全9件 (9件中 1-9件目)
1
仕事を楽しみ、仕事に充実感を見出せる人はとても幸福な人です。なぜならば、仕事は一日の大半をそのことのために使いますから、その時間が楽しく、充実していたら、一日のほとんどが素晴らしい時間として過ごすことになります。仕事を楽しむことの重要性は、言い過ぎても言い過ぎではないくらい大切だと思います。それは、とても難しいことだからです。どんな仕事でも、楽しめない、辛い時があるからです。そんな時、その自分の仕事は自分で選び取っているということ。さらに、神さまからの天命、使命であるということを自覚して下さい。仕事の一つ一つは、体の各器官のようにどれにも優劣はなく、みんな大切なものです。また、体の器官の中で、不満を感じている器官は一つもないと思います。足の裏は、いつも体を支え痛い思いをして、損をしているし、誰もおめてくれない、というような不満はありません。足の裏は、自分が足の裏であることを喜び、その役目を果たすことで満足しているはずです。内臓は、誰の目にも留まらず、顔や人目に触れる体にジェラシーを感じているとは思いにくいです。それぞれの器官は、与えられた使命、天命を全うすることで喜び、充実感を感じているはずです。私たちの仕事もそうでありたいものです。一日の大半の時間を費やして行う仕事。そこに喜びと充実感を見出して行きたいものです。生活のために仕方なくとか、神さまがやれというので嫌々というような感覚は捨て去って、最高に素晴らしいことを行っているという自負を持って、また、その仕事を通して、多くの人のお役に立つことができ、多くの人が喜んでいるということも覚えて下さい。今日もみなさんの仕事の上に、祝福を祈ります。
2007年08月31日
コメント(0)
人はなぜかうわさ話が好きなものです。うわさ話をする時には、「あなただけよ」と言って話します。しかし、あなただけのあなたにも、「あなただけよ」という人が数人います。そして、その数人にも数人の「あなただけよ」という人がいて、あっという間にうわさは広がってしまいます。そして、数日中には、うわさの張本人の耳にまで入ることもあります。その時、この張本人はどう感じるでしょうか? 裏切りを感じ、不快を感じ、ショックを感じるだろうと思います。そして、人間関係が壊れて行くのです。人間関係を構築するのは、非常に時間がかかりますし、多くの労力もかかりますが、それに反して、人間関係を壊すのは一瞬でも出来ます。うわさ話は、その張本人がいる前で行うならば何も問題は大きくなりません。しかし、うわさ話のひどいのは、そのうわさ話の対象者を被告人としますと、欠席裁判のようなものです。さらに、弁護人までいないのです。イエス様は、「裁いてはいけません。裁かれないためです。」と教えられました。私たちは、イエス様の言葉にもっと心を留めたいものです。多くのクリスチャンが、日曜日の礼拝や1/10献金を大切にし、盗みとか姦淫と言った罪には敏感に反応しますが、うわさ話は平気で行っています。メールでうわさ話をしたり、会ってうわさ話をし、あちこちでうわさ話に花を咲かせています。これは、法律には触れませんが、聖書では、盗みや姦淫と同じ重さの罪として語られていることに心を留めて生きたいものです。そして、いいうわさ話を一つ紹介します。それは、いない人の賞賛だけをすることです。いい部分をほめたたえ、花を咲かせるのです。こういうことができる人は人からも信用されるようになりますし、祝福されます。しかし、悪口のうわさ話をする人は、その場では人気があり、その場ではイニシアチブを取ることができ、盛り上がるかもしれませんが、信頼はがた落ちです。なぜならば、「もしかしたらこの人は、私のことも影でこのように言っているのではないかしら」と思うものです。百害あって一利なしです。うわさ話をやめるだけで、どれだけ人間関係が壊れなくてすむものでしょうか? そして、愛の人に近づくのです。自分がうわさ話が好きな人は、それに気づかない場合もあります。そして、「それはうわさ話ではなく事実です」とか、「お祈りの課題です」と言った様な言い訳、大義名分は立てられるかもしれません。しかし、うわさ話はうわさ話であり、人を裁くことには変わりありません。神さまは生きておられ、あなたの中に共におられます。うわさ話を、人に聞かせる前に自分自身の耳も聞きますが、あなたの中におられる神も聞いておられ、心を痛められていることを知ってください。なぜならば、神は、うわさ話をするその人をも愛しておられるからです。口を、舌を制御することは自分には難しかったならば、今日から神さまにお祈りをして行きましょう。「神さま、私の口が罪を犯すことがないよう助けてください」と。そして、うわさ話が好きなあなたに、人をほめるだけのうわさ話をお奨めします。祝福を祈ります。
2007年08月27日
コメント(0)
昨晩から、12年前から親しくしているクリスチャンファミリー自宅に泊まりに来ていました。夜中まで、昔話にも花が咲き、楽しい交わりの時を持ちました。しかし今日は、一日お子さんを妻が預かり、ご夫妻の協議離婚のプロセスに付き合いました。法的手続きに始まり、家をどうするか、免許の更新も御伴しました。それは、もし自分が一番辛い時に友達がそうやって付き合ってくれたらうれしいからです。イエスさまは、「自分がしてもらってうれしいことを、人にもせよ」と教えられました。これは、本当に素晴らしい教えです。友達がそのように、どんな時にも味方であってくれたらうれしいものです。友達とはそのようなものです。友達は、どんな時にも味方であり、受け入れるものです。ちょっと距離がある人には起こるようなことも、「しょーがねーなー」で済んでしまうものです。しかし、友達には優しくするのに、ともすると、クリスチャンの兄弟姉妹には冷たい対応をしてしまうことがあります。そして、身から出た錆で苦しんでいる時には、「あいつはもうちょっと苦しんだ方がいいんだ」とか、「主の訓練」だとか言って、暖かい対応をしないとしたら、兄弟だけど友達ではないという関係なのでしょうか?私はそういう寒々としたものを感じて、寂しい思いをしたことが何度もあります。クリスチャンの夫婦が目の前で離婚をする時、クリスチャンかくあるべきと言って裁き、ごたくを並べるのではなく、そこに至るまでに感じた二人の痛み、後悔、罪責感、苦しみを感じて心を動かすことができたら、少なくてもそれは愛だと思います。世の友だち同志が持っている友情、また、世の人情、浪花節のようなものが愛の全てだとは思いません。しかし、ある人は、「そんな低俗な愛は語るな、アガペーの愛を語れ」と言ったのを聞いたことがあります。しかし、低俗なものを含まないような藍はどんな愛でしょうか? 困っている人を見て、お腹がすいている人を見て、言葉をかけるだけが愛でしょうか? 失敗し、挫折し、倒れている人を見て、聖書の言葉で裁き、正しさを語るのが愛でしょうか?今日の題は離婚ですが、それは、今日、目の前で離婚せざろう得なかった友達を見たからですが、私たちは、少なくても、愛そうと願うクリスチャンであるならば、友達になろうとする心を持ちたいものです。そんな人は、困った時、絶望の淵にいる時、問題に直面した時、主の助けがあり、また、友の助けが与えられるものだと思います。そんな時、あー、「友達っていいもんだ」、「クリスチャンになれて良かった」、と思うものだと思います。あなたの身近な人に、そんな友になってあげられたら素敵ですね。夫婦がお互いにそうなれたら離婚は起き得ないと思います。となり人は、夫婦・親子からです。祝福を祈ります。
2007年08月24日
コメント(0)
神の御心ということは、生涯に渡って変わらないものということが前提になると思います。例えば、結婚を考えてみる時に、死が二人を別つ時まで続けられるというところからスタートします。「嫌いになったら別れますよ」では困るのです。もちろん、結果として別れることになったという例はいくらでもありますが、仕方ない理由があっただろうと思います。私たちの働き、勤めに関しても、生涯に渡って変わらないものであるはずです。人の評価、人の言葉によって左右されてしまうものではありません。どんな仕事にも優劣はありません。大切なことは、神の御心によって行うことです。どんなことも、それを続けると辛いこともありますし、辞めたくなることもあります。それが、人の評価や言葉に支えられているとしたら、ころころ仕事を変えなければいけなくなります。なぜならば、人の評価や言葉は、状況によってころころと変わるものだからです。しかし、神の御心は、変わりませんし、神様が、二番目や三番目に良いものとしてではありません。最もよいものを下さったのですから。嫌々ではなく、また、仕方なしにではなく、喜んでそれを行い続けて行きたいものです。時々、神の御心という言葉を使って何かを表現する人がいます。確かに神の御心なのかも知れません。しかし、そうであるならば、それが変わらないとうことが前提になります。神の御心によって恋人と付き合い、神の御心によって別れるということはないです。その場合、どちらかが自分自身の考えや過ちも含まれると思います。私たちは、聖書を読み、神に祈りながら、慎重に神の御心を探りたいものです。神の御心でありならば、結婚生活も、仕事も、どんなことも、好評を博しても、悪評をこうむっても、ほめられても、そしられても支えられ、続けることができるのです。神の御心を知り、それを生きるならば、人生は楽しいものとなり、ゆとりが与えられます。そんなゆとりが人に向けられたら、互いに愛し合うこともでき、人生は豊かになって行くものです。そんな素敵な人生を共に歩んで参りましょう。祝福をお祈り致します。
2007年08月20日
コメント(1)
神を信頼するとひとことで言っても、それは天と地ほどの差があります。「神を信頼すべきである」ということ、「神さまは良いことをして下さる」ということを知識で知っている人はたくさんいます。しかし、それを本当に心の底から信じている人はどれくらいいるでしょうか? その度合いは、神さまをどれだけ体験し、どれだけ深く知っているかに関わってきます。例えば、一人の乙女が、毎朝の通勤電車で同じ時間、同じ場所ですれ違う一人の男性に恋をしたとします。次第にその思いも強まって行きます。しかし、その相手を知っているといってもそれは推測の域を出ません。それが10年続いてもそこどまりです。しかし、何かのきっかけでその男性と話すことができ、さらに意気投合して、ついには結婚したとします。そうしたら、今まで知らなかった相手の素晴らしさ、相手の心を知ることができます。神さまを知識で知っているだけの人は、前者のレベルだと思います。しかし、後者のレベルで神を知っている人は、神をより深く体験していますから、神さまの良さ、素晴らしさ、その全てを知っていますから、理屈ではなく、神さまを心から信頼し、委ねることができます。夫婦が共に同じ屋根の下で暮らせば、年と共に似たもの夫婦といわれるようになります。それと同じように、クリスチャン歴が長ければ長いほど、キリストのような人だといわれるようになって行きます。それは、神の力です。神を信頼し、神と交わって生きたら、それが自然になっていきます。神さまを信頼し、どんな時にも不動の信頼心を神さまに寄せて行きましょう。神さまは、そのあなたの思いを裏切らないばかりか、その思いを遥かに超えて働いて下さいます。祝福をお祈り致します。
2007年08月18日
コメント(5)
今この世の中に蔓延している一つの症状は利己主義です。自分にだけ執着し、自分に関心や注目を集めたいと考えます。聖書は、このような状態を「曲がった邪悪な時代」と語ります。そして、その「曲がった邪悪な時代から救われなさい」と教えます。一人の体の不自由な人が電車に乗って立っていますと、目の前に座った子どもが席を譲ろうと思って腰を浮かしますと、隣に座っていたお父さんが、「お前も疲れているのだから、余計なことはやめなさい。」と言ってやめさせました。これは非常に恐ろしい教育だと思います。この子どもの心の中に、体の不自由な人を見て「かわいそう」に思って席を譲ってあげようという思いやりの心が湧いて来た時に、「余計なこと」という言葉で片付けられてしまいました。この次同じような状況になった時にこの子の心には、「余計なことはよそう」と思って終わってしまうでしょう。利己主義はこのようにして広まって行くのかも知れません。利己主義は、さらに自分が自分の主人であると考えるようになります。しかし、人は自分の主人になり得るでしょうか? 無理です。自分の誕生一つ取っても、自分の意思でこの世に生まれて来た人は一人もいません。そして、死ぬこともそうです。自殺は、自分で自分の死を定めることですから、自分の主人になり得ないのにそれをしてはいけません。クリスチャンになると、イエス・キリストを主イエス・キリストと呼びます。それは、この方が私の主人であるということです。ということは、私は主人ではない、私は神ではないということです。神が創造者であり、人はこの方に造られた被造物なのです。利己主義から解放される道はただ一つです。イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主人として、あなたの心の王座にお迎えすることです。ここで主客の転倒がなされなければなりません。そして、神に従うことです。神は愛です。ともすると、私たちは自分の正しさを主張します。人間関係の中で争いが起こるのは、お互いに正しさの主張をするからです。しかし、自分だけが正しいのではなく、相手にも正しさはあります。そして、相手も間違っているかも知れませんが、自分も間違っているかも知れません。ここで、自分も間違っているかも知れないと思う心のゆとりが大切です。そして、神の前で間違いがあるとしたら、それは、自分の正しさの主張、義を立てるという心の姿勢です。イエス様は、「あなたが正しいと言い張る、罪がないと言い張るところに、あなたの罪がある」と教えられました。そして、正しさではなく、愛を持たなければいけないのです。もし全てが正しいか間違いで計られ、自己責任であるとしたら、あなたは罪のゆえに地獄に行かなければなりません。しかし神は、あなたをそのように見られたのではありません。あなたを、罪があるにも関わらず、キリストの十字架のゆえに赦され、愛されているのです。神は愛です。愛で人を見、接し、生きて行くことが大切です。今、世界は利己主義が満ちています。このまま歯止めがかからなければ、この世界は利己主義のために滅びてしまうかも知れません。どうぞ、利己主義から愛に。それは、愛の神と共に歩む生き方です。そんな愛の中を共に歩んで参りましょう。祝福を祈ります。
2007年08月13日
コメント(1)
暑い日々が続きますが、みなさんはいかがお過ごしですか?毎日みなさんの顔を思い描きながら、健康と祝福をお祈りをしています。今日は、「現状に処する秘訣」について共に考えてみたいと思います。それはまず、現状と未来を分けて考えることです。未来に対しては、イエス様が教えられた主の祈りの中で、「試みに会わせないで、悪(悪魔)からお救い下さい。」と祈られたように、「私たちの未来から苦しみを遠ざけ、祝福を与えて下さい」と祈ってください。しかし、現状に関しては、第一ステップとしては、見方を変えるという方法があります。コップ半分に入った水を見て、「もう半分しかない」ともいえますが、「まだ半分もある」ともいえます。問題点を見て嘆くよりも、今自分自身が生かされていること、衣食住が満たされていること、与えられているものに目を向けてみてください。第二ステップとしては、自分のそのままの気持ちを神に祈り、神に心を申し上げてください。つまり、心を空にすることです。そうしたら、神さまの言葉を聴くことができるはずです。そして、第三ステップとしては、今のありのままを感謝し、肯定し、神さまの許しがあったからこそ現状が起きているので、神さまを讃美してみてください。後は、できる最善を尽くすことです。時には、辛いことや悲しみ、苦しみもあるかと思いますが、毎日みなさんのためにお祈りをしていますし、神様がついています。どうぞ、大船に乗ったような気持ちですごして下さい。祝福がありますように。
2007年08月09日
コメント(0)
聖書では、二心の者について厳しい言葉が語られています。それは、何も得ることがないというのです。二心というくらいですから、二つの違った心が共存します。考え方によっては、バランスが取れていいじゃないかとも思いますが、そうではありません。ドミノピザの創立者であるトム・モナハン氏は、「成功には目標が必ず不可欠である」と語りますが、二心の人にも目標がある場合があります。しかも、明確に未来に対しての目標を持っている人がいます。そして、その目標を信じ、その目標に向かって歩み始めますが、しばらくすると、もう一つの心がもたげてきます。そして、「大丈夫だろうか」「あの目標は一時の感情に過ぎなかったのではないか?」そして、またしばらくすると、「あの目標は本物だった。よーしやるぞ!」そして、気分が憂鬱になると、また、「やっぱり勘違いだったかもしれない。」となります。このように行ったり来たりを繰り返す二心は悲しいかな、何も得ないのです。そうしたら、どちらかにしたらいいのです。そして、どうぜならば、迷った時にはポジティブ・チョイス。積極的な方を選び、その一つにかけるのです。賭け事、ギャンブルをする人が、こっちかな?こっちかな?を繰り返すことはできません。どちらかにかけるのです。それと同じように、私たちの人生を自分の思いに舵取りをさせるのか? 神に舵を取っていただくのか? どちらかに定める心です。そして、当然、神に舵を取っていただき、神にその舵を任せ続け、神と一緒に働くのです。それを一つの心言います。一つの心。それは、決断したら変えない強さです。優柔不断な人は、決断が遅く、その後変えることが早いといわれます。しかし、素早く決断し、その後は、よっぽのどのことがない限り決断を変えないことです。そういう勇気、そういう決断力、そういう強さを持った人がこの国を変えて行くのではないかと思います。一つの心に定めるあなたとなって下さい。祝福を祈ります。
2007年08月08日
コメント(0)
運命共同体というのはいい言葉だと思います。今の時代は、果てしなく利己的になり、悪い意味での個人主義が蔓延しています。このまま行ったらどうなってしまうのか?と懸念しますが、国や人を見て嘆くのではなく、神を見上げ、自分自身から変えられて行く事が大切だと思います。薬害肝炎訴訟の原告団が参議院選挙で当選した川田龍平さんは、早速、厚労省前にて「薬害肝炎問題の解決のために(厚労省が)動くことを要求します」と声を上げました。国を非難したり、やけになることは難しくありませんが、今自分にできることをしている川田さん姿に厚労省も心動かされるのではないかと思います。国内でのニュースで紙面や画面を騒がせているのは、殺人事件です。また詐欺や汚職事件です。なぜそういった事件が起こるのでしょうか?それは、「自分だけよければいい」という心からです。この考え方は、運命共同体と対極にある心です。同じ船に乗った人は、同じ運命を共同します。船が港を出たら一緒に港を出て、船が伊豆大島に着いたら一緒に伊豆大島に着きます。また、船が嵐に巻き込まれたら、一緒に嵐に巻き込まれ、船が沈没したら、一緒に沈没します。この世界は、同じ地球という船、同じ地球という村であるとも考えられます。少し趣旨が違いますが、100人の地球村という有名なお話は、私たちに大切なことを教えてくれます。「もし、あなたが今朝、目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることができたなら・・あなたは今いきのこることのできないであろう100万人の人たちより恵まれています。 もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も体験したことがないのなら・・・あなたは世界の5億人の人たちより恵まれています。 もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことができるなら・・・あなたは世界の30億人のひとたちより恵まれています。もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら・・・あなたは世界の75%の人たちより裕福で恵まれています。 もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら・・・あなたはこの世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちのひとりです。 もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら・・・それはとても稀なことです。 もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間二倍の祝福をうけるでしょう。なぜならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて,その上あなたはまったく文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。」このように考えますと、私たち地球は同じ一つの村であり、運命共同体です。戦争の報復やテロは、憎しみであり、復讐心です。やられた人にとっては、それは自然な感情かも知れません。しかし、この憎しみの連鎖を続けて行ったら、いつか、また原爆を使う日が来てしまうかも知れません。憎しみによって地球村が壊されてしまうことはあまりにも悲しいことです。それは、一人の不幸な人によって起こされます。不幸は恐ろしいほどの伝染力を持っています。しかし、一人の幸福な人によって、地球村に幸福が広がって行ってほしいです。それは、2007年前に、神はその一人子イエス・キリストを賜ったほどに、この地球村を愛して下さって、信じる者に幸福と永遠の命を与えられました。私たちは、今日もイエス・キリストの救いを味わい、幸福になって、この幸福を伝染させて行きたいと思います。幸福な人はいつも喜んでいます。そして、知らぬ間に人を幸福にしてしまいます。大切なことは、あなたが幸福であることです。忙しいとは思いますが、5分間だけでも自分を見つめ、自分と対話をし、自分が幸福であるかどうか?を吟味してみてください。そして、ストレスや幸福を感じていない部分がありましたら、それが何なのかを祈って見てください。必ず原因はわかってくるはずです。それは、神から離れた心、自己中心、罪だろうと思います。それは、木から切り落とされた枝のようなものです。そのままならば、やがてかれてしまいます。しかし、もう一度木に接木されたら、もう一度生き返ることができます。それが罪を悔い改めることです。その時に、人は幸福を感じることができます。そして、幸せの運命共同体となって、みんなで幸せを味わい、互いに愛し合い、互いに赦し合い、互いに受け入れ合って、互いに幸福になります。どうぞ、そんな世界を共に造って行きましょう。安部総理が提唱する「美しい国・日本」は、そんな私たちの小さな幸福からはじまるのではないかと思います。God bless you. 祝福を祈ります。
2007年08月03日
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1

![]()
