2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全11件 (11件中 1-11件目)
1
「牛も知ってるカウシルズ」おやじギャクなんて言葉もなかった時代に、大橋巨泉がTVのポップ番組で言っていた。中学2,3年の頃だったろうか、確か土曜日の午後にこの番組があってよく見ていたが、このギャクとカウシルズが歌った「雨に消えた初恋」だけは鮮明に覚えている。すごく爽やかな曲だった。牛といえば乳。乳といえばこれまた古い話で恐縮だが、たしか小学校3年の頃、毎日午後3時ごろTVで洋画を放映していた。勿論、まだ白黒だった。そこで、生まれて初めて乳を見たのだ。牛の乳ではない。警察官だった父を持つ私たちの家庭では、TVとは当時はNHKに代表される、国民的番組のような品行方正なものしか映し出さないものと信じきって見ていた。乳が見られるのは、大相撲とプロレスに固定されていた。「墓に唾をかけろ」という題名のフランス映画だった。昨日会った人の名前も顔も性別も思い出せない今日この頃なのに、どうして小学校3年のときにTVで見た、しかもストーリーなど何も覚えていないのに、ただ「乳」だけのためにそんな題名まで覚える特技が残っているのだろうか。ちち帰る、なんって言っている場合ではない。海か川か覚えていないが、金髪の女性が、水中で遠慮なくそれを披露してくれた。この時のショックはすごいものがあって、それからいつも3時にはTVの前に座って映画を見るクセがしっかりついてしまった。ああいうショックというものは本当に怖いものだ。いまだにトラウマで、水中にもぐるのが怖い。人はよく、死ぬ前にそれまでの人生の細々が走馬灯のように現れてくるという。きっと、私の場合は、父と母、そうして、誰のモノかは分からないが、もう一つの乳が現れるのだろうか。それも、なかなか私なりの凝縮した人生ではあるとは思われるが。
2007年06月30日
コメント(4)
ニュージーランド(NZ)の首都と間違えやすいオークランドから、車で北に3時間ほど行った所にあるワンガレーという町で年末を過ごした。世界中に大きな衝撃を与えた、ソ連のアフガニスタン侵攻のニュースが古い大型TVから流れていた。1979年のことだった。家を囲う大きな窓ガラスから、全く誰もいない湾が展望できる。潮の満ち引きが大きく、引いたときは海底が泥粘土のようになって現れ泳げるような湾ではないが、その眺めは私の心を癒してくれるには十分過ぎるほど豊かだった。それにしても人がいない。「どう、ここからの眺め?すごく気にいっているの。移住してこない?」友人のロビンは言った。「本当によく来てくれたわね。」真夏のNZの北島は、結構暑くなる。大きな、薄い茶色の布を体に巻きつけただけの彼女は、コーヒーを片手にベランダに寄り添いながらそう言った。会社に泊まり込んだ方がましなような、そんな毎日のサラリーマン生活からは、あまりに現実離れしていて、自分がそこにいることさえ疑ってみたくなるほどだった。日本の今の生活は一体なんなんだろう。その湾を臨みながら、そう思わずにはいられなかった。3ヶ月間、毎日会社を出るのが夜の11時の生活が続いていた。因みに、このときの航空運賃が往復で64万円だった。頼んだ旅行会社のベテラン女性従業員が厚いメガネで見上げるように言った。「タコさん、すみませんどうしても年末は安いのがなくて。」どんなに高くても、この日本から少しでもいいから脱出したかった。貯金を全てはたいた旅だった。私たちは、NZ原産のカオリの木が原生する森にピクニックに出かけた。タネマフタと呼ばれる巨木は、大人が3、4人手をつないでやっと届くくらいの太い幹をしている。そんな、森を見て歩いた後に、昼食をとった。前の日に作って冷凍庫にいれてあった厚手のハムのサンドイッチは、まだ十分に解凍しておらず、噛むと歯にしみたしお世辞にも美味しいとはいえなかった。「まだ、10代のころマオリの人を好きになったの。結局、憧れで終わったけど。昔は、やっぱり人種の問題もあったし。」人口の9割がイギリス系のNZは、オーストラリアよりずっと保守的だ。でも、オーストラリアのアボリジニーよりはマオリの方が、融合が進んではいるように感じた。27歳の私には、このNZでの生活に自分を投影して見る事はできなかった。御伽噺のような毎日がただ楽しく、あっという間に1週間が過ぎてしまった。「又、きっと来てね。待ってるわ。」帰りの日、オークランド空港でロビンはそういって笑顔を作った。しかし、私の中では、もうこのワンガレーには二度と来ないだろうな、という思いが過ぎっていた。私は、まだまだしっかりと日本のサラリーマン戦士だった。「タコさん、どうしたの真っ黒!スキーでしょう?」正月休み明けに初出勤したときに、海外業務課の3つ年下の上原さんがそういって驚いてみせた。「ううん、ちょっとNZに行ってたたもんで。」気取ってみせて言おうとしたが、やっぱり途中で笑ってしまった。「えっ、NZ?すごい!今度ゆっくりお話きかせてください。」今度とお化けに出会うのは難しい、と母はいつもいっていたが、大きな目にエクボの可愛い上原さんのしっかりとした腰骨を眺めつつ席に戻った。それから、5年後の1985年に、私はこの勤めていた会社を辞め、NZではなくオーストラリアへ移住を目指して日本を後にした。
2007年06月28日
コメント(6)
伊勢湾台風が3つくらい吹き荒れたような仕事の日々だ。最近、体重が3キロ減って89キロになって軽くなり吹き飛ばされそうだ。因みに、私の目指す理想的体重は82キロ。死ぬまでに実現するのだろうか。当然、死ぬ間際には実現するのだろうが。ところで台風といえば昭和33年9月の台風22号のとき、父は東京は練馬にあった戦前にできた警察官住宅の玄関の戸を押さえながら夜を明かしたという。私は、役所広司が映画「Shall We Dance」でダンスを学んだ西武池袋線の江古田駅にあった日大病院に入院中で難を逃れている。母も6人部屋の病棟で私のベットの横に寝ていた。「お父さんが、ヤキモチを焼いてだめだったのよ。」ちょっと前に母が言っていた。父が、私が40日入院していたその病院に何日も泊り込んで、そこから警察に通っていたのは、何も子供思いの父だったということからばかりではなく、実はまだ35歳くらいの母を男ばかりの6人部屋に泊まらせるのに渋った為だったという。81歳の母の口から出る昔の父のヤキモチ話が浮いて聞こえたが、父も男だったんだとあらためて思わされた。前置きが非常に長い文章は、基本的にあまり好きではないのだが、今日の日記は前置きだけで終わってしまいそうな勢いだ。というわけで、ブリスベンから帰り風邪を引きそうなメルボルンに戻ってきて昔はみんな子供だった人たちと楽しく仕事をさせてもらっている。
2007年06月25日
コメント(2)

Bloody cold !昨日から、冬に特に憧れるブリスベンに来ている。ところが、今朝超パワーウォーキングに出たら度寒いのだ。半袖ポロに7分のトレーニングパンツ。好きな所だから、何のためのブリスベンなんだとか思っているわけではないが、どうにかして欲しい。ところで、坂本竜馬は土佐から江戸を片道40日で歩きまくっていたそうな。メルボルンからブリスベンまで約1800キロ。歩いたら何日で来られるのだろう。昔、リヤカーでオーストラリア一周した人がいたし。しかし、これでも私は一応会社のタコ社長。途中でマジソン川の橋もどきで立ち寄りなんかして行方不明にでもなったらことだ。最近、頭がフォーレストガンプになってしまっているようだ。
2007年06月20日
コメント(8)

最近、全てがスローになってきた。日記も覚束なく呆れられている。昔は、仕事中に日記書いていてスタッフにどやされたことが懐かしく思い出される。いままでの人生、大喰いよろしくガツガツと生きてきた。これからの半生は、、、って。自分でいうのも可笑しいが、いつまでも半生だ。5年前からそう言っている。55歳になった。まだ半生だ。半生だ半生だって言っているうちにあの世だろう。「タル」にもいろいろあるが、これからは、「たるを知る」半生にしたいもんだ。
2007年06月17日
コメント(8)
「馬の骨」だった。1974年6月13日。22歳の誕生日はアメリカのイリノイ州、ピオリアという所で迎えた。一緒にアメリカ3ヶ月旅行に行ったピーターソンさん一家の奥さんの弟さんティムさんの家だった。そこには3日間の滞在予定だった。夜の誕生パーティーに出てきたのはTボーンステーキ。というより、Tボーンでステーキがついていなかった。どうやっても食べようがない。これには、さすが温厚なピーターソンさんのご主人もビックリで機嫌を悪くしていた。裕福そうではないティムさんの家に、ピーターソンさんの家族4人と相撲取りのような私が滞在し、おまけにその私の誕生日。私は全く招かざる客よ、と言われているようで頭の上のトンガリ帽子が浮きっぱなしの夜となった。というわけで、その夜は「牛の骨」を眺めながらの「馬の骨」の夜と相成った。
2007年06月13日
コメント(2)
「吸いなよ。」国立駅南口にあった、「邪宗門」という喫茶店で裕子がショートホープを私に勧めた。高校3年になっていた。高校紛争の闘士裕子は、慣れた手つきでタバコを私に差し出した。吸わない訳にはいかなかった。因みに、東京の国立にはこの「邪宗門」と「ロージナ」という半世紀を過ぎた味のある喫茶店が今でもある。高校時代、学校帰りに喫茶店などには入ってはいけないと「生徒心得」にあったのだが、大学紛争のあおりを受けて私も高校紛争の端っこの方で活動していたときに、よく喫茶店に入って耽っていた。「何でござんす、デカダンス」とかいっていた。「邪宗門」は、本当に狭く薄暗い中に骨董品などが置いてある不思議な店で、一歩中に入ると下界を忘れさせてくれるような店だった。トイレも出来たときから全く変わっていないようないわゆる情緒のある日本式。このときから私の喫煙は始まったが、月に5本程度のお遊び喫煙ではあった。因みに、84歳になる父は病になり65年以上吸っていたタバコをスパッと止めた。一番喜んでいるのは46キロになってしまった母だ。私が小学校の頃は73キロあった。私にタバコを勧めた裕子とは結局何もなく終わった。私は、自分の頬が赤くなるほど盛りに盛っていたが、その気持ちが大きく空回りしたままの2年間強だった。彼女は今、東京のある小学校の副校長をしているらしい。子供の時、警察官だった父が、「これは、特別なタバコなんだ。恩賜のタバコなんだ。」といって大切に吸っていたタバコがあった。菊の御紋の入った天皇陛下からのタバコだった。昔は、天皇陛下もタバコを勧めていたようだ。日本の新聞に、喫煙者はそうでない人より寿命が3年半短いと出ていた。若いときの3年半と100を超えてからの3年半ではだいぶ人生時間が違うようにも思えるが。喫煙者は、「なんだ、3年半くらい。」というのだろうか。オーストラリアの成人の喫煙率は男性が20%、女性が16%だという。日本は、男性が40%弱、そして女性が11%。私が、日本でサラリーマンをしていた頃は、確か男性が60%くらいと記憶している。してみると男性は随分と喫煙率が低くなっているようだ。でも、この数字は体感的にはぜんぜん信じられない。私には、日本にいる日本人成人男性は、9割くらい喫煙しているように思えた。「嘘、真っ赤な嘘、そして統計」と信じられないものを並べたのはマーク・トウェインだ。統計は、隅に置けない。オーストラリア、レストランなどでは既に全面禁煙になっているが、まだ安全地帯だったパブなどもいっせいに禁煙になるという。スロットルマシーンなどのあるクラブは、喫煙者が多いので事業が危機に瀕するのではと懸念されているという。後、20年くらいしたら日本のパチンコ屋も前面禁煙になるのだろうか。「タコ君、パーラメントなんか吸ってるのか。」サラリーマンのとき、夜な夜な通っていた赤坂の、「ニューラテン・クウォーター」のみゆきさんから勧められて吸い始めたハッカ系のパーラメントを、7つ先輩の前川さんに揶揄された。「そんなの吸っていると、あっちの方が駄目になって子供ができなくなるぞ。」タコ社長、その時を境にしてきっぱりと禁煙した。今のところ、まだ子なしの生活が続いている。
2007年06月11日
コメント(0)
目が回る、とはこの日のことか、とかいう日が続いていて気も足も抜けない。しかし、頭は相変わらず回らない。どうしてか、などとは考える血筋にもない。回るといえば、子供が行っても「トシマエン」のコーヒーカップ。高校1年のとき手動で回しすぎて酔ってしまい、一緒に行った4つ年上のみさこちゃんに呆れさせてしまった。因みにみさこちゃん、自慢じゃないが三浦海岸であられもなく披露してくださった黒いビキニがしっかりと決まって私の気持ちを独り占め。しかし、どう考えてもうぶな高校生。体はデカイが気は小さい。大人の気分にちょっと浸りたい火遊び候補生の私の気持ちは見透かされ、お化け屋敷の脇に引かれて微かな抱擁まがいでいなされる。ダチョウ、否エミューの羽で顔を撫でられたような一日はあっけなく終わってしまった。年増好みはその後もトラウマのように私にウマ乗り三昧。呪縛が解けて気がついてみると6つ年下のオランダ系の連れ合いと連れ添って16年。私も、今月人生折り返しの55歳。年だけはどんどん回っていく。目が回る日は、テンションがハイハイしてきてまとわり付く。こんな夜は赤ワインでも浴びるように飲んで爆睡すべきなのだが、気持ちが日豪をとめどなく往復して取り締まれない。そういえば、先週から我が家に日本人女学生がホームステイ。オランダ系の連れ合いが、週に1、2度は晩御飯を作るようい言っていて、仕事もそこそこに帰宅の日もある。タコ社長、仕事と家庭の両立はワニがハリの穴を通るより難しいがそうしないと追い出されること必至の身の上。さて毎朝、5時に起きて歩いているので、もう寝ないとシンドイ。オーストラリア、売るほどいる羊でも数えてねることにしようか。
2007年06月07日
コメント(0)

歩くと、猫踏んじゃいそう。
2007年06月05日
コメント(0)
「屁、した?」オランダ系の連れ合いの日本語ボキャ範囲はあなどれない。因みに、こちらではオナラはまあまあOKだが、ゲップは厳禁。「所かわれば品変わる」といったところだろうか。中学二年のとき、兄が古本屋で買ってきた徳田秋声の「あらくれ」を授業中に盗み読みしていて国語の教師に見つかった。「こんなもの読んでいるの?すごいわね。」私はただ訳わからずに読んでいたが、主人公の女性がノーパンで自転車に乗っていたシーンだけ覚えている。やはり明治の文豪小説は印象深いものが多い。その本の中にあったとおもうのだが、「放ひ」という表現を至極卑猥な言葉だと勘違いしてしまっていた。後に、東大文学部に進んだ小生意気なAに確認したが、「あっ、そうね。あれはいやらしいね。」と答えていた。後になって意味が分かったときに、Aもたいしたことないと思ったものだ。放屁する。意味は読んで字の如く。「屁をこく」とかいった日常表現よりはずっと文学的だ。もしかしたら、「包皮」という同音異義語の間違いだったのだろうかとも思わないでもない。早朝のウォーキングは続いている。朝は6度くらいだから指先のない手袋もすることにした。そして、ipod を結構大きな音量で聴いて歩いている。一緒に歌ったりしているが、歌手と同じように歌っているというのは全くの自惚れ誤解。結構、音程が外れているのが常らしい。自分の耳が音楽で埋まっているので、周りの音にも気がつかないし、自分が発する音にもまったく無頓着になりがちだ。暗くて分からないときがあるが、案外側に人が歩いていたりすることもある。ゆめゆめ、気張って「放屁」などせんように気をつけないとならない。
2007年06月05日
コメント(4)

子供の時、どうやって歯磨きのチューブを使い切るか頑張ったことを思い出す。あの頃のチューブはアルミのようなもので苦労したが。オランダ系の連れ合いの考案した「大仏スタイル」歯磨きチューブ使いきり。
2007年06月01日
コメント(2)
全11件 (11件中 1-11件目)
1


![]()