれ↓。 【江戸期の和時計技術の最高峰 万年時計(万年自鳴鐘) 1851(嘉永4)年、田中儀右衛門久重製作 寄託者:(株)東芝 江戸末期から明治初期に活躍した田中久重が、その持てる技術の全てを傾注して 製作した和時計の最高傑作。不定時法に合わせた割駒式文字盤などの各種表示や 太陽や月が自動運行する天象儀が備えられ、日本独自の創意工夫が随所に見られる。 また当時の職人らにより、意匠的にも美術工芸的にも優れたものとなっている。】 (現地解説より)ほおお~、きっとこれも蘭学の影響を受けたものなんだろうな。現地ではその程度でオランダ萌え~してただけなんだけど、帰ってウィキペディアで調べてみると田中久重さんは後の東芝の重電部門である芝浦製作所の創業者なんだそうな。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」とも呼ばれた発明家だとある。「鎖国」による泰平の世で世界の進歩から立ち遅れた日本は、明治に入って西洋に追いつけ追い越せでしゃかりきに頑張った・・・みたいに、一般的には「鎖国」はとかくマイナスのイメージで語られることが多い。「ガイジンの夕べ」の方でこの後書いていきますが、江戸期の日本は決して引きこもりになっていた訳じゃない。色々と制約もあったので、西洋のように自発的に科学技術全般が飛躍していった訳でもないけど、オランダ商館を通じて西洋文化もそれなりに入ってきていたし、少ない情報を熱心に学んで日本ナイズして研究・開発にいそしむ努力家もいた。和時計の先には、そうしたものも展示されている。 (18世紀初頭製作:日本人が作った地球儀) ↑これの来歴はちょっとわからないけど、日本語が書き込まれているので日本人の手によるものだろう。オランダ商館は地図ももたらしているので、それを基に描いたものかもしれない。日本の左下に描かれている島嶼部がVOCがテリトリーにした辺りで、大商館のあったバタビアは今のインドネシアのジャカルタ。緑と資源の豊かな無数の島々が連なるインドネシアを、ヨーロッパ人は「エメラルドの首飾り」と呼んだそうなんだけど、ちょっとこの地図では首飾りが台無し・・・「江戸時代の科学技術」のコーナーはすぐに終わって、近代へと突入する。ここに鎮座ましますのが いわずとしれた零式艦上戦闘機(二一型)。かはくにもあったのか・・・確か、靖国の遊就館にもあったよな。でもどちらかというと、人間魚雷「回天」とか特攻機「桜花」の方が記憶に残っている。「こんなちゃっちいのでホントに戦地で活躍してたのか!?」・・・それが遊就館での素朴な感想でした。でも、かはくの零戦はカッコ良く見える。零戦の足下には 【「YS-11量産初号機」募金のお願い 当館では、YS-11量産初号機を良好な状態で未来へ継承するため、現在、 羽田空港内で保管しております。YS-11量産初号機の維持管理等にご協力 くださいますようお願い申し上げます。】と募金箱が設置されていた。YS-11か・・・先日、アメリカへ向けて飛び立ったやつが空調トラブルで引き返したとかってニュースを旅先で見たけど・・・あ、あれはMRJか(笑)。ま、なんにせよ少子高齢化で人口減少が必須の日本を支えるのは世界に誇る技術力であることに違いはない。頑張れボクらのMRJ。てことで、寸志を募金箱に放り込んで本来のお目当てを探す。 近未来的なこの辺のブースは宇宙開発がテーマ。ここでは小惑星探査機はやぶさが小惑星イトカワから採取した微粒子が公開されている。と言ってもとてもちっちゃいモノらしく、光学顕微鏡を覗いて観察するようになっている。なんで顕微鏡の写真がないのかと思ったら、肉眼で見られるオープンな展示じゃないので、順序よく並んで1人ずつ見るようになっている。持ち時間は1分。人は少なかったけど、わたくしの前にも後にも人はいたので、悠長に顕微鏡の写真を撮ってる場合じゃなかったのだ。で、肝心のイトカワの微粒子ですが・・・うまく合わせられなかったので、全然わかりませんでした(笑)。まあ、お子ちゃまが来ることが多いので、ちびっ子があれこれ操作しているうちにターゲットに焦点が合わなくなってしまうのだろう。たった1分だから、焦点が合うまで粘る訳にもいかないし。てことで、残念な結果ではありましたが、ここにこんなものがあるなんて全然知らなかったので、そのことを知っただけでも収穫と申せましょう。さて、ここでの用事は済んだので出口を探していると、こんなスペースがあった↓。 ここでプチ講演会でもあるのかな。歩きながらどんなことをやるのだろうと思って見てみたら、【7月23日(土)ディスカバリートーク 「日本の植物とシーボルト」 植物研究部 秋山忍 開始時間:11:00~、13:00~(各回15分程度)】うわっっ、シーボルト!?植物への造詣は非常に浅いわたくしですが、シーボルトとなると話は別。ケンペルやツュンベリーと同じく、シーボルトはオランダ商館付医師だったので、もう旬もいいとこです。ま、個人的には今のところシーボルトさんてあまり好きじゃないんだけどね。しかし、2回目の講演まであと1時間以上あるぞ・・・ちょっとそこまでは待てないな。ので今回はパス。夏休みに入ったお子ちゃまたちで賑わう地球館を出て、日本館へ向かう。にほんブログ村
2016年09月08日

ブログネタがたまりすぎて大変なことになっている上に、「ガイジンの夕べ」は当面終わりそうにないので、短編で上げられるものを随時挟んでいきます。まずは今年のお墓参り報告から。2016年7月23日(土)はれ去年のクソ暑い中のケージョー行きからもう1年たつのか・・・早いのう。去年の墓参りはトラブル続きで、行きついたところが完全予定外の小塚原だったんだっけ。今年はあんな大失敗をせぬよう、気をひきしめていかねばな・・・てことで、朝早く出られたし、電車に忘れものもせずに順調に着いた。晴れとはいうものの、まだ朝方はうすぐもりで少しはラク。でもたいてい、わたくしが墓場に着くと見事に晴れてくるのだ。例によって、お墓参りのあとで寄るところを考えてきているので、暑くなる前に手早くお墓のお掃除をして上野に移動したいところ。隣接する染井霊園と違って、蓮華寺には門があるので何時から開いてるのかが気になるところだったけど、8時すぎに着いたら門は開いていたのでほっとして中に入る。累代のお墓と大おじさんのお墓のお掃除をまず済ませる。昔ながらの東京のお盆は7月で、先週の連休できっとまたいとこのSちゃんは来たのだろうと思っていたら、案の定累代のお墓の方には比較的新しいお花か供えられていた。Sちゃんは、大おじさんのお墓を知らなかった。いや、あること自体はなんとなく知っていたらしいんだけど、彼がお参りするのは累代のお墓と、彼の母親の意向に沿って無縁墓にお線香を供えるだけだと言っていた。3年前ここでSちゃんに会った時、Sちゃんにお線香を買ってもらって累代のお墓に一緒にお参りしたあと、わたくしが大おじさんのお墓の方に行っているとSちゃんもやって来て、しげしげと大おじさんのお墓を見ていた。ので、今年は大おじさんのお墓にもSちゃんはお花を供えてくれたかな?と思ったら、そちらにはお花はなかった。まあ、わたくしも母親から大おじさんの方はいいわよ~と言われてはいるものの、あるとわかっているのに行かないのもなんだし、これまでずっとそうして来たので今回もお花は2セット分用意してきている。1人なので、まず2つのお墓の掃除を済ませてお花を供えてから最後にお線香を捧げるんだけど、今年こそ早い時間に済ませる決意をしてきていて、朝早くからお線香を頼むのも少々気がひけたので、今年はお店で売ってる墓参り用の線香とチャッカマンを持参していた。そして、いよいよの点火・・・が、チャッカマンで綺麗に線香の束に火をつけるのって案外難しい。まだついてない部分に火をあててると、最初に火がついた線香が早くも灰になって手の上に落ちてくる。あっちいい~~~!!しかし、投げ出す訳にもいかずじっと耐えてどうにか火をつけた。で、線香立てに挿そうと思ったら、サイズがあわなくて(本数が多すぎて)入らねえ~!しょうがないから入るぐらいに束から線香を抜き始めたけど、ぽきぽき折れるわ燃えカスが容赦なく手に降り注いでくるわで大パニックようやくひと束挿して、もう一つの方はあらかじめ少し抜いておこうと思ったものの、抜き足らずにヤケドを増やしただけだった。大おじさんの方でも同じように苦戦して、全部挿し終えてから墓を眺めるとあたりに灰が散乱してせっかく掃除したのも台無しだし、手はヤケドだらけの惨憺たる状況もうほとんど墓場に根性焼きしに行ったようなもんです。この記事を書いてる今は墓参りから1ヶ月以上経ってますが、今なおわたくしの左手には根性焼きの跡がぽつぽつ残っております。ぐったりして蓮華寺を出て、染井霊園の中へ入る。そうだ、まだ長堤を見てないから、寄っていこうかな・・・と思って長堤のある方向へ歩き出す。近くまで来て案内図を見て位置を確認していると、後ろから声をかけられた。音楽を聴いていたので、何かな?と思ってヘッドホンを外したが、これがマズかった。声をかけたそのジジイはもはや通り過ぎていたのに、わたくしと目が合うと戻ってきておしゃべりを始めた。「何してるの?」みたいなところから会話が始まったと思うんだけど、長堤を見に来たと言うと、自分もそういうのが好きで、京都に住んでるんだけど今ちょっとこっちに来ているので、これからどこそこへ何々を見に行くところだと言う。おとなしく聞いてると、ジジイの話は自由奔放に墓場を駆け巡る。何でも自称・芸能関係者で、確かに75歳にしてはチャラい格好をしていた。も~うナントカ監督の話から、いくらでマンションを買っただの、どこそこの外国へ行っただの、ジジイの話は尽きない泉のよう。75年分のあなたの話なんて、とても聞いていられません・・・芸能関係者だといえば誰もがありがたがると思っているのかと思って、TVは見ないし一番いらない大型家電はTVだと言ってやったが、全然へこたれない。墓場だから蚊もいて、わたくしが蚊にさされた足をボリボリ掻きながら聞いてても全く意に介さない。出会った場所が墓場だから、ひょっとしてもう生きてない人なんじゃないかとも思ったけど、iPhoneとか持ってるし、いちおう生きた人間ではあるらしい。色んな話のほとんどがわたくしにとって興味のないものだったので、そんなに積極的に相槌を打った訳でもないし、むしろ邪険な態度だったと思うのにジジイはわたくしが相当気に入ったらしく、「アナタ、京都にいらっしゃいよ」とか言う。しまいには、「京都に来たら連絡ちょうだい。連絡先教えて」と言ってiPhoneを取りだしたえええええ~っ、マジ困るんですけど・・・しかしそこはジジイの悲しい性(さが)。iPhoneの使い方がよくわからなくて、自分のプロフィール画面を表示できない。「アナタ、わかる?」と言って自分のiPhoneをよこしたので、ジジイ以上にiPhoneの使い方を知らないわたくしがジジイのiPhoneで奮闘するハメになった。(なんで私がこんなこと・・・てか、見ず知らずの他人に個人情報満載のすまほなんか預けていいのか?)と思いながらいじっていると、どうにかプロフィールが出た。とっとと赤外線通信してオサラバしようと思ったら、赤外線のやり方がわからない。仕方ないので、手入力でジジイの情報を自分のすまほに入力することにした。わたくしがそうやって奮闘している間、ジジイはそばの低い塀に座って相変わらず滔々と自分の話を続けながら、「アナタもここ、座りなさいよ」などと呑気に言う。ナントカ監督のもとでナントカって人と一緒に仕事してたけど、ナントカさんの方はゲイの監督に気に入られて出世したんだという。自分はゲイじゃないから気に入られなかったとジジイは言ってたけど、話言葉は立派なオネエ言葉だった。どうにかジジイのデータだけわたくしのすまほに取り込んで作業完了の旨を告げたが、ここも高齢者ゆえ自分のiPhoneの電話帳を確認することはなかった。これが若い人なら、わたくしのデータが自分のiPhoneにちゃんと入っているか確認するところだけど・・・ジジイで助かった「アナタこれから上野に行くの?なら、一緒にお食事しない?ごちそうするわよ」カンベンしちくり・・・忙しいので用事を済ませて早く帰りたいから、と断ったら「忙しいの?なんで?何してるの?」とまた新たな話を展開する。「将軍たちの宝」シリーズにもかなりの時間をかけたけど、現在連載中の「ガイジンの夕べ」にもかなりの時間と手間暇をかけていて、この頃はマジで時間が惜しい時だったので、趣味の勉強で忙しいと言ったら「アナタ大学生?」ときた。おお、学生さん扱いされるのも久しぶりだな~。しかし、さすがにここ最近身も心も脳ミソもめっきり老けこんできているのを重々自覚しているので、嬉しくも何ともない。あとで家族に「大学生?って言われた」とメールしたら、各人の大爆笑を買った。これまでのわたくしの統計で言うと、さみしい場所ほど若く見られる傾向があるのが判明している。墓場なんてさみしい場所の最たるものだから、よっぽど若く見えたのだろう。ジジイのiPhoneを返したあと、わたくしが霊園内の配置図を見始めるとこれまであんだけ喋ってたのがウソのようにジジイは去っていった。最後にわたくしの名前を確認して。去っていくジジイの背中を眺めながら、彼はまさか自分のiPhoneにわたくしのデータが入っていないなど思いもしないだろう・・・とちょっと後ろめたさも感じたけど、たっぷり50分は話していった。その間、わたくしはずっと立ちっぱなし。あ~っ、腰いてえ・・・体調だって良くないのに、この後の予定をこなせるかしらとにかく用事を済ませて一刻も早く帰ろうと思い、長堤のある方へ入っていく。で、こちらが長堤跡↓。 ほとんど何の変哲もない墓地と化してますが、一段低いところが長堤の跡らしい。 【長池跡(谷戸川源流) 長池は、かっての谷戸川の水源にて、古地図(安政3年・・1856年・・の 「駒込村町一円之図」)によれば巣鴨の御薬園と藤堂家抱え屋敷にまたがる広大な もので、長さは88間(約158m)幅は18間(約32.4m)もあったという。 この池は現存していないが、この案内板下のくぼ地の一帯がその跡地(約半分で 残り半分は道路部分)と思われる。 かっては清らかな湧水が池を満たし、清流となって染井霊園沿いに流れていた。 池から西ヶ原あたりまでは「谷戸川」、駒込の境あたりで「境川」、北区に入り 田端付近で「谷田川」、さらに下流の台東区根津付近からは、「藍染川」と呼ばれて 不忍池に流れこんでいた。(全長約5.2km) 明治末期には周辺の開発等もあり、湧水も減少して池も小さくなり、大正に入って 埋め立てられた。ここに、在りし日の湧水清らかな「長池」とその清流「谷戸川」を しのび記念の一文を残すものである。 平成14年3月 ソメイヨシノの咲き乱れる佳日に 東京都染井霊園】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ほお、不忍池まで流れ込んでたとな。ここは染井霊園の北東の端にあって、文中にある「道路部分」は2年前の「墓参り2014(2)」でバアちゃんが転んだ細道のことで、その先には慈眼寺などがある。ここについては全然知らなかったけど、湧水の大きな池があった場所だったのか。なるほどね。染井霊園内にはポンプ式の井戸があるし、蓮華寺にも同じくポンプ式の井戸がある。かつての長池と同じ地下水をくみ上げているのかもしれないと思った。さて、これで巣鴨はおしまい。いつも墓参りの後で大福を買う地蔵通り商店街はまだ開いてないかもしれないし、去年お気に入りとなった宮の大福を買おうかと思っているので、商店街はパス。んで、上野に移動。また上野~?はい、また上野です。でも、寛永寺にも寄るには寄るけど、今回はちょっと趣が違うのだ。旧寛永寺境内の上野公園に入ると、まず現れるのが国立西洋美術館。 今年の7月17日に世界文化遺産に決定した建物です。まだ文化遺産になりたてホヤホヤで旬なスポットなので、いつもよりこの建物にカメラを向ける人が多うございました。しかし、わたくしのお目当てはここじゃない。進行方向に目を向けると ああ、相変わらず人が多いな・・・だから早く上野に移動したかったのに。写真に映ってるように、制服を来た中学生ぐらいのお子ちゃまも多くて、コイツらと行き先同じじゃないだろーなとビクビクしながら旧寛永寺本坊方面へ歩き始める。これが西洋美術館を脇から見たところ↓。 この先にある国立科学博物館(通称:かはく)がわたくしの今回のお目当て。今日はこれを見にきたのだ↓。 今回は史跡めぐりじゃありません。別にサカナが好きって訳じゃないけど、コープのチケット関係のチラシを見ていた時にこれを見つけて、ハートをわしづかみにされたのでソッコー前売りを買いました。夏の大型企画展で、すでに夏休みに入っているし、お子ちゃま達でかなり混むだろう・・・まだ始まったばかりで、できれば夏休み前に来たかったけど、開始直後の先週は天気が悪かったので墓参りには向かず、今週に持ち越しとなった。ただ、10月までやっているので、あまり混んでるようだったら今回はパスしてまた後日あらためて来ようかと思っていた。週末なんかは結構遅くまでやってるみたいなので、仕事帰りに来てもいいしな。それで、入口から少し様子をうかがってみたけど、まだそれほど混んではいないらしい。ので、中に入ってみた。にほんブログ村
2016年09月05日

ツュンベリー: 会社がタイオワンに進出した頃から周辺の変動も大きくなっていくが、 どうする? そのままタイオワンの話を続けるか?りり: う~~~っと・・・ ただでさえ複雑な歴史なんで、なるたけ時系列でお願いします。ケンペル: よし。 平山常陳が処刑された同じ月の1622年8月、イギリス東インド会社のバタビア支配人 ファースランドは日本商館の採算が悪いことを理由に閉鎖を命じ、コックスらを召喚したが コックスはすぐには応じず、事務整理の都合上次の季節風期まで残留することを回答した。 しかしこれはバタビアの理解を得られなかったようで、コックスは手ひどくなじられた。 さらに抵抗する意思をなくしたコックスは商館での決議をへて閉鎖に応じることを決め、 日本人関係者に贈物をして暇を告げ、1616年に得ていた朱印状と商館倉庫の保管を 平戸候に託した。り:うん? アンボイナ事件で肩身が狭くなったので商館を閉鎖したって訳じゃないのか・・・ズーフ: まあ、まったく無関係ともいえないかもしれない。 バタビアからコックスへの叱責状が送られたのは、事件の後だからな。 だが、イギリスでは採算の悪い商館を閉鎖する案が事件の前から持ち上がっていたので、 事件が直接の原因ではないだろう。 イギリス側でも我々と同じように中国貿易の足がかりをつかもうと努力はしていたが、 成果を収めるには至らなかった。申維翰:何の事件が、なんだって?レフィスゾーン: モルッカはヨーロッパで珍重された香料を産出するので、争いが激しかった地でね。 我々がモルッカ諸島のアンボイナに進出したあと、イギリスも進出してきて競争が激化し、 それで英蘭防禦協定の中には香料貿易に関する項目も含まれていた訳なんですが、 現地では協定を無視した動きなどもあり、争いは相変わらずだったようです。 そして1623年2月、イギリスの傭兵だった日本人が我々の砦の内部事情について 聞き込みをするなどの不審な動きがあったのでこの男を拷問にかけたところ、 イギリスによるオランダ砦襲撃の計画を自白したので、ただちにイギリス人達を捕らえ、 拷問によって計画が事実であることが明らかになったそうです。 それでイギリス人や傭兵の日本人などを処刑して、同地でのオランダ支配を確立したのが アンボイナ事件です。金仁謙: それなら、倭国で肩身が狭くなるのはオランダ人なのではないか? 処刑した中に倭人も含まれているのだからな。レ:どうでしょうね・・・ ただ、前回の報告書の中でカンプスは 【皇帝(将軍)の名誉欲は帝国内に限られ、何人に対しても戦争を開かず、海外にいる臣民が 彼に迷惑をかけ、外国君主との戦争の原因となることを許さない。】 という解釈を示しているので、のちに日本人の海外渡航を禁止することになる ひとつの遠因になったという可能性はあるかもしれませんね。 別の見方をすれば、日本人を守るための措置だったとも言えるのかもしれませんが。り:ともかく、モルッカと日本からの撤退が重なって、イギリスはインドの方へ 重点をスライドしていく訳ですね。 で、ライバルが1人減ったと。 とはいえ、倉庫の管理を委託していくあたり、完全に撤退する気はなかったようだけど。ズ:今後に望みをつないでいたからこそ、穏便に退去する策を取ったのだろう。 現に、かなり時間が経ってからイギリスは通商再開を求めに来たしな。 そのほか、出国までに平戸候への貸付金の回収が進まなかったので、 コックスは我々に取り立ての継続を依頼していった。ツ:平戸候には、我々も多額の貸し付けをしていてねえ~。 オランダ商館が平戸から長崎に移されたあと、事あるごとに平戸候に借金の返済を 頼んだんだが、なんだかんだと理由を付けられてなかなか返してもらえなかったと 時の商館長が書き残しているよ。ケ:リチャード・コックスが日本を出国したのは1623年の末だったが、 同じ年にはポルトガル人の日本在住禁止と朱印船のマニラ渡航の禁止が公布された。 この段階ではまだ完全にポルトガル人が追い出された訳ではなかったが、 それまで宿としていた日本人キリシタンの家に泊まることは禁止され、 キリシタン以外の家に泊まることが定められた。り:ふん、いよいよだな。ケ:翌年は会社がタイオワンにゼーランディア城を築いた年だが、 ついにスペイン船が来航を禁止された。り:まずは小さな虫からか・・・ これで2匹目退治。 スペインが渡航を禁止されたのはなぜなんでしょうねえ。ツ:まあ理由は色々あるだろうけど、キリシタン関係も大きな理由だろうな。 キリスト教禁制を出しても宣教師の潜入が収まらないので将軍が怒ったともいうし。レ:日本に入ってきていた修道士はイエズス会だけじゃなかったからね。 日本での布教のパイオニアともいえるイエズス会はさすがに日本との関わりも深く 状況を判断できるだけの知識もあったけど、日本での経験が浅く、 甘く考えがちだった新参の宣教師の中には禁教下でも布教をやめなかった者もいたらしい。り:なんでそんなに頑張るんだろ?レ:頑張りはまだ続くんだよ。 スペイン人は追放されても布教は諦めなかった。 スペイン人が日本に入れないのなら、日本人をマニラで教育して布教にあたらせるしかない。 そう考えたスペインのマニラ総督アロンソ・ファハルドは日本人学校の建設に着手した。 しかし、ファハルドはブヨ(島人が噛んで楽しむ果実)や煙草を専売にして 学校の建設・運営費に充てようとしたので一般商人らの恨みを買い、ファハルドが死ぬと 学校建設計画は破棄された。 それに、もうすでに日本で禁令が出ているのに今さら学校を建てても遅すぎるし、 すぐに役に立つかどうかわからないものを建ててどうなるって意見もあったらしい。り:へえ、もはや執念だな。ケ:スペインも我々がタイオワンに拠点を持つ危険性を十分認識していたが、 後手に回った。 彼らが基隆(キールン)港を占領し、社寮島にサン・サルバドル城を築いたのは 1626年だ。り:スペインの台湾進出、やけに遅くないですか?レ:ちょうどファハルドが死んだりしたんだよ。 スペイン人は勇んで基隆に陣取ったものの、この頃のマニラの財政状況はあまり良くなく、 基隆に着いたスペイン人はすぐに困窮してねずみや犬を食って飢えをしのぐ ありさまだったらしい。 基隆でも早速布教を始めたから、現地人との関係はなかなか良好で、彼らから 食料を援助してもらったこともあったようだよ。ツ:それでタイオワンを攻めようとしたらしいが、応援の船は暴風雨で 基隆にたどり着けなかったりと困難もあり、また台湾遠征に反対する者もいた。 他にもっとやるべき事があるだろうとか、台湾にはろくな産物がないとか、 オランダ人はあくまで貿易の拠点を築いただけだから、別に今叩かなくてもいいだろうとか、 それより中国人と日本人対策のが先だとか。 スペイン人はずいぶんと海外に在住する日本人に手を焼いていたようだからな。 基隆は台湾北部にあってタイオワンと日本の間に位置していたから、 我々にとっては邪魔な存在で妨害されたこともあったけど、彼らは1642年には 撤収した。ケ:スペイン人がサン・サルバドル城を築いた年は後水尾天皇の二条城への行幸があったので、 参府は江戸ではなく京都で行われたが、我々はスムーズに将軍に謁見が許されたのに、 ポルトガル人は冷たくあしらわれたという。 り:日本に貼りついていた最大の虫にも、すでに逆風が吹き始めていたようですね。 もっとも、スペインの来航禁止にしても、オランダ人の地道な悪口運動が 後押しをしたというのが一般的な見方ですけど。 貿易面だけじゃなく、カトリックVS.プロテスタントの側面もあるからな~。 ホント、めんどくさいったらありゃしない。レ:めんどくさがり屋だなあ、お前(笑)。り:そういうレフィさんだって、参府日記で結構めんどくさいを連呼してるじゃないですか。レ:だって日本人てマメすぎるっていうか、ちょっとウザいっていうか お前だって大まかなところを知っているのなら、わかるだろう? 私の気持ち。り:そりゃあまあ、ズーフさんの次の商館長になったブロムホフあてに、通詞から 「お腹がすいたから、パンをひと切れわけてください」とか 「コーヒーに砂糖を少し入れてもらえませんか」とか言ってる書状も残ってるし、 シーボルトさんの参府記録なんかでもちょいちょい来客があって、 「うわあ、これ、ウザかっただろうな~」とは思いましたけどね。レ:だろ?ケ:話を続けるぞ。 少し話が前後するが、ここからタイオワンだ。 我々がタイオワンに拠点を置くと、その影響はすぐに現れ始めた。 日本人はタイオワンにも朱印船を出して交易していたからだ。 1624年に出た朱印船は航海に失敗して何の積荷も得られずむなしく帰国したが、 この失敗はすべてオランダ人にあるといい、しかもオランダ人の品はすべて略奪したもので、 略奪のなかった年には日本への輸入はないなどと罵倒した。申:痛いところを突かれたな。 敵はポルトガル人だけではなくなった訳だ。ケ:日本在住の中国人もタイオワンに来ていたので、彼らもライバルだった。 我々に好意を持たない中国人の海賊は、タイオワンへは全く絹織物を持ち込まず、 わざわざ他の港で荷を下ろしてひそかに陸路でタイオワンへ運び、闇に紛れて 日本人に荷を売るなどという行為をしていた。 そこで1625年、タイオワン長官のソンクは日本人に10%の関税を課し、 日本在住の中国人の渡航を禁じた。その頃、日本人の朱印船2隻が タイオワンに入港したが、自分達は将軍の朱印を持った商人であり、 以前からこの土地を所有していること、日本ではオランダ人に課税していないのだから 不当だなどと主張して関税の支払に応じなかった。 それでソンクは、日本人の買い入れた生糸のうちの15ピコルを没収した。 この船は長崎代官・末次平蔵政直の船だったので、平蔵はこの件について幕府に訴えた。り:この道は、いつか来た道~ケ:幕府はすぐには反応を示さなかった。 しかし、これ以降タイオワンに行く船に与えられる朱印状は一般の商人には与えられず、 限られた大商人だけに与えられることになった。 さらに、末次平蔵は幕閣の松平右衛門太夫正綱から関税を支払う必要はないという旨の 書状を得ていた。り:松平正綱? 智恵伊豆のパパじゃないか~。ズ:智恵伊豆・・・ 島原の乱で大将を務めた男だな。り:そう、それ! 実際には、信綱は正綱の養子ですけどね。ズ:前回、禁止されていたにも関わらず高官が朱印船に出資していたと話しただろう? 松平正綱もそのうちの1人だ。り:ほ~ほ~ほ~・・・それは・・・ズ:ほかの出資者に、永井尚政、井上正就などもいる。り:永井尚政か・・・ 小牧・長久手で池田恒興を討った永井直勝の子だな。 まだそういう時代の話か~。ズ:先に京都でスムーズに謁見がかなったとの話が出たが、実際はひと悶着あった。 これら幕閣の出資者は直接利害が絡むので、謁見を妨害しようとしてきたのだ。 平戸時代の我々の世話役は平戸候だったが、平戸候が必死になって我々の弁護を してくれたおかげで将軍への拝謁が叶ったのだ。り:ふ~む、皆さんが江戸に参府した折には時の幕閣の他に平戸候にも挨拶してますけど、 そういう平戸時代のあれこれがあったからなんですね。レ:もっとも、筆頭の閣老だった大炊殿が我々と親しい間柄だったというのも 大きいけどね。 そして将軍も我々に対し好意を示して下さったのが決定的だった。り:土井大炊頭利勝は、「不快な、苦い、黒い、醜い、絵に描いた悪魔のような 恐ろしい顔をした人」とオランダ人から恐れられていたって聞きましたけどレ:それはそれだよ。 最高閣老の口添えを得られたことは我々にとって非常な利益になった。り:オランダ商館は井上正就の弟とはのちに深く関わることになりますけど、 ここでもよく耐えていい関係を築けたことが商館の存続につながる訳ですもんね。 ズ:この時、商館長はコルネリウス・ファン・ナイエンローデだった。 ナイエンローデは、タイオワンでは日本人を決して雇わないよう勧告している。金:なぜだ?ツ:日本人同士で内通するに決まってるからさ。り:ナイエンローデはあまり評判のよくない商館長で、永積洋子氏も結構きついことを 書いてますが、ツ:実際、現地で色々トラブルがあったようだから仕方ないだろう。 もっとも、同情すべき点もある。 平戸の商館長はスペックス(2回目の就任)からカンプスに代わり、カンプスの後は ウィレム・ハイヘンが継ぐはずだった。ところが、ハイヘンは日本到着を目前にして 船上で亡くなった。 カンプスはすでに任期を終えて出国する許可を得ており、船長として来日した ナイエンローデに日本に留まるよう依頼し、ナイエンローデは総督からの指令が来るまで 日本に留まることにした。 しかし、その3ヶ月後、カンプスは急死した。ナイエンローデはなんの引き継ぎもなく、 日本についてのなんの経験もなく、急遽商館長になることになったんだ。 日本のような難しい地に、しかもタイオワンにからんで緊張が高まっている時期に、 何の経験も知識もなく商館長として立ち回らなければならなかったのは 気の毒な気もするね。 り:でも素直な目で見ると、ナイエンローデはそんなに 勝手なことやってる訳でもないんですよね。 てか、理を通そうとするまっすぐな人っていう気がしたんですけど。ズ:だが、これはもはや「政治」だ。 理は確かに大切だが、我々をねたむヨーロッパ人からどれだけ卑屈だと非難されようと、 相手国の状況や慣習に応じて柔軟に臨機応変に対処していく必要がある。 日本のような国はとくにそうだ。レ:ナイエンローデだけじゃなく、タイオワンの長官だったソンク、 その2代あとに長官となったピーテル・ノイツ。 微妙な時期に、日本を知らなさすぎる人物が重なった。 これが、事件に発展したひとつの要因でもあるだろうね。※今回の主な参考文献『日本大王国史』(カロン原著、幸田成友訳著/平凡社東洋文庫90)『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店)『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』(奈良静馬/大日本雄弁会講談社)『出島 異文化交流の舞台』(片桐一男/集英社新書)にほんブログ村
2016年09月04日
全6件 (6件中 1-6件目)
1


