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人を妬んだり、やっかんだり、羨ましがったりするのが私たちの本音かも知れません。だから、私たちはそういうことを考えていないふりをするのではなく、自分に対する堅い自信を持ち、自尊心を養って行くことが大切です。人に対しての妬み、憎しみは、巡り巡って自分のところに帰って来ます。イエス・キリストは、「人を裁いてはいけません。あなた自身もそのはかりではかり返されるからである。」と語られましたがその通りです。妬み、やっかみ、羨ましい心は、自分に自信を持てない、つまり、「私は私でいい!」と言えないところからはじまっています。自分の容貌はもちろんのこと、才能、環境、境遇等に至るまで受け入れ、感謝し、肯定できるところまで行ったら、もうあなたから妬み、やっかみ、羨ましいは出て行くとはずです。神さまがあなたに与えられた容貌、才能、環境、境遇は、あなたにとって一番いいと思って与えられたものです。神を不公平のない、愛なる神、良き羊飼いであると信じたら、あなたに与えられているものは一番いいものです。二番目以下はあり得ません。案外、二番目以下の方がいいものだと思えてしまうものです。それは、セルフイメージが低いからです。あなたには、あなたにとって一番いいものが似合います。それがあなたにふさわしいのです。ですから、自分の今は、一番、最善と信じて下さい。そして、妬みは追い出して下さい。代わりに、自分を好きになり、感謝し、楽しんで、心穏やかに過ごして下さい。祝福を祈ります。
2007年09月28日
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神は、モーセの十戒の最後で、妬みを禁止されました。人のものをほしがることを禁止しました。人を攻撃し、人を脅かし、人にせっかちをするのは、妬んでいるからです。なぜ?自分に与えられたよいものに気づかないのでしょうか?あなたは特別に愛され、特別に祝福されているのです。あなた自身をディスカウントしてはいけない!ディスカウントをすることを禁止します。そして、自分に与えられたよきものを喜び、感謝し、それを増やして、大きくして行きましょう。人を羨み、妬み、羨望するひまがあったら、自分を育てるエネルギーに転用しましょう。今日、あまりにも人を妬む人が多いのに心が痛いです。だから精神病になるし、うつ病になるし、引きこもりになるし、犯罪を犯すし、何かに中毒になるし、不幸になるのです。ダメです!ストップ!もう終わりにしましょう!これからは、あなたが神からどれほどえこひいきされているかに目を向けて、感謝をし、喜び、笑い、幸福になってください。インターネットをする人の中に、病気の人が多過ぎます。それは、騙されているのです。あなたは愛されている。あなたは素晴らしい。あなたは特別な存在。あなたは祝福されています。そのことに目を向けて行きましょう。祝福がありますように。
2007年09月25日
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聖書の教えを、もしたった一言で集約するならば、「愛しなさい」です。なぜ聖書が罪を禁じているのでしょうか? それは、愛していないからです。聖書には、高い道徳基準が書かれていますので、クリスチャンになった人の中には、聖さとか、まじめさとか、立派さを追い求める場合があります。それに意味がないという話しではありません。しかし、もしそれがゆえに、聖くないと思える人、まじめと思えない人、立派に思えない人、好きになれない人を裁くとしたら、聖書のごく一部分は守っていても、中心が完全にずれています。私があなたに、愛の大切さを説いたら、あなたは、愛さなくていい正当な理由をいくつもあげてくれるかも知れません。しかし、私は言いたいです。「それでも愛しなさい」と。あなたがどんなに極悪人に思える人がいたとしても、また、気に入らない人がいたとしても、裏切られ、傷つけられ、憎んでいる人がいたとしても、また、許せない人がいたとしても、神さまから見たあなたは、もっともっともっとひどい存在であり、罪深い存在であり、汚れた存在であり、悪しき存在です。しかし、にも関わらず、キリストの十字架の愛によって、あなたは、あるがままで、今のままで愛され、赦されています。その愛にまで目を向けてください。罪というのは、自己中心です。それは、自分が中心ですから、自分が見えないのです。でも、あなたは、神から見たら、間違いなく罪人の頭であり、キリストを十字架につけなければならなかったほどの罪人なのです。しかし、その罪は、100%赦され、見過ごされ、忘れ去られ、消され、聖められました。そしてキリストは、「私があなたを愛したように、あなたも愛しなさい」と言われます。どうぞ、その愛を祈りましょう。どんな愛さなくていい正統な理由があったとしても、「それでも愛しなさい」です。それは、愛せない、ひどいあなたが愛されているからです。そのあなたを受け入れられないかもしれませんが、そのあなたが愛されています。どこまでも神の愛はあなたを追いかけています。あなたは愛されています。だから、それでも愛して行きましょう。
2007年09月23日
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あなたは、やってみたいと思いながら、腰を上げないで悩んでいることはないですか?もしそれが、不道徳なことであり、人に迷惑をかけ、罪でないならば、思い切ってやってみたらどうでしょうか?それが、人生の一大事なら慎重に考えることも必要ですが、スキーをやってみたい、パラグライダーに乗ってみたい、富士山に登ってみたい、ふぐ料理を食べてみたい、中国旅行に行ってみたい等々。悩んでいるくらいならやってみた方がいいということは案外あるものです。そう、今すぐできることもあるはずです。私の場合は、掃除でした。物を捨てたくない症候群と自称していますが、同時に、これらの使わない物を捨てたらどれだけ気持ちもいいだろうし、部屋のスペースを有効利用できるし、いいことだらけだろうと心では思いながらも、「もったいないし、いつか使うかも知れない」等々が頭をよぎっていました。しかし、もうここ何年かの私は大変革しました。使わない物はばっさり捨てる。そして、その予防としては、バーゲン品、「そのうち使うだろう」商品の購入を見合わせることにしました。そして、私は、そのことで、本当に心がすっきり気持ちいいですし、自分に打ち勝った満足感、充実感で一杯になりました。こちらにテーマが片寄ったら、題名を「シンプル・イズ・ベスト」に変更しないといけなくなりますので、この辺りでメインのテーマに戻りますが、あなたにとって、「やりたい!」でも「踏み切れない!」葛藤を抱いていることはないでしょうか?繰り返しますが、人生の重大事は、よく吟味して下さい。また、人に迷惑をかけたり、犯罪、罪等は思いとどまるのが正常です。絶対にそのボーダーラインは超えないで下さい。しかし、私にとっては掃除でしたが、あなたにとっては何ですか? 韓国の犬鍋を食べること、バンジー・ジャンプを体験すること、オートバイ免許を取得して乗ること、進んでボランティアをすること、慈善活動に参加すること、車のワックスがけをすること、健康診断を受けること。何でしょうか?もし、今すぐにできることならばしてみて下さい。そうしたら、何と一日が楽しいでしょうか? 自分に対する自信が湧いてくるでしょうか? そして、自分が好きになれるでしょうか? いいことずくめですよ。お奨めします。是非、悩んでいるくらいなら、今すぐチャレンジしましょう!祝福を祈ります。
2007年09月21日
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その昔、「♪幸せって何だっけ、何だっけ、ポン酢しょうゆはキッコウマン♪」というTVのコマーシャルがあったことを思い出します。幸せとは、お金があるからとか、高い学歴や地位とか、名誉や名声があるとかではなく、どうやら温かい家庭、温かい食卓にあるように思います。もちろん、幸せなお金持ちもいますし、幸せな高学歴や高い地位に付く人、幸せな名誉や名声のある人はいます。しかし、お金や富、学歴や地位、名誉や名声が幸せをもたらせるのではないことだけは確かです。一番大切なことは、温かい家庭、そして、食卓です。イスラエルの預言者サムエルは、子育てがうまくできませんでした。また、イスラエルの王ダビデは、温かい家庭はありませんでした。いくら偉業を成し遂げたとしても、もし、温かい家庭作りに失敗したら、とても悲しく、寂しいものだと思います。私たちは、優先順位を持って、温かい家庭、温かい食卓を築き上げて行きたいものです。愛を持って、最高の家庭、幸せな食卓を築くみなさんとなりますように、お祈りを致します。
2007年09月19日
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アメリカのロサンゼルスにあるクリスタル・カテドラルのロバート・シューラー牧師は、「この世の中には、二種類の人間がいる。すなわち、『できると考える人(可能思考者)』と『できないと考える人(不可能思考者)』である。」と言っています。人間の能力や才能というのは、大して違いはありません。あったとしても、どんぐりの背比べ、五十歩百歩、目くそ鼻くそくらいの違いです。しかし、それにも関わらず、結果に大きな差があるのは、考え方、心構えの違いに寄るのです。目標やアイデアが思い浮かんだ時に、それを紙に書き出して、明確にして、それに対して「できる!」と考える人は、無限の可能性を持っています。しかし、目標やアイデアが思い浮かんだ時に、軽視し、「どうせできない!」と考える人は、自分のほとんどの可能性を使わないで終わってしまいます。残念です。あなたはどうでしょうか?あなたには、「これを成し遂げたい!」「命を架けてやり遂げたい!」と思うことはないでしょうか? もし、そういう思いがあるならば、どうぞ、自分のその小さな思いを馬鹿にしたり、軽視したりしないで、産まれ立ての赤ちゃんのように大切に保護し、育て、そして、それは「必ずできる!」と信じ下さい。ロバート・シューラー牧師は、「この世の中に、たった二種類の人種しかいない!」とまで言い切っています。あなたは、「できる」と考える人になってみませんか?プロテスタント教会の中で、世界最大級の教会が韓国のソウルにあります。それは、私の恩師でもありますが、チョー・ヨンギ師が牧するヨイド純福音教会です。ロバート・シューラー牧師とチョー・ヨンギ牧師はとても親しい友達ですが、チョー・ヨンギ牧師も、「積極的信仰」を強調しています。その信仰が、75万人の信者を集める大きな働きを成し遂げたのです。ロバート・シューラー牧師も、「不可能!」と言われた、フットボール競技場くらいの大きさの総ガラス張りの教会を建てあげました。当初は、奥さんと二人だけの教会だったのですから、すごいことを成し遂げました。私も、将来に対して大きな夢を持っています。そしてもちろん、その夢は「できる!」と信じています。「できる!」と信じるのか?「できない!」と信じることは、あなた自身が決めることです。その他、どんな人にもその決定権をおびやかされてはいけないのです。どうぞ、未来に向かって偉大なことを夢見て行きましょう。そして、それは「必ずできる!」と信じて行きましょう。あなたの信じた通りあなたになるのです。祝福を祈ります。
2007年09月18日
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私は、16歳でバイクの免許を取得してから、毎日夢中になってバイクを乗り回して練習したことを思い出します。当時、バイクで峠を越えて、その旅行記を書いているライダーの本が出版されていました。それを読んだ私は、夢中になって、箱根、丹沢、伊豆、奥多摩、秩父等の峠を走りました。峠をバイクで走る中で学んだことは、バイクは、見た方向に進んで行くということでした。ですから、カーブを曲がっている時に、間違っても対向車を見たり、ガードレールを見てはいけないのです。下手したらぶつかってしまいます。しかし、これから曲がっていくカーブのずっと先を見ていると、きれいなカーブを描いて曲がって行きます。F1レースのドライバーが、300Km近いスピードで曲がっている時にスピンしてしまったとしたら、迫っているガードレールを見ないで、進んで行きたい方向を見て、アクセルを踏み込むのが一番なのです。これは、私たちの人生でも同じことが言えると思います。まずは、1、人生の明確な目標を定めること。2、その目標を鮮やかに思い描くこと。3、その思い描いた夢の実現を信じること。4、その信じた夢を見続けること。5、そして、実行することです。その夢は、思った通りに実現して行かないことの方が多いものです。しかし、その時です。なおもその夢から目を離さず、夢を信じ、夢を見続けるのです。そうしたら、どんな状況の中にあっても、夢に向かって進んで行くことになります。行きたい所を見る、というのは、私たちの人生の法則でもあると思います。あなたが見たものが、あなたの明日になります。あなたの未来となります。そうしたら、何を見るかを気をつけ、大切にし、吟味して行きたいものです。ユダヤのことわざには、「親を許さない人は、親と同じような生き方をする」というものがあります。その通りだと思います。親をあるがままで受け入れることは大切なことです。それは、人の欠点を批判することにも当てはまります。人の欠点・弱点・汚点を見つけて批判を続けている人は、気がつけば、その人は、それ同等か、それ以上にそのような生き方をしてしまっているのです。それは、見るものに引き寄せられて、似て行くからです。人の良い点を見て、ほめられる人は、やがてそのような人になって行きます。人を妬み、人の足を引っ張る人は、自分の足をも引っ張ることになります。人を祝福し、その存在を喜び、愛したら、無限に祝福され、喜ばれ、愛される人になります。行きたい所を見て、行きましょう。祝福を祈ります。
2007年09月15日
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今日は、定義コンテストの3回目、最後になります。愛とは、「あなたの存在を喜ぶ。」これも、愛を的確に言い当てています。愛とは、その愛する存在を喜んでいるといえます。クリスチャンの兄弟姉妹の発想の中には、愛しているけれど、その相手の存在を喜んでいないことがあるように思います。聖書が教えることは、もちろん、神と人間の関係を教えますが、そのほとんどの紙面を、人との関係について書かれています。そしてそれは、「愛しなさい」です。ところが困ったことに、私たちは、人を好きになったり、恋をしたりすることはあっても、愛することはできない存在です。もしあなたが私を愛していてくれるとしたら、本当に心から感謝を致します。それは、私の存在そのものを喜んでいるということでわかります。しかし、私の存在を喜んでくれていない人もいるかも知れません。それは仕方ないことだと思います。私たちには、愛がありませんし、愛があったとしたら、それは神さまからのものです。でも、大切なことは、「愛したい」と願う心、祈りを持っているということです。その祈りは、必ず答えられますし、その祈りが答えられる時にあなたは幸せになります。なぜならば、もし、喜べない存在がいるとしたら幸せを感じられるでしょうか?それがもし、あなたの伴侶であったとしたらどうでしょう。それは不幸です。幸せとは、「私の人生これでよかった」と思えることです。伴侶の存在を喜べないとしたら、「別の人だったらよかったのに」ということになり、つらい家庭生活を送ります。愛するとは、あなたが幸せになるためにも必要なのです。そして、愛しているかどうかは、その相手の存在を喜んでいるかどうかでわかります。そして、愛は必ず広がって生きます。愛された人は、それが確実に伝わりますから、その相手をも自然に愛するようになります。そして、これは愛していない時にも同じです。「気に入らない」と思っている気持ちは必ず伝わり、その相手も自然に「気に入らない」と思うようになります。もう二度と会わない人ならいいのですが、毎日顔を合わせなければならないとしたらつらいです。愛を求めていきましょう。その願いは必ず答えられ、それがあなに幸せをもたらします。祝福を祈ります。
2007年09月13日
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今日は、定義コンテストの2回目になります。友達とは、「全世界があなたから離れて行った時、一人駆け寄ってくれる人。」確かにそーだなーと思います。全世界があなたから離れていくということは尋常ではありません。10人のうち、仮に5人があなたから離れて行ったとしても、2~3人はあなたの元にやって来るものです。友達には大きく分けて2種類あります。1つは、あなたが成功した時に近づいてくる人。しかし、真の友達かどうかはわかりません。そしてもう1つは、あなたが落ちぶれた時に近づいてくる人。しかし、これも真の友達かどうかわかりません。成功した時に近づいて来る人は、あなたの成功によって利益を得ることができるということで近づいて来る可能性があります。その人は、あなたが落ちぶれたら、去って行ってしまいます。また、あなたが落ちぶれた時に近づいて来る人は、あなたの落ちぶれた状態が劣等感やコンプレックスを慰めから近づいて来る可能性があります。その人は、あなたが成功したら、去って行ってしまいます。本当の友達とは、成功した時も、落ちぶれた時も、友達でいられる人です。そして、仮に、全世界が離れて行った時にも同じようにそばにいてくれる人です。私は、おそらくそんな友達はいないか、見つけられたとしたら、最高の宝を得たと言えるだろうと思います。しかし、友達を得たいこともさることながら、そんな友達でありたいと願います。イエス・キリストは、私にとってそんな最高の友達です。仮に、全ての人が私を否定したとしても、この方は永遠に共にいて下さり、変らない友情を持っていてくれるのです。あなたも、イエス・キリストという最高の友達を得て下さい。そして、その友情に少しでも近い友情を持って生きましょう。今日もありがとうございます。
2007年09月11日
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アメリカの新聞で、言葉の定義コンテストが行われました。今日から、その代表的なものを3つ紹介し、共に考えてみたいと思います。お金とは、「天国以外の全ての所に連れて行き、幸せ以外の全てのものを買う事ができる手段。」これは、お金をよく言い表していると思います。天国にまでお金を持って行ける人は誰もいません。お金を持ち運び、使える場所はこの地上だけです。そうであるなら、無駄に溜め込むことよりも、まずは、聖書が教えるように1/10を神さまにお返しし、9/10をよく管理して用いたいものです。贅沢を戒め、悲壮感を漂わすような生活も避け、楽しみながら生きられるお金を確保したら、後は、お金を投資したり、困った人を助けたり、有益なことに用いて行けたらお金は素晴らしいものとなります。ただ、お金は幸せ以外のものを買える手段ではありますが、お金が人を幸せにするという錯覚から目を覚まさなければなりません。お金がない暮らしがどんなに苦しいか?ということは、経験した人にしかわかりません。お金は生活の必需品です。しかし、幸せを買うことはできません。私たちの社会の中にある間違いの一つが拝金主義です。お金を愛し、お金のためになら、自分の魂も悪魔に売り渡してしまうということも出てきます。しかし、お金は愛すべきものではなく、お金は使うためにあります。愛するのは神さまと自分と人です。人を愛し、お金は使うべきものです。その基準が間違わない限り、人は幸せでいれるはずです。今日、幸せから程遠い状態にある人は、もしかしたら、お金を愛し、人を利用しようとしていないでしょうか?神さまはあなたを愛するために、一人子イエス・キリストを十字架にかけて下さいました。その愛を受け止め、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛して参りましょう。祝福がありますように。
2007年09月11日
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聖書は、「自分を除外して愛しなさい」とか、「自分以上に人を愛しなさい」とは言っていません。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」です。ここで自己愛について、人は二面性を持っています。まずは、想像以上に、誰でも自分に対しては寛容です。自分の失敗や自分の不純さに対していつまでも責め続ける人はあまり聞きません。しかし、それが他の人であったとしたら俄然責め続けることがあります。どうぞ、自分自身に対して寛容であるように、他者に対して寛容な人にさせてもらいたいですね。しかし、反面、自分を真の意味で愛しているか?と言えば、多くの人がそうではないと思います。劣等感や低いセルフイメージ、低い自尊心しか持っていません。人は、真に自分を愛せなければ幸せになることはできません。そして、人に幸せにしてもらおうとします。でも、あなたを幸せにしてくれる人はまずいないでしょう。いても条件付か、一時的なものです。あなたの幸せは、あなた自身で責任を持ちましょう。すなわち、イエス・キリストが私たちを十字架で愛してくださっているように、自分自身を大切にし、愛し、尊重し、信じることです。その自分への愛がとても大切です。類は友を呼びます。あなたが自尊心が低く、劣等感や低いセルフイメージを持っているならば、そういう人をいつの間にか引き寄せてしまいます。しかし、あなたが自分をこよなく愛しているならば、そのような人が引き寄せられてきて、幸せは相乗効果になります。どうぞ、自分を愛するように、とありますように、自分を愛し、その同じ愛で他者を愛して参りましょう。そこに絶対的な幸せの鍵があるのです。祝福をお祈りします。
2007年09月08日
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失敗を恐れないで、どんどん行動をして行きましょう。エジソンを見て下さい。彼ほどの失敗を繰り返した人はなかなか聞きません。一つ失敗したら一つ成功に近づいたことを喜びながら実験を繰り返したと聞きます。小さな赤ちゃんが、自分で向きを変えられるようになるまで、数え切れない程の失敗を繰り返します。そして、四つんばいになって歩くまでにも、数え切れない程の失敗を繰り返します。そして、二本足で歩くまでには、歩行器で練習をしながらも、つかまり立ちに何度も失敗し、涙ぐましい努力の末に歩けるようになります。しかし、私たちは、ちょっと失敗したくらいで、ちょっと人から批判されたくらいで、「もう自分にはできない」と、いとも簡単に思ってしまうことがあります。残念です。失敗とは、結果的にうまく行かなかっただけです。その失敗から学び、違うやり方を試み、たゆみなく努力を続けるならば、いつか結果は出るものです。私は、多くの成功者に共通する経験を調べていますが、そこには、失敗の経験や挫折を多く経験しているということです。私は、失敗を恐れて何もしない人よりも、失敗したとしても何か偉大なことに挑戦する方が遥かに遥かに素晴らしいと思います。失敗とは、成功の一部でもあるのです。もちろん、赦されない失敗もあるでしょう。人の命を預かっているお医者さん、運転手さん、パイロット等。失敗は即死につながります。しかし、失敗を恐れていたら何もできなくなってしまいます。そして、通常私たちは、失敗したとしても、自分が恥をかいたり、金銭的な損失があったり、多少のリスクくらいしかないものです。失敗を恐れないで、どうぞ、大胆に行ってみましょう。よいことを次々に行っていきましょう。人を愛することに挑戦して行きましょう。みなさんに祝福がありますように。
2007年09月06日
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アメリカのフォード自動車の創業者ヘンリー・フォードは、『できると思っても、できないと思っても、そのどちらも正しい。』と言いました。なぜならば、できると思うからこそ成功の可能性が高まり、できるようになるのですから。そして、できないと思うならば、できる潜在的な能力があっても、自分でその能力を潰してしまうのです。どうせならば、「できる」と考えて生きて行きたいものです。できると考えるならば、「どうしたらできるだろうか?」と考えますから、どんどんいいアイデアも浮かんできます。そして、そこにエネルギーを集中しますから、どんどんできるようになります。しかし、「できない」と考えるならば、「なぜできないか?」を考え、落ち込み、自己憐憫に陥り、しまいには、他の人にも「同じようであって欲しい」と願いますから、妬んだり、足を引っ張ったりするようになります。そこで得られるものは、一時の「ホッ」とする気持ちだけです。次の瞬間には、うまく物事を行っている人を見て、めらめらとジャラシーを燃やすのです。そして、何もしていない自分に嫌気が差すのです。聖書には、「持っている者にはさらに与えられ、持たない者には持っているものまでも取り上げられてしまうであろう。」と書かれています。持つ持たないとは、「できる」と考えるか? 「できない」と考えるか? が分岐点になります。どうぞ、今日あなたの考えをチェックし、「できる」と考えて歩んで生きましょう。祝福がありますように。
2007年09月05日
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恵みというのは、必ず前提があります。それは、受けるにふさわしくない者に与えられた一方的なよきものです。ただ単に、神から与えられた一方的なよきものではないのです。受けるにふさわしくないという前提があるのです。しかし、いつの間にか恵みが報酬にすりかえられてしまいます。聖めの教理、いやしの伝道者、信仰的な手柄があった時に、気がつけば、たゆまない努力と功績と特出すべき何かがあったからそうなった、と、言葉では出さなくてもそう思いがちです。しかし、どんなよいものがあったとしても、それは、ふさわしくないにも関わらず、神が与えて下さった一方的なよいものなのです。これを報酬にしてしまうということは、つまり、報酬とは、その働きにふさわしくという、ふさわしい存在に与えられるよきものです。よい例が、会社の給料です。しかし、神の恵みの中には、何一つ、報酬という要素が入り込む余地はありません。ですから、努力をすることができ、よいことをする力や能力も、ふさわしくない者に与えられた一方的なよきものです。キリスト教は、1から10まで、すべて恵みを教える宗教です。この恵みがわかってこそ聖書が理解できますし、この恵みがわかってこそ、人は変えられ成長できるのです。また、神の恵みで赦されているとわかるので、人に対して寛容になれるし、愛の人に変えられていくのです。また、どんなものも、生かされていることも、当たり前ではなく、ふさわしくない者に与えられた神さまからのよきものだとわかったら感謝ができます。恵みを忘れると不満が出ます。それは報酬になっているからです。「神を信じているに、なぜこんな不幸なことが起こるのか?」「こんなにやっているのになぜわるいことばっかり起こるのか?」こういうのは全て、報酬という考えから出てきます。今日あなたの中に、報酬、すなわち、自分はふさわしいから神から何かを頂いている、神から何かをしてもらって当然という考え方がありましたら、悔い改めましょう。どこにも当たり前はないのです。全てが神の慈悲深さゆえであり、神の愛、神の恵みゆえなのです。ジョン・ニュートンは、生涯、神の恵みを心に感じながら歩みました。「私は、びっくり仰天するほど罪深い存在である。」「そして、その罪深い存在に対する神の恵みは、ビックリ仰天するほどである。」と、金太郎飴をなめるとどこからでも金太郎の姿が出てくるように、この二つのことが出てきました。私たちも、そんなビックリ仰天する神の恵みを感じていたいものです。♪驚くばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知れる我に♪祝福を祈ります。
2007年09月03日
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