全4件 (4件中 1-4件目)
1

このところ、なかなか更新ができなくて申し訳ありませぬ。今回は久々のカレー行きます。 箱の裏側には【京都玄琢の料亭「雲月」の技法に習い、吟味した素材を使用し、調理しました。】とある。これは近所のスーパーで買ったものだけど、料亭のカレーってどんなだろう・・・でも以前食べた山椒のカレーはちょ~おスパイシーだったしな。でも料亭のカレーだぞ・・・しばらく陳列棚の前で悩んだあげく、意を決してカゴに入れました。開けてみるとさらっとしたスープカレーってカンジで、あんまりカレーって感じもしないし、前の山椒カレーほど辛くはなかった。それなりにスパイシーではあったけどね。それより、具が多かった。特に玉ねぎが沢山入っている。「お好みで、うどんなどにかけてもおいしく召し上がれます」とあるけど、これだけ玉ねぎが多ければ確かにうどんカレーもいいと思う。美味しかったのでこれは気に入りました。具が多いといえば、確かこれもそうだったな↓。 パッケージがお子ちゃまっぽいのでどうかと思ったけど、なかなか美味しかった。きのこ大好きだし。たいていのレトルトカレーは「チン」ができるんだけど、具材が大きかったりすると破裂するからチンはだめで、湯せんオンリーになる。わたくしがレトルトカレーを食べるのは休日の朝ばかりなので、朝から地道に湯せんするってめんどくさいんだけど、これも湯せんオンリーのカレーでした。具材に飛び付いたといえば、これもそうだな↓。 鴨肉は脂っぽいけど、わたくしは好きなんだよな。マッシュルームも好き。そしてカレーマルシェから出ているとくれば、ハズレのハズがない。箱の裏には【「カレーマルシェ」はビーフとマッシュルームが入った、生クリーム等の乳製品の まろやかさが特徴の欧風カレーとして、長年親しまれています。 その中で「カレーマルシェ スペシャリテ」は欧風高級カレーとして、こだわりの 食材とプロの技を使っておいしさを磨き上げました。 オレンジでマリネした鴨肉の旨みと、オレンジピールのさわやかな香りがソースの コクを引き立てたこだわりの逸品です。】とある。カレーマルシェはもう30年ぐらい続いてるのかね。息が長いだけあって、これもコクがあり美味しかったです。ただ、オレンジはわからなかったけど。こちらはお手頃なお値段の「カレー職人」シリーズ↓。 安いからといってあなどるなかれ。ふわふわ玉子がやさしい味わいで、とっても美味しかったです。ただし、甘口なのでスパイシーさを求める人には物足りないかもしれない。わたくしのようなお子ちゃま向けとも言えるでしょう。これはリピ確定。こちらは生協で取り寄せたにしきやさんのカレー3種↓。 どれも個性的で美味しかった。レモンクリームのは黄色っぽいホワイトカレーで、カレー好きには「これがカレーか?」ってカンジかもしれないけど、ホワイトカレーってのはたいていそんなもんです。レモンクリームのカレーは、仙台に行った姉も土産に買ってきてくれたので、場所によっては店頭にも出回っているらしい。カレーじゃないけど、シチューやグラタンに使うホワイトソースは意外にレモンが合います。鎌倉のとあるレストランでランチにえびドリアを食べた時、スライスしたレモンが上に載っていて、スプーンでつぶして食べてくださいと言われた。ええ~、レモン!?と思ったけど、つぶしてまぜまぜすると確かに美味しかった。意外な組み合わせだったので、会計の時にとっても美味しかったと伝えたら、奥さんは嬉しそうにしてました。鎌倉編はそのうちアップしますが、順番通りに行けば相当先の話になると思うので先にここでご紹介しておきます。興味のある方はぜひやってみてください。スーパーのカレーでやっちまったのがこちら↓。 「金沢のシーフードカレー」。・・・そういう認識でぽいっとカゴに入れて、例によって休日の朝食べようとしたところ、温め方を読んでいてはじめて「カキのカレー」だということに気がついた高かったのに、コレ・・・しかし、あらためて外箱を見てみれば青い帯の「シーフード」の文字の隣にちゃんと「能登かき使用」と書いてある。イメージ写真にもばっちりカキが映っている。なんというミステイク。しかし、何をどう頑張ってもこれはわたくしには食べられない。ので、泣く泣く家族に譲りました。後から感想を聞くと、「美味しかった」らしいです。ふん・・・もひとつ、やってしもうたスーパーのカレーがこちら↓。 これが2つ並んでたんだけど、な~んかこのシリーズ、以前買ったことがあるような・・・でも、初めて見たのを見つけても全部が全部ソッコー買ってる訳でもないしな。「初めて」さんがいくつもある場合、時には買わずにおくものもあるのでその類かもしんないし・・・てことで、迷ったあげく2つともカゴに入れたんだけど、後から過去の記事を探してみたところ、やっぱりポークの方は「4」で食べたやつだったまあ、100種類以上食ってりゃこーゆーこともあらぁな。でも「黒豆チキン」の方はお初。【ハバネロのキレのある辛さと、こだわりの富良野産玉ねぎ、富良野産黒豆の旨味・鶏肉の コクが合わさったスパイシーながら上品な辛口カレー。化学調味料不使用、ベーシックな 原料だけを使用し、仕上げました。】 (パッケージ裏面の説明)えっ、辛いの・・・?チンする段になって初めてスパイシーだということに気が付いたので食べる直前になってビビりましたが、確かに辛かった。辛いのが好きな母親も、「ずいぶんスパイシーねえ」と言っていたので間違いなく辛かったんだと思う。この時、食べる前にチーズを載せて焼きカレーにしようか迷ったんだけど、結局チーズは載せなかった。食べながら辛さにハアハアしてきたので、やっぱり今からでもチーズのっけようかな~と考えながら食べ続け、結局最後までチーズは載せなかった。この前日は帰りも遅くて、精神的にもかなり疲れていた。おまけに本格的な秋の空気に変わって急に寒くなってきた時期で、変温動物のわたくしはこーゆー時は再び布団に入ってゴロゴロしがちなんだけど、この日はなんだか妙にやる気がみなぎっていた。もしかして、辛いカレーのおかげで身体が温まって珍しく身体のエンジンのかかりが良くなっているのかもしれない・・・そうだ、きっとそうだ。3年前、初めてTVで「朝カレー」が流行ってるってニュースを見た時も確かそういう理由で流行ってるとか言ってた気がするもんな。てことで、今さらながら朝カレーの効能を実感した次第でございます。それで、すぐさま辛いカレーを買って試してみました。 【チカラみなぎる、こだわりの旨さ たっぷりの炒め玉ねぎをベースに、3種の辛味ブレンドとローストガーリックを きかせ、ビーフの旨みをとじこめた絶品の辛さに仕上げました。南米の活力素材 「マカ」入りの、クセになるおいしさのカレーです。】 (パッケージ裏面の解説より)これはカレーシリーズを始める前の「夏休み日記(2日目)」(上のリンク先参照)などで紹介した「男のカレー」シリーズですが、辛いのでずっとパスしていたものです。パッケージを見るとなかなかの辛さのようなので、買うのには勇気がいりましたが、たしかに辛かった。辛いカレーが好きな母親は、「辛いけどおいしい」と言って喜んで食べていましたが、わたくしは辛いカレーには味は期待しない。ただ、エンジンをかかりやすくさえしてくれたらいいのだ。で、効果のほどですが・・・効きました。やっぱり。この日は体調が悪かったけど頑張らねばならないことが山積みで、それで朝に食べたのですが、これで1日もった。マカの効果もあるかもしれないけど、恐るべし、朝の辛いカレー。翌日はこれ↓。 辛口だけど、割とマイルド。辛さにも少し慣れてきたのかもしれない。母親は男のカレーの方が印象深かったようで、「昨日のが美味しかったわね」と言っていた。次の朝はこれ↓。 こちらは辛口じゃないけど、コープとエスビーの共同開発品だそうで、インド風カレーというだけあってスパイスがきいていた。これもまずまずの効果だった。最近は以前ほど朝カレーを食べなくなってたんだけど、本格的な秋を迎えて気温が下がってきたせいか、はたまた老齢により身体の衰えが加速しているためか朝カレーの効果をはっきりと実感したので、ブームが再燃しつつあります。ただ、しばらくは辛口が中心になっていくでしょう。たしか、カレーマルシェからも大辛が出てたよな・・・(←狙ってる) 失敗じゃないけど、ちと肩すかしだったのがこちら↓。 パッケージと「国宝」の高級感に惹かれてカゴに入れた。箱には【食べられるハンガリー国宝マンガリッツァ豚。赤身の旨みと脂身の甘みを 楽しめるようにカットした肉とマッシュルームを使用した欧風カレーです。】とある。んが、結構フツーのカレーだった・・・んじゃ、あとはサクッと。だいぶ前に食べたのでもう覚えていないものもあるし、まだ食べてないものもこちらに含めておきます。 最後の道産肉シリーズのうち、牛すじは今朝食べた。大きめのやわらかい牛すじも入っていたし、コクがあった。美味しいには美味しかったけど、なんてゆーのか・・・「美味しいと素直に言えるレトルトカレー」を作るのって大変なんだな、とも思った。我が家は味噌汁でもシチューでもカレーでも、汁ものは山吹汁ではなく具だくさんなのが伝統。なので、レトルトカレーを食べる時も、味のよしあしももちろんだけど、具材の多さも判定に影響する場合がある。具が沢山入ってると、「食べたあ~」って気がするんだよね。で、牛すじのカレーは牛すじ以外に具らしい具はない。味は良いんだけど、食べててなんかさみしい気がした。お世辞の言えないタチのわたくしが100食以上食べてきたレトルトカレーの中で手放しで称賛してきたカレーってそう多くはない。リピしようと思ってるカレーは10本の指で充分足りる。もちろん個人の嗜好の問題なんだけど、なかなか奥が深いな~と牛すじしか入っていないカレーを食べながらあらためて思った次第でございます。にほんブログ村
2016年10月10日

りり: 前回は東照宮の拝観料を払いさえすれば見られるVOCの献上品を まとめて紹介しましたが、日光にはそれ以外にも会社からの献上品が現存しているようです。レフィスゾーン: へえ?それは興味あるな。 どんなの?り:現物の写真はないのでここにはお載せできませんが、1671年に献上された ユニコーンの角と「聖遺物箱」が『輪王寺 宝ものがたり』に載ってます。 白黒の写真ですけど、ほらこれ。(と、本を回覧する)ケンペル: ほう、私が来日する20年ほど前の献上品か。 ユニコーン・・・一角(イッカク)の角はずいぶんと長いままが、未使用なのか? (イッカク:国立科学博物館『海のハンター展』より)金仁謙: ・・・これをどうやって使うというんだ?ツュンベリー: 日本人はイッカクの医学的効能・効果を、寿命を延ばし、精力をつけ、記憶を増進し、 どんな愁訴にも効くと誇大に考えていたんだ。 そういう事情を我々が偶然知ってからは、注文できる限りのイッカクを ヨーロッパから取り寄せて日本で売り、莫大な利益を挙げた。 イッカクは以前は頻繁に密輸され、信じられないほどの利益をあげたそうだよ。り:利益に目がくらんでそうやってヨーロッパ人が色んな生き物を見境いなく乱獲するから、 絶滅の危機に追い込まれた動物たちが沢山出たんですよ。 反省しなさい、反省。申維翰: しかし、倭人だって喜んで密買していたのなら、オランダ人ばかりを責められないだろう。り:ふん。 『宝ものがたり』のイッカクの解説には、【今日まで長いままということは使用法がよく わからずにしまわれていたのかも知れません】とあるんですけど、 申さんの前の通信使が1711年に来日した際に、毛利吉元に贈った品々が 県立山口博物館に現存しています。金:どのような品だ?り:黒麻布・黄毛筆・真墨・色紙・栢子・硯石・扇子といった品々のようです。 このほか、朝鮮人参もあったようなんですが、それだけは使用されて残ってないらしいです。 てことは、使えるものは使ってしまおうというスタンスもあったと思われるので、 イッカクがそのまま残っているということは、『宝ものがたり』が推測しているように 使い方がわからなかった可能性もありますね。 もっとも、日光への献上品だから使おうという意識が湧かなかったのかもしれませんが。 イッカクと同時に献上された聖遺物箱の方は、カラーの写真もありますよ。 (と、『日光東照宮と将軍社参』を回覧する)ツ:ほおお~、全体的にシックな色合いにまとめられているな。 この下に日本語で書かれているのは解説文かな? ドゥーフ君、ちょっと読んでくれないか?ズーフ: どれ・・・ 【聖遺物箱は寛文11年(1671)、家光の21回忌にユニコーンの角などとともに オランダから献納された箱で阿蘭陀箱ともいわれる。周囲を象牙で覆った木製の箱は 宮殿を模し、蓋上には金工で旧約聖書ダニエル記第13章「スザンナと長老たち」の 図柄がレリーフされる。側面にはグラビュール技法を用いて草花や人物などを彫刻した ガラスが嵌められ、箱底にはラピスラズリなどの宝石が埋め込まれる。本品は美しい 宝石でスザンナを象徴し、側面の透明なガラスで真実は全て白日のもとに晒されるという 聖書の一説を具現化した工芸品である。】 (「日光東照宮と将軍社参」企画展図録(徳川記念財団・江戸東京博物館)より)申:もとになったのは一体どういう話なんだ?レ:裕福なユダヤ人の妻スザンナは、庭で水浴をする習慣がありましてね。 それを知った2人の長老は、よこしまな思いを持ってスザンナが1人で 水浴しようとしている時を見計らって近づき、自分たちと関係を結ばなければ お前が若い男と密通しているのを見たと公言してやるぞ、と脅したんです。 当時、姦通罪は死刑に相当する重罪でね。 ところがスザンナはきっぱりと彼らをはねつけ、大声を上げて助けを求めました。 願いが果たせなかった長老たちはその腹いせに、スザンナを脅迫した通り 彼女が密通しているとウソの申し立てをしました。 法廷に召喚されたスザンナには有罪の判決が下り、死刑宣告をされてしまいますが、 そこへ青年ダニエルが登場して彼女の無実を証明する、というお話です。り:もっとも、芸術家たちにとってのスザンナは女性の裸体を描くための 格好の題材だったという話もありますけどね。金:なぜそのような話が関白の墓所に納められたのだ? ちょっとこの絵は小さくて、どういう図柄になってるのかまでは確認できないが・・・ (と、食い入るように写真を眺める)ズ:いや、「本品は美しい宝石でスザンナを象徴し」とあるから、 スザンナの水浴の場面をそのまま描いているのではないのだろう。 そもそも当時の日本では宗教に関する本やロザリオ・キリスト像・聖母マリアの絵など、 信仰を表わすすべての物を持ちこむことは厳禁されていた。ツ:本の持ち込みは自由だが、宗教に関する本はすべて、特にそのなかに銅版画の 挿し込みがある場合は持ちこむのは非常に危険だったな。り:持ち込んだ物が宗教関係かどうか、判別できる日本人がいたんですか?レ:日本人にはキリスト教は禁止されたけど、隠れキリシタンを除く日本人が キリスト教をまったく知らなかった訳じゃない。 商館を平戸から長崎に移すよう命令した当時の大目付・井上政重殿などは 宗門改という役目柄、キリスト教には精通していたと聞くよ。 その他にも、目利(めきき)がいる。り:目利?レ:前時代にはキリストや聖母像などの聖画をはじめとする、いわゆる南蛮画がもたらされた。 肥前有馬では、天正8年にセミナリヨがつくられ、ここで絵画教育が行われ、 多くの銅版画が作成され、いわゆる南蛮絵師が出現した。 その後、弾圧の時代になると絵師は絵筆を折り、急速に衰えた。 ところが長崎ではこれらの伝統のうえに立って、絵師が細々とながら生き続けていた。 その彼らが地役人に取り立てられて「唐絵目利」と「出島御用絵師」となって復活した。 唐絵目利というのは、日本に輸入される絵画を、キリスト教と関係がないかどうか、 あるいはその価値について検分するのが一つの重要任務だった。 その検分は、単に中国からだけのものでなく、オランダからのものも対象とされた。り:ほお~。ズ:それだから、毎年日本に来るオランダ船の船長は、信仰を表わすすべての物を 箱に入れさせる義務があった。 この箱は船上で検使が封印するが、陸揚げし、出島に運ばれた後は船の出帆まで 出島乙名が保管し、出帆の前に封印されたままの状態で船に運ばれて返還される。り:武器類と同じ扱いってことですか。「危険物取扱注意」だな。ズ:それでも、私の時は新旧訳聖書や詩篇は自由に持ちこめた。 オランダ人が日本で守らなければならないことは、本の封印と、人員点呼だけであり、 これは多くのカトリックの国で、オランダ人が礼拝をするために受ける弾圧より はるかに少ないものだ。り:そもそも、スペイン人やポルトガル人が日本から追い出されたもっとも大きな要因と 考えられるのがキリスト教でしたからね。 この聖遺物箱がスザンナの話をそのまま表現したものだったら、 目利のチェックに引っかかって献上どころか日本に持ち込めなかった可能性も ありますよね。 別の言い方をすれば、キリスト教関連ってバレたら大問題になるとわかっていながら 持ち込むオランダ人も相当ふてぶてしいっつーか。レ:ふふっ。 まあ、これだけ美しい品だし、ちゃんと日光に奉納されたんだからいいじゃないか。 ところでこっちの白黒のページには美しい皿のようなものが見えるけど、 これも日光の所蔵品かい?り:あ、それも渡来品のガラスのお皿らしいです。 ちょっとどこから贈られた品かはわからないんですが・・・ 皿の真ん中に何か文字が描かれてるんですけど、ちょっと虫眼鏡で見ても なんて書いてあるのかよくわからないなあ・・・ツ:どれ?貸してごらん。(と、虫眼鏡と「宝ものがたり」を取り上げる) う~ん、確かに読みづらいなあ・・・ それより、文字の下にある絵はキリストとエンジェルのように見えるけど・・・ いや、胸を布で隠してるから女性かな? 少なくとも、エンジェルは間違いないな。 これは「ヤバい品」に該当するんじゃないのか?り:でも、この皿は天海の所蔵という伝承があるらしいです。 天海の没年は1643年だから、キリシタンの弾圧が激しくなる前の舶来なら 問題はなかったかもしれません。 あるいはポルトガルからの献上品だったかもしれませんよね。 『宝ものがたり』によると、この他に鼈甲の燈籠もオランダから献上されたようです。 写真が載ってないので、現存するのかはわかりませんが。 鼈甲の燈籠なんてどんなだろ? たぶん、材質から言ってそう大きくはないランプのようなものなんじゃないかと思いますが。 残ってるのなら見てみたいよな~。ツ:会社が持ち込む品には会社の商品として販売する品と、個人が私貿易で売る商品があった。 スマトラ樟脳と鼈甲は会社が貿易の権利を有しているので、私貿易は許されなかったんだ。り:へえ~。 ちょっと話はずれますが、静岡の東照宮にあるイエアスの遺品の中に 鼈甲の鼻眼鏡の枠があるらしいですよ。 それもオランダ人から献上されたという伝承を持っています。ケ:ほう、本当に日本人はもの持ちが良いな。レ:会社からの日本の輸入品のうち、ガラス製品では眼鏡が輸入の頻度と数量で最高だった。 とりわけ鼻眼鏡が多い。 鼻柱を挟んで使う左右2つレンズの蔓なしの眼鏡で、老眼鏡だよ。 これは50歳用から100歳用まである。 ほとんど輸入しない年がないほどで、主として江戸で売った。 多い年には500個を超える販売がある人気商品だ。 お前がさっき使っていた虫眼鏡もこの時代には読書に用いられたので輸入は絶えないな。 これは初め、「虱のめがね」といった。申:虱を取るための眼鏡ということか?レ:申さん、察しがいい(笑)。 船の船員などが、体についた虱をとるのに使っていてね。 日本人はこれを「虫眼鏡」とうまく訳して、読書に用いた。 それで我々ものちには「読書用のめがね」と書き改めるようになったんですよ。り:1636年の段階でポルトガル人がもたらしたものの中に「鼻眼鏡 19,435個」が ありますね。 江戸初期から鼻眼鏡は日本人にとって必需品レベルだったようですね。 ちなみに、同じ年のポルトガルからの輸入品に「魚取り用糸」があって、 1,244,900ってすごい本数なのが笑えますね。 ・・・え~と、じゃあついでに日光にある朝鮮からの献上品も紹介しますかね。金:ついでとは何だ! 無礼な!!り:じゃあ、紹介しなくていいですか?金:むっ・・・・・・・・ 生意気な。 またこらしめられたいのか?り:死人なんかに負けるかよ! 生きてる人間の情念の方が強いに決まってんだろーが!!ツ:お~い、こらこら。 意地悪しないで、見せてやりなさいレ:そうだよ、きっと素晴らしいものだろう。 ね?申さん。申:もちろんだ。 さっさと見せろ、倭人。り:ちっ、えらそーに・・・ じゃあこれ。 これがVOCのスタンド型燈籠の隣にある朝鮮鐘↓。 ・・・・・あっっっ!!ケ:なんだ、どうした?り:撮りもらしたと思ってた1640年献上のブラケット型灯架が 隅っちょに映ってるう~!!レ:えっ、どれ!?り:ちょっと見づらいけど、隅っちょだけ拡大しました。 ツ:なるほど、確かにブラケット(壁面に取り付けた照明器具)だ。 これが12本取り付けられているという訳か?り:たぶん。 今度行ったら必ず綺麗に撮ってきますね。ケ:だが、確か日光へは4~5日ほどかかるんじゃなかったか? そんなに気軽に行かれるものなのか?り:現代ならうちから3時間ほどで行かれます。 充分日帰り圏内ですよケ:ほお、300年ほどでずいぶん技術も進歩したようだな。申:それより鐘の紹介をしろ。り:へいへい。 鐘を吊るしている上屋にはこんなのが付いていて たぶん、特徴からしてこれは獏(ばく)だと思われますが、 VOCの回転燈籠の上屋にもよく似たものが付いているので↓ 日本側で建造したものかもしれませんね。 ちなみに獏は 【『白氏文集』によれば、獏の食料は鉄や銅で、世の中が乱れている時は、食料となる 鉄や銅が武器になってしまうので、武器を必要としない、平和な時代にしか生存できない 動物である、と記されている。】 (『東照宮再発見』より) ということで、特に東照宮の御本殿に集中して用いられているのは、徳川によって 平和な時代がもたらされている象徴だと考えられる、と高藤氏は解説してるんですが、 回転燈籠も朝鮮鐘も銅製なんだから、銅が大好物の獏にこれらの献上品を 守らせるっていうのも何かおかしな話ですよね。申:どのみち獏は想像上の動物だ。 現実と混同しておかしなツッコミ入れるんじゃない。り:冗談の通じない石頭め・・・ 雨森東(雨森芳州)も苦労しただろうなツ:あ~、もう・・・ どうしてお前たちはそう仲が悪いんだ。申:無礼な倭人は適宜こらしめる必要がある。 オランダ人も言われっぱなしにしないで、少しはやり返したらどうだ。ツ:仲裁に入って朝鮮人にカウンターを食らわされた・・・ 割に合わないり:ツンさんが可哀想だから、話を続けてあげる。 これは1642年の作で、翌1643年に来日した第5回の通信使が 日光に参詣して奉納したものです。 江戸期に12回行われた朝鮮通信使のうち、3回の使節が日光を訪れてますが、 最初がノイツを救った灯架が献上されたのと同じ1636年。 2度目がこの鐘を奉納した時で、同じ年にVOCの回転燈籠が献上されました。 3度目が1655年で第6回の通信使が参詣しました。 『宝ものがたり』によると、初回の参詣人数は214人で3度目は322人。 2度目の人数はわかっていないらしいですが、まあ300人前後でしょう。 「(2)」でも話したように、朝鮮通信使はこういう楽人やら↓ (以上3点の画像は長崎歴史文化博物館展示資料「朝鮮国信使絵巻」より) 珍奇な朝鮮人で構成されていたので、どこでも日本人に大人気でね。 現代でも通信使のパレードを模した「唐人おどり」が各地に遺されているんですが、 1814年に描かれた『東照宮御縁起』(日光輪王寺所蔵)にも 1636年の通信使参詣の様子が描かれてますよ。 ポルトガル人は遠く東北まで布教の手を伸ばしていたようですが、 「鎖国」が完成してからはオランダ人も琉球人も東上しても江戸止まりだし、 中国人は、と・・・ケ:中国人も我々のように参府を望んでいたが、彼らには許されなかったんだ。り:だから、江戸より西の街道沿いでは比較的ガイジンを目にする機会も多かったけど、 江戸より東になるとそういう機会はなかったから、朝鮮人の日光詣ではさぞ 東国人の目を惹いただろうなと思いますね。ツ:そういえば、1636年に朝鮮人が来た時には商館の助手のダニエル・レイニエルセンが 一行を目撃したそうだよ。 え~と、これは日本の暦でいうと1636年の年末のようだな。 長いからレイニエルセンの報告を要約すると、1637年1月4日(←西暦)に 朝鮮の2人の大官が通信使一行と多数の日本人貴族を従えて江戸に到着した。 まず舞踊や笛、太鼓の奏楽があって、その後に稲を打つ時のような大きな棒を持った数人が 2人ずつ道の両側を進む。その後には赤いのぼりのついた槍を持って馬に乗った若者が続き、 その両側は金と生糸をより合わせた綱を持った3人が警護する。 その後には小さな赤い幟を手に持って中国人のような着物を着て幅広の縁のついた馬の毛の 黒い帽子をかぶった30人の若者が馬に乗って続く。 それに続くのが国書だ。 これは内側に赤いビロードを張った駕籠で、5~60人に担がれていた。 しばらくするとまたあらゆる種類の楽器の奏楽が来て、青い幟を持った騎馬の若者が続く。 それに青い幟を持った30人の人々が続き、黒い繻子の着物を着た副使が駕籠で通る。 しばらくすると鋭い槍を持った約400人の騎士が続く。 これは正使の護衛だ。正使は一行の真ん中を黒い漆塗りの駕籠に乗って進んだ。 その後には同様の供が続き、それから15分ほどすると約200人の日本人護衛が 鉄砲や槍を持って1人ずつ続いた。 その後には使節の供をする日本の領主が乗る8~10挺の乗物が続き、駄馬に乗った 日本の貴族の一行が続いた。 最後に朝鮮人の荷物と贈物を運ぶ駄馬が約1000頭続く。 これらすべてが通り過ぎるのに、約5時間かかったそうだ。 日光へ参詣した朝鮮人自体は214人でも、多数の日本人の護衛も同じように 付いただろうから、これと同じような長い行列が日光まで続いてったんだろうな。り:この時、カピタンのクーケバッケルは先に平戸に帰ってたけど、レイニエルセンと通詞、 それから3人のラッパ手は江戸に残してたんですね。レ:そうだね。 ラッパは日本人には気に入られたらしいけど、朝鮮人の一行の到着が近付いていたためか なかなか平戸へ帰る許可が得られなかった。 平戸候の推測では、将軍は朝鮮人の歓迎の宴会で我々のラッパを 余興に使うつもりだということだった。 でも船の入港が近づいていたので、ラッパ手らを残してクーケバッケルは先に帰ったんだが、 結局平戸候の差配によってラッパ手が宴会の余興に使われることはなかった。り:惜しかったよな~。 うまくすれば、江戸城でオランダ人と朝鮮人の夢のコラボがあったかもしれないのに それで鐘ですが、 現代の日本の寺院で見かける鐘よりは小ぶり。 真ん中らへんにはこんな絵が彫られていたり↓ 下部には銘文が刻まれています。 『東照宮再発見』によると、 【鐘の表面には道教の神や、鶴に乗った仙人と思われる像のレリーフが施されているが、 残念なことに、これらの意味は未だ解明されていない。】 だそうです。申:絵の部分をもっとよく見せろ。 余が解明してやる。り:それがねえ~・・・ この鐘の周りにも柵があって全方面から撮影することができなかったので、 すべての絵をお見せすることができないんです。申:なんだ。 つまらんり:で、これが鐘の上の龍頭の部分ね↓。 この鐘には、見たところ撞木が付いてません。 もしかしたら、日光に着いて1度も鐘を撞いたことがないのかもしれませんね。 さっきもお話ししましたが、これはVOCのスタンド型灯架の隣にあります。 灯架の向かいには参道を挟んでノイツの灯架と回転燈籠があります。 つまり、入口から奥へ進む参道の向かって左手前にノイツの灯架、 奥に回転燈籠があって、向かって右手前にスタンド型灯架、奥に朝鮮鐘があるという 配置なんですが、『日光御宮総絵図』という境内の古絵図にも 同じ場所にこの4つの献上品が描かれているんです。 ただ、この絵図がいつ描かれたのかわからないのが痛いところなんですが、 江戸期のある時期から現代まで4つの献上品は同じ場所に置かれていたとは言えるでしょう。レ:へえ~・・・ あ、ホントだ。 ちっちゃく4つ、ぽつぽつとそれらしいものが描かれているな。り:さて、それじゃ東照宮を奥へ進みますね。 御本殿の前を通過して山道に敷かれた石段をず~っと登っていくと、 奥宮として東照大権現となったイエアスの墓所があります↓。 ここは当然、山内でもっとも神聖な場所ですが、江戸期に東照宮ができる以前から 神聖な霊域だったんじゃないかとわたくしは思っています。 (「史跡探勝路14」参照) ま、それはともかく、これがイエアスの墓↓。 ズ:これが墓なのか? 我々が見た日本人の墓とはだいぶ違っているが・・・り:わたくしの知る限りでは、歴代将軍はみなこのスタイルですね。 将軍正室でもこういうタイプの墓の人がいますが。 イエアスの墓の正面には立派な門があるんですが、その門は閉じられていて 現代の参拝者は脇から上がって墓所の周囲をぐるっと一周するようになってます。 なので、写真も脇から撮るしかないのですが、墓の真ん前にはこういうものがあります↓。 ケ:? よくわからんが・・・り:拡大したのがこれ↓。 手前から燭台・香炉・花瓶で三具足と言われるものです。 反対側から見たのがこちら↓。 これは朝鮮鐘と同じ1643年に献上されました。 申:おお、何と・・・!!り:でも残念ながら、今あるこれは朝鮮国から贈られた本物じゃないんです。 皆さんも日本滞在中に火事を見たり、中には危ないところをどうにか逃れた方もいますが、ケ:ああ、あの時は本当にどうなるかと思ったよ。ズ:私もだ。まさか参府中にあんなことになるとはな・・・金:私は山火事に遭ったんだ!り:日光山内も何度か火災がありましてね。 1812年も終わりというところで、東照宮の別所から火が上がって、 かなりの被害をもたらしたそうです。 その時に、三具足も焼失したそうなんですよ。金:な、なんだと・・・! 我が国王に対して、失礼極まりない!!り:火事なんだからしょうがないでしょ それで献上品を復元したのが現在奥の院にあるものらしいです。 まあ、朝鮮鐘が無傷だっただけでもよかったですよ。 3回の朝鮮通信使参詣のうち、2度目と3度目は公式に東照宮と家光の眠る大猷院への 参詣が行われ、その分立派な奉納品も沢山あったと思われますが、 東照宮の方は焼失したものもあったものの、幸い大猷院の方は結構奉納品が 残っているようで、「明暦元年朝鮮通信使関係資料」として大切に保存されています。 これも写真はここにはお載せできませんが、日光輪王寺境内にある宝物殿で販売している 『日光山と徳川400年の文化』に写真が載っていますので、読者の方は そちらをお求めくださいね。 「日光文化財愛護少年団育成会」様のサイト『わくわく!日光の社寺たんけん』にも 写真がいくつか掲載されてますので、そちらもどうぞ。(リンクはこちら)ツ:? また何か訳のわからないことを・・・り:ぶつぶつ言ってないで、ホラ、これ見て! (と、『日光山と徳川400年の文化』を回覧する)申:この書の朱印は国王印ではないか! ということは・・・り:時の李氏朝鮮第17代国王・孝宗の自筆による御額字(おんがくじ)だそうです。金:は・・・はあああ~~~~!!(←腰ぬけた)り:ぱっと見、とても楽器には見えない品の写真も載ってますが、 10種の朝鮮の楽器も奉納されたそうです。 今ではそのうち、4つしか残っていないようですが。申:御額字の下に見えるこれは・・・祭文(さいもん)か? これも現存しておるのか? 祭文ならば、儀式終了後に燃やすのが通例であろう。り:ところがね、これは日本側の要請によって保存されたんだそうです。 だからこれも歴史的史料として貴重なものですよね。 あとは大猷院の境内に、銅燈籠もあるようですね。 ちょっと今回は銅燈籠のことを知らなかったので、写真の用意がないんですが。金:銅燈籠ともなれば立派な品だろう。 日光には何度も行ってると言いながら、なぜお前はそのことを知らないんだ。 倭人は虚言が得意だから、お前も見栄張って嘘ついてるだけなんじゃないのか?り:あのねえ~・・・ 前回、オランダ燈籠を紹介した時にこんなものゴロゴロしてると言ったでしょう。 大猷院の本殿前には、諸大名から献上された銅燈籠が何基もあるんですよ。 数えてないけど、10基以上はあったよな。 オランダ燈籠は日本の燈籠とは全然違うスタイルだけど、朝鮮からの銅燈籠は 日本の銅燈籠と変わらない格好をしてるんでね。 ぶっちゃけ、目立つもんじゃないんですよ。 この写真の手前側に燈籠群があるんですけどね。 まあ、そうと知ったからには今度撮ってくるつもりですが、 近年になって大猷院も変な風に整備されちゃって、銅燈籠群には近寄れなくなったので わたくしの満足のいくような写真は撮れないだろうな。 なんであんな整備したろう? 宝物館にせよ何にせよ、貴重なる品々を大らかにオープンに惜しみなく見せてくれるのが 日光のいいところだったのに、テンション下がりまくりだぜ・・・ ぶつぶつ・・・ケ:なんか、雲行きが怪しくなってきたな。レ:不機嫌でりりが暴れ出す前に、いっぺん休憩挟みますか。ツ:私、トイレ行ってこようっと<今回の主な参考文献>『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳/岩波書店)『江戸参府随行記』(ツュンベリー著、高橋文訳/平凡社東洋文庫583)『輪王寺 宝ものがたり』(日光山輪王寺)『日光山と徳川400年の文化』(日光山輪王寺)「江戸東京博物館企画展 日光東照宮と将軍社参」図録(徳川記念財団・江戸東京博物館)『謎と不思議 東照宮再発見』(高藤晴俊/日光東照宮)『長崎のオランダ商館 世界のなかの鎖国日本』(山脇梯二郎/中公新書)にほんブログ村
2016年10月09日

日朝間の闘争により乱れた部屋で、ケンペルとツュンベリーによるケガ人の治療が行われていた。 ツュンベリー: ほい、治療終わり!ペシッ!!りり: いったいなあ、もう れでぃーに対する思いやりってもんはないんですか?ケンペル: 何がレディーだ。 お前は仮にも司会者だろう? ゲストに手を出すなど、あってはならないことだ。レフィスゾーン: 止めに入った私までひっかくなんて、ひどいじゃないか金仁謙: それはあのサルの仕業だぞ。り:誰がサルじゃ!! だいたい、アンタには発言権は与えてないと言っただろーが!!ツ:あっ、それそれ。 金さん、もういいでしょう。 廊下なんかにいないで、一緒に飲み直しましょうよ~。金:い・や・だ!!レ:強情なんだから・・・ ドクトルも殴られたところが腫れてますよ。 ほら、冷たいタオルで冷やして。ツ:ああ、ありがとう。 誰かさんにも、こういう女性らしい気遣いがあればな・・・り:私はジジイですから。つ~ん。申維翰: こやつは頭も打ったのではないか? 自分の性別もわからなくなるほど、錯乱しているようだぞ。ズーフ: もういいだろう。 店員がテーブルも整えてくれたし、飲み直そう。 ・・・ところで、どこまで話したんだったかな?ケ:ノイツの釈放寸前までだろう。ズ:ああ、そうそう。 我々は辛抱強く交渉を続けたんだが、その都度「ノイツの件はうまくいくだろう」 という日本流の気休めを与えられただけだった。 貿易の件で閣老に大きな誤解を受けていたため、 なかなかノイツの許しを得るところまでいかなかったのだ。 転機は1636年の春に訪れた。 商館長はニコラス・クーケバッケルに代わっていたが、この時クーケバッケルは バタビアに向かっており、上級商務員となっていたカロンが参府した。 平戸候は我々の到着を待ちわびており、彼の貴族を迎えに遣わすほどだった。 カロンは例によって将軍や閣老への贈物を持参していたが、その中には 30本の腕のある銅の灯架1個が含まれており、献上品の目録を平戸候に見せると、 彼は灯架に非常に興味を示し、これを見たがった。 この灯架は非常に美しかったが、日本式に言えばはなはだ重かった。 翌日、灯架を持って平戸候の家に行くと、灯架は大広間の棟木に吊るされた。 すべての人は驚いてこれを見た。平戸候はこの灯架を非常に気に入り、 「これは日光にある大寺院の墓所、すなわち故老皇帝の墓所に使われるだろう」と 考えた。り:うふふ・・・ケ:なんだ、何がおかしい?り:わたくしにお任せください。 その灯架が日光に現存していることを知って、それだけを見に、 過日、日光に行って参りました。ツ:えっ、まだあるのか? え~と、今って西暦何年だ?り:2016年です。 灯架が献上されてから380年になります。レ:さすが日本だなあ~。 で、どんな灯架なんだ?り:ほらこれ。 日光東照宮、すなわちイエアスを祀る神社の境内に安置されてます。 手前にある白い立て看板にはいちおう由来が書いてあるんですが、 文字はほとんどハゲてて、「釣燈籠」ぐらいしか読めません。 これも歴史を物語る史跡なんだから、きっちり看板を整備しとけってカンジですよね。ツ;中にあるのがその灯架なのか? あんまりよく見えないんだけど・・・り:わたくしも、是が非でもよく観察したいところでしたが、 何しろ柵に囲われてて灯架を収めた上屋にも近寄れないんでねえ~。 ロクな写真が撮れないのが残念でなりませんでした。 でもまあ、こんな感じ↓。 幸い、『平戸オランダ商館の日記』にはこの灯架の大きな写真があるので 大体の姿はわかるんですが、この30本の腕全部にローソクをともしたら さぞ綺麗だろうなと思いますね。 今は灯架の下部も台を付けて支えているようですが、上から吊ってもいます。 確かに重そうではあるので、平戸候の家は大丈夫だったんだろうかと 思わず人んちの心配をしちゃいますよ。ズ:灯架は謁見の日まで平戸候の家の広間に吊るされたままだった。 灯架を外すまでの間、これを見に大勢の大官たちが平戸候の家を訪れ、 15日経った時点で客をもてなす菓子や宴会の料理にかかった金は 800テールに上ったそうだ。申:灯架を気に入ったのもあるだろうが、客を迎え入れる平戸の領主の得意な顔が 目に浮かぶようではないか。り:東照宮には、これの近くにあと2つ「オランダ燈籠」として陳列されているものが あります。 日光には長年通っているものの、東照宮にはめったに行かないので こんな燈籠のことは知らなくって、ホントに驚きました。ツ:今は一般人も気軽に東照宮に入れるのか。 なんでお前は東照宮に行かないんだ?り:だって人が多いんだもん。 真冬のオフシーズンでさえ、東照宮には結構人が来ますよ。 えっと、5年前の「世界遺産 日光の社寺」の来訪者数は862万人だと。 「日光の社寺」は二荒山神社と家光の大猷院に東照宮を合わせたものだけど、 同じ山内にある訳だし、フツーの観光客はまず東照宮に行くから、 ほぼこの人数が東照宮の拝観者数だと見ていいだろうな。 震災の後は参拝者が激減したと輪王寺のおじさんが言ってたけど、 5年経ってまた盛り返してきたようですね。ケ:震災? 大地震でもあったのか?り:も~、聞くも涙、語るも涙・・・ 5年前に超巨大地震が東日本で起きて、大変だったんですよ。ツ:日本は地震が多いからなあ。 我々も滞在中に何度も地震に遭って、恐い思いをしたな。り:それだけの数の参拝者が東照宮に行くのに、しかも「オランダ燈籠」は奥へ続く 参道のすぐ両脇にあるのに、ほとんど目立たない存在じゃないかと思うんですよね~。ズ:な・・・なぜだ? 客観的に見て、立派で美しいと思うのだが・・・り:美術工芸品としても、歴史的にも価値は高いと思いますけどね。 ただ、ぶっちゃけ日光にはこんなものゴロゴロしてるんですよ。レ:こ・・・こんなもの?り:東照宮だけでも真面目に真剣にすべてを拝観しようと思ったら、 私なんか何日かかるかわからないくらいです。 フツーの観光客はそんな見方はしないので、ガイドブックに載ってる幾つかの見所を見て さっさと境内を出ていきますよ。 まあ、3つのオランダ燈籠のうち1つはとある理由でそれなりに注目されることも あるようですが、オランダ人と日本人の間で熾烈なやり取りがあったとかの 背景となる歴史を知る参拝客はほとんどいません。ズ:ならば、ここでこの灯架について少し語っておくか。り:ぜひ、そうしてください。 これだけドラマティックで壮絶な商館の歴史を知らずに、 灯架を見た記憶すら残らないなんて勿体なさすぎる。ズ:日本の燈籠は置くスタイルだが、これは釣燈籠なので、平戸候は拝謁の時のために 灯架を吊るす高さ9フィート、幅8フィートの枠を上等の白木で作っておくよう、 我々に命じた。 そして、平戸候に灯架を初めて見せてから約1ヶ月後、いよいよ拝謁の日が近づいたので 灯架を閣老牧野内匠頭信成殿の家に運んだ。 灯架は内匠殿の2人の貴族が宮殿でセットする手筈になっており、我々は 日本人がスムーズに準備できるよう、灯架の至る所に日本語で説明を付けた。 任命された2人の貴族は内匠殿の家で手順を習い、翌日、我々は拝謁のために城に向かった。 1時間経ったあと、灯架とほかの献上品が奥の宮殿に運ばれたので カロンもすぐその後に続けるものと期待したが、2時間待たされたあとで あまり多数の領主が拝謁するためにオランダ人の順番は今日は回ってこないので 宿に帰ってよいと言われた。り:え~、それはひどい。 でもそういう失敗の歴史を踏まえて、大名の拝謁がスピーディーに進行するよう、 習礼をしたりするようになったのかもしれませんね。 商館の歴史はイコール日本の歴史だから、とくに初期の商館の記録は 江戸期の歴史を学ぶのに沢山の示唆を含んでいて興味深いものがあります。ズ:それで結局、次の拝謁日まで2週間ほど待たされることになったのだが、 その間に土井大炊殿がノイツの釈放に反対したことなどを聞かされ、悲観的にもなった。 将軍が日光に旅立つ日が近づいていたので、次の拝謁日を逃したら さらに長いこと江戸に留まらなければならなくなるからだ。 将軍が帰ってきても、1~2ヵ月は寺社での儀式や宴会などさまざまな催しがあるため 少なくとも3ヵ月ほどは待たねばならなくなる。 そこで平戸候は我々の拝謁を確実なものとするための策を講じ、オランダの蒸留酒を入れた 瓶を持ってこさせて平戸候の書状を添え、閣老加賀殿(堀田正盛)あてに送った。 平戸候はさらに牧野内匠殿にも書状を送り、翌日の恒例の拝謁日にはオランダ人を 朝早く内匠殿の家に来させて、そこで城に呼ばれるのを待つようにと内匠殿から 命じられた。 翌日、言われた通りに内匠殿の家で1時間座って待っていると、献上品を持って 奥の宮殿に来るよう呼び出しがあった。城でさらに2時間待ったあと、 「早く、早く」と呼ばれた。銅の灯架は例の木枠に架けられ、他の献上品と共に 将軍の目につくところに置かれた。内匠殿はカロンの上着を引っ張って、オランダ人が どこから膝行すべきか教え、その通りにすると閣老伊豆殿(松平信綱)が 「オランダ人は将軍に拝謁する」 と言葉を述べた。り:この時は智恵伊豆が当番だったんですね。 てことは、信綱も江戸城で灯架とカロンを目にした訳だ。 カロンと智恵伊豆のコラボレーション・・・なんてドラマティックツ:はいはいズ:この間、カロン達は膝行してきた広間に顔をつけて、お辞儀をした。 この言葉が述べられると、立って戸口の方に行くように脇から注意され、その通りにした。 将軍は非常に多数の人々を従え、三段の高座の上に、真ん中に1人で座っていた。 彼から10~12尋の所には誰もいず、オランダ人から15~16尋のところには 多数の領主、貴族が座っていた。り:ん~、やっぱりこの頃からザリガニだったのか。 この年は奇しくも東照宮の神忌21回にあたり、家光は寛永の大造替で 美々しくリニューアルした東照宮でのイベントに出かける直前。 カロンが江戸でザリガニになってた同じ頃、日光では天海がイベントの準備で 大わらわだったんだろうな。 歴史って、知れば知るほど面白すぎる。レ:日光の墓所の改葬についても、平戸の商務員あての手紙でカロンが触れているよ。 【これは以前日本では聞いたことも行われたこともないほど華美に、威厳をもって行われる。 日光の宮殿と建物は非常な大工事で、大きな木、大きな石、大量の銅、銀、金が使われ、 内側にも非常に高価な漆・鍍金を施し、2年以上かかって、今ほとんど完成した。 このために2万8千人以上の職人、人足が働いた。】り:『東照宮再発見』(高藤晴俊/日光東照宮)によると、大造替の 【総工費は米価に換算すると、現在の約4百億円、大工の日当から計算すれば2千億円】 だそうで、ガイジンも注目する文字通りの大工事だったようですね。 結局この灯架は東照宮に奉納され、同じ年の末には家光の招待で朝鮮通信使が 東照宮に参拝。 前掲書によると、これがガイジン初の東照宮参拝だそうで、 東照宮にとってはガイジンイヤーでもあった訳ですね。ズ:灯架は将軍に大いに気に入られた。 灯架を見て将軍は最近拝謁したオランダ人のことを思い出し、 彼らにスホイト銀200枚を贈るように、と言った。 閣老讃岐殿(酒井忠勝)は、将軍がオランダ人に好意を示したのを見て、 このよい機会にノイツの釈放を願った。これは平戸候が彼にたびたび頼み、 彼はこれをいつか必ず実現しよう、と引き受けていたのだ。 それで、ノイツの件はただちに彼に許された。 将軍の赦しが出たのは1636年6月4日だが、カロンらはすでに平戸に帰っていたので、 平戸候が自分の奉行、我々、及びノイツにそれぞれ飛脚を飛ばしてくれた。 ゆえに我々が釈放の知らせを聞いたのはさらに1ヶ月ほど後になった。 ノイツが日本に送還されてから4年近い歳月が過ぎていた。申:最後は意外にあっけなかったな。り:でもこの灯架1本にこれだけの歴史が詰まってるんですよ。 ドラマだよなあ。 平戸候はこれを見た時、東照宮に使われるだろうと考えた、と商館日記にはあるけど、 もともと東照宮に奉納されるために作られたんですかねえ。レ:さあ、注文の経緯についての詳しいことはわからないけど、 これだけの品だからその可能性はあるだろうね。 赦しが得られた場面だけを見れば、確かにあっけないようにも見えるけど、 そこに至るまでには我々の辛抱強い嘆願と、平戸候の充分な根回しがあった。 釈放の許可が出る直前には酒井雅楽殿(酒井忠世)が亡くなって、 我々は心強い友人を1人失った。 でも平戸候は引き続き讃岐殿に援助を依頼した。 この灯架は確かにノイツを救った。 けど、灯架はあくまできっかけに過ぎない。 讃岐殿はチャンスを逃さなかった。 讃岐殿にチャンスを掴ませたのは紛れもなく我々の努力であり、 平戸候の周到な根回しのおかげだったんだ。り:平戸時代の平戸候とのやり取りは実に面白いものがありますからねえ。 緊迫した時もあれば、カロンが江戸でなかなか拝謁を得られなかった時だって・・・ツ:あっ、ちょっと!!り:あんですか?ツ:他に2つ、「オランダ燈籠」があるって言っただろ? それ、見たいんだけど。り:ああ、そうですね。 じゃあ、まとめて日光に現存する会社からの奉納品を紹介しましょうか。 これが1640年に献上された、スタンド型の灯架↓。 これは参道を挟んでノイツを救った最初の献上燈籠の向かいにあります。 ケ:ほう、美しいな。り:上屋がない分、ノイツの灯架よりはいくぶん目立つかもしれませんね。 ただ、『東照宮再発見』によると、オランダ燈籠はいずれも国の重要文化財ではあるものの、 【釣燈籠と回転燈籠は覆屋があり、正式には「東照宮附燈台穂屋附銅燈籠」。何と 付け足しの、そのまた付け足しの指定なのだ。これには少々訳がある。】 ということなので、上屋も負けず劣らず重要なようですね。ツ:その訳って何なのさ?り:さあ・・・ 同書では【何れ書く機会もあろう。】ともったいぶっちゃって教えてくれませんので。 で、こちらの燈籠の歴史は?ズ:これについてはあまり記述がないのだが・・・ 1640年5月、この時はカロンが商館長に就任していたが、献上品とともに江戸にいた。 5月16日、平戸候とその奉行に相談した上で将軍への献上品を選んだが、 その中に銅の灯架1個、銅製二重の腕附灯架12個、このための白蝋燭500本が見える。ツ:そういえば、さっき見せてくれたのは「銅の灯架」だよな。 「腕附灯架」はもう残っていないのか?り:それがねえ~・・・・・・・ツ:なんだよ、はっきり言えよ。り:「オランダ燈籠」の先を左に入ったところに本地堂があるんですが、 本地堂の壁に12本のブラケット型燈籠が取り付けられてるとかって情報を得ていたので 本地堂の方へ行ったんですよ。 でもこの建物は正面側しか見られないようになっていて、見えるところからでは 燈籠は見えなかったので、もしかして下の参道からは建物の背面が見られるかもしれないと 思ってあとでチャレンジしようと思ってたんですが、すっかり忘れちゃってねえ~。ケ:では、見られなかったということか。り:結果的にはそうなんですが、後から別の本を見ると、どうもオランダ燈籠の付近から 見える場所に取り付けられていたようなんですよ。 惜しいことしたよな~。 普段の見方をしてれば気がついたかもしれないんですが、何しろこの時は お目当てだけをちゃっちゃと見てソッコー帰るつもりでいたもんで、 気が付かなかったんだよな~。金:そういうのを、詰めが甘いと言うんだり:今度行ったら撮ってくるわい でもこの灯架には、御丁寧にローソクまで献上された訳ですね。ズ:そのようだな。 それで5月21日にはまた平戸候の江戸の家に据え付けられた。 ちょうどこの頃は将軍が新宮殿に移るのでバタバタしていて、 さらに将軍の日光参詣も控えていた。り:ふん・・・この時は東照宮の神忌25年で、家光が8回目の社参に向かう直前だな。ズ:閣老讃岐殿と伊豆殿は、オランダ人の拝謁の件について将軍に話した。 しかし将軍は「日光から帰ったら、オランダ人に逢おう」と言った。 そこで閣老が我々の献上品の覚書を見せると、 将軍はその中に望遠鏡と銅の灯架があるのを見つけた。 彼は望遠鏡を長い間求めていたのだ。り:へえ~。 少し前の島原の乱に参戦したクーケバッケルの望遠鏡を、智恵伊豆や戸田氏鉄が 「よく見えるなあ~、コレ。しばらく我々に貸してくれない?」 って言ってる記述なんかがあるから、そういうウワサを聞いて 家光も欲しいと思ってたのかもな。ズ:それで、灯架はただちに日光に運んで据えるよう言いつけ、望遠鏡は彼のところに 持ってくるよう将軍は言った。 将軍はこの望遠鏡を大層気に入ったようで、絶えず彼のそばに持ち歩かせ、 日光に持っていくのを忘れないようにと命令したほどだった。申:子供が珍しいおもちゃを手に入れた時のようだな。ズ:灯架は将軍の命令通りすぐに運ぶ手筈が整えられ、伊豆殿はどれくらいの人数で運べるか、 計算や覚書と共に急いで彼の家に持ってくるよう我々に命令した。 5月30日、灯架は伊豆殿の家に運ばれ、取り付けられた。 灯架を見るために大勢の大官が伊豆殿の家に集まっていたが、すべての大官は 灯架を眺めて感嘆した。 そのあとでただちに包まれて、伊豆殿の家から日光に送るため、まっすぐ街道を通って 運び出された。り:う~ん、この灯架はひとときでも智恵伊豆の庭を飾ったのかツ:はいはいズ:将軍が日光から帰ったあと、カロンは拝謁を許され、スホイト銀200枚を賜って オランダ人はこの上ない栄誉を得た。レ:最初の灯架に比べるとあっさりした記述になってるけど、この時は同時に献上された 大砲の方に注目が集まっていたからね。 島原の乱の後は大砲に関する記述がものすごく増えるから。り:はい、じゃあこれが3つめの1643年に献上された回転燈籠↓。 これはノイツの灯架の隣にあります。 ケ:ほう、これも素晴らしいな。り:3つの中でこれが一番日本で言う「燈籠」に近いタイプだと思いますが、 私はこれが一番派手こくて好きですね。 実に素晴らしいものだと思います。 『東照宮再発見』によると、3つの燈籠はいずれも銅製で、アムステルダムで 制作されたものだそうで、 【オランダ側での研究の結果、設計はヨハネス・ルトマ、制作ヨースト・ヘリッツゾーンと 判明。特に回転燈籠は優秀な作品で、同国内にもこれに匹敵するものは幾つも無いとの事。】 とあるだけなので、どれか1つを指すのか、3つとも上記の人の作なのか はっきりしませんが、少なくともノイツを救った灯架は真鍮細工師のヘリッツゾーンの 制作に間違いないようです。 ただ、1636年・1640年・1643年とそれほど間が空いてる訳じゃないので、 3つともルトマ&ヘリッツゾーンの制作ってことなのかもしれない。ツ:お前、さっき、とある理由でそれなりに有名なものがあるって言っただろう? どれがその燈籠なんだ?り:あ、それはこの3つめのやつです。 というのも、 上部に付けられている葵の紋がさかさまだっていう、しょーもない理由なんですよツ:なんだそれり:でもねえ、1634年に平戸候が葵の紋の刀の鍔をバタビアの総督に注文した時、 『刀の鍔は上側から見て丸く、ここに送る紙に書いた見本と同じ形に作ること。この 丸形は皇帝の紋章である。これは特別に大きく書いてある。これにより、葉(三枚の 葵の葉)の形と葉脈がよく見え、小さい所まで一層完全に作られるように、と考えた からである。この円形の両面共、葉の模様、鳥、花等に七宝をほどこすこと。 三枚の葵の葉は白地の上に緑で七宝をほどこすこと。』 と実にこと細かく指示してますよね。 だから、葵の紋を扱うのが初めてって訳でもないのに、 なんでこんなミスを犯したのか・・・ オランダ人は学習能力がないのか?レ:それ、言いすぎ。り:んじゃ、こちらの燈籠の背景の紹介をお願いしま~す。ズ:この燈籠は1643年8月10日、バタビアからシャムを経由してきた スヒップ船ズワーン号で長崎の商館に到着した。 ズワーンがシャムを出帆したのは6月30日だったようだ。 8月21日には商館のあらかじめ定めておいた場所に燈籠を据え付け、夜に完了した。 8月29日、長崎奉行の書記官が来館し、燈籠を見たいというので見せたところ、 精巧なのに驚いて、主人に報告すると言った。 翌30日には多数の貴族が燈籠を見に来た。彼らは今までにこのようなものを見たことが ないと言った。 31日、奉行の書記官が来館し、奉行に燈籠の立派なことを話したところ、 奉行が明朝見に来ると言ったと報告してきた。 9月1日、奉行権八殿(山崎正信)が平蔵茂貞や長崎の町年寄4人、その他多くの 貴族をしたがえて燈籠を見に来館した。 点火したところ、美麗で精巧なことを誉め、参府の際に携行し献上する考えかと 聞かれたので、そのつもりでオランダで制作し、総督から日本に送られたものであるが、 奉行の意見に従って処置すると答えたところ、満足して彼らは帰っていった。り:ふふふ、まあ日本の燈籠とはだいぶ趣きが違いますからね~。 前2つの燈籠は平戸時代のものだから、長崎を出ることのない人達は 生まれて初めて見る外国製の風変わりで綺麗な燈籠にさぞ驚いただろうというのは 想像がつきますね。ズ:9月9日、燈籠を解体して磨く許可を得て、これを納める新しい箱を作ることを 命じ、陸路での運送に適するようにした。 11月6日、参府の日が近づいてきたので皇帝や太子に献上する品々の書きつけに 珍奇な品々を添えて奉行の一覧を求めたところ、奉行は満足して銅製燈籠は亡皇帝の 墓所に献ずれば喜ばれるだろうと言われたので、その意見に従うと答えた。 11月8日、商館長エルセラックは江戸へ向けて長崎を出帆した。り:エルセラックはカロンの2代あとのカピタンですが、まだこの頃は陸路ではなく 長崎から船で出発してたんですね。レ:まあそれも、大坂までだけどね。 あとは私達と変わらないさ。ズ:11月19日、大坂で献上品と手荷物を改装し、荷馬と燈籠運搬の人夫を雇い入れた。 20日にエルセラックらは大坂を発ったが、燈籠は別便で翌日送ったそうだ。 長崎奉行はそのために武士1名を派遣したので、途中彼を助けるために使用人4人を残した。 12月1日、江戸着。4日には奉行三郎左衛門殿(馬場利重)が燈籠は城中の適当な家に 据え付ける予定のため、早く送るようにと言った。 6日、銅製燈籠が江戸に着く。 9日、3日以内に謁見が許されるだろうから、燈籠を上覧に供するため宮城に据え付けるべき 旨が伝えられた。 この時も、燈籠とあわせて白蝋燭が若干贈られたようだ。 10日、日の出と同時に商務員補フェール、真鍮細工師カレル・ヨナスセン、および よいオランダ服を着た水夫6人を、燈籠を据え付けるために城中に遣わした。 皇帝がこれを日光に送る前に見ることを望まれたためだ。 夕刻、フェールの報告によると、翌日は諸大名が陛下の前に出て敬意を表する 定例の日なので、皆が燈籠を見られるように謁見の間の前に木の柱が数本立ててある間に 燈籠を据え付けることになったらしい。 そこで、長崎奉行やその他大勢の貴族の前で急いで仕事を進め、日没2時間前に据え付けを 終えた。 三郎左衛門殿が、このように大きな立派な燈籠がオランダには沢山あるかと尋ねたので、 フェールがこれは新案の製品で、これまで欧州で見たことも作ったこともないと 述べたところ、一同は喜んだようであった。 奉行その他は食事を勧めたが、フェールは宿を出る前に食事をしたので、 夕方まで辛抱できると言って丁重に断った。しかし奉行の命で宮内官から酒肴で饗応され、 各人に赤い土製の盃と烏賊を与えられ、盃は家に持ち帰ることを許された。 外国人が城中で酒肴を与えられたことはかつてなく、名誉なことだった。り:これ以前からオランダ人が江戸に捕らえられていて、エルセラックの参府は その問題の解決も兼ねていた訳ですが、かなり厚遇されてますよね。 エルセラックが酒肴でもてなされたってんならともかく、下っぱだもんな~。 もらった盃はかわらけですね。 オランダ人にとってはただの地味な土製の小皿にしか見えないだろうけど、 御下賜品だからな~。レ:まあ、燈籠はその価値に見合う働きはしたと言えるかもね。ズ:12月11日、謁見のために城へ行き、一室に案内されて呼ばれるまで待っていると、 奉行のほか牧野佐渡様、大目付築後殿(井上政重)が来て、燈籠が想像より立派なのに 驚いたと言い、早速故皇帝の墓所を飾るため日光に送られるであろうと言った。 拝謁にはエルセラック1人が呼ばれたが、将軍は黒い絹の上衣を着て頭には黒い頭巾を かぶり、立派な高い座に着いておられ、見たところ丈の低い痩せた人であった。 築後殿はカピタンよ、陛下に敬礼感謝せよと言い、終わってエルセラックの服装が 見えるようマンテルを開くことを命じた。しばらく座っていたあと、築後殿に外套を 引っ張られ、いざりながら退出し、控室に戻った。 捕らえられていたオランダ人達も解放されたし、築後殿や三郎左衛門殿は 外国人のうちではかつて朝鮮の大使にさえ与えられたことのない待遇を受けたと言って 祝福した。り:ははっ、やはりあの子の父。 内心は家光も綱吉みたいに色々やらせたかったんじゃないかな~。ズ:12月14日、カレルと水夫2人が燈籠解体のため城中に向かう。 解体にあたっては20名が注意して各片に記号を付け、 日光に送るために箱に納めたとのことだ。<今回の主な参考文献>『長崎オランダ商館の日記』(村上直次郎訳/岩波書店)『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳/岩波書店)『長崎奉行』(外山幹夫/中公新書)『東照宮再発見』(高藤晴俊/日光東照宮)にほんブログ村
2016年10月06日

金仁謙: ところで、「のいつ」はどうなったのだ? 公開処刑か?レフィスゾーン: 物騒なことを言いますね(笑)。 割と早い段階から、幕府に対して釈放の要求をしていますよ。申維翰: 無駄なことを・・・ 冷酷な倭人が応じる訳がないではないか。ズーフ: もちろん、ノイツの責任は大きい。 商館長ナイエンローデや特使ヤンセンの書簡によると、事件が解決するまでの 長きにわたり日本で監禁されていたオランダ人の多くが病にかかり、 牢獄で死んだ者も結構いたようだからな。 ヤンセンによれば、タイオワン事件に関連して抑留されたオランダ人は約220人だそうだ。 だから、事件の直後には平戸でもタイオワンでも、ノイツのような男は使用せず 滞在させないことを決議したし、総督や司令官らはもしノイツが本国に帰ったとしても 日本に敬意を表して常に抑留しておくと言っている。りり: そもそも、タイオワンでの契約には行き先は長崎と決まっていたのに、 人質となったムイゼルさんたちにはそれは知らされていなかったんですよね。ケンペル: そうだ。 その場でオランダ語と日本語を話せたのはカロンしかいなかったから、 カロンが契約の訳文を公開した訳だが、ノイツの意向によって行き先はただ 「日本」としか書かれていなかった。 それで人質たちは当然平戸に向かうものだと思っていたのだが、ノイツは密かに 機を見て船を平戸へ向かわせるよう指令していた。 まあ、結局その目論見は失敗して長崎へ到着したんだが。ツュンベリー: 長崎へ到着するまでの間にも色々とやり取りがあって、 船の中で次々と悪い話を知らされたムイゼルは、 「この異教徒の手にかかって死ぬことが神の思し召しであるなら、その通りに 従わねばならない。我々にまことのキリスト教徒らしい祝福された死が与えられんことを。 アーメン。」 と死をも覚悟していたよ。り:その悪い予感があたって、ムイゼルさんも獄中で亡くなってしまったんですね・・・ 商館日記ではムイゼルさんの死の状況の詳しいことはわからないけど、 ヤンセンは1632年8月2日、平戸からの手紙によってムイゼルさんの死を知った、と。 翌月にはノイツが日本に送られてきて、一挙に解決に向かう訳だから、 あとちょっとの辛抱だったのにな~。 ホントにお気の毒ツ:被害者は人質だけじゃない。 ナイエンローデは日本について経験不足な上にこの大事件が重なったもんだから、 身体の病気のほかに精神もかなり病んでいたらしく、スペックスやヤンセンに対して ひどい暴言を吐いたりしているよ。 彼自身も問題のある男だったが、心労が重なった影響も見過ごせないだろうな。ズ:それだから会社では上のような決議をしたのだが、平戸候は意外にも ノイツの帰国後はオランダとオランダ国王の好きにしてよいと言っている。金:それでは、のいつは本国へ帰れたのか?ズ:結果的には釈放された。 だが、そこに至るまでにはまた長い時間がかかった。 これには色々と理由がある。 事件は終結したというものの、貿易の待遇については幕府と折り合いがつかなかった。 相変わらず我々の敵は多くいたし、奴らから虚言を聞かされた高官は 我々に対して非常な嫌悪感を持ち、それをはっきりと表明した。レ:「オランダ人は、これ以上持てないぐらいの敵を持っている」なんて 言われたこともありましたからねえ~(笑)。 長崎奉行の榊原飛騨守職直殿も我々を思いっきり嫌っていたようだし。り:職直(もとなお)? 私は榊原氏は詳しくはないけど、「職」の字は通し字じゃないよな。 「職」の字を使う家系は私はひとつしか知らないけど、まさか・・・ (と、すまほを取り出す)金:なんだ、その小さい板?り:今はホント便利な世の中になりましてねえ~。 ちゃちゃっと色んな事が調べられるんですよ。 えっと、あった。榊原職直・・・え?花房?ツ:ハナブサ? なにそれ?り:榊原職直は花房職秀(職之)の次男・・・やっぱり! すけべえさんの子供だったのか!! (「撫川城(3)」とか「日幡城」とか「岩崎山(2)」とかの備中シリーズ参照)レ:またヘンなとこに食いついてるみたいだよ。り:皆さんはそれぞれ日本の歴史の概略についても書いてるから 秀吉の前の戦国時代についても御存知でしょうが、 飛騨守職直のパパの花房すけべえ(助兵衛)職秀さんは備前の宇喜多氏に仕えた武将で、 対毛利氏の備中戦線などで活躍した人です。 宇喜多氏を離れた後は徳川に付いて旗本寄合となり、一時はイエアスの不興も買ったらしい。 へ~え、そうなんだ。 で、その次男の職直さんは池上本門寺の僧となっていた・・・ え~、池上本門寺!?ツ:その寺がどうかしたのか?り:あ、いや、うちの母親の実家の近くなもんで・・・ え~、マジかよ~。レ:で、それがなんで長崎奉行になったの?り:あ、すいません すけべえさんは関ヶ原にも出陣し、大坂の陣にも出張ったそうなんですが、 何しろ大坂攻めの頃にはかなり年くってたんで輿に乗って檄を飛ばしてたそうで、 その姿を見たイエアスが 「アイツ、まだ生きてたのか!そこらの若者よりも頑張ってるじゃないか。 さすがの武者よの~」 と気に入ったらしいです。 そういう自分だって駕籠で出陣してたんだから、ジジイはジジイを知るってとこですかね。ツ:りりだってジジイのくせに・・・り:それで、徳川四天王の1人である榊原氏の養子として職直を還俗させて 榊原を名乗らせたという流れのようですね。ケ:少し後の話になるが、飛騨守は島原の乱で抜け駆けしたことでも有名だな。 代官の平蔵茂貞は飛騨守のことを、激情家で感情を制御することが難しく、 非常に扱いにくい気難かし屋だから、私は彼が二度と帰ってこないよう希望している、 と言っている。り:ん~、まあオランダ人にとっては憎い相手でしょうけど、 飛騨守のパパの時代は日常的にドンパチやってたような頃だから、 飛騨守も戦国武将の気風を色濃く残していたと思って勘弁してやってください。レ:飛騨守のオランダ人に対する扱いは相当冷たいものだったようだけどね。 彼はオランダ人への中傷を信じてしまって、怒りを隠そうともしなかったし、 なにか弁解しようとしても全く聞く耳を持たなかったらしい。ズ:ノイツの釈放が延びた理由には、将軍の体調不良も関係している。 当時の商館日記には将軍の体調が悪くてなかなか謁見できなかったというような 記事も多いからな。り:平戸の商館日記にはそうしたこまごまとしたことも書かれていて、面白いですよね。 家光は外国の酒は全く飲まないとか、酒井忠世はアラク酒が大好きだとか。ツ:1633年12月の、通詞から聞いたという記事はもっと面白いぞ。 【確かなことを知っていると思われる数人から聞いたところでは、皇帝(将軍)は 病気中に記憶を失い、子供のようになってしまった。また彼の病気と衰弱は、絶えず 強い酒を飲んでいたことから起こったとしか考えられない。この数カ月以来、 彼は夜は一晩中起きていて、食べ物はほとんど何も食べず、一夜に5、60杯の酒を 飲んでいる。彼は夜10時に夕食をし、明け方に寝るまで、彼の側室の中から選んだ 数人と踊り、芝居、酒等で過ごしていた。そこで正月までは拝謁は得られず、その後も かなり長い間待たねばならないだろう、と聞いた。】り:ホントかなあ~。 そんな生活してたら、身体壊すぞ。ツ;でも実際、その話を聞いた翌日にカロンが平戸候の家に行ったら、同席していた 伊予領主の加藤出羽守殿は、自分たちも長い間皇帝の尊顔を拝していないと言ってるし。り:政務に支障が出るほどのそんな乱れた生活してたら、お福が黙っちゃいないだろうに。ケ:将軍が母のように敬い愛している、乳母のことか。り:まあ、幼い頃から病弱な人だったという噂はありますけどね。 世間でも家光の病について色んな憶測が飛び交ってたみたいだし、 商館日記はあくまで「オランダ人の見た日本」だから100%真実は伝えていないかも しれないけど、記録というのは大事なものだとつくづく思いますね。 会社が各地に持っていた商館の中でも、日本の商館日記や関係書類は よく残されてるみたいだし。申:そもそも、なぜこれほどの大事件に発展したのだ?ズ:弥兵衛がいう、タイオワン事件の我々の罪は、 ・我々が皇帝の朱印状を犯したこと ・我々が皇帝が歓迎した使節(新港の台湾人)を虐待し、枷にかけたこと ・我々が皇帝の彼らに与えた賜り物を取り上げたこと の3つだった。 この点に関して、なぜそんなことをしたのかと平蔵政直や長崎奉行は 繰り返しムイゼルに尋問している。申:要するに、関白に絡む不届きな行為を咎められたということか。 ツン君が前回言っていた、座り方などの個人の行為はあまり問題にならなかったのか。レ:座り方の件については、その話を聞いたナイエンローデも重要視しているんですが、 ムイゼルに言わせればノイツは確かに椅子に腰掛け、時々脚を組み合わせて 椅子の背にかけたりしていた。 だがこれはノイツの性格によるもので、彼は生来鷹揚で細かな礼儀作法は 意に介しないので、怒った時よりむしろ親密な話とか冗談の時によく行われた ポーズだという。 だから少しも侮辱を意味しない。 部屋の床には石が敷いてあったが、弥兵衛らが来る時には床の上に 人数分の赤い布を敷いておいた。 逆に彼らはスペインの酒や肴もほとんど口にせず、また持ち帰らなかった。 我々の礼儀では、これは侮辱と考えられる、ということです。 でも、日本人がどう思うかというのはまた別の話で、ムイゼル達の監禁は、 タイオワンにおける新港住民や弥兵衛らの拘束状態の仕返しとも取れる発言も あるんですよね。ズ:それと、真偽のほどはわからないが、タイオワンでの日本人達の扱いについては、 ナイエンローデの考えだとノイツが言ったという話が伝えられている。 それが平戸の商館までもが封鎖された原因のひとつかもしれない。 また、ナイエンローデのような男が商館長だったことも不運に拍車をかけた。 タイオワンでの事件が起こったことは直接的にはナイエンローデには関係ないが、 事件解決のために来日したヤンセンとよく協力して事にあたらなければならないのに、 ヤンセンが商館の経営などに触れると「それは越権行為だ」などと誹謗して ヤンセンの口出しを嫌い、また異常に金銭欲が強かったために人質たちの滞在費すら 出すのを惜しむほどだった。金:人質たちの生活費はオランダ人もちだったのか?レ:一般的には拘留する側が費用をもつのが常識なんですけどね。 ヤンセンはナイエンローデにできる限りの銀を送って欲しいと言っても、 大した額の銀は送ってもらえず、滞在費に充てるための積み荷は 平蔵に買い叩かれて損益を出し、ナイエンローデからは逆に節約を勧められる 始末だったようですよ。 日本人はかなり物欲の強い民族なので、交渉を円滑に進めるためにヤンセンは 平戸候や閣老たちに多くの贈物をしているんですが、それすらナイエンローデは 「君、金を使いすぎじゃないのか。総督からはそんな指令は受けていないだろう。 何かあったら君が責任を取るんだぞ」というようなことまでヤンセンに書き送ってます。申:ひどい話だな。 滞在費を出さないなど、いかにもがめつい倭人のやりそうなことだ。ツ:ずっと後の我々の時代だって、江戸への参府旅行の費用は全部商館もちだったんだから。ケ:オランダ人の費用だけじゃない。 何の役にも立たない多くの日本人がわが社の経費で参府についてくるのだが、 それについては私は話したくないね。り:申さんと金さんには耳の痛い話でしょう。申:・・・・・・・・・・ケ:どういうことだ?り:「(2)」で朝鮮通信使の一行がとんでもない人数だという話が出ましたが、 費用は全部日本もちですよ。 食費だけでも相当な金額な上に、客館があらたに建てられたり、 藩主の使う御座船が提供されたりと文字通りの莫大な金額が使われてるんです。 ま、それについては後の方で詳しくご紹介しますので、 お2人は首を洗って待っていてくださいね。ホホホ。ツ:早く矛先が朝鮮人の方に向かっていってほしいよズ:ナイエンローデは事件が解決した翌年、ヤンセンが帰国する直前に日本で死んだので、 残された商館員が彼の遺産を整理した。 商館には金がないとヤンセンには言いながら、その遺産は多くの絹織物、毛織物、 金銀の器物、銀貨、日本刀など実に大層なものだった。り:自分の財産だけはがっちり貯め込んでいた訳ですね。ズ:ノイツが日本に送還された時だって、ナイエンローデがきちんと 日本流の手順を踏んでいたなら、もっと早く将軍の赦しを得られたかもしれない。 金:手順とは?レ:ノイツが日本に着いた時、ナイエンローデはただスペックスの書簡を 江戸に回送しただけでね。 江戸では、事件の評議のためだけに閣老たちが集まる場が設けられたというのに、 平戸候からの口頭の報告だけではノイツの到着を信じてもらえず、 結局その時は何の進展も得られず、平戸候が大恥をかいただけに終わったんですよ。 ナイエンローデ、もしくは平戸の奉行の添え状があったなら もっと早く解決していたかもしれないんです。 平戸候は激怒し、悪しざまにナイエンローデを罵ってますよ。り:現存する戦国武将の手紙にも、その書状の信憑性を保証する添え状が付いてるもんな。 悪い条件が整いすぎてた訳ですね。 それに対してヤンセンは、ほぼ毎日のようにカロンを平戸候の所に使いに出して 密な相談をしたり、まめに贈物をしたりと実に細やかに辛抱強く交渉を続けてますね。ズ:ノイツの釈放についても、同じように辛抱強い交渉が続けられた。 我々の要求の主眼は貿易の待遇改善にあったから、ノイツについては時期を見計らいながら 要求を出したり控えたりした。申:これだけ会社に損害を与えたのだから、もう放っておけばよかったのではないか?レ:まあ、そうは言ってもねえ~。 ムイゼルと共に人質として日本に送られたノイツの息子のラウレンスは 1631年12月29日に大村の獄中で激しい下痢のため病死しています。 他のノイツの妻子は、彼に会うためにバタビアまで来たんですが、 彼らも皆亡くなったそうです。 すでにノイツ自身も日本で監禁されて数年になるので、せめてノイツだけでも 生きているうちに本国に帰してやりたいと同情したようですね。り:ナイエンローデからの書状では、「ノイツの妻は総督の所に食事に行ったが、 2時間後に急死した」とありますけど、どうなんですかねえ~。 まるでスペックスが殺したとでも言いたげですよね。レ:さあ、それは・・・ 商館日記では、ノイツが長く遠い日本の牢獄にいることを悲観して 妻子は亡くなったという風に書いてはいるけど。 でも、もしスペックスがノイツの妻を殺したなら、何年にもわたって ノイツの釈放を日本に要求したりはしないだろう。金:日本で死んだのいつの息子はどうなったんだ?レ:どうも遺体を大村に埋葬することを願ったものの、了承は得られず、 とりあえず大村の牢獄に預けたようです。 その後、ラウレンスがどうなったかはわかりません。り:ノイツは江戸へ送られたんですか?レ:詳しくはわからないけど、どうも平戸にいたみたいだね。 ただ、うかつに日本人に会わせて下手なことを話されると交渉が台無しになるから、 日本人とは接触させない方がよいとヤンセン達は忠告している。 ノイツが監禁されていたのは商館ではなかったらしく、途中でノイツの宿に盗賊が入り 銀の水差しと日本製の鏡台を盗まれたので、宿を替えたという記録がある。申:外国人を監禁している宿に盗賊? それは警備が甘すぎたのではないか?ズ:1631年11月には、有馬に抑留されていたオランダ人が逃亡したという知らせが入った。 それなりに厳重に監禁はされていたはずだが、抑留が長引くにつれ 警備が甘くなった可能性もないとは言えないな。 だが、仮に警備が甘かったところで、逃亡するなど傷口を広げるだけだ。金:それでは、逃亡者の捜索のために大騒ぎになっただろう。ズ:いや、有馬候から平戸に送られた書状には、 「彼らが平戸候の領地に来たら、大騒ぎをせずに、静かに黙って、彼らを有馬領に 送り返して欲しい。」 とあった。 閣老に知られたら大問題だから、秘密裡に処理しようとしたらしい。金:倭人はそういう姑息な手段を用いるのが大好きな、卑賎な民族なのだ。 私の時にもそういうことがあったと話しただろう?ズ:卑賎とは思わないが、「内々に」というのは大好きではあるな。り:交渉の過程を読んでると、あんまり現代人も変わってないな~と 思うところはありますね。 まず平戸候と綿密な相談をして、文書を作成する。平戸候は親しい高官や幕閣に 折を見て話を持ちかけ、根回しをする。 場合によっては対面での詮議が重要なこともあるけど、事前の打ち合わせで ほぼ結論は決められており、最後に対面で結果が伝えられる。 現代の国会でも、似たようなことが繰り広げられてますよ。金:何百年たっても進化しないなど、野蛮な倭人らしい話だな。り:朝鮮人よりはよっぽど進化してると思いますけどね。金:もともとの民族の格差があるだろう。 倭人が進化したところで、我が朝鮮民族には何千年経っても追いつけないわいり:なんだと!? やんのか、ゴルァァァ!!!金:上等だ!! かかってこい!!り:ウキ ッッッ!!!ツ:ちょ・・・ちょっと、やめなさい! やめろって・・・アイタタタ(←殴られた)ケ:どれ、ちょっと診せてみろ。 う~ん、患者を診察するのも久しぶりだなあ。レ:なに呑気なこと言ってんですか、もう・・・ 申さん、止めてくださいよ~!申:放っておけばいい。 我が朝鮮民族が、倭人などに負ける訳がない。レ:も~っ、どいつもこいつも・・・ 君達、ケンカはやめなさいって・・・ ※日朝間の闘争により、続きは次回へ持ち越します。<今回の主な参考文献>『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳/岩波書店)『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)『長崎奉行』(外山幹夫/中公新書)にほんブログ村
2016年10月02日
全4件 (4件中 1-4件目)
1