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今日から、1年ぶりに韓国に行って来ます。私と韓国は、もう切っても切れない関係にあります。それは、まず第一に、妻が韓国人だからです。そして第二に、韓国のキリスト教を学んだからです。韓国には、妻の親戚がたくさんいます。だから、いつ行っても自分の居場所がたくさんあります。また、妻の親戚のほとんどはクリスチャンですから、私が牧師であるので、とても親切に迎え入れてくれます。また、韓国には、私の恩師であるチョー・ヨンギ牧師が、ヨイド純福音教会で現役で牧会をされています。また、オンヌリ教会の敬拝と讃美の集会と讃美学校から学んだこともとても大きなものがあります。今回は、ミョンソン教会の早天祈祷会のツアーの引率で出かけますが、私自身が、誰よりも楽しみにしています。このミョンソン教会には、毎朝、約3万人の信徒がお祈りするために教会に集まります。早天祈祷会だけを考えたら、世界一たくさん人が集まっています。この韓国は、何でも世界一というのが好きな国です。韓国の国民は、約4000万人ですし、国土も、日本に比べたら小さいですが、国の正式な名称は「大韓民国」です。すごい名前です。お隣りの中国は、その名前の由来は正式にはわかりませんが、世界一の人口を誇るような国ですが、中くらいの国という名前の中国です。あるいは、真中にあるという意味の中国かも知れませんが、韓国の大韓民国に比べたら謙遜な名前のような気がします。韓国を見ていますと、イスラエルに少し似た部分があるように感じます。それは、何度も何度も、外国からの侵略に合っています。文化や言語、あらゆる財産を奪われ、たくさんの血が流されて来た国でもあります。イスラエルのヒットラーの大虐殺だけではなく、たくさんの悲しい歴史があります。韓国の人にとっては、聖書はそれだけに身近だそうです。聖書のメッセージがすんなり心に入って来るようです。まさに、マイナスがプラスに、ピンチがチャンスに、万事が益になっています。(新約聖書・ローマ人への手紙8章28節参照)また、イスラエルの賛美歌と韓国の賛美歌の曲調がとても似ているような気がします。それは、短調(マイナー調)の曲がすごく多いのです。それは、日本の演歌にも通じますが、曲調というのは、その国民性や国民の心情を如実に表しています。日本では、欧米から入って来る長調(メジャー調)の曲の方が人気があると思います。また、韓国がイスラエルと似ている部分は、小国であるということです。神様がイスラエルを選んだのは、小さく、弱く、無きに等しい国であったからであると聖書は記しますが、そこに選びの理由は書かれていません。神様が好み、神様の主権で選ばれたのです。韓国もまた、小国であり、小さく、弱い国でもありますが、神様が選ばれた国の一つです。韓国のクリスチャン人口は、30%位であると言われています。この仏教や儒教の国では考えられない割合です。まさに、リバイバルです。また、世界の大きな教会のベスト10の多くは、韓国内にあります。ヨイド純福音教会は、毎週の礼拝出席者が25万人、教会員75万人であると言われます。ギネスブックにも載ったそうですが、まさに世界一の規模の教会です。また、数十万人、数万人規模の教会がいくつもあります。韓国の人は、何でも世界一、何でもNo.1が好きです。それは、劣等感をバネにしているかも知れませんが、まさに、マイナスがプラスに、ピンチがチャンスに、万事が益になっています。私は韓国が大好きです。すごいエネルギーと活気があります。毎朝、ミョンソン教会の早天祈祷会で祈り、午後からは、観光や買い物等に出かけます。南山タワー、南大門市場、東大門市場、オンヌリ教会、ハン川クルージング等々、予定は未定ですが、充実した3泊4日になるだろうと思います。それでは行って来ます。またお会いしましょう。それまで、シャローム、主の平安があなたにありますように。
2007年02月28日
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私は、先日イスラエルに行った時に、からし種のしおりを買って来ました。買った場所は、ベツレヘムです。今は、パレスチナ自治区にありますので、バスを乗り換えて行きました。そこは、同じイスラエルの国の中にあるのに、全く違う町の風景でした。走っている車も違いますし、町で1$で物を販売するおじさんも、すごく恐かったです。そこから、命からがら逃れて、あるクリスチャンショップに行きました。そこは、本当につかの間のホッと出来る場所でした。今回私がイスラエルに行く前に買いたいと思っていたおみやげは、1、死海の塩2、妻の化粧品3、からし種でした。ですから、すでに1と2は買いましたので、からし種のしおりを見つけて、ホッとしたのを思い出します。値段は少々高く、1枚1$でした。町のおじさんの売っている写真のしおりは、10枚1$とか、30枚1$というものもありましたので、高いと感じたのかも知れません。しかし、高くても買う価値のある物です。このからし種は、本当に吹けば飛んでしまうような小さな種です。しかし、その種がやがて大きくなって、空の鳥が来て巣を作るようになると、イエス様は言われましたが、信仰の大きな励ましになります。信仰で大切なのは、その大きさではなく、命のある信仰であると言うことです。たとえ小さな信仰でも、命があるならば、からし種がやがて大きな木に成長するようにです。ですから、信仰を捨てないで下さい。信仰を大切にして下さい。信仰は信念とは違います。信念は、思い込みです。嘘でも思い込めば真実になると、誰かが言いましたが、それは本当でしょうか? 信念は、そういうレベルのものです。しかし、信仰は、聖書の言葉という畑に種を蒔くようなものです。聖書の言葉を信じることです。イエス様は言われます。「あなたの信じた通り、あなたになれ。」と。罪の赦しの約束、聖霊充満の約束、心と体の癒しの約束、アブラハムの祝福の約束、天国の約束等々。どうぞ、聖書の言葉にあなたの信仰を置いて下さい。そうしたら、必ずそれは後にあなたのものになります。信仰は確かな現実なのです。信仰を固く持って行きましょう。祝福がありますように。
2007年02月27日
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ゴスペルソングの中に、「生きることに」という歌があります。♪生きることに 疲れたら イエス様の扉を たたいてごらんたとえ今 つらくても 愛のイエス様に ゆだねて行こう主の愛が 今臨み すべては輝き 喜びが こみあげるイエスに栄光あれ♪この歌の中に、本当に重要なメッセージが込められています。なぜならば、今、生きることに疲れた人があまりにも多くいます。それは、教会に来られている人の中にいない訳ではありませんが、教会に来れる人は軽症です。なぜならば、教会に来れる元気があるからです。しかし、本当に疲れている人は、教会に来る元気もないのです。私は度々、町や駅前で伝道をします。その行き交う人の顔を見、目を見、後姿を見る時に、あまりにも生きることが苦しくて、疲れ切って歩いている人が多くいます。私は、そういう人にキリスト教を押し付けようと思いませんし、そう致しません。ただ、その人の苦しみに共感し、その人を助けたいという一心でチラシを渡し、声をかけます。しかし、その時伝える内容は、イエス・キリストがあなたを愛している、という内容を、その人の言葉や価値観に合わせて伝えます。なぜならば、そこにしか答えがないからです。みんな、自分のことで精一杯です。どんな宗教も、どんな教祖様も、自分のことを犠牲にしてまで人を救うことはありません。しかし、イエス・キリストだけが、無条件で、一方的な愛を与えて下さいました。十字架で、私たちの喜怒哀楽、罪、重荷、孤独を背負って死なれました。そして、復活して今も生きておられるのです。この方を紹介する以外に、疲れた人を助ける方法はありません。イエス。キリストは、今この瞬間も、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私の元に来なさい。私があなたがたを休ませてあげよう。」と語り、両手を広げて待っておられます。どこでキリストはあなたを待っておられるのでしょうか? 今あなたがおられるその場所でです。気が付けば、キリストはあなたの最も近くにまで来ておられます。どうぞ、キリストの扉をたたき キリストをあなたの心の中に迎え入れて下さい。その瞬間から、永遠に続く安らぎ、平安、休み、休息、安息、リラックス、回復、修復が与えられます。今私も疲れています。日曜日には、一生懸命に説教をしますし、外で伝道をしますし、教会に来られた方の話を聞きます。それだけで疲れ切ってしまって、月曜日は立ち上がれない程です。しかし、朝のごみ捨て、子どもの幼稚園の送り迎え、そして、雑務等が私を待っていますので、寝ているわけには行きません。だから、私は、今イエス様の元にいます。そして安らいでいます。こんな素晴らしい至福の時はありません。だから、あなにもこの安らぎを味わって頂きたいのです。あなたにもこの平安をあげたいです。シャローム、素晴らしい一日でありますように。
2007年02月26日
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GIGOと言う言葉を聞いたことがありますでしょうか?これを簡単に言いますと、入れたものが出て来るという意味の英語の略語です。これは、コンピュータの世界でよく使われる言葉ですが、私たち自身にも使えると思います。私たちの口から出て来る言葉は、私たちがどんな情報を聞き、どんな情報を入れているかで決まります。今、TVのニュースを見て、そこからグッドニュース、よいニュースを聞くことが出来るでしょうか?ほとんどが、否定的・消極的、マイナス思考の話題です。すなわち、事件事故、汚職、犯罪等々。これらの情報を見聞きして、希望が湧いて来たり、元気になることはありません。そうしたら、どうしたらよい情報を聞き、よい情報を自分の心の中に受け入れることが出来るでしょうか?聖書には、「信仰は聞くことにより、聞くことはキリストの言葉による。」と書かれています。すなわち、聖書を読み、聖書のメッセージを聞くことで、前向き・肯定的・プラス思考の情報を心に受け入れることが出来ます。どうぞ、毎日聖書を読んでみて下さい。あなたがキリスト教を持っていなくても、是非読んでもらいた書物です。ここには、ビジネスのアイデアや人生成功の秘けつで満ちています。そして、もう一歩進んで、日曜日に教会に行って、聖書からのメッセージに耳を傾けて見ませんか? そこに希望と力、愛と平安があります。人は、希望がなければ生きて行くことが出来ません。明日が見えない時、希望がなくなった時、人は死にたいと思うようになります。そのような状態でかろうじて生きている人がどれほどいるでしょうか? しかし、聖書にこそ、生きる希望が満ちています。そのメッセージを聞いている人は、必ず、希望に満ち、前向き肯定的な言葉を話すようになり、そして人生は、口で話す通りになって行きます。ですから、何を心に入れるのか? これが重要ですから、よく注意して下さい。聖書には、「力の限り、あなたの心を見張りなさい。」とあります。どうぞ、あなたはあなたの心の見張り役、門番です。否定的な情報からあなた自身の心を守り、そして、肯定的な情報、聖書の言葉に耳を傾けて下さい。そこには、あなたに取ってよいニュースが満ちています。よい一日でありますように。
2007年02月25日
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今日は、消防団の新入団員研修の日です。とてもドキドキします。東洋のことわざに、「千里の道も一歩から」というものがあります。また、欧米のことわざに、「誰にでもはじまりがある」というものがあります。伝道師となり10年、牧師となり5年経ちますと、あとはマンネリの繰り返しです。マンネリの繰り返しの中で牧師に求められることは忠実さです。忠実さとは何でしょうか? 忠実さとは、誰が見ていても、見ていなくても、同じ事を続けられる人格です。牧師は、目の前にいる人数で一喜一憂しやすい仕事の一つです。集会がはじまる時間になっても、目の前に誰もいないとしたら、自分の全存在が否定されたかのように感じてしまうような場合もあります。しかし、人がいても、いなくても、同じように喜びを持ってその働きを続けられる人は、間違いなく忠実な働き人です。神様は、そのような忠実さを求めておられます。しかし、同じ事の繰り返しの中で新鮮さを持って働くことも重要ですが、新しい世界に飛び込んで行くことも素晴らしいと思います。私に取って、消防団の入団は、何もかもが新しい世界です。とても新鮮です。入団以来、地元で親しい人が途端に増えましたし、消防団には、自営業者もいれば、会社員もいます。公務員もいれば、区議会議員もいます。そして、主婦もいれば、独身女性もいます。若い人は二十代ですし、六十台の人もいます。これはまさに、異業種交流会のようなものです。とてもいい刺激になりますし、社会勉強にもなります。入団して二ヶ月半が経ち、今日は、これから新宿消防署にて新入団員研修があります。どんなことを学べるのか、どんなことが起こるのか、それを考えますと胸がドキドキします。今日は、娘の誕生日ですが、それは、午後の時間にしたいと思います。そして、夕方は、明日の日曜日礼拝の準備をし、夜は、消防団の夜回りです。ですから、かなり消防団漬けの一日です。間もなく行って来ます。よい研修の時となりますように、お祈りくだされば幸いです。よい一日でありますように。シャローム。
2007年02月24日
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パワーフォーリビングは、ついに百万部を突破しました。そして、五十万部の増刷が決定しています。しかし、まだまだです。日本には、一億二千五百万人の人が住んでいます。せめて、一千万部、五千万部は増刷されて配られてほしいです。パワーフォーリビングのコストは、一冊40円です。十冊400円、百冊4,000円、千冊4万円、一万冊40万円、十万冊400万円、百万冊4000万円、一千万冊4億円、五千万冊20億円、そして、一億冊40億円です。すでに、このパワーフォーリビングを配るためのコマーシャルに50億円かけているのです。もう50億円かけたら、日本の全ての人にこれを配ることが可能です。もちろん、理屈から言えばそうなります。しかし、もう一つ重要なことがあります。それは、配る人が必要だということです。もちろん、祈る人も必要でしょう。しかし、みんなで祈っているだけではダメなのです。一冊でもいいから配らなくてはいけません。リバイバルは、神様からの不可抗的な働きも起こりえますが、しかし、神様は、ご自分一人で働けないことはないですが、私たちを通して働くことを決められました。あなたを通してです。伝道チラシは、従来、一枚10円くらいで売られていました。しかし、このパワーフォーリビングはただで入手し、ただで配ることが出来ます。今日本のいくつかの教会で、このパワーフォーリビングを配ってから、驚くほどの人が教会に足を運ぶようになっていると聞きます。みなさん、伝道は難しくないのです。難しいと思うから難しいのです。神様に頼り、神様と共に大胆に働くのです。どうぞ、パワーフォーリビングを取り寄せて、そして、あなたも配ってみませんか?神様は、あなたを通して日本人を救いたいと考えています。あなたを通してです。どうぞ、一緒に働きましょう。祝福がありますように。
2007年02月23日
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私が関わっているオーストラリア宣教会というものがあります。昨日は、定例の委員会が持たれましたが、久しぶりに白熱した話し合いになりました。というのは、今、オーストラリアのシドニーで宣教をしている宣教師一家が、来月帰国することになったからです。1年以上続けられていた宣教活動ですが、経済的な事情+諸事情によって、一旦打ち切って帰国することになりました。しかし、教会を辞めてしまうのではなく、日本にブランチ教会を出して、そのブランチ教会の礼拝の映像をオーストラリアのシドニー日本人教会に送るという話になっています。その他には、二ヶ月に一度、こちらから短期で宣教師を送るということになっています。これは、現地の教会の役員会での最終的な決定ですので、委員会としては、それをそのまま受け止めて行く方向に進むのが自然ですが、この委員会には、現地の教会の創始者もいらっしゃいます。その創始者の先生のご夫人からの反対意見が出されました。それはその通りだと思います。そのような形で教会が存続して行くのかどうかは不安ですし、教会員が散り散りばらばらになってしまうかも知れません。私もその意見に同意しますし、その通りだと思いますが、今の時点では、現地教会の役員会の決議事項を受け入れるほかにありません。そんな時、最後は祈りに導かれます。委員の先生方からは、「マイナスはプラスに変えられます」とか、「一発大逆転」とか、「ピンチがチャンス」等の信仰的な言葉が飛び出しました。そして、委員会一同が聖霊に満たされ、創始者の夫人もそれを信仰によって受け止められました。このほんの少し前には、創始者の牧師先生は天に召されて行きました。このオーストラリアのシドニー日本人教会は、ご夫妻が、まさに命をかけて開拓し、牧会されて来た教会です。委員会は、この教会の存続、そして、継続、いや、前進のために再献身し、祈り、仕えて行くことを主の前に決断して終わりました。教会とは、お金で建てるものではなく、人間の知恵や力で建てるものでもありません。権勢によらず、能力によらず、主の霊によってなされます。信仰と祈りで建てるのが教会です。どうぞ、みなさんも、このオーストラリアのシドニー日本人キリスト教会のためにお祈りをお願いします。また、フルタイムで宣教師として遣わされて行く人が起こされるようにとお祈りをお願いします。みなさんは、祈りを通して、オーストラリアの地に立つことが出来、宣教することが出来ます。祈りとは、それだけ現実であり、リアルなものです。今日も、主に祈って参りましょう。シャローム。
2007年02月22日
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忙しいのと暇なのはどっちが好き? そう聞かれたら、どっちも好きですね。ちなみに今日は、とても忙しい一日です。早朝から、国会の衆議院議員会館内で国会祈祷会がありますので、それに参加します。帰って来たら、そのままPTAの集まりに参加します。そして、途中から抜け出して、オーストラリアの宣教会の会議があり、それが終わった直後にお客さんが来られ、そして・・・、詰っています。ここ最近、このような過密なスケジュールの日が続いています。もしこれが一年間くらいまで行かなくても、一ヶ月間続いたらきっとストレスがマックス状態になり、倒れてしまうだろうと思います。人はないものねだりをするものですね。暇な日ばかりを過ごしていますと、忙しい生活に憧れますし、忙し過ぎますと、暇な時間が持ちたいと思うようになります。しかし、この忙しさと暇を組み合わせたらどうでしょうか? 要は、メリハリですね。聖書的に言えば、6日間働いて1日休むという生活です。きっとここに理想的な生活があるだろうと思います。牧師の日曜日は休んでいないので、土曜日か月曜日に安息日を取ることがいいだろうと思います。最初に行った神学校は、全寮制でしたので、そのサイクルを身を持って学びました。火曜日から土曜日の午前中まで、ぎっちり学んで、土曜日の午後に日曜日の備えをし、日曜日は、目一杯主の御用をさせて頂き、月曜日は完全な安息日です。今の私は、月曜日に説教準備をし、土曜日を半安息日にしています。しかし、今年イスラエルに行って教えられたことは、完全な安息日を持つことです。ユダヤ人の安息日は、「何の仕事もしてはいけない。」という言葉を忠実に守っています。これは、神様の命令ですが、神様が私たち人間に下さったプレゼントだと感じます。神様が、ここまで厳しく命じなければ、人は休むことをしないで、何らかの仕事をしてしまって、結果として、休みが得られなくなってしまう可能性が大だと思います。私は、休むことが苦手ですね。何も考えない、何もしない、完全に休むという日を持つことは希です。でも、これをしないから疲れが取れないのだと思います。そして、これをしたら、疲れを完全に取り去ることが出来るのだと思います。忙しさと暇の両立、それは、六日間働いて一日休むことだと思います。これから私は、そのことに挑戦して行きたいと思います。聖書は、私たち人間の取り扱い説明書でもあります。自己流に生きてしまうのではなく、メイカーであり、デザイナーである神様の取扱説明書に従って生きて行きたいと感じます。信仰は、長くなれば長くなる程単純になって行くのかも知れません。バック・トゥ・ザ・バイブル。聖書という原点に帰って生きたいと思う今日この頃です。みなさんもどうですか? 完全な安息日を持ってみられたらどうでしょうか? きっと、計り知れない安息と祝福があるだろうと思います。今週の土曜日辺りからどうですか?よい一日でありますように。
2007年02月21日
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私たち人間は、聖書によると3つの部分から成り立っています。それは、霊・魂・体です。しかし、この3つの部分がバラバラに働いたり、秩序が狂ってしまっているのが私たち人類の姿です。人は神によって造られた時に、まず、霊が人間の中心として造られました。この霊とは神様ご自身です。次に、この霊が魂を支配するように造られました。この魂とは、知識・感情・意思の部分です。ですから、神さまにこの知・情・意が従う時に、神と人は一致した状態であり、かつ、幸福を感じられます。そして最後に、この霊と一致した魂が体を支配するように造られました。この時、体は健康の状態となり、トータル・パースン(全人)がバランスの取れた人間として生きることが出来ます。ところが、最初の人アダムとエバは、蛇の姿をした悪魔に騙されて、魂が神さまの霊に従うのではなく、悪魔に従うようになってしまいました。その瞬間、霊・魂・体のバランスが狂って、逆転してしまいました。体が中心となり、その感覚や欲望に魂従い、その魂に霊を従わせています。その時、人の中心である神、霊が死にました。正確に言えば、霊が人から離れて行きました。人の命は霊なのです。神様は、土地の塵で人を形造り、そこに命の息、霊を吹き込まれました。そこで人は生きた人間となりました。この霊が離れたら、木の本体から切り取られた枝のように、命は時間の問題です。だから、人には寿命があるのです。本来人は永遠に生きる存在であったにも関わらず。しかし、この人間の姿を見た神は、一人子イエス・キリストを2007年前のクリスマスに、人間の姿で誕生させ、この人間を救うために、人間の罪を背負い、十字架で死なせて下さいました。そして、三日目に復活させて下さいました。ですから、このイエス様を信じるならば、人は一度死ぬ存在となりましたが、キリストと共に復活し、永遠に生きることができるのです。それは、切り取られた枝が接木されたようなものです。この人をクリスチャンと呼びます。クリスチャンは赤ちゃんのようなものです。新しく生まれた人です。このままでも愛されていますが、新しく生まれた人は成長しなくてはいけません。その成長が、魂が霊に従い、体が魂に従うようになることです。今まで私たちは、自分の感覚と欲に従い、魂、自分の知識・感情・意思に従って歩んで来ましたが、それが、神の霊、すなわち、神の言葉聖書と聖霊に従い、服従することが必要です。それは、自分に死ぬということです。パウロは、「私は、キリストと共に十字架につけられました。もはや、私が生きているのではなく、キリストが生きておられるのです。」と語りましたが、その世界です。今までは、あなた自身が主人だったのに、そこに新たな主人であるイエス・キリストが入って来るのです。そこには葛藤があります。なぜならば、キリストは、あなたが望まないことを語ることがあります。「人を裁いてはいけません。」「人を赦しなさい。」「敵のために祈りなさい。」この三つの言葉は、一言で「愛せよ」という言葉です。この愛という一言を持ってもも、あなたはそれができるでしょうか?出来ません。という人が正直な人です。しかし、祈り、そして、自分に死んで、主に従う時に、あなたの成長、あなたのトータル・パースンがはじまるのです。もし、クリスチャンになっても、何年経っても同じままの状態であるならば、赤ちゃんのままの状態です。親はもちろん、その姿をかわいいと思いますし、おじいちゃん、おばあちゃんは、今のこのままでいてほしいと思う場合もあります。しかし、赤ちゃんのままでは困ります。まずは四足でハイハイし、やがてつかまり立ちをし、そして、二本足で歩き、反抗期になり、自立心が芽生えて、人は少しづつ成長し、バランスの取れた人に育って行きます。クリスチャンである私たち、そして、大人となった私たちは、そこでお終いではなく、死ぬその日まで、成長し続けて行きたいものです。この成長とは、肉体的な成長ではありませんし、むしろ、肉体は衰えて行く一方です。しかし、精神の成熟、そして、バランスの取れた人となって行くのです。それは、最初お話しした、霊が魂を支配し、魂が体を支配します。そうしたら、あなたは幸福で、豊かな人生を歩めるはずです。そんな成長を今日も遂げて行きたいですね。祝福を祈ります。
2007年02月20日
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私は今、PTAの働きに積極的に参加し、取り組んでいます。今朝も、これから朝の学区域の交通整理に出かけて来ます。私は、交通整理はあまり好きではありませんが、このお手伝いが楽しいのは、通学する小学生の子どもたちと顔を合わすことが出来、あいさつすることが出来るからです。朝から、すごい元気と喜びをもらうことが出来ます。私の知り合いの牧師先生の中に、千葉で開拓伝道をされていますが、ミッションOO(オウ・オウ)というものを行なっています。そのOOとは、「おはよう・おじさん」の略です。その地域では、その先生は、おはようおじさんとして有名だそうです。私は、このお話を聞いた時に、「すご過ぎる!」と思いました。その後、先生と一緒にファミリーレストランで夕食を致しましたが、その時、小学校の高学年の子供たちが、おはようおじさんに、その時間は「おはようございます」の時間ではないので、「こんばんは」とあいさつに来ていました。この子どもたちとの交流が、この先生の牧会の原動力になっているのだろうと感じました。私は、そこまで大それたことは出来ませんが、決めれたPTA活動の一環として、自称「おはよう・おじさん」をして来ます。このPTAは、ペアレント・ティーチャー・アソシエーションの略になりますから、「父母と先生の会」ということになります。学校の活動や運営を、先生方だけに任せるのではなく、子どもの父母も、一緒に力を合わせて行なって行くことが出来たら素晴らしいと思います。この学校は、PTA活動が本当に盛んですから、私としても、出来る限り尽力をさせて頂きたいと思っています。昨年は、「早ね 朝起き 早ご飯」というイベントを行ないましたが、NHKのTVの取材を受けて、学校の光景が数秒でしたが全国のお茶の間に流れました。とにかく、今日も一日がんばります。共に、素敵な日にして行きましょう。シャローム。
2007年02月19日
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日曜日は、誰にとっても楽しみの日であると思います。以前、たばこのCMのキャッチフレーズで、「たばこは心の日曜日」と言うものを見聞きした覚えがあります。たばこが本当に心の日曜日のように、安息や楽しみを与えるものかどうかは別にして、人は、都合よくものごとを考える人種であるなーとも感じます。ある説教者が、講壇からこんなお話をしました。二つのビーカーに水とお酒を入れて、それぞれにみみずを入れました。水の方に入れたみみずは、そのまま元気よく這い出して来たそうですが、お酒の方に入れたみみずは、死んでしまったそうです。その日、お酒好きな一人の求道者が、一番後ろの席に座っていたそうですが、集会後牧師先生にこう言ったそうです。「先生の話は難しくて、チンプンカンプンだったけれど、この一つの話だけはよくわかりました。お酒を飲むと、お腹の悪い虫を殺してくれるということですね。」この方も、都合のいい話の聞き方をされているようです。私たちに取っての日曜日とは何でしょうか?それは、一週間のはじめの日であり、主を礼拝する日であり、過ぎた一週間をリセットして、復活したイエス様から新しい週をはじめる日ですね。カトリック教会に行って感じる空気は、安らぎやいやしです。とてもホッとします。また、神様にの要素にはお母さんがありませんが、マリヤさんがイエス様を抱いている光景は、とても大きな包容力を感じます。しかし、そこに一つだけ欠けているものがあります。そこには、弱さ、涙、人間としてのイエスの姿を見ることが出来ますが、そこに、強さや喜び、そして、復活の姿を見ることがありません。人の弱さやなぐさめは、十字架のイエス様の姿の中に現わされています。しかし、もう一つ、人の勝利や希望、力は、復活のイエス様の姿の中に現わされています。どうぞ、この日曜日は、イエス様の復活を礼拝するために弟子たちが毎週礼拝をはじめたこと、そして、このことが、キリスト教徒の伝統となり、西洋文化等を通して、赤字の公休日とされて行きました。それは、主を礼拝し、新しい週をスタートする日です。ともに、この日曜日にイエス様を礼拝し、新しい週をはじめて行きたいですね。あなたは今日、教会に行かれましたか?まだ行ったことがない方もいるかも知れません。また、お休みしてしまった人もいるかも知れません。しかし、どうぞ来週は、近くの教会の礼拝に参加してみませんか?そして、素晴らしい一週間を共に過ごして行きましょう。シャローム。
2007年02月18日
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金曜日の日没から土曜日の日没を、シャバット(安息日)と言います。これは、聖書が教える内容ですが、以前の私にはピンと来ませんでした。しかし、ガリラヤ湖のホテルで安息日を過ごした時に、その大きな祝福を実感することが出来ました。折りしも私は、金曜日の日没くらいから、きぬがわオリーブの里での聖会に参加して来ました。聖会のメッセンジャーは、TVゴスペルジェネレーションでも知られていると思いますが、安食牧師です。この先生は、私の神学校の恩師でもありますが、当時の先生も素晴らしかったですが、ますます磨きがかかったという感じがしました。まず、オリーブの里についたら、おいしい夕食が私たち家族を待っていました。そして、のんびりと聖会に参加し、のんびりと、かけ流し天然温泉に入り、のんびりと夜を過ごしました。そして、のんびりとしていましたので、朝の早天は、お部屋で過ごさせて頂きました。朝食は8時で、聖会は10時です。まさに、こんなのんびりしていいのかしら、と思えるような安息日を過ごしました。もちろん、これが聖書的な安息日かどうか? 難しいところですね(笑)。片道160Kmの安息日の移動は、完全に、安息日の律法に反しています。こう言った安息日律法は、やがて人を縛り、人を苦しめるような性質のようになって行きました。しかし、もちろん、そんな意図はなかったはずです。ようは、休むことが大切なのです。安息日は、律法に定められているから、これを命じられたユダヤ人は無条件に守って来ました。しかし、安息日は、人のためにあるのです。そこで、週の疲れを回復させ、休み、家族でゆっくりと楽しい時間を過ごします。ユダヤ人の安息日のテーブルは、安息日の雰囲気で満ちていました。いいものでした。まさに、昨日と今日は、そのような日を私も過ごしたと思います。今週は、やるべきことがたくさんあったからということもあります。近々、韓国に5日間、大阪に2週間出かけますし、その他、毎日、あちこちに出かける仕事や集まりで満ちています。一週間、教会にだけいることが出来て、土曜日の夜までに終わらせればいいというのであるならば、もちろん、そんなのんびりできる職種の人はいないくらいかも知れません。しかし、仕事は、同時進行は当たり前、細切れ時間はネット宣教、そして、無駄を省いた動き等、本当に、楽しく、効率がよく、かつ、充実した週を過ごしました。また不思議なのは、健康を害し、今週は3回も点滴を打ちに病院にも行きました。健康が支えられ、フル稼働で過ごした一週間の締めくくりには、安息日はふさわしいと、心底感じます。だらだらと一週間過ごした時には、安息日を取っている人を、「暇な人種」であると感じていましたし、「貧乏暇無し」と勝手なことを思ってもいましたが、大切なのは、六日間、よく働くこと。そして、一日を休むことですね。ああ、いい安息日だったと思いますね。明日は日曜日です。あるクリスチャンの人たちは、日曜日を安息日と表現し、位置付けている場合もありますが、それも悪くはありませんが、安息日は、日曜日ではなく、土曜日であると、昔から、素朴な疑問を感じていましたが、これは、それぞれの確信に立つことがいいのではないかと感じます。私は、日曜日は、聖日とか、安息日とは呼ばないで、主日と呼びます。それは、イエス様の復活を記念する日であり、復活の主を礼拝する日だと思っています。先日、イスラエルに行った時、聖墳墓教会に行ってきましたが、そこには、「彼は、ここにはおられない。」と英語で書かれていました。ハレルヤ!です。♪主は生きておられる 我がうちにおられる すべては主の御手にあり 明日も生きよう主がおられる♪あと、安食牧師は、ペンテコステ派系の先生ですが、以前のオリーブの里は、関東祈祷院と行って、バリバリのペンテコステの祈りの家でしたが、ここ最近は、完全に福音派になってしまったという感じがしていましたが、ここでこういうメッセージが語られるのかと、うれしくなりました。それは、いやしや奇跡の問題です。すべての牧師は、神様は変わらないお方であることを信じています。しかし、その働きの一つであるいやしは、今日は起こらないと、主張する先生が多くいらっしゃいます。安食先生派、そのような先生の教会に講師として招かれ、集会を閉めるに当って、自分の右に救いの招きをし、左にいやしの招きをしたそうです。そうしたら、急いで主任牧師が走って来て、右の方はいいですが、左の方は困ります。と言われたそうです。集会後、神様は変わらないお方であるという、共通した見解からはじまって、しかし、いやしはなくなってしまったのか?という話になり、いつから? それは、初代の使徒たちが亡くなった時からという話になりましたが、そんな聖書的でないことをよくも言えるものだとも思いましたが、笑いながら、そのお話を聞いていました。みなさん、神は変わりません。神の約束も変わりません。ただ、この神の言葉だけで喜んで生きる人とさせて頂きましょう。そういう生き方の延長線上に、安息日もあるのだと思います。よい週末をお過ごしください。シャローム。
2007年02月17日
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私は、クリスチャンになってから役18年が経ちますが、その年月はいたずらに過ぎたのではないなーと感じます。当初は、聖書の言葉を読んだ時に、そこに驚きと感動がありましたが、「もしこうであったらいいなー」とか、「今イエス様が目に見える形でいてくれたらいいなー」とよく考えたものです。しかし今感じることは、聖書の言葉が今の私の現実に限りなく近づいています。それは、目に見える世界が現実であるように、聖書に書かれている世界はもっと現実に感じています。その理由は、聖書の言葉は、歴史の中に確実に実現し、成就しているからです。イスラエルの離さん、イスラエルの苦難、イスラエル国の復興、そして、イエス・キリストの受肉等々、細かく見て行けば、聖書の預言は、ことごとく成就しています。そして、これから、すべてそのまま実現するでしょう。そして素晴らしいことは、この聖書の言葉は私に対しても書かれたものであり、何と、私へのラブレターなのです。もう最高にうれしいです。あなたは、ラブレターをもらったことがありますか?私は、中学1年生の時にはじめてラブレターをもらいました。真っ赤な顔になり、そのラブレターは、机の中の最も大切な引き出しにしまって、毎日毎日、穴が開くほど繰り返して読みました。私は、それ以上に聖書の言葉を繰り返して読みます。私が、聖書を1日9章読みますと言いますと、多くのクリスチャンが「すごいですね」と感心します。しかし、それは、もしかすると、「なかなか読むことが大変な書物を、そんなにたくさん読まれてすごいですね。」というようなニュアンスを感じます。しかし、私に取ってはそんな意識はありません。それは、神からのラブレターですよ。私は、朝一番にそれを楽しみに読みます。それは、何よりも大切なことなのです。私は、その神からのラブレターを、まさに、神が私をほほえみ、私をいつくしみ、時に、叱咤激励している御顔を描きながら読みます。ですから、時に笑い、大笑いし、泣き、心を痛め、悔い改め、祈り、叫び、感謝します。そして、そのことを通して、今の私には、現実の目に見える世界よりも、もっと聖書が現実になって来ています。聖書の言葉は、「私はあなたを愛している」という言葉が土台となっています。そして、私は神ではなく、神こそが私の神であり、全知全能であり、絶対者であること、そして、その方が、「私に任せなさい。」「私について来なさい。」「私を信じ、信頼しなさい。」と語って下さいます。そうしたら、すべての悩みはなくならないでしょうか? そう、なくなります。そして、代わりに神様は、新しい重荷を下さいます。もちろん、この重荷は軽いものであり、うれしいものであり、私に喜びと使命感を与えます。それは、「私があなたを愛し、十字架であなたを救ったように、全人類を愛している。全人類を救いたい。だから、この愛と救いを伝えてほしい。」と繰り返し語ります。私は、この福音宣教のために命を費やして、命をささげてもいいと思っています。それは、私を誰よりも愛して下さり、私が誰よりも愛している神様の願いだからです。そして、私はみなさんに押し付けるつもりは毛頭ありません。しかし、奨めたいのです。神はあなたを愛しています。そして、一人子イエス様を与えて下さいました。そして、あなたのために全てを行なって下さいます。ですから、あなたの人生と命を、このお方にすべて預けてみませんか?神はあなたを、死から救い、罪を赦し、健康を与え、人生を祝福し、守って下さいます。全てのあなたの重荷を取り去って下さいます。そして、神は、あなたにくびきを共に背負うように招かれます。くびきとは、親子の牛が畑を耕す道具です。親牛は、一人力を入れてがんばります。子牛は、おなじくびきを肩にかけて一緒に歩きます。あまり重くありません。同じように、くびきの重たい部分は、十字架でキリストが背負いました。あとは、そのくびきを一緒に肩にかけて、一緒に歩くことです。同じ方向に向かって歩くのです。それが、主に従うことであり、主と共に歩くことであり、そして、福音宣教することです。あなたの世界観が、聖書の世界観に限りなく近づきますように。なぜならば、この目に見える天地は必ず滅びます。もちろん、すぐにではありませんが。しかし、聖書の言葉は、一点一画落ちることなく、全部実現します。この世の世界観はやがて終わります。しかし、聖書の世界観は永遠ですから。素晴らしい一日でありますように。シャローム。
2007年02月16日
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信仰の道を本気で歩んで行こうとしたら、必ず通過しなくてはならないのが孤独です。この孤独と思える感情は、とても恐ろしく感じることでさえあります。創世記に出て来るヨセフは、思春期をエジプトに売られ、牢屋で過ごしました。考えたことがありますか? ヨセフがどれだけ孤独であったかを。もしヨセフが神を信じていなかったとしたら、自殺をしただろうと推測できます。しかしヨセフは、神と共に歩み、神の言葉を信じました。しかし、それでも執拗に牢屋はヨセフを失望落胆させるには十分な環境でした。ヨセフは、父ヤコブ(イスラエル)から溺愛され、お母さんが何人もいる環境に育ちましたから、かなり歪んだ人格を持っていただろうと思います。しかし、ヨセフが過ごした牢屋は、その歪んだ人格を作り変える場所でした。その昔のままのヨセフが、エジプトの総理大臣になれたでしょうか? 「ノー!」無理です。しかし、牢屋の中で作りかえられたヨセフは、後に自分を売り飛ばし、ひどい目に合わせた兄弟に対して、恨み言一つ言わずに、「神が、命を救うために私を先にここに遣わされたのです。」と言い切りました。みなさん、これはすごい信仰告白です。ローマ8:28に通じる言葉です。万事は益と変えられるのです。今日あなたが、信仰の道を歩んで行こうとするならば、孤独は避けられません。時に、なぜ? と思えるようなひどい出来事に会うこともあります。また、人からの誤解を受けることもあります。しかし、その孤独は、あなたを作り変え、神様があなたに願っている人格や品性を作るものなのです。ですから、孤独でさえも感謝して歩んで参りましょう。主が共におられます。そして、主の言葉があなたと共にあります。素晴らしい一日でありますように。
2007年02月15日
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バレンタインデー「Saint Valentine’s Day」、は、言わなくても誰もが知っている、女性が好きな男性にチョコレートと共に、恋愛の心を伝える日です。私がはじめてバレンタインチョコをもらったのは、小学校1年生でした。なぜか、たくさんの女の子がチョコレートを自宅にまで届けに来てくれました。もう山のようなようになり、鼻血が出る程チョコレートを食べました。その時私は、こんないい日はないなーと、本当にうれしくなりました。小学校1年生の私には、女の子に対する恋愛感情はほとんど全くといって言い程ありませんでした。それは、きっと相手の女の子たちも同じだったと思います。しかし、小学校高学年~中学生になる頃には、バレンタインデーは強烈に意識していました。下駄箱に入ってるかな? いや、帰り道に渡されるかな? それとも、机の中に無記名で入っているかな? そして、1個ももらえなかった年には、放課後に学校の出入り口をうろうろしたことを思い出します。その後、私を待ち伏せして、チョコレートを恥かしそうにくれた女の子がいました。取り越し苦労でした。しかし、喜んでばかりはいられません。3月の14日はホワイトデーで、お返しに、キャンディー(両想いの人に)または、クッキー(友達レベルの人に)または、マシュマロ好きでない人に、私はそういう人にも、これだけは出来ませんでしたね。)のお返しをしなくてはいけないですね。私に取ってのバレンタインデーの認識は、こんなものでした。しかし、クリスチャンになり、牧師となり、また違う意味の日であることを知った時はとてもうれしかったです。その歴史は、ローマ帝国の時代にまでさかのぼります。そして、バレンタインとは、教会の司祭さんの名前です。この方は、西暦3世紀のローマでのこと、皇帝クラウディウス二世は、若者たちがなかなか戦争に出たがらないので、手を焼いていました。その理由は彼らが自分の家族や愛する者たちを去りたくないからだと確信するようになったクラウディウスは、ついに結婚を禁止してしまったのです。ところが、インテラムナのキリスト教司祭であるバレンチノ(英語読みは、バレンタイン)は、かわいそうな兵士たちをみかねて、内緒で結婚をさせていました。それが皇帝の知るところとなったから大変です。しかも、当時のローマでは、キリスト教が迫害されていました。皇帝は、バレンチノに罪を認めさせてローマの宗教に改宗させようとしましたが、バレンチノはそれを拒否しました。そこで、投獄され、ついには西暦270年2月14日に、処刑されてしまったということです。愛を守るために命をかけたバレンタイン司祭を記念して、後日、女性から男性にチョコレートをあげることが習慣となったそうです。詳しいことはわかりませんが、何ともいいですね。日本や台湾には、ホワイトデーというお返しの日がありますが、韓国では、それに加えてブラックデーというものもあります。ブラックデーには、チョコレートを誰にももらえなかった男性、キャンディーを誰にももらえなかった女性が、寂しい気持ちでジャージャー麺を食べます。これがまた美味しいんですよね。今日、女性であるあなたは、義理チョコを含めてチョコレートをプレゼントされますか? 男性に取っては、いくつになってもうれしいものです。是非、勇気を持って渡して上げて下さいね。もちろん、勘違いされて、ストーカーになってしまいそうな相手は気をつけなくてはいけませんけど、しかし、もし、勘違いされたくなかったら、聖書の言葉等を書いて渡すのも、伝道と一石二鳥になりますので、いいかも知れません。よい一日でありますように。
2007年02月14日
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パワーフォーリビングは、約3週間で計80万冊ほどが出荷されていると聞きます。また、それを手にした人の反響には驚かされています。昨日も、これを配った人が、「もっと詳しく教えてほしい」と、教会に来られた人がいます。また、テレビ・コマーシャルの影響が大きいと思いますが、これを手にした人の多くが、すでにパワーフォーリビングについて、何らかの知識を持っていました。どうぞ、主が、パワーフォーリビングを用いて、この日本に福音を爆発的に広げて下さるようにと祈って行きたいと思います。また、100万冊のうち、すでに80万冊が出荷されています。今後の課題としては、200万冊、300万冊・・・1000万冊と増刷が出来るようにと祈り、要請して行きたいと思います。聖書にある、「今の時を生かして用いなさい。」という言葉が、私の中をかけ巡っていますが、これは神様が私たちの国に対して語られている言葉だと思います。「鉄は熱いうちに打て」ということわざがありますが、どうぞ、人々の心が熱い今、一日数冊でも配って行きたいものです。駅前で配ってもよし、また、ポスティングしてもよし、友達に手渡してもよし、あなたの方法でこれを配って行きましょう。そして、従来の伝道トラクトでさえも、一枚10円くらいしましたが、これは無料なのです。これを用いない手はありません。しかし同時に、これは、主の救いの恵みのように、高い代価が支払われています。救いは、無料、無代価、無条件ですが、一人子イエス・キリストの命と言う代価が支払われています。このパワーフォーリビングも、アーサー・S・デモス財団から支払われています。その額は、私たちが一生かかっても使い切れないほどの額です。この財団に、主の祝福が豊かにあるように祈って下さい。そして、そのことを感謝して配ることが、この財団に対する感謝の意の表明であり、お返しになります。今あなたが救われているとしたら、それは、その背後で誰かが祈ってくれていましたし、あなたに福音を伝えてくれたはずです。今度は、あなた、私たちの番です。「主よ、ここに私がいます。私を遣わして下さい。」と共に祈って行きましょう。素晴らしい一日でありますように。
2007年02月13日
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パワーフォーリビング。この正体や全貌はまだ完全には把握していませんが、アメリカのある財団が、日本にイエス・キリストが伝えられるようにと、多大な資産が献金されて実現しました。先日の教役者大会では、ちょうどタイムリーな話題なので、たくさんの時間を割いて、色々な情報交換がなされました。さて、パワーフォーリビングの説明はそれくらいにしますが、私は、一歩出遅れまして、やっと先週の木曜日に50冊くらい、翌金曜日に1000冊手にすることが出来ました。早速、昨日の礼拝の後には、海外旅行バックにパワーフォーリビングを詰め込んで、最寄の大久保駅前で配りました。その反響は予想以上でした。何人かの人からは、「TVで宣伝しているものですよね?」というような声を聞いたりもしましたし、向こうから近づいて来て、「是非下さい。」と言って取りに来られた方もいました。しかし、1時間半の配る時間の中で、私一人で配れたのが100冊です。アバウトで、1分で1冊配れたということになりました。これは、私が教会の伝道チラシを配るのとだいたい同じ割合です。しかし、その理由は、特に女性などは、荷物になるので(パワーフォーリビングはそれなりの大きさがあるので)敬遠された方もいたようです。しかし、興味を持たれる方が予想以上に多いのには驚かされました。2007年、今年こそは、何か新しい変化の年となるのではないかと期待しています。私の回りでは、地道に伝道活動を続けている人もたくさんいますが、同時に、リバイバルを切実に求めて来た方々もたくさんいます。牧師会では、昨年も、「今年こそはリバイバルが来る」というムードが高まりました。私の場合は、その期待は持ちながらも、草の根的に伝道を継続し、また、主がこの蒔いた伝道の種を必ず収穫させて下さると信じるので、いたってクールに、かつ、地道に続けています。しかし、そんな私でも、このパワーフォーリビングという壮大なプロジェクトを見る時に、この年、大きなリバイバルが来ることを期待せずにはおれません。名もない、名も知られていない団体が、大手自動車メーカーであるトヨタ自動車と同じくらいの宣伝費用をかけていると言われます。業界では、騒然としているといいます。ハレルヤ!救い主イエス・キリストが、間接的ではありますがTVで宣伝され、電車の中吊り公告やあちこちで宣伝されていることを本当にうれしく思います。誰よりも、主ご自身が喜ばれていると思いますが、この財団とその一人の億万長者は、まさに天に宝を積んでいます。どうぞ、これを読んで下さった方は、このパワーフォーリビングが用いられて、多くの日本人にイエス。キリストが伝えられますようにと祈って下さい。また、お近くの方は、一緒にパワーフォーリビングを配りましょう。また、遠くの方でも、注文したらいくらでも届けてもらえますから、これを取り寄せて、配って行きましょう。聖書には、「今の時を生かして用いなさい。」と書かれています。時はいつでもあるのではありません。サーファーが波に乗るタイミングがあるように、今この福音宣教の波に一緒に乗ってまいりましょう。みなさんの祝福をお祈りしています。よい一週間でありますように。シャローム。
2007年02月12日
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イスラエル旅行の最後の日には、ホロコースト記念館に行きました。ホロコーストは、想像以上のもので、言葉になりませんでした。なぜ人は、ここまで惨く、ここまで凄惨なことが出来るのだろう? なぜ?なぜ?と思いましたが、しかし、その罪の性質は、この私自身の中にもあるのだということを同時に考えさせられました。私たちクリスチャンは、このことがわからないと、簡単に人を裁いてしまう人になってしまうと思います。つまり、自分が正しいという主張をするのではなく、人の欠点を見た時に、自分の中にも同じ罪の根っこがあり、その罪が無代価・無条件で赦されているということを自覚しなくてはいけません。イエス様は、「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを除くことができます。」と言われました。しかし、人は罪のゆえに、動物以下の状態であるとも言えます。悲しいですが。動物は、本能のままに生きています。ですから、争うことはありますが、相手が降参したら、まずそれ以上は攻撃しません。もちろん、弱肉強食の連鎖はあります。しかし、同種で殺し合う動物はまずありません。また、その背後には、劣等感や妬みという感情があるように思います。ドイツ人は、当時、ヒットラーによって、自分たちが選民であると言う思想を植え付けられました。そして、劣った人種は亡ぼそうということに発展し、同時に、神の選びの民であるユダヤ人を亡き者にしようとしました。それは、競争原理という考え方の中から出て来ます。聖書では、イスラエルを選民と位置付けていますが、同時に、異邦人である私たちも、キリストを信じる信仰によってアブラハムの祝福を受け継ぐ者とされています。イスラエルにはイスラエルの祝福があります。そして、異邦人には異邦人の祝福があります。ガイドのスティーブンス栄子先生は、「私は異邦人でよかった。」と繰り返して話されました。それは、イスラエルは、神の選びの民であるがゆえの苦難をたくさん受けてきましたし、今日も、反ユダヤ主義がはびこる世の中にあって、多くの苦しみを経験しています。そして、信じる私たちは、それと同じ、いや、それ以上の恵みを受けているのです。と、特に個人的に話をしてくれた時にそう語って下さいました。そして、それに付け加えて、私が、ユダヤ教の一つ一つに興味を持っていますと、「絶対にこれを真似しないでくださいネ。」と話されました。それには驚きました。なぜならば、私の知り合いの中には、メシアニック・ムーブメントという働きをしている方が多くいますが、その方々の中には、割礼を受ける人もいますし、また、ユダヤ教式に教会を運営しています。日曜日の礼拝をやめて、土曜日の安息日(シャバット)礼拝だけを行い、モーセ五書を中心に教会では学びます。それを見ていますと、何か違う宗教のように感じて、いい気持はしていませんでしたが、私も、ユダヤ教に少し接する中で、少し取り入れて見たいと思ったのは事実でした。しかし、ガイドさんは、その先を見越しておりました。感謝でした。イスラエルの歴史は、悲しい歴史でもあります。その歴史の中で、神は生きて働かれ、導いておられます。聖書にはその記録がつぶさに見られます。ですから、多くの悲しみを経験した国の人や民族は、聖書を理解しやすいと聞きます。お隣りの韓国は、イスラエルと少し似た歴史を辿って来ていますので、聖書の言葉が素直に入って行くようです。その反面日本は、島国であり、平和ボケするくらいの国でした。が、今は違って来ています。TVのニュースを見るだけでも、今後この国はどうなって行くんだろう?と心配になります。日本のリバイバル(たくさんの人が救われる現象)は、日本の国民が叫び声を上げる時に始まると思います。今年は、パワー・フォー・リビングという冊子がテレビで宣伝され、配られています。私たちの教会でも配り始めていますが、これは画期的なことです。今年は折りしも2007年です。3日前のVIPの祈祷会で、佐々木弁護士さんがこのことに触れていました。21世紀始まって以来の7年。7は完全数です。今年、何かが起こると確信し、また祈り、全力投球で働いて行きたいです。また、同じ祈祷会では、万代えいじ牧師がメッセージを語られ、今の時を生かして用いること、そして、福音のためには命を架けるという話を語られました。本当にそうだなーと感じ、再献身を祈りました。イスラエルのホロコーストの話からだいぶ反れましたが、このようなことを繰り返してはならないと思います。しかし、間もなく反キリストが出現すると言われていますが、それは、神抜きの平和を持って来ます。そして、多くの人がその人の後に付いて行くだろうと思います。しかし私たちは、いつでもイエス様だけを見上げ、イエス様だけを見て進んで行きたいものです。ホロコーストは、ある意味、キリストの名の元に行なわれました。そこに大義名分が掲げられていました。正義の名の元に、そのようなことをしでかしてしまう可能性はあるのです。いつでも私たちは、神に赦された者であることを感謝し、人と自分を比べず、劣等感や優越感、妬みとは関係ない、オンリー1の生き方をして行きたいと思いますね。だって、あなたと比べられる人はいないのです。あなたはあなたのままで素晴らしいですし、神様はあなたを、素晴らしい存在として造られたのです。そのことを感謝して、その受けた愛を持ってキリストを伝えて行きたいですね。今日は日曜日ですが、心から主イエス様を讃美し、礼拝をして行きましょう。よい一日でありますように。シャローム。
2007年02月11日
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教役者大会は、すでに42回目になりますが、今回参加して、その理由がわかりました。それは、一匹狼になりやすい牧師が、新たな出会いの場となり、励まし合い、支え合い、祈り合って行けるからです。私は、5人部屋での寝泊りになりましたので、夜眠れるかどうかがとても心配でした。というのは、以前、高砂教会の研修会において、2人づつの部屋に泊めて頂きましたが、眠れたり眠れなかったりでした。と言っても、睡眠不足は緊張と興奮のゆえに全く研修に影響はありませんでしたが、その後、大阪、そして、名古屋に移動して働きをしている中で倒れてしまいました。しかし、今回の教役者大会は、なぜかよく休むことが出来ました。これは本当に感謝でした。集会は、朝食後の9時からはじまり、午後の集会は、昼食後の1時からはじまり、夜の集会は、夕食後の7時からはじまりました。そして、空いた時間は、温泉に入ったり、また、たくさんの知り合いの先生方がいましたので、会う度に立ち話が始まり、部屋に戻っても部屋でも話が盛り上がりました。そして、就寝時間は、夜中1時過ぎ、2時過ぎでしたので、疲れ切って、あっという間に眠れてしまいました。これは新たな自信になりました。私は、よく宣教旅行に出かけますが、出先では、枕が変りますので、2~3日はなかなか眠れませんし、1週間くらい経たないとその場所に慣れません。要は、適用に時間がかかります。しかし、一旦適用してしまいますと、どこでもそこが自分の居場所のように寛ぐことが出来るようになりますが。しかし、実際には、2~4日くらいの宣教旅行が大半ですから、これから祈って、早く違う場所に適用できるようになりたいと思っています。また、大勢のタコ部屋みたいなところでも、すぐにぐっすり眠れるようになりたいです。そう言えば、以前、オンヌリ教会の敬拝と讃美の学校では、何と、教会の廊下にぎっしりとタコ部屋のような状態で、寝袋をひいて休みました。私は寝袋を持っていなかったので、隣りに寝ていたプサンから来られた兄が一緒に寝袋を広げて下さいました。その学びは、朝から晩まで、食事以外は、ひたすら讃美と祈りをささげ、メッセージを聞いていましたので、疲れ切っていたから、すぐにぐっすりと朝まで休むことが出来ました。ということは、一生懸命に働き、エネルギーを使い切ったらすぐに休むことが出来ると言えるのかも知れません。でも、そう単純なものではなく、興奮しすぎていたり、悩みがあったり、心配事がありますと、それも眠れないですけどね。ですから、そんな時は、よく祈って、心をすべて神様に注ぎ出して、委ねることですね。みなさんの中で、夜よく眠れる秘訣を心得ている人がいましたら、是非教えて下さいね。教役者大会は、最高に楽しく、よく寝、よく食べ、よく笑い、よく祈り、よく讃美し、神様の恵み一杯になって帰って来ました。また続きを書きます。よい一日でありますように、シャローム。
2007年02月10日
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イスラエルがイスラエルであり得た理由の一つは、彼らが安息日を忠実に守って来たということにあると思います。これは忠実に今でも守られています。しかし、何の仕事もしてはいけないということで、安息日には、エレベーターには乗りますが、エレベーターのボタンは押しません。ですから、ユダヤ人の安息日エレベーターは、各駅停車になっています。また、火を起こす事もしません。火が必要ならば、金曜日の日没前に日を起こしておきます。そんなことから、タバコに火を付けることは安息日律法を破ることになりますが、火の付いたタバコを吸うことはOKです。何か、その一つ一つを調べて行きますと、何となく「えー」と思うかと思いますが、要は、完全な安息をしようと、彼らは勤めています。その日は、家からほとんど出ないで、家族で過ごします。ですから、金曜日は、お昼過ぎくらいには早めに仕事を終えます。そして、足早に帰宅します。日本人も、この安息日を取ることが出来たらいいなーと感じます。ある人は、働き過ぎて疲れてストレスが溜まっています。またある人は、反対に仕事をあまりしない人がいます。聖書は、6日間働いて、1日に休むという一週間のサイクルを教えますが、医学的にも、これが一番いいのだそうです。一週間に7日間働きますと、二週間目には、安息日を取らなかった人よりも仕事の効率が落ちてしまうし、疲れやストレスが一杯になって、それを解消するのにたくさんの時間やお金を使うようになります。また、休んでばかりいて働かないと、暇を持て余して、悩みや愚痴が多くなり、不幸になるということが言われます。聖書は、私たち人間の取り扱い説明書であると、ある牧師先生が言われましたが、本当にそうだなーと思います。ですから、聖書に従って、安息日を恵みとして生き、神を愛し、互いに愛し合う生き方を目指して行きたいですね。その時、私たちは最高の人生を歩み出し、輝きはじめるのだと思います。私は、聖書通りに生きることが出来た時には、「いい人生だなー」と心の底から言えます。しかし、故意であっても、また、無意識であっても、聖書に反して行きますと、必ず何らかの問題が生じてきます。その時は、すぐに悔い改めますが、神様はまた、その幸福感を回復させて下さいます。聖書は、これを行なえば神が喜び、それを行なえないと神が怒るというような類のことではなく、行なえたら幸福な真っ直ぐな道を歩めますし、歩めないと痛い目に会い、不幸になってしまいます。ですから、聖書の言葉を愛し、主の言葉を行なって歩んで行きたいですね。よい一日でありますように。シャローム。
2007年02月09日
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カナの婚礼の教会に行った時に、二つ印象的だったことがあります。一つは、ガイドのスティーブンス栄子師が、「あの、水がぶどう酒に変わった奇跡は、物質が変化した奇跡というよりも、時間の奇跡なんですよ。」という言葉が心に残っています。水から変えられたぶどう酒は、婚礼に集った客に、最高のワインであると言わしめました。ワインが美味しくなるには、長い年月が必要です。少しの距離を移動する中で最高のぶどう酒に変わったのは、時間の奇跡だということです。主イエス様は、時間を超えて存在される方です。アルファであり、オメガなるお方です。そして、昨日も、今日も、いつまでも同じお方です。そういう話を聞きながら、帰り道には、カナの婚礼ワインというものが売っていました。店の人が飲ませてくれましたが、何と、安っぽいというか、ぶどうのアルコール水に砂糖が入っている感じでした。おそらく、聖地旅行に行かれたことのある人の中には、カナのワインをお土産に買われた方もいるかも知れませんが、がっかりしただろうと思います。帰り道のバスの中で、ガイドさんは、続けてワインの話をされました。ユダヤ人に取ってのワインは、生活と切っても切り離せないこと、小さいうちからワインを味あわせるそうです。しかし、アルコールは聖なるものとして認識されていますから、まずアル中になる人はいないようです。またワインは、血行を良くしたり、健康にとてもいいそうです。もちろん、適量でしょうけれど。そのような話を聞いて、ガリラヤ湖のホテルに着きますと、安息日の夕食でした。普段の日ですと、ワインは1500円~2000円くらいしますが、この日は、無料の聖別されたワインが振る舞われました。そのワインの話を聞いた後なので、普段アルコールを飲まれない先生方も、この日ばかりは口にしていました。ほろ酔いの中、部屋に戻りますと、シャワーを浴びたらあっという間に眠ることが出来ました。この文章を書いている今は、もうイスラエルから帰国してだいぶ経っていますが、今なお、その強烈な一つ一つの印象は心に焼き付いています。そう言えば、アルコールの話をもう一つしますと、使徒パウロは、テモテに対して、少量のぶどう酒を飲むことを奨めています。この御言葉を喜んだ酒飲みクリスチャンは多いと言われますが、アル中は困りますが、しかし、少量は健康に良いのだろうと感じます。私は、ほとんど全くお酒は飲みませんが、養命酒などを就寝前に飲むのもいいかなって思っています。お酒の話しばかりで申し訳ありませんが、今日も良い一日でありますように。
2007年02月08日
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イスラエルには、ユダヤ人が80%くらいを占めていますが、10%くらいはイスラム教徒です。国のどこにいても、1日に5回のお祈りの放送があります。朝の5時(6時だったような気も)、9時、昼12時、午後3時、夕方6時です。単純に、「アッラーは偉大なり。」というような内容のことを言っているそうですが、クリスチャンやユダヤ教徒の人にとっては気分がいいものではないようです。しかし、そこで宗教というものをまざまざと見せ付けてもらいました。そのお祈りの時間になりますと、イスラム教徒は、何をしていてもそれを中断してお祈りをします。そのことをするということにイスラム教徒のアイデンティティーがあるようです。そういう見方をしますと、ユダヤ教徒の人も同じです。律法の規定に従って、~をし、~をしないということです。イエス様は、これらの宗教を持って来られたのではなく、律法からの解放と自由を与え、神を愛し、人を愛する生き方を与えて下さいました。しかし、私は、宗教は好きではないと思っていましたが、特に、ユダヤ教にはとても強い関心を持ちました。私は、道端で物を売りに来る人から、キッパというユダヤ人のかぶる帽子を買いましたので、かぶりながら、ビアドロローサを歩こうとしましたが、ガイドさん曰く、「ユダヤ人は、他の異邦人から真似をされることがすごく嫌いですよ。」と聞かされましたので、その帽子は、嘆きの壁で祈る時にかぶろうと決めました。あと、自由時間があった時に、店のおじさんが私に聖歌隊のガウンのようなものを着せてくれて、頭にはショールをかぶらされ、そのショールを二重に巻かれた枝のようなものをはめられました。「そして、写真を取りなさい。」と言ってくれました。何と、その写真がよく似合うこと何のって。アラブの大富豪のように見えると言われました。でも、後で聞きますと、その衣装は、イスラム教の衣装だそうです。でも、いい経験をさせてもらいました。また、ギリシャ正教やロシア正教の教会に行きますと、偶像と言ってしまったら強すぎるかも知れませんが、すごい装飾には驚かされました。その光景は、日本のお寺や神社のように見えました。それは、カトリック教会が地味に思える程でした。遠くから見た宗教は、非常に興味深く見えましたが、きっと、その環境にいたら、確実に生活を縛るものでもあるだろうなーとも感じました。と言いながらも、とてもそういうのが好きになりましたし、興味津々ではありますね。イスラエルには、古代の遺跡もあれば、最新の技術もありますが、宗教が国の中心にあるように感じました。とても魅力のある国ですね。
2007年02月07日
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今回、イスラエルに行って心に残る出会いがいくつかありました。まずは、ヨルダン川の洗礼場で出合ったインドネシア人のクリスチャンです。しばしの時間、英語での会話を交わし、一緒に写真を取りましたが、添乗員さんが、「菅野先生、早くして下さい。」と言いますので、名残惜しみつつ、握手をしてお別れをしました。その時、「アルファでありオメガである」というあだ名を付けてもらいました。その理由は、ある時は、一番先頭にいるけれど、ある時は一番後ろにいるからということです。また、昨日お話しました、地中海沿いのレストランでは、私がたくさん食べるので、いだいな伝道者というあだ名も付けてもらいました。その場合の漢字は、偉大な伝道者ではなく、胃大な伝道者の方ですけどね。(笑)次の出会いは、バスの運転手のダラールさんです。彼はユダヤ人ですが、ガイドさんお気に入りの運転手さんだそうです。初日、夕食の時間に遅れそうだと言う時には、おそらく、片側一車線のイスラエルの一般道路を、時速100Kmは出して走っていたと思います。カーブに入りますと、カーブの途中で強いブレーキをかけるし、事故が起きないようにと祈ったくらいです。案の定、車酔いをして、夕食を食べられなかった先生もいました。しかし、翌日からはその運転手さんの良さがいかんなく発揮されました。飛ばしたのは、運転手さんの心配りだったようです。その運転技術や心配りには感服いたしました。乗り降りする度に、私が笑顔を向けますので、いつしか、向こうからも笑顔を向けてくれるようになり、空港での別れ際には、強くハグをしました。ダラールサンは、ヘブル語だけではなく、英語やアラム語等の言葉もしゃべれますので、私とも話せましたし、どこにいっても頼もしいおじさんでした。そして、言葉で思い出しましたが、帰りの飛行機の中で仲良くなった、ユダヤ人の親子(お父さんと娘さん)の頭の良さには感服しました。飛行機の中で、私に「日本語を教えて下さい。」と言いますので、少し教えますと、すぐにその構造を覚えてしまいました。ユダヤ人は頭がいいと聞いていましたが、これは天才だなと思いました。親しくなったしるしに、お互いの住所、電話番号、メールアドレス等を交換し、また必ず会いましょうという話もしましたし、その人の住んでいるベエル・シェバに泊まりに来て下さいという話までもしました。飛行機っていいですね。隣りに座った人は着陸まで逃げられないので、じっくり話すことが出来ます。約4時間、しゃべり続け、お互いに興奮した時間を過ごしました。そんな交流があったので、新約聖書を読んでもらうことも出来たのだと思います。神様の話、モーセやダビデの話しには、どこも矛盾がありませんでした。ただ、救い主の話になると、やはりお互いに妥協できない部分がありますので、話が交差しましたが、ユダヤ人に取って待ち望んでいる救い主と、私たちが待ち望んでいる再臨の主は同じお方です。とにかく、主によって、大きな愛で結び付けられたと感じます。ウズベキスタン空港で、お互いにハグをした時には、もう本当の家族のように感じていました。不思議な出会いでした。そして、何と言っても、一緒に同行した仲間との出会いが忘れられません。VIPアルパインローズビレッジの早川夫妻、大阪の独身の女性伝道師、インドネシアの宣教師の恵みさん、浜松の牧師の安ちゃん、そして、バスでは終始隣りに座った永井基呼師、ガイドのスティーブンス栄子師、添乗員の瀬尾さん、木下さん・・・、名前を上げたら切りがありませんが、全員と本当に親しくさせてもらいました。本当に感謝でした。この出会いは、偶然ではありません。最後の晩餐の席では、イスラエルの観光大臣がスピーチの中で、「約束の地であるイスラエルには、選ばれた人だけが来ることが出来ます。みなさんようこそお越しくださいました。」と言って下さいましたが、本当にそうだなーと感じました。本当に祝福されたイスラエルの聖地旅行でした。またお会いしましょう。シャローム。
2007年02月06日
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イスラエル旅行記は、7回目か8回目で終わる予定でしたが、もうしばらく続けてみようかな?と思っています。イスラエルに着いた当日、バスはテルアビブ空港からカイザリヤに向かいました。はじめてのイスラエルは、見るもの全てが新鮮でした。ですから、外の景色、走るトラック等々の写真を取り回りました。カイザリヤで印象的だったものは、ローマ時代の円形劇場でした。そのステージで発する声は、地を這うようにして、すべての観客席に到着するようでした。しばらくしたら、インドネシアのクリスチャンの一行が来て、そこで讃美を歌い始めました。それは天国の響きのように聞こえました。また次に、昼食を食べに行きました。そこで食べた昼食の光景が忘れられません。その場所は、地中海を見ながら食事が出来る最高にいい気持になれるレストランでした。まず、そこに到着したら、3つの選択が出来ました。一つは屋内で食べること、二つは日向の屋外で食べること、三つは日陰の屋外で食べることです。全体で33人くらいいましたが、私たちは10人くらいに分かれて、日陰の野外で食べることになりました。しかし、私を含む半数の人は、コートを着てきましたので寒くはありませんでしたが、もう半数の人はトレーナー等の薄着でしたので、数分歩いてバスまで取りに行きました。そうであるならば、後で考えたら、日向の場所で食事をして置けば良かったと思いました。なぜならば、暖かくて、また、心地よい気候だったからです。その後、道端にバスは止まりました。そこには、いばらが生えていました。それが指にちょっと触っただけで痛かったですが、イエス様は、そのいばらの冠をかぶされたことを考えたら言葉にもなりませんでした。その天然のいばらは、ガイドさんの奨めもあり、小さなダンボールに入れて持ち帰って来ました。見たい人がいたら、教会までいらして下さればお見せすることは出来ますよ。その後、カルメル山まで行きました。そうすると、帰還したユダヤ人夫妻のバイオリン演奏に迎えられました。ガイドさんによれば、このお二人は、ここで演奏をして、寄付を頂くほかに仕事がないということです。「気持のある方は、献金して上げて下さい。」と言うことでした。カルメル山に登りますと、全イスラエルが一望できました。そこでは、聖書に出て来る地域の説明がありました。また、興味深い話としては、イスラエルが一般的にパレスチナに侵略したと思われがちですが、その昔、この地域が売りに出された時に、ユダヤ人がその話に飛びつきますと、高いお金を吹っかけてきたそうですが、無理してでもそれを買ったと言うことでした。ユダヤ人は、国を失ってから、色々な国に離さんして行きましたが、ずっと貧しい生活をして来たそうです。しかし、16世紀くらいから、ユダヤ人の経済が祝福されて来たそうです。それ加えて、「神様がイスラエルの地を買うために必要な資金を準備して下さったのでしょう。」と説明がありました。神様は、アブラハムに「イサクをささげない。」と言われた時に、アブラハムがまさにその通りにしようとした瞬間に、ストップされ、代わりに子羊を備えられました。また、父なる神が一人子イエス様を十字架にささげられたのも、まさに同じ場所であったという説明もありましたが、神様は、私たちにすべての必要を満たして下さるお方であると改めて信頼して行きたいと思います。それから、見る見るうちに暗くなり、真っ直ぐにガリラヤ湖に向かいました。その後のことはすでにお話ししていますので、第九回目はこの辺で失礼したいと思います。シャローム。
2007年02月05日
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テルアビブのベングリオン空港に到着し、厳しいと言われた荷物チェックを受けますが、案の定、「全部を見せて下さい」と言われましたが、実は、とても充実した時間となりました。なぜならば、唯一、ユダヤ人と自由に話すことが出来たからです。その他は、ガイドさんや添乗員さんがすべて話して下さって、楽ではありましたが、その点、不満を感じていました。もっと自由に時間を過ごしたかったという気持ちもありますが、もっと自由に、この国の人と会話がしたかったというのが心の中に残っていました。しかし、主は、その願いに答えて下さり、飛行機に乗った席の横には、たまたまユダヤ人の親子が座っていました。飛行機が離陸するまでの数十分は、国際弁護士の佐々木さんから紹介された、一緒にラジオに出ている早川さんと話が盛り上がりましたが、離陸と同時に、意を決して、隣りに座っているユダヤ人と話をはじめました。その二人は、ベエルシェバに住む30歳の女性と65歳くらいのお父さんでしたが、約5時間、ひたすらお互いに母国語ではない英語で話をしました。まずは、話が少し盛り上がったところで、住所と電話番号とメールアドレスを教えてくれました。それだけ心が通じ合ったからだと思います。色々な話題を話しました。お互いの家族のこと、住んでいる場所の環境、職業等々、そして、イスラエルの国歌をはじめ、ツアー中に覚えたヘブル語の讃美を3人で一緒に歌いました。その声は、10席前までもきれいに届いていたそうです。飛行機は、ご存知の通り、ジェットエンジンの轟音が聞こえています。おまけに、あまり知らないウズベキスタン航空という会社の飛行機です。しかし、その歌声はとても素晴らしかったと後で話してくれた先生がいました。そして、聖書を一緒に読みました。マタイの福音書を開きました。この書は、ユダヤ人に向けて書かれていますから、彼らが重要とする系図から始まります。そして、・・・Jesus Christ, the Son of David, the Son of Abraham.と書かれているところを読んでもらいました。ユダヤ人は、実は、新約聖書を全く知らないし、全く読んだことがありません。生まれてはじめての経験ですが、すぐに否定しました。「イエスは、ダビデの子ではない! マリヤの子だ!」と言いました。そこでこの話題は終わりましたが、クリスチャンは再臨の救い主を待っていますし、ユダヤ人は初臨の救い主を待っていますが、同じ天地創造の神を信じ、実は、違うと思っているだけで、同じメシヤ(救い主)を待っているんだなーと思いました。別れ際には、ユダヤ人のお父さんと娘さんと握手とハグをして別れましたが、「是非、イスラエルに来たら、私たちの家に泊まって下さい。」そして、「必ず日本に行くから、行った時にはあなたに会いたい。」と言ってくれて、感動の別れをしました。その後、同じ空港の中でもう一度あったので、最後に、イスラエルのシェケルと日本円を交換して、お互いの記念品としました。神様は、何とも素敵な出会いを与えて下さいました。今回、教役者大会に参加して、同じツアーに参加したたくさんの先生方と再会出来ましたし、また、あの時の感動を思い出しました。ガイドのスティーブンス栄子先生は、イスラエルに着いた私たちに、「おかえりなさい」と言ってくれましたが、最後は、ハグをして、「また近いうちに必ず戻って来ます」と言って別れましたが、不思議なくらいにイスラエルという国は、懐かしいという言葉も似合わないほどに、自分のいる場所であるように感じますし、ホッとする場所でした。またイスラエルに行く日迄、この旅行で味わった経験を心に秘めながら毎日を過ごしたいと思っています。シャローム。また会う日迄。
2007年02月04日
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3泊4日で教役者大会に参加して来ました。場所は、浜名湖の湖畔にあるエンパイヤホテルでした。非常に有意義な時を過ごすことが出来ました。その中には、インターネット上だけでの知り合いだった方々とのオフ会もありましたが、何と言っても、集会が素晴らしいものでした。主講師は、ジョン・アーノット師ご夫妻です。それは、トロントブレッシングの中心的な働き人で、ここ何年の間に数百万人の人が教会を訪問されたようです。その教会では、手を置いてお祈りすると倒れたり、笑ったり、時に吼えたりする人がいますので、すごい賛否両論のある働きではありますが、その現象ではなく、そのことによって人が救われ、変えられ、いやされているという現実があります。また語られた説教は、親を赦すことや愛について、恵みによる救い、信じる者の権威等で、とてもノーマルなものです。しかし、多くの人の病のいやしや心の傷のいやし、解放等のことも起こりました。神様は、本当に愛の方だと感じました。ですから、ますます神様だけを信頼し、主に仕えて行きたいと心を新たにしました。共に、素晴らしい神様に仕えて参りましょう。みなさんに取ってよい一日でありますように。
2007年02月03日
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