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「注文が切れている間にサンプルを作っておこう作戦」その6、今回は「シェットランド・シープドッグ」。 お散歩のときよく会う子です。初めて会った5年前は、良く吠える子でしたが、飼い主さんの努力で最近は全く吠えません。すれ違ったあと、「よーしよーし吠えなかったね偉いね」と褒めていました。わんこは褒めて育てるべし。 これで6頭。ずいぶんにぎやかになってきました。
2017年07月28日
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「注文が切れている間にサンプルを作っておこう作戦」その5、今回は「ビーグル」。 ピノちゃんの散歩のとき、ときどき会うビーグルがいて、いつもかわいいなあと思っていたので作ってみました。 これで5体になりました。前に作った分も少しずつ刺したして変わっています。わかるかなぁ。 ビーグルを検索していたら、「世界一有名なビーグル犬」というフレーズが出てきました。答えは「スヌーピー」。スヌーピーはビーグルだったんですね。でもビーグルのイメージじゃないなあと思っていたら、こんな画像が。 六本木の「スヌーピーミュージアム」の看板のようですが、たぶんこれが初期のスヌーピー。これならビーグルに見えなくもない。っていうか、最初は四つ足だったんだ。
2017年07月23日
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聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が、18日に永眠なさいました。数カ月前まで医師として診療を続けておられ、名実ともに日本の医療界をけん引してきました。享年105歳。ご本人は、とりあえず110歳までのスケジュールを組んでいたそうなのですが、人生をやり遂げた未練なき大往生であったと思います。日野原先生に関しては、以前取り上げさせていただきました。日野原先生 僕の尊敬するメンターの一人でした。 今回は、代表する著書でもある『生き方上手』を振り返りながら、駄歌凡歌を詠みたいと思います。いつものように青字が引用です。 『生き方上手』 きりのない願望が、あなたをしあわせから遠ざけます。「希望」はあまり多くを望みません。いわゆる身のほどを知ったうえで望むのが希望というものですから、希望はほどほどのところで満足することを知っています。今あるもの、あることに感謝し、「その半分でも満足です」と答える控えめさをもっています。それでいて、どんなに小さな希望も、十分に幸せを与えてくれます。同じ「望む」というものでも、ないものを無理にでも手に入れよとする「願望」とは大違いです。病や事故、災難に見舞われても、あるいは人と比べて能力や財力が劣っていても、自分に与えられた現実を受け入れることができたなら、それはなかば希望を手に入れたようなものです。身のほどを知ることは、希望を手にする第一歩なのです。 漆黒の 闇の世界も 足元を ほのかに灯せ 希望のあかり 健康とは、数値に安心することではなく、自分が「健康だ」と感じることです。健康を維持するのは、めいめいの努めです。健康診断を活用するのも結構です。からだの状態を客観的に把握できますし、自覚症状のない病気を早期に発見できるかもしれません。けれど、検査データに一喜一憂する必要はありません。もっと大雑把でいい、アバウトでいいのです。きのうのあなたと今日のあなたがちがうように、健康もあなたとともに姿を変えます。環境の変化を読む熟練した舵取りは、医師ではなく、あなたのことを一番よくしっているあなたが摂るべきだということを忘れないでください。老化によるからだの衰えや、不幸にして治る見込みのない病に見舞われても、私たちは、「欠陥があるにもかかわらず健やかである」という生きかたをもとめていくべきだとおもいます。 一生の つきあいとなる この身体 内なるちからを 信じてさする 老いとは衰弱ではなく、成熟することです。75歳をすぎてもなお多くの人が健康でいられるのは、若いときに粗食を余儀なくされたおかげであり、なおかつ豊かな時代になってからも飽食に走らなかったからです。結果として、いわゆる生活習慣病と総称される、高血圧、脳卒中、心臓病、糖尿病、肝臓病、肺がんなどを回避できたのです。健康な長寿は、若い日からの積み重ね。好きなものを好きなだけ食べているいまの若い人たちに、私たちと同じような、健康な長寿は望めません。現代医療の力を借りても、寝たきりの長寿が関の山です。粗食こそが健康の基本。新老人は、その生きた証であり、新老人の長年のライフスタイルは、若い世代のモデルになりえます。 歯止めなき 欲にのまれて 見失う 甘い習慣 命を削る 年齢は勝ち負けではありません。謙虚に、そして存分に味わえばよいのです。年齢に臆して引き下がるような生きかたを、私はしたくありません。私たちのなかに隠された無限の才能は、毎日、引き出されるチャンスを待っています。そのチャンスに気づかず、行きちがってばかりいる人生で終わりたくはありません。自分を信じて挑んだ結果が失敗に終わることもあるでしょう。それでも、チャンスに賭けた勇気ある行動には、大きな意味があります。決してむだでもなければ、後退でもありません。精一杯生きた足跡は、意義深い「過去」となります。「過去」は過ぎて失くなるわけではなく、「過去」として続けるものだということを忘れないでください。一瞬が連なって一日となり、一年となり、一生となるのです。昨日と同じように過ごした今日であっても、きのうはきのうの一度きり、今日も一度きりの今日なのです。これほどかけがえのない今日を、失敗を恐れて無為に過ごすのは、あまりにもったいないではありませんか。 一瞬を あなどる者の 危うさよ 今が大切 今に感謝 人はいくつになっても生き方を変えることができます。人生は一言で言えば習慣です。習慣に早くから配慮した者は、おそらく人生の実りも大きく、習慣をあなどった者の人生はむなしいものに終わってしまいます。習慣は日々の積み重ねですから、それが習い性になってしまえば、その後はつらいとも面倒だとも感じなくなります。よい習慣をからだに覚え込ませればよいのです。鳥は生まれついた飛びかたを変えることはできません。動物は這いかた変えることはできません走りかたをかえることはできません。けれど人間は生きかたをかえることができます。それは、人間だけがいのちに終末があることを初めから知っているからです。かぎりあるいのちをどう生きようか、と生きかたを考えることができるのは人間だけに許された特権なのです。 太陽と ともに目覚めて ともに眠る 無理はしないが けじめはつける 失うことを恐れるより、与えることで喜びは生まれます。見返りを期待せずに与えるという行為は、かつては身近にいくらでもありました。日本人がいまより謙虚であったころ、つまり人間のひよわさを自覚していたころには、ごく自然に肩を寄せ合い、助け合っていました。国が豊かになるにつれ自らの力を過信し始め、サービスはもっぱら金で買うというようになってから、社会は少しおかしくなってしまったようです。与えることで失うのではなく、心は以前にも増して満たされます。ごちそうなら食べ過ぎれば胃もたれを招き、ふくらみすぎた財産は不安を生みますが、心は満たされれば、どこまでもすがすがしく爽やかで、生きていることの喜びを実感できます。 与えれば 与えるほどに 富む心 生きる喜び 人あればこそ ほのぼのとした善意だけでは、ボランティアはつとまりません。他人のために役に立てたということは、つまり自分という存在が生かされたということであり、生きている実感をこれほど強く感じられる瞬間はありません。人生の後半は、自分に与えられた知恵やセンスや体力を、今度は社会にお返ししていく段階です。その自分を生かす場は、自分で探し求めるのです。私にはいつもこんなイメージが目に浮かびます。地獄の入り口で天秤を手にしてエンマさまが問うのです。「自分の寿命を、自分のためだけでなく、他人のために使ったか」と。もし、天秤棒が”自分のため”の重さのせいで垂直に跳ね上がったりしたら、エンマさまはひと言、「極楽は無理だね」と言うに決まっています。人生のぎりぎりまで考え、感じ、働ける人間でありたい。そのための努力を惜しまず、ときに耐えて、授かった知恵を若い人に与えたい。それが私の生きがいであり、私という存在に意味を与えてくれるものです。 審判を 受ける地獄の 入り口で 悔いなき人生 信じ来た道 ミスをおかしてミスに学ぶ。だから成長できるのです。どんなに最新の医療機器、医療設備を用いようが、医療も所詮「人が人になす行為」なのです。だからこそ、そこには相手を思いやる「心」があってしかるべきですし、また反面、「絶対」や「完全」はありえない。つまり、病気を治せないこともあるし、医療上のミスも起きるものなのです。私たちはどんなに努力し、注意をしても、完璧ではありえません。それは求めても詮ないこと。むしろ謙虚に、おごらず、まずわが身を含めて、人間のいたらなさ、弱さ、不完全さを、つねに自覚することからはじめなければなりません。私たちは、この先に起こりうるすべてのミスや突発的な事故を予測することはできないのですから、おかしたミスに謙虚に学ぶよりほかありません。実は、それが最短にして最良の道なのです。医療ミスはゼロにはできませんが、減らすことなら私たちにもできます。 失敗は 学びがあって 役に立つ 教えいただき のぼる階段 よいかかりつけ医との出会いを偶然にまかせてはいけません。長いつきあいになるかかりつけ医は、あなたと相性がよいことが何より。見立てがいい、腕がいいという周囲の評判に頼るより、実際に医者にかかってみて、あなたの勘を働かせるほうが確かです。相性のよしあしは人それぞれですが、患者の話をよく聞く医師を選びたいものです。よい医師は、その対話から診断に有効な手がかりをつかむことに長けています。あなたが医師の前で緊張して、からだの状態をうまく説明できないときにも、「まあ、ゆっくり思いだしてごらんなさい」と声をかけてくれるような医師なら、おおいに信頼がおけます。「大丈夫、よくなりますよ」と、医師があなたの肩に手を置いてくれたら、あなたの心は晴れるでしょう。あなたに備わっている回復力もからだ中に湧いてきます。治りのよさも断然違います。そんなさりげない行為も、医師の技の一つだと私は思っています。 藪医者に 命を委ねる せつなさよ 巡りあわせで 運が尽きるか 多くの人の期待に反して、医師が治せる病気というのは、実はそう多くありません。この先どんなに医学が進歩しようとも、「治せる病」はひと握りにすぎないでしょう。「現代医学をもってすればどんな病からも救われる」という錯覚に、医師も患者もとらわれ過ぎているように私には思えます。患者さんに検査や注射、手術という苦痛を与えておきながら、「病気を治すためだから、苦しくとも辛抱しなさい」と我慢を強いてよいものでしょうか。完全に治せる病のほうが少ないばかりか、人間はいずれ死ぬのです。そうであるなら、許された年限をできるだけ快適に、苦しみが少なく、不安にさなまれずに生きていくことのほうがはるかに問われてしかるべきです。 神の手に 命あずけて 声を待つ 今日を良き日に 死ぬも生きるも 尊敬する先人が、次々とこの世を去っていきます。自分も歳を重ね、いつのまにかお迎えを待つ列に並んでいます。何かを残すということに固執するのは良くないでしょうが、考えたこと、思ったこと、解かったことを言葉に託すことは、生まれてきた値打ちでしょう。人生は”自分を知ること”。教えてくれた師に感謝。
2017年07月21日
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「注文が切れている間にサンプルを作っておこう作戦」その4、今回は「マルチーズ」。 今回は、お座りポーズにしました。 マルチーズのご依頼も今年ありました。2017年の作品 10.マルチーズ・まるちゃん です。 ご依頼主様にはとっても喜んでいただきました。顔の画像だけだったので不安だったのですが、そっくりだと言っていただけました。 それでは4体揃えてのショット。
2017年07月21日
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昨今の暑さのせいか、イライラすることが多く、職場で嫌いな奴と一緒になると、その態度・行動にふつふつと”怒り”が湧き上がり、その挙句、身体に不調が生じたりします。いかんいかんと思いながらも、「こいつ、いなくなんねえかな」と願っている自分がいます。まあ人間だから、感情がコントロールできなくなることがあっても仕方がない。ただ、我慢のダムが決壊し、怒り爆発、奴をぶっ飛ばすのではないかと、自分なりに恐れていたりします。惨事を未然に防ぐためにも、心の修業の必要性を感じました。僕のメンターのひとりであるアルボムッレ・スマナサーラ師の著書で、怒りについての学びをしようと思います。師のことは何回かこのブログに載せさせていただいています。 『一生、仕事で悩まないためのブッダの教え』 その1 アルボムッレ・スマナサーラ『一生、仕事で悩まないためのブッダの教え』 その2 アルボムッレ・スマナサーラ 人はなぜ怒るのか・・・再考 アルボムッレ・スマナサーラ そのつど貴重な教えを戴きつつも、あいかわらず同じ苦悩に落ち込んでいる自分は恥ずかしい限りですが、人間は一生修行です、今日も教えを戴きましょう。『怒らないこと』は何度も読み返しています。付箋がぎっしり貼られています。読むたびに新しい気付きがあり、その都度増えていってしまいました。読んですぐ身になれば苦労はありませんが、読書百遍、何度でも勉強しましょう。全部を写すことはできないので、途中までになってしまうと思いますが、”心の毒”が消えてくれるのを信じて、文字制限いっぱいまで写したいと思います。注・〔 〕内は僕の覚書です。 『怒らないこと』アルボムッレ・スマナサーラ 「怒るのは当たり前だ」「怒って何が悪い?」「怒らないなんて腰抜けだ」。こうした言葉を、我々は日頃よく耳にします。実際、怒っている人の数を数えたら、枚挙に暇がありません。皆さんのまわりにもいるでしょう?すごく悪い言葉をしゃべったり、悪態をついたりする人が。最近は「怒るのは堂々とした態度だ」という風潮もあります。けれど「怒り」などという言葉は、本来、気軽に口にできる代物ではありません。「私は怒りました」などというのは、「私はバカです」と触れ回るようなものですからね。「怒り」の本当の意味を知っていたら、おいそれとは口にできません。 〔最近、連日のように夫の秘密や悪口を”YouTube”に上げて、ワイドショーを振り回している芸能人がいますが、確かに「地獄の業火」に焼かれているように見える。〕 わたしはよく「怒りたくないのに怒ってしまうのです」といった相談をうけるのです。答えは明白です。簡単で、完全な方法をお教えします。それは「怒らないこと」です。本当は、ただそれだけのことなのです。怒らなければいいのです。 皆さんは実のところ、「私は怒りたい放題、思う存分、勝手に怒ります。でも怒ってはいけないから、何かいい方法を教えてください」と思っているのです。誰も彼もが、怒りたくて怒りたくて仕方がない。けれど心のどこかで「怒らない方がいいのでは」と思ったりもしている。自分の気持ちにこうした矛盾があるのですが、そのことに気づいていない。それで「私は怒りたくない」などとうそをつく羽目になるのです。 〔人は感情に左右される動物。感情をコントロールするには、訓練が必要。〕 ヒンドゥー教では「ブラフマンは創造する。それからシヴァという神は破壊する」と。きちんとふたつに分けて考えています。人間の感情や行動などすべてには神が宿っている、とヒンドゥー教では信じられていますから、そういうふうに神の世界もふたつに分けて考えるのです。キリスト教などでは、愛情を人格化して「神」というし、憎しみや嫉妬や怒りを人格化して「悪魔」といいます。そうすると、人間は「やっぱり神様を拝まなくては」「悪魔と戦わなくては」というふうに、何かを頭の中で想像して、イメージをつくって行動します。それで「神はいるか、いないか」「悪魔はいるか、いないか」といろいろなことを考えたり哲学したりして、時間を浪費しているのです。 〔中東で戦争をしているイスラムも、二元論で考える。二元論で、お互いにお互いの正義を振りかざしすと、出口のない争いに陥る。〕 怒らないほうがよいとわかっているのに、我々はなぜ怒るのでしょう。いつでも、我々には「こういうことで怒ったのです」という理由があります。その理由をひとつひとつ分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあります。人間というのはいつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。それで怒るのです。「相手が正しい」と思ってら、怒ることはありません。それを考えておいてください。「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから怒るのです。 〔参照・ Nobody is Right 正しいものなどいない〕 けれど私たちの心にある「私は正しい」という思考は間違いです。それを「私が正しいはずはないのだ」と訂正することです。「私は完全だ」「私は正しい」というとんでもない考え方は、一刻も早く捨てた方が良いのです。ちょっと考えてみてください。人間が完全であるはずがないでしょう。ですから、「自分が正しいという考え方は、非合理的で、非真実で、嘘で、あり得ないことだ。このあり得ないことを頭で徹底的に信じている自分ほどの大バカ者は、世の中にいない」とはっきり理解したら、もう怒らなくなってしまうのです。「私は正しいとは言えない。私は不完全だ。間違いだらけだ」ということが心に入ってしまうと、もうその人は二度と怒りません。 〔ちっぽけな自分とちっぽけな相手の、どちらが正しくてどちらが間違っているかなんて、蟻の突っつき合い程度のもの。〕 普通、母親というのは、「あなたは、なんかいいったらわかるのですか」と怒りますね。何かについて「あれをやりなさい」「これをやってはいけない」などと繰り返して言います。それでも子供は聞いてくれません。何回言ってもわからないこともあるでしょうが、もしかするとそれは自分が言っている言葉が正しくないかもしれません。じつは「言葉は正しくないかもしれません」ではなくて、「言葉は正しくない」のです。言葉は不完全ですから、完全に正しいということはあり得ません。その言葉を、不完全な我々が精一杯話したところで、これ待て不完全な相手にうまく伝わる保証などどこにもないのです。 〔他人というものは、びっくりするほど、自分と違うことを考えている。こちらが伝えようとしていることと、向こうが受け取ろうとしていることは、必ずしも同一ではない。〕 怒りの原因となる妄想概念を作り出すものは何でしょうか?それは「我=エゴ」です。エゴがなければ、怒りはそもそも成り立ちません。エゴは「私」「俺」という固定観念のことです。人間は自分のことを「これ」と指差せる確固たる存在だと思っていて、疑いません。この我々がしがみついている固定観念がすなわちエゴです。エゴから生じる「私はこれをやるべきだ」「私は偉いのだ」「私を認めてくれなくちゃいけない」などというくだらない思考は、幸福の大きな妨害になります。 〔正義という名の”我執”に振り回され、人生の大切な時間は浪費される。〕 もちろん怒った瞬間に手が強烈に痛くなったり、足が痛くて動かなくなったり、お腹が強烈に痛くて死にそうになったり、ということがあれば、誰も怒らないでしょう、怒りには、そういうシグナルがないからこそ、恐ろしいものなのです。たとえば脳細胞ですが、とくにいろいろなホルモンを出している場所には、見えないほど小さな器官がたくさんあります。小さすぎてすぐには感じませんが、怒りは自分の内臓とホルモン関係のすべての器官を燃やしてしまうのです。 〔怒りはドーパミンによって引き起こされる。しかし、ドーパミンは瞬間的な危機回避のために発生するもの。すぐにセロトニンで感情を収める必要がある。怒りを長引かせると脳は疲労し、脱力感に襲われ、ついには”うつ”を引き起こす。〕 まず、「怒るのはバカのすることだ」と自分によく言い聞かせてください。「怒るのは徹底的に無知な人だ」と頭に叩き込んでください。怒っている自分を感じたら、「私は合理的ではない完全なバカで、何も理解できない無知な人間だから怒っているんだ」と真剣に自分に言わなくてはいけません。子供が何か悪いことをしても、なぜそうなったのかきちんと把握していて、どう言えば改まるかという道筋が頭の中にできている時は、あまり怒らないものです。がっかりもしないし、怒りもしないし、おちついていられます。ということは「智慧が働いている時は怒らない」ということです。 〔”怒り”は感情。”理性”が勝れば”感情は抑えられる。〕 怒りとは自分の中から生まれるものですから、解決方法は、「毒そのもの」を抜くことしかありません。ヴィパッサナー瞑想法(お釈迦さまが教えた、悟りに至る瞑想法)でいう、「今の瞬間の自分に気づくこと」です。それが世の中で一番科学的な、怒りの毒を抜く方法なのです。ですから、怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐ自分を観てください。怒りそのものを観察し、勉強してみてください。「今この瞬間、私は気持ちが悪い。これは怒りの感情だ。ということは今、私は怒っているんだと、外に向いている自分の目を、すぐうちに向けてください。 〔客観的に自分を観る目=神の目。感情に振り回されない、冷静な結論を導き出せす目。〕 怒りが消えると、すごく気持ちがいいですよ。たとえば頭が痛いときに鎮痛剤を飲めば、痛みは消えて、霧が晴れたように気持ちよくなるでしょう?それと同じで、怒りが消えたら、すごく気持ちがよくなるし、元気になれるのです。すぐに幸福を感じられるでしょう。そこまで行くと自分にも自信がついてきて、「あっ、怒りが消えちゃった。我ながら自己コントロールがうまいものだ」と自分をほめてあげることができます。そうなればいつでも怒りの感情に悩まされることなく、穏やかに人の話を聞いていられるのです。 〔”怒る”ことは、幸せを捨てること。〕 人生というのは、何かをやって少しでも成功すると楽しいものです。ですから我々は日々、「どうしたら成功するのだろう?」と計画して生きればよいのです。計画の長さは、10分ぐらいで充分です。「10年あとで成功するぞ」と思って何か計画を立てると、それは苦しいのです。そうではなく、「この10分で、自分がやらなくてはいけないことをやり遂げるんだ」「この10分でやることは、精いっぱいやって成功するんだ」というくらいがちょうどいいのです。そうすれば、成功するたびに喜びや幸福感を覚えられるのです。そうして小さな計画のユニットをつなげて、自分の人生にするのです。 〔手の届く目標を達成するのが、幸せを得る賢い方法。〕 ”怒り”は、相手に問題があるのではなく、怒っている自分に問題があるのです。問題は冷静に解決すればいいので、怒りは手段になりません。「幸せのひろいかた」としては、怒りは無用です。この言葉を、心に刻んでおこう。 ”怒り”は幸せの天敵。受け入れて、感謝の心、怒らない
2017年07月19日
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「注文が切れている間にサンプルを作っておこう作戦」その3、今回は「ミニチュアシュナウザー」 「ミニチュアシュナウザー」といえば、思い出すのはこのTVドラマ。 『マルモのおきて』は2011年ですから、もう6年前。あの時6歳だった愛菜ちゃん福君も今はもう中学生です。 ミニチュアシュナウザーを作ろうと思った時”ムック”を考えたのですが、全貌がよくわからない。似たようなモデルはいないか画像を調べたのですが、ミニチュアシュナウザーは色・形・毛質も様々で定番がないようです。それでもこんなのが一般的かなあとイメージして作りました。 ミニチュアシュナウザーの以前の注文品はこちら。 後ろに映っているのがご依頼の子です。結構イメージに合ってますね。 それでは今までの3体を並べたショットを。 後ろ姿も。
2017年07月19日
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「注文が切れている間にサンプルを作っておこう作戦」その2、今回は”チワワです。 注文品は似せなくてはならないので、そちらの方で時間がかかります。特に参考にする画像もないまま作りました。色も薄い色からだんだんメリハリをつけていったら結構茶色っぽくなってしまいました。チワワはいろんな色の子がいますから、きっと似てる子もいますよ。前回のミニチュアダックスとのツーショット。少し、手が加わってますが、解かるでしょうか。 まだ刺し足りない部分もあってので、少しずつ加えていこうと思います。チワワは以前ご注文を戴いたことがありました。 「カイ君」です。 一生懸命似せようと長い時間見つめていると、愛着が湧くものです。しかも、すぐには渡せず、ずーと近くに置いていた作品なのでひとしおでした。 皆さんお元気ですか~。暑中お見舞い申し上げす。
2017年07月16日
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注文が途絶え、作品を作ったのが先月の23日「おさるのジョージ」が最後。半月も作っていません。これではいけないと、一念発起。いくつかサンプルも用意しておこうと、いろんな犬種を作ってみようと思い立ちました。もともと注文がなかった頃は、当たり前に自己コレクションで楽しんでいたものです。それが、ご注文を戴くようになってから、お客様のご依頼にどうこたえるかに楽しみが変わってしまい、目的のない制作に気もちが乗らなくなっていました。人間の行動には”モチベーション”が必要で、”目標”は継続に欠かせません。初心にかえって作品集を揃えたいと思います。とりあえず、犬種10体を目指して今日から頑張ってみます。第一号は、”ミニチュアダックス”。何回か作っているので、特にモデルもなく1日で完成。サイズは10センチです(尻尾除く)。うん、やっぱりやり終えると気持ちがよい。ミニチュアダックスの過去作品はこちら。 2016年6月制作「イチローくん」 2016年6月作品「ルルちゃん」2016年8月「カイくん」のお友達 その都度タッチが違いますね。手法の変化と、熟練度と言いますか。日々研鑽努力の変化です。ただし”植毛”が上等とは考えていません。 その作品の目的に合った手法を選択するのがいいと思っています。
2017年07月11日
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本日は「東京都議選」ではありますが、今日は原発の話題です。福島原発事故に対する検察審査会の”強制起訴裁判”が開始されました。「検察審査会」については、過去に否定的な意見(陸山会事件の時)も書いたことがありましたが、今回は良い決断をしてくれたと思います。裁判は始まったばかりで(しかも地裁)結論は遠い先になるでしょうが、国民の思いが正しく反映された結果だと考えます。事故発生から6年半を過ぎてまだ6万人以上の方が避難所生活を強いられています(ピーク時は16万人以上)。農業、畜産、漁業、林業・・・生業を奪われ、復活の見通しもままならぬ状況が続いています。事故以降、福島では急性心筋梗塞が急増、他の重篤な病気と共に全国で最悪な健康被害を発生しています。http://blog.takarajima.tkj.jp/archives/1921954.html放射線による被害は時間経過とともに現れるので、これから被ばくによる癌などの発病が増えることが予想できます。あってほしくはなくとも、チェルノブイリの例を見れば間違いなく迎える新たな危機です。隠してはいますが、福島原発処理の作業員の死亡もかなりの数が上がっているとう情報もあります。かといって誰かに作業をお願いしなければならないので、解決案のないまま批判する現状にはジレンマを覚えます。 あれだけの事故を起こし、検証結果として”人災”と認定されたにもかかわらず、誰一人責任を問われることもない。しかも告発されたこの人たちは多額の役員報酬を受け取っている。こんな現状は、やはりおかしい。誰かをいけにえにして留飲を下げようというのではありません。事故をちゃんと検証し、処罰すべきは厳正に処罰せねば、これが許されるという認識のもとまた同じことが繰り返されるからです。多くの国民の反対の声に耳を貸さず、原発は次々に再稼働されています。福島原発事故が、”想定外の天災で防ぎようのなかったものだ”とするならば、他の原発にも”想定外の防ぎようのない天災による事故が起きる”ということになります。防ぎようのないものがあるのなら、その被害がけた違いに大きいものになるのなら、そんな”危険な賭け”はやめるべきです。逆に、もし福島原発だけの特有な人為的事情だったというのなら、まだ言い分としては成り立つ。再稼働している原発には、「利益重視で安全を軽視する経営陣はいません」と宣言すればよい。作業員は皆完璧で、どんなちいさなミスもしませんと証明すればいい。そのためには、正しい情報の開示がまず必要です。情報開示の仕組みの構築こそが、国民の安全を保障するものです(原発に限らず)。故吉田福島原発所長の見解では、もし2号機が爆発していたら東日本に人は住めなくなったといいいます。再稼働が認められた福井の高浜原発で同じような事故が起きれば、西日本に人は住めなくなる。京都や奈良や大阪も今の福島のようになる。本当にそれでもいいのですか? もちろん、北朝鮮のミサイルが直撃しても同じことです。稼働している原発の場合は、核爆弾の数十倍の放射能被害が広大な範囲に及ぶのです。ミサイルに核弾頭を搭載しなくても、日本は甚大な被害を受けてしまいます。 冒頭の武田邦彦先生は原子力のオーソリティ、日本の原子力の研究をリードしてきた物理学者です。当然日本の原子力発電を推進していたのですが、ある時原発の危険性に気づき反対に転じました。元京都大の小出裕章先生も原子力の専門家です。https://plaza.rakuten.co.jp/sontiti/diary/201209250000/詳しい学者ほど反対するというのも真実を語っているのでは。今回の武田先生のメッセージを要約すると、東電は2つの重大なウソをついていたということです。原発の安全を維持するために2つの仕組みが施されており、一つは「多重防御」。災害が押し寄せて安全装置が突破されても、さらに多重に安全装置が備えてあるので事故につながることはない。もう一つは「固有安全性」。原発自体が、アクシデントに対し自動に停止するシステムになっているため、大きな事故につながることはない、というものです。ところが福島では、多重防御と言いながら津波で電源は一斉に止まってしまう仕組みであったり、固有安全性と言いながら、原発は自動で止まらず発熱を続け、爆発を引き起こした。安全を担保するための2つの仕組みについて東電はウソをついていた、ということです。その嘘をついたのは誰なのか、社長なのか技術担当者なのか原発を推進させたい圧力者なのかということです。今回の裁判は、「津波を予見できたか」に焦点が向きそうな感じですが、武田先生の言うように安全装置をないがしろにした張本人を探すことの方が、事故の解明には向いているように思います。 検察審査会による裁判開始を『東京新聞』の社説が述べています。そういえば、我が家の新聞を『読売新聞』から『東京新聞』に変えたのも、原発事故がきっかけでした。読売の記事に”原子力村”の影が鮮明で、正しい報道がなされていないと判断したからです。東京は東京で問題がないわけではないのですが、原発に対する姿勢は正しいと思うので、その面はストレスなく読めます。 【社説】原発事故初公判 東電の怠慢を見極めよ 2017年7月1日 天災であれば刑事責任は問えない。でも福島第一原発事故は人災の疑いがある。それが検察審査会の市民が出した結論であり、その初公判があった。東京電力の怠慢を見極めることが焦点となる。 「事故を予見するのは不可能だった」-。東京地裁で勝俣恒久元会長ら三人は無罪を主張した。業務上過失致死傷罪で強制起訴されている。 その言葉どおり、最大の争点は、大津波の襲来の危険性を具体的に予見できたかどうか。事故の回避が可能だったかどうかである。 実は東京電力側には数々の危険の知らせは入っていたようだ。 検察官役の指定弁護士によれば、二〇〇二年に文部科学省の地震調査研究推進本部(地震本部)から、三陸沖北部から房総沖にかけてマグニチュード(M)8・2前後の津波地震が発生する可能性があると指摘されていた。 原子力安全・保安院と独立行政法人原子力安全基盤機構が電力事業者に参加を求めて、〇六年に開いた勉強会では敷地高を超える津波が来襲した場合には、非常用電源設備などが水没し機能喪失。全電源喪失に至る危険性があることが報告されていた。 〇八年には東電設計から東京電力に対し、地震本部の長期評価を用いて、明治三陸地震モデルを設定した場合、一五・七メートルもの大津波が押し寄せる-。そんな計算結果も詳細な資料とともに示された。このように東電側には何度も危険のサインは出ていた。 問題は、なぜこれらのサインを見送っていたかである。一五・七メートルもの津波は当然、敷地の高さを超えて襲来するのであるから、東電側も衝撃を受けたはずだ。原子炉やタービン建屋内に海水を浸入させない対策も必要になってくるであろう。たんなる計算結果だと済ませたのであろうか。 大津波が来る確率など、ずっと低く、まず来ないなどと高をくくっていたのではなかろうか。しかし、原発事故の重大性を鑑みれば、これは深刻な不注意にあたらないのか。「津波対策の適切な措置の必要性を認識していないなら、そのこと自体が注意義務違反」と指定弁護士は述べる。 国際原子力機関(IAEA)は報告書で「日本の原発は安全という思い込みにより、安全レベル(向上)に挑もうとしない傾向があった」と記した。この裁判ではそんな怠慢姿勢そのものが裁かれるべきなのだ。
2017年07月02日
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