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今朝5時におきて恒例のウォーキング、思わず手袋をしてしまった。なんと3度。メルボルン、4月としては50年ぶりの記録的な寒さとか。地球温暖化、どこ吹く風。北極の氷は増えているというし、オゾン層の穴も埋まっているらしい。物事、やや斜に構え冷静に見ていかないと振り回されてしまう。ちょっと前には、地球は氷河期に向かっている、なんてことも言われていた筈。ところで、今日で四月も晦日。今夜はスタッフの歓送迎会で定番の韓国レストラン。思い切りキムチ、唐辛子、ニンニクで寒さを吹き飛ばす夜となりそうだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月30日
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メルボルンは、ギリシャ人を抜きにしては語れない。怒られる。アテネ、テサロニケの次にギリシャ人が多いのがメルボルンと言われている。日本からの友人との最後の晩御飯はグリークでしめた。食べる前に撮るべきだった赤ワインのダイエット効果に期待して。ランキングに参加しています。下の箱をクリックお願いいたします
2009年04月29日
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ヒッチハイクをしたことがある。1985年12月、ニュージーランドを旅行中のことだった。3台やった後、ぜんぜん止まってくれなくなりアズキ色の重いバックパックを背負って歩き出した。炎天下3時間以上も勾配のある道を歩いた。限界を感じた頃、大型バスが通ったので手を上げたが駄目だった。それを見ていた羊たちが笑った。少なくとも、私には笑っているように聞こえたし、そう見えた。憎たらしい羊たち。それにしても羊が目立つ国、ニュージーランドだった。後で知ったのだが、当時ニュージーランドには羊が6,000万頭、そして人間が300万人しかいないということだった。目立つわけだ。まともに戦ったら負けてしまいそうだ。今、世界中で温室効果ガスが大問題になっている。このニュージーランドでは、その原因の50%が羊や牛のゲップやオナラだという。俄かには信じがたいが、人の数の20倍もいる羊だと聞くと納得してしまう。羊や牛がメタンガス発生の元凶なのだそうだ。では、タコ社長が住むオーストラリアはどうかというと、これが14%なのだそうだ。これも実に大きな数字ではある。やはりオーストラリアは農業国など知らされる。じゃ、オーストラリアの代表的な動物カンガルーはどうかとみてみると、これがなんとそのゲップにもオナラにもメタンガスがほとんど含まれていないそうだ。胃の中に特殊なバクテリアがいてメタンガスを出さないのだそうだ。オーストラリアでは、温室効果ガスを減らすためにこのカンガルーが体内保有するバクテリアを羊や牛に植えつけるという壮大な研究が始まっているようだ。それとは別に、羊と牛の数を減らし、カンガルーの肉をもっと食べるようにと唱えている人もいる。こう考えると、カンガルーも踏んだり蹴ったりで可哀そうになる。バクテリアを有効活用されたかとおもうと、食肉にされてしまうなってまるで悲劇だ。私もちょっと、かんがる。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月29日
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オーストラリア料理といえばミートパイ下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月27日
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「ウォシュレット、ないの?」現在、日本から訪問中のAさんが、我が家に到着早々言われた。日本人は今シャワートイレが常識化して、これがないことを理由に海外旅行を渋る人もあるという。しかし、そう言われてもタコ家にはシャワートイレはない。10年近く前に、模造品を会社で取り扱ったことがあったが、自分の家には入れなかった。オランダ系の連れ合いの両親が1台購入、現在は2台になっている。とはいっても、Aさんを1時間離れた連れ合いの両親宅にトイレのために連れていくことは叶わない。それにしても、日本のトイレも変わったものだ。子供の時は、東京は練馬の警察官住宅に住んでいた。バキュームカーができる前は、近所の保戸塚さんという大きな農家のおにいさんが大きめのリヤカーに、これまた大きな樽を6つ積んで汲んで歩いていた。キャベツ畑などの肥料に使用していた。ある風の強い日に、畑に肥料を撒いている保戸塚さんのおにいさんをじっと見ていた。おにいさんは、痩せ型で長身色黒、そして目がクリクリとしている。マジメな顔で一心に人糞を撒いている。可也前に撒いたところから乾いた新聞紙が春の風に舞う。遠めに見ているとそれが実に綺麗だった。匂ってもこない。日々の生活で、物の流れの循環が途切れずに静かに自然に回っていた。あの頃は、それが永遠に続くように思えていた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月27日
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日本からの友人夫妻を迎えての初日にディナーはこんな感じで始まった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月25日
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「タコさんはずるいよな、一緒にやろうって言ってたのに。」1979年5月から3ヶ月間、静岡県の富士宮にあった「貿易研修センター」に勤めていた会社から順番に従って派遣されていて英語と貿易実務を学んでいた。そのセンターの町の人々を呼んでの祭りが7月にあり、出し物として私たちは、「人間インベーダーゲーム」を発案してやることになった。水を入れた小さなゴム風船を、インベーダーに見立てた人間目がけて当ててもらうという可也の過激な企画だった。その人は、当てられた痛さに耐えながら、破けた風船の水で、一晩中水浸しとなる。同じドミトリーのAさんはこの役で大変な目にあって後でえらく嫌味を言われた。Aさんは大学の工学部を卒業して就職したがそこを辞め、YMCAホテル学校でホテル学を究め、北関東の温泉協会に所属する温泉宿のホテルマンとしてやっていた異色の経歴の持ち主だった、見た目は生真面目なエリートサラリーマンだが、実際は俗世界に詳しい人間味のある人だった。私は、途中までこのインベーダー役をやることになっていたが、直前になって怖気づき、体育館で行われたディスコの照明係りに鞍替えしていた。ずるいと怒られて当然だった。都会で働く独身男性が多いこの研修所のお祭りとあって、地元の若い女性などが大挙して訪れてきた。ディスコはそんなムンムンとした熱気で賑わっていた。インベーダーゲームの仕事を終えて酒も入っていたAさんもディスコに加わった。流行っていたYMCAを皆で踊った後、スローダンスに入った。「タコさんね、俺ね、デートの約束したよ。来週の水曜日に一緒に踊った彼女と会うことにしたんだ。タコさんも一緒に来てくれるよね。」一緒に踊った女性が友達を連れてくるというので4人で会うことになった。私は、全く趣味じゃない女性だったので行きたくなかったが、Aさんには借りもあり行くことにした。ディスコ会場は可也暗くて酔って踊っていたら相手のことはよく分からないくらいだった。約束の水曜日、待ち合わせの喫茶店に現れた人を見てAさんは言葉を失った。それでも、4人で食事をしてそこその話をして、割と短時間に別れた。「タコさん、俺、随分と酔っていたんだね。だいたい、タコさんが悪いんだよ。インベーダーゲームをさ、俺に押し付けてさ。俺、疲れていたし、、、。」「済みませんでした。」勿論、その女性とは二度と会うことはなかった。お互いに悲劇だった。Aさんは、この研修所で30歳の誕生日を迎えた。私は、27歳になった。年上のAさんは、この後私の親友となった。研修所同期の仲だ。3ヶ月、寝食を共にしてちょっと人に言えないようなことも含めてハメを外すこともあったりして親しさが深まっていった。噂では、ここにいる間に飲み屋の女性とできてしまって離婚した人もあったとか。事ほど左様に、研修員のその後の人生を大きく左右する3ヶ月となった。こういう私も、ここで出会ったニュージーランド人やオーストラリア人の日本語教師がいたことが、5年後に会社を辞めたときその後どうするかで大きく私の気持ちを引っ張っていっていく結果となった。会社にとって何のための研修だったのだろうか。明日から4日間、このAさんが22年ぶりにメルボルンを奥さんと訪れる。知り合って、調度30年になる。あれから30年。私は本当にオーストラリアの住人になってしまっている。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月24日
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事務所の近くのタイ料理屋さん。従業員がほとんど男性、しかも、、、、下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月23日
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場末のキャバレーにあるようなミラーボールが、アンバー色の薄暗い電灯と、ジュークボックスの回る光を受けながら、それらの光をやっと散らしている。今はこの部屋は、従業員たちの着替えの部屋となっている。薄汚れたジーンズから、白いYシャツと黒いズボンに履き替え、細身の黒の蝶ネクタイを締める。その間、勝手にジュークボックスの音楽を聴く。私はいつも、アメリカの「名前のない馬」と、カリー・サイモンの「うつろな愛」を聴きながら着替えた。彼女の歌う、You are so vain. かっこばかりで虚栄心が強く中身がない。自分のことのように聴こえた。逃げていた。何もかもから逃げたかった。教会から、大学から、恋愛から、何もかもから逃げたかった。大学2年の春休み、そんな思いを引きずって、池袋西口の小さな喫茶店で午後から夜にかけて隠れるようにしてバイトをしていた。一つ年上の面長で目だけがぎょろぎょろした新藤さん。厨房にはいつも甲高く笑って注文に「はいよ」と気持ちよく応えてくれる山田さん。マネージャーは、小柄だけどいつもサウナに入ってから綺麗にパーマをかけた頭で出勤の恩田さん。ここに一歩入ると誰にも見つからないような安堵感から、全く違う自分になりきれた。それが本当の自分だったのかもしれないが。「タコ君、今日の賄いはカニピラフだよ。」山田さんが大きな丼に山盛り入れて出してくれた。落ち込んでいても食欲だけは旺盛だった。生まれて初めて食べたカニピラフ、美味しかった。毎晩暇なときは、目の前のロサ会館にあるエロ映画館に入る人たちを見ていた。時々、カップルがいたりして、そんな2人の関係を想像したりもしていた。4月になって、大学3年生の授業が始まり、私はこのバイトを終えることにした。続けることもできたし、学友の中には御茶ノ水の喫茶店でずっとバイトを続けて120万も貯めてフランスに行った者もいたが、私は中途半端な気持ちのままで下界に戻ることにした。教会も、大学も、恋愛も、ちょっとだけ隙間ができたがまた元のまま動きだした。You are so vain. うなづきながらの日々が始まった。ランキングに参加しています。下の箱をクリックお願いいたします
2009年04月23日
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オランダ系の連れ合いの同僚のロシア人の女性のお宅に呼ばれて行って来た。ご主人は、ニュージーランド人。料理は、奥さんの出身のウクライナ地方の料理とか。ボルシチスープでスタートした。美味しくなかったら残して、と言われたがなかなかよかった。魚をゼラチンで固めたもの。チーズをパスタでくるんで周りに置き、チキンを煮込んだもの。これは抜群だった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月22日
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「先日の手紙を読んですぐ返事書いたのよ。でもねポストに入れないでハンドバックに入れてある。」予備校時代の英作文に使った大学ノートの裏を使って私と早苗との筆談が始まった。「宣教師になるつもり? 本当は今ここで話せるといいんだけど、今日に限って客の入りがいいんだからね。」働いている喫茶店のカウンターで早苗は、牧師と書こうとして宣教師と書いたみたいだった。私は、やや離れたテーブルで彼女を見つめていた。「書いた手紙が欲しい。俺は信仰に就いては不安定で宣教師になるなんて考えていない。」19歳でキリスト教会に通っていた私は、やや気負ってそう書いた。「活字にすると、自分のありのままの気持ちなど伝えることができないから嫌いです。」結局、彼女からその手紙をもらうことは最後までなかった。喫茶店内は混んでいて、ウエートレスの早苗と話ができない。バイトの彼女とは一ヶ月前にこの店で知り合った。そのときは空いていて話し込んでしまった。大学の入学式の前日だった。一ヶ月の交際の間、言わないでいた自分の信仰のことを書いて三日前に手紙を出していたのだ。自分の信じているものを分かって欲しかった。早苗は、婚約者との仲がこじれ、隠れるようにしてその喫茶店でバイトをしていた。高田馬場にあるW大学の教育学部に前の年に入学していたが、いろいろあって留年したという。そして、学生結婚をしようとしていたようだ。でも、本当のところは何も分からなかった。どこまでが本当で、どこからがウソなのか冷静になれば分かったのだろうが、恋は盲目を地でいっていた。破局はあっけなくきた。会ってから2ヶ月も経っていなかった。「事情があって、家を出ることになったの。ごめんね。もう会えないわ。」「あなたは、本当の私を知らないのよ。」電話での会話だった。本当の私ってどんな私なんだ!昭和47年6月の8日、来るなといわれていた店に無理に行って話そうとした。彼女は、私を完全に無視した。生まれて初めて結婚と言う言葉を頭に過ぎらせた彼女は、本当に家出をしてしまって二度と会うことはなかった。予備校で使っていた大学ノートの裏表紙に書かれた早苗の整って読みやすい文字と、自分で書いたのに自分で読めないほどの殴り書きの私の文字だけが残った。彼女は、いったい私の書いた文字が読めたのだろうか。タコ社長、いまだに悪筆だけは自慢のタネだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月21日
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「お母さんも呆けたのかね。嫌になっちゃうね。」今年83歳になった母が、前回の帰国のときにそういう。「本屋は古本屋にしてるんだけどね、水上勉の『飢餓海峡』文庫の上下を買ってきたんだよね、この間。そうしたら、前に買ってあったのよ。バカだねお母さんも。」母は、本を読むのが好きだ。松本清張とか宮尾登美子なんかがいいようだ。「何ってたって『飢餓海峡』は面白いんだよ。」記憶がはっきりしないが随分前に私もTVドラマで見たと思う。でも原作は読んでなかった。それぞれ二冊ずつあったのワンセットもらって帰って読み始めた。何でも、新聞の1年の連載で書いていて1年経っても話が終わらす、途中で連載が終わってしまったという。なるほど、ちょっとくどいほどのペースが続く。でも不思議なもので読み始めたら早く最後まで読みたくなり読み終えた。1965年の映画は、三國連太郎、左幸子、伴淳三郎、そして高倉健が主演していて大ヒットしたらしい。このメンバーで面白くない筈はない。原作の冗長さを映画がカバーしてくれると思う。今度の帰国ではDVDを買って両親と見ことができたらと思う。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月20日
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「私は、最近飲み食いの連続で2キロも太ってしまいましたよ。」昨夜のパーティーで話していた初対面のオージー青年にそういった。「実は、私も2キロ太ったのですが、私の場合は筋肉が増えました。」確かに筋肉は重い。20代後半の青年だろうか。以前、日本人の40歳半ばの女性でオーストラリアの旦那さんを持っていりう会社経営者の方が言っていた。「タコさん、男はなんといっても筋肉ですよ。オーストラリアの女性にもてたいのなら筋肉をつけないと駄目です。」私がモノ欲しそうにしていたのだろうか、何だか話がかみ合わずに終わったことがあった。若い人は素晴らしい。2キロ太ったのは筋肉だからです、と臆面もなく言える。そういう方々と張り合っても勝ち目は全くない。夜中まで続いたハワイアンパーティー、最後はカラオケになったので日本の歌を歌ってしまった。筋肉はなくても、声力は負けていられない。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月19日
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これから、オランダ系の連れ合いの同僚の40歳のパーティー。テーマはハワイアンということで。どんなパーティーになるのか。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月18日
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今、昼は食べないか食べても薄いチーズを挟んだサンドイッチを食べる。昨日は、滅多にないご招待で日本食レストラン。隣の人の丼物が映えていた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月17日
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不覚にも泣いてしまった。オペラハウスを見ながら。左にはハーバーブリッジ、前にはフェリーが行き交い調度右前方には夢にまで見たオペラハウスがある。音楽は、そうユーミンの感じ。天気は昨日と少々変わり朝のうち小雨、そして時々晴れの日。今は晴れている。会社を辞めるほど僕を惹きつけたオーストラリア。はたして、この国が僕の思っていた通りの国なのか。あの、若くて可能性の多い国といい続けてきたオーストラリア。自分自身を試す意味での最適の国なのか。未知数が多くて回答を出すまでには時間が必要だ。「何故自分はここにいるのか。」これは今後も繰り返し自分に問われる疑問のようだ。学生のように責任のない存在でもなく、もう7年もすれば40歳になる、それだけの覚悟をしての行動であるべきだと常に自分を責めなければならない筈だ。でも今はむそのようなことから開放された自由なおもいで裸になって毎日素直に生きてみたい。その中から自分自身を発見できると思っているし、そうすることが、この我がままを許してくれた両親に対してのせめてものはなむけではないかと思っている。1985年6月17日33歳になってすぐ、6月16日にシドニー入りした。上はその翌日の日記だ。旅行をすると時間があるから日記を書く。読み難い箇所が何箇所もあり、文章の流れも悪いがどうやって生きていこうかという試行錯誤はみて取れる。それにしても硬い。新宿歌舞伎町みたいなキングスクロスのど真ん中にあるSpringfield Lodgeに約一ヶ月泊まった。週60ドルだった。ベットは寝ると床にとどくほどスプリングがきいている。机の緑色をした本は、「地球の歩き方」1985年度版だ。冷蔵庫は古く一日中うるさい音をたてる。TVは叩いて調整。2日後の6月19日の日記にこうある。全てデカイ。オッパイがデカイ、尻がデカイ、アイスクリームもこれまたデカイ。デカイ国だ。わずか二日で、日記が早くも今のタコ社長日記調になっている。驚くばかりだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月15日
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「手が荒れたというので、先日お父さんに頼んでニベアを送りました。体に気をつけて頑張ってください。」1985年、永住権を求めてサウスヤラの日本食レストランでキッチンハンドをしているとき、毎日の皿洗いで手がふやけてしまいその話をしたら、東京の実家から大量のニベアが届いた。全部使い切るには3年くらいかかりそうな量だった。先日話をさせていただいた方は、メルボルンのニベアのマネージャーをされているということだった。価格は安く、しかも製品がいいことを強調されていた。オランダ系の連れ合いがディスカウントケミストで早速大量に購入してきたので記念撮影となった。ニベアだけでは何だから、最近集中して飲んでいるマーガレットリバーの赤ワインも並べ紅白とした。これで肌荒れ対策は万全だが、胃の方は荒れそうだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月15日
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イリノイ州のピオリアから二日の予定で、ロードアイランド州のプロビデンスの南にあるクランストンという小さな町に向かった。途中、オハイオ州のヤングスタウンという田舎町で一泊だった。1974年6月10日からの二日間、リンカーンのコンチネンタルの中古車で私たち5人は移動した。私は大学の3年生だった。40歳前のリロイ・ピーターソンさん、奥さんのキャロラインさん、そして小学校5年生のジョンと2年生のジョエル。このピーターソンさん一家にもうすぐ22歳になる私が加わっている。ピーターソンさんは牧師の資格を持ち、日本の東久留米にあったアメリカンスクールで社会科の先生をしていて、夏の3ヶ月アメリカへの一時帰国に私を誘ってくれたのだ。車の移動の中で、ラジオから悲しげなギターの弾き語りの曲が流れてくる。ジム・クローチの歌だという。I'll have to say I love you in a song. という曲だと後で知った。日本名は「歌にたくして」だ。実は、このアメリカの旅行に私はギターを持参していた。簡単なコードしか弾けなかったが、アメリカの教会でフォーク調の賛美歌を歌うことになっていた。こんなに素敵にギターが弾けたらいいな、と思わずにいられない曲だ。口下手な自分だから歌にたくして、I love you. と言おう、という内容の歌だ。4日前に分かれたジュディーのことが頭から離れない。4歳年上の彼女とは日本の教会で出会った。私たちの教会のオルガン奏者で普段はピーターソンさんが教えていたクリスチャンのアメリカンスクールで看護婦さんをしていた。前の年の8月に群馬県の赤城山でクリスチャンキャンプの裏方として一緒に働いていて恋に落ちた。彼女は天使のような優しさを持っている人だった。後にも先にもこんな人とであったことはない。雲の上のような人で話もできなかった彼女と赤城山で親しくなった。一年ぶりにシカゴでジュディーと会った。しかし、住む環境の違いがあまりに大きかったし、自分はまだ東村山に住む大学生。どうしようもない現実の前で、あまり話すこともなく分かれてしまった。葉巻の匂いの漂うシカゴの街中を2人で歩いていても気持ちは歩み寄らなかった。悲しいというより切なかった。お互いが同じ気持ちで分かれたと思っている。この旅行から帰って日本でジム・クローチのアルバムを買った。彼は若干30歳で人気の絶頂にあるときに飛行機事故で亡くなっていた。1973年のことだった。数多くのヒット曲を飛ばしていた。口下手だからうまく言えない。だから歌にたくして、I love you.と言う。22歳の夏、何度も何度も頭の中を巡った曲だった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月14日
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休日の最終日は、家から1時間でいけるモーニントンへ。抜けるような秋空のなか、イカ釣りをする人などの邪魔をして楽しむ。夜は友人宅のでなーパーティー。もうしばらくは酒抜きの日々にしないとならない。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月14日
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今日はイースターサンデー、家族がお祝いする日。集まって、食べて飲む。ソファーで昼寝する。のどかな日だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月12日
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何だか急に日本の映画が見たくなって、棚から「失楽園」を出して見た。役所広司、黒木瞳主演の1997年の映画のDVDだ。友人のカップルとマレーシア料理を食べて帰って見始めて、途中の艶っぽいところで息切れして止めて寝た。そうしたら何だか胸騒ぎがして4時に目が覚めて起きて続きを見るハメになってしまった。早朝の真っ暗な時間に最後まで見終えて、朝の清清しいウォーキングに出た。これからは飲んだ後に見る映画は寝つきのいいものにしないとならない。それにしても気になったのは、映画の中の50代の男が全員恋をしたがっているということだ。これはあくまで映画の中の話なのだろうが。今年83歳になった母は、以前私が買ってあげた「愛の流刑地」を途中で放り出して、「私は駄目だねこれは。H過ぎて。お母さんはそういうのは嫌いなんだよ。」こちらの安い中国のDVD屋で買った日本のDVDをだいぶ日本の両親に送っている。でも「失楽園」は送るのはしばらく見送っておこう。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月12日
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4月6日の日記で力道山の記事に誤りがあるとご指摘をいただき訂正する。力道山は、実際には入院している。なぜか刺された後救急車が来たが乗るのを断り、自分の知っている山王病院に入院し、水分を取るなという病院の言いつけを無視し、食事もタバコもしたい放題で腹膜炎で亡くなったという。自分の体力に過信したことに拠ることは間違いないらしい。非常に多くの方々がタコ社長の日記を読んでくださっている。史実には十分気をつけて書いていきたい。何か間違いなどあったらぜひお伝えください。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月12日
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金曜日からイースター休暇に入っている。火曜日まで休みだ。木曜日は前夜祭。韓国料理で肉を食らう。金曜日は、連れ合いの妹の家でパーティー。この日は肉は食べない。キリストの磔刑の日にあたるから、海鮮料理となる。犬も行儀よく食事を待つ下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月11日
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I could see a woman. She was topless, and was lying on her back, propped up on her elbows. She was watching me as I walked along the beach.誰の文章かと思ってみてみたら、タコ社長が最近出した本の英訳だった。トップレスの女性が目に入ってきた。仰向けになり両肘をついてやや体をおこした姿勢で、砂浜を歩いている私の方を見ている。英語になると、何だか急に格上げされたような気がする。英語でいままで悪戦苦闘させられている人生、そんな背景もあるのだろうか。自分の本の翻訳とも思えない。メルボルン市に本の話に行ったら、何章か英訳して見せてくれといわれ、プロの翻訳家の方に頼み試みた。オランダ系の連れ合いは、特に「まえがき」と「つれあいとのナレソメ」の部分に涙していたくらいで、家族、友人、友人の友人に送りまくっている。日本では、私1人だったが、こちらは連れ合いの縄張りで、何しろ反響がものすごい。みなコメントをくれる。連れ合いの影響力には今更ながら感心している。中には何人か、このトップレスの女性が連れ合いかと思って読み始めた人もいたようだ。日本でのコメントは、非常にクールで客観的なものが多く参考になった。なかには、ずたずたに言ってくる友人もいて、それが真実なところだろうと納得してはいた。裸の王様にしないための友情なのだろう。図に乗りやすい性格だ。嬉しいことだ。そんな中、国文科を出た女性のコメントが面白かった。「非常に読みにくい。第一、最初からつまづいた。このトップレスの女性、どうやって肘をついて仰向けになれるのか。その姿勢が想像できない。」海にいって砂浜に寝そべっていれば、こんな姿勢の人間はそこら中にいる。と思っていたが、浜で裸にならない人にはわからないのかも知れない。今度、お会いしたときにその姿勢を示すことにしている。このコメントは内容というより、分り辛さを論ったもののようであった。さて、英訳の方がちょっと心配になった。もしかしたら、オリジナルよりも文体が上をいっているのかもしれない。反響がいいのはそのためだろうか。次作は、「つれあいは秋田系日本人」とかで彼女に書いてもらった方がいいようだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月09日
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「私の主人はオーストラリア人なんですけど日本にも住んでいて日本語ができます。日本食も大好きですが、納豆だけは駄目なんです。たとえ、目の前で食べなくても匂いが絶対に駄目です。だから、仕方がないので主人が出張に出たときに一人で食べています。」先日お会いした日本人女性の方がそう言っていた。東京農業大学の醗酵学の権威小泉武夫教授に言わせなくても実は納豆の匂いなんてまだまだ序の口なんだろうけど、小さい時から慣れ親しんだものでない限り難しいのだろう。オランダ系の連れ合いも熊本に1年、岐阜に1年住んだことがあり日本食が大好きだ。しかし、前にも書いたが納豆は決して食べない。納豆が死ぬほど好きな私にとって幸いなのは、私が食べることには何も言わないことだ。駄目なものは駄目と白黒はっきりと言い切る連れ合いの性格からして、これは嬉しい誤算。但し、音はなるべく立てないように食べないとならない。一応、納豆食計画が成功したこといえるだろう。日本ならともかく、オーストラリアでこちらの人と一緒になって毎日大好きな納豆を食べる。正に、Sweet smell of success.成功の甘き香り、なんて言ってみたいところだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月09日
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「数字の8の字ってすごく神秘的ね。」彼女の言っている意味がよく分からなかった。紺のショートパンツにだらっとした横じまの紫がかったトップをつけ、頭にはバンダナで鉢巻をしている。ドイツからの旅行者ドナと話したのは、ケアンズから車で北に3時間ほど行った所にあるCape Tribulationという海岸沿いの町にある海辺のバーだった。ここはバックパッカーの宿泊施設に隣接されてい小さなバーで、壊れたドアを開けようとしていて戸惑っていたとき、バーのカウンターに座って飲んでいた彼女が親切に内側から開けてくれた。そうして自然に会話が始まった。1985年の7月のことだった。「私は小学校の教師をしていたの。でも、なんだかヒッピーみたいな生活に憧れて学校を辞めて旅行に出ることにしたの。一つのところに自分を閉じ込めておくことが嫌になったの。」ドイツ語の訛りの強い英語で、もともと問題のあった聞き取りなので、本当にそう言ったのかどうか、想像で理解しようと努めていた。20代後半だろうか、すらっとした髪を無造作に伸ばしている。丸顔で青い目が異様に大きかった。夜の10時になると店が閉まった。店の外に出てプールサイドで話を続けた。月明かりだけを頼りに相手の顔を確認するようにして話した。設定には全く文句もなく、これから何が起こるのか分からないような不思議な雰囲気がした。胸が高鳴った。「数字の8の字って、蛇が自分の尻尾を噛んでいるようね。そのまま食べていったらどうなるのかしら。すごく素敵な形だと思わない?」この人、酔っているのだろうか。本気なのだろうか。「じゃ、遅くなったらから私は寝るわ。話楽しかったわ。」それから私は、真っ暗な4人部屋のロッジにもどり、二段ベットにやっとのことで上り、荷物を置いているだけでまったくベットメイキングをしていなかったベットに小さくなって落ちないようにして、なんでいつもこうなんだと自分に半ば呆れながら寝ようと努めた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月07日
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近くのショッピングセンターのカフェ。ラテを飲むときはどうしても甘い物に手がでてしまう。最近、手が出るのはそんなものだけだ。これは小ぶりでメタボには優しい。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月07日
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サラリーマン時代の夜の接待は、私が担当するときは六本木マキシム、部長、課長がする場合は赤坂のニューラテンクォーター(ラテン)あたりだった。ここは、格が違った。当時の赤坂には、花馬車、コパカバーナ、ゴールデン月世界、ミカドなど多くの中大型ナイトクラブがあった。コパカバーナはデビ夫人が勤めていたときに、当時のスカルノインドネシア大統領と知り合い、その第三夫人になったというエピソードもある。ミカドは夜の都バスの観光コースでのあった。二階の一般席にちょっとの間だけ座ってショーを観たりしていた。団体で入って来るの異様な感じがした。京都ではベラミがあり、私も何回か行ったことがあった。スーツなしで入ろうとしたら、店に揃えてあったスースを貸してくれた。カジュアルでは入れなかった。ベラミは山口組三代目田岡組長が狙撃にあったところでもある。そんななか、やはりラテンが飛びぬけて豪華だった。130人からの超一流のホステスを抱え、300人ほどが収容できた。ラテンは、ホテルニュージャパンの地下にあり、このホテルとセットになっていた。藤山コンツェルンの藤山愛一郎外務大臣と、ロッキード事件で取りざたされた中国児玉機関の児玉誉士夫がこの店の開店に関係している。昭和34年のオープンだった。地下に入ると真っ赤なじゅうたんがあり、2メートルはある幅でゆっくりとやや右に回って入る。すると、そこはもう全くの別世界だ。恐らく、行ったことはないが、ラスベガスのナイトクラブはこういう感じなのだろう。こんな所に20代の若造が入った日にゃもう本当に浮き足立ってしまう。しかし、そこはしっかりと抑えて常連のような顔でお客の接待に使った。トイレに入るとそこには白い服に蝶ネクタイの年取ったサービスの人がいて、終わるとさっとタオルを出してくれた。当然、チップを置かないとならない。最初、このシステムが分からなくてそのまま出てきて部長に怒られたことがあった。座るだけで何万も取られるこの豪華なナイトクラブで、私はお客の接待の仕方を学ばせてもらった。しかし、ときには自分たちだけで来るいわゆる「社内接待」にも使ったりもした。毎晩9時と11時にショーがあった。その間は、ホステスと踊ったりもできる。いつだったか、アメリカのLAノッカーズという5人の金髪超美人ダンサーのショーがあり、そのダンスに見とれてしまったことがあった。それぞれのダンサーは身長は180センチ以上はあり動きも豪快だった。その内の1人のサリーというダンサーが席に回ってきて、酒の勢いもあって話し込んで休日に浅草に連れて行くことになった。昼を食べたあと電車で浅草までいった。まさか私がぺーぺーの平社員だとは思っていなかったらしく、電車で行くといったらビックリして何だか機嫌が悪くなってしまった。高級クラブに顔を出す人間は全て金持ちだとでも思っていたのだろうか。それでも、なんとか浅草の町を見て回ったが結構気を使って私は楽しめなかった。一つだけ面白かったことは、いやというほど人が振り返ってくれたことだ。可也目だったようだ。なんであんな男と、といった視線も感じられたが悪い気はしなかった。でも疲れた。私たちの当時ヒーローだったプロレスの力道山は、ここのトイレで刺されて自分の体力を過信して病院に入らずそれが命取りになった。トイレに入るとき、いつもそのことが頭をかすめたものだ。ラテンは、1982年に上のホテルニュージャパンの大火事に影響されだんだんと力を失っていった。マネージャーを初め従業員、ホステスの高級なサービスを受け夜の世界の作法の方には私も滅法強くなっていったが、肝心の昼の本職の方はイマイチでいろいろと行き詰まり、1984年に9年弱勤めた会社を退職することになり、かたぎの世界に戻ることになった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月06日
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オランダ系の連れ合いは、納豆は食べないが私が食べることは嫌がらないので助かる。連れ合いの作る味噌汁は豪快だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月04日
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先週の日曜日、朝ウォーキングをしていて抜けるような青空満喫。1人ではもったいなく、早速、連れ合いにピクニックを提案。メルボルンっ子の中庭ドライブコース、ダンデノン山に行く。車で一時間もかからず山間ドライブが楽しめる。連れ合いはSUDOKU私は、かび臭い新潮文庫白ワインが回って昼寝下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月03日
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幼稚園のとき、小学校三年生の兄と大喧嘩して母親に下着と服を風呂敷に包まれ背負わされその兄と一緒に家を追い出されたことがあった。こんな親不孝はないとその時思った。予備校をサボって、母親の作ってくれたサンドイッチの昼ご飯を、池袋西口ロサ会館の中にあったエロ映画館の休憩時間に、こ汚いロビーのビニール製の安そうな赤いソファーに浅く座って、何で日本では映画が修正されてしまうのかと怒りながら食う。こんな親不孝はないとその時思った。オーストラリアに来て、10歳年上の3人の子持ちの金髪女性と結婚して離婚して全く金もなく、不安定な自営業で銀行からの借金が僅かしかできず、親に借金して家を買った40歳。母親に「私の育て方が間違った。」と泣かれた。こんな親不孝はないとその時思った。兄とはその後は小喧嘩となり、私が6年生になってからは喧嘩はしなくなった。私の方が大きくなってしまったこともある。エロ映画に関しては、弁当を食べてから足を運ぶことにした。親への借金はできるだけ早く返し、その後は負担をかけないようにしている。付き合う相手は年下の金髪になった。その都度、少しずつ変わってきた。親には未だ心配はかけているだろうが。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月02日
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車で街まで通っている。今朝、ラジオの番組を聴きながら混み合う高速道路を運転していたときのことだ。「プリンスチャールズの奥さまカミュラさんがご懐妊になりました。」というニュースが飛び込んできてあわてて急ブレーキをかけそうになった。確か、チャールズは私より3つ年上、今年還暦になるのではないだろうか。子なしの私も、来世まで待たなくても頑張ってみようかと思えるニュースだ。それにしても、こんな世紀の大ニュースが聴かれるなんて思ってもみなかった。早速、東村山の両親に相談しよう。このニュースにはリスナーからの反応も早かったようだ。さすが、女王陛下をその頂点に仰ぐこの国、大英帝国の流れ健在。「皆さん、今さらいうこともないでしょうが、今日は何月何日でしょうか。」そうラジオから聴こえてきた。一声唸った後にこう思った。私の夢はやはり来世に託すことがいいと。来世もやはり連れ合いはオランダ系ではあろうが。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月01日
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