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京阪・交野線の終着、私市駅の駅前広場の端に、大阪市立大学理学部付属植物園の案内板があります。植物園の案内板国道168号線案内板に従って進むと、ほどなく、磐船街道とも呼ばれている国道168号線に出ます。南に向かう国道はこの辺りから山合いに入り、カーブが続きます。日之出橋同上国道を渡ってさらに行くと、天野川に架かる橋があります。この橋の竣工は平成15年(2003年)9月。最近架けられた橋です。植物園の入口日之出橋を過ぎると大阪市立大学理学部付属の植物園です。ここにはずいぶん昔、子どもが小さいころに一度来たことがあります。本来は大学の教育・研究のための施設ですが、自然学習の場として一般にも開放しています。しかしそもそもは、「満豪開拓団」として移住する人々の訓練施設「大阪市立興亜拓殖訓練道場」として開設されたという歴史があります。昭和16年(1941年)3月、日本が戦争へと突き進んでいた時代です。終戦直後の昭和20年(1945年)9月、農業の指導を行うため「大阪市立農事練習所」となりました。昭和25年(1950年)4月に大阪市立大学に移管され、附属植物園として現在に至っています。園内案内図この植物園では、いろんなタイプの樹林が造られていますので、いろんな雰囲気の森を体験できます。できるだけ自然の環境の中で育てるということで、あまり手を入れたりしませんので、秋の季節にはたくさんの落ち葉が積もって、落ち葉のじゅうたんができます。これから春にはいろんな種類の桜が咲くそうです。収集した植物は約6700種類・3万4000本にもなるそうです。絶滅危惧植物の保護に向けた研究も行われています。ホームページを見るだけでもいろいろと勉強になります。花の見ごろの情報も載っていますので、植物園を訪れるなら、お出かけ前にチェックするといいですよ。
2010年03月31日
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京阪・交野線の終着、私市駅の西に、若宮神社があります。交野市私市6丁目です。若宮神社参道若宮神社の鳥居私市会館向かい側には私市会館があります。鳥居横の石碑「若宮神社」の名が書かれた石碑の左側に、「磐船神社拝所」「秋葉神社」と書かれた小さめの石碑が並んでいます。若宮神社の祭神も「住吉四神」です。これまでにご紹介してきたいくつかの神社と同じく、もともと物部氏の祖神である「ニギハヤヒ」だったのが、物部氏の没落とともに、住吉の神を祀るようになったようです。境内にある説明文によると、270年ほど前に磐船神社で争い事があり、村々が磐船神社の分霊を持ち帰って祀ったとあります。「磐船神社拝所」というのは、もともと磐船神社の神を祀っているから、ということなのでしょう。私市村にはすでに「天田神社」があったので、こちらの神社は「若宮神社」と呼ばれるようになったようです。現在、若宮神社には神職がおらず、連絡先は磐船神社となっています。若宮神社拝殿同上本殿裏手に回ると、本殿がよく見えました。りっぱな造りです。秋葉神社(?) 若宮神社の拝殿の左手に、祠がありました(上の写真)。名前が書かれていませんでしたが、こちらが秋葉神社でしょう。秋葉神社は火除けの神様として信仰されています。境内の案内板には、「元 獅子窟寺境内に在」と書かれています。獅子窟寺は若宮神社の東、直線にして1キロメートルほどのところにあります。どのような経緯でここに移ってきたのでしょうね。「皇太子殿下御誕生記念碑」境内には上の写真のような碑が建っていました。昭和8年(1933年)の建立ですから、「皇太子」というのは今上天皇(現在の天皇さま)のことですね。境内のクスノキこのクスノキ、立派すぎてフレームに収まりきりませんでした。夏には涼しげな木陰になるのでしょう。
2010年03月30日
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春日野部屋の宿舎になっている星田会館の西側に、星田公園があります。星田公園同上この公園は平成9年(1997年)にオープンしたそうです。上の写真は西側の入口です。まるでお城のような石垣の上に、長屋門のような建物が建っていて、すごく目立っています。同上上の写真のような遊具や、「水の広場」、「多目的広場」などが整備されています。高台となっているこの地は「新宮山」と呼ばれています。平安時代、星田の土地が石清水(いわしみず)八幡宮の荘園となり、八幡宮の分霊を勧請(かんじょう)したということです。つまり京都府八幡市にある石清水八幡宮が本宮、こちらが新宮というわけです。新宮山八幡宮は、明治のはじめごろまでこの地にあったそうです。宝篋印塔鉄製の鳥居の奥に、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。あいにく入口は鎖で閉められていますが、塔には「天文17年」(1548年)と刻まれているそうです。また一段低くなっている北側には「愛染律寺」(「愛染院」「愛染律院」との記述もあり)があったそうです。また、元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川家康は星田に泊りました。家康の旗印の白旗が、新宮山八幡宮の前の松に掲げられたといいます。この松はすでに枯れたそうですが、その跡に記念の石碑が立っています。
2010年03月28日
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暖かくなったかと思うと急に冷え込んだりして、今年の桜は咲く時期を見極めるのに苦労しているようです。京阪・私市駅ホーム京阪・交野線の終点、私市駅のホーム脇にある桜の木は、ちらほら咲きといったところでしょうか。春ですね。
2010年03月26日
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京阪・交野線の私市市駅からJR学研都市線の星田駅にかけて散策しているとき、ふと目に留まったのが「星田村役場跡」と書かれた石碑です。星田3丁目にありました。「星田村役場跡」ふと後ろに目を向けると、カラフルな旗が風にはためいています。なんだろうと思って行ってみると、大相撲の力士の名前が書かれています。星田会館ちょうどいま、大相撲が大阪で行われていますが、春日野部屋は6年ほど前から、星田会館を稽古場としているようです。ここから大阪府立体育館(大阪市浪速区)までけっこう遠いと思いますけどね。同上春日野部屋の幕内力士は、栃煌山(とちおうざん)と栃ノ心(とちのしん)。お二人とも今場所は勝ち越しです。十両の3人も勝ち越したようですよ。正面玄関玄関には「春日野部屋宿舎」と書かれていました。星田会館同上ところで、この星田会館というのは、池の上に建てられています。なんでわざわざ池の上に建てたのかはよくわかりませんが。この池は星田最古の池で、新宮山八幡宮(かつては上の写真の右手にあった)の放生池として作られたと伝えられているそうです。「妙音池」というそうで、八幡宮の名鐘の響きに由来しているとも言われています。池の中には弁天島があり弁天堂が置かれています。上の写真の赤い橋を渡った左側にあります(ただし、橋は閉ざされています)。この弁天堂、ネットで調べていると、「もともとは新宮山の崖上に建っていたのが、崖が崩れてお堂とともに池に落ち、島ができた」という話と、「江戸時代初期、長浜から移り住んだ長者が愛娘の病を治してくれたお礼に竹生島に似せた小島を造った」という話がありました。どっちだろ?
2010年03月24日
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2009年11月29日付のブログで、香里団地の京阪バス車庫付近の紹介をしました。そのとき、JR星田駅付近から香里団地まで、軍用貨物の引込線があったという話をいたしました。→詳細はこちら昨日ご紹介した中村中尉の慰霊碑が置かれている道は、この引込線の跡です。慰霊碑引込線跡慰霊碑から先、学研都市線(片町線)沿いに東へ向かうこの道はやがて、現在の鉄道路線からそれて左へカーブします。引込線跡同上ずうっと、同じ調子で弧を描きながら、左へカーブしています。同上やがて、右手からの道路との合流点が見えてきます。さらにその先、高架道路(第二京阪道路)をくぐり、香里団地へと続く道です。知らなければ見過ごしてしまうような何気ない道路ですが、独特のカーブを描いているだけに、知ってしまうと気になる道です。貨物線の廃線跡であるとともに、戦時中の様子を伝える遺構でもあります。
2010年03月23日
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少し前、3月8日付のブログで「交野いきいきランド」をご紹介しました。(詳細はこちら)この建物の1階ロビーに、下の写真のような展示物があります。いきいきランドロビー同上これらは戦闘機の機関銃、エンジン、プロペラなどの残骸で、2005年(平成17年)3月に、交野市星田北8丁目の第二京阪道路建設工事現場で発見されたものです。この発見から遡ること60年、終戦直前の1945年7月9日、硫黄島から飛来した米軍機P-51約50機を伊丹空港から飛び立った日本の戦闘機が迎撃、空中戦となりました。鹿児島出身の中村中尉が乗っていた戦闘機「飛燕」は撃墜され、中村中尉はパラシュートで脱出。しかし米軍機の翼がパラシュートのロープを切り、中村中尉は星田駅付近の水田に墜落し死亡したということです。享年23歳ということです。今回見つかった部品は、エンジンのマークから「飛燕」のものであることが判明、中村中尉が操縦していたものであることが確認されたそうです。JR星田駅さて、今度は場所を移して、JR学研都市線(片町線)星田駅です。星田駅東側の道路JR星田駅から100メートルほど東、線路の北に沿って上の写真のような狭い道路があります。同上さらに100メートルほど東に行くと、下の写真のような場所があります。中村中尉鎮魂碑同上この辺りが墜落現場なのでしょうか。碑文碑文を引用します。「陸軍中尉中村純一は学鷲として参戦 凄惨苛烈なる戦局俄かに急迫を告ぐる頃 一切の懐疑迷妄を越え 淡々として特別攻撃隊を志す昭和二十年七月九日 天日を覆いて来襲せる敵機群に突入 壮絶なる空中戦を展開するも遂に被弾 この地に恨みを残して散る 近隣有志相集い 烈士の霊を懇ろに弔い鎮魂の碑を建つ平和は血と涙によって築かれたるも愛惜と悲しみは尽きず 痛恨の碑の前に伏し御霊安かれと祷る」23歳の命を散らした異郷の地。いまも献花やお供えが絶えないようです。ここではいまもなお、戦争が語り継がれています。たしかに、平和は血と涙によって築かれたものなのです。
2010年03月22日
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引き続き、京阪電気鉄道・交野線の私市駅です。ホームへの階段駅舎からそれぞれのホームへは階段を使います。車椅子用のスロープも設置されています。ほとんどの列車は左側、2番線から出発します。改札口(ラチ内)改札口(ラチ外)駅舎(外観)三角屋根のしゃれた駅舎です。右側の木はクスノキ。屋根が設けられて、休憩所になっています。駅前ロータリーロータリーというほどの広さはありませんし、バスやタクシーの乗り場があるわけでもありません。周囲は住宅街で、近くを通る国道168号線から生活道路を通って入ってくることになりますので、ときどき、地元の人が送り迎えに車を乗り入れてくる程度です。ハイキングマップ駅の正面に、周辺のハイキングコースが書かれた地図が設置されていました。北東は交野山(こうのさん)、南東は府民の森くろんど園地から奈良県生駒市のくろんど池、南は府民の森ほしだ園地や磐船神社が描かれています。入線する車両上の写真は、私市駅に入線する車両です。クロスポイントを渡って、2番線に入るところです。私市駅上は、近くの踏切から撮った写真です。交野の山々を背景に、三角屋根の駅舎が特徴的ですね。当初は生駒へと延長する計画(構想? 夢?)があった路線ですが、後ろにそびえる山を見ると、かなり困難であることは想像に難くありません。
2010年03月21日
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交野市にはまだまだ見所がたくさんあります。山あり川あり、神社仏閣、旧家や酒蔵、民家のある狭い道、山合いの坂道。歴史や神話・民話に彩られた古い町。その一方で、3月20日からは第二京阪道路が開通して、また新しい交野が生まれるかもしれませんね。まだいくつか紹介したい場所がありますが、先に、京阪電気鉄道・交野線の終着駅、私市に進んでおきましょう。駅名標私市(きさいち)駅は、1929年(昭和4年)7月10日、「信貴生駒電鉄」枚方線の終着駅として開業しました。生駒を経由して王寺方面まで、という意気込みが込められた社名でしたが、結局はここから先に線路が延びることはありませんでした。ホーム駅は地上にあり、2面2線の相対式ホームで、車止めの先に駅舎があります。車止めと駅舎同上ほとんどの列車は2番線からの発車です。10000系ホームは5両に対応していますが、ワンマン運転に対応した主力の10000系はすべて4両編成です。出発待ち出発信号の手前、4両編成の車両の停止位置に合わせて、後方確認用のミラーとカメラ映像が設置されています。いずれもワンマン運転のための設備です。交野線にも5両編成が入ってきますが、その場合はワンマン運転に対応していないので、設備も不要です。10000系同上ワンマン対応の表示です。折り返し時にも表示を変更する必要がないので、幕が回転する様子を観察することができません。出発を待つ10000系私市駅は、シーズンともなるとハイキングをする人たちで賑わいます。これからだんだん、リュックを背負ったハイカーを見かける機会が増えていくことでしょう。
2010年03月20日
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交野市寺地区の住吉神社に向かって右手に、「かいがけの道」と呼ばれる道があります。かいがけの道(右奥)同上住居地区を抜けて、棚田の横を通って、ここからいよいよ山の中に入って行きます。かいがけの道・入口「かいがけ」は「峡崖」と書くようです。いかにも厳しい山道のような名前ですね。私は通ったことがないのですが、ハイキングコースになっているようです。案内の碑同上「かいがけの道」を行くと、「傍示(ほうじ)の里」を通って奈良県の生駒市へと抜けます。 古くから、大和へ向かう人々が山越えするためにここを通ったようです。平安時代には京から紀州の熊野権現へ参詣するために利用されたということです。言ってみれば、大和や紀州への「近道」だったわけです。「左 やまと道」の石標交野城(私部城)が大和の筒井順慶に攻められて落城したとき、筒井勢は「かいがけの道」を通って攻め入ったといいます。かいがけの道マナーですね大和へ向かう道手前の杭は、車止め(バイク止め)でしょうか?「缶取りーロード」缶は持ち帰りましょう。「缶取りーロード」です。歴史ある道をいつまでもそのままに。
2010年03月18日
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山添家住宅から元の道に戻って、さらに山の方へと歩を進めました。交野市寺2丁目付近急ではありませんが、坂が続きます。山合いの道さらに進むと、住居地域を抜け、山合いの道に変わりました。道の先に、灯篭らしきものが見えています。棚田視線を右に向けると、段々になった棚田がありました。住吉神社寺地区の住吉神社です。直線にして1キロ半ほどのところには、すでにご紹介したもうひとつの住吉神社(交野市私部)があります。ほんとうに交野市には住吉の神を祀る神社が多いですね。物部氏ゆかりの土地であることがよくわかります。(住吉の神の詳細は→こちら)同上それなりの歴史をもっていそうな神社ですが、案内板も無く、詳細は分かりませんでした。
2010年03月16日
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交野市の寺地区の交差点で「弥生時代住居遺跡」と書かれた石碑を見ながら、さらに山の方角へと歩きました。交野市寺2丁目付近石灯篭左に少しカーブしながら坂道をしばらく歩くと、やがて正面に石灯篭が見えてきました。ここは「灯篭の辻」と呼ばれているようです。立派な石灯篭が並んでいます。同上石灯篭には、「二月堂」、「愛宕山」、「柳谷観音」と書かれています。二月堂といえば奈良・東大寺の二月堂でしょうね。「修ニ会(しゅにえ)」と呼ばれる行事が行われます。「お水取り」「おたいまつ」としてよく知られています。今年も3月12日におたいまつがあったところです。「春の訪れを告げる」と言われている行事ですね。愛宕山というと各地にありますが、「愛宕信仰」は京都の愛宕山にある愛宕神社に由来するそうです。火事を防ぐ「火伏せ」の霊験がある神として、広く信仰されたそうです。柳谷観音とは、京都府長岡京市にある「立願山楊谷寺」のことで、十一面千手千眼観世音菩薩を本尊とし、眼の患いを治すとして信仰されていました。寺2丁目付近山添家住宅灯篭の辻から少し北へ入ったところに、「山添家住宅」があります。私部(きさべ)1丁目の「北田家住宅」と同じく、ここ、寺2丁目にある「山添家住宅」も国の重要文化財に指定されています。同上(隣家ごしに)山添家は代々庄屋をつとめた家で、宝永2年(1705年)ごろに建てられたことが判ったそうです。田の字型をした間取りで、茅葺きの屋根が特徴的です。同上一般公開もあるそうですが、最近は春と秋の2回、不定期に行われるとのこと。人数制限もあるようです。
2010年03月14日
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交野高校の敷地内で発見された古墳群は、4世紀末から6世紀初頭のころの豪族、肩野物部氏の一族が葬られていると考えられているそうです。はるか1500年も前のことを想像しながら目の前にある風景を眺めていると、時間の流れがすごくゆっくりしているような気がしました。「交野高校前」交差点交野の風景この辺りは、JR学研都市線(片町線)の河内磐船~津田駅間です。交野山(こうのさん)を背景に広がる田園風景が心を癒してくれます。321系でしょう、山のふもとをJRの電車が走っています。交野高校前の交差点から東の方角、交野高校の北側を通って山のふもとへと続く道があります。少し場所を移動してみることにしました。JRの下を通る道寺地区の交差点JRの下をくぐって坂を上がると、交差点です。ここを右に曲がると大門酒造の前を通ってJRの河内磐船駅へと戻ることになります。なにやら石碑が河内磐船駅とは反対、交差点の左側の家の前に、何やら石碑が立っていました。「弥生時代住居遺跡」の石碑この辺りには、弥生時代から人が住んでいたようです。また、この場所は前方後円墳であることが最近わかったそうで、交野高校の5つの古墳と合わせた車塚古墳群の1つ(6号墳)であります。(「広報かたの」平成20年5月1日号を参考にしました)さらに山麓へさらに山麓の方向へ歩いていきました。(続きます)
2010年03月12日
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ここ数回、府道736号の交差点「交野高校前」近くでうろうろしております。せっかくですので、府立交野高校にもカメラを向けてみましょう。交野高校府道736号「交野高校前」交差点北側の小路交野高校の北側には小さな川が流れています。川と高校の間に、舗装されていない小路があります。同上 桜の木のトンネルのようになっていて、なかなか風情のある道だと思って歩いてみたのですが、この先、JRの線路の手前で行き止まりになっていました。なにやら表示板が、、、「東車塚古墳」同上昭和47年(1972年)、交野高校が建設されることになり、発掘調査したところ、校舎の建設予定地で5基の古墳が発見されたそうです。北側の民有地の1基(方墳)と合わせて6基を、交野車塚古墳群と呼んでいるそうです。上の写真の「東車塚古墳」は、周辺でもここだけの「前方後方墳」だそうで、5世紀初頭の時期のものと見られています。墳長は65mで、後方部は高さ6m、幅33.5mほどだということです。校舎敷地内の円墳4基のうち、東車塚南古墳と呼ばれている古墳は、円墳でありながら周囲の溝は正方形となっており、たいへん珍しい形状だそうです。その形から「日の丸古墳」とも呼ばれているそうです。現在、上に土を盛ってテ ニスコートの下に保存されているということです。ほかの3基の円墳は校舎建設によって消滅しました。
2010年03月09日
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京阪交野線・河内森駅、JR学研都市線・河内磐船駅の北東に、「いきいきランド交野」があります。いきいきランド交野「いきいきランド交野」は交野市立の総合体育施設です。「スタードーム」「スタードーム」はほとんどの室内スポーツが可能なメインアリーナと、一般的な体育館としてのサブアリーナがあります。「星ふる広場」同上「星ふる広場」は、市民グラウンドです。サッカーや野球の練習や試合が行われます。観客席もあり、車椅子でも入れるようにスロープが設けられています。撮影当日は星ではなく雪が降っていました。「わくわくプール」スタードームと並んで建っているのは「わくわくプール」です。年中泳げる温水プールです。管理運営団体は「木幸スポーツ企画」となっていました。ここ、枚方スイミングスクールと同じ会社ですね(200mバタフライ、アテネで銅メダルを取った中西悠子選手の所属するところね)。トレーニングルームや会議室もあって、休日に何度か行ってみましたけど、かなり賑わってました。「ミルキーウェイ」建物の前の広いプロムナードは、「ミルキーウェイ」と名付けられていました。ここでは試合前のウォーミングアップをしている人、子どもとボール遊びをしているお父さんなど、いろんな人がやってきます。同上交野の山を見ながら散歩をするだけでも気持ちいいですよ。
2010年03月08日
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交野市私部南3丁目、府道736号線「交野高校前」交差点の西側に、私部(きさべ)公園があります。私部公園入口グラウンド交野市民のための野外運動公園として整備された施設で、野球等が行えるグラウンド、サッカーやイベントなどに使える多目的グラウンド、テニスコートなどがあります。テニスコート川沿いの並木道交野市内にはいくつか桜の名所がありますが、この私部公園の北側を流れる川沿いにも桜並木があります。今日はまた気温が下がり冬に戻ったような天気ですが、桜のつぼみは少し大きくなってきているようです。春が待ち遠しいですね。
2010年03月06日
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JR学研都市線・河内磐船駅の東に、大門酒造という会社があります。大門酒造同上昭和31年(1956年)ごろ、大門酒造の前の道路を整備するときに、崖面から弥生時代から中世にかけての土器や石器などが多く出土しました。いまは石垣になっているところからも土器などが出土したようです。大門酒造は交野市内にある2つの酒造会社のひとつで、創業は文政9年(1826年)に始まります。創業者の名は「半左衛門喜之」。「酒屋半左衛門」が屋号です。略して「酒半」だそうです。現在の当主は6代目とか。若いころ、世界を放浪し、戻ってきて大門酒造に入社したそうです。1993年に代表取締役に就任。1999年には「英語による日本酒の情報発信と啓蒙を目指したサイトの運営」のために、「eSake.com Inc.」を設立したそうです。主力の銘柄は「利休梅」で、平成15酒造年度の全国新酒鑑評会で金賞を受賞しています。大門酒造のHPを見ると、英語のページには、電話番号とともに 「English speakers available」 と書かれています。しっかりした英文で日本の文化を伝えておられました。これからもがんばって欲しいですね。入口の案内図大門酒造のお客様入口は、細い路地を入ったところにあります。「ようこそ 無垢根亭へ」と書かれていますが、実は大門酒造では敷地内で料理を提供しています。無垢根とは、かつての村の名前ですね(JR河内磐船駅前に置かれた碑に、無垢根村のことが書かれていました)。「無垢根亭」入口同上同上周囲の道交野の歴史の中で育てられたお酒と、伝統的な酒蔵空間でいただく創作料理。ちょっと気になる存在です。
2010年03月05日
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京阪の交野線・河内森駅から、東へ3分ほど歩いたところに、天田神社があります。JR河内磐船駅のほうへ曲がらずに直進し、右手に折れると、道の左手に神社境内の駐車場が見えてきます。天田神社付近天田神社河内森駅から歩いてくると、すぐに神社の正面です。上の写真、左手に行くと河内森駅です。参道は駅からの道と直行しており、少し離れた場所にある鳥居を見落とすところでした。(下の写真)鳥居天田神社天田神社にも、海に由来した住吉の神が祀られています。古代より、この地方は肥沃な土地だったようで、作物がよく育つことから甘野と言われていたようです。川は甘野川、田は甘田と呼ばれたようです。「甘田」に田の神を祀ったのが天田神社の起源と言われています。天田には「あまた」「あまだ」両方の表記が見受けられますが、甘い田なら「あまた」かな?と、勝手に決めております。拝殿「天保七年」の文字本殿裏手の鳥居境内のクスノキ同上天田神社に掲げられている由来によると、西暦577年、当時この土地を支配していた肩野物部氏(かたのもののべし)が、敏達天皇の皇后・豊御食炊屋姫(とよみけかしやひめ)(後の推古天皇)にこの地を献じたということです。現在の地名「私部」や「私市」は、「きさき」の「べ」、つまり妃の部民という意味があるそうです。
2010年03月04日
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京阪・交野線の河内森駅とJR河内磐船駅は、乗換指定駅になっています。JR河内磐船駅JR河内磐船駅には、駅前ロータリーがあり、タクシーが数台、待機していました。同上同上市民憲章の碑先日ご紹介した、交野市の市民憲章、「和」と書かれた碑が置かれていました。森地区の案内碑駅前ロータリーの一画に、上の写真の碑がありました。この碑は、近くの東車塚古墳群から出土した埴輪の形に似せたそうです。その埴輪の基となったのは鉄の短い甲と思われます。このロータリー周辺の発掘調査では、古墳時代の鍛冶炉跡やその道具などが多数出土し、この地区に大規模な鍛冶場があったことが判明したそうです。鉄の甲もここで作られていたのでしょう。この碑には森地区の歴史が書かれています。それによると、森地区は昔は「無垢根(むくね)村」と呼ばれていました。延久年間(1069年~1074年)、石清水八幡宮(京都府八幡市)の神官、森宮内少輔公文(姓が森、宮内少輔は官位)という人が須弥寺(しゅみじ)の観音堂を再興したことから村人に敬愛され、その姓を村の名にしたということです。北側ロータリー同上北側には駅の出口がありませんが、立派なロータリーがあります。タクシーは見かけませんでしたが、京阪バスが乗り入れており(17A系統)、昼間9時台~16時台のみ、京阪交野市駅、JR星田駅方面への便が30分間隔で運行されています。大きな石のモニュメントが置かれているのですが、案内板も見当たらず、よく分かりませんでした。<追記>「岩の船」をモチーフにしているようです。
2010年03月02日
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京阪・交野線とJR学研都市線(片町線)との立体交差部分です。JR321系上の写真は、JR学研都市線を走る321系です。左手が京阪の線路です。下の写真は京阪の10000系です。JR線を跨いでいる地点を通っています。 河内森~交野市駅間枚方市駅からの距離は、交野市駅が4.4km、河内森駅が6.1kmとなっています。記録によると、5.8km(注1)のところに「京阪神磐船駅」がありました。距離から考えて、JRと交差する付近と推測されます。当時は駅同士が隣接していたようです。「京阪神磐船駅」の開業は、昭和10年(1935年)12月2日に遡ります。同じ日、片町線でも津田~星田駅間に河内磐船駅が開業しました。京阪神磐船駅は開業当初は「信貴電磐船駅」と呼ばれました。信貴電とは昭和4年(1929年)に交野線を開業した当初の会社、信貴生駒電鉄のことです。その後、昭和14年(1939年)に経営が交野電気鉄道に移り、駅名は「交電磐船駅」に変わります。さらに終戦を迎える昭和20年5月に京阪神急行電鉄(注2)の路線となり、「京阪神磐船駅」に変わりました。「京阪神磐船駅」は、昭和23年(1948年)5月1日付で休止となっています。その後、そのまま廃止されました。終戦直後、河内森駅は一時営業を休止していたようです。「京阪神磐船駅」が休止した同じ日に、河内森駅が営業を再開しています。この日をもって、乗換駅が河内森駅に替わったことになります。なぜそうなったのかは、残念ながら分かりませんでした。利用者の皆さんはおそらく、河内森駅をJR河内磐船駅に近づけて欲しいと思っていることでしょう。しかし、もし乗り換えが今より便利になったら、交野線沿線の利用者がさらにJRのほうに流れてしまう可能性が高いと考えられます。京阪にとっては、費用をかけてもメリットがないというのが本音なのではないでしょうか。せめて雨に濡れずに乗り換えできると嬉しいのですけどね。 (注1)「日本鉄道旅行地図帳 10号 大阪」 新潮社 2009年 の路線データによる。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 の「京阪交野線」(閲覧日:2010年2月28日)によると、5.9kmとなっている。また、森信号所の位置についても食い違っており、「日本鉄道旅行地図帳」によると交野市~河内森駅間、Wikipediaによると、河内森~私市駅間になっている。(注2)1943年(昭和18年)10月、戦時政策で京阪電気鉄道と阪神急行電鉄とが合併してできた会社。
2010年03月01日
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