全21件 (21件中 1-21件目)
1
先日、通勤のラジオのトークショーでの話題で、こちらの政治家で新聞紙上で水着姿の写真を掲載された人数は何人かというのがあった。思い出せるだけあげられた数がなんと12人だった。因みに水着とは言わずにSpeedoといっていた。12人全て男性の政治家でビキニのSpeedo姿がほとんどだ。オーストラリアと海は切っても切れない同意語的な関係にある。全国民が車で海岸までたどり着ける時間が20分だという。もっとも、この日本の20倍の大きさの国、内陸地は住めない。畢竟、多くの人が海岸に近い所に住むことになる。そんなわけで政治家達もちょっと前まではサーフィンとかに耽っていた人も多い筈。だから簡単に脱ぎたがるのかもしれない。しかし、湘南、鎌倉あたりに居を構えている日本の政治家が赤フンなんかで新聞の一面を飾ったりしたことがあるのだろうか。若い首相の部類に入る小泉さん、安倍さん、いかがなものだろう。もっとも、あまり見たい気はしないが。以前、こちらに長くオーストラリアのご主人と暮らす方から言われたことがある。「こちらの男は、『きんりょく』なんですよタコ社長。」きんりょく、金力ではなく筋力。その時、やや嬉しくなったのを覚えている。金力には全く縁のない人生だが、筋力だったら元手もいらないし、努力次第で結果は素直に出てくる。オーストラリアの男性は、機会を見つけては筋力を披露しないと未来が開けてこないのかもしれない。オーストラリアは、短期間にフロンティアを開拓してきた国だ。メルボルンのあるヴィクトリア州はゴールドラッシュの金鉱山開発で栄えた歴史がある。オーストラリの男性を称してDigger ということがある。金鉱山では、来る日も来る日も穴掘りの日々。そんな歴史を感じさせる言葉だ。そして、第一次世界大戦のときニュージーランドの兵隊と塹壕を掘りに掘った戦友たちを互いにDiggerと呼ぶようになった。オーストラリの男達は、金堀、穴掘り、塹壕堀りといろいろなものを堀りまくってきた男達なのだ。そして、大木を切り倒して居住地として開拓してきた男達だ。徳川時代まで90%が百姓で、同じ堀るのでも芋掘りとかだった日本人とはちょっと違った歴史背景をもってきているようだ。してみると、オーストラリア男性はマッチョな筋力を誇示することで、この国を切り開いて、そして国を戦争から守ってきた人達への尊敬と共感を表しているのかもしれない、と言ったら言い過ぎだろうか。私は、墓穴とかを掘るのは得意だが、庭の穴掘りとかが本当に苦手だ。すぐに息が上がってしまう。元相撲取りは瞬発力はあっても持続する力が弱い。もっとも、これからこちらの市町村選挙とかに立候補することも出来ないし、そんなこともないであろうからSpeedo姿を新聞に載せられる危険もない。但し、出たがり、出したがりの人生ではあるわけで、ちょっと血迷って昔の自分の写真をアップしたりしてはいるが。
2007年03月31日
コメント(2)
最近、ビールはタスマニアのCascadeにしている。20年間飲んできたVBが水っぽく感じられるようになってしまった。恋愛は4年で冷めるという。せいぜい4年で気が抜けるのだそうだ。恋愛とビールを比べても何も始まらないが、飽きがきたのだろう。因みに、オランダ系との恋愛は16年目に入っていて記録を更新中。
2007年03月28日
コメント(6)
英語の聴き取りができない。大学2年の時、当時付き合っていた好江と東村山の実家の二階で音楽テープを聴きながらその聴き取りをしていた。好江は、岩手の盛岡一高からストレートに大学に入学して一年留年し、浪人して入学した私と同学年になっていた。ちょっと真顔ではできないこういうことを臆面もなくやりたがる人だった。一度、私がマレーネ・デードリッヒを知らないと言ったら10分くらい罵倒されたことがある。聴き取りに選んだ曲は、今でも懐メロ的にこちらのラジオ局でも流したりするアルバート・ハモンドの「カルフォルニアの青い空」だった。彼は、この曲のあと日本でしかヒットしなかったと言われる「落ち葉のコンチェルト」を世に出して消えてしまった。少なくとも私の視界からは。聴き取り、やってみるとこれが結構難しい。最初の出だしから分からない。3行目の0pportunities の前でとうとう諦めた。何度聴いても分からない。Got on board a westbound seven forty sevenDidn't think before deciding what to doOoh, that talk of opportunities, TV breaks and moviesRang true, sure rang true「英語の歌の聴き取りってほんとに難しいね。母音がはっきりしているスペイン語の歌なんかすごく簡単なんだから。」負けん気の強い好江はそういった。そんなこと言われたって私はスペイン語の歌なんか聴いたこともなかった。因みにこの好江には大学3年の3学期にみごとに振られた。この出だしのseven forty seven がボーイング747なのか、7時47分発の列車なのか議論があったことを今回知った。ボーイングならseven four seven だろう、というのだ。しかし、ここはボーイングでないと絵にならないし実際にseven forty sevenという言い方もするそうだ。「お母さんはね、お前がオーストラリアで食えなくてね、路上で針金細工とかやって食いつないでいるんじゃなかって思っていたんだよ。よく、池袋辺りにいるだろう、こん汚い格好したのがいろいろ売っているの。本当に心配だった。」オーストラリア移住を求めて脱サラしてメルボルンに1年住んで永住権を申請し、その結果を日本で待っているとき、東村山の母がそういった。この話、まんざら冗談でもなかったようだ。「親の心、子知らず」だったのだろう。今、車で通勤しながら懐メロCDを聴く機会がある。「カルフォルニアの青い空」もその中に入っている。Will you tell the folks back home I nearly made itHad offers but didn't know which one to takePlease don't tell 'em how you found meDon't tell 'em how you found meGimme a break, give me a breakこのくだりでいつも目が滲む。カルフォルニアで会った友人に対して、国に帰ったときに私の家族にはありのままを言わないでくれ、と懇願している。こんな惨めな姿の自分をそのまま伝えないで欲しいと言っている。いろんな仕事のオファーがあって、どれを選んだらいいのかわからないんだ、といってくれと。もう少しで成功するんだと。「どう、会社はうまくいってるのかい?」「大丈夫だよ。お母さんはお父さんのことと自分のことを心配していればいいんだよ。」自分の体のことも覚束ない秋田生まれの81歳の母は私が電話するたびにいつもそう心配にそう聞く。一度もオーストラリアに来たことのない母は、まさか、今は私が路上で針金細工なんかしているとは思っていないだろうが、あまり大差のないことしかできていないと思っているようだ。たとえいつもボロボロでも、「大丈夫だよ。」というしかない。勝手に脱サラして移住して好きなことをやっている身だ。Seems it never rains in southern CaliforniaSeems I've often heard that kind of talk beforeIt never rains in California, But, girl, don't they warn yaIt pours, man, it pours「カリフォルニアの青い空」はこの文句で終わっている。「カルフォルニアには雨は降らないって聞いてきたけど。でもね、とんでもないんだよ、降れば土砂降りなんだよ。」と。タコ社長、本当の土砂降りはまだこれからなのかもしれない。
2007年03月26日
コメント(8)
「おい、タコのお父さん、今朝交番にいたぞ。」高校一年のある初夏の朝、ひょうきん者の鈴木がそう言った。中央線国立駅南口の交番に父が勤務していた。私が、調度都立国立高校に通っているときの話だ。駅を降りて左に出ると交番の前を通るが、右に出ると会わずに済む。ちょっと照れくさいこともあり、時々右に出ていた。話好きの父は出会うと同僚に紹介したりして、学校の始業時間に間に合わなくなってしまったりする。国立には、一橋大学(私は、ワンブリッジ大学と呼んでいたが)、桐朋学園、桐朋女子、第五商業、国立音楽高校(まったく他意はないが、あの私より一つ年上の天地真理さんが通っていた。)、国立音楽大学などの学校がひしめいていて、学園都市と呼ばれていた。後に、乾物屋の紀伊国屋とかもできて品がある町で、東村山から出向いていた私にはちょっと敷居の高い町だった。私は、どうしても家から歩いても行ける所沢とか埼玉っぽい町の方が落ち着く。高校時代、身長が185センチもあったので運動クラブからの誘いが激しかった。その中でもラグビーとバレーがすごかった。結局、バレー部に入った。ラグビーの激しさにはついていけそうもなかった。当時バレー部は室内コートが取れずに屋外だった。スライディングレシーブで、私も顎と胸をいつも擦りむいていた。女性が可哀想だった。「あれ!オヤジだ。」放課後のバレー部の練習のとき口が滑ってしまった。交番から父が自転車で回っていて、柵の向こうの方で私の練習を見ていたのだ。「タコのオヤジ、警察官か!?」先輩達にも知れ渡ってしまって恥ずかしくなった。「お父さん、びっくりしてすぐに見に行ったんだよ。お前が逮捕されたのかと思って。」高校2年の11月の終わり頃、高校紛争に加わって私も国立大学通りをデモった時、学友3人が公務執行妨害で逮捕され、父は背のデカイ奴3人が捕まったと聞いて一瞬青ざめたという。その頃の父とは、いつも角が立つ会話しかできなかった。どうしてうちのオヤジは警察官なんだ、と怒っても仕方のないことに腹を立てていた。それでも、いまはなき国立スカラ座の映画の只券を、毎月律儀に6枚ずつもらってきては私にくれていた父だった。その時だけは警察官の息子でよかったと思えた。げんきんなものだ。私は今、あのときの父の年代をずっと超えてしまっている。猫は居るが子はない。あんな生意気な高校生くらいの子がいたら私はどう振舞っていただろうかと思う。世の中を変えるんだと粋がって何度父と口論したか分からない。去年9月に大量出血して入院した父。12月には退院して、今は元気になっている。完全には治らないらしいが、それでも二階に上がって洗濯物を干したりできるまでになったと喜んでいた。「でもね、お前が来るまでは自転車には乗せてないの。危ないからね。」5月に帰国になりそうで、その時に父は私と一緒に自転車に乗れることを楽しみに待っているという。父は元お巡りさん、自転車は得意だ。去年の10月には父の乗る車椅子を私が押したときに大粒の涙を始めて私に見せた父。この父と一緒に5月に自転車に乗れることを、私も楽しみにしている。
2007年03月25日
コメント(2)
メルボルンにも結構な日本食レストランがある。
2007年03月24日
コメント(6)
今から25年近く前のことになる。赤坂の外人バーで知り合ったアメリカ人のサリーが台湾人の男性と品川でアパートをシェアーしている、というので何だかすごく嫌な気がしたのを覚えている。狭い日本のアパートで、見ず知らずの男と、はち切れんばかりの凹凸の激しいサリーが一緒に暮らしているというのだ。想像もしたくなかった。当時の私には到底理解のできないことで、警察官の息子としては同じ屋根の下で男女が一緒に暮らしていれば、当然なるようになるしかないといった一本筋の通った実直さをまだ持っていられたようなときの出来事だった。そうしなければ、世間に申し訳が立たないなどと思えていた。因みにこのサリーとは、その後ほどなく別れることになったのだが、私がある病院に入院していたときに、スーツにアタッシュケースという出で立ちで見舞いにきてくれたのが淡い思い出として残っている。私は、寝巻きにフンドシという姿で立ち向かった。先日、こちらでオーストラリア人の男がセクハラで逮捕された。その逮捕のきっかけとなったのは、ある若い日本人女性からの訴えによるものだった。実は、この女性を私は知っていたのだ。こちらオーストラリアのメルボルンで、私は結構若い日本人の学生やワーホリさんから相談ごとを受けることが多い。「聞くだけ人生相談」と称している。実際にカウンセラーの資格がないので、まるく話をさせていただいている。ある日、この女性(Aさん)が泣きながら私に話してくれた。Aさんは、こちらでは一般的になっているシェアーハウスを探していて、あるオーストラリア人の男性(B容疑者)の家を見に行ったという。B容疑者はとても親切にAさんを迎えてくれ、今は一人だけど2日したら中国人の女性が入ることになっているので、どうか安心して欲しいと告げた。Aさんは、日も暮れていてやや疲れてもいたのでこの家に入ることにした。ちょっと気になったのは、やたらハグしたり体に触ることだったが、こちらではそうなのだろうと思って入ったとのこと。晩御飯は、B容疑者が作ってくれスムースにシェアーハウス生活がスタートしたかにみえた。晩御飯が終わったのが夜の11時を過ぎていたので、もう寝ると告げるとB容疑者がどうしてもビデオを一緒に見ないかと誘ったらしい。何度も断ったのだが、最初から気を悪くされてもシェアー生活が気まずくなると思いAさんは少しならと一緒に見始めた。するとどうだろう、そのビデオはハードコアポルノだったという。「何で、私にこんなものを見せるの!」Aさんは拙い英語だったが大声で叫んだという。幸いしたのは、Aさんが日本で前に剣道をやっていたことで、発声が良かったようだ。芸だけではなく剣も身をたすく、だろうか。B容疑者はあまりの大声に驚きAさんに謝り自分の部屋に篭ってしまった。Aさんは、もう夜も遅いので翌朝にこの家は出ようと決めて寝ることにした。何かあると怖いので電気を点けて服を着たまま寝た。夜中に目を覚ますと消したはずの電気が点いていて、B容疑者の手がAさんの下腹部にあったのだそうだ。Aさんは、仕返しなどされたら怖いしもうこの件はもう忘れたい、と言って私の目の前で涙をポロポロと流した。どんなに怖い一夜を過ごしたことだろうか。ただ、入るときに出したレント750ドルの内、250ドルが戻ってきていないので、どうやったら返してもらえるか相談したかったようだ。それから間もなくして、こちらのTVニュースと新聞でB容疑者の逮捕を知った。Aさんは、少し時間が経って落ち着いてきたら、まだ戻ってきていない家賃の一部のこともあったが、それよりもこの男に馬鹿にされたと思うようになり、腹が立って仕方なくなってきたらしい。その後気を取り直して警察にこの件を訴え結局Bは逮捕された。実は他にも、日本人女性2人、中国人女性1人から同様の訴えが出ていたそうだ。常習犯だったのだ。1年以上前に、私は別なオーストラリア人の男が、日本人女性少なくとも2人に婦女暴行事件をはたらいた事件で助けを求められたことがあった。しかし、この2人の女性、またはそれに近い行為をされた女性達は裁判所に訴えるまでにはいたらず、この男は今も日本女性を追いかけていると聞く。日本人女性は概して、1. 「人を見たら泥棒、セクハラ人間と思え力」が非常に弱く、割と簡単に信用してついてってしまう。数年前にアデレードで日本人女子学生が殺害されている。2. 英語で話しかけられると嬉しくなり、誰でもいい人に見えてしまう。3. Noとはっきり言わない。4. 被害にあっても訴えない。などが昔から言われていて、被害も後を絶たない。一説には、日本で非常にいい思いをした外国人男性が、あの夢をもう一度的に自国に戻ってからも懲りずに日本人女性を追いかけているらしいという。随分まえのイタリアでのカバキ事件も思い出す。Aさんの今回の訴えはたいしたもので、日本女性も以前のように泣き寝入りする人たちばかりではないということをこちらの人々、特にスケコマシの連中に強く印象付けたのは大きなことだった。きくところによると、韓国人の女性などは言うべきことをはっきりと言うし、泣き寝入りなどは絶対にしないので被害に遭う確率が低いという。今回のAさんの訴えで、少なからず日本人女性に勇気がでて、被害を未然に防げたり被害に遭ったら適切に対処きたりするようになったら、Aさんは大きな貢献をしたことになる。昔、隣の芝生的に白人女性を追い掛け回した私は自分のことを棚に上げるつもりは毛頭ないが、少なくとも数限られた経験のどれもが一応同意のもとであったと思ってはいるし、願ってもいる。25年近く前に、シェアーハウスのことを初めて知って嫌な思いをした私の勘は、未だそれほど外れていないのかもしれない。シェアーハウス、これからも十分と気をつけてやっていただきたいものだ。
2007年03月23日
コメント(8)
「タコ君、12月に部品部、サービス部を引き連れてインドにキャンペーンに行ってくれ。君は一番若いけど、営業なんだからバカにされないようしっかりやらんとな。」「はい、分かりました。」私は28歳だった。建設機械会社の海外営業部2年目の時、後に社長にまで昇進した当時のA部長にそういわれた。この部長、本当に怖かった。そして、誰よりも仕事の能力のある人だった。同じ年の7月に、この部長から「君なんか、クビだ!」と200人くらいいた部屋中に聞こえ渡るくらいの大きな声で怒鳴られて飛び上がってしまったことがあった。香港の青木建設に導入しようとしていた35トンダンプのサポート体制を敷くために、現地出張を準備するように言われていたのだが、それが遅れていてとうとう部長のお目玉をくらったのだ。実は、その同じフロアーに当時付き合っていた彼女が業務部で仕事をしていた。「タコ君、部長に睨まれたもう終わりだぜ。必死でやれよ!」4つ先輩のKさんに言われた。私は必死になって香港出張の準備をした。「やれば、できるじゃないか。」出張からもどって報告したときにA部長に言われてクビが繋がった。しかし、後にも先にも褒められたのはこの1度だけだった。インド出張は、サービス部のYさん45歳、部品部のNさん42歳、販売促進部のKさん33歳と私の4人編成。これに現地事務所長のIさん、サービス員のMさんが加わる。それにしても、こんな先輩達を私がまとめ営業として引っ張っていかなとならない。本当に気が重かった。「タコちゃん、俺ね女房に顔は綺麗だけどケツが汚いってよくいわれんだよ。」好男子でナイスガイのKさんが言った。汚いケツとは、あの絆創膏の貼られた栃錦のお尻のようなものだろうかと想像したが、あまり突っ込んで想像するのも控えられた。「タコ君ね、インドのコンドームは世界一品質管理がなってなくて破れたりするからね。やっぱり、コンドームは日本製だよ。持ってきたか?」などと訳のわからないことを言って笑わせてくれたのはYさんだった。「おい、ホテルの部屋のウイスキーは何のためにあるか知ってるか?飲むためじゃないんだぞ。あれは、悪い病気の消毒用に使うんだよ。知ってたか?」Yさんと話しているといろいろと勉強になる。ジェスチャーつきで念入りに説明してくれた。コンドームにしてもウイスキーにしても私にはまったく白人女性だった。白人女性?スタイルが西洋梨の形の瓢箪形。西洋梨、洋梨、ようなし、用無しだった。Yさんとは会社を辞めるまで本当に親しくつき合わせていただいた。「おいおいタコ君、あのカウンターに座ってる白人女性いるだろう。あの隣に座ってなんか話かけてこい。」ゴアのホテルでこんな難題を私にふっかけてきたのはNさんだった。どうすりゃいいんだ。この人はちょっとクセが強くて苦手だった。営業は男ゲイシャ、行かないわけにはいかなかった。ジントニックをあおってカウンターに行って声をかけた。二言三言会話を交わしただけだったが。何でも、アメリカ人でダンナを待っているということだった。あがっていたのであまり覚えていない。それでもNさんは、「タコ君、よしよし、上出来!」とにっこり笑って迎えてくれた。因みに彼女も白人女性だったからようなしだったわけだ。こんな方々に囲まれて、緊張しきっていた私もインドでのチームリーダーとして仕事を無事にしっかりこなすことができた。出張の目的である新製品の販売も上々だった。20代の若造のときに、こういうちょっと変わった先輩達の教育を受けられたことは幸せだったと思う。そして、これらの方々は自分の専門分野においてはとんでもなく仕事のできる方々ばかりだった。こうしてインドには都合3回ほど出張し、最後の出張の翌年1984年にいろいろと考えた末脱サラすることになった。
2007年03月22日
コメント(6)
昨夜の晩御飯。定番のテイクアウェー中華。ボリュームで勝負の大食いの夜。
2007年03月21日
コメント(10)
パンツ売り場の前にチンザするF1車。場所を選んだ設定になっているのがニクイ。メルボルン明日がF1の本番だ。この車もデルのだろうか。最近、ボックスショーツなるパンツが下半身の環境に優しいというので何枚か買って履いているが、どうも座りがよくない。まずサイズがあわなかったりすると一日落ち着かないし、用を足すときになかなか手間隙がかかる。しかし、何枚も買ってしまったので、オランダ系の連れ合いの手前捨てるわけにもいかない。ちょっと見栄をはって大きめなものを買ったことが裏目に出てしまったようだ。今年のF1は、世界水泳などのイベントと重なって例年になく客入りが少ないという。私も只券などあれば別だが見に行かないことにしている。テレビでの観戦がいいようだ。ボックスショーツのいい点を一つあげるならば、それだけ履いていてもちょっとしたショーツのように見え、子供のときに下着だけで一日中すごせた頃を思い出せることだ。写真にもある色白の方のように、その姿でF1車を見ていても何の違和感もない。日曜日にはボックスショーツでテレビ観戦も悪くない。
2007年03月17日
コメント(2)
オランダのコロッケ。ドイツあたりでも同じかもしれないが、これを潰して食パンの上にのせ食べるのがいい。子供のとき、あったかいコロッケをしっかりバターをぬって真っ白な食パンにのせて食べるのが大好物だった。
2007年03月15日
コメント(2)
久しぶりに怖い統計に出会った。国の平均身長比較だ。オランダの男子の平均身長はなんと184センチだというのだ。女性は171センチ。7年も前の統計なので今はもっと高くなっているかもしれない。ここで注意して欲しいのは、これが平均だということだ。日本の平均寿命が世界一だというが、あれも平均でそれより長生きの人が可也いる。してみると、オランダではどこかの家の屋根裏などを探すと3メートルとかの人間もいないとも限らないということだ。そうでないとしても、現実には190センチを超えるカップルがうじゃうじゃといるらしい。いくら伝説のスバル360の車内が広く設計されているとはいえあれは187センチくらいの人を上限にしていたらしいので乗れなくなってしまう。因みに、我が家の愛車第一号はこの空冷スバル360だった。私が大学3年の6月4日、3ヶ月のアメリカ旅行に出かけるとき、当時警察官だった父と母、私と後に私を振った好江の4人で羽田までこのブラスバンド付きと評された車で出かけた。あまりうるさいので夜中に帰宅するときなどはエンジンを切って我が家の前の坂を下って車庫入れしたものだ。因みついでに、このシーンで思い出すのは、私が今までの人生の中で見た映画のNO3に入る「ガープの世界」のシーンだ。これは、男性なら涙なしには見られないシーン。まだごらんになっておられない方は是非!英語の題名は、The World according to Garp.で主演はこれまた私の大好きなRobin Williams. スバル360でとんだ所まで来てしまった。大きい人の多いオランダでは、家やトイレなどもそれに合わさないならなくなるだろうし、座高測定機なども日本のでは測定できないだろう。タコ社長、昔は185センチあった。今は中高年になって少し縮んでいると思われるが、30メートルくらい先から、「えらいデカイ奴だな。」なんて思える人が来るとだいたい私と同じくらいの身長の人だったりする。普段、基本的には自分より低い人がほとんどの世界にいるもので、自分よりデカイ人がいると本当に脅威だ。しかし、オランダにはその脅威が五万といるというのだ。8月にオランダに行く計画がある。我が家にホームステイしていたスザンという女性が結婚するというので招待されている。それでなくても、脅威な人の多いオランダ人。今、どうしようかと悩んでいる。
2007年03月13日
コメント(10)
週末は、きっちりとコレステラレル?。
2007年03月12日
コメント(2)
ケビンが運転する車の助手席に私が、そして日本語教師の奥さんのパティーが後ろの席にいて私たちに話しかけてくる。1981年8月、仕事で訪れたシドニーで1年前に日本で知り合ったパティーと会うことになったのだ。日本で彼女と初めて会ったとき独身の真っ盛りだった私は、パティーの醸し出すえもいえない艶っぽさに少なからず心が動かされた。28歳、人妻だった。高田馬場にあるステーキハウスで友人のSから紹介されたのがパティーだった。黒いワンピースのドレス。左肩が大胆にあいたドレスだった。赤毛に近い髪が両肩にかかりそうなまでに伸びている。ソバカスまで色っぽい。青いパッチリとした目で笑顔が絶えない。本当にステーキな夜。「今夜はね、まずレバノンレストランで晩御飯。それから、ロックスのBasementで一杯やるの。」パティーは全て日本語で私にシドニーの夜の予定を説明してくれた。週末のBasementは混んでいて3人に2つの席しかない。パティーはケビンの膝に乗ってライブを聴いている。こんなことが全て絵になる。重すぎる人ではこういうときは様にならない。ライブと人混みで話ができないほどだった。私は、ゆっくりとビールを飲むたびに二人に目をやった。パティーは大きな目でお茶目に笑ってみせた。「じゃ、ホテルまで送って行くわ。」さんざん、仲の良いところを見せ付けられた私はやや食傷気味だった。パティーは私が思いを寄せていることは分かっている筈だ。こういう役回りは考えてみると割りと得意な方だったが。出るときにトイレに行きたかったが混んでいたので行かず出た。ビル・ウィザースの歌う「Just two of us 」がカーラジオから流れている。すると、酒の入ったパティーが歌い出した。♪~ Just three of us,,,, 彼女は笑いながらそう歌っている。開けた窓から冷たい風が車を吹き抜けた。私はこばかにされているように思えた。そして、車がドメインパークに来たとき、私はもうどうにも我慢できなくなって車から降ろしてくれとケビンに頼んだ。そして、急いでドメインパークを駆けた。やっぱり、Basementでトイレに行っていけばよかった。すくなくとも心を寄せている人とそのダンナさんの前で、私は公園を駆け抜けて用を足した。本当に決まらない。何をしてるんだ。4日後、シドニーからニューギニア航空に乗って、パプアニューギニアのポートモレスビーに向かった。機内はすでにニューギニアだった。フライトアテンダントも金髪はもういない。ふと手にしたJALのWinds. 日豪の文化特集号だった。パラパラとめくっていくと、突然そこにパティーの写真が出ているのを発見。「あっ。」と言ってしまった。「どうしたんですタコさん。」シドニーで合流して同行していた丸紅の橋本さんがびっくりして聞いた。「パティー先生の日本語教室」というそのページを指して、「ちょっと知っている人でね。」私は思わずにやけてしまったようだ。「ところでタコさん、ちゃんとマラリアの注射してきたでしょうね。今回行くネシアとの境のオクテディはマラリアがすごいんですよ。雨は年間300日は降ってるし。」ギョ!私の頭からパティーのことはすっ飛んだ。
2007年03月10日
コメント(9)
明日から3連休
2007年03月08日
コメント(4)
ちょっと前のThe Age紙に載った記事と写真。日本の新聞にはこういうのは出ないだろう、などということで出したのではない。水を無駄にしないため、貯めて庭にまいたりするという涙ぐましい努力を皆がしていると伝えたかったもの。旱魃で、メルボルンでも給水制限が更に強まってレベル4になると言われている。どうなるかというと、シャワーも隣の家の人とシェアーになる。(これは未確認期待情報)
2007年03月06日
コメント(6)
うちのバアサンが、と言ったかカアチャンが、と言ったか覚えていないが、本田の創始者本田宗一郎さんが最初にバイクをつくるきっかけになったのは、自転車に乗って買い物に行く奥さんに楽をさせたい、ということだった。自転車に、小さなモーターを付けた物だった。また、伝説になっているあのマリリンモンローを、生まれたままの姿で指圧しまくった浪越徳次郎さん、苦しむ母親をみようみまねでマッサージしたことからその道の大家となられた。まさに、「必要は発明の母」でなく、「母は発明の必要」であるようだ。戦後、オーストラリア人の子供なら誰でもがぶら下がって遊んだものがある。ヒルズホイストと呼ばれる回転式物干しラインだ。しっかりとした庭の敷地が必要なので、都会などではみられないもの。因みに、隣のバリーさんの家には34年前からのこのヒルズホイストが今も活躍している。戦争から帰って失業中のヒルさんに奥さんがこぼした。長いシーツなんかがうまく干せなかったり、干すのに時間がかかったりすることを。すると、ヒルさんがいろいろなパイプを組み合わせて作ったのが、回転式物干しの第一号機となった。「ところで、あなたは私に何を発明してくれるの?」オランダ系の連れ合いがヒルズホイストの発明のきっかけの話をしたらすかさずそういった。週末は、タコ社長、1985年、立川のカルチャーセンターで実際にあの浪越先生から手ほどきを受けた指圧くらいはしてあげられそうだ。バリーさんの家のヒルズホイスト
2007年03月05日
コメント(8)
ゴールドコーストに行く度に避けて通れない尻。三度目の今回は上から撮ってみた。私は、自慢じゃないがジーンズが似合わない。フィットしない。「ジーンズは腰で履くんだよ。お前みたいに腹で履いたらオヤジの猿股だよ。」高校時代、天然パーマで小池さんと呼ばれていたOが言った。高校2年の時、学園紛争の結果の一つで制服が廃止されていた。そうか腰で履くのか。しかし、腰まで落とすと今度はブカブカ。やっぱりだめか。アメリカの歌手リタ・クーリッジを最前列正面から右に30度の角度でしっかり見上げた。サラリーマン時代、隣の商事部のSさんを誘って中野サンプラザでの鑑賞会。なんとジーンズが似合う人だろう。歌よりもその姿勢を堪能させていただいた。人がジーンズが似合うことを褒めても始まらないが、実はこの写真のような方にジーンズを履いていただきたいと思うのだが。
2007年03月05日
コメント(2)
竜馬が土佐から江戸へ剣術の修行に出るときに父親が言った忠告がある。その一つ。「色情にうつり、国の大事をわるれてはならんぞ。」剣術に励め、金の無駄遣いはするな、などのあとにこれがあった。今でいえば、東京の大学に勉学に出る息子への忠告となるのだろうか。新宿歌舞伎町あたりで現を抜かして勉学を怠ることなきように、てなぐあいだろうか。1985年、前年に脱サラしてオーストラリアに移住の手がかりを求めて出るときに栃木出身の元警察官だった父がいった。「エイズだけには気をつけろよ。」基本的には、竜馬の父と同じことを言っていたのだろうと思う。私はそのとき既に33歳だったから細かいことは省かれていたのだろう。オーストラリア21年目。父の忠告はしっかりと守られた。それを一般化した「色情にうつり」という面に関しては、若気の大至りで大目に見てもらわないとならない面はあるかも知れないが。そう忠告してくれた父は、昨年9月に病に倒れ3ヶ月入院。しかし、今は退院して元気にやっている。今日、東京は東村山で秋田出身の母と二人でくらしているこの父は84歳になった。
2007年03月04日
コメント(0)
私は自慢じゃないが、豊島園の近くにあった向南幼稚園の生徒の頃から、好きな人がいなかったことがない。俳優でいうと佐久間良子とか若尾文子とか。「この3年間、好きな人がいないんです。」と嬉しそうに話す日本人の青年と会食する機会があった。熱しやすく覚めやすい性格の極にいるタコ社長、自分でも自分の性格が非常に分かり易いし、他人からみても分かられ易い人生。今でも、オランダ系の連れ合いが、2年間の日本での生活からメルボルンにもどり、間違って私の日本語初級クラスに現れたときのことは、お互いに今とは体型もだいぶ違うが鮮明に覚えている。上気している様がクラス中に伝わってしまったかもしれない。課題はポーカーフェイスだった。誰かを好きになるということは、スポーツなんかと同じで普段のトレーニングが欠かせないのかもしれない。しかし、これとてもトレーニングが過ぎると単純な老後がおくれなくなる可能性もある。また、「いつも何かに恋をしていろ!」とはよく言われる言葉だ。但し、この場合は必ずしも対照は人間である必要なない。赤ワインとか馬とかカエルであってもいい。カエルといえば、カナダでオーストラリア人と結婚してこちらに来られた日本人の女性が、カエルが死ぬほど嫌いで、子供のときカエルがいるとわざわざ別の道を通って学校に行ったといわれていた。オーストラリアに来る条件の一つに、家の周りにカエルがいないこと、と伝えたところ、義理のお父さんは毎日カエル退治に大変だったとか。カエルの多い地方の嫁がれたようだ。オーストラリには、ケイントーというトノサマガエルを2倍くらい大きくしたようなのが五万といる。おそらくこの青年は、仕事とか別なものに恋をしているのであろう。全てが自分と同じような人だったら世の中面白くないし、より動物に近くいやらしくも感じる。もしかしたら、日本の社会は私が知っている社会と違ってきているのかもしれない。トイレは限りなく無臭、結婚は限りなく遅く、セックスと仕事は家庭に持ち込まない、アキバには電気屋以外の不思議な店が立ち並び、子供は相撲を取らなくなっている。タコ社長、自分の間尺で人を判断する力が益々強くなってきて、中高年力が自分でも眩しい。
2007年03月03日
コメント(6)
私は、世界一汗かきの部類。真夏のブリスベン、日系の方々と業種を越えての焼肉パーティー。絶対に、クーラーの下から移動しない。
2007年03月02日
コメント(8)
25年ぶりに学生時代に振られた彼女に会った。「あなたのことをギンギラギンに好きじゃないの。」と言って、去っていった人だ。四畳半一間のアパートを真っ暗にして、チューブが二本ある電気ストーブの灯りだけで話した。部屋中が赤く照らされて頬も熱くなる。「食パン焼こうか。」好江が言う。電気ストーブを上向きに倒してそこに食パンを二枚乗せた。「トースター壊れてるの。結構焼けるのよ。」好江と私は、「腰骨の仲」と私は言っていた。大学の体育の時間にダンスを取っていた。いろんな学科の人がいる。好江はフランス語科の学生だった。「ほら駄目よ。そこの二人もっとしっかり腰骨をこう付けて!」見かけによらず、ダンスの講師は怖かった。遊び半分でダラダラと踊る学生を見ていて耐えられなかったのだろう。私と好江を、これ見よがしに大きな声で怒鳴った。当然、腰骨が逃げずにしっかりと接した。真っ白なトーストが二本線に焼けてそこだけが焦げてにおった。バターを塗る乾いた音が大きい。「何で私がいつもトイレの掃除しないとならないのよ。」好江はアパートの共同トイレの掃除をどうしていつも自分がしないとならないのかと怒っていた。好江に会いに茨城県の竜ヶ崎まで行った。二年前のことだった。「カラオケ行こう!」午前11時に25年ぶりに会った好江はいきなりそう言った。「喫茶店に行ったり、レストランに行ったりしないでも、みんなカラオケで済むのよ。安上がりでしょう!」明るく新しいカラオケだった。好江はとうとう最後まで日本語の歌は歌わなかった。茨城のカラオケでこんな時間にフランス語で歌っているのは彼女だけだろう。シルビー・バルタンの「アイドルを探せ」、小学校の頃この歌にしびれた。好江は最後までこの歌をフランス語で歌いきった。大学3年のとき、半年のフランス留学から帰った好江は、それまでの彼女と全く変わってしまっていた。小脇に雑誌「ジュリスト」を抱えている。私の場合は「アサヒ芸能」とかだった。「今までの3年間ずいぶん無駄に過ごしちゃった。私、外交官の試験受けてみることにしたの。」もう彼女は、私たちの過去を否定して私の届かないところに行ってしまったように感じて、池袋のパルコの本屋から一人まだ空いている西武池袋線で東村山に帰って行った。それからの私は、いまでいうならストーカー寸前までいきそうな勢いのいい日々そ過ごした。普通、カラオケに女性と二人で行ったら、「別れても好きな人」なんかをデュエットするのがなんとなく慣わしになっているのだが、この日の二人はそれがなかったし、そんな歌、歌える題名でもない。もし私がフランス語に長けていて、ダリダとアラン・ドロンの「甘い囁き」なんかデュエットできたら歌ったのだろうが、どこのだりだ?なんてダジャレを言っているようじゃ話にもならない。一緒にいながら、別の空気を吸っているような竜ヶ崎の日は暮れた。駅まで車で送ってもらって別れるときの彼女の笑顔は、初めてダンスで会ったとき、ケラケラと屈託なく笑い続けていたあの笑顔とは違ってややぎこちなく見えた。彼女は結局定職に就くことなく、結婚して3人の子供を育て家庭教師をしたり、近くの公民館でフランス語を教えたりして過ごしてきたらしい。「盛岡から一人になった母を呼んで隣に住んでるの。あなたもご両親を大切にね。」彼女はそれから、私の両親のファーストネームを呼びながら元気かと訊ねた。「じゃ。」「じゃね。」そう言って別れた。竜ヶ崎から池袋を経由して東村山に戻った。その日はやけに長い一日に感じられた。
2007年03月01日
コメント(6)
全21件 (21件中 1-21件目)
1