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土曜日は、久しぶりにオランダ系の連れ合いと一緒に大好きなギリシャ人の町オークレイに行って買出し。まずはカフェでラテを飲んでから買出しにかかる。まずはナッツの店チーズの山いつもの魚屋さんのオーナーが代わっていた。中国人の夫婦で、英語が聞き取りにくい。中国では二人とも病院関係の仕事をしていたらしいが、オーストラリアでは魚をさばいている。肉屋さんの前では試食コーナー。陽気なギリシャ系オーストラリア人が笑顔でこたえてくれた。最後は必ずいく八百屋さん。安いので大量購入。一袋5ドルの玉ねぎ。日本円にしたら350円くらいだろうか。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月31日
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「タコさん、本通の川田さんたら私のお尻を触ったのよ。だからいってやったの。子どもさんがいるんでしょう。お父さんがそんなことしたと知ったら悲しがりますよって。」乙仲の川田さんが、私と同期入社の中川さんのお尻をコピーをしているときにさらっと触ったとのこと。共立女子大を卒業して新入社員で運輸部船積み課で働いていた中川さんは、すらっとした長身のお嬢様。顔を真っ赤にしながらも精一杯対応したことを私に伝えている。1976年に、私は建設機械メーカーの大松に入社して、7月1日付けで赤坂の本社運輸部船積みに配属になりサラリーマン生活の第一歩を歩み始めていた。乙仲とは、乙種仲買業務をメーカーなどへ出向して行う人たちで、メーカーに代わって輸出や輸入の業務の代行をしてくれる人たちのことだ。本通の川田さんは、そんな中でもベテランで、右も左も分らない私にも丁寧にいろいろと教えてくれた人だった。色が黒く、短髪で目が大きくギョロリとしていて怒ったら怖そうな人だった。現に、川田さんは短気でよく怒っていて、そんなときは近づかないようにしていた。でも、どんなことがあっても私たちは乙仲さんにとってはお客さんなので丁重には扱われていた。当時はセクハラなどという言葉もなく、そんな行為が今よりは軽く考えられていたのだろう。仕事に対する厳しさや、人間関係の大切さなどについては、川田さんから沢山教えてもらった。「タコさん、TBSの裏にゴルフの打放しがあるから、そこで教えてあげますよ。」別な小さな海運会社の乙仲さんの古谷さんがそういってくれたので、教えてもらうことになった。船積み課は、この後に配属になった海外営業部とは比べものにならないくらい暇な課で、終業時間になればほとんどの人は帰宅していた。そんな課だったから、業後にゴルフの練習もできた。実は、運輸部でも2ヶ月に一度はコンペがあって、私も始めないとならなかった。ところが、やってみるとこれが、なかなかままならない。体が大きく体力には自信があったので力任せに振ってしまう。「だめだよ、タコさん。ゴルフクラブは全力で振ったらだめなんだ。こうやってね、軽くやらないと。」そういいながら、古谷さんは40歳を過ぎた小柄な体をしなやかにゆっくりと回転させ、驚くほど遠くまで小さなボールを飛ばす。私は、更にムキになって思いっきり叩く。お陰で、練習の後は必ず両手の皮が剥けた。それも、親指とかでゴルフを知っている人は絶対に剥けない所が剥けた。「タコさんね、スジはいいと思うけど、ちゃんと私のいう通りにしないとだめだよ。」終わってから近くの飲み屋でビールを飲みながら古谷さんは静かに言った。川田さんと違って古谷さんは、どんなことがあっても怒らず静かにしかもにこやかに話す紳士だった。仕事もきちっとしていた。自分より一回りも若い二人目の奥さんと一緒に会社で仲良く仕事をしていた。「ゴルフはね、人生と同じでね、力があるからって100%の力で押し切るものじゃないんですよ。80%くらいの力で力まないでゆっくり素直に打つんです。人生もそうだと思います。サボるという意味じゃないですよ。やるときは100%の力が出せるけど、それを踏まえて80%でいくんです。」結局、ゴルフについては全く私は古谷さんのレベルには達することなく、それから長い年月そのコツがつかめなかった。当たることがまぐれか奇跡だった。そのゴルフ、ずっと止めていたが、昨年の11月に久しぶりにやってから何回か打放しで練習している内に、あの古谷さんのアドバイス通りに打つことができるようになってきた。32年も経っている。人のいうことをなかなか聞かない頑固な性格で、随分と遠回りしてきているような気がする。年を取ると益々頑固になることが普通だとすると、その頑固さも古谷流に80%くらいに抑える訓練でもしてやっていけたらいいが。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月30日
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旅も終わり、またねちっこい日常が戻ってきた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月29日
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いよいよパース最終日。ワイナリー巡りもしばらくはしなくてもいいくらいだ。昼は、海辺でピクニックだった。最終日に泊まったのは、修道院しかないような小さな村。このホテルは、昔修道士の家族が泊まったものらしい。どこを歩いてもみしみしという。そういった歴史を思いながらの最後の晩餐となった。バラの妖しい匂いにやられるチョコレートファクトリー海岸の公園でピクニック修道士の家族の宿泊所だった最後の晩餐は、修道士たちを思い実に質素に下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月27日
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21日は、フランス料理の高級材料トリュフの農園を訪れた。私は、食したことがないが、この西オーストラリアのマーガレットリバーから南に1時間半ほど車で行った所に巨大な農園があった。樫の木か、ヘーゼルナットの木の下に人工的にトリュフを栽培している。品質もよく、日本が最大にマーケットだとか。今日送ると翌日には届く、クロネコもびっくりの輸送だそうだ。フランスではメス豚がトリュフを見つけるというが、オーストラリアでは犬だそうだ。最初の写真に、こちらの代表的な動物が写っている。ブドウを食べているのだろうか。20ドルのパイは忘れられない味だった。トリュフ発見!樹齢100年の樫の木痩せて見える下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月26日
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3月20日、この日は3つのワイナリーを見て回った。車が古く、尾てい骨が痛い。昼ごはんは、豪華だった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月25日
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3月19日から23日までパースに行ってきた。今回は、写真日記にしてみた。3月19日の写真日記下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月24日
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本日から月曜の夜まで、西のパースへ旅行してきます。飛行機で4時間です。2度目のパースです。しばらくアクセスができないかもしれません。よろしくお願いいたします。では皆様、お元気で!下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月18日
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以前日記で使った表現で次のようなものがあった。― 袖振り合うも他生の縁しかし、これは間違っているのでは、というご指摘を最近受けた。正しくは、袖触れ合うも、ではないかということだった。だいぶ前の話だがタコ社長、順風満帆をじゅんぷうまんぽと読んで赤恥を書いたことがある。そして、踏ん切りは、糞切りと思っていた時期がある。なかなか切れないフンとかで。事ほど左様に漢字はいろいろなドラマを作ってくれる。分らずに使っている言葉は結構ある。そこで検索の時代、この表現もgoogleしてみた。すると、そこには大きな世界が待っていた。皆さんは、どういう風に使っているのだろうか。袖触れ合うも他生の縁袖触れ合うも多生の縁袖振り合うも他生の縁袖振り合うも多生の縁袖が触れすぎて破れそうになるほど多くの違った表現がある。中には、同音の多少とかを書く人もいるらしい。正しいのは最後の、袖振り合うも多生の縁、だという。広辞苑もこうなっていた。大昔は、袖擦り合うだったらしい。摺り合うが、触れ合うになり、そして振り合うに変わっていったようだ。後半部分では、多生が正しいという。ネットで調べた。「多生」とは仏教の言葉で、この世に何度も生まれ出ること。生と死を繰り返す「輪廻転生」「生まれ変わり」の思想です。道で人とすれ違い、袖が触れ合うようなことでも、それは何度も繰り返された過去の世の縁によるもの。すべては理由のないただの「偶然」ではなく、縁によって定められた「必然」である。ということだ。このことわざ、可也深い意味がある。他生は、前世と来世を意味していて、来世が入ると意味が通じなくなるということらしい。全く間違いではないが、多生がすっきりと納まるとのこと。私が、ちょっと気になったのは、前半の部分。擦り合うから、触れ合う、になり、そして振り合うに変わった。なんだか、人と人の距離がだんだんと遠くなっていっているのではないだろうかと思えてしまう。名は体を表すという。時代と共に、日本人はそうしてきているのだろうか。擦り合うはちょっと痛そうだから、触れ合うくらいがいいのでは、と江戸時代には百姓であったであろうご先祖様からの流れで生まれている私は思う。結果として、「袖触れ合うも多生の縁」が個人的には一番いいように思うのだが、私個人の力では、今問題になっている漢字検定協会なども含めた権威には話しの持っていきようもないが。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月18日
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ポッドキャストというラジオ放送がある。実際の放送時間に聴かなくても後で自由にi-podなどのダウンロードして聴くことができる便利なものだ。今、ラジオが面白い。トークショー、いろいろな語学学習、落語などの趣味の番組などありとあらゆるものが聴ける。私も、いくつかのポッドキャストに登録してダウンロードして楽しんでいる。そんな中ポッドキャストの番組に「新刊JP」というのがあって、毎日1冊の新刊を紹介していてる。本の概略だけではなく、一部中身のプロによる朗読なんかもあり結構人気があるようだ。ここに、タコ社長の本の紹介が出た。これも出版社の広告の一部ではあろうが1日に200冊も新刊が出る中で紹介されているのは何とも嬉しいことだ。ナレーターの朗読を聴いていたら、これが一体自分の本なのかと思えてしまった。しかし、こういう番組で紹介されたからといって、これが売れる売れないに関わることはそんなにないようだ。ちょっと面白いので、皆さんにも下の文字をクリックして是非聴いていただきたい。その場でも聴けるし、ダウンロードして後で聴くこともできる。新刊JP下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月17日
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「父がね、バイアグラを使ったって言うのよ。」友人の家で出会ったオーストラリア女性がそう言い出した。お父さんは75歳になるという。「医者に行って処方箋を書いてもらって、薬局でバイアグラを買って持ち帰って歩いているうちに、その金額があまりに高いので、そのまま戻って払い戻ししてもらったらしいの。」お父さんは、それからしばらくして病院に行って担当医にこの経緯を話した。高過ぎて止めたと。そうしたら、その医者がじゃと言ってサンプル品をくれたというのだ。お父さんは、喜んで家に帰って早速飲んで椅子に座って叩いたりして変化が起こるのを待っていたらしいのだが、まったく何も起こらない。その内、諦めて寝てしまったそうだ。お母さんがその間、一体どういう気持ちで事の経緯を見守っていたのかは知る由もない。「ところがね、夜中の1時ごろにになって、掛け布団がだんだん盛り上がってきたというの。」それからのことは割愛させていただくが、こちらの人は概してセックスに対する話に躊躇がない。自分の両親の話だがこの両親もオープンに話しているようだ。日本の実情とはだいぶ違うように思えるが。「あなたも、彼女のお父さんに会って話を聞いた方がいいんじゃない?」オランダ系の連れ合いが私にそう言った。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月17日
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オランダ系の連れ合いの義弟の52歳の誕生日に行ってきた。20人くらいが集まった。バーベキューの肉も十分。久しぶりにハメを外した。下の箱をポチッとクリックお願いいたしますmayu0208さんのデジャブとのご指摘で探してみました。ありました。mayu0208さん、後姿でよく分かりましたね。バーベキューの背景と義弟の体型がやや変わっていますが。
2009年03月15日
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「タコさん、ちょっとこっち来てキュウリを切って下さい。」永住権を求めてメルボルンの日本食レストランで働いているとき、ヘッドシェフのアキラさんがそう私に言った。「結構いいじゃないですか。」割と手早く切ってみせた。「終わりました。」「あれ、あれ、あれ。」アキラさんは切ったキュウリを持ち上げながら3回言った。見事にキュウリがつながっていた。私は、割と手先も不器用。何でも難なくこなす人の対極にいる。焼き鳥や餃子もうまくできない。焼き鳥といえば、こんなに手間隙かかるとは思わなかった。そのくせ食べるときはアッという間だ。餃子も然り。レストランで働いて、食べる側に立ったとき作る側のことを考えることができるようになったことは収穫だった。このレストランで約10ヶ月働いた。終わりの頃にはキッチンから出されてしまい、フロアーマネージャーになっていた。どうもシェフとしては見込みがなかったようだ。家で今キュウリを切るときは、その鮮やかさにオランダ系の連れ合いが目を見張る。そして、繋がってもいない。レストランで働いた証しはこれだけになってしまった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月14日
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「ちょっと、ちょっとタコ君、聴いてみる?」ソ連東欧課の井村さんが、トランジスター型のポータブルテープレコーダーの音楽をイヤホーンで聴かせてくれた。昭和54年の11月、勤めていた建設機械会社の部の旅行で箱根に行ったときことだった。あまりに鮮明に聴こえる音にただ驚き入ってしまった。それまでの片耳だけのイヤホーンとは天と地ほどの音の違いだった。何という臨場感だろうか。井村さんは、今でいうところのオタクのような感じの人で、このレコーダー本体は可也高かっただろうと想像がついた。そして、同じ年に一世を風靡したウォークマンが発売になっている。あのときの私の感動が小型になって世界中に爆発的に広まった。オーストラリアに永住権を求めて最初に入った1985年、私はソニーでなない他社のウォークマン(正確にはこの名称は使えないだろうが)を購入して持ち込んだ。そして、いきなり一ヶ月のバス旅行に出かけた。オランダから旅行に来ているという1952年生まれのそばかすだらけのアデールがバスの中で歌い出した。オランダ系ではなく、純粋なオランダ人だった。ウォークマンをつけながら突然歌い出す人がいる。そして、人のことは言えないが、自分の歌がいかに音楽に合っていないのは全く気がつかないことが多いし、小さな声で歌っていないと本人は思っているが、結構周りに響き渡っていたりすることもある。アデールが歌っていたのは、ポインターシスターズの「Slow Hand」という意味深な歌だった。アデレードはエアーズロックのあるアリススプリングスまでんバスの中、こんな歌を私の隣で歌ってニコッとしたりしていた。時代は大きく変わってi-podの時代になった。朝のウォーキングではシャッフルという小さなi-podで元気付けてもらいながら歩く。動画の見える大きなi-podも結構使っていたが、ある日水の中に落とした。見た目には完璧に写るi-pod だが、水に入れると壊れるんだということを知った。「じゃ、私が保険会社に求償するわ。」オランダ系の連れ合いが心強いことを言ってくれる。領収書がない。彼女はそれでも奮闘して、来週アップグレードしたi-podが届くことになった。結構苦労したようだが、現物を査定してもらったりして勝ち取ったとのこと。「それからね、ここ数年どこを探してもないタイで買ったダイヤモンドの指輪の求償もしてもらえることになったわ。$1,800相当のものを買えることになったの。」オランダ系の連れ合いは、決して「Slow hand」などではなく、日本語でいうと「やり手」の部類に入る人だと思う。次のi-podはゆめゆめ風呂などには持ち込まないようにしないとならない。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月13日
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久しぶりにオランダ系の連れ合いとウォーキングの日曜日。家から5分の公園は乾ききっている。英語では、Dry as a bone. 雨の多い冬が待ち遠しい。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月11日
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「やっぱり音楽はクラシックですよ。なかでもモーツァルトですね。えっ、クラシックを聴かないの?駄目だよ、それは。」中学3年のときにクラスに松村という学生がいた。成績は中の上くらいだったがエリート顔をしていてどことなく近づきがたいところがった。そんな松村がクラシックだという。駄目と言われても、困ってしまう。私は、クラシックは音楽のクラスで聴く程度で家で聴いたことはない。ビートルズが聴きたくて、小さなおもちゃのようなクリーム色のカバーのレコードプレーヤーを前の年に買ってもらっていた。初めて買ったレコードはビートルズの「ヘルプ」だった。ドーナツ版だった。中学3年の春に、住み慣れた練馬の警察官住宅から東村山に引っ越した。平屋の二間の長屋から二階建ての新築の家に引っ越した。警察官の安月給では練馬には家は建てられない。当時はとんでもなく田舎と思えて東村山の秋津という所だった。ちょっと行くと田んぼもあった。次の駅は埼玉県の所沢だった。その家の二階で、松村から借りたモーツァルトの交響曲第40番を聴いた。何度も何度も聴いた。その内、立って聴き始め気がついたら指揮者になっていた。しばらくすると、鮭の焼いた匂いが漂ってくる。「ご飯だよ。」下から母の声がして現実に戻った。モーツァルトを途中で終えて、狭い急な階段を下りて食卓についた。私は、小学校5年のときからフランク永井の「君恋し」を歌っている。私のクラシック熱は、このレコードを借りていた2日間で終わってしまったようだ。駄目なのだろうか。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月10日
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最近は、ベーコン、エッグの朝ごはんなどは自宅ではほとんど食べないが、旅にでるとちょっと多めの朝ごはんになる。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月08日
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古い雨戸の節穴からの僅かな光が、障子にきれいな総天然色の絵を浮かびあがらせる。日曜日の朝はゆっくり起きる。周りは真っ暗で両親もまだ床の中だ。小学校低学年の頃のことだった。東京練馬の警察官住宅に住んでいた。一番近い駅は豊島園だった。六畳と四畳半の二間の本当にマッチ箱のような家だった。そこに3学年上の兄を入れて家族四人で住んでいた。「今日は、西武デパートに行って買い物だよ。」まだ三十半ばだった母がいう。自分の行動範囲が本当に狭かった頃だから、電車に乗って池袋に出るのが一番の楽しみだった。出かけるときはいつも母と兄と私が先に家を出る。父は、どっからでも入られてしまいそうな家を、それでも厳重に戸締りしてから私たちの後を追う。警察官住宅にも度胸のすわった泥棒が入ることがあった。もっとも、盗まれるような物は何もなかったが。遊園地の豊島園がある駅は、幹線から一駅だけ外れる形で走っていて、今でもこの一駅間は単線だ。まるで両側の家の庭を通るように走る。子どものとき、親子四人で出かけた記憶はあまりない。父は、3日に一度泊まりという生活で、カレンダー通りに休みがこない。たまたま日曜日が休みになることがあった。だから、そういう日は特別だった。「タコのお子様ランチだけがなかなか来ないね。」西武デパートの8階の混み合っている食堂で昼ご飯に定番のお子様ランチを頼んだ。私のだけがいつまでも来ない。やっときたときは、皆はほとんど食べ終える頃だった。兄のが先にきたので喧嘩になった。私は怒られた。やっときたとき、もう半分泣きながら日の丸の旗を倒さないようにご飯を崩して食べた。あの時、私は四人の中で一番小さかった。いつも早足で歩かないといけなかった。時々は走ったりスキップしたりした。小学校六年になったとき、兄の身長も抜いてしまって私が家中で一番大きくなった。174センチあった。兄とはそれ以来喧嘩をしなくなった。そして、もう四人だけで出かけることもなくなってしまった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月07日
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ロシア人は男同士でキスをすることは前に書いた。両頬にそれぞれした後に唇にする。ロシア人だけじゃないと思うが代表として。オランダ人は男女で頬に3回、フランス人は4回ときく。余談だが、今飛ぶ鳥を落とす勢いの佐藤優さんの本によると、男同士で親しくなったり信頼関係のある人は最後の唇で舌を入れるという。こちらでは、知っている女性には握手はせずにハグをしながらキスになる。子どものときからそういう風に育ってきたら別だが、最初はなかなか慣れなかった。自然にできないのだ。でも、今は慣れすぎて逆に自制が必要なくらいだ。要するに、西洋の国では子どものときのスキンシップが一生続くといえるかもしれない。「えっ、タコはお母さんとハグしたりキスしたりしないの?」先日、こちらの人からそう聞かれて、どう答えたらいいのか戸惑った。こちらの物指しで測るとそういうことをしないのは愛情が足らないからだ、ということになる。秋田出身の東村山の母にキスでもした日にゃ、張り倒されることは間違いない。こんな西洋社会に20年以上身をおいていると、そういうスキンシップが当たり前になってきて、日本に1人で帰国していると妙に物足りなくなる。かといって、隣のオバサンにハグなんかしたらセクハラで警察に逮捕されてしまう。慣れというものは恐ろしいものだ。オランダ系のダッチつれあいはオーストラリアに残しているし、柱でも抱いている他ない。でも、以前はあまりスキンシップのなかった両親に対して、今は少し変わってきた。父とは握手、そして母とは握手と肩に手をかけたりしている。父とも母とも一生キスをすることはないだろうが、これが私にとっての精一杯のスキンシップだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月06日
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珍しく接待される側で、中東レストランに行ってきた。赤ワインを飲むまでは覚えていたのだが、風邪気味で飲んで一体中身は何だったのか覚えていないが、いやに美味しかった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月04日
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「タコ、子どもはいるのかい。」ブリスベンの出張を終えて空港にタクシーで向かったときに運転手のMがそう聞いた。名前を聞いたのだが忘れてしまった。覚えにくい名前だったこともある。彼は、インド人かと思ったらソマリア人だと大きな声で怒鳴るようにいう。名前を名乗ってタクシーを呼んだとき、着くなり「タコ?タコ?」と笑いながら大きな声できいた。面白い奴だなと思った。ソマリア人。今まで会ったり話したりしたことがあるだろうか。今、世界的に名が知れている国だ。海賊の国。そして、10年以上内戦が続いていて国内が大混乱している国。「移民してきて5年だ。家族はいない。内乱を避けてきている。ブリスベンは最高だ。」運転中に3度も携帯が鳴り、その都度ソマリア語で大声で話す。そして時々大きく笑う。スピーカーで手放しで話すが、ソマリア語なので何を言っているのかさっぱり分からない。こんな運転手は始めてだ。Mは、顔の形はオバマ型で割りと小柄だが、唇の上に大きな傷跡があって、英語の発音が鼻に抜けてしまい聞き取りにくい。もしかしたら、内戦での負傷かもしれない。「子どもがいないなら、どうだタコ、タイに行って子どもを作れば。」Mが言ったことが一瞬飲み込めなかった。子どもは粘土細工のようにして作る訳ではない。「子どもがいなければ、財産を引き継ぐ者がいないじゃないか。どうするんだ。だから、タイに行って若い女性と一緒になって子どもを作る。誰にも言わなくていい。黙ってするんだ。そうすれば、お前の名前も受け継ぐ子どもができるんだぞ。こちらの生活はそのまますればいい。」別れ際に車から荷物を下ろしながらMはもう一度言った。「タイに行って、子どもを作れ。」内乱で家族がバラバラになったり死に別れたり人が数え切れないほどいるソマリア。そんな国から来たMからの発言だった。冗談とも思えない重みがあった。まったく他意はないが、私は大学でタイ語を専攻している。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月03日
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自分が本を出して、本の扱いが変わった。私は、本を買うとまずオビを捨てる。そしてカバーも捨てる。本には線を引いたり書き込んだりする。曲げる、折る。トイレでも読む。活字を大切にするが、本自体はもうメチャクチャにしている。オランダ系の連れ合いは、この方法が気に入らない。綺麗に読んで線など絶対に引かない。連れ合いは実は本をほとんど買わない。図書館で借りたり、友達に借りたりする。だから当然綺麗に読む。時々私は、本の役に立つところを破って後は捨てたりもする。本を出して、オビも表紙も絶対に捨てない本に初めてであった。これからは、本自体をもう少し大切に扱おうと思う。「タコさん、本というのは大体出して3週間から一ヶ月するとどさっと返品が出版社にされるんです。考えてもみてください。大体、日本では新刊本が一日に200から300冊あるんですよ。それが、取次といわれる会社から全国の本屋さんに配本されるんです。次から次へと、嫌になるほどダンボールで届くんです。」本を出したことで、出版界のことが少しずつ分かるようになってきた。小さな本屋にそんなに本が来たら、売れない本はどんどんと返品しないと本を置くスペース、在庫のスペースもなくなる。容赦なく返品になるということだ。確かに、自分が本屋だったらそうだろう。中には、全くダンボールを開けないで、そのまま返品になるものも少なくないという。ここからが本題。出版社は在庫になっている本は資産となりそれに税金がかかるという。そこで処分しないとならない。そんな本は、私が輸送費を負担して全て欲しいところだ。自分の本は、一冊も無駄にはしたくない。ところが、そうはいかないという。在庫を無税にするためには資産価値を無くさないとならない。捨てたり流してはいけないのだそうだ。全ての在庫は、「裁断処分」されるという。一冊残らず無残に切り刻まれるというのだ。まるで、自分の子どもがギロチンにかけられるようなものだ。本を出して、本を大切にすることを覚えた。そして、本を出すことはごく一部のベストセラーを除いて、悲しいことでもあることを知った。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月02日
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朝早く起きてブリスベン川のほとりをウォーキングした。まだ開けていないカフェの側に来たら急に涙が溢れ出てきて止まらなくなった。ちょうど5年前、日本からの留学生を扱う事業展開をこのブリスベンでも手がけるために1人で事務所セットアップに奔走していた。ショーツにTシャツ姿で汗をかきながらも街中を駆け巡っていた。そして、メルボルンに続いて第二店舗目をこの地にスタートさせた。オランダ系の連れ合いも何度かこの地を訪れている。2003年の11月、カフェで熱く事業展開の夢を語り合った。メルボルンも大好きだけど、ブリスベンの将来性にも賭けてみようという私の思いを彼女もしっかりと支えてくれていた。こうして、2004年4月に始めたブリスベン事務所は、残念ながら2007年7月に閉鎖することになり、事務所の賃貸契約が5年あったので、残りの契約期間を同業他社の方に使っていただいていた。それが、2月28日に切れるので私も最後の後始末に出張してきていた。いろいろな背景はあったが、経営者として事業の継続ができなかった責任は大きい。情熱をもって仕事をしてくれていたスタッフを裏切る結果となった。そのため、私も体を壊した。連れ合いと夢を語ったカフェをウォーキングした。いろいろあったが、今回は久しぶりにこの街を楽しもうと思っていたが、やはり抗しきれない感情が吹き出してしまった。「タコ社長、我々若い者が社長のお気持ちを受け継いでこのブリスベンを盛り上げるために頑張ります。」メルボルンに戻る日の午前中、飲食店で成功しているSさんの店を訪れた。Sさんは、歯切れのいい言葉でこう私に言った。そして、毎日飲んでいるというニンジンリンゴジュースを隣の店で買って私に出してくれた。そのジュースは、あまりに大きすぎて飲みきれず、手に持ちながらSさんと別れた。30メートルくらい歩いて角を曲がるとき振り返るとSさんはまだ立っていて、深々とお辞儀をして見送ってくれた。彼の笑顔が見えるようだった。私は、大きく手を振って別れを告げた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月01日
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