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昔、静岡の富士宮の一杯飲み屋で、カナダ人の青年に「イナゴの佃煮」を食べさせて閉口されたことがある。鶏の足の姿煮、ちょっと食べられない。
2007年07月31日
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遅く来たり間違って来たりしていた2年続きの厄年が終わろうとしている。少なくともそう願いたい。というわけで、週末は日本の映画のDVDを2本見て厄払い。因みに、街中にある中国系の店で最近の日本の映画のDVDが15ドルで買える。1本目は、「明日の記憶」そして2本目は「Always 3丁目の夕日」だった。両方とも、感情移入の歯止めが利かずにぐじょぐじょの週末となってしまった。「明日の記憶」の方は、年代が近い主人公に思い入れ、「Always 3丁目の夕日」の方は設定の年がタコ幼年6歳の頃にあたり、もう初から終わりまで映画を向こう側から見ることができた。それでなくても、寝ても起きても会社のことばかり考えている毎日だから、週末は思い切って切り替えないとならない、なんていうわけでは全くないが気分転換に最近元気のいい日本の映画に見入ってしまうことがある。どういう訳か、樋口可南子が私が高校時代2年片思いしてしっかりと振られたMに雰囲気が似ていて突放してみたとしても他人と思えない。細見の体型まで似ている。ひたむきな妻の役が似合い過ぎるくらい似合う彼女。主人公の若年アルツハイマーとの戦いのドラマだった。因みに、アルツハイマーに罹ると、第二外国語は忘れてしまうという。海外で暮らす者としてはこれは怖いことだ。元々、オランダ系の連れ合いと会話が少ないのでそれほど影響はないのかもしれないが。そして、「おーい」なんて言っても何も出てこない関係なのだから、会話がまったくなくなってもさして支障はないのかもしれないが。最後のシーンで、自分の妻が全く分からなくなり歩いていてそのまますれ違ってしまうところは直視できなかった。「Always 3丁目の夕日」の方は映画のセットが割りとよく出来ていたように思えた。TVドラマの「東京タワー」や、キムタクの「華麗なる一族」のセットが現実離れしていて馴染めなかったことに比べたら、今回のはまあまあだった。私と同じ年で、昔奥さんと赤坂の「天一」で同じカウンターでてんぷらを食べたことのあるダンナの三浦友和が扮した医者が彼だったとはずっと分からずにいた。私も、年をとったものだと彼を見ながら納得。因みに全く他意もないが、彼の父親も警察官だったと記憶している。間違いかもしれないが。それにしても、昔階段で上ると弁当を貰えたという東京タワーの人気が今高いようだ。運動好いているタコ社長、弁当目指して階段でなんて血迷いそうだ。オート三輪、ミゼットかが走っているのを見ると、もう無条件でランニングシャツに半ズボンで外に飛び出し、あんず水飴とか舐めながらメンコとかべいごまなんかしたくなる。縄で作られた古びた買い物籠下げて母が肉屋さんにコロッケなんか買いに出る後姿も浮かび上がってくる。というわけで、二本の映画をみることで週末は過去の土ぼこりの上がりそうな思い出を味わい、そして未来の先の見えない戦慄を覚える時間を過ごすことになった。その合間に、Yシャツ9枚のアイロンがけをし、ホームステイのホストとして二人をビクトリアマーケットにも連れて行って、決して外せないホットドックを食べたりしてもいたが。
2007年07月29日
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店の狭い脇の入り口から二階に上がりそこで着替えた。黒のズボンに白のYシャツに蝶ネクタイだ。まだウエストも82センチくらいのときだったろう。二階は今は使っていない喫茶店の従業員の着替えの場所兼物置になっていた。薄暗い部屋にジュークボックスがあって着替えながらいつもカーリー・サイモンの「うつろな愛」を聴いていた。You’re so vain.大学1年が終わった春休み、私は何かから逃げるように2ヶ月間、東京の池袋の西口にあった「ニューサカエ」という24時間営業の喫茶店で働いた。目の前にはロサ会館があり喫茶店のまん前にエロ映画館があった。暇なときは、その映画館にこそこそと入り込む人達を眺めていた。昼間は、東久留米にあった自動車教習所に通い、夜この喫茶店で勤めた。たまには朝まで働いた。その喫茶店には、それまでの20年間の人生で出合ったことのないような人が集まってきていた。いつも、ジャムトーストと紅茶を注文する額の禿げ上がってキツネ目の40がらみのお客がいた。いつも左手でこぶしを作ってそれを右手で撫でている。ずっとそうしている。合間にジャムトーストを食べる。夕方5時頃に必ず来て1時間くらいはいる。私と目が合うとすぐ下を向いて撫でている。ある日、この客がジャムのビンに備え付けてあったスプーンを使った後に舐めて戻した。私は、このての人が苦手で直接注意できずマネージャーの女性に言いつけた。このマネージャー、つかつかとこの客の前まで言って店の外まで聞こえるような声で、「スプーン、舐めないでください。」と言い放った。もう、二度と来ないと思ったこの客、それからも毎日ジャムトーストを食べにやってきた。さすが、もう二度とスプーンは舐めなかったようだが。ある夜10時頃、カウンターに薄茶のパンタロンに素肌が見えるような白の薄手のブラウスをまとった30代後半の非常に色気のある女性が座った。髪は長くふっくらとパーマをかけて厚い唇には赤い口紅が浮き出るように塗られていた。カウンターに立つと客を上から見下ろすようなかたちになる。ときどき、このマリリン・モンローを3倍くらい薄めたような女性と目が合う。薄く笑いかけるこの仕草が20歳の私には眩しい。ふと見ると、その人のパンタロンのジッパーが大きく開いている。何なんだろう、この人?それからカウンターにいてなんとも落ち着かない。パンタロンが私に語りかけているようで座りが悪い。そんな訳ないなと思ってもあらぬ想像もしてしまう。20分くらいしてからだろうか、この客はそれに気づいて慌てて締めてしまった。それから、まるで私を糾弾するようなきつい目つきをしてさっさと出て行ってしまった。私が悪かったのだろうか。世の中、確かにそんなに甘くはない。店は夜中の2時を回ると、小指がなくて思い出なんかが作れないような、そんなあっちの世界の人で満席になる。「ニイチャン、ニイチャン、ちょっと。」この方々は、みな一律に「ニイチャン」と呼んでくれていた。勿論、女性だったら、「ネエチャン」だった。「ハイ!」と私は大きく答えていくことにしていた。この方々、必ず香水の匂いのきつい厚化粧の方々を同伴している。この女性の方々は「ニイチャン」の前に「オ」をつけてくれていた。このオアニイサンたちは必ずホットミルクを注文する。当時、その業界では流行っていたのだろうか。これが、すごく可愛く思えてしまった。しかし、決して薄笑いなんか浮かべることはできなかった。大学の2年が始まると、いろいろと理由をつけてバイトから足を洗った。一つ年下で、戦車色のマニュキュアをしたオカッパ頭の彼女がいる中村さんが、私が辞めるというと本当に寂しくなると惜しがってくれた。この喫茶店、数年前に取り壊されて今は5階建てのビルになっている。前の映画館はまともな映画を上映する映画館に変わってしまった。その前を通る度に、変わらないのは自分だけだという妙に切ない思いにかられる。
2007年07月28日
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最近は、割とカジュアルな出で立ちで家を出て会社に向かう。
2007年07月27日
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「テッド!」私は日本語教師養成講座でそう呼ばれていた。というより、自分でそう名づけていた。クラスでは、他の生徒がデモンストレーションをするときに、聞いている生徒が外国人になりすます。だから、全員外国名を持っていた。最近天国に召された長島学院長が私に声をかけた。「どんなに日本語が上手な生徒がいても決して恐れたりたじろいだりすることはありません。我々日本人はその生徒の百倍くらい語彙やボキャブラリーもあります。」今朝、ウォーキングをしていて、小雨の中傘がおちょこになって困っている女性がいた。倦怠期を迎えた夫婦が数え合うのはお互いの年ではなく畳のめの数。こういう表現はちょっと日本語をかじったくらいでは到底歯が立たない。因みに、歯が立つなんていう表現も面白い。サラリーマンを10年やった後、日本語教師を10年、そしてタコ社長も10年になる。一昔が3回転している。人より長く人生をやっているような気にもさせられる。長島学院長は、「日本語を教えることは天職ですよ。」と言われていたが、私はその道を外れ転職してしまった。
2007年07月26日
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東京は練馬区で幼少時を過ごした。豊島園が近い向山町にあった向南幼稚園雪組みのときのことだった。「タコちゃんが世界中で一番好き!私、タコちゃんと結婚する。」といってくれていた真理子ちゃんがいた。人生のスタートは割とスムースだった。しかし、世の中を甘く見るクセがこの時から始まったことを思えば、諸手を挙げて喜んでいられないことではある。この真理子ちゃんとはその後小学校の6年間を同じクラスで過ごしたが、あの幼稚園時代のようなちょっと浮いた思いは蘇らず、唯の友達となってしまっていた。それでも、家が同じ警察官住宅で近かったこともあり、よく遊びに行ったりしておばさん達と「坊主めくり」なんかをしていた。時には、雨戸を閉めて部屋を真っ暗にして4、5人で坊主の代わりにスカートめくりなんかもして健全に遊んだりしてもいた。この時は、おばさんは加わっていなかった。6年になって、真理子ちゃんは慎一という後に東大に進んだ秀才肌の転校生とくっついてしまった。硬派を装っていた私はというと、雪のように色白でほっぺが真っ赤な和子ちゃんを、嫌がられながらも執拗に追い回していたように記憶している。だいたい、幼稚園から小学校6年までで、その後の人生の縮図がほぼ完成してしまったようだ。それからは、この縮図が何回転もして割りと単純な見通しのきく人生になっていったような気がする。
2007年07月24日
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「タコ、水曜日の夜、時間あるかい?クラブに行こう。」街中のカフェでバイトをしていた。あまり大きな声では言えないが25歳のワーホリだといっていた。実は、33歳だった。それでも、みんなからもっと若く見られた。同僚のミルトンというギリシャ系のオーストラリア人から誘われたのだ。彼は、背が低く、お世辞にもいい男とはいえない感じで、しかも女性に対してはキツイ嫌味ばっかり言っているので全く人気がない。しかし、私に対してはすごく親切に接してくれていた。その夜、ミルトンは私を、飲んで食べて踊れるクラブに連れて行ってくれた。結構、いい料理も出るし、しかも安い。10人編成くらいのバンドの生演奏もある。30代、40代、そして50代の人が多く来る所で子供はいない。ディスコのオトナ版といったところだ。でも、私は得体の知れぬアジア人、英語も覚束ないイジケ者だ。なかなか、話し掛けられない。一体、何を話したらいいんだ?天気の話でもしようか?私は日本人ですって言えばいいのか。それが、どうした、って言われたら?ミルトンは、いろいろな人に話し掛けてダンスに誘って、そのたびに断られていた。私は、結局、誰とも話せずにいた。不甲斐ないギリシャ人と、場違いなアジア人とで空元気を出して酔って騒いで帰ってきた。ミルトンは、私があまり喜ばなかったことを見て後悔しているようだったし、口ほどにもなく誰とも話すことができなかった自分自身を恥じているようでもあった。次の週、ミルトンは私をバララットの金鉱山へ連れて行ってくれた。それは、それで楽しかったが、なんだかミルトンの笑顔が本当は泣いているように見え始めて心から楽しむことができなくなってしまった。職場では皆にわざと嫌われるようないじけた態度で通していたし、女友達はおろか男の友達もいないようなそんなミルトンの姿が痛ましく見え始めてしまった。それから、2週間してわたしは急に仕事を辞めないといけないハメになり、そのカフェを後にした。そして、それ以来ミルトンとも会わなくなってしまった。このカフェが、私のメルボルンの原点だったと言える。14,5歳の若いバイトのオージーと毎日皿を洗っていた。移住を求めて歩き出した第一歩の場所だった。実はこのカフェは、最近までずっと街中にありたまにランチに行ったりしていたが、今年ビルの改造があって残念ながら取り壊されてしまった。行くと必ずキッチンからあのミルトンが出て来てくれて、「タコ、飲みに行こう!」と言ってくれそうな錯覚をおぼえた店だったがもう跡形もない。私の、昼の散歩のコースが一つ減ってしまった。
2007年07月23日
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ところで我が家には今、日本人の女の子が二人ホームステイしている。一人は二十歳の長期の学生、もう一人は15歳で3週間という短期留学生だ。私はとえば、相変わらず短気。久しぶりのホームステイだ。前のホームステイはオランダ人。家の中にオランダ人が二人だった。こういうとき英語では、One too many Dutch. といえたし、実際に私はそう言っていて、結局このホームステイのオランダ人とは最後まで打ち解けることができなかった。私は、自慢じゃないが人見知りチャンピョンだし、一度嫌になった人や食べ物を好きになることはない実直人間だ。こんなことをいっている経営者には誰もついてこないのは当然。後ろを見たら誰も居ないなんてことが起こり得ないし、起こったりしている。15歳の子は、将来プリマを狙うバレリーナ。ところがこの学校は街にあって8時前に始まり、終わるのが夜の7時半だったりしている。もっともこの子は、日本では高校の帰り5時から11時まで踊っていたそうだ。しかも、週7日。今朝、聞いたら父親と同じ家に住んでいるのに会ったことがないと言っていた。すごい世界だ。ということで、タコ社長、急に娘ができたようで車で送り迎えの毎日三昧。これが仕事になってしまっているようだ。しかし、この子が憎たらしい子だったらこうはいかなかっただろうが、可愛いところがある子で仕方ない。大好きな早朝ウォーキングもほどほどにして車で送っている。この子、肉とご飯を絶対に食べないというのでオランダ系の連れ合いは困り果てている。好物はアイスクリームとのこと。カレーライスではなく、カレーうどんの子なのだ。ピザ、パスタはOKということで、連れ合いも嬉しいピザの宴となった。会社でも家でも楽しい日々が続きに続いている。
2007年07月19日
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あまり興味のない調査結果を教えてくれた友人がいる。「恋愛高速度」というちょっと内容を突っ込んで聞かないと分からない調査結果だった。「恋愛高速度」とは、「異性を好きになるまでの時間」のことらしい。「一ヶ月以内」との回答が一番多かったらしく7割。「一目ぼれ率」という統計もあって、一番率の高かったのは50代の男性だったとか。6割近くが「女性を好きになるのは一目ぼれ」というのだ。間違いを犯す可能性が高いのも頷ける。5人に3人の50代の男性は「一目ぼれ力」がしっかりと付いているようだ。後の2人も気になるところだ。恋をするなら50代、なんて浮いた気持ちになっている訳でもないが一体この数字は何を我々に強いているのだろうか。実はまったく、強いていないのかもしれないが。日本国の50代の男とは一体どんな人種なのだろうか。以下、調査からの引用。『「恋人以外の異性からドライブに誘われた時、行きますか」の問いには、男性の39.8%が「極力、予定を調整して行く」と回答。54.4%が「予定がなければ行く」と答え、男性は恋人以外とのドライブにも寛容だった。特に50代男性では「行かない」との回答はゼロ。』タコ社長、いままで年代に関わりなく恋人も含め異性からドライブに誘われたことがないので回答できない。否、誘われていたのかもしれないが、実はドライブ以外に誘われていたと勘違いしていただけなのかもしれないが。四捨五入すると還暦のタコ社長、今回の統計ばかりは他山の石、反面教師、対岸の山火事状態で口が空く。やはり日本という土壌で培われた方々の統計だろうし、浮気は即離婚のこの国では全く意味がない羨ましい統計だ、ということだろうか。
2007年07月17日
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写真は、前の日記のチキンカルボナーラ。やっとアップできた。朝早く起きてトイレも行かずにそのまま飛行場に向かった。恒例の早朝ウォーキングもできなかった。人一倍ブリスベンには思い入れがある。オランダ系の連れ合いの親友夫妻もここに住んでいる。将来、住みたい所NO2だ。NO1は勿論、東村山4丁目だが。多くの人と知り合えた。これからもいろいろな形で繋がっていたい。愛と感謝をこめて。
2007年07月14日
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どいういう訳か楽天に写真アップができない。皆さんもそうだろうか。日曜日からまたブリスベンに来ている。2004年1月にこちらに事務所を作るために一人で出張で来た日曜日の晩に食べに行ったのが、ブリスベンのあっちこっちにあるコーヒークラブというカフェ。1月の真夏に汗をかきながらオカマっぽいクリスのいうメルボルン出身のウエーターに勧められたのが、ここのチキンカルボナーラ。それから、ブリスベンではこれが病みつきになってしまい、最初の晩はここに来ることにしている。クリスではなくカルボナーラの方だ。今は真冬。今年のブリスベンは結構寒い。やはり、日曜日の夜一人でこのチキンカルボナーラを食べた。もう、これが最後になるのかななどと思ったら、むせてしまいきし麺のようなスパゲッティーが鼻から出てきそうになってしまった。気取ってみても始まらない。大好きな言葉だが、まさに私の人生そのもの。ということで、赤ワインは地味にグラスワインで一杯だけにして丘の上のホテルに帰った。因みに毎日使っている万歩計、このところ15,000歩をクリアーしている。今、日本では20,000歩が主流だとか。さすが、長寿大国ニッポン、いろいろなもののハードルをどんどん高くして年寄りに喜ばれる国づくりに励んでいるようだ。製品名は、2万歩計にすべきだと思うが。
2007年07月13日
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ブリスベンから帰って咳が止まらない。熱はないのだが、どうも困ったものだ。今年の風邪の特徴だろうか。止まらないのは他にも倉ができるくらいあるが、いちいち論っても始まらない。そうこうちているうちに、オランダ系の連れ合いが友人達とレバノン料理の店の予約をしてくれていた。メインの最後に出てきた、鯛のココナツソースだった。思わず、手も足もだしたくなるおいしさだった。久しぶりの赤ワイン底なし飲みの夜となった。そういえば、今週は全くワインを飲んでいなかいという珍しい週だった。余波が大きくやってきた。
2007年07月06日
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こんなタコのために、一人でも祈っていてくれる人がいてくれたら、どんなことでも乗り越えていけるタコの三人家族
2007年07月03日
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子供の頃、母の作る「納豆焼き飯」は私の大好物だったが、貧しい練馬の警察官住宅で育った私は、池袋の喫茶店で学生時代にバイトしていて、そこで賄いとして食べるまでピラフなどというシャレたものには出会ったことがなかった。「山田さん、これいけるね。」暇だと時々パチンコ屋に行ってしまったりして私たちウェーターを困らせた山田さんが、日本食用の大きな丼に作って入れてくれるピラフは絶品だった。「そう?おいしいかい?」といって甲高く笑ってみせる山田さんは本当に愛嬌のある人だった。レストランで働く喜びはこのベテランシェフの作る賄いが食べられることにあるような気がする。「タコさん、今日は麻婆豆腐にしますよ!」移住を求めてメルボルンの日本食レストランのキッチンで来る日も来る日も皿を洗っていたとき、香港から来ていて日本語の達者なヤンさんがいう。相撲取りのような体をしたヤンさんは、その体に似合わず動作がものすごく速い。あっというまに中国本場の麻婆豆腐が出来上がる。今日も麻婆豆腐だ。ところで、レストランの土曜日はキッチンもフロアーも戦争のよう忙しさだ。狭いキッチンで動きまわる大きなヤンさんは、本当に障害物だったが大先輩だから文句をいうわけにもいかない。それに、ヤンさんは本当に優しい人だったので喧嘩などできなかった。土曜の仕事が引けるのは夜中の1時頃になる。遅いので、賄いは食べずにタッパに入れて30分歩いて帰る。レストランのあったメルボルンの青山サウスヤラから、テクテクと歩いてメルボルンの田園調布トゥーラックにあったフラットに帰る。フラットの近くにロミオというカフェがあって、この時間多くの人で賑わっている。歩道に置かれたテーブルでは、ワインも回っているのだろう若い男女が絡み合うようにして騒ぎあっている。私などは、どっから見てもうらぶれたアジア人。それに、手には賄いのタッパが袋に入ってぶら下がっている。いつも足早に通り過ぎていた。週75ドルの家具月フラットに戻ると、すぐにお茶を沸かす。一晩中皿を洗って白く濁ったような色になっている手の皮を剥き、母が大量に日本から送ってくれたニベアを塗る。レストランのメインシェフSさんからもらった古いTVをつけてポップ番組を見る。そして、ヤンさんの作ってくれた、今晩は一味違う麻婆ナスを一人でゆっくりと食べて家計簿を付けて眠りについていた。33歳になっていた。「オーストラリア移住、移住!」とバカの一つ覚えのように唱えていたころのことだ。
2007年07月02日
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