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大晦日だ。メルボルン、何と最高気温が42度だ。22年こちらにいるが、大晦日にこんなに暑くなるのは初めて。夕方から友人の家に行って、バーベキューで年越しをする。年越し蕎麦とかは望めない。今年は、終わらないのではと思ったことが何度もあったほど揺れ動いた年だったが、こうして平和のうちに終わることができて本当に嬉しい。♪ 私は今日まで生きてみました ある夏の日、横須賀の津久井浜海岸で泳ぎ疲れて浜で休んでいるとき、監視塔に備え付けられている大きなスピーカーから、同じ歌が何度も何度も繰り返され聴こえてくる。本当にしつこいくらい、同じ曲が何度もかかるので、メロディーも歌詞も覚えてしまった。後で知ったのだが、デビュー間もない吉田拓郎の「きょうまで、そして明日から」という歌だった。私は今日まで生きてみました 時には誰かの力を借りて時には誰かにしがみついて私は今日までいきてみましたそして今、私は思っていますあしたからもこうして生きていくだろうと私は今日まで生きてみました 時には誰かをあざ笑って時には誰かにおびやかされて ♪高校生だった私にはやや重たい歌詞だったが、メロディーの流れのよさも手伝って心に残った。2007年大晦日、あの時ちょっと大きめの緩んだ海水パンツを気にしながら聴いていたこの歌を思い出した。♪ 私は今日までいきてみましたそして今、私は思っていますあしたからもこうして生きていくだろうと ♪今晩、この暑さの中飲み過ぎないよう気をつけて行くことにする。来年の私の誕生日は久しぶりに、6月13日の金曜日だ。私が生まれた1952年も、その日は金曜日だった。来年は、良いことが売るほど起こる予感がする。皆様、本年もいろいろとありがとうございましたどうか、良いお年をお迎えくださいまた、来年もよろしくお願いいたします
2007年12月31日
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今日のウォーキング道。やや太目の小型犬も走っていた。今日、メルボルンは39度だった。大晦日は41度の予想。
2007年12月29日
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太巻きを合計、18本作った。ポークの太巻きなぜクリスマスの日にターキーを食べるのだろうか今年は、オランダ系の連れ合いの妹の家だったまだ4日しか経っていないのに、もう随分前のように思える日。ホームステイの日本人の女子学生が巻き寿司作りを手伝ってくれたので、今年は非常に助かった。
2007年12月29日
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26日から30日まで、ソレントに来ている。久しぶりに忘れたいことは忘れてのんびりしようと思っている。タコには海のにおいが合っているようだ。今日のウォーキング
2007年12月27日
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こちらのクリスマスは日本の正月、家族の集まるときだ。先日は、連れ合いの両親の一族郎党の拡大クリスマス会で140人の会。25日は、身内だけの会。それでも26人の集まる。今年嬉しいのは、我が家のホームステイの日本人女子学生2人が、タコ社長恒例の巻き寿司つくりの手伝いをしてくれることだ。基本的には、アボガドなどとキューピーマヨネーズをこってりといれるシンプルな大味の太巻き寿司だが。今年は、一味違うものになるかもしれない。朝から晩まで食べて飲んで騒ぐクリスマスの一日が終わるといよいよ年の瀬だ。
2007年12月24日
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♪ 父も夢見た 母も見た旅路のはての そのはての青い山脈 みどりの谷へ旅をゆく若いわれらに 鐘が鳴る ♪メロディーが軍歌のような勢いでウォーキングに合うのがこの「青い山脈」だ。タコ社長、だんだんと聴く曲が古く遡りすぎて、その内明治大正時代の歌なんかまでに突入しそうだ。この歌詞は四番の歌詞。歩いていて、この歌詞を聴いて突然何故だかわからないが涙が出て来てしまった。戦後間もない頃に作られたこの歌だが、父と母の当時の夢は一体何だったのだろうかと思いが及んだ。現実には、夢など持つ間もなく、ただただ蟻のように働いて私達を育ててくれた、というのが近いかも知れない。そこへいくと、平和な時代にすくすく育った私なんぞは、そんな両親の苦労も知らず、「青い山脈」三昧の人生、そして地球の南の果メルボルンに来てタコ社長をして山脈からコケたりしている。両親は、私が9年勤めた会社を辞めるときも、オーストラリアへ移住すると言ったときも反対はしなかった。タコ社長、ハードルと山は低いに限るとか言っていないでしっかりと山脈を極めんとならない。
2007年12月23日
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ちょっと前に、低体温が気になったことがあった。ところが、体温は計る場所によって随分と違うということを知った。そして、欧米では決して腋の下では計らずに舌下が普通だという。まず、一番低いのが腋の下、それより1度程度上が舌下、更に直腸と続くという。直腸体温が35度を切ると大変らしいが、舌下で使ったり直腸で使ったりは憚れる。ということで、舌下で計ると36度程度あることが判明し、やや安心した。なぜ、日本では腋の下に人気があるのだろうか?
2007年12月20日
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美佐子さんの黒の真新しいビキニから目が離せない。そのビキニは、今の時代のように小さ過ぎもせず、腹を隠すほど大き過ぎもせず、調度いいサイズだな、などと思いながら浜でくつろいでいた。私は、翌年大学受験を控えた高校3年生。「アンポ反対」などといいながらデモに参加していたりしていて浪人覚悟、とか親に言ってひどく怒られていた。1970年8月に横須賀の伯母の家に泊まりながら、伸び切った輪ゴムのようにだらけた気持ちで過ごしていた。因みに、人生長くなってきているが、黒いビキニの方とお話させていただいたのはこの時と、オーストラリアに来たばかりの頃、ダーウィンのユースで隣になったジェインさんという体格の元気な元ストリッパーの方の二人だけと極限られている。黒以外の方々のことは、また別の機会に譲ることにする。美佐子さんは、私の従姉妹の百合の友達で私より4つ年上の大人。小学校3年のときに人妻に恋をしてからの年増好みの勢いは止まらず状態が続いていた私だった。瞬間湯沸かし器のごとく、私は美佐子さんとの恋に落ちてしまった。感情の幅の選択が非常に限られていて、自分でもまた周りからも分かり易い頃の私だった。「裁判所って大変なの?」今のように冗談しか言わない私とは違って、当時は警察官の息子よろしく堅物だったタコ高校生、何を話したらいいのかもじもじしながら美佐子さんが勤めていた裁判所の話しなどをしたりしていた。「タコ、もしかしたら来月東京に美佐子ちゃんと一緒に行って、お前の家に泊まるかも。」百合が言った。もう、私の気持ちはいろいろな期待感で9月に飛んでしまった。そして二人は、東京は「子供が行ってもトシマエン」のそばにあった警察官住宅に一泊で遊びに来た。3つ年上の兄と4人でその豊島園に出かけることになった。この豊島園に行った時、生まれて初めて大人の女性と手をつないで歩いた。胸ってこんなにドキドキするものかと思った。昔近所の、私と結婚するといってきかなかった真理子ちゃんと毎日幼稚園に手をつないで歩いて通ってはいたが、あのときはドキドキはしなかった。なんでも、「初めて」というのはいいもんだと思う。初めて、女性に平手打ちをくらった日などというのは、忘れようと思っても忘れられない感激がある。アッという間に二人の一泊の訪問は終わり、手だけ握る仲になった美佐子さんに手紙を書くと約束して別れた。美佐子さんは、ちょっと鼻にかかるような声で「待ってる」と言ってくれた。それから、2週間もしないうちに百合から電話があった。「美佐子ちゃんがね、久里浜の駅のそばで男の人と手をつないで楽しそうに歩いているところ見ちゃったの。なんだか、付き合っているみたいよ。」美佐子さんは、男と手をつなぐ趣味がある人なのかなどとは全く思わなかった。私は、背だけは当時既に185センチもあったが、恋多き美佐子さんには全くの役不足、修行不足、押し倒し力不足の自分だったので腹が立つとかはなく、ただ、「そうか」と言って終わった恋になった。
2007年12月19日
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土曜日の検査は無事終了した。全身麻酔だったので気がついたら終わっていた。覚める直前に見た夢は、いくら私でも言えるような夢ではないほどのものだった。麻酔が覚めるのを待っている間に、コーヒーとサンドイッチが出た。同じところに顔を腫らした若者3人が家族とおぼしき人たちと待っている。初は交通事故か何かかと思ったが、どうも様子が違う。後で分かったのだが、夏休みの前に親知らずを抜いた人たちだった。私は、そんな若者達の前で前日から何も食べていなかった勢いで、アッという間にサンドイッチを美味しく頂いた。オランダ系の連れ合いが迎えに来てくれた。費用は日本円にしてざっと8万7千円。えらい出費となってしまった。「今年はゴルフクラブも買ったし、これでクリスマスプレゼントね。」大腸内視鏡検査代が、今年の健康的なクリスマスプレゼントになった。
2007年12月18日
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左は韓国味、右は日本味。洗い難そうな鍋だが、「一鍋で二度美味しい」夜となった。
2007年12月14日
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明日は、いよいよ待ちに待った「大腸内視鏡」の日。歩いて行ける所にある病院で慣行される。3年前に一度受けているので要領は分かってはいる。日本と違って、完全麻酔で起きたら終わっている。今日の午後から、悪戦苦闘が始まる。実りのある週末になることを祈るばかりだ。
2007年12月14日
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仕事でも私生活でも激動の2年だったが、久しぶりに落ち着いてオランダ系の連れ合いを交えスタッフとのクリスマス会を催した。場所は、「トン鍋」で名高い街中にある日本食レストランM。本来は冬だけ出していたのだが、人気が高いので1年中メニューに入れたとか。力餅もいただき、スタッフが持ち寄った10ドルまでのプレゼント交換もあった。連れ合いは、「キューピーマヨネーズ」が当たり、誰が一体こんなものを、と喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないような顔をしていたが、嬉しそうではあった。
2007年12月11日
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オーストラリの温室効果ガスの約14%が、牛や羊などの家畜から発生するメタンガスだというのだ。これってすごい数字のような気がするのだが。即ち、家畜の「ゲップ」や「オナラ」が悪さをしているのだという。さすが、南半球を代表する先進農業国オーストラリアだけある。そこでカンガルーが活躍することになるという。カンガルーがこのメタンガスを吸い込んでいるとかいう話ではない。カンガルーのオナラにはメタンガスが含まれていないことがわかり、カンガルーの胃の中の特殊なバクテリアが発見されたという。このバクテリアを、牛や羊の胃に移植すると、地球温暖化防止に大きく貢献することになるのだそうだ。私を含め、加齢臭の勢いがついてくる50歳以上の人間にも是非とも移植を検討してもらいたいものだ、などと願っているわけではないが朗報ではあるように思える。カンガルー、やはり変わった動物であったようだ。タコ社長、これからは、カンガルーだけは食べるベジタリアンなんて自称するやもしれぬ。
2007年12月09日
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高校時代、フランケンタコと呼ばれていた。なんだか近づいてきているようだ。
2007年12月06日
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今年のハエは、例年になくしつこいような気がする。嫌われてもこのハエのように頑張れば、仕事ももっと拡大するのだろうか。しかし、少なくとも恋愛に適用すればストーカーになること間違いない。「一度、鼻の奥までハエが入り込んで困ったわ。」ちょっと前に一緒にゴルフでランドしたK女史が披露してくれた。ハエにしてみれば必死で突撃してくるのだからその努力は大いにかってあげたいが、確かに鼻の奥では場所が悪い。覚えているだけで、口を開けていてハエを飲み込んでしまった経験は人生で2度。思いっきりチャイニーズのソバと一緒に噛んでしまったのは1度だ。どちらも、その後数時間、または数日感覚が残って忘れられない思い出となっている。オーストラリでハエが嫌だったら夏は行くところがなくなる。そのくらいの気持ちでいないとやっていけない。街を歩いていると皆、手で「向うへ行け」といっているような動作をしてハエを追い払っている人が多い。私の顔を見て、本当に「向うへ行け」とやっている人もいるのかも知れないが、なんだか可笑しい気にもなる。今年の夏は、口を開けて歩くことがないように心してやっていきたい。因みに、日本に帰国したときに所沢でカラオケを共にした、気の置けない元幹部スタッフが言っていた。「寝ている間に鼻で呼吸ができるように、ガムテープで口を塞いで寝ているんです。」何でも、鼻からの呼吸は酸素が脳にいくが、口からのはノーなのだそうだ。してみると、ガムテープで口を塞いで街を歩くと、脳にもいいしハエも食べないということになるといえるのだろうか。人がいない所でないとできそうにないが。
2007年12月06日
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土曜日の夜日曜日の昼人生とは、飲んで、食べて、話して、騒ぐためにあるのかと思えわれる週末だった。1日の夜は、友人の息子の婚約パーティー80人の宴。帰ったら夜中の1時だった。昨日は、毎年恒例のオランダ系の連れ合いの親戚一同合同140人のクリスマス会。公園を貸しきるような勢いだった。風の強い34度くらいの日で参った。これが10時から4時まで。帰ると、今度は隣組の30人のクリスマス会。終わって朦朧状態で帰ったのが11時。こんな日は滅多にはないと言いたいが、12月は本当に体力勝負の月。31日の大晦日までパーティーが続く。いろいろな薬を飲みながら対応していきたい。
2007年12月03日
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「おじさん、アデールさんと仲良くね。」若干33歳の私を、「おじさん」と呼んでくれる人がいた。1985年7月、バスでオーストラリア半周の旅に出ていたときの話しだ。反時計回りに、メルボルン、アデレード、エアーズロック、ダーウィン、タウンズビル、ケアンズ、ブリスベン、シドニーと周りメルボルンに戻った。約一ヶ月の旅だった。遅れてきた青年末期の男が、遅れを取り戻そうと躍起になっているような頃のことだ。アデレードから出たバスの中で知り合ったオランダ人のアデール、そして行くところ行くところで出あったのが東京から来ていたAちゃんとYちゃんだった。この二人が私を「おじさん」と呼んでくれていた。日本に帰ると必ずメールをくれる。会うことはなかなかできないが、時々このブログを見ていてくれるらしい。もう22年前に出あったオーストラリア友達だ。因みに、オランダに帰ったアデールは、永住権を取って1年後にメルボルンに戻ってきて会ったが、歯車が合わず空回りに終わった。その頃から、オランダに縁はあったようだ。今回、メルボルンに戻る時にきも二人からメールをもらったが、Yちゃんのメールに、「いってらっしゃい」とあって複雑な気持ちになった。私には、「いってらっしゃい」と言われる対象の国が2つある。どちらの国からも「いってらっしゃい」なのだろうか。50歳を過ぎてからの日豪間の旅は、だんだんと重くなってきている。体の方は若干軽くはなったのだが、気持ちの方は年々重くなる。両親のことが気になる。30代で「おじさん」と呼ばれることには苦笑いも出たが、これも考えようで。100歳を超えても「おじさん」なのだろうから、それも良かったななんて思える年になってきている。
2007年12月01日
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